そこで愈々神武天皇の御代となり、四隣の平定に取り掛ろうとしたが、当時各地に蟠踞していた土匪(ドヒ)の豪族共が、仲々の勢力を張っていたので、天皇の軍に対し反抗的態度に出でたのは勿論である。彼の歴史上にある八十梟帥(ヤソタケル)、長髄彦(ナガスネヒコ)、川上梟帥(カワカミタケル)、熊襲(クマソ)等の群族がそれである。然し天皇の方は武器や其他が進歩していた以上、大方征服されて了い、若干は天皇に帰伏した者もあったが、逃避して下積になって今日に至った者もある。
斯うみてくると、日本の民族は四種に分ける事が出来よう。即ち天照天皇を擁立していた純粋の大和民族と、瓊々杵尊系統の天孫民族と、素盞嗚尊系統の出雲族と、そうして右の土匪であるが、此土匪の系統こそコーカサス地方から蒙古、満洲を経て、北鮮から青森附近に上陸したもので、漸次本土深く侵入し、遂に近畿地方に迄及んだのである。それより西方には侵入した形跡はないらしい。今日各地に発掘される石器、土器の類も、右の如く大和民族と土匪との大体二種類である。進歩している方は弥生式土器といい、勿論大和民族である。
以上の如く、日本の主権を握るようになったのが天孫系統であって、それが終戦迄続いて来たのである。然し其長い期間中と雖も、時々純大和民族の系統も生れて来た。彼の仁徳天皇、光明皇后、光明天皇等はそれである。処が、長い間素盞嗚尊系統が大権を復活しようとして、凡ゆる手段を続けて来た事である。例えば南北朝の争いにしろ、此時は北朝が天孫系であって、南朝が出雲系であった。此様に両系統の執拗な争いが、日本歴史として織り込まれて来たのであるから、其根本を知らない限り、歴史の真相は把握出来ないのは勿論である。そうして其最後の表われが徳川幕府の政策であってみれば、真の目的なるものは言わずと知れた、天皇の大権を還元するにあったのである。然し家康の深謀遠慮は早急を避け、出来るだけ長年月に渉って、漸次的に目的を達しようとした。それは人民を刺戟する事を出来るだけ避け、長い期間に天皇の存在を薄れるべき方針を採ったのである。此点家康流の智謀がよく窺われるので、何よりも幕末最後に到って、皇室費を極度に減らし、遂に十万石という少額を分与する迄になったにみても明かである。徳川八百万石に対し、十万石とは殆んど問題にならない額であるばかりか、それも遂には杜絶(トダ)え勝となったらしい。というのは当時京都御在住の明治天皇が、六、七歳の頃の事、召上る御菓子に不自由をされたので、近くの菓子屋虎屋の主人が見兼ねて、御不自由なきよう取計らったという事で、其忠誠を深く嘉(ヨミ)せられた明治天皇は、東京に居を移され給うや、早速虎屋の主人を呼び、永久に宮内省御用を仰せつけられたという話がある。
又当時の公家(クゲ)方も、生活に窮して種々の内職をされたのも事実で、如何に窮されたかが察せられるのである。然し徳川氏のみを責める事も出来ない訳がある。というのは最後に至って、流石栄華を誇った将軍家も、終に財政難に陥り、譜代大名に対する石高の支給は漸く困難となって来たので、それら多くの大名は、極度に窮迫し、町方の豪商や金持から借金の止むなきに至ったのである。彼の有名な大阪の淀屋辰五郎とか、鴻池善右衛門等は其中の尤(ユウ)たるもので、今日鴻池家にある十数戸に及ぶ土蔵には、其時の大名の抵当流れになった珍什名器は夥しくあるとの話である。それらによって旗本は固より、足軽、下郎の末輩に到る迄、疲弊困憊、内職等によって、僅かに露命を繋いでいた事で、「武士は食はねど高楊枝」などという言葉は、其時の空気をよく表わしている。
