新潟県 O・A
私が肺結核の宣告を受けたのは昭和一一年の秋、新潟逓信診療所でした。当時N郵便局に勤めていましたが、それが為退職を余儀なくされ、それより約一〇年間療養の為の生活を送って来たところ、幸いにして御浄霊によって救われ、永年の病弱体を一掃し、現在は人も羨む健康体となり、全快後五年間は東奔西走席温まる暇なく月の半分は旅で暮し、一般人からみたら無理のし通しであるが、益々身体頑健であり、御浄霊の効果を疑う人は私を見て下さいと生証人になっています。この歓喜この感激、永年病床にあった者ならでは味わう事の出来ない喜びを味わいつつ暮しています。私は以前新潟市にA学舎という珠算塾を開いて多くの人に珠算を教えていましたので、知人も沢山いますが、皆よくもあのように健康になったものだと驚歎しています。過去を振返ってみる時、もしもお道に救われなかったならば此身はどうなっていたであろうと思うと慄然とする次第であります。肺結核の為に退職してより一人ボッチの私は僅かばかりの退職金と特症金をもらって亡母の生家へ療養の身を寄せましたが、色々の事情もあったのですが、家族に伝染するのを恐れて今度は父の生家に移りました。併しやはり同じ事で、いろいろ考えた揚句、一里位離れたY村の一隅にある水門小屋を、療養所というよりは死場所位に考えて移ったのであります。貧血の為に顔色は青白く、骨と皮ばかりに痩せた体を番人の住んでいた部屋に横たえ、俺もついにここまで生きて来たが、この先幾年生きられるか、この身体がどこまで蝕ばまれてどうなってゆくか運を天に委せるより外はない。僅かの所持金は医療費を入れて一カ年位でなくなる。それから後はどうなるか、親戚もあるが、不幸にして人の嫌う肺結核では御迷惑をかけるばかりだ、それからそれと考えてゆくうちに眠りに入ったと思うと、恐ろしい大蛇に追いかけられていくら逃げようとしても足が動かず、思わず大きな声を上げ乍ら眼がさめる、ベットリと全身に気持の悪い盗汗を掻いていた等々、病苦と悪夢の療養生活を水門小屋で一カ年位送りましたが、そのうちに○○健康法を知り、又入院の世話をしてくれる人も出て、その後少々かたまりかけて来たものか症状も治り少し太って参りました。何時までも人の世話にばかりなっていられないので、軽い仕事を求めて村の役場の書記に就職しましたが、少し仕事らしい事をすればすぐに疲労し、盗汗、血痰、微熱等々の症状が起り、毎日戦々兢々としている有様で、いろいろ考えた末療養し乍ら生活の糧を求め得る道を求めて新潟医大の研究室に就職し、働いているうちに医学に興味をもち、医師になりたい希望を持ち、知人の医師を頼って上京し、麻布のH病院に就職、助手を勤める傍ら医術を学んだり研究したりし、その間現代医学の療法は勿論、鍼灸民間療法、漢方療法、物理療法等々殆んど身を以て学理と実験に没入し、自己の健康の恢復に努めました。然し外形は或程度健康らしくなりましたが、頑固なる頭痛、便秘、消化不良、不眠、微熱、血痰に悩まされ丁度ヒビの入った茶碗を扱うようにしていなければならず、病院に居た為、その都度対症療法を施しつつどこへ行くにも鞄の中には薬ビンを入れておかなければなりませんでした。当時は大東亜戦争の最中ではあり、昭和一四年一〇月には若松歩兵二七連隊に召集になりましたが、肺結核の故を以て即日帰郷、一八年五月徴用令の際も同じく解除、一九年八月仙台東部三一部隊に召集を受けましたが、同じく即日帰郷になりましたにみても、どんな状態であったかが察せられると思います。身体がそんな状態ですから精神状態はいつも憂欝であり、悲観的消極的で怒り易く、実に心身共に吾と吾身に愛想をつかしていたのでしたが、昭和一九年五月、以前にH病院に入院していられた一患者(M氏)より御著書『結核の正体』を贈られ一読し、其瞬間今迄求めに求めていた真の治病法はこれだと小躍りし、早速上京、私をこの道の弟子にしてくれるようにM氏に頼んだのであります。M氏は「君は医学徒だから、ちょっと諒解出来ないかもしれないが、白紙になり第一歩よりやり直すつもりならば紹介してやる」とK区のS先生の処へ連れて行って頂いたのであります。一週間の教修を終え、胸にお守様をかけて頂いた時の喜びは何とも言われない感激でした。ああ俺も此御守のおかげで永年の病弱体を解決出来るし、又真の治病を安心して人に施す事が出来ると喜び勇んで帰宅、それから御道のお手伝をさして頂いている中に然毒の御浄化を頂き、漸く小康を得た頃、今度は本格的に結核症状が出て参りました。あの時の苦しさを今想い出してもゾッとする位であります。症状も少々おさまったので、箱根の明主様のお邸にお伺いさして頂き一夜宿屋に泊ってその晩より大浄化で四〇度近い熱に加うるに頻繁なる咳、それにつれて頭も割れんばかりの頭痛、胸痛、呼吸困難、特に尿閉塞の為浮腫物凄く、顔は自分の顔と思われない位に腫れ、その為に横臥すれば胸内苦しく、詮方なく周囲に蒲団を積み重ね寄りかかりになったまま一刻も横臥する事は出来ませんでした。勿論食欲は皆無であり、衰弱、疲労困憊、苦悶の為の唸り声は、夜間の如きは隣家にまで聞え、隣人は今日か明日かと私の死を想像していたそうであります。勿論医師が見たら絶望状態であったでしょう。その時何という有難い事でしょう。明主様より直接御浄霊を戴く光栄に浴したのであります。一番ひどい時は一日四回御浄霊をいただきました。御多忙の事は一般人は想像も出来ない程の御身にも拘わらず、わざわざ私如き者に御親切にお手をかけ下されたのであります。その時明主様はお傍のお方に「Oはあぶない」と仰せになられた由、後日お聞きしたにみて如何に重態であったかが想像されると思います。御浄霊を戴きましてより一日一日軽快にして戴き、さしもの重い肺結核末期の如き症状も、明主様の三週間の御浄霊により跡形もなく全快させて頂きました(今であれば到底望めませんが、当時御治療時代だった事もありますが、破格の光栄に浴した次第であります)。
