(付録)全快者100人の手記 91~100

鹿児島県 H・T

今日明るい気持で日々楽しく過させて頂いています事が夢のような気が致します。一昨年の今頃は生か死かと絶望の中に、暗い彷いの日々で御座いました。

其頃を顧みすれば恐ろしも闇路杖なく彷ひし吾

私の一家は多年病人の絶間なく、医者よ薬よと遍路し祈祷や民間療法など人から勧められる毎に頼ってみてもその甲斐なく、長男、次男、三男、姉と次々に亡くなりました。皆二十二、三歳の年配で御座いました。二人の新盆を一緒にした年もありました。長姉は肺結核の宣告を受けて三年間医師の言う通り絶対安静を守っていました。その中に一人の妹は海に溺れて帰らぬ旅路へ、次いで姉も他界致しました。其後を追うように六人の兄弟が相次いで霊界往きとなり、両親はもとより、私と弟も何時往くやら判らず、一家は火の消えたように笑声一つない暗いジメジメした家庭となって行きました。姉の葬儀の直後、 親の勧めで医者に診せましたら肺浸潤との事で、私は奈落へ突き落されたようで生きている気持はしませんでした。実に呪われた運命とはいえ、弟もその時は注射を受けていたのです。近所では私の家庭を嘲笑うのも当然です。両親は何と聞くので御座いましょう。私の診断も親に打明ける勇気もありません。自暴自棄の気持で、いっそ助からぬなら、体の続くまで働き抜こうと職場に勤めました。今は頼るべきものもなく、見離された身に神も仏もあるものかと思うようになりました。

丁度其時、 友達から神霊療法を詳しく御聞きする機会を与えられました。光明如来様の無限の御慈悲と大愛の御手と御声として聞く事が出来ました。早速二四年四月一一日入信させて頂き、後は晴々とした気持と爽やかな私の五体、従って私の病気に対する気持と考え方も変化して苦しみはなくなり、光明如来様も御祀りさせて頂きました。今では一家揃って健康になり、親戚の人々は驚いています。

前途に光明を見出した時の嬉しさ、私は勿論家族一同の喜びは一通りではありませんでした。其年一月には御奉仕をお許し下さいまして、神様の御恩に御酬いさせて頂くことになりました。御神業の万分の一にでも御用させて頂きます事を心から御礼申し上げます。世の中には病に悩み抜いておられる人々が幾人居られるか想像もつきません。私は此歓喜と幸福とを皆様と共に頂きたいと念願しております。有難う御座います。

(二六年一一月一日提出)

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大分県 H・A

謹みて御礼申し上げます。大慈大悲の御救いにより有難き御道に御導きを頂き、只一途に光明如来様にお縋りし、朝は希望に燃え、夕に感謝の日々を送らせて戴いて居ります。私が入信させて頂き、 光明如来様にお縋りし大変な幸福者に成らせて戴いた喜びの一端を御報告させて頂きます。

私は二五年三月二一日に入信させて戴いた者で御座います。私の母が病床に伏する身と成ったのは、昭和一二年でした。其後父は男の手にて六人の子供を養育しつつ、母の看病に努めて呉れました。其間父は何とかして全快さすべく、医者の言われる様に安静、栄養、大気等自然療法を行い、又他人様の言われる良いと言う事はほとんど行い、又種々と信仰も致しましたが、一進一退病勢は募るばかりで御座いました。募る病勢の前には為す術を知らず、貧しき故に行き届いた看病も出来ず、涙の明暮が続きました。

父は太り行く子供の姿を見る事が唯一の楽しみの様でした。そして常に父からは「悲しみに溺れてはいけない、悲しみに打勝て」と励まされ、又励まし合いました。此苦しさの中に私達兄弟もどうやら一人前に成らせて頂き、苦しさの中に、希望を抱き一生懸命働かせて戴いて居りました。斯くして十余年は過ぎ去り、昭和二三年の初め頃より身体がとてもだるくなり、背中が少し張る様になったので医師の診断を受けた処、 悄然として家に帰りました。嗚呼もう俺は駄目だ、此時の精神的な痛手は経験者のみ知る悲惨なものです。私が発病して三カ月目に、母は私の病気を心配しながら他界しました。其の後医者の一言一句を忠実に守って参りましたが更に効果なく、一進一退の日が続きました。処が一二月に腹膜炎を併発し、いよいよ絶対安静をする身となりました。朝起きても夜寝ても重い頭、痛い背中、不愉快な腹、来る日も来る日も涙の連続で御座居ました。自分自身は、何の為に生れて来たのか、苦しむ為に生れて来たのか、全くわかりませんでした。親兄弟妹の愛情で盛られた食膳でさえ箸は進まず、絶対安静の毎日が続きました。母が病床に伏す身となって十余年間病気続き故に思う様に薬代も払えませんでしたが、それでも経済の許す限り、医者よ薬よと手を尽して戴きましたが、おとろえ行く身体をどうする事も出来ませんでした。全く生ける屍とは自分の事でした。

