島根県 K・S
私は昭和二三年一〇月末頃より仕事の疲れの為か身体がだるく、背面肩胛骨の辺りが痛み始め、 欝々として寝たり起きたりして居りました。一二月末、医師の診断の結果、結核の疑いがあるとて五、六日注射を受けました。「此分ではどうしても療養所へ入院し充分な手当を受けた方がよい」との事でしたが、外科が専門の医師なので、有名な内科医に診断を受けました所「何心配はない一寸した風邪だから」と言われ、一〇日ばかり薬を服んで居りましたら、熱も降り気分も良くなり、医者からもお暇を頂きました。
其後家事の手伝い等していましたところ、又以前の如く身が思わしくなく熱も続くのでレントゲンにかかりましたら、肺がかなり悪化して居りました。嗚呼、とうとう本当に結核にまで進んでしまったのだなと悲しみに打ひしがれて仕舞った私は、兄妹の眼さえ冷たく感じられ、不治とされた結核という刻印に行末暗く生きる道を見失ってしまいました。医師の奨めに二四年の八月まで気胸を四〇本から続けましたが、何等変りなく針をさすのが痛いのみでした。 もう此上は神仏にお縋りする外ないと決心していたところ、 此お道の奇蹟的治病力を知らされ、八月の中旬I先生が教修会に御来町の節に御浄霊を受けましたところ、次第次第に気持よく此分ならば必ず治るとの確信がもてました。先生方からも懇々と「気胸を四〇本からしているのだし、余程家中がお道を真剣に信仰される様に」と申され、母も即時に入信させて頂き、次々と兄弟達も入信し、日々御浄霊を受けて居りました。其後激しい御浄化もなく、九月中旬には光明如来様をお祀りさせて頂き、部屋を浄霊所に使って頂き乍ら、先生のお出でになる度に御浄霊を受けました。早や一カ月経つや経たずの内に、掃除や子守りなどあれこれと立働いても一向疲れもせず、先生方も驚かれました位に色艶よく肥えてまいり、自分乍らも生きる事の幸福をヒシヒシと感じ、明るさが体中漲るのでした。一一月にはお許しを得て、待ちに待ったお守様を頂き、今日では何時、 誰が結核だったのだろうかと家内揃って打笑い、喜びの日を過して居ります。もう大八車へ荷物を積んで曳く事も出来るし、家事一切のきりもりは早朝より私が一人で受持って居ります。本当に働けば働く程健康を増すような今日で御座います。有難う御座居ます。
明主様、光明如来様の大愛に感泣し、I先生やS先生の御親切につくす言葉もございません。
此上は唯お道の為に一生懸命働かせて頂きます。
(二六年六月七日提出)
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新潟県 Y・Y
肺結核で死の宣告を受けた私達姉妹が偉大なる御神徳によって救われし歓びを御報告させて頂きます。
私の実家では昭和一六年三月弟が肺結核で亡くなりました。其後昭和一九年一一月、母が又医者だ薬よとあらゆる手当の甲斐もなく六十有余年の生涯を畢りました。医師の診断書によると死亡原因は肺結核とのこと故、この弟や母の死を見せられた私は、肺結核は全く恐ろしい伝染病であり、如何に医師の治療、薬石を以てしても到底治し得ぬ病気であり、癒らぬ病気だと強く思い込んでしまいました。それと同時に一寸咳が出ましてもすぐ胸の方に神経を集中させるようになり、はたで見ますと恐怖症のようであったでしょう。現に私は恐怖症以上の細心の注意を払って、この魔病と闘ったのでした。
併し凡ゆる予防、注意の網の目を潜り、遂にその魔病は私に襲いかかって参りました。丁度母の死後一年程で肩の凝りを感じ始め背中の痛みまで覚え、危いと思うのも束の間、恰も堰を破った奔流の如く目に見えて病は進み、幾月目かには人様から影が薄くなったなどと蔭口を言われる程になってしまいました。主人の戦死後でもありました。その頃の淋しさは死の谷へ、自分では勿論落ちまいと努力し乍ら一歩一歩と引込まれて行くような気持でした。このままで行けば私の運命は推して知るべしです。だが神様はお見捨て下さらなかったのです。思えは慄然とする運命からお救い下さったのが光明如来様だったのです。
其頃すでに入信されていた小学校時代からの幼な友達であったKさんがお見えになり神様のお話を聞かせて下さいましたが、一面医者だ薬だとあれ程手を尽しても死んで行った母や弟の事を思い出しますと、 とても信じられなかったのですが、又一面では医者や薬とあれ程尽しても死んでゆき、今私もあれほど細心の注意を払い予防したに拘わらず、その病に犯されていては、後に残された途は、神仏にお縋りする一手しかないのではないかとも思い随分迷いましたが、幼な友達のKさんの熱心さ及び以前助産婦の教育を受けた方が、信仰によって病気を癒して下さると言われるには確信があっての事に違いないと考え、 その日から御浄霊をお願致しました。