具に危機一髪という処をお救い戴いたのであります。その間御浄霊中排出された喀痰の量は少な目にみて一日五合は確かに出ました。三週間としてその量一斗有余、如何に人間の体内には痰が多くあるものかとただ驚くほどで、特に睾丸が腫れて、御勿体ない話ですが、明主様が睾丸を御浄霊下さると呼吸が出来ない位痰が排出されるのであります。手をお引きになればピタリと咳は止みお手をおかざしになれば物凄い咳と共に、黄色い薬臭い痰がドンドン出るのであります。
その当時お道に入れて頂いていたとは言いながら、過去の医学的知識が邪魔して芯から理解する事は出来なかった。所謂病原は体内にある毒素であり、病気とは浄化作用である事を、現在自分が苦しんでいる症状は、すべて自分が服んだり注射したりした薬毒が体内に膿に変化している為、それが排出されんとしての症状だという事をハッキリ身を以て悟らせて頂きました。今静かに往時を追憶する時、ただただ明主様の御高恩に感謝感激の涙の滂沱と頬に伝うを禁じ得ないのであります。ああこの感涙こそ、未来永劫到底忘れる事の出来ないものでございます。
罪深き身をも今は許されて
御恵み豊かに生くる嬉しさ
身も魂も捧げまつりて御教への
道ひとすじに吾は行かなむ
あな楽し心は澄みて身は軽し
ただひたむきにつとめはげまむ
これはその時の感激を拙い歌に綴ったものであります。古いOという男は死んでしまったのだ、そして新しく神様より御使命を戴いた新しいOが生れたのだ、これからの一日一日は神様の御用をする為に命があるのだ、その感激と覚悟をシッカと胸に抱きしめつつ御使命に進まして頂いています。私は斯くして心身共にお救い頂きました。従来の悲観主義は楽天的に変り、御守護豊かに健富和の光明世界を礼讃しつつ暮させて頂いています。実に有難い……明主様の大愛のふところに抱かれて……こんなに幸福で、これでよいのかと奇異の感にうたれる事すらあります。それはあまりにも私の過去が悲惨であり、現在がそれに逆比例して幸福だからであります。どんなに学理がどうだ、理屈がどうだと言ったって人間にとって健康に勝る幸福はないと思います。お光を戴けば、私のような使い物にならないような体の人間でも、斯のように治して頂けるのであります。世人は知らないで迷信だ邪教だと言っていますが、私はそんな人にいつも言います。「私のように治った者はメシヤ教にウヨウヨしています。お望みならば何人でも目の前につれて来て生証人になりますよ。理屈を言わないで一日でも早く、一人でも多くお光を頂き、魂と身体の毒素を出してキレイな人間にして頂いて、明主様のお造り下さる輝かしい地上天国に住ませて頂くべく各々の御使命に進もうではありませんか」と。終りに当り世の結核に悩む人に私は声を大にして告げたいのです。「結核は決して不治ではない。治らないのは療病法を間違っているからですよ。メシヤ教へ来なさい、結核なんでドンドン解決つきますよ。もしお疑いになるなら、『栄光』新聞や『地上天国』誌のおかげ話を読んで、最寄りの住所の人を訪問して下さい。その日より悲観と絶望は、歓喜と希望に転換することでしょう」
(二六年三月二九日提出)
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宮崎県 S・H
私は昭和二二年七月M教会にて教修頂いた者で御座います。過去を振り返り思い新たに御守護の一端を御報告さして頂きます。
私は一五歳(昭和一七年七月)迄病苦の味は存じない位でしたが、昭和一七年七月より戦時中の無理を重ねた生活が続き、痔を患い次いで肺門淋巴腺炎、肺尖カタル、肺浸潤、気管支喘息と終戦になる迄は無理な生活を異郷に営み、其間病院通いレントゲン、血沈、検痰、検便、ツベルクリン注射等々五カ年間やって参りました。又服薬、注射も数限りなく試み、或時は結核の予防薬「セファランチン」の実験薬を服用しましたが、病気は一向に快方に向いませんでした。終戦となり、故郷に帰りましても父の残した僅かの貯金も使い果し、一家の柱ともなるべき私が倒れては明日の生活にも困る状態だったので、無理とは知りつつも工場に通って居ましたが、とうとう神経衰弱が伴い、通勤も出来ず、医師には絶対安静の宣告を言渡されました。ああ其時の私の気持は悲観のドン底です。現代医学は私の体をどうすることも出来なかったのです。自暴自棄の身となり、死を計ろうとした事も御座いました。でも一家の柱とも言うべき私を思う時、又しても民間療法、灸、あんま、鍼と無茶苦茶続けましたが、更に何等の効果もなく、此間市内売薬店にも幾回となく出入りし、良いと言われる事はことごとくこころみて参りましたが病状は寸分変らず、更に衰弱さえ加わり、全く前途は真暗となり、死を待つのみで御座いました。