此頃より医者でも薬でも治らぬものかと、半ば諦める様になりました。それでも何んとかして治りたいと生きる欲望を捨てる事は出来ませんでした。寂しい辛い日々を過して居た私に、我が家に御恵の光明がさし始めました。兄が信徒の方々から色々と御道の御話を聞き、お前も御縋りしてはとすすめられましたが、母も随分信仰もしたけれど、結局御利益を受け得なかった事を思い出し、又信仰によって病気が治るなど考えられず、全く耳を傾けませんでした。其当時の私は医者に頼るより他に道を知らなかったのです。しかし神は私を見捨て給わず、御救いの手をさしのばして下さいました。兄がT先生より病気の真因、浄化、御力の偉大さ等有難い御話を戴き、私と父に説明してくれました。そして父が二月二六日の御祭に御詣りさせて戴き、御力の偉大さ、救世の道の尊い事等悟らせて戴き、T先生に御浄霊を御願い致しました。

二月二七日早速先生を御迎えし、先生より御浄霊により御利益を受けた人々の御話を承り、浄霊を御願い致しました処、先生は手を翳す丈です、 此んな事で病気が治るのだろうかと何んだか物足りなさを感じ乍ら、御浄霊をして戴いて居りますと、体が温まり、何か異様な感じが致しました。浄霊を終り先生は帰られる時に「今朝起きた時と明朝起きた時の気持を比べて見なさい」と言って帰られました。一回の御浄霊で夜が楽に眠れ、尿量が増し、気持の良い朝を迎える事が出来ました。二回目には「散髪をしなさい、三回目には入浴もしてよい」と言われ全く不安でしたが、凡てを神に任せて髪も刈り、入浴もさせて戴きましたが、何の事もありません。二、三回の御浄霊で数日前の自分の生活とは全く別人の様に変りました。あまりの変り方に、家人も心配して、そんな事をしては、と随分叱りました。四回の御浄霊を受け、三月二一日御祭に御詣りさせていただきました。嗚呼何という不思議な事でしょう。絶対安静をしていた病人が、狭い別小屋に身体を横たえて居た自分が、地獄のどん底をさまよって居た自分が、僅か三、四回の御浄霊により、二里の道を自転車に乗って御詣りさせて戴きました。全く夢の様な気持が致します。全く奇蹟とは此様な事を言うのでしょうか。此事実の前に今まで頼りに頼った医学も根本的に間違って居る事がわかりました。唯物的な教育を受けてきた私が、御守護を知り真の信仰の道に入れたのも病気をした為、病気は神の賜わった御恵みで御座居ます。同病で悩める人々、又底無き沼に喘いで居る人々を一人でも多く救うべく諸先生方の御指導のもと、微力乍ら御手伝いさせて戴いて居ます。

理想世界建設の御神業の一端に御奉仕させて戴く事が出来ましたら此上もなく幸福の至りです。筆舌に尽し得ぬ御守護を厚く御礼申し上げます。

(二六年一月一八日提出)

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富山県 H・T

私は終戦迄三カ年北支に応召、防空壕掘りに忠節の誠を捧げていた或日、スコップ作業が馬鹿に胸に堪えるので、軍医の診断の結果肺患と言われてしまいました。間もなく入院加療の生活が始まった訳ですが、 割合動ける私は戦友の枕元をいろいろと世話もしていましたが、ブラブラ病は追々と悪化し、その内終戦ともなり一等傷復員として昭和二〇年八月二〇日に帰宅しました。本当は富山で途中下車、そのまま国立富山病院に入院の命令だったので、帰宅九日目に仕方なく同病院に出頭してみた処「敗戦国とはいえ命令を馬鹿にするな」という受付係のお叱りを受け「A療養所へでも行け」と言われたが、入院生活に懲りているので兎に角断って又帰宅してしまいました。丁度妻の妹に戦地仕込みの看護婦がいて、幸い近くの農協病院からカルシウム、葡萄糖、ビタミン何とかを注射に来て呉れるので、半年余りもそんなことをやった或時、二、三日続いて酷い悪寒があったので、それを機会に慌てて止めました。

暫くしてやむなく村の民生委員の方の御世話になり、健康保険医の出張を受けて療養を続けました。何しろ起きていると背中が痛いので床に寝たきりの生ける屍、天井の節穴を数える気力もなくなってしまいました。毎日午後になると三時頃から約二時間微熱が出て、翌朝になると三時頃から三〇分ほど血痰を出しました。年よりの保険医は日に二度は欠かさず来てくれますし、大変苦しい時には夜中でも厭わず来てくれるので、それだけが心丈夫でありましたが、自分としては薬石更に効無しで来る日も来る日も悲嘆の明け暮れ、望みとてもはや打砕かれてしまい、死ぬに死なれぬ悩みの様は「地獄」という言葉では言い足りないのでありました。