一週間、一〇日と経つうちに、私の身体がお言葉通りに変化して参りました。成程これならば事実が示す通りなので、如何に方法が原始的でありましょうとも迷信的でありましょうが信ぜざるを得なくなりました。そして次第に身体が良くなって参りまして、その偉大な御神力に感歎し、遂に私も二二年五月入信さして戴くようにまでなりました。もう此時は既に病気は恐ろしいものという観念は全く無くなり、病気とは浄化作用であるという観念と変り有難く浄化を受けさせられ、ここに至って病気というものに対し絶対な安心感が出て、正に死から生へ暗黒から光明へ、地獄から天国へと一八〇度の人生観の大転換を与えて頂きました。 何故これ程素晴しい御力御教えが人に判らないのでしょうか。私はこの感激をそのまま世間の人に伝え、病に呻吟しつつある多くの方々にお知らせして、私と同じ感激に浸り得る事を祈りつつ、毎日多くの方々を御浄霊させて頂いております。其後は適度の浄化をいただき、床に臥す事は度々ございましたが、その都度元気になり、今では殆んど病床に就く事などなくなりました。健康体の時ほど結構な事はございません。
私が入信さして戴きました年の一〇月、今度は末の妹(当時二二歳)が、新潟の〇〇病院で、右の肺が腐り左も大分悪いと言われたと申し呼吸も苦しそうに泣き込みましたので、早速その日から教会の先生にお願する事に致しました。病院では右の肺が腐ったと言われた妹が一日一日と快方に向いました。そして同年一二月入信させて頂き、其後度々浄化致し、其度毎に元気になり、翌年五月には御浄霊のお手伝をさせて頂くようになりました。
もし病気は浄化作用なりという有難い御教えがなかったら如何だったでしょうか。医者だ薬だ栄養だとあせり乍ら、母や弟と同様今頃は生きておられなかったのでございましょう。御蔭様で此偉大な御力で、 楽々と救って頂きました。 今は妹と共に元気に明るい日を過させて頂いております。
死の宣告を受けた罪多き身に、尊い地上天国建設のお手伝まで許して頂き、此世に生れて初めて味あわせて頂きました身の幸福を心から感謝させて戴いております。
明主様、まことに有難うございました。
(二六年八月一六日提出)
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宮崎県 K・S
私は若い頃より仏教信仰が好きで、都城方面に開かれている仏法の法話会の会長までつとめ、暇ある毎にお寺詣りをし、お坊さんの説教を聞き、ただそれ一つを楽しみとして暮していました。
当時長男S、妻N、孫七名で一〇名の家族でありました。Sは幼時より病弱な子で昭和一八年頃には病気の問屋のようで、あらゆる手当の甲斐もなく肺結核とまでなりました。妻Nは主人の病を一日も早く癒さんと懸命な看護を続けていましたが、二二年一月頃より急に肺結核となり、一カ月足らずの間に養生の甲斐なくSに先立ち他界致しました。続いてSも六月七名の子供を残して他界しました。親無し子となった七名の孫を見る時、六三歳老の身の私は、後の事が思われ絶望の幾日を過したか知れません。末孫Mは生後六カ月の乳呑み子なのですが都合のいい事には女中のYさんが母親代りとして養育をしてくれましたので、只今では兄弟中一番元気で、早六歳となりました。老の身の私も、勇気を出して若返った気持で、一家を守って居りました。金に大した不自由はない家でしたが、病神は吾が一家を狙い、長女A(二一歳)は、親譲りの肺病で、医薬の養生かなわずして親の後を追い他界してしまいました。一年中に三人の葬式をする、こんな家は二軒とはありません。一人が死ねば一人が又病む、そして死という工合で、又も三女(八歳)がカリエスになり、一カ年の休校願いして信仰も医薬も無駄とは知りながら、仕方なく医者通いを続けました。日増しに悪化する一方、又死なせる事かと思い、毎日毎晩可愛さのため幾度涙したか知れません。
其時二四年一〇月、病神の巣なる吾が一家に大慈大悲の光明如来様の救いの御手が差のべられました。あの日の嬉しかった事は筆舌に表わす事は出来ません。それは市内O町のT先生が来られ救世教の事に就いて話し、 又自分も孫のAと同月頃、医師より肺結核の診断を受け、一カ月も生命はないと医師より申されていたものが、死ぬると申されていた一カ月後には、光明如来様のお蔭にて歩行すら出来るようになりました。「それは母上がC教会のR先生から入信させて頂き毎日二回の浄霊にての賜です。私も歩行が出来るようになりましたからには、早く入信して各地の病める方々を救わして戴こうと意を決して、C教会F出張所の例祭の時お守を戴き、こうして人救いをしているのです」と一部始終の事を話して下さいました。そして引続き申される事には「我々救世教の教えは行が先で言が後ですから、行いとしての浄霊をさせて下さい。私が立派な体験者ですから」と申され、寝たままの三女Uの体に向って浄霊を始められました。四〇分位した時、今迄足が延びなかったのが大分延びた奇蹟にはびっくりし開いた口がふさがりません。