丁度其頃隣村のおばあさんから「N村のAさんが変な病気治しをされる」との事を聞いて早速行きました。昭和二二年五月頃でした。浄化療法当時だったので、神仏の力など全然無智な私は、指圧療法だと感じ、四、五日は半信半疑と言いますか、全く疑いながら続けました。ところが気分がとても楽になり、何だか一皮はげた様な感じが致しました。それより御浄霊を戴き、有難い御話を聞かして頂き心機一転、日に日に元気を取戻し、五年間苦しみ悩んだ病気も一カ月後には働ける身となりました。何と偉大な御力で御座居ましょうか。其時は幼児の如く跳び上り喜びました。昭和二二年八月教修戴き、又二四年四月三日には光明如来様を奉斎さして頂き、母もびっこが何時の間にか治り、妹の心臓弁膜症、弟の中耳炎、胃拡張も治り、一家揃って元気に生活出来得る様にならして頂きました。明主様御守護を厚く御礼申し上げます。又日々安心の境地にあり、楽しく過さして頂き、数々の御守護に此信仰者のみ知る幸福感を味わいながら、地上天国建設の御聖業に参加さして頂けます事を、深く感謝致しますと同時に、世の不幸の方々に御知らせ致したく、謹んで御報告さして頂きます。
(二六年四月一日提出)
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静岡県 M・T
光明如来様に救われて苦悩のどん底より歓喜に満ちた生活へと転換致しましたお蔭と、信仰へ進んだ道を御礼と共に御報告さして戴きます。
私は昭和二二年風邪が原因で肺浸潤となりました。日赤病院へ行って診察の結果、大変悪く、レントゲンによれば両肺特に右肺一面に雲翳があり、医師からは絶対安静にして、入浴も禁ぜられました。私の此時の落胆はたとえ様もありませんでした。その時は眼前暗黒となり何処に生甲斐があるかと毎日苦しんで居りました。この時光明如来様の御慈悲に救われたのであります。
親戚のKさんがおいで下さって、御浄霊をして下さいました。初めは信じられず、治る訳が無いと思いながらも御浄霊を戴きましたところ、非常に気持が良いのです。一週間程続けて戴きましたら、胸の痛みも咳の出るのも大変楽になって参りましたが、此時には未だ信じられなかったのです。時期がきて良くなった位に思って居りましたが、間もなく腎臓炎に罹りました。今思えば誠に申訳ない事ですが、其時も信じられず薬を飲んで居りましたが、一向に良くならないのです。再びKさんが教会の帰りによって下さいまして、Kさんのお家へ来る様すすめられ、泊り込みで御浄霊を戴きました。薬を止めてから五日目に腎臓炎の時に服んだ薬が二回程ゲップになって出るではありませんか。その時初めて薬毒の恐ろしさを知りました。其後夜中に心臓が凄くときめいて、どうなる事かと心配して居りましたが、光明如来様にお縋り致しましたら、スーッと楽になりました。有難うございました。神の存在を否定した私も始めて信じられる様になりました。その後右手を挫いて箸を持てない手が、一回の御浄霊で持てる様になりました。本当に次々の奇蹟に驚歎致し御慈悲に感謝致しました。心から厚く御礼申し上げます。
(二六年二月八日提出)
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埼玉県 S・S
私は二四年四月入信させて戴きました者で御座います。ここに満一年半の感激をしるさせて戴きますと共に御守護の御礼を申し述べさせて戴きます。私は生れ乍らにしてあまり健康に恵まれず、幾度か生死をさまよったとの事ですが、学生時代は運動好きの一人として活躍したので御座いますが、専門学校卒業一九歳頃より胸部疾患の診断を下される身となりました。ここにあらためて申しのべるまでもなく、何とかして生きたいものと結核というどん底の暗さより抜き出んが為安静につとめると共に薬、注射にと全神経を集中して療養につとめました。しかし病勢は悪化するのみで月日を送りますこと三年、安静と神経に疲れはてたのか衰弱はげしく、食欲はなくなり不眠の日が続く様になりました。そして急に強く悪化の状態となり、血痰に明け暮れ、将又婦人科の苦痛さえ加わり、生きる事はこんなにも大変なのかしらと毎日懸命の頑張りが続いたのです。胸部の苦しさの上に婦人科の苦痛に堪えかね、喀血をついての開腹手術をしたのです。でも運よく無事にその危きをのがれ退院したのですが、しかし依然として血痰が止らず、生きんが為、不眠の心配に悩み、食欲不振もともなって食物を口に入れる毎に目眩がともなうのでした。医学の手当を受けつつも斯うなっては致方ない、何でもよいから自然におまかせするより外にないと思い、死の恐怖からのがれる為、心の安静を求めたく思いました。しかし私には神仏を否定する訳でもないのですが、心から頭を下げる事が出来ず、信仰者をうらやましく思って居りました。時も其頃U教会のお世話人をなさっていらっしゃったA様(現O弁護士夫人)のお導きを受けたのでした。長い事小学校の教職に就かれていらっしゃっただけにその御親切にうたれ、御浄霊のかたわら色々とつきぬお話になり、相手になって下さりとても嬉しくなって参りました。