二三年一〇月の此時、当地を御布教のF先生がヒョッコリ御訪れ下さいました。そして救いの御話も頂きましたが、どうもまだ気が進まなかったので御願いも致さず、その時はとうとう御断りしてしまいました。何しろ大黒柱が不治の病と来ては妻もジッとしている訳にはゆかず、鮮魚を提げては日に二回でも三回でも富山へ通うのでありました。或日血痰の出る時刻に何となく咽喉が熱くなって来たかと思うと、もう真赤な血を吐きました。何度も何度もあびせかけて出るものは、膿やら腐肉やら鮮血やらで、忽ち洗面器に一杯となって溢れます。翌日もその又翌日も時刻になると、咽喉もとが燃えて来て洗面器にこぼれる程喀血するのです。四日目もその時刻に今や遅しと待っていたのでしたが、この日はありませんでした。都合洗面器に三杯の喀血で終ったのですが、吃驚りした為か尚更体は弱り力はゲッソリ落ちました。併し次の瞬間気持が何となく楽で、少しばかりやれやれと息をつくことが出来ました。けれどもやっぱり背が痛いことおびただしいのです。ここで医者はこう申しました。最初洗面器に一杯喀血した時、保険医には内々で内科医にも診断してもらったのです。するとその内科医は「これは性質の良い結核で、出るだけ出てしまえば後は早く楽になるから、出易い様にして出しなさい」というのです。そして胸にあててある砂袋を見て 何を当ててみたって変らないから、取っときなさい」といって帰りました。保険医は反対で、喀血すると体が弱るから出すなと言って胸に水枕や砂袋を当てさせました。そして喀血が無くなった四日目から塩水をうんと塩辛くして煮たのを絶えず薬飲みで服ませるのでありました。少々楽な時は上体を起しているのですが、 直ぐ背が痛くなって来るので寝てしまいます。

そんなことを繰り返している内に二四年六月一七日の春祭になりました。その日F先生が再び御訪ね下されまして「少しでも楽になることですから」と申されるので、空っぽな気持で御浄霊を受けました。忽ち何となく好いし、翌日から薬も服まぬことにし、三日目になると背の痛みがとれてなくなりましたので「御浄霊にかかって行けば間違いない」ということに心がきまり、それから欠かさず御浄霊を受けておりますと、次第に身動きが軽くなり、翌月の二三日には床を離れて六里も隔るC町へ御守様を拝受に出かけ得たことは、本当に夢知らぬ変り方であります。当日はN様宅大光明如来様御奉斎の為、会長先生が御霊祭に御臨席になりました。いろいろと救いの御道のことを拝聴致しまして入信させていただきましたことの嬉しさは、どうしても包み隠すことは出来ませんでした。本当に前の年の秋祭の際、F先生の御言葉に従わせていただかなかったことが悔まれてなりません。申訳のないことでありました。

入信一カ月の八月二〇日、私の家の屋根を葺きかえました。三日間で葺き終りましたが最初縄をなう藁を槌で打っても背は痛くないし、縄をなっても痛くないし、今度は屋根へ上って屋根葺しても痛みはない、近所の手伝人は「そんな無理して後で又寝るなよ」と笑いました。F先生は雨の日も風の日も御浄霊においでになりました。二日目の屋根葺の休憩の時、近所の人達が西瓜を食べている処へ先生がおいでになって早速と御浄霊をいただきました。見ている人達は浄霊を笑うのです。その人達は未だに御浄霊の何たるかを知ろうとしてくれません。兎に角三日間の屋根葺は終りましたが、寝ることもなく別状無いので、その時から床を上げてしまいました。それからは真夏の昼寝もせず、先生のおっしゃる通り薪を切ってみたり、割ってもみたり、妻が内職に出かけて昼ともなれば「おつゆ」のこしらえもやっている内に知らず識らずに順調に力がついて、毎日毎日が若芽の様に伸びてゆく歓喜で一杯でありました。その間にJ支部のS先生と岐阜のG先生にもおいで願いまして、懇ろに御浄霊と御導を頂きました。

この年の一二月妻も入信致しました。会長先生からも「暫く教会へ御浄霊を頂きに通う様に」との御言葉をいただき、早速と二五年の春から三カ月間了教会へ通いました。この間に何回となく喀血も致しましたが、S先生から御浄霊を頂くと直ぐ楽になりますので、別段何ともなく、布教をしながら全部をおまかせしてのんびりした気持で其日を送るのでありました。教会で御浄霊を受けての帰り、見渡す限りの銀世界のまぶしい反射光を浴びながら、額に汗して病める友に浄霊をしに行く私の幸福を何にたとえ得ましょうか。二五年の四月一二日には千手観音様を御奉斎し、翌五月一七日には光明如来様を御奉斎させて頂きました。命も捨てたどん底に望みも絶えて苦悩する屍の身に、此日の訪れる事を誰か想像し得たでしょうか。思えば諸先生方は大いなる神の使徒であられることであります。自らに体験して此身此魂の救われたるを想うに付け、何とも申し上げられない不思議であります。讃えても讃え尽せぬ御恵に、今又その御神体を御迎え申すにあたり、身に余る光栄に先走るは感涙ばかりで御座います。

