(付録)全快者100人の手記 51~60

兵庫県 K・T

命の親と頼みし医者を去り、療養の友とした多くの御薬に別れを告げ、 唯一筋に光明如来様の有難い光に浴し、 偉大なる御利益を戴き、毎日の御守護に感謝の日を送って居ます。その感謝の一端を御報告させて戴き、併せて同じ病に苦しんで居られる数多くの人々の御参考になりますれば幸と存じます。

顧みますれば去る昭和二四年三月、楽しかった学校生活に別れを告げ、明るい希望に胸ふくらませながら教員としての第一歩を踏み出したので御座いました。しかし其喜びも束の間、其年の六月児童より耳下腺炎をうつされ四〇度の高熱が続きました。しかし小さい生徒達の事を思うと、長く休んでも居れなく、少し熱の下るのを待って一〇日ぶりで登校致しました。しかし食欲は少しもなく微熱が続きました。体は日々おとろえる一方でした。でも家庭訪問、音楽会、学期末といそがしい毎日を送り、夏休みとなりやれやれと思ったきり起き上れなくなってしまいました。医者は「八月いっぱい静養すれば学校へ出れる」との事でした。それからは毎日快方に向って参りましたので、此分では九月より登校できるものと喜んで居りました。だがまだ微熱が続きますし、食欲がないので困って居りました処、母が近所のお大師さんでとても御利益を戴ける所が有ると聞かされ、早速御願して来て戴いたのです。そしてあやしげな薬をのまされてより一口の食事も口に出来ず、下痢が一日十四、五回も続きました。それより病気が進み、発熱四〇度が一週間続きました。やっと迷いがさめ、 医師に来て戴いた時には両肺が大部分侵され、 腸結核にもなって居て、既に手遅れの一歩手前まで来て居るとの事でした。結核に対し全く無智で有った私は夢にも思った事のない世にも恐しい病に侵されていたのでした。

それからというものは奈落のどん底に突落された様な悲嘆の病床生活が始まったのでした。医者の言葉に従い、朝夕体温計とにらめっこしストレプトマイシンを続け、注射、栄養、絶対安静を続ける事三カ月、しかし病気は悪化する一方でした。苛立つ神経をおさえながら天井をながめ、楽しかった日の事を思いうかべながら一一月半ばに入り、やっと二カ月ぶりで散歩を許される体となりました。しかし腸結核と微熱ははかばかしくなく、マイシンを注射しました時は食欲は進みますが薬が切れたが最後、一口の御飯も咽喉を通らず、下痢が一日五、六回も続くという有様でした。始めは一週間おきに一本宛マイシンの注射をして居ましたのが、五日間置きになり、二カ月目は三日毎になると薬が切れてしまい、最早マイシンの効力を知り、私もいよいよ此世から去って行かねばならぬ時なのかと心は乱れ、一思いに自殺をしようかしらなどと涙にむせびつつ転々として一夜をもだえ苦しむ日も多う御座いました。青春時代の私にせまり来る死の機の近づいて来るのをどうする事も出来ませんでした。感染を恐れ世間からは冷たい目で見られ、一人淋しく二階で明暮の毎日で御座いました。

忘れもしません、暗黒の生活の続いた其年も明け三月の末で御座いました。「私の前に行って居た先生で、とても熱心に信仰して居られる人が有るので一度来て戴いて話を聞かせて頂き、治して頂いては」と姉の話でした。一度信仰で失敗した私にはどうしても信ずる気になれず、如何なる事があろうとも医者を頼り不治の病を追って居るより道はないと信じて居た私でしたが、姉や紹介して頂いた先生の顔を立てる為に唯体を貸して上げるからという気持で来て頂く気になりました。

早速S先生とF先生が来て下さり、御話を聞かせて頂いたり浄霊を頂いたりしました。驚いた事には一度浄霊を受けましてより気分が良くなり、八カ月間一日として楽しい事もなかった食事がとてもおいしく戴け、三杯ずつも食べられる様になりました。其嬉しかった事は本当に忘れる事が出来ませんでした。

それよりS先生に毎日来て頂き、 浄霊を受けて一日の休みもなく通わして頂き、四月に入りまして二里の支部迄自転車で教修を受けに行かして頂ける様になりました。その内六月に入りまして下痢の大浄化を頂き、一日十五、六回も下り、二〇日間も続き、体は衰弱をし貧血を起しましたが一日も寝る事がなく御用さして頂き、八月に入り光明如来様を御迎え致しましてより二度目の浄化を頂きましたが、大した事もなく元気で毎日を過さして頂いて居りました。一〇月に入り支部のA先生宅へ御修業に参らして頂き明るい楽しい毎日を過させて頂き、体は日々肥って参りました。そして何をしましても是迄の様に苦痛を感じない様にして頂きました。一二月に中教会の御修業に参りまして病気全快の喜びに心行く迄奉仕さして頂きました。そして顔の色もとても良くなり不思議な程身体が軽くなり、驚く程身体が使いよくなりました。体重も病気中は一一貫になって居ましたが、中教会より帰りました時一四貫五〇〇の本当の健康体になりました。併し御薬が沢山入って居るので未だ本当の体でないとの事でした。中教会より帰りましてより全身浄化を頂き、以前の発病当時の病状そのままになりました。昼になりますと七度五、六分の熱が出て咳と痰がひっきりなしに出る始末でした。教会で一一日間御世話頂く間にすっかり元気になり、帰りましてより本当に明るい楽しい気持で御用に明け暮れの毎日を送って居ります。

会長先生を初めA先生、S先生の或時は「誠」或時は「愛と熱」とを以ての御親切なる御指導によりましてこの救世の如何に大切な事かを教えて頂き、病気を救って頂く嬉しさの万分の一でも此有難い御教の為、青春時代のすべてを捧げさせて頂き、少しでも御役に立たせて頂こうと、御親切なる先生方の御指導の下に、微力ながら御手伝さして頂いております。