その時先生が、これが救世教の御利益即行ですよと申されました。此偉大な御利益をみた私の胸中に密かに浮んだものがありました。それは此救いの教えを早く知っておったならばSもNもAも死なずにすんだものをと思ったら、いい知れず熱い涙が胸の奥よりこみ上げてきたのでした。其事を先生に伝えました処、先生が「如何に良い事でも知らせる者が居てこそ知る。そして喜ぶ方が増えるのです。誰でもお守を胸にかけ、手を翳す事だけで不幸が幸福になる。即ち病める者へ全快の喜び、 又幸福を与える神様の代理が出来るのです。どんな人でも出来るたやすい業で痛さもみせず元気にする事が出来るではありませんか。法話会の皆様方の前では失礼かも知れませんが、此教えこそ真の救いではないでしょうか」と心の底からのお話に感極まり胸一ぱいになり、YさんがE中教会会長B先生より二四年一〇月一八日市外B村にてお守を戴き、一変して一家が明るくなり、Uも其後私達二人の浄霊にて日増しに快方に向い今は大元気で通学する身とならせて戴きました。感謝感激身にしみて早速光明如来様を御奉斎さして戴き、それから一服の薬も用いずいよいよ病神も光明如来様に降参したとみえ家族一同ビンピンして暮しております。今迄も此有難い救の教えを知らなかったならば、おそらく一家全滅の所まで行っていると思います。
老いの身の私ではありますが、若返った気持でお道の発展の為に手伝わせて戴いております。私の隠居家に建造しておりました家をP教会としてR先生に使って頂き、昨年四月二六日には会長B先生御足労のもと大光明如来様の御奉斎をさせて戴き、Yは教会のお守り役をさせて戴き、R先生始め諸先生との誠心こめられし御指導の許、二人揃うて地上天国建設の為に努力させて戴いております。
(二六年九月五日提出)
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新潟県 K・S
転禍為福、今静かに瞑目して過去五年を振返る時、切として此感慨を深くするのであります。思いを昭和二一年五月に返せば風邪の拗れと思って医者へ行ったのが初まりで、急性肋膜炎の宣告に仰天し、悲歎と絶望の底へつき落されたのです。三カ月に余る絶対安静で足腰も立たぬまでに衰弱したものの注射と養生で一時はどうやら小康を得たのであります。ヤレヤレと思ったのも束の間、冬の寒さと共に又も微熱、胸痛等の不快と不安が加わるばかりです。唯物医学を絶対のものと信じ切っていたその頃ですから、又も医大だ名医だ、やれ高貴薬とあさってはみたものの遂に肋骨を削りとる手術を行ったのであります。病名は肋膜周囲膿瘍で、肋骨カリエス類似のものです。正味五時間を要した大手術でその苦痛たるや正に死の苦しみとはあの事でしょうか。そして三カ月の入院治療の結果は、益々悪化衰弱あるのみです。医師も「も早、用うる薬もなく、ただ前の三、四倍にもなるが、再手術を行ってみるより外なし」と言うのです。それも治って廃人同様、今や全く見捨てられた事を知りました。初めて知る薬と医学の頼りなさ、本気になって自殺まで考えました。
その頃親戚のMさんが再手術を聞きつけ、本教の事を熱心に知らして下さったのであります。無断で病院を抜け出し、リヤカーでA支部を訪れ、Y先生の静かな、しかも溢れるばかりの慈愛の一言一句に再び病院には戻らぬ決心をしたのであります。
思えば最後の一線、危ない瀬戸際で御救いの御縁を賜わったのでした。医者の都合で延びていた手術、あの日病院を逃げ出さなかったらその日医大へ送られる事になったのでした。不思議な神の仕組の偉大さに、ただひれ伏す次第であります。先ず母が教修を受け先生の所へ通う一方、ひたすら浄霊につとめ二カ月後には私自身も教修を受くるまでに快復したのでありますが、体力の付くのを待ったが如く二三年の冬より本格的再浄化に入ったのでした。今から考えると、本当に理想的排毒だったんですが、其頃は意志の弱さと苦しさから、恐れ多い話ですが幾度となく疑心を生じ、その度毎に先生方の御鞭達により、漸く曲りなりにも今日の境遇に到った次第であります。
それは胸一面蜂の巣のような排膿、脱脂綿にガーゼ、その上におしめまであてて、それまで滲透して一日、二、三回交換の止むない程です。今日尚僅かながらその痕を残している有様です。 加うるに下痢、 それは又一日十数回、 便所通いの毎日が夏より翌春まで、更に加えて痰咳です。一日二回は痰壺を替える程の量です。それが秋より翌五、六月頃までつづきました。 又微熱、 又微熱、 又微熱、 不快、食欲不振、腹痛、胸痛、衰弱、文字通り生き乍らの地獄とでも申しましょうか、医者に見せないので病名こそつきませんが、肺結核に腸結核、腹膜にカリエスが一ぺんに出たようなものです。こんな苦しい事が正に一カ年あまり、近所家内の者は勿論私自身も今はこれ迄の天命とあきらめたのでした。
此間ともすれば厭世的自暴自棄になる私を始終親にも勝る愛情に包み、反対して皮肉を言う父に対しても嫌な顔もせず、御浄霊にお出で下され、はげまし慰め、私の手を引いて来て下さったT先生こそ、 救世主様のお使いであったと感謝の言葉もありません。
それから仕事に疲れた体に献身的看護と浄霊につとめ最後迄私の生命をあきらめなかった妻への感謝、私のような罪多き者をお救い下さる神の仕組の偉大さ有難さに恐懼せずにはおれません。