御守護によりまして、此私にも輝く再起の日が訪れ、二五年九月一八日から元の製材所へ復帰し、休みなく元気で働いております。世の浄化も強くなったのか、二六年の春に入り、私も時々突然喀血することがありますが、其都度支部でも御浄霊を頂くので、何事もなくまた平常通り作業に精を出して居ります。浄化を頂く毎に益々体もシッカリするので、浄化作用が如何に真理であるかは、地上天国建設の礎石として御手伝いさせていただいて初めて知りました。実に比ぶるものなき尊い教であります。同病に悩む多くの人達の一日も早く目醒められんことを希わずにはいられません。

絶大な御守護を頂きまして有難うございました。厚く厚く御礼申し上げ奉ります。

(二六年四月一一日提出)

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神奈川県 N・S

月日の流れるのは早いもので、私が入信させて頂きましてより四年余りになりました今日、楽しい生活を送らせて頂けるのも偏に明主様の偉大なる御守護と感謝の日々を過させて頂いて居ります。

私が発病致しましたのは、昭和八年二一歳の春でした。当時私は看護婦をして居りましたので、病気に就ては一般の人以上の注意をして居りましたにも不拘、ふとした事から風邪を引き幾日も熱が下らず背中一面が板の様に感ぜられ、食欲は日増に減退し、一日に僅か茶碗二杯位の状態でした。

こんな容態では若しや肺病ではないか知らと恐る恐る専門医の診断を受けました処、レントゲン写真と血沈検査の結果、右肺尖カタルと診断され、絶対安静と言われた時は、若しやと予期はして居たものの目の前が急に真暗になり谷底に突落された様な気持になり、これで私の一生もメチャメチャかと悲しさと口惜しさに只泣けて来る許りでした。

職業柄肺尖カタルとはどんな病気か?肺結核を体裁よく表現する言葉に過ぎないのは充分承知している私、如何なる医療も之を完全に全治する事の不可能なるを知っている故に、どうしてこんな病気になったのかと煩悶し、自宅療養と成ってからも万一兄弟に感染でもしたらと、自宅の一室に籠り、私の使った食器類は全部煮沸消毒をし、文字通りの肺結核患者になって終いました。それからは医師の言う儘に、凡ゆる注射と投薬を忠実に守って来ました。過去の職業からも医学を絶対に信じて居た私も、何とかして治り度い一心に、新薬から新薬をと漁りつつも一向に快方に向わず、相変らず背中一面板を張った様で益々食欲は減退し、食事と聞く事すら腹立たしさを感ずる程で、一日に茶碗一杯の御飯と一合の牛乳が漸くの状態で何時も重い荷物を背負わされている感じで、暗い気持の毎日を二年余りも続けました。或る日叔母が来て「肺病に良いお灸があるから行ってみては」と言われた時も、医学を信じ切って居た私はそんな民間療法等を否定しましたが、熱心な叔母の奨めに一緒に清水市に行き灸を受けました。一時的かそれからは割合気分も良く熱も出ないままに、お灸を据え乍ら医師の診察を受けつつ注射を主とした医療を続けて来ました。

発病後三年程してより大分気分もよくなったのでレントゲン検診を受けた処「大分良く成ったから働いてもよい」との事で早速病院勤務をする事になりましたが、三年間の絶対安静と静養療法の為、勤務を始めるや仕事が面白く愉快に働きましたが、それも束の間又々微熱が出始めました。今に成って考えれば微熱の出るのが結果に於て良い事なのに、只医学許りを信頼し切って居た私は、結核は恐しいものこわいものと植付けられた潜在意識の為、僅か許りの微熱にもすっかり恐怖を感じ、直ぐレントゲンの検査を受けました処、左右の肋膜が再発したと言われ又々安静を言渡されました。

其度毎に注射よ薬よと日に何本となく痛い思いと幾度となく美味しくもない薬を服みましたが、はかばかしくなく、風邪を引くと又直ぐ肋膜の再発と診断され恐怖の毎日を過して来ました。或る日私が余り神経を使うので「そんなに心配するなら一度日本のレントゲンの大家に診て貰いなさい」と言われ、病院の紹介状を持って東京の某結核療養所の診察を受けました処「貴方の体は丁度亀裂の入った茶碗の様なもので、 無理をすると長持ちが出来ない故、微熱が出ない程度の労働なればよい」と言われ「三〇歳を過ぎてからでないと結婚してはいけない」と又「結婚をしても子供を産む事は出来ない」とまで言われました。其時の私の気持は言葉では言い表わす事が出来ませんでした。

どうせこんな弱い体では長く生きる事が出来ない。幾ら注射をしても薬を服んでも世間の人の様な健康には成れないものなら何も手当をせず居ようかと思いつつも生の執着に自分で自分の気持がどうしても諦め切れず、何とかして健康になりたい気持で一杯でした。