(二六年一〇月四日提出)

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秋田県 S・S

私は楽しかるべき人生を病苦に悩まされ、最早死に直面せる儚い生命を、光明如来様の愛の御手にお救い戴きました感激を、余りの有難さに拙文をも省みず御礼と共に御報告をさせて頂きます。

顧みますれば今より丁度一〇年前、一八歳の春に遡ります。世にもいまわしい肺門浸潤の診断を受け、花笑い鳥の囀る春の麗かさを外に若き此身を病床に儚ない生活を送らねばならぬ身となりました。家族一同は申すに及ばず、親類の方も此の年若い身を一日も早く治してやりたいと色々と御心配して下さり、私も治りたい一心であちらこちらと医師をあさり、薬剤もあれこれと用いましたが、その効なく、電気治療、灸、指圧、 安静療法と百方手を尽しました。然し依然として効果なく、病勢は日を追って悪化の一路を辿るのみで、私初め家族達もその前途は全く暗黒の世界へ引きずられて行くのみでございました。かかる苦悩の真唯中に唯一の柱と頼む父親も病魔に襲われ、一家の事又私の身を心配しつつ遂に永眠してしまいました。取り残された病床の私は悲しみの余り、お父さん此病身の私を残して何故先に旅立ったのですか、何と私は不幸な運命のもとに生れたものだろうか、と思えば思うほど枕濡らさずには居られませんでした。母はあまりにも悲しむ私を心配して枕辺に来ては「お前は父親が亡くなったからとて何も心配する事はないよ。お前の体は悪くなるばかりだよ。だから心配しないで一日も早く丈夫になって元気な姿を見せてくれる事が一番楽しみなんだよ。それで満足だよ」と言うあの時の母親の姿と言葉は今尚判然と記憶されて忘れる事が出来ません。 併し乍らあせればあせる程病勢は悪化し、母親の念願もその甲斐なく益々衰弱するのみで如何ともなし難く、最後の手段として意を決し、秋田市赤十字病院へ入院したのでございます。時正に二〇歳、発病後三年日でありました。かくして病院生活が始まり、楽しきお正月もベッドの上で母親と唯二人、涙と共に迎えなければなりませんでした。

長かりし入院生活にも退院の喜びに浸る時が参りました。約半年の久し振りにて我が家に帰りました。その時の喜び何に譬えましょう。ああ併し運命は飽く迄皮肉でございました。

帰宅後僅か二カ月、再度病床に呻吟する身となり眼前は真暗になり、ひしひしと迫る悲哀、私はもう駄目か。愈々来るべき運命が来たのかと自分の生命にあきらめが感じられ、又反面父を失ってから看病にやつれた母親の姿を見るにつけ、これ位で死んでなるものかと生きようとする勇気も湧き、此広い世の中に何処にか此悩みを救って下さるものはないだろうかと、生きたい故に私のやってみたいと思う事は勿論これと思うことは全部やり尽してしまいました。がその効なくすべてに希望を失った私でございました。事此処に至り初めて神仏という気持が湧き出て参りました。万策尽し果てた人間の辿る道なのでしょうか。併し心の奥では見えざる神仏は此の世の中にあるだろうか、迷ってはいけないとも考えられ、暫くは精神面での煩悶が続けられましたが、過去を顧みますとき、今迄やり尽した綜合結果としての今の私の姿はどうか。そうだ神仏へお縋りしてみようと肚を決め、「神仏よ此肉体を救うによかったらお救い下さい。若し駄目でしたら死を与えて下さい」と祈り、自分で自分の肉体を如何ともする事が出来ない事を覚り、只管神様へ、神様へと凝り出しました。人様からよいと聞けば直ぐにも飛んで行きたい程になりました。或虚無僧に次の如く言われたこともあります。「お前の体は絶対に薬では治らないよ。最後は神に救われる人ですね、何か信仰に入って居りますか」と尋ねられました。私は「別段信仰は致して居りません」と言えば「そうですね、立派な神様を求めて信仰されては」と仰言いました。其後は一段と神様に凝り方々へ求めて歩きました。或時青森県に大変よい神様があるとの事、早速探し求めんとして行く途中、ふとしたことから奥様風の方と一緒になり、若しや、と思い道を訪ねますと奥様は「甚だ申兼ねますが何かお聞きなさる為ですか、又、何処かお悪いのでございましょうか」と優しくお話しして下さいました。

私はそうだ、神仏のお引合せかも知れない、思い切って打開けてみようと思い、今日迄の経過を簡単にお話し致しますと、此奥様は御守様を戴いて居る方であり色々とお道の事につき有難い尊いお話をして下さいました。最後に教会の所在地等を丁寧に教えてくれました。「是非一度お訪ねして先生にお会いなさる様に」と懇切にお導き下さいました。私はその方とお別れしてより「ああよかった」と思い、之が真の神様のお導きに違いない。若しあの方に道を聞かなかったらと思うと「よかった、よかった」と一人で嬉しくなって参り心がはずみました。初めてお浄霊を戴き余りにも簡単で変な気持になり、こんな事で私の難病が治るのかと思い乍らも諄々とお話をして下さいます先生の誠心、神の大愛心、唯々感激あるのみでした。三日程通い、別段変化なく不安を感じましたので二日位休みました。すると急に教会に行き度くて行き度くて、夜半一二時、一時頃迄も眠れず、私自身不思議な程教会が想い出されますので、又考え直して御浄霊を頂きました処、三日程で気分もよく大変楽になりました。五日頃には自分でも不思議な程体の調子がよくなり、先生の仰言る一言一言が身に沁みて有難く感じられ、御力の偉大さを今迄疑い通したことを心からお詫び致しました。其後は一回毎にぐんぐん快方に向い今迄長い間一日としてなかった程体の調子がよくなって来ました。三尺離れて手を翳す事によって悩みに悩んだ如何ともなし得なかった病気は治り、暗かりし心の空も快晴の喜びに変り、此処に光明輝く大道は見出され、前途は唯々喜びと感激あるのみでした。「光明如来様有難うございました」と初めて母と共に手をとって御礼申し上げました。