又此間、父の反対にもかかわらず、無事光明如来様、御屏風観音様をお祀りする事も出来得、又今日御浄力の御守様を拝受しました。かくて五年にわたる業病も二五年の春と共に薄紙をはぐが如くに快復して、今や全く病前にまさる健康体になりつつあり、来春よりの自然耕作にお道への御奉仕に、希望に胸ふくらませています。
私がお道に御縁を頂いたのは、とりも直さず病気がとりもつ縁であった訳で、本教に御縁がなかったとしたら私はどうなっていた事でしょう。あまりにも判然とした運命の岐路でありました。私自身に止まらず、それからそれへと不幸は不幸を生んだ事でしょう。家庭の悲劇、妻子の不幸、想像しただけでも深刻なものがあります。禍を転じて福を下し賜うた救世主様、ほんとに有難うございました。
(二六年六月二七日提出)
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大分県 A・M
昭和二二年一二月、肺結核と診断の結果安静を命ぜられ、間もなく急性肺炎を起し、更に湿性肋膜炎を併発しましたが、引続いての安静の結果、二三年九月漸く起居の練習を始める事を許されました。ところが一〇月末感冒のために再び悪化、その後絶対安静を続ける事約一カ年、二四年九月に又起居運動を始めることが出来ました。約半年間極めて徐々に好転を続けましたが、昨年三月又も悪化し、運動停止を言い渡されました。こうした結核患者によくある経過を辿り乍ら、次第に体は衰弱を加え、精神的にも痛めつけられて、気力は衰えるばかり、この頃より医学の貧弱さがつくづくと身に沁みて判り始めた気が致します。
話は更にさかのぼりますが、生来虚弱だった私は、一七歳の春(昭和一五年)より、極めて悪性の慢性胃腸病にかかり、医薬、温泉、電気治療と種々の方法を試みましたが、何れも決定的効果なく、一進一退の状態で数年を過し、体はだるく、頭は重く、仕事はおっくうで、その上性質は暗くなってゆく気さえ致しました。その矢先肺結核を発病、前記の経過を辿ったのであります。
結核に必要とされた安静は、それでなくとも極めて不調な胃腸を徹底的衰弱へ導き、一昨年春頃からは加速度的に体力が弱まってゆくし、之以上の安静持続は、遂には消化不能による衰弱死を招く危険さえ考えられ、かといって湿性肋膜後では気胸も出来ぬとのこと手術などは更に及ばず、医学的処置は殆んど塞がれた感さえ致しました。私の体質病状は医学の常道を悉くこばんだと申しましょうか。かと言って何ら自ら進んでどうすることも出来ませず、進退谷まった状態で、煩悶の日々を送り迎え致しました。
併し慈悲深き神は、こうした状態に呻吟する私を憐れと思い給われたのでございましょうか。五月上旬、はからずも救いの御手を私の前に垂れさせられました。と申しますのは知人であるH君の尊父が見えられ、光明如来様の御力により、すべての病気が救われること、H君も亦結核より救われし事、その他の実例を引いて私にも試みる様すすめられましたが、何分常識はずれの事とて誰もが初めに考える様な事を考え、さして注意もそそぎませんでした。
その後一カ月程してH君自身が見えられ、かくかくして救われ、現在この通りの体になったということを詳しく説明されたのであります。
薬の効なきことは自からの体験により十分知り尽し、何時にても止める心構えはあった事ですし、今としては勿体ない事乍ら試みる積りで、七月初めよりH君の浄霊を受けた訳でした。併し驚くべきは、私にとっては毎年最も苦しかった真夏の候であり乍ら、血色、肉付き、共に益して行ったことでの時間を延長してゆくことが出来ました。こうして御浄霊の偉力を体験することにより、自から救われるのだという自信と、無限の感謝が起きて参ったのでした。そうして遂には八月二〇日入信さして頂き、九月五日にはH君の家の御祭に、一里位のしかも坂道を交えた道路を、自転車で詣らせて頂いたのです。この時はとてもとても言葉で表せない実に複雑なよろこびの気持でした。
その後下痢、風邪等の形による軽い浄化を頂きながらぐんぐんと実に急速度に健康に向い、初めて自転車で外出した日より、僅か五〇日間、浄霊をうける事約四カ月間にして、さしもの衰弱も殆んど快復し、食物も次々と制限を解かれ、しかも美味しく食べられるし、これで過去一〇年間の病床生活より完全に救われることが出来る喜びに満ちています。
過去の経験よりして、こんなにも素晴しい速度で慢性の病気が処理されるとは思いも及ばなかったところでありまして、それにつけても神様の限りなき御慈悲、偉大なる御力、明主様の尊さ及びお導き頂く諸先生方の御徳に対し、心からなる感謝を捧げさせて頂きます。更には又激しき病気の苦痛に呻吟し、又は光明を失って人生に煩悶を抱く様な人々を、一日も早く一人でも多く、神の御光に浴して頂く様、微力乍ら諸先生の御手伝いをさせて頂き度い念願です。有難う御座居ました。
(二六年一月六日提出)
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福岡県 F・M