再発再発との診断を受けたのでバケツ一杯の水を持つ事も出来ず、一三年間を過ぎて終いました。昭和二二年五月友人から「光明如来様でどんな病気をも治して頂けるから一応行って見たら」と薦められましたが、医学の虜に成っている私はどうしても信ずる事が出来ず「そんな事で治るなら医者や薬は不要でしょう」と言いました処「医者や薬はいらないのだ」と言われ、益々変に思い乍ら手を翳した丈で病気が治るならそんな簡単な事はない。一三年間医学に頼って治らない病気が掌を翳しただけで病気が治るものなら一度行ってみようと思い、早速本部に行って色々とお話を聞かせて頂きましたが、全部を信ずる事は出来ませんでした。併し人々が良いと言う事は何でもやってみようと疑いつつも早速入信させて頂きました。其の後本部で御浄霊をして頂き、帰ろうと思いました処、足がすくんで、目まいがして一歩も歩けなく成って終いました。

一緒に行った方が心配してもう一度御浄霊をして頂きましょうと言われ、再度御浄霊をして頂きました処、今迄の足のすくみも目まいもすっかり治り、元気に帰宅する事が出来ました。家を出る時は元気で行ったのに僅かの時間、本部に居て御浄霊をして頂いたら一時歩けなくなり又直ぐ歩けて、何か不思議な事があると思い乍ら帰宅致し、食事も美味しく頂き、寝ようと思いました処、又々足が立たなく成りました。「早速友人の御浄霊を頂き大変楽になりましたが、心配なのでM先生に御願い致しました処、不思議な程楽になり、色々と御浄化の御話しを聞き薬毒の恐しさと、神様の御光の有難さを聞かせて頂き、初めて医者も薬も不要な事が判然と判りました。

それから二日置位に出張して御浄霊を頂きました処、メキメキと元気になり顔色もよくなり、軽い仕事をしても疲れる事を忘れる様になりました。二三年八月腹膜炎の御浄化を戴きましたが僅か一週間で完全に良くなりました。この病気も医学に頼れば入院手当をしても殆んど全快して退院する人がない事は過去の体験に依って知って居りますので、この浄霊の力の素晴らしさに一層の驚異と信頼の念を深めて参りました。医学では、当分結婚は疎か妊娠する事は絶対に危険だと特に注意をされていた私が、其後引続いて御浄霊を頂き見違える様な元気になって、二三年四月結婚して現在妊娠七カ月となり、軈て生れ来る子供の事を想像して感謝と歓びに浸りつつ毎日御神業の一端に御使い頂いて居ります。嘗て私が医学は絶対のものだと信じて安静から静養に専念して居りました当時、時折訪れた湯屋の人々も完全に健康になった現在の私の体を見られ只々驚きの目を瞠って居られます。

この理論と実際が完全に一致した浄霊の力を私の体験を通して証明して、不治の病だと諦めつつも煩悶と焦燥に日々呻吟し続けて居られるのであろう世の多くの人々に、神様は大愛そのものであることをお知らせし一日も早く一人でも多くの人々が、私の様に救われて人生の本当の歓びに浸られん事を願いつつ、拙なきペンもて在りの儘を記させて頂きました。

此の体験を綴りつつも過去の絶望感から今日の歓びと御恵みを御与え頂いた明主様の大愛に滂沱としてふり落ちる感謝の涙を止める術もありません。

医学こそ絶対のものと信じ切って居りました当時の心境を顧みます時に

其頃を顧みすれば恐ろしも闇路杖なく彷ひし吾の御讃歌そのままの絶望の私であったものが今御道に救われて、

観音の御救ひなくば吾は今底なき沼に悩みつづけむの感謝の日々に成らせて頂きました今日、希わくば大愛の御手に依りて

ゆきくれて道に迷へる小羊を救はせ玉ふ観音の御手の御讃歌そのままに全人類が御光に浴して救われて行く日の一日も早からん事をお祈り致しつつ拙なき文にて御礼申し上げます。

(二六年四月一五日提出)

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埼玉県 I・N

有難い光明如来様の偉大なる御神力に感泣拙き筆ながら、御報告申し上げます。

私は昨年一二月二七日K先生より教修を受けました。以前十年余看護婦として臨床看護の生活を続けて来ました。其間、病気の問屋と言われる程あらゆる病魔に侵され、薬、注射を何年となく愛用していましただけに、家庭医学等は専門家を驚かすほど研究していましたが、病気は全治とまでいかず、唯進行性でなくなっただけのまま家庭の人となってしまいました。

処が此度はからずも長男の病気の時、受持のO先生がお見舞に来て下さいまして種々と救世教のお話をして下さいましたので、早速御浄霊を頂きましたら、それまで高熱だったのが急に解熱し、食物も流動物だったのをお話により患者の要求のままに何でも上げました処、悪化するどころか急に元気が出て起きて遊びたいと言うようになりました。あまりの不思議さに早速入信さして頂きました。