悩み抜いた一〇年間の難病も僅か数日のお浄霊にて起死回生の喜びに……。直ぐA先生の御教修を頂きました。ああ私は神様にお救い戴いたのだ。そしてこの私にも偉大なる御神力をお授け下されたのだ。此感激を御想像下さい。これが昨年の一月二五日でございました。其後は全く御守護の連続でございます。今では如何なる仕事も充分働かして戴いて居ります。すべては笑顔で私を迎えてくれる様で何を見ても嬉しく堪りません。此喜びを一日も早くお伝えさせて頂こうと思い御神業のお取次をさして戴きますと、曇り切った私如き者にも数々の御守護を戴けまして本当に有難うございます。お救い下さいました御恩の万分の一にも報い奉るべくお手伝いさせて戴きますと共に、地上天国建設の御神意に添い奉らんと、日夜頑張らして頂くのを無上の光栄と存じます。この人生の喜びを必ず必ずお伝えさして戴きます。時々お浄化を戴き、その度毎に信仰は深められ、再生の喜びに浸る事の出来ました事を厚く御礼申し上げます。明主様誠に有難うございました。A先生有難うございました。

(二六年五月二一日提出)

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茨城県 I・K

私は昨二五年七月一五日に入信させて頂きました者で御座います。本日迄に戴きました御蔭の数々は限りがございません。厚く御礼申し上げます。その中の一つを御礼の心にかえまして御報告させていただきます。実は私は大正九年、 日蓮宗に一代法華としての題目講に入れて頂いたので御座いますが、自分と致しましては御利益の程を感謝して過させていただいて居りました。

二三年七月に二人目の孫N(五歳)を授けられましたが、生れながらの非常な病弱で、幼児の中は何とか医薬もききましたが、昨春頃より薬は絶対にのまなくなり、注射も致させません。生れると間もなくから医師に「こんな弱い児は、手なごの甲斐はないでしょう」と度々申されましたけれ共、折角此世に生を享けたほんとにいとしい孫を見ごろしにできません。薬は口を割いても服用させましたが、注射は死もの狂いで抵抗致しますので、如何とも致しがたく、一家暗黒の日を過して居りました。小児結核と言われましたが、毎日緑便が続きまして食は少く、咳が激しいので、娘と二人つきっきりで看病致して居りましたが、病気は悪化の一方で、とんと困りきって居りました。

或お方の勧めにより、本年五月末頃より、御浄霊を戴く様になりましたが、有難い事に便もよくなり、食事も進む様になりまして、家内一同の愁眉を開かせて頂き、先ず祖母の私が入信させて頂く事になりました。すると教修の第三日目に、突然四一度の発熱がありまして、私の留守中(受教中)に家の者があわてて医師をむかえてしまいました。何の原因か不明なのに用心の為と種々の注射を致したそうです。

急報に心もせわしく御守様を頂き、帰宅致しまして、早速御浄霊させて頂きましたが、あまりの高熱故、家人も不安がり、又私も十分自信が持てませず、S先生は素晴しい御浄化と申して下さいましたが、医師は膿胸と申しました。医師説と御浄化説とが相対峙しまして一時はどうなる事かと心配の極に達し、二五日は私の亡母の三回忌に相当致しますので、その日がやはり昇天の日かと、 覚悟まで致しました。 でも私の一心を御浄霊説につらぬき、S先生の御熱心なる真心が神様のお力を頂き流石頑強な膿胸も、手術せずに二週間にて全快をさせて頂きました。私共一家の喜びは何に譬え様もなく、唯只光明如来様に御礼申し上げるより外は御座いませんでした。

医師は「此度の膿胸は治しても、此の秋に風邪をひけば駄目ですよ」と幾度か繰返して申しましたけれども、其後風邪も引きました、淋巴腺も腫らしました、下痢も致しました、中耳炎も致しました、又口内炎にて食事が一〇日間出来ない事もありましたが、何ともなく、つぎつぎと御浄化を頂き終らして頂き、今日では「Nちゃんは命拾いをしましたね」と皆様が申されます。

全く明主様の御加護と厚く厚く感謝申し上げて居ります。此有難い御道をひろく皆様に御勧め致し、世の多くの方々にわかって頂いて、地上天国の一日も早く来らん事をお願い致し、また御蔭の万分の一の御手伝をさせて頂きたいと日毎御念じ申し上げております。

娘二人も昨年八月と本年四月とに入信させて頂き、共に感謝の日々を過させて頂いております。

ふつつかなる私の真心を乱筆ながら御礼の心のままに書かせて頂きました。まことに有難うございました。

(二六年九月一日提出)

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秋田県 A・K

昭和二三年一二月頃、産後に神経痛を患い、手足がしびれた様になり、その上苦痛がひどく歩く事さえ出来ない状態で御座いました。「若くても中風があるそうだ」という世間の噂に気を落し、人生の半ばにて此世を終るものかと悲観して居りました。何よりも先ず医者へと毎日毎日大きい子供に箱橇に乗せられて病院に通い続けました。いやな注射や薬に毎日が苦しい思いでしたが、一カ月経っても元の様な体になれず、到頭業を煮やしてやめてしまいました。日頃の苦しみの晴れぬのを知人や来客に訴え、色々な薬を教えられては服んで居りましたが、依然としてはっきりせず、不遇な我が身を歎いて居りました。