私は昭和二五年一〇月一七日入信さして頂きました。幼い頃よりあまり病など患った事もなく、学校卒業後ずーっと会社勤めをしていましたが、昨年三月会社の定期の健康診断を受けました処「胸の方が大分弱っているようだから、無理な事はしないように」と注意をされました。其頃より体の工合が普通の時とちがって全体が何となくだるく、食欲もおち、咳、胸の痛み、微熱等の症状が現われて参りましたので、間違いなく結核の初期と力を落し、其後、日をあらためて診断を受けレントゲンにて撮影した結果、右肺が既に三分の二も侵されているから、 絶対安静の上人工気胸をしなければならないと医師より申し伝えられました。其時の私の気持は、急に此世の中が真暗になった感じが致しました。
それより気胸療法を続けていますと、気胸した部分が常時針を刺しているように痛みが加わり、体の方もだんだんこわばって来て、四、五日は寝返りも出来ない事がありましたので、そのような苦痛から逃れたい為に、あれやこれやといろいろ療法を試みましたが、これといって安心出来る療法も見当らず、 却って病状は悪化するばかりとなりました。
全快の見込もなく暗い寂しい気持で幾日かを過していました。この上は神仏の御加護により、精神的苦痛だけでも御救いして頂こうと決心しました。丁度私の知人が救世教信者なので、私の気持を聞いていろいろお道のお話をして御親切にすすめて下され、早速O教会へお詣りして御浄霊をいただきますと、 今迄の胸の痛みは一度にとれて、 体が軽くなりました。それからは御浄霊を頂く度毎に快方に向い、二〇日後頃は色艶も良くなって参り、いくら立働きを重ねても苦痛を感ずる事がなくなって参りました。病院の方も一週間毎に診察を受ける度毎に快方に向っているとの事、その都度私の喜びは如何ばかりでしょうか。病院の方に体の工合も以前のようになりましたから、会社の勤めの許しを願いましたが、此病気は悪化する人は多くても治る者は少いので、一時治っても再発するおそれがあるから、一、二カ月位で絶対治る病気でないから、一年間休養して安静にするようにと、なかなか許して下さいませんでした。教会へお詣りして先生方に御相談申し上げましたら、神様によくお願いすれば、必ずいいようにして下さるからと仰言られますので、明主様によく御念じ申し上げまして一週間後に診療所へ参りますと、なんの事なく許していただけました。之で以前の如く会社の友達と一緒に働く事が出来ました。本当に嬉しい事でした。之も皆神様のおかげと感謝の念で一杯です。一カ月後にはレントゲン写真も肺の曇りもとれて健康を元の如くにとり戻す事が出来ました。入信後漸く一カ月を経ましたが、此一カ月を顧みますと実に感慨無量でございます。
明主様の御守護の下に、御教えに従い諸先生の御導きによって正しい人生を一歩一歩と踏ませて頂きました事を厚く感謝すると共に、御礼を申し述べさせて頂きます。
此上は明主様に万分の一でも御恩返しさせて頂くと共に、私のように全快の喜びを、他の不幸な者に頒ち与えたく、益々お道に精進致したいと決心しております。
本当に有難うございました。
(二六年一二月五日提出)
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鹿児島県 T・S
絶大なる大光明如来様の御恵によくし、此度危い一命を戴きまして誠に有難う御座いました。遅れ馳せ乍ら拙き筆を執りまして御守護賜わりました事を御報告さして戴きます。
私は昭和二一年八月頃より、何だか体がだるく、盗汗をかき、食欲も無く、毎日の仕事にも精進出来ませんでしたので心配致し、或る病院へ行き、医師の診察を受けました。処が世にもいまわしき恐るべき肺浸潤との診断が下りまして本当に失望落胆致しました。それからと申しますものは医薬は勿論、民間治療も一心不乱五カ年ばかり続けて参りました。処が御蔭にて大変癒くなりましたので最初はぼつぽつと農事に従事致し、 其の後約一カ年位は一生懸命に働ける様になりましたのです。併し此喜びも束の間で御座いました。ふとした事から一昨年二月初旬、不注意のため再び風邪を引き、それが因で又前回の如き身体に成りました。斯して病床に就き、時折はふらふらとして居りました処、次第に快方に向ってまいりましたので、昨年一一月三日の秋季運動会を見に行きました処、午後になりなんだか体の工合が何時もと違い悪くなって来ましたので、早速帰宅床に就きました。夜に入り九時頃だったと思います。生れて初めて見、又初めての喀血を致しました。それから次々と数回に亘り怖い程の大喀血を致したのです。それからと申しますもの、頭は重くて起きるにも起きられず、約二カ月近く臥床せる儘で御座いました。現在世間に於きましては結核にて喀血でも致しましたなれば、それは大変な事で御座います。又私自身当時と致しましては本当に心配致して居りました。併し如何ともなす術もなく、唯今日出来得る限りの対症療法を施し続けて参りましたのであります。