しかし、余りにも医学にすがっていただけに、複雑な気持で泣き笑いをしながらも、とにかく御浄霊を受けたのでした。その様にして一〇日間程御浄霊を戴きましたが、荒んで居った為か、自分では良くなりましたと口にするのがいやで、何か邪教のとりこになっては居ないのかしらと疑って居ったのでしたが、勧められるままにU教会に参りましたら其処のK先生に紹介され、御浄霊後「今日から起きて動きなさい、アー、すぐ軽くなるよ」とのお言葉にむしろ軽蔑された様な気持で泣きましたけれど先生の御懇篤な教えと其人格に慕い、はっきりと神を知らぬ自分でしたが、とにかく入信致しました。父母の眼からは驚く程元気になった事がわかると言われ、嬉しく入信の喜びに浸ったのでした。其後翌月父母も続いて入信の栄誉にあずかりまして、朝に晩に父母より御浄霊を戴きながら教会にお詣り致したのでした。入信後半年余りにて血痰が止る様になり一年余を迎えました。鶏の足の様に痩た自分が、現在どこが病気をした人かと思われる位、体重も元通りにかえり、K先生に笑われる位大食ともなり、全く健康に生る感謝程人生にとって幸福はないと存じます。初めて神を知り、明主様の御力を知って一家喜びに満ちお蔭様で大光明如来様もお迎えさせて頂く様になりました。
未だ信仰者としては誠に恥ずかしい身で御座居ますが、明主様の御救いを心に刻み、諸先生の御指導を仰いで感謝の日々を過させて戴き、少しずつでも誠の生活を掴み取って、光明如来様におすがり致し、明主様の真理の絶対をお伝えすべくお導きにあたらせて戴く決心で教師の末の一人に加えさして戴いております。
終りに一言加えさせて戴きますが、私の家は代々村長をさして戴いており、何一つ不自由もありませんでしたが、人間の真の幸福は地位物質にあらずして、神を知り健康であるという事が第一である事を心から知り得ました。
明主様誠に有難うございました。
謹んで御礼申し上げさせて戴きます。
(二六年四月三日提出)
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佐賀県 S・T
物情騒然たる昭和二六年の此春、私の長男(一七歳)は、福岡県T高等学校へ入学する事となりました。常日頃さしたる勉強の様子もなく、入試困難というよりは、当然入学不能とさえ思っていた処、奇蹟的にも入学の喜びに胸を張って家を出て行く我子の姿を見る時に、私は一三年前の追憶に耽るのでございます。
長男は昭和一〇年七月二三日に出生間もなく排便の状態を医師に見られたのが始まりで、消化不良の烙印を捺され、人工栄養、栄養注射等々、手を尽す毎に状態は悪化し、当時私は三五円也の月給生活者として当然落ちて行く経済逼迫に、医療の手当も段々遠くなり、手を拱いて唯子供の死の迫るを待つ状態となったのであります。其間肺炎を惹起し、吸入器を買ってかけてやるようにとの医師の言葉にも、それを購う金すらなく、胸のはり裂けるような思いに家に居たたまれず、そっと抜け出で、放心の姿を町はずれの小川の堤に歩いた事も幾度かありました。その間に医師を替えてみたらとの人の言葉に誘われて、今迄の小児科専門医をやめて、産婦人科専門医へ転じたのです。処がその医師のやり方は、以前の小児科医とは全然反対で、総て放任主義で、その言う事は私の家の子供なんかは腐りかかったバナナでも少しずつやるようにしている。そのうちに物にあたらなくなる。乞食の子を御覧よ、私なんか風邪を引いて熱のある時には必ず風呂に入るようにしている」と言うのです。私はびっくりしましたが、もう所詮この子の生命はないものだとの観念から、私も放任主義をとったのです。処が良くなってくる様子はないが、それかといって死ぬ様子もないのです。此様な状態で生れた時は丸々と肥っていた優良児も、今は見るかげもない姿となりながら、四歳を過ぎた頃変調を来たし、当時東京でも有名な早期診断の大家ともいわれる某博士の診察を受けたのです(私もその頃はまだ、博士の診察料位は一、二度ならばどうやら支払えるような状態にありました)。処が某博士は「これは小児結核です。而もかなり進んでいる。まあ遠慮なくいうなら、後二年位しかもたないでしょう」と言い、私は又も大鉄槌を加えられたのです。今となっては為すべき方法もない、どんな事をしようとも後二年……此時ああこの時!御光に接したので御座います。わがまま一杯に育てたわが子、時には親も腹立たしくなる位のわがままの子を……
明主様はいつも慈愛の御顔をもって御浄霊下されたのでございます……親としては唯々感謝、感謝の明暮がつづきました。それ以来或時は眉をひそめる程の大浄化を幾度か戴いて参ったのでございます。此間、次男(当時一四歳)は三回に亘る疫痢の状態、又或時は絶望的の脳膜炎の状態等々の大浄化も御救い賜わり今日に至ったので御座います。現在私は五児の親となっていますが、各々の子供がそれぞれ奇蹟の御救いの中に、今日では益々元気で、日々を送らせて頂いている次第で御座います。
私は声を大にして、世の子を持つ親としての皆様に御告げ申したいのでございます。六歳を限りとして、此世に無いといわれた私のこの子が、今日あるこの姿を御覧下さいませ。尚此子は現在バレーボールの選手にさえなり背丈も親よりすでに越えて五尺三寸、足も一〇文半を越えようとさえしています。此事実をどうぞ御覧頂きたいと常々希望致しております。