或る日ふとした事から町内の信者さんに「手を翳せば病気が治る」と薦められ、そんな馬鹿げた事があるものか、と思いましたが、若し治ったら此の上ない事と思い入信させて頂く気になりました。三日間の教修中に或る急病人が教修会場に来て奇蹟的にも良くなり、喜んで感激して帰りました。又もう一人は私の様な病気で足を引きずり体全体が苦しいと言って来ましたが、それも只数回の御浄霊によって治ってしまいました。之を見て半信半疑乍ら先生のお話を聞いていた私は、益々吃驚致しました。ああこれは確かだ、これなら間違いない、本当に有難い御力だ、と確信し、三日目には自信たっぷりで有難いお守様を戴きました。

其後何時ともなく自分の体がすっかり良くなりましたが、家でも子供達が頭が悪いとか腹が痛いとか色々な浄化がありましたので、恥ずかしい様な気持で人目に知れぬ様に手を翳して見ました。中には気のせいやら治った様に思われましたが、いくら手を翳しても中々その効果が見えないので、家の人達に「そんな馬鹿な真似するより病院に行った方が早いからやめて呉れ」とさんざん悪口や反対を言われ、それで何時ともなくすっかり手を翳さない様になって了い、とうとう御守様もはずして了いました。自分達では先生の様に治せそうもないと諦め、御守様も仏様に上げてお詫びして置きました。明けて二四年の三月二五日の夜中一時に突然火事に遭い、五軒忽ちのうちに焼けてしまいました。私の家はその中の一軒で土台だけが残って後はすっかり焼けてしまいました。早速近親や知人達のお世話で漸く家が建てられ、どうにか寝起きして参りましたが、益々貧苦に悩まされるばかりでした。家の職業は自転車業なので、冬になるとすっかり客足が絶えて、まるっきり収入の道がなくなるのでした。でもどうにか過して来ましたが、春の商売の仕入れの為借金をしたり、無尽を取ったりしてかれこれ一七万円位仕入れました。その年の七月不幸にも、又夜泥棒に入られ新車二台が盗まれてしまいました。新車一台が一万八〇〇〇円もする時で、二台で三万六〇〇〇円というものが盗られましたので、なんとも言えぬ憎らしさ、悲しさで胸が一杯で御座いました。それでも毎日の来客に此様な不幸を言って客が絶えては大変だと思って表面にはなんの辛さも見せず元気をつけて居りました。また同じ様に一〇月夜新車一台盗まれてしまいました。何という事でしょう。 一〇〇〇円か二〇〇〇円で仕入れられる車でなく、何万という金高、全く残念で堪りませんでした。また同じ様に苦しい冬を過ごして居る中に、明けて二五年の二月主人の弟がソ領から帰って間もなく結核で入院して了いました。何時治るものやら見通しのつかない程の病人であります。入院して一カ年近くになりますがまだ入院して居ります。その入院治療費が一〇万円以上にもなります。同年五月今度は私の子供五女が急に脳膜炎に罹り、もうすっかり落胆してしまいました。五女が亡くなってまもなく、今度は六男がなんだか熱が高く咳もする様なので、余りの心配に医者に見て貰いましたら、小児結核と言われ、もう腰が抜ける程がっかりしてしまいました。医者からは早速入院するようにと言われましたが、もうどこをはたいても金がないので入院せずに、なんとか自宅で治療することが出来ないだろうかと、お願いいたしましたら「それじゃストレプトマイシンを一〇本位注射すると子供だから早く治るだろう」と言われました。医者の言う通りマイシンを注射してもらう事になりましたが、夢中になって泣く子供のお尻に看護婦三人でおさえつけて無理矢理に注射するので御座いました。余りのいたいたしさに私も共に泣いてしまいました。毎日此様に注射されては可哀相だが、この可愛い子供をどうにかして助けて貰いたいばかりに、心を鬼にして毎日通いました。一本のマイシンを大人なら一日にやりますが、子供だから一本を三日に分けてやりました。マイシン一本一一〇〇円です。あらゆる生活を切りつめて、一カ月の間に一〇本注射してもらいましたが、よくなるどころか日増に悪くなるばかりで御座いました。又医者に相談しました処「もう四〇本もやったら良くなるだろう」との事、では主人とも相談して見ますと急いで帰りました。医者の言う通り主人に話しましたが、主人も暗い顔で何とも言いませんでした。もう親たる私から思い切ってこの子供が亡くなってもいいから、これで止めます。これから四〇本もマイシンをやってかれこれ五万は掛るだろうが、それでも良くならない時は、要らぬ金を投げるばかりだ。主人の弟もまだ入院して数十万円の金を費しているし、五女にもかけたし、これ以上は借金の背負倒れになって了うばかりだ。どうせ私は子供に運がないのだ、と諦めて気を益々強く持ったのでした。

医者をやめて一週間ばかり経った或る日、町内の入信者で前に奨めて呉れた人が、私の家に来て「貴女はあの有難い御守様をどうして居りますか。きっと投げっぱなしでしょう。だから色々な不幸が次から次へと続くんだよ。もう一度思い直して此道へ入られたらどうです」と色々有難いお蔭話を話して下さいました。それで今迄の一切の悪事をあやまり、お詫びして再び此お道に縋らせて頂く事になりました。早速熱の四〇度もある子供を連れて教会のS先生の処に参りました。そして一切の悪事をあやまり、 大光明如来様にお詫びして、 毎日先生の御熱心な御浄霊を戴きました。二〇日も経たぬうち、もうすっかり元気にさせて頂きました。何とも言われぬ有難い御力にこの可愛い子供が助けられたのです。私も新たに御守様を頂いてもらいました。御屏風観音様も御奉斎させて頂き、仏壇もすっかり直してお祀りさせて戴きましたら、

