化人形

此化人形の話は、頗る面白い霊的研究であったと今でも思ってゐる。私は或時友人から「化ける人形があるんだが、解決してくれないか」と云ふのである。それはどういふ事かと聞いてみると、等身大の阿亀(オカメ)の人形で、それを手に入れた家の主人は必ず悩まされるのだといふ、それは決って夜中で、四隣寝静まって寂として声なき頃、その阿亀が、寝てゐる主人の上へ跨(マタガ)って首を絞めるといふのである。時にはその人形を見てゐると、ニヤニヤと笑ふ事さへあるといふ--寔に気味の悪い話である。従而、転々と持主が代り、現在の持主は恐ろしがって或家に預けてあるから、そこへ来てくれ--といふのである。私の好奇心は勃然と起った。早速行ってみようと、深川の某所へ行った。二階の一間に安置してあったが見ると成程、等身大の阿亀が十二単衣を着、檜扇(ヒオウギ)を片手に差上げての舞姿である。勿論明治以前の作らしく相当古びているが、実に傑作で生けるが如くである。私は其前に端座し人形に憑依してゐる霊に向って「私に憑って呉れろ」と言ったので、早速私に憑ったらしく、私は急に悲しい気持がしてならなかった。帰宅後も悲しさが込み上げて泪さへ出るのである。翌日M夫人を招んで、その憑霊に『M夫人に憑って何故化けるのか、その事情をM夫人の口を借りて詳細語れ』と言ったのである。

早速M夫人は口を切った。霊の物語は次の如きものである。「妾は本名荒井サクと申し、今から四十年位前、京都にあった或妓楼の女郎をして居った者ですが、某所で主人との不純関係が出来たので、その妻君が非常に嫉妬を起し、私を苦しめたが、終には主人も妾を嫌ひ出し、果は共々苦しめるやうになり、私を虐待するので、妾もいっそ死なふと思ひ、近くの川に身を投げて自殺したのであります。其後暫く地獄に居りましたが、地獄から抜け出し、どうかして怨みを晴らそうと意(オモ)ひ元の妓楼へ行ってみると、夫妻共死歿して居ないので妾の無念を晴らすに由なく悶々として居ったのです。私も祀られては居ず、居る所が無いので、生前愛して居った阿亀の人形を、自分の居所として憑いてゐたので、人形は元、客から貰ったものであります。そうして生前私は、京都の妻恋稲荷を信仰して居りましたので、怨みを晴らすのに手伝って呉れと頼みました処、稲荷の御本尊の弟狐と、その情婦である女狐が共同して、妾を援けてくれる事になりました。然し困る事には、当の仇の主人夫妻が居りませんので、つひ人形の持主になる主人を目がけては怨みを晴らさうと、首を締めるやうな事をしたのです。」--と泣きながら語るのである。そこで私も大いに同情して祀ってやる事にしたが、狐が相当長くサクの霊に憑依してゐるので、それを離すのは仲々困難であった。例へていへば、私が荒井サクと問答をしてゐると何時しか狐となり、又サクの霊となると言ったやうに人獣同化霊の初期の状態をよく表はしてゐるのであった。然し、私が根気よく狐霊を説得したので、遂に分離する事になったが、それに就て狐霊は条件を付けたのである。それは毎日私の家の軒下に、茶碗に半分位飯を入れて毎朝一ケ月の間置いて呉れ--といふのである。私はその通りしてやり、荒井サクの霊を私の家へ祀ってやったので今でも祀り続けてゐる。荒井サクの霊が憑る前は、M夫人の眼には見えるのである。その時は「今、サクさんが来ましたよ」といふので『どんな姿か』ときくと「鼈甲(ベッコウ)の笄(コウガイ)を沢山扠(サ)し、裲襠(ウチカケ)を着て、隣へ座りました。」と云ふのである。

又、斯ういふ事があった。私は友人に右の話をした処、自分も一度霊査をしてみたいといふので、十人位の人を集めて心霊研究会のやうな事をした。其時右の友人がM夫人に対し霊査法を行ったが、狐霊を侮辱するやうな言葉があったので狐霊は立腹した。狐霊曰く「ヘン、馬鹿にしなさんな。これでも妾は元京都の祇園で、何々屋の何子といった売れっ子の姐さんでしたからね、その時の妾の粋(イキ)な姿を見せて上げよう。」と云ひ乍ら、いきなり起って褄をとり、娜(シナ)を作りながら、座敷中彼方此方を歩くのである。私は『もうよい、判ったから座りなさい』と言って座らせ、覚醒さしたのである。M夫人は霊憑中は、斯様な事まで全然知らないのであるから、実に良霊媒である。覚醒するや私に向って--「今此処に狐が二匹居りますが、先生にお見えになりますか」といふのであるが、私は見えないといひ、『どんな狐か』と質くと「一方は黄色で、一方は白で、本当の狐位の大きさだ」--「此所に座ってゐる」と云ふかと思ふと、「アッ狐は今人形の中へ入りました。」と言ふ。『人形の何処か』と質くと「腹の中に二人キチンと座ってゐて、此方を向いて笑ってゐる」--といふのである。実に霊の作用なるものは、不思議とも何とも言へないものであると、熟々私は思ったのである。斯くして、化人形は解決を告げたのである。

(明日の医術 第三篇 昭和十八年十月二十三日)