奇蹟の生命、奇蹟の発育、次いで奇蹟の入学……明主様誠に有難うございます。
(二六年四月一三日提出)
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熊本県 I・C
顧みますれば師範学校卒業を間近に控えた昭和三年六月、肋膜炎で静養するようにとの事で、約三カ月間医療を受けました。其後学校奉職中五年間位は故障もなくすごしましたが、昭和一〇年頃から倦怠感を覚えましたが大した事もないので時折服薬して居りました。既往症の恐れをなし微熱にも医者だ薬だとビクビクしていました。其内に学校のバザーや展覧会等の行事の準備に忙がしく、学徒動員の方では責任上相当の無理をして、疲労を覚え、発熱するようになりました。其時、郷里の親元から、お前は肺結核だそうだから今すぐ学校は退職して養生するようにとの使が来ました。私は驚き、前途の不安に襲われて其言葉に従い早速退職し、次いで昭和一三年五月には療養所に入り静養生活は始まりました。
療養所に於ける診断は、悪質ではないから三カ月位で退院出来るだろうとの事でした。併し之に反して遂に三カ年を送る事になりました。入所当時はラジオ体操をして医師に叱られて仕方なく安静にしました。当時キリスト教信者であった私は、常に『聖書』を携え、各病棟に患者を訪れては神の愛を説き、神に祈りつつ御互に励まし合い退院の日を待望して居りました。私は漸次衰弱して行き、療友は次々と他界し、退院しても漸く散歩位しか出来ない様な有様で、此中に在る私も、何時の間にか廃人となって、退院は全快は何時の事やら見当も付かない希望もない不安懊悩の日を送っていました。
遂に此苦悩を逃れたい一心から退院しましたが、郷里では受入れず、致し方なく老母を看病人として借家住いをして、其地の医者に就いて療養を続けていました。其時に遠縁になる医者が、引受けて治してやるからとの事で其病院に入院致しました。絶対安静、一日おきの注射と服薬を約五カ月間致しましたが何の効果も見えず、同病者は次々と死んで行きます。私は急に注射がいやになり、どうせ茶毘の煙になるならば、痛い注射は止めた方がましと、其中止を申出ましたら医師は、気でも狂ったのか、今止めて何になるかと嘲って聞き入れてくれませんでした。
丁度其時台湾にいた同窓生が校友雑誌にて私の療養生活を知り、親切にも手紙を下さり「弟の八年間の肺病が観音様の御蔭で全快したから貴方も是非観音様にお縋りなさっては」と勧めて戴きました(今の光明如来様は当時観音様とお呼び申し上げていましたから其通りにお許し下さいませ)。「其観音様は佐世保にお祀りされている筈ですが」と。併し此言葉には関心を持つまでに至らず、注射恐しさに病院を逃げ出し、腰に激痛が起り、胃腸も悪く、長い間の温湿布の跡は腫れ上り、元気にはならず、食物は一切粕を吐き出し、箒も持たず夜具の上げ下ろしもしないように注意深くすればする程、恢復の希望から遠ざかるばかりで御座いました。
私にまだ地上の御用が残されて居れば、神様は私を生かして下さいましょう。其時が来れば御許し下さい」と祈りました。老母は私を見兼ねて「私が居なくなったら御前は自殺して下さい。病気が病気だから誰も御前の世話をする者はないだろうから」と。実に悲惨な有様で御座います。其当時を憶い出しては涙がにじみます。嗚呼、此時、私は光明如来様の事を友人の話を手紙の親切を思い出しました。不自由な体を一時間余り汽車にもまれて尋ね求めて佐世保の光明如来様(当時は治療所)に到着しました。
唯一回の御浄霊で肩の凝りは勿論、腰の痛みも全身軽快になり、別人の様に変りました。何と不思議な事でしょう。私は理屈なしに、何の疑もなく惹き付けられ、見えざる御光を御慕い申し上げて、当夜は御好意に甘えて一泊させて頂き、『明日の医術』を拝読させて戴き、又は御霊徳の御話を伺いまして、すっかり朗かになり、引続き御浄霊をお願いすることにお許しを得て、翌日は一先ず帰宅致しました。其元気さに老母は驚き又喜んだ姿は私の嬉しかった姿でありました。薬毒の恐ろしさも知り、今まで貯えていた薬は、考えた揚句大川の橋の真中から水中に投げ棄てました。其時の気持の好さは今も忘れることが出来ません。今まで食事の戴き方の何と馬鹿気た事であったでしょう。其後の御飯の美味しい事、老母と二人の寂しい生活の中にも笑が転び出す様になって来ました。広大無辺な御神様の御恵に老母と二人で涙して感謝の御礼を申し上げました。
郷里に帰り佐世保行の事を相談しますと、「此進歩した医学の現代に、手を翳して病気が治るか、そんな馬鹿な事があるものか」と言って反対し、旅費すら出して頂けませんので、困り果てて居る時、嫁いでいる姉が、私の熱心に同情して旅費から教修御礼まで一切の費用を支援してくれました。佐世保のK先生の許に行かせて頂き、早速教修をお願いし、滞在一〇日間、初めて知る有難い境地に安着させて戴きました。其間毎日二回の御浄霊を戴き、めきめきと身体の調子は良くなり、元気も加わり、余暇には台所の御奉仕もお願いして別に疲労も覚えないようになりました。