其後はなんの不幸もないばかりか、御守様を頂いて商売も繁昌し、一家笑って毎日楽しく暮らさせて頂いて居ります。有難さに唯只感泣し、御礼の言葉も知らない位です。明主様有難う御座います、と我が子を抱いてはおいおいと泣けてくるばかりです。明主様有難う御座います。曇り多い私でございますが、お道を知らない為に、喜びも感謝もなく、毎日暗く淋しく人生をはかなんで居る人々に一日も早く教えてあげ、共々に明主様にお縋りして幸福に此世を送らせて頂き度う御座います。明主様有難う御座居ました。一生懸命させて戴きます。

(二六年三月一六日提出)

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北海道 M・F

謹みて御利益戴きました事を御報告申し上げますと共に御礼申し上げます。

私は本年二月入信させて戴いた者でございますが、昭和二一年六月三一日結核性急性腎臓炎にかかり、早速入院、切開手術を行い、左腎臓を摘出致しました。七月一〇日退院致しまして、其後、何事もなく暮して居りましたが、二四年四月長女の産後六カ月目頃より放尿後膀胱が痛み、尿に膿がまじり、気持の悪い毎日を過し、家庭にて漢方薬を服用して居りましたが、四カ月目の二五年二月、再び市立病院に通院する身となり、服薬注射等を行いましたがはかばかしくなく、同年一二月個人病院に変り、ペニシリン、マイシン等を行う様になり、膀胱の痛みは止り、尿の膿も止りましたが、その時には既に肺門が悪化していると言われ、医師の言われるままに治療を受けて居りました。丁度その頃長男も中耳炎が再発致しまして、共に病院通いをして居り、一家に二人の病人にて其費用も大変なものでした。長男は三歳の時麻疹にかかり、その後中耳炎にて国立病院に入院し、その時は大した日数もかからず全治致しました。一年半ばかりはよかったのですが、其後風邪を引く度に中耳炎をおこし、膿が出ます。注射をすれば一時止りますが、又風邪を引き膿が出、又注射と言う工合で居りました。二五年一二月たまたま風邪を引き、今度は今までになく頭が痛いと言い出し、 膿は止まる事なく出ます。

やはりペニシリン等を行いましたが頭痛は去らず、本年二月初め、私の親戚に当るS方に、病院の帰りに立寄りました処、救世教の先生が来て居られるから、二階に上って話でも聞く様にすすめられました。前にも一度立寄った時、少し聞かされたのですがその時は大して関心をもたずにいました。

疑ってもいいのだからと勧められ、二階に上りました。そうして先生のお話をききましたが、手を翳しただけで病気が治るとは信じられませんでした。親戚の者も「まあ一度御浄霊をしてもらったら」と勧めてくれましたので、ものはためしと言う事もあり、先生が「現在、あなたが肺門が痛いとおっしゃるのだから、一寸後を向いて見なさい」と言われ、私の背中で三分ばかり手を翳して下さいました時、今まで右肩から肺門の周辺が痛かったのが、痛みが止まりましたのに不思議を感じ、そうして先生が色々と光明如来様の有難いお話をして下さり、そして病気は浄化作用であり、有難い神の恵みであるとおきかせ下さいましたので、その日から私も子供も御浄霊をおねがいする様になりました。

苦しかった肺門の痛みは三回の御浄霊で取れ、子供の頭痛も三回程で治りました。病院に通って居りまして、ペニシリン、マイシン等を行っていた時は濁ってなかった尿も、御浄霊を受けたその日より、又膿が出る様になりました。その時も先生は「薬はかためるのだし、御浄霊はとかして出すのだから、少しも心配はありません」と言われ毎日御浄霊を受けて居りますうち、日毎に元気づき、今まで重い物も持つ事も出来ず、長女が生れて一度もおんぶした事のないのが、四月に中教会にて御祭がありました折、おんぶしてお祭に行ける様にさせて戴き、長男も毎日元気に学校に通わせて頂く事が出来ました。

最初私と長男が入信させて戴き、次に夫も入信させて戴き、家には光明如来様も御奉斎させて戴きました。七月二八日には一家揃って海水浴に参りましたが、昨年一昨年に引替えて、一家揃って海水浴にまで行けるまで御利益戴きました事の此喜びは筆舌には尽されません。明主様有難うございました。此上は私も神の僕となり一人でも多くの人に此お道の有難い事をお話し、地上天国建設のお役に立ちたいと思って居ります。拙なき筆もてここに御報告し御礼申し上げます。

(二六年九月一日提出)

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静岡県 M・H

昭和二三年七月入信以来今日迄、数々の御守護を戴きました事を厚く御礼申し上げますと共に、拙い筆をもちまして其の一端を御報告させて戴きます。

私は昭和一八年四月、家庭の事情に依り、京都の勤め先より帰り、手馴れぬ農耕に無理した為か、何時ともなく体がだるくなり、背筋が痛み軽い咳が出、自分では左程に思っては居りませんでしたが、父より「一度健康診断をして貰って来い」と言われ、大した事もないのに、と思いましたが、言われる儘に町の医師に診て戴きまして、聴診、打診、血沈、ツベルクリン反応等種々行いました処、医師は盛んに首をひねって「一回では判らぬ。もう一度来る様に」と言われ、一日おいて又行き、今度はレントゲンを撮って見た処、左肺上部と右肺中部が侵され両肺浸潤と聞かされましたが尚信じきれませんので、写真を見せて貰いました処、雲翳がはっきり写って居りました。其時の驚き、真暗闇の中へ突落された様な気がして、言い知れない淋しさがこみあげて参りました。噫々、自分もとうとう人の嫌がる不治の病に侵されたのかと思い、早速医師に治療法を教わった処、唯「絶対の安静と栄養摂取にある」と謂い「農耕等特にいけない」又「出来得れば気胸療法をやれ」と奨められましたので「気胸療法をやれば確かに治りますか」と問い返しました処「治る」とも「治らない」とも言いませんでした。はっきり言わぬ処を見ると、矢張り死の病だなと思い、それ迄張りつめて居た気力も一遍に抜け、診察料を払うのも忘れ、医師の門を出て了いました。

