(付録)全快者100人の手記 11~20

東京都 M・T

謹んで御礼旁々御報告させて頂きます。私は満三一歳の大工で御座いまして、二四年七月御教修を頂き、一昨年一月一日、光明如来様を御奉斎させて頂きました者で御座居ます。二四年四月当時自分で数えても三十数箇、大はピンポン球位から小は小豆位の空洞を認め医師からは切断若しくは切開の上、整形手術を受けなければと言われて居りました。これより四年前人工気胸に通院中、医家の専門書を盗読したり、折々の医師の言葉を綜合してみますと、二期よりも悪く三期よりは肺組織が稍々健全という状態で御座居ました。

さて私は一八歳の折結核の初期と診断され第一回の療養を始めましたが、三年目毎に再発致しまして、昭和一九年四月第四回目の折、喀血をして遂に床に就いたままになりました。絶対安静を命ぜられ一カ年後空襲で罹災し、郷里に帰るまで屋外に出た事がない有様で御座いました。郷里で人工気胸を始め、 最高の時は一〇〇〇ccを入気して右肺を全部押し縮めて了い、極く少量の運動は許される様になりました。併し何分にも狭い郷土の事とて肺病患者と厭がられ、他家との交際すら心遣いせねばならぬ有様で御座居ました。近親者とて同じ事で、病気の苦痛よりもその方の苦痛がより大きく、母の血の結晶たる開墾畠も投げ捨てて自殺行為と知りつつ上京、肺患を隠して仕事を見付け歩くという始末になりました。それでも尚母親の慈愛で無い中から一通りの医療を受けたので御座いましたが、一昨々年四月、愈々前記の状態に陥り、生命の保証すら判らない手術を強制され「経過がよくて精々事務仕事位出来よう」との宣告を受けました時の私の胸中如何ばかりか、御察し下さいませ。此時近所の知人宅に布教に御越しのI様と言う信者さんに御会いして、御浄霊をして頂きました。最初はたった三〇〇米そこそこの道を三〇分もかかって、骨と皮ばかりにやつれた肉体を毎夜搬んで、御願いしたもので御座いましたが、一カ月半目には此三〇〇米の道のりの過半は駈足で通える程にまで恢復致し、御教修の御話を賜わり、早速御受け致したいと思いましたが、家計之を許さず、其儘一カ月経ち半月分の生活費をさき衣類を売却しましたが工面できず、もう一月延ばそうかと迷いました。そして次の衣類売却に専念致しましたが、なかなか売れず困っておりました処を、或方の御同情により立替えて頂き、待望の御守様を予定より一カ月早く頂く事が出来ました。三日間の教修を終り御守様を頂いて帰りますと、早速御守護が御座居ました。肺病故に借家を追い立てられて心安まる部屋すらなかった身に、 四畳半一間と翌日から手伝いに来て欲しいと言う仕事とが与えられたので御座居ます。翌日から喜びに苦痛を忘れて、毎日大工仕事を致し帰りには、必ずI様宅へ御寄り致したので御座居ます。当時の御話を聞きますと、私が入った部屋は一晩中臭かったとの事で御座います。

斯の如くにして一〇月には母も教修を頂き、家で浄霊して頂ける様になり、身体の調子も順調に良くなり、昨年末には一通り空洞の整理と浸潤を消滅させて頂けたので御座います。一一月一日と一二月一日の二回喀血が御座いましたが、仕事はその度に為易くなり、一軒の請負仕事を完了致しましたので、早速御神体を御願い致し、一昨年一月一日より御奉斎させて頂きました。

尚、前記御教修の費用工面に関し、更に次の様な御守護を頂きました。私が二四年四月上旬、臥床前に或人から仏壇の作製を依頼されておりました。勤務先が農機具工場で木工が出来ます故、再発で寝付いてからも先方で早く入用の事と思い、部下二名と農機具の師となる人に作製を依頼致しましたが、三人とも一時間もせぬ中に頭痛がして出来なくなり、何回しても同じなので七月迄其儘に捨置いて御座居ました。教修料を得たさの一念(初めは家計の一助たらんとする積りでしたが)に初めから作り直しましたが、病状には何んの変化もなく二日で完成させて頂き、厚い御守護を頂きました。唯今は時々軽い御浄化を頂きつつ益々元気で仕事に励まさせて頂き、近所の方々に御道の話をさせて頂いて居ります。未だ曇り多き身の事とて何の御役にも立ちませず、誠に申訳ないとは思い乍ら、御救い頂きました御恩の万分の一にも御報い申し上げたいと、それのみ念願致して居ります。

以上誠に拙文にて恐縮で御座いますが、感謝感激の一端をここに申し述べさせて頂きました次第で御座居ます。

(二六年一月一九日提出)

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三重県 I・F

私は昭和一九年秋頃より風邪を引き込んだのがもとで、不治とまで言われる肺病の一歩手前の肺浸潤と医者に申し渡され、希望に満ちていた娘心に非常なショックを受け、一度にドン底に突き落されたような気持になりましたが、生きたい治りたいのは人間の常、一生懸命に医者の言われる通り忠実に実行もし薬ものみましたが一向によくならず、 微熱さえもとれず困り果てました。然し早くよくなりたい一心に励まされ、よいと聞く彼方こちらの病院、民間療法とかけめぐりましたが寸効もなく、青白く落ぶれてゆく自分の身をみて毎日涙に暮れてゆくばかりでした。希望もなく面白味とてなく、勇気もなく、人間として取残されてゆく、否日一日と命のちぢまってゆく私のその当時の心持をお察し下さい。昭和二一年四月レントゲン写真の結果、両肺とも半分程黒くなってしまっている。 「君は絶対動いちゃ駄目だ」「本当に肺病にきく薬はないが、一時よくなる事は出来るけど、再発の時には駄目だ、 と言われました。

併しあきらめてもあきらめきれない心の中にも頼りない医師の言葉が恨めしく、それかといって頼る所もなく、体はやせる一方、顔も土色に変って、生きているのが不思議な程でした。或時ぼんやり軒端に立っていると、見た事のない男の方が入ってみえて「浄霊といって手を翳す丈でどんな難病でも楽になれる」とか、「今まで斯んな重病人を治して来た」とか言って浄霊の偉大なる事をお聞かせ下さいました。私も飛立つ思いで「一度御願申します」といって御願申した処、いろいろお話を聞かせて頂いているうちに、今迄やっていた方法では治らぬのが当りまえだという気もしましたが、最初の事とて「大変偉そうな事を言われる方だなア」という気もありましたが、試みにやって頂いているうちにとても気持が良くなるではありませんか。唯一度でこれ位良くなるとはと不思議に思いましたが、 二度三度浄霊をして頂いているうちに食事は進み、元気は出るし気分もよいというふうに、一カ月も経たないうちにすっかり顔色が変ってとても元気になり、之が一カ月前まで苦しんでいた自分かしら、これ迄に……と涙乍らに御礼申しました処、先生が「あなたもこうやって誰でも治せるよ。世の中にあなたと同じく、又あなたより重病で苦しんでいる人もどんなにいるか、その人達にこんなに簡単によくなる事を教えてあげては」……と聞かされ、私も神様の御力で再び生命を頂いたものです。

御恩返ししなければ光明如来様に申訳ない、先生私にも出来ます事ならと、入信さして頂いてから、はや五カ年の年月が流れました。病気の前よりも一そう元気になり、健康にして頂いた今日、偉大なる神様の御力に感激に満ちみちております。その後工場に入り、働きながら、神様の御旨たる地上天国建設の大業に、微力ながらつとめさしていただいております。有難うございました。

(二六年六月二五日提出)

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東京都 M・Y

運動選手としては体力を誇りとしておりました兄が突然病魔に侵され、取敢えず県病院へ入院する身となりました。病気は急性で、而も猛毒性の結核で一寸むずかしいとの知らせに、何か先が暗くなったような不安におののいておりました。其うち生命だけはどうやら取止め一同安堵の胸をなで下し、一時も早く快方に向うよう神仏に御加護を願い、一族挙って看護につとめました処、意外な事には、県立高女を最優秀の成績で卒業した兄嫁が結核の宣告を受けますと同時に、結核ではもう駄目だ、此上は自分や子供への感染をさけ、願わくば財産を使い切らない内にしまつして頂いた方が両方の為だとはっきり言える人となりまして殆んど病院へも姿を見せず、時たま来ても家計の報告をすませたらすぐ帰るという有様に、妹が憤慨して姉上が看病して下さらなければ私が致しますと言って、病院へ泊り込み一生懸命看病致しますうち、身体の調子が悪いといって診察を受けますと、 之又意外な事には既に左半分やられているとの事で、計らずも壁を隔てて兄妹二人病床に臥す身となりました。此二人の姿を眺めて私の心の中は如何でしょう。いよいよ私達の運命の行手には既に大きな黒幕が下されてしまったと同じではありませんか。申し遅れましたが、私の父は熱心な仏教信者で、町でも寺の坊さんを集めて仏教研究会を開いている程の人でございましたので、私は此父が今の姿を眺めて、信仰の力が絶対なら病院へ入る必要はないはずだのに、さっさと医者にまかせてしまうのなら、人間にとっては仏の力よりも医学の力の方が尊いと思わなくてはならないのかと思いました。それまで私も親にすすめられ一生懸命信仰していましたが、罪障消滅の修養も結構だが、現実の問題として極力医学と結核の予防に努めなくてはと益々栄養に休養に薬物にと一生懸命につとめました。

そのうち早くも四、五年の月日は流れて、妹が駄目らしいから見舞に来るようにと言って参りました。果して自分が重病人の処へ行ってもいいかどうかと不安に思いまして近くの病院へ参り、よくよく結核についてたずねてみました処、先生の言わるるには、実は御病人に対しては最後まで治るものとして養生を御指導しますが、実は全快は不可能です。極力新しい人のふえないよう感染をさけるより仕方ないと申されて、 現在ではセファランチンの予防注射が一番有効のように思いますと言われまして、早速一〇本打って頂きました。現代の最高医学にても不可能で、尊い仏の功徳を以ても不可能だと言う、世にも恐ろしい業病の因縁を受けついで、今更はかない自分の運命に悩まないでは居られませんでした。丁度其頃東京は空襲空襲の大混乱でいよいよ家の近くまで焼けてしまいましたので、六月五日四歳の子供を一人抱えて郷里へ疎開致しましたが、既に二日目には兄を亡くし二六日には妹を亡くしてしまいました。そして兄の亡くなります当時の兄の心境を聞き又兄嫁の態度等聞きまして、妹として兄の為心から泣かないでおられませんでした。処がその月の二六日妹の亡くなります時にはやっぱり伝染という事がこわくてどうしても側へ行って慰めてやる事が出来ませんでした。四年間の安静生活の為衰弱は極点に達し骨と皮ばかり、真白なミイラにも等しい姿になって、親姉妹に手をとられる事も出来ないで、寂しくあの世へと旅立って参りました。此二人の兄妹の姿を眺めてつくづくと結核という病気の恐ろしさを嘆かないではおられませんでした。処が疎開先で身体を無理をした為、突然に大熱を出し、二、三日はフルイと熱の為苦しみましたが、四日目頃から大部熱は落つきましたがそっと起きてみますとすぐ熱が出ますし、毎日熱をしらべてみますと午後には多少上りますので、動く事が出来なくなってしまいました。医者は初めは風邪だと言っていましたが一月もたちますと肺尖カタルのようだから、安静にしているように言われますので、私は勿論実家の人達も六月に二人の葬式をすませたばかりなのに、又私が寝込むという事は誠に困った事になったものだと思いました。

丁度其頃父が外から帰って申しますのに、「今日O町の友達がTさんに「胃が悪いというお話ですが、今O町に変った治療が流行って来てどんな病気でも治るという話ですがちょっとやって貰ってはどうですか」と言われたので行ってみたが、立派な呉服屋さんの奥座敷で、床の間に光明という御軸をかけその前でやって頂いたが、「随分胃の中にお薬が入っていますね。おへその下まで下って居りますね」と言われたが、よく分るものだね。Yも明日一つ行ってみるか」と言われましたので、私は床の中でこんなに安静にしていなくてはならない身体で、そんな遠くまで行っていいかしらと恐ろしく思いましたが、併しこんな病気になった以上、妹達のように悲しくも恐ろしい病床生活をする位なら生か死かどちらになるか分らないが、明日一つ無理をして出掛けた方がいいかもしれないと思いました。

当日は駒下駄ではとてもフラついて歩けませんので藁草履をはいて足がちょっとも宙に浮かないようソロソロと蟻のはうように半道の道を駅へたどりつきました。電車の中では土間へ腰を下ろして目をつむってやっとO町へ無事つく事が出来ました。お座敷にギッシリ一ぱい人が待ってみえました。私も後の方に座ってから、父の居るのも妹の居るのも忘れて一生懸命先生のお話や治療を眺めていました。

先生は人間は身体に毒があるから病気をするのだから、こうして毒をとかして小便にしてみんな出てしまえば毒はなくなり、病気は治ってしまうのだというように色々とお話をしておられます。

私はお話を聞いて、そんなうまい事が出来るものなら結構な事だが一体どういう訳なのかと非常に不思議に思い、多勢の人々の後から思わず声を出して「先生、お話は誠に結構に存じますが、そのお話となさっている事と、どういう関係がございますか」と伺いました。其頃岐阜○町の教会で布教しておられたN先生は大きな目をクルクルさせて「ああこれですか、これは火素といって人間は心臓を通して太陽の火素を吸収して居りまして、その火素を掌を通して相手の身体へ打ち込むと、 身体の中の毒がとけて小便となって出るのです」と申されますので、何だかよく分らないが、早く自分もやって頂きたいと待遠しくてなりません。

やっと番が来て御願しますと、手を額にかざされると同時に、頭の中がとてもすごい音をしてうなり出しましたのでビックