悪に対する憤激

熟々、現在の世の中を見ると、どうも今の人間は、悪に対する憤激が余りに足りないようだ。例えば悪人に善人が苦しめられている話など聞いても、昂奮する人は割合少ない。察するに、悪に対しいくら憤激した処で仕方がない、而も別段自分の利害に関係がないとしたら、そんな余計な事に心を痛めるより、自分の損得に関係のある事だけ心配すれば沢山だ、それでなくてさえ、此世智辛い世の中は心配事や苦しみが多過ぎる、だから、見て見ぬ振りする。それが利口者と思うらしい。而も世間は斯ういう人を見ると、世相に長けた苦労人として尊敬する位だから、それをみて見倣う人も多い訳である。

又、政治が悪い。政治家や役人が腐敗している。社会の頭だった人が贈収賄、涜職事件等でよく新聞などに出ており、特に近来非常に犯罪が増え、青少年の不良化等も日本の前途を想えば、此儘では済まされないし、役人の封建性も依然たる有様だし、民主主義の履き違いで、親子、兄弟、師弟の関係なども洵に冷たくなったようだ。税の苛斂誅求も酷(ヒド)過ぎるし、民主主義も名は立派だが、実は官主主義に抑えつけられて、人民は苦しむばかりだ。其他何々等々、数え上げれば限りのない程、種々雑多な厭な問題がある。之等悉くは勿論、社会的正義感の欠乏が原因であるに違いないが、何といっても、前述の如く所謂利口者が多すぎる為であろう。然しよく考えてみればそういう社会になるのも無理はない。何時の時代でもそうであるが、殊に青年層は正義感が旺盛なもので、悪に対する憤激も相当あるにはあるが、先ず学校を出て一度社会人となるや、実際生活に打つかって見ると、意外な事が余りに多く、段々経験を積むに随って考え方が変ってくる。なまじ不正に興奮したり、正義感など振り廻したりすると、思わぬ誤解を受けたり、人から敬遠されたり、上役からは煙たがられたりするので、出世の妨げともなり易いという訳で、いつしか正義感などは心の片隅に押し込めて了い、実利本位で進むようになる。斯うなると兎も角一通りの処世術を会得した人間という事になる。

之等も勿論、悪いとは言えないが、斯ういう人間が余り増えると、社会機構は緩み勝となり、頽廃気分が瀰漫し、堕落者、犯罪者が殖える結果となる。現在の社会状態がそれをよく物語っているではないか。そうして私の長い間の経験によるも、先ず人間の価値を決める場合、悪に対する憤激の多寡によるのが一番間違いないようである。何となれば悪に対する憤激の多い人程骨があり、確かりしている訳だが、然し単なる憤激だけでは困る、稍もすれば危険を伴い勝だからである。事実青年などが兎角血気にハヤリ、人に迷惑を掛けたり、社会の安寧を脅す事などないとは言えないからで、それにはどうしても叡智が必要となってくる。つまり憤激は心の奥深く潜めておき、充分考慮し、無分別な行り方は避けると共に、人の為、社会の為、正なり、善なりと思う事を、正々堂々と行うべきである。

之に就て私の事を少しかいてみるが、私は若い頃から正義感が強く、世の中の不正を憎む事人並以上で、不正を見たり聞いたりすると憤激止み難いので、其心を抑へつけるに随分骨を折ったものである。然し此我慢は仲々苦しいが、之も修業と思えば左程でなく、又魂が磨かれるのも勿論である。此点今日と雖も変らないが、之も神様の試練と思って忍耐するのである。此様な訳で理想としては、不正に対し憤激が起る位の人間でなくては、役には立たないが、只それを表わす手段方法が考慮を要するのである。即ち些かでも常軌を失したり、人に迷惑を掛けたりする事のないように、呉々も注意すべきで、どこ迄も常識的で愛と親和に欠けないよう、神の心を心として進むべきである。

(地上天国二十一号 昭和二十六年二月二十五日)