以前はキリスト教信者でありましたが、奇蹟として特に現われた事もなく、唯精神のみ救われた丈でありましたが、今度は光明如来様の御力を戴きまして、偉大さと申し上げる丈で表現も出来ず、特に肺結核が伝染病でないとの事を骨髄まで浸み込ませて頂きました。K先生宅に滞在中は小学校五年の御子様と同じ部屋に座らせて戴き、食事も一緒に、食器も消毒もされず、台所の御手伝いも外の方と同様の待遇を戴きまして、親身に教えて戴きました。右の通りにしても楽し嬉しの一〇日間で、大変な元気に帰宅しました。之なら大丈夫とまた学校に勤務出来るようになり、自炊生活も出来るようになりました。当時は代用食時代でしたので、余暇には玉蜀黍を石臼でゴリゴリ摺って居ります時、突然血痰が出ました。驚いて血止めにと思い、塩で含嗽を致しましたが、之が浄化だと気付き、早速大神様に御詫びして、K先生には御報告を兼ね、お尋ねしますと、早く来いとの電報を戴いて、早速御詣りして三日間引続き御浄霊を戴き、恢復しましたので再び学校に出勤致しました。暑中休暇には復々佐世保のK先生に御伺いしました。丁度八月一五日でした。何気なく御神様に御奉仕させて戴きたくなり、先生にお願いしましたら、月も日も良いからとてお許し戴きました。其御言葉に非常に嬉しくなり、早速教職を退いて、親類や友達等の反対をも押切って御奉仕生活に入りました。
昭和一七年四月に佐世保で教修を戴き、同年九月から今日まで約一〇年間に逐次健康体となり、又色々の痼疾も治して戴き、御蔭様で御神業に精進さして戴くことが出来ました。
本年二月には出産後胸部の大浄化を戴き、呼吸困難や呼吸圧迫等の為、非常に苦しみ、一時は憂慮される程の重態に陥りましたが、御浄霊を戴きますと如何なる苦痛も軽減し、或は治り、極めて楽な状態で、此重態を短時日の間に治して戴き、更に新しい生命を戴き、幾度か危き生命を戴きました。療養生活を続けていましたら、私は今はなかったでしょう。御神業に御奉仕させて戴きました御蔭により、今日までの命賜いし事に、何と御礼の申し上げようもなく、唯々感謝感激あるのみで御座います。
不治の病とされている肺結核が、世界救世教により、御浄霊により、現在の私の様に治して戴けます。此の御神徳を、世の同病に悩める人々に、一人でも多く、早く知らせて上げたい、又早く全治さして戴きたいと念願して今後益々更生の意気を以て御用に御使い下さいますようお願い致して居ります。
明主様誠に有難うございます。
(二六年四月二一日提出)
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京都府 K・A
私は昭和二四年八月入信さして頂きました。光明如来様に救われ、初めて希望に溢れる現在の喜びを、明主様初め諸先生に感謝さして頂きますと共に、未だ此道に疑惑を抱いておられる方々が一日も早く、光明如来様の御慈悲に救って頂けましたらどんなに幸福な事でしょうと思い、御報告さして頂きます。
顧みれば一〇年前の昭和一六年夏、肋間神経痛を患ったのが始めで、翌年四月に風邪を引き、それがもとで肺結核となりました。最初医師の言うようにし、一旦良くなったのですが、農家の事とて家の手伝を致しているうち秋となって又再発しました。それより毎年医師その他治療師等に掛かり、少し良くなる様にみえては又悪くなるという訳でだんだん身体が弱り、自分ながら病気の手当をする事がいやになり、すて鉢の気分にまでなっていました。そうしたいやな年月が六年すぎ、その揚句二二年六月盲腸炎で入院手術してしまいました。手術後三週間で退院しましたものの手術個所の周囲の腹痛が止まらず、農事の手伝いも出来ないので炊事のみようやくしていました。その年の一二月になってどうにか痛みはなくなりましたが、今度はお腹が張るやら、胸がつかえて食事が進まなくなり、内科の薬をあれこれと翌年の四月迄服用しましたが効果は更になく、次々と悪い所が出来るので医者を代えてみました処、腸癒着とか、ラッパ管といわれ、どこへ行っても、手術するか我慢するより外に致し方がないと言われました。其頃は相当衰弱していましたので、医者も手術をすると或は死ぬかも知れないなどと言われるので、今度は栄養食専一にし、栄養剤をあさり指圧治療へ行きましたが、やっぱり腸癒着ではあるが良くはなると言われ指圧を続けてみた処、だんだん良くなって来て秋頃にはとても太って来て、翌年四月迄はよかったのですが、又胃腸が悪くなり、オカユを食べなければならないようになりました。そんな訳で、あれがよいか、これがよいかと迷っているうちに乾性肋膜炎が再発致し、自分では大した事はないと思っていましたが、安静にしなければいけない。二カ月入院すれば治るといわれましたが、今度は自分で注射をし薬をのんで家で治そうと思い、安静にして少し続けましたが、何としても身体がだるく目まいがするようになりました。
それから暫くすぎてから私の病苦を同情して下さる方があり、帯広にとても良い神様があり、手を翳しただけで病気が治ると聞かされ、場所を教えて下さいました。溺れる者は藁をもつかむの諺の如く、手を翳しただけで治るとは思えぬとしても、どんな方法でも治ればよいと思い、早速帯広へ行き、二日御浄霊を頂きました。処が今迄腹が張って困っていたのもしばしば下痢をして全く楽になり、これなら治るかもしれないと初めて思えるようになり、毎日毎日御浄霊をつづけさせて頂きました。けれども両腕の注射をした処が痛く、身体中が何となくだるみを感じ、夜もろくろく眠れぬ事が度々でした。色々と先生方のお話をお聞きすると「それは薬毒で、今溶けているのですよ」と言われ、その時は信じられなかったのですが、御浄霊を頂くうち、次第に痛みも薄らぎなんともなくなりました。