そして帰りのバスの中で一人悩み続ける中に、一〇年前急性肺炎で死んだ一番上の兄のことを、そして翌年引続き同じ病気で逝った次男を、又しても其後二年して南海の孤島に消えた私の一番頼りにして居た三男の兄を、次から次へ走馬灯の様に想い出され、当時一七歳の私の小さな胸はかき破られ、しめつけられて、全く生きる希望さえともすれば失い、今後如何して行こうかと、一人思案に暮れて了いました。

家に帰り何と言おうか、いっそ此儘死んで仕舞おうかと迷いましたが、父にだけは話しました。すると父は口には出さねど「又か」と言った様な曇った顔をし乍らも「養生すれば治るだろう」と力づけて呉れました。

それからと言うものは毎日ブラブラして、気の向く儘にして居りましたが「いくらくよくよしても治る訳でなし」と言って、元来医療の嫌いな私は、今更治らぬ病の治療を受け様とも思わず、そうかと言って放って置く訳にも行かず、只気休めに二、三の薬を取り寄せて服んで居りましたが、勿論病状には何等変りもなく、或時父が家伝薬を買ってくれまして、それを口にしました処「にんにく」に何かを混ぜた様なその臭いと、言い知れぬ不味さにて、 病者ならでは口にする事の出来ないものでした。そして薬もそれきり止めて仕舞いました。よし何うせ駄目ならブッ倒れる迄やろうと思い、其れより毎日毎日凡そ医師の言とは反対に、仕事を前と同じ様に行い、夜は夜で何処ともなしに遊び歩く様になりました。

そして三月、四月と過ぎ其間自覚症状も多分にあり、一喜一憂の内に其年も暮れ、それより二、三年は一進一退に打過ぎ、二二年夏の頃より鼻血、血痰が相次いで出、胸の痛みも漸く烈しく、重苦しく感じ、或時は余りの苦しさに軽く胸をたたきました処、突然目まいが致し吐気を催し、其場に昏倒致しました。 それでも私は医者にもかからず、 薬も飲まず、成る様に成れ、勝手に成れ、と半ば嫌気になり、当時の常識から言えば、不摂生其ものの明け暮れでした。何故私は此様な気持になったのか?と申しますと、私の村内にも同病に侵されて治った人は一人も無く、全部が全部死んで居ります。知って居る人だけでも十五、六人はいるからです。でも床に就かなかっただけは幸でした。

確か二三年六月です。入信一カ月程前の事でした。朝何気なく顔を洗おうとした時、急に口の中が生臭く感じ、水で嗽ぎ吐き出しました処、真赤な血が出て来ました。今迄割合暢気で居りましたものの、愈々予期して居た時が来たなと思い、一抹の不安を感じ、恐怖に戦き、こうなると誰でもそうでしょうが、神経が針の如く尖り、考えは悪い方へと走るのをどうする事も出来ませんでした。

其中に田植も終った七月、Y町のT様より此御道を教えられ、奨められ、話を聞く内に、自分の今迄行って来た無茶な事が却って病気を良くする方向に進んで居った事に気付いたのであります。

知らぬ事とは言い乍ら、一人で心配し悩み続けた事が今にしてみれば馬鹿らしくなり、早速入信し、浄霊を続けました処、半年とたたぬ其年の暮頃には、ぬぐう様に痛みも熱も去り、それからと言うものは胃腸も心臓も共に弱かった私が、ぐんぐん丈夫になり、青年団の陸上大会にも八〇〇米、一五〇〇米等、毎年成績よく、昨年等は優勝旗迄戴き、した程でございます。

そして今静かに振返り、是が数年前病いに兢々不安に戦き、生きる希望さえ失った自分かと、過去と現在とを思い比べる時、其余りの相違さに「嗚呼私は救われました、有難い」と心から絶叫するのであります。これ偏に明主様の御高恩と深く深く感謝するのみでございます。意の儘に書けないのが誠に残念でございます。

又八月六日の夜八時頃より兄が猛烈なお腹の浄化で、激痛実に一二時間、一時は命さえ危き処、徹夜の浄霊にて翌朝九時頃にはさすがの痛みも嘔吐と共に去り、御守護戴きました事も厚く厚く御礼申し上げます。今後も尚一層励まして戴き、御高恩の万分の一なりとも御報いさして戴く覚悟でございます。其頃を顧みすれば恐ろしも闇路杖なく彷ひし吾我生命甦るさへ嬉しきに医しの業まで許されにける右御讃歌を何回も何回も奉唱させて頂き乍ら明主様に御礼申し上げます。有難うございました。

(二六年一〇月二五日提出)