教修を終った翌々日より、私が戴きました御浄化の経過を御報告申し上げます。

最初猛烈な悪寒より始まり、胸部から腰部全身痛と変り、身動きならぬ日が二昼夜も続き、此間、O先生より数回の御浄霊を受けました。処が、二日目頃より左胸部(肺尖部)から、気味わるくラッセルが聴診器なしに聞えるようになったかと思うと、予期はしていましたが驚く程の大喀血を二度致しました。入信以前ならばどんなに驚きあわてた事でしょう。一、二カ月は絶対安静、やれ注射、氷等と家人のあわてる様が思い出されます。只今ではお守様をいただいている身故、安心しておられます。喀血後の気持の快感は十何年来味わった事がございません。この有難い御浄化によって、御神力の偉大さを悟らして頂きました。

病気で苦しむ世の多くの皆様、この御浄霊の尊さ、御神力の有難さは、とうてい医学では解決出来るものではありません。この偉大なる御神力と喜びを一人でも多くの人に知って頂きたく、拙い走書きを致した次第でございます。

(二六年四月八日提出)

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東京都 T・Y

病気一つしたことのない私が、昭和一七年音楽学校卒業の喜びも束の間、医者より右肺尖カタル、左肋膜浸潤と言い渡され、失望落胆、一日も早く全快するようにと三人の医者の言葉通り、薬よ、注射よ、栄養よ、と言われる事は皆守り、安静にしながら一進一退の状態でじりじり衰弱し、二年後には医者も首をかしげるようになり、楽しい娘盛りも床の中で終ってしまうのかと、自分程の不幸な者はないと暢気な性質もひがみきり、何も彼も悪い方にしか考えられずにいた時、この救世教をすすめられましたが「そんな迷信で」とてんで馬鹿にし耳を傾けませんでしたが、母が治してやりたい一心で「お守」を受けて参りましたが、それでも頑固に反対しつづけていましたが、暑さの折から身のおき処のない程の辛さに、試しにと浄霊をしてもらった処、非常に工合がいいので、半信半疑のまま玉川の東京別院につれて行ってもらい一週間もたたない間にすっかり元気になり、さすがに頑固な私も御浄霊の絶対の有難さを信ぜざるを得なくなりました。帝大で診察の結果、かかりつけの医学博士もびっくりする程の快復で、レントゲンでの曇りもすっかりなくなり、其後空襲、終戦後の多難な時も、人一倍元気でどんどん買出しにでも平気で行けるようになりました。

以来六年、家人知人と浄霊しては、その度に絶対の信仰は深まり、家中病気の心配もなくなり、明るく朗らかになって、これこそ明主様の御教えの通り、病貧争のない地上天国ともいうべき日々を送っています。その後結婚して後、医学では一時治っても御産は気をつけねばならず、絶えず再発の心配をしなければならない処なのに昨年少しの不安もなく、九五〇匁もある男の子を授かり、而も三〇過ぎての初産にもかかわらず、産婆も驚く程の安産で、その後病気一つせず、平均をはるかに上廻る発育ぶり、お誕生前に歩けそうな様子に皆びっくりしています。

これもひとえに光明如来様の有難い御守護のおかげと、深く深く感謝し、一人でも多くの人にこの御教えと御力を知って頂きたいと日夜念願しています。

(二六年二月一日提出)

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兵庫県 K・Y

一日の仕事を終えて、今私は机の前に坐して無心に煙草をくゆらせている。紫の煙、それがもやもやと上っては消えている。何か満ち足りた想い、幸福感、そして過去の様々の想い出が胸中を去来する。よくも今日迄生きて来たものだ、いやよくもこんなに丈夫になったものだ。小児結核と烙印を捺された私が父の任地北海道を離れて、湘南茅ヶ崎の林間学校を養護児童として卒業したまま、八年間の空白時代を病床に過して仕舞った過去の苦悩の跡を顧みる時、本当に心からそう思わざるを得ない。総ゆる医療に失望して後は良いといわれる民間療法はもとより、あらゆる信仰に縋ってはまた遂に医学に帰らざるを得なかった悲しさ、想い起せば病状悪化して遂に呼吸困難に陥った時、今はJ中教会長たるM先生が、丁度隣家に居られたが、 勿論先生も此御道を知るに由なく、私の為に会社の水の電気分解工場の発生酸素の工業用のボンべから、吸入では間に合わぬとて室内に放出して下さった事も、現在の先生と私を顧みていつも笑うに笑えぬ大ナンセンスとなっている。併しその時の私の苦悩は本当に真剣そのものであった。自分の命はあといくらもつであろうか。此儘で行けば最期は近い、唯一つしかない此命が無くなって終ったらどうなるか。それから先は大宇宙から此自分という者は永劫に消えて仕舞うのであろうか。又死後の生活が果してあるものか。此問題は当時の私としては何うしても解決せずには居られない重大問題であった。苦しい死後の生活が有り得ないとしたら、私は堪え難い寂寥感に打ちのめされて仕舞うのである。何の為すところもなく、只親の厄介になり、心配をかけ僅か二〇年の生涯を終えねばならぬとしたら、私の人生の価値何処にありやである。