ただただ光明如来様の御慈悲に私は救われるのだと思い、嬉しさで胸が一杯になり、枕をぬらす事もありました。しばらくして家人がかえり、近所の御方に御守を頂いている人がありましたので御浄霊をさして頂き、いよいよ今度こそは病気の自分にさえ他人を治す御力、光明如来様の御力を頂ける事になりました。救われて初めて人間としての生甲斐をつくづく感じ、希望に満ち満ちています。
(二六年一〇月五日提出)
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北海道 K・T
私は小さい時から体が弱く、面白く遊んだ事がありませんでした。二〇歳の頃より肩が凝り灸等をした事がありました。嫁いで来て間もなく昭和一八年に肋膜炎にかかり、昭和一九年五月二八日より肺を病い、その上腹膜炎となり毎日毎日苦しい日が続き、如何にすればこの苦しみから救われるかと、医者よ薬よと人の良いというものを総べてやって見ましたが良くならず、最後に神様にも御祈願致しましたが、楽にならず次第に悪化するばかりでした。その内良くならぬままに過して居りますと腰部が苦しくなり、どうしたのかと医者に行って見て戴きますとカリエスとの事、茫然としてしまい、前途が真暗になってしまいました。胸の病気、腹膜の苦しみ、腰の痛み、私は何時も死の妄想に耽って居るばかりでした。ところがどうでしょう、私にもこの苦しみより救われる時が来たのです。
二四年の六月二八日近所の方より、何でも治す神様があるからと誘われ、初めて尊い御浄霊をこの土地に普及にいらして居るM先生にお願致しました。御浄霊して戴いて居る間は腰より下の方が苦しくなり、うならずには居れない位浄化してくるのですが、浄霊がすみますととても楽になり、この事実の前には疑うべくもなく、私は今度こそ救われるのではないかしらと毎日毎日先生の所に通いました。いろいろお話を聞き、この宗教の偉大さが次第に分って参りました。月に二、三回の浄化を戴きます度に体が良くなり、一二月には有難いお守様を戴き、毎日毎日寝て暮して居りました私は、今では家事の仕事旁々近所で病気で苦しんで居られる方々の浄霊をさして戴き、毎日楽しい生活をして居ります。この喜び何んと申し上げて良いやら筆に現すことが出来ぬ位でございます。今後もこの有難いお道が早く分りますよう、そして一生懸命地上天国建設のお手伝をさして戴きます。
明主様本当にありがとうございます。
(二六年六月二日提出)
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大分県 F・Y
一家三人肺結核に侵され、筆舌に尽せぬ病苦と貧苦に悲観の極に喘いで居ましたが、尊き御霊徳に依りまして、死滅から救われ輝く光明一家に更生致しました喜びを、御礼旁々御報告させて頂きます。
昭和二一年四月、それまで元気で働いて居りました母が、何か体の工合が悪いからと医師に診断を受けますと、気管支炎と診断され、種々手当も致しましたが、八月に肋膜炎を併発し、一旦は入院も致しましたが病勢は募るばかりで、何等の効果もなく、最早取返しの付かない病気になって仕舞いました。私は母に代って家業に従事致して居ましたが、二三年四月体が重だるく疲れるので、医師の診断を受けました処、肺浸潤との事で病床に伏さねばならぬ身となって仕舞いました。斯くする内、只一人の働手の姉が発病、これも肺が悪いとの診断です。学校に通って居ました妹と弟の二人を除きまして母子三人、枕を並べて病床に伏し、一人の働手も無く、頭痛、倦怠、咳嗽、不眠症等あらゆる病苦に昼夜を分たず悩まされまして、日々募る病苦と貧苦に一家は悲しみの極に達して仕舞いました。其間他人から聞いた良いという療法は何もかも致しました。薬、注射、灸等遂に見切りを付けまして、信仰も致して見ましたが、何も救ってくれるものは有りませんでした。最早此世に頼るものは何一つないと諦めて、只死を待つのみとなったのでありました。
処が忘れも致しません、昭和二三年三月一三日、母の知人が来まして母に種々救世教の御話を聞かせて下さいました。又話だけでは分らないからと御浄霊もして下さいました。母は大変気持が良いからと、姉や私に勧めました。姉の方は浄霊を受けて不思議に体が軽くなったと喜んで居りましたが、私はそんな事で病気が直るものかと笑って居りました。母は今まで種々迷って来たんだからついでにもう一度迷ってみようという気持で、妹を入信させる事になりました。三月一五日入信、其後母や姉を浄霊致して居りましたが、私はつまらない迷信に迷ってと腹が立って仕方がありませんので、毎日悪口を言って居りました。処がどうした事でしょう、二日三日とたつにつれて、何だか元気になるではありませんか。一週間目には今まで病床より一歩も出た事の無かった母が散歩出来るようになりますし、自分の身の廻りの事も出来かねて居りました姉が炊事が出来だしたのです。