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鹿児島県 F・Y

A(三九歳)さんは医師の診断の結果、結核の病名で絶対安静を命ぜられ、爾後は医師の言葉通りにして唯ひたすら一日も早く全快するように努めて居りましたが、一向に思うように果取らず剰え胃まで弱り、悩み続けて居られる処に、折よくも『栄光』新聞を間配り、其縁で教会にお詣りに来られました。其話によりますと「主人は遠方の地で勤人生活、私達母子は郷里で療養生活、今は別れ別れの生活で、家庭的にも全く暗い寂しい思いで過しています。情なさ残念さで胸一ぱいで御座います。 いっそのことと思う事もありましたが、 主人の事、 子供の事など考えますと何とかして早く治りたいと思い、マイシンを七五本も注射致しました。 安静療法と栄養と色々やってみましたが、依然として何の好転もなく今日に到りました」と涙ながらの気の毒な有様でありました。此上は光明如来様にお縋り致したいとて教修を戴かれ続いて毎日お詣りされるようになりました。御浄霊に御神書にお縋りなされました。日増しに健康を取戻し、洗濯物、炊事等も楽に出来るようになり、人生観は一変し、明日への希望に燃え、子供を伴れて、再び主人の勤務地に帰られ、楽しい家庭を復活されています。此方の娘さん(中学二年)も胸が痛いと申して、母親の病気が感染したのかと思い込み、学校では体操もせず遠足にも行かず心配して居られましたが母親の結果からみて、今では入信されバレーボールの選手として明朗な学生生活を送っています。誠に有難い極みで御座います。御礼申し上げます。

(二六年四月二二日提出)

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岡山県 T・S

顧みますれば、私は一昨年四月頃より食欲がなくなり、一寸の疲れかと思い、或る人に「ビタミンB、C」の注射をしていただき、 其内に食欲も出る様になると思って居りましたが、何日経っても食欲は進まず、遂に医師に診察を乞いました処「是は慢性胃腸炎だから、少し薬を服めば直ぐに良くなる」と申されましたので、毎日服薬を続けて居りましたが一向に良くならず、医師も不思議だと言われ、早速レントゲンをかけて見ると申されました。

其結果胸が少し悪いと申されましたので非常に心配致しました。其為か、それ以来頭が大変悪くなり、少しの間も起きて居る事も出来ず、毎日医師の注射を続けて居りました処、昨年九月頃より少し良くなり、医師もぼつぼつ仕事も出来るだろうと申され、喜んで丁度三カ月ばかりの間に三〇日程仕事を致しました処、又々体が悪くなり、其後医師にかかって居りましたが中々快方に向わず、毎日毎日悩んで居りました折柄、近くのMさんという方から、「一度救世教の御信仰なされては」と色々とお話をして下さいまして、その時御浄霊をして戴きました処、非常に気持が良くなり、又次の日にも浄霊をして戴きまして、早速其足でMさんと共に、K町の教会へお詣りさして戴き、H先生の御浄霊を受け、其上有難いお話も聞かせて戴き、先生は「少し続けていらっしゃい」と申され、その翌日より毎日御浄霊をして戴き、日々と体も大変と良くなり、丁度三月七日Mさんと共に0町の中教会長先生宅にお詣りさして戴き、有難いお守様を拝受致しました。家に帰ると主人を始め一同が大変疲れて居ると思いの外、非常に元気で帰ったので、全く神様の御蔭と喜んでくれました。

其後主人も四月二二日入信さして戴き、二五日には熱海の御本部へお詣りさして戴き、翌月一五日有難い光明如来様を御奉斎さして戴き、又六月五日には次男も入信さして戴き、箱根の御本部へお詣りさして戴きました。

思えば長い間の暗黒無明の世界から、初めて歓喜の光明世界へと御救いを戴き、此喜びは到底筆や口に表わすことは出来ません。只今では一家が元気で先生の御指導の下に此有難い御利益を一人でも多くの方にお知らせすべく主人及び次男は会社にて誰彼となく御浄霊をさして戴き、皆さんより大変喜ばれて居ります。私も御近所の方を浄霊さして戴き、毎日身も心も晴々として御道のため御用を勤めさせて戴いて居ります。御明主様有難う御座居ました。

(二六年九月二五日提出)

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島根県 M・T

昭和二〇年終戦と共に本籍地の島根に引揚げ、当時は体重一七貫で誰にも負けない程の健康の持主でした。洋裁を本業に、母と当時小学校二年の子供と三人暮しで貧しくも明るい家庭で御座居ましたが、二二年春より病魔の住みつく家になりました。

母がカリエスになり、翌二三年五月突然の喀血と共に私も絶対安静せねばならぬ身となりました。此時の私共一家の悲歎は全く拙い筆では書き尽せません。五年生の男の子をたよりに、私共親子の療養生活は始まったのでございます。

母の方も私もはかばかしく有りませず、一進一退そのうち高知市に住む友人の心尽しで高知の病院で安静療養一年間を過しました。大変快方に向って参りましたので、家の方も気になりますので退院し島根に帰りました。(二四年八月)旅行の疲れなのか翌日より発熱致し、一カ月もすれば熱も去るものと絶対安静に入りましたが、一カ月はおろか幾月たっても熱は去らず、食欲減退し、全く一年間の病院生活は無になって終いました。以後一年四カ月間安静にし、大気栄養と心掛け、療養を続けましたが全く体は衰弱の一方で御座居ました。

二五年一二月末頃、『信仰雑話』外数冊を読ませて頂き、光明如来様の偉大な御力に心を引かれ何とか御浄霊をお受け致したいものと念じました。 二六年一月六日やっとの思いで五里程離れた簸川郡T村のI先生を訪れました。偶然と言うか必然と言うか、丁度其時は例祭日で、兵庫県の三田よりH先生がお見えになって居られ、本当に有難く思いました(其頃の私の体温は朝から七度二、三分ありました。平熱は五度八分)。三日間T村に通わせて頂きましたが、先生の御計らいで隣村の入信者のお宅に毎夜御浄霊をお受けすべく通わせて頂きました。隣村とは一里以上離れて居ます。絶安を続けて居た私には毎夜二里からの徒歩は大変なものでした。只々御光を慕う私には「有難い」の二字で満たされ、何ものも考えられませんでした。 家人はそうした姿に非常な不安を感じ、歎息を漏らしましたが、信ずるものを信じ生きる私の心は本当に今までの私ではなく、光明の如く燦たるものが御座居ました。雨の夜も雪の夜も通いました。