此問題は如何なる宗教の本を漁っても、夜も寝ないで考えても、何うしても解決はつかないのである。生命とは、かくも儚いものであろうか。今迄多くの人々が同じ様に考え、同じ様に悩んで来た常に古くしてまた新しい問題である。然も誰一人として決定的な解決を与えて呉れたものはない。否解決を指示して呉れた人はあっても、確たる信ずべき根拠を与えて呉れた者はなかったのである。如何に巧妙にそれが説かれてあっても、信ずべき根拠が与えられなかったならば、それは空中の楼閣に等しい……いやそんな悩みも或意味では病人の贅沢であった。いよいよ病状が悪化し最悪の事態に立到った時は肉体の苦痛にさいなまれて、只生きたい意欲の権化として苦悩にのた打って居たのである。

丁度そんな時であった。計らずも御浄霊を頂いたのはそうして病は浄化なりという御神示を否応もなく、我身を以て体験するにつれ、私は神を信ぜざるを得なくなった。そして夢の様に身体が恢復して行くにつれ、学問に対する情熱は遂に二年間を費して、専門学校検定試験を突破せしめ、またK高等工業の課程を終えしめ、遂に完全なる健康人として社会に立たしめたのである。また私の奇蹟が実業人たりしM中教会長先生の今日あるを得さしめる動機となり、またM先生の求道者としての熱意と真剣さが、また私をして布教の第一線に立たしむるに至ったのである。

私の肉体が癒されて行くにつれ、本教の説く処はまた前述の人間の生命の尊厳さと永久性、生死の謎迄も初めて明瞭に解決して、私の魂は開眼されたのである。私が物心付いて以来、病床にあって求め続けて来た問題が、病床を離れると共に解決され、歓喜に浸ったあの時の事は、私の今後永久に忘れる事は出来まい。

結核に悩める者は来れ、人生最大の苦悩の一つたる結核を解決する鍵は、只、救世主明主様の御手にのみあるのである。明主様を信じ仰ぎ、現在の病苦の中に希望と光明を見出し得る人こそ、誠に幸いなる哉と言わなければならない。

(二六年四月八日提出)

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東京都 S・S

今更思い出すさえも恐ろしい事でした。昭和二五年春から失業と病苦に追詰められ、生活苦のどん底にあえぐ最中、三歳になる双生児の女児が、急性肺炎と余病で五十日余りも苦しみぬいて、とうとうあの世とやらへ旅立ちました。その悲しみもうせぬ中に、残る小児が変な様子なので、今度は死なしては大変だと近所の医師を敬遠して、都立の大病院にて院長先生の診断を受けました処が、意外にも「小児結核で重態だ、絶対安静だ、外に方法はない」と言われ、死の宣告同様な気持でした。でもストレプトマイシンの出始めた頃とて「此の子にマイシンを注射しては如何でしょうか」と伺いましたら「希望でしたら射ちもしますが、大体四〇本位射たないと結果は判らない。併しその間でも生命の保証は出来かねる」との事で、幼い児の頭をなでて悲嘆の涙に暮れ、失職中の夫にも相談して前後の措置に当惑いたして居りました処、はからずも七月のある日、F支部のA先生に御浄霊を頂く機縁に恵まれまして、毎日二回宛熱心な御浄霊を頂き、約一週間位で流石の高熱も平常に復しまして、キャンデーを欲しがる様になり、食欲も付きました。一〇日目位よりは遊びに出たがる様子で、全くの元気を取戻しました。初めの中はあんなに手を翳すだけで病気がなおるのか、殊に小児結核の重態が?……その中に益々元気になり、三〇日目頃には近所の小児と無邪気にケンカをする迄になりました。やっと助かったとの確信を得ました。それにつけても「手を翳すだけの御浄霊で、此重病が治る程の御利益があるのでしたら何事でも御守護が頂けるものでしょうか」と伺いましたら「神様は正しい御願いなら叶えて下さる」との事に、余り欲深い事とは思いましたが、夫の就職を支部にお詣りする毎にお願いいたしました処、かねて希望していた職場に就職する事が出来まして、長男も夫の職場に就職する様になり、御守護の広大無辺なるのに驚きまして、同年八月入信させて頂き、只今は夫婦揃って感謝と幸福の生活に入りました。 それにつけても罪多き私達が、お救の手に救われた御慈悲を胸底にて感泣しながら、入信後日浅き身を以て毎日お道の為に悩める方々のために懸命の努力を捧げて居ります。病児の命拾いのみならず、就職の喜び、此大いなる御守護有難う御座いました。

明主様有難う御座いました。

(二六年九月二一日提出)