其の上家庭的にも、私達一家には子供も恵まれて居りませず、病状悪化するにつれ、自分乍ら因縁の深さを感じるのみにて何等楽しみもなく、又何の希望も見出す事すら出来ませず、此世の有るもの総てが暗黒に思われ、全く前途にも光明の一筋とてもなく、絶望の日々を過して居りました処に、当時私の知人が宮崎より来鹿、市内にて布教をして居らっしゃるY先生と偶然に御逢い致し、色々と御道の事をお聞きになられますと共に、私の当時の病状経過等を御話し下さいました上、御依頼申し上げて下さいましたとの事、先生に於かれましても教世多端な折にも拘らず遠方の処昨年一二月二〇日突然私宅に御来訪下さいまして病気の原因御浄霊の原理等いとも懇ろに御解説下さいました。尚「救世教に於ては今日迄の他宗教と異り、 御互に信じ合わなくとも結構です。又貴方が如何に疑って居られても構いませんよ。如何に有難い御説教を聞かされましても、現在の貴女の病が救われ元気にならなければ何にもならないではないですか。処が我救世教に於ては前述の如くです。 只こうして手を翳して(浄霊の恰好)すれば快くなるのですよ。先ず論より証拠と言うでは有りませんか。私達は言行一致です。如何に私が涙ながらに御話致したとて初めての貴方達には理解できませんから、兎に角御浄霊を受けて見なさい。それが一番早分りですよ」と方は今日迄参って居ります事とて、如何に先生の御話を聞きましても疑念さらず、御まじない(手を翳す)ではないか、又は祈祷ではないかと思いました。それならば仏様に申し訳ないと(浄土真宗にては、まじない祈祷等は自力にていけない)本当にまよって居りました。併し先生の誠よりほとばしる御話に感動させられまして、到頭御浄霊を戴いて見様という気持になり、半信半疑にて浄霊を戴きました処、たった一回の御浄霊にて頭がすーっと軽くなると共に胸部の苦痛もうすらぎました。それから続けて二、三回御浄霊を戴きました処、持ち上げられぬ様に重かった頭もすっかり軽くなり、胸部の苦痛もほとんど取れ、共に重苦しかった気分もすーっとなり、とても明るくなって参りました。尚一カ年ばかり不眠続きで御座いましたのですが、最初の夜より熟睡する様になりました。此時の喜び、到底筆舌には言い表わす事も出来ません。
光明如来様に御縋りすると共に、今日迄のあらゆる対症療法は放棄致し、全く一八〇度の転換で御座いました。只管に大光明如来様に御縋り申し上げ、毎日御浄霊を戴きました処、日一日と快方に向ってまいり、心身共に救われて行きます喜び、 本当に有難く、 大光明如来様の偉大なる御力に只々感謝感激致すのみで御座います。
有難くも罪深き私如き者迄も御守護を頂き、本年二月一五日に宮崎のK先生から種々有難き御話をお聞きしますと共に、御道に入信さして頂き、四月には御屏風観音様も御迎え致し、御奉斎さして戴きまして、日々御守護を戴いて居ります。過去を顧みまするに、臥床した儘起きる事すら出来得ませんでした私が、有難くも尊き明主様の御霊徳、広大無辺なる大光明如来様の御守護を頂き、入信以来床より離れる事が出来、屋外へも出て徘徊する様になり、三月下旬には自宅より一里余りあります処へ、而も急な坂道を山越迄して御道の為に隣村迄行かして戴き、更に去る四月二八日には別府のO会長先生が来鹿なされ、T出張所で御祭が有りましたときは、Tの駅から三里もあります処を歩いて御詣り致しました。此日は丁度運悪く途中より雨が降り出し、其の上傘はなく、道も悪く、素足にて谷川に添った近道を行きました。元気な人達でも大変疲れるという上り下りの坂道を三、四時間一度も休みませず、無事御詣りさして戴く事が出来ました。而も難路を一度も休まず歩み続けたにもかかわらず、心身共に変化なく元気であった事など、夢の様でございます。
当時は世間の人々は、私の事を死なんばかりに言って居りましたが、最近益々健康に成って参ります私を見て皆んな吃驚して居ります。
入信以来一日とて床に就く事とてなく、日毎に元気を回復して行きます事、之が御守護でなくて何でございましょうか。本当に筆舌には尽せませず、只々有難く、胸にこみ上げて来るものがあります。
明主様、 誠に有難うございました。
(二六年九月二七日提出)
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宮崎県 Y・S
私は昭和二五年肺病全快と共に入信さして戴きました歓びを御礼申し上げます。
顧みれば二四年八月少々の腰痛でT町のH病院に行きました処、一本の注射ですぐ回復しましたら、医者は此薬がよく効いたらリウマチではないかと申します。それから冬になり再び痛みが出て来て注射をしましたが治らず、又九年前に産後に肋膜炎になった事がありましたので、何だか気になりレントゲンを撮りました。「後三年とない命であった、よい時に来た。早速安静にして食養生をせよ」と言われました。左胸に気胸を三回しましたが、次第に不安はつのり、医者は右胸を守らねばと今度は右胸に再度の気胸を致しました。引続き五三回も致しましたが、何の効果もなく、早く元気になりたいと思えば思う程情ない憂鬱な日を送っていました。弟も結核で入院していて「気胸が出来れば幸福ですよ」との手紙を見る毎に、アー之でよいのかと思うばかりでした。