嗚呼、何という不思議な事でしょう。このような奇蹟が他にありましょうか。さしも頑固に反対致して居りました私も、此現実の御利益の前に頭を下げざるを得なくなりました。 其後『天国の福音』を拝読致しまして、今日までの療法の誤りを知り、一生懸命治らないように努力して居た自分の愚さを、つくづく覚らせて頂きました。其後は御浄霊に依り日に日に恢復、今まで何十貫と背負って居たような重みが、一回一回の御浄霊に依りまして、ぐんぐん軽くなり、散歩どころではなく、起きて食事する事さえ辛かった私が、仕事が出来る様になったのでございます。此時の喜びは何物にも譬え様がありません。知らなかったとは言い乍ら、反対し続けた私まで短時日の中に御救いくださいました大慈大悲の神様の前にひれ伏すのみでありました。其後一年目二四年四月、長年に亘る薬毒の浄化で母は此世を去りましたが、其時の死顔の良さ、何もかも安心し切ってあの世で光明如来様に救われるんだと眠るが如く死んで行きましたが、死の直前までもがき苦しみ、安心のない無信仰者に比して何という幸でありましょう。ここにも御霊徳の有難さを深く深く感じさせて頂きました。
私と姉とは御浄化の度に健康を増して参ります。もしこの御救いを頂かなかったら妹や弟達まで次々に発病致し、一家死滅の運命を辿ったでありましょう。結核一家も、 御恵に依りまして輝く光明一家に救われ、地上天国建設の御聖業の一端に御奉仕させて頂いて居ります事を厚く御礼申し上げます。
(二六年四月一一日提出)
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鹿児島県 M・T
魂機張る生命賜ひし御仏に酬はでおかむ我世の限り
我生命甦るさへ嬉しきに医しの業まで許されにける
炎天下、 道端の一片の枯草にも等しく唯只病者として冷い世相の中に苦悶の日々、暗黒なる日夜を過しつつ、唯物医学を友とし、研究したのも束の間、生命の保証さえ信ずることの出来ないのを発覚し、無常に嘆いていた時、昨年五月二六日、ふとした御縁で救世教の浄霊をうける身となりて四カ月余の今では、大地踏みしめ普通人と変らない程になることが出来て、御神徳に唯只感涙湧き出で、その上一信徒として神業に参加出来ますことは、有難き明主様の御恵の賜物と、その崇高なる御霊徳によるものと、感謝の日を送っているものでございます。
元来私は身体を大切にし、医者なんか反って無益の存在と反感を抱く程元気で、其上負けず嫌いの無茶苦茶主義で、昭和二三年一〇月以来、 民主社会建設へ! と意気と熱に燃え、友を一人でも多くつくらんとの願望去らず青年団等の会合には進んで参加し、敗戦日本に磨きをかける一助として及ばずづける病室生活、地獄と称する闘病生活に入ったのでした。
昨年八月中旬、無理から発した憐れな結核患者となって、悲哀は益々黒雲の如く覆い被さり、正月を過ぎる頃は益々悪化するのみでした。ああ私の生命も、もうこれまでか、私は何の為に生まれていたのか。苦悶のどん底にも等しき五月二六日、 近村のIさんのすすめではじめて浄霊をしていただき、その後諸先生方より耳新しき事を聞き、尚浄霊をいただくに及び、疑いもいつしか晴れて此上もなき安心立命への動機となったのでした。最初の浄霊にて幾分身体が楽になった様に感じ、二〇日頃より約三カ月よくもまあこれだけと思われる程の痰の大浄化、その間浄化と知りつつも苦しみをうったえ、又反省し、死苦に等しき幾日かを通り越し、軽作業をし乍ら日増に普通人の如くなることが出来、 今や運命の大転換!新人生への第一歩として浄霊の使徒の一端に加わらせていただき、地上天国建設へ邁進致す事が此御恩に報ゆる道と強く肝に銘ずる事が出来て、一年前をふりかえり、自暴自棄より歓喜の生活に変った私の嬉しさは何に譬え様もありません。去るルース台風時には相当の浸水の中を普通人の如く働く事が出来、その上強い打撲傷を負いましたが二、三日の浄霊にて快癒し、御守護の程筆舌にて表現出来ません。
入信二カ月目に私の近くの人の子供さんが悪いと聞き、そこの主人と話し乍ら熱のある二歳の子供さんを約二〇分位浄霊致しました処、その女の子は上を向き、目をひきつけ、鼻にて呼吸し、 唇は黒くなり、 アーアーと言いつつ頭が前方に倒れ、死人の如くなったので、母はすぐ「医者を呼ぶ」と言い出し、日浅くして自信なき私は「いい様にして下さい」と答えつつ一心に神に念じ、医者が来る迄無我夢中になって浄霊致しました処、 スヤスヤと眠りはじめ、 まだ少し熱はありましたが私も一安心、医者へ行ったお使いの人も帰って来て肝をぬかれた様な顔でした。一日おいてお見舞に行きました処、急性肺炎もそこそこだったと医者の言ったのにも拘らず、薬も終に服まず、元気になって道端で遊んでいたので二度びっくりした私は、夢の様な気持で東の方を向いて明主様に心より御礼申し上げ、皆々様の経験談と併せて私の自信とする事が出来たのでした。
限りなき涙の世界、冷き暗黒世界を一日も早く温い清い白光の世界、謂わゆる地上天国の来る事を念願し、一日も早く一人でも多く救われます様、又救わせていただく事を誓って止みません。
明主様有難うございました。厚く御礼申し上げます。
(二六年一二月六日提出)
(結核信仰療法 昭和二十七年十二月一日)