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福岡県 M・M

昭和二四年七月入信させて戴いた者で御座います。主人は私より前二三年一〇月に入信させて戴き、二四年正月には御神体も奉斎させて戴き、それより今日迄数知れぬ御守護を頂き、毎日有難い日を過させて戴いている者で御座います。入信当時の私は、世間一般に言う健康な身体で入信致しましたわけです(今ではそれが擬似健康であった事を判らせて戴きましたが)。と申しますのは、入信前二〇年の夏、終戦直後湿性肋膜炎を病み、三カ月余り入院療養し、退院後一年程自宅療養して医師より大体快くなった様に言われ、又自分でも別段何ともない様になったので、時が経つに従って完全によくなったものと思い込んで過ごして来ましたところ、今年の五月二八日で御座いました。突然胸の奥からつき上げる様な咳と共に真赤な血が止める事もどうする事も出来ず、コンコンコン咳と共に出て来るではありませんか。私は丁度その時二階の階段を雑巾がけをしていたのですが、急に胸がむかついて血なまぐさい痰が出たのでハッと思い直に縁側にシャガミ込んで後から後から出る血痰をはいたのですが、その時ああこれが体内に溜っている薬毒、毒血の固りで、それを今神様より許されて出して頂いているのだと解らせて頂きました。

一〇分程しますと咳も止み、血痰も出なくなりましたので、自分で畠の隅を掘り、大きなスコップで一塊になった血痰を埋め、早速御神前にて母に浄霊して戴いていましたところ、近所の奥さんが用事があって来られたので階下で話をしている内に又咳込みましたので、話も早々に切上げて今度は便所に入って又暫く出させて戴きました。ところが便所まで追って来た二人の子供が(二歳と四歳)私の喀く血を見て泣き出す始末に私も困り、 二階のお祖母ちゃんを呼んで頂戴と子供に頼み、降りて来た母は初めて私の喀血を知り(初めの事は言わずに唯御浄霊をしてもらっていたのです)直ぐ後から又浄霊をして呉れました。その中二回目もおさまりましたので、早速支部へ参り、S先生に御報告して御浄霊して頂き、家に帰りまして又二、三丁ある友人の所へ用事がありましたので行きましたが、家を出ると間もなく又咳込んで血痰が出るので、初めは道端に吐き、下駄で踏み消していましたが、余り多くなるので道に吐く事も出来ず、当てていたエプロンを外してそれに一杯包みこみ、先方に行き用を済まして帰って来ました。それから母が余り心配しますので床をとり暫く休みましたが、こんなふうにして、その日は前後五回に亘り洗面器一杯位の喀血をさせて戴きました。これだけの喀血をして何一つ取乱す事なく、初めからその処置をあやまらず行動出来たのも、偏に明主様の御守護によるものと深く感謝しています。

若しこれがお道に入って居なかった場合の事を考えますと、一回目の喀血の時すでに精神的ショックで動く事も出来ず、その場に昏倒したかも知れないと思うと、実に慄然とするので御座います。又自分自身が入信していた事は勿論ですが、周囲の者、主人や母が皆入信していたのであんな浄化にも御守護頂いたのだと沁々有難く思いました。若し主人か母が入信していなかったら、あの場合無理にも病院に連れて行かれ、今頃は絶対安静、注射、手術そして或は死んで居たかも知れません。支部では先生が「暫く続けて御浄霊にいらっしゃい」と言われましたので二週間支部に通いました。初めはやはり歩くと胸に響き、電車に乗れば又その振動で胸にひびき、やっとの思いで支部に行く有様でしたが、それも日に日に快くなり、終には自転車で通われる位になりました。その間家でも食事の用意は勿論、掃除、洗濯と主婦の務めは休む事もなくする事が出来ました。今は又咳の浄化を戴き、昼となく夜となく咳が出て痰が出ますが、よくもこんなに体内に汚物が入っているものだと感心するばかりです。今の浄化も前の喀血の時の続きで、若しあの時医学の治療を受けていたならば―そう思う時、私の感謝感激は一しお増してまいるので御座います。浄化毎に元気にさせて頂く有難さに、微力乍ら地上天国建設のお役に立たせて戴く心算で働かせて頂いて居ります。明主様誠に有難うございました。重ねてあつく御礼申し上げさして戴きます。

(二六年一一月一日提出)

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岐阜県 Y・K

想い起せば五年前、胸部疾患の苦しみに、家中暗澹たる気持に喘いだ当時の事毎も、歓喜に満ち溢れた愉快な日々を送らせて頂く今では、あまりにも夢のようです。

肋膜炎治癒、再発、肺浸潤と、型の如き経過を辿り、遂に医師に見離されました。併しその頃は何とかして治りたいの一念にいろいろあせってみましたが、落つく所は結局症状の悪化、体力の衰弱でございました。医師に宣告されてから五カ月、胸部の苦しさに声すらも出せない状態で、もはや恢復の見込はなくなり、あきらめていた矢先、叔母さんのすすめでN先生の御浄霊を受け、一度に今迄の苦しみは吹飛んでしまいました。翌日再度の御浄霊でもう寝ておれなくなり、早速床上げするやら調髪するやら、気分は爽快となり、なんだかじっとしておれぬ気持にかられました。三日目からは一キロ程の所をバスで行き、約一週間で歩いて通える程日増しに丈夫になり、引続いて入信と、次々にお恵みを頂き、約二カ月でどんな無理も出来るようになり、何とお礼申し上げてよいやら言葉もなき次第でございます。有難うございました。あつく御礼申し上げます。

(二六年四月一一日提出)

(結核信仰療法 昭和二十七年十二月一日)