一月一三日の夜の事、雪空の夜は全く暗夜でしたので、歩行に難渋をきわめながら山の中程まで来た処私の両肩より真白な光を発し、前途がとても明るくなりはっとしました。後からの自動車のヘッドライトかとも思い、振り返りましたが、それらしいものも無く、その辺を見まわしても何も光を発するものとて御座居ません。光なれば影が写し出されるものと、ぐるりを一まわり見まわしましたが、私の影はうつし出されていないのです。大光明如来様の御守護により、本当に奇蹟を頂いたのです。これが奇蹟でなくて何でありましょう。私は此時頭の上から足の爪先まで痺れる程の感激でした。一週間二週間、私は其頃より一日のうち一時間の安静で後は起きて居れる程になりました。

一月二六日、私にとりまして一生忘れられない喜びの日で御座居ました。この日大阪の会長先生御越しになり、入信させて頂いたのでした。入信後は毎日一〇人から二〇人程浄霊させて頂き、ますます御力の尊さを覚らして頂きました。

五月八日の御面会日には熱海にお参りさせて頂き、明主様の御姿を拝し、全く感激一入なるものが御座居ました。貧しき私如き者にも、これ程の大きなお恵みをお与え下さいます光明如来様に対しては、日毎夜毎感謝で過して居ります。

尚一カ年の病院生活で一応快くなった私が、高知より島根に帰った翌日より再発致しましてより、この度島根より熱海へお参りさせて頂きましたが何の苦痛もなく、益々元気で過さして頂いて居ります。この二つの相反する事実により、一層過去の禍ちとお道の尊さをわからして頂きました。

一家の支柱でなければならぬ私も、不治の結核と心静かにあきらめをつけて居ましたが、再び現世にて親子共々に光明如来様のお役にたてて頂けます事を無上の喜びと感謝に満ちて過させて頂いて居ります。其上母のカリエスも私の入信後非常に快方に向い、今では家事のすべてをやれるようになり、 四月の二四日には息子も入信させて頂き、光明輝く昔以上の明るい家庭になりました。大光明如来様有難う御座居ました。明主様有難う御座居ました。謹んで厚く厚く御礼申し上げます。明主様有難う御座居ました。

(二六年二月一八日提出)

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神奈川県 S・M

明主様の広大なる御霊徳に依りお救い頂きまして、感激のあまり茲に拙き筆をとらせて頂きます。

私は昭和二二年の春、肋膜炎にて病床に臥す身となり、医師の言われるままに絶対安静を守り、あらゆる医療を施して三カ月程で恢復する事が出来ましたが、医師は完全に治っているから絶対に再発はしないと申しましたので安心して働いて居りますうち、二六年三月、背中から胸にかけて痛みを感じますので病院にて診断の結果、左肺に雲翳があり、又々「絶対安静にせよ」と言われ、全く絶望悲歎のどん底につき落されてしまいました。それから毎日薬よ、注射よ、という生活が始まりましたが、私一人で家計を助けている身であります故、無理しても働かない訳には参りません。病気は一向に快方に向わず、何としても早く治りたいと心は急るばかりです。その中に病気はますます進行して、とうとう職業を失ってしまったのです。 一銭の余裕もなく、 唯生きているという許りで、其苦しみ悲しみは日増しに深刻さを加えるばかり、行先は真暗などん底生活に陥ってしまいました。此様な有様に無常を感じ、何度か世を捨てたいと考えた事がありましたが、両親の事を思っては、自分の弱さに気が付き、心を取り直して強く正しく生きようと自ら励まして来ました。

ところが稼いだ姉が二六年四月の初め突然腹痛を起しO先生に御世話に成りました処、八年前に盲腸炎を氷冷にて固めたその再浄化との事にて、瀕死の重態を、五、六回の御浄霊によりお救い頂き引続き御浄霊を頂き、以前より健康にさせて頂いた喜びを私に知らせてくれました。溺れる者藁をも掴む心地そのままに、私は早速先生に御浄霊を頂きますと共に、病気とは浄化作用、心の曇り等色々と有難いお道のお話を聞かせて頂き、尚御神書を拝読させて頂きますうち、初めは信じられぬ私にも、何か信ずるものを見出して、この世に尊い神様の在しますことを知り、このお道以外自分は救われる道はないと決心致しまして只一心にお縋り申し上げて日増しに元気な身体にして頂く事が出来ました。そして六月一日には新たなる職業に就かせて頂き、此広大無辺なる大慈大悲に感謝感激あるのみでございます。有難い光明如来様が罪多き私達を闇黒無明のどん底生活から光明の世界にお引上げ下さり、六月一七日に入信をお許し頂きました。又七月には御屏風観音様を御奉斎させて頂きました。以来日毎に苦悩は去り、安心して明るい道を進む事が出来る様になりました。之こそ人生の一大歓喜であり、我等の念願せる幸福であります。顧みて過ぎし日が夢の様でございます。現在は次々と奇蹟を頂きまして、未だ入信日も浅き私如き者に迄毎日有難き御恵みの数々を賜わり、只感謝の気持で一杯でございます。明主様の御霊徳に家内一同感謝で暮させて頂いております。此御恵みの万分の一もの御恩報じをさせて頂きたく、及ばず乍ら御用をさせて頂く覚悟でございます。明主様誠に有難うございました。

(二六年一〇月一日提出)

(結核信仰療法 昭和二十七年十二月一日)