結局、徳川氏没落の理由は、今日の国家と同様、財政難が主因であった事は、争うべからざる事実である。何故そう迄になったかというと、徳川家唯一の財源たる黄金産出の激減である。というのは将軍家唯一の金庫であった、佐渡金山の掘り尽された事である。之に就ては独り徳川氏ばかりではない。昔から天下を取った武人は、例外なく黄金に目を付けた。彼の源頼朝にしても、当時金鉱探求の名人である金売吉次という男を、初め義経の家来であったのを、頼朝は強行手段によって自分の配下になし、大いに黄金を探させたという事である。次は彼の豊臣秀吉で、秀吉が如何に黄金蒐集に腐心したかは有名な話である。其次の徳川家康に到っては、如何に黄金万能的に力を注いだかは勿論で、当時探鉱の名人であった大久保岩見守を重用し、全国的探鉱をなさしめた処、新しく発見したのが、彼の伊豆大仁(オオヒト)の金山であった。当時は頗る優良で多くの黄金を産出し、佐渡の金山と相俟って産金高は余程の巨額に達したらしい。其表はれとして彼の日光東照宮が、三代家光公の大計画によって出来たという事は、当時に於ける幕府の財政が、如何に豊かであったかを物語るもので、又徳川氏が最も経済に重きをおいたかは、勘定奉行を特に優遇した事によってみても判るのである。
処が前述の如く末期に到るに従い、大仁金山も、佐渡金山も、共に産額著減したので、流石の幕府財政も漸く逼迫の兆候著しく、此事が幕府瓦解(ガカイ)の根本原因となったのは間違いないのである。成程当時勤王の志士は輩出し薩長土の有力分子の蹶起(ケッキ)にもよるが、王政維新の大業が案外早く実現されたという事も、右の如き財政難が大いに原因したのであろう。
右の如き経路によって、愈々天下は一変し天皇は事実上の主権者となられ、憲法は制定され、全般に渉って一大改革が行われ、茲に強固な君主制国家が成立した事は、今更言う必要はないが、而も彼の日清、日露の二大戦役を経て、国威は愈々あがり、一等国の列に加わり、当時の日本は客観的には万代不易の天皇制国家となったのである。
茲で、愈々霊界の推移を説かねばならない。素盞嗚尊の遠大な意図を蔵して、大権復活の目的を達成しようとしたその手段である。それは神武天皇以後種々の計画を進めて来た事によって、追々露骨になって来た。それが現界的には藤原氏頃からであったが、即ち天孫系と出雲系との主権の争奪である。例えば道鏡と和気清麻呂、清盛と重盛、時平と道真、尊氏と正成等の事蹟が之を物語っている。そうして遂に徳川氏に及んで、愈々露骨となって来た。之は曩に述べたから略すが、茲で何人も気の付かない興味ある事があるからそれをかいてみよう。
出雲系は徳川期に到るまで、約二千余年に及んでも、尚目的を達せられなかったので、之迄の武力を放棄し、茲に百八十度の転換をした。それは宗教による事である。即ち神道としては天理教、大本教、金光教、妙霊教、黒住教であり、仏教としては日蓮宗に其手段を求めたのである。
右の中、最も顕著な成績を挙げたものは、彼の天理教である。同教々祖のかいた御筆先及び御神楽歌をみれば、右の意図がよく表われている。それによると日本の天皇は支那系であるという事が主となって、頗る露骨にかいてある。その中に斯ういう御神楽歌がある。『高山の真の柱は唐人や、之が第一神の立腹』とかいてある。言う迄もなく高山の真の柱とは勿論天皇の事で、天皇は唐人即ち支那人であって、神の立腹とは即ち素盞嗚尊であろう。又他の歌には、政府に於ける全般の官吏も支那系であるというのである。私は先年此事に就て最近大阪を中心として急速に発展して来た天理本道の開祖である大西愛次郎氏の著書を見た事がある。同書には勿論右に関したもののみを開祖の御筆先から抜萃したもので、之を露骨に発表したので、相当問題になり、其罪により四年の禁錮になった事は、新聞によって大抵の人は知っているであろう。
又、大本教に於ても、御筆先に右と同様の意味があったので、不敬に問われて大正十年大弾圧を受けたが、昭和十年再び右に関聯した事と、他に行動による不敬問題もあったので、衆知の如く遂に致命的打撃を受けたのである。然し天理教の方は、右の御筆先を全然奥深く秘めて、別に骨抜き的教義を作ったので、今日の如き大をなしたのであるから、全く主脳者の賢明には、私は大いに感心したのである。
其他金光、妙霊、黒住教などは、目立つ程の事もないから略すが、只日蓮宗だけは相当問題にされた。勿論一部の人達ではあろうが過激な分子があって、其当時軍の内部深く喰入り、遂に彼の五・一五事件や、二・二六事件を起す計画に参与したのは勿論である。特に二・二六事件を霊的にみれば、仲々面白い事があるが、之は未だ時期ではないから、何れ発表するつもりである。
(地上天国二十三号 昭和二十六年四月二十五日)