九月の初め頃、一青年が新聞を売りに来ました。其時まで世界救世教がどんな宗教であるかとも知らず、まあ気安めに読んでみようと戴き、 病気全快の体験談を拝見致しました。判らず乍らもN分教会に御詣り致しました。今まで見聞きした事もない御浄霊というものを疑い乍ら戴きますと、肩のこりがとれ、気持が楽になり次の日も御詣りさして戴くことが出来ますのも何か神様の御引合せと思いました。弟からは、「迷信邪教にまどわされて、現代の科学の進歩している時、宗教で病気が治るなんていう事はない」と手紙が来るし、夫は「自分の言う事は全然聞かない」と言い、親は実家に引取るとの話まで持上りました。 周囲の者の反対で心も落付かず、又病院に行きましたら「息切れがするでしょう」と言われ「別に異状はないが」との事でしたが不安は止まらず、レントゲンを撮りましたら、右肺が悪いと申します。前には左が悪いと言われましたがと言いますと、そうかねと言ったままで、医者の言葉も信用出来ない。科学が進歩していると言い乍ら、此様な誤りがあるかと不安と反感を抱き、漸く御浄霊の御蔭でこんなによくなった事が判りました。其後は出張して頂いて次第にズンズン良くなり、僅か三日間の御教修とやらを戴き自他共に神様の御力を頂く事が出来た事が判り、今では夫も「弟にも早く御浄霊を頂くように話してやれ」と口添えする位に信用して参りました。今では旅行しても何ともなく、自然農法の作物を見せて戴き、自ら作っては、誠に広大無辺な神様の御力に感謝せずには居られません。有難う御座います。
(二六年二月五日提出)
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愛媛県 N・Y
あの山この山と、鶯の声のひびいてくるのどかな小春日和の頃、病床に泣き暮した過ぎし日を想い起しては、救われしこの身の有難さにただただ感泣している私でございます。
其頃を顧みすれば恐ろしも闇路杖なく彷ひし吾の御讃歌そのまま、思えば長い苦難の年月を、よくぞ暮して来たものだとしみじみ昔が偲ばれます。顧みれば昭和二三年七月、母の病に昼夜の別なく看護をつづけていた私が、母が恢復するにつれ、異様な疲労を感じ、午後になれば微熱を発するようになりました。それ迄唯物医学を信ずる私は、もはや一種の恐怖心をもち保健所の診察を受けた処、レントゲン写真の結果、ほんの少し胸に曇りがあるようだから絶対安静をするように申されました。ああその一言、もしやと意識しながらも余りにひどい心の打撃に目の前は真暗になって了いました。その日より一切の栄養剤からお灸あの注射この薬と、出来得る限りの養生を続けながら、三カ月、半年と、次第に苦痛は増すばかりでございました。ついにどうした訳か一日に何十回となく上半身火炎の中へ飛込んだような熱さを感じ、こうした身体の苦しみの増すにつれ、 底知れぬ淵に沈んでゆく自分の心をどうする術もありませんでした。お医者様はといえば「とうに治っているんだが」と何時も同じお言葉、併し治っていて何故こんなに苦しい筈がありましょう。とうとう頼みに思っていた医師への信頼感は失せて、果しない侘しさにおそわれて了いました。若しやいつまでも、と思った時の私の心、病む身が悲しく寂しく、涙の止まるひまがございません。言い知れぬ孤独寂莫の中に、あてもなく神仏に一心にお祈り致しておりました。ああその時の心境、もう一度どうしても元気になりたい。今迄何一つ人のお役に立つ事もせずしてどうして空しく死んでいけようか。 ただ一度元気な身体になり、心の美しい人間になって、苦労かける母や姉の為に、又苦しんで居られる気の毒な人の為に、如何なる事でもして少しでもお役に立ちたい。きっと元気にならなくては、この世に生れた甲斐がないと、来る日も来る日も一心に思いつめては、ままならぬ身体に枕をぬらしていました。そのうちに願がかなって、神は未だ見捨て給わず慈愛の御手は差のばされました。同村で救世教信徒のAさん、隣村のお友達M先生から温かい愛のこもったお話を承わり偉大なる光明如来様の御力に驚歎し、初めは疑いをもちましたが、一切の薬剤を捨てて、御浄霊をお受けするようになりました。それから二月、三月と御親切に御世話下さり、次第に心の暗雲晴れて感謝感激に満ち溢れ、身体は日々快方に向って参りました。
丁度九月下旬Kさんの御家に行かせて頂き、光明如来様の御前に頭を下げさして頂いた時の表現出来ない嬉しい気持、それより御浄霊受ける事一〇日間、めっきり丈夫にさせて頂き、忘れもしません昭和二四年一〇月五日、運命の一大転換として、有難い御守を受けさして頂きました。その日より日毎日毎に健康人と変り、あの病床生活の日を思い浮べるにつけ、あまりの有難さ嬉しさに涙する私でございます。
今では母も姉も入信さしていただき、澄みきった秋空の如き心にならせて頂いて明るい希望にもえ、この広大無辺なる光明如来様の大恩恵の万分の一なりとも御報い致したく、世に苦しみなやめる人の一人でも多く御救いいただける事を心より念じ、一生懸命地上天国建設の御聖業に御手伝させて頂きとう御座います。
明主様有難う御座います。とうてい筆舌に現わす事の出来ないこの感激の涙を拙文をもちまして御報告さしていただきます。
(二六年一月一三日提出)
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兵庫県 C・I
御守護の御礼謹みて御報告申し上げます。昭和二四年一一月初め右肺浸潤で空洞迄有り全快迄は一年半位ではむずかしいとの診断で、 勤めを休み絶対安静せよと言われるまま家にて療養をして居り、其の間気胸療法をして時折ビタミン注射して日を送って居りましたが、一向に熱も引かず、三七度より三八度を上下して居りました。 一一月も過ぎ早や一二月、来る日来る日も天井を眺め、細い俸給で栄養を摂らねばならず、一家六人迫り来る正月を控え病の床にふせねばならない不安の明け暮れ全く病貧争の生活でした。一二月中旬、ふと病気見舞に来てくれた知人(未入信)から「手を翳して病気が治る信仰が有るけれど」と奨められました。何の事やらさっぱり解らず、でもひょっとしたらと思う気持も有り、おぼれる者藁をも掴むのたとえの如く、一二月二〇日信者のFさんに来て戴きましたが、初めて見る手を翳す動作、こんな事で病気が治るのかと、疑問やら不思議やらで、今から考えれば勿体ない事を考えたものかと深く御詫び申し上げます次第です。
浄霊して下さるFさんが両肺浸潤で御蔭を戴き、時折農事をして居る姿を見て、きっと此信仰で治して戴けるものと思い、毎日毎日御浄霊を戴いて居りました。
併し信仰の道も日浅きが為、 半信半疑の気持をどうする事も出来ず、一週間に一回か、一〇日に一回位気胸を受け、又浄霊も戴いて居りました。
其の頃が全く迷いに迷った事は事実でした。絶対信仰の道を進まして戴けるか、それとも医療で行くべきかの二筋道でした。併し体はいつの日か熱も下り、体も軽くなり、お道の話を聞くにつけ体温計も不用となりましたけれど、一月中頃迄に気胸を一五本打って了いました。愈々一月末より不動の信念を固め、此お道に縋り切り、N教会のT先生の御指導を仰ぐ事になり、二月一二日当時I大教会でS先生より御守を授けて戴き、入信の第一歩を踏ませて戴く事になりました。
浄霊を受けて居る間の浄化としては一晩下痢が夜中より始まり、翌朝迄に丁度一〇回行った事が有り、自分でも驚く程の瓦斯の浄化と痰の浄化が長い間続きました。
併し一旦此お道に縋り切っても職務上の関係で診断書を書いて貰わねば休んで居る事が出来ない為、一〇日に一回位医師の診断を受けました。中途で気胸を断った為医師の機嫌を損ね「気胸を続けなくてどうして治るんだ」とひどく叱られた事は一回ならず再三でしたがとうとう私に根ん負け、どうでもなれという気持になったのか、あまり気にかけなくなりました。又二月末頃透視にかかった処「肋膜に水が溜って居る」との事で「此次に来た時は水を取らねばいけない」といわれ、又心配が増え、どうして此水が取れるだろうかと心配しながら病院から帰って来ました。早速T先生におたずねした処、先生は「肋膜の水は浄霊をして居れば盗汗か小水となって出るから心配いりませんよ」と何気なく言われました。
其言葉を信じ、毎日毎日浄霊を続けて次の一〇日目病院へ行った処、 又透視にかからねばなりません。 心配する胸の中、其内自分の番が来た。 暗室の中で一〇秒二〇秒すると医師が「おや」と言うと私の名前を二度迄も聞き直し「水が無いね、どうしたんだろう」と医師は驚いて居りましたが、其医師よりも私の驚きの方が遥かに大きく、 嬉しくて嬉しくてたまらない気持でした。生まれて初て偉大なる浄霊の有難さを身をもって体験する事が出来ました。
愈々三月末には御屏風観音様を御祀りさして戴き、間もなく妻も御守を授けて戴き、光明一家となりました。光陰は矢の如しとか、 早五月の声を聞き、 青葉若葉の六月初め、 レントゲン写真を撮った処、意外にも全快の域に達して居る事が判りました。そして医師より「明日から勤めに出ても宜ろしい」と言われた時は実に驚き、之程早く治癒して戴いた明主様の御加護に感謝申し上げ、H先生、T先生始めF様、N様方々の親身も及ばぬ御指導が身にしみ、終生忘れる事の出来ない思い出の一日でした。
そして七月三〇日光明如来様を御奉斎さして戴きました。病にたおれし当時を想い浮べ医薬の絶えた事のない家でしたが、今では遠い夢の如く、毎日心配なく一家六人二年間を無医薬で過さして戴いて居ります。又当時此偉大なる御救の力を知らせて戴きませんでしたら、私は苦しみの儘生か死かどうなって居た事で御座いましょう。
此事を想います時、偉大なる此御神業をあらゆる病苦の為に苦しんで居られる方々に御知らせさせて戴きまして、一日も早く明主様が唱えられて居られます病貧争絶無の世界即ち地上天国の来たらん事を御念じ申し上げさせて戴きますと共に、偉大なる御神業の万分の一なりとも御手伝い出来ますれば無上の光栄と存し、精進させて戴いて居ります。
観音の御救ひなくば吾は今底なき沼に悩みつづけむ
明主様誠に有難う御座います。
拙文では御座いますが心より感謝申し上げる次第であります。
(二七年一月七日提出)
(結核信仰療法 昭和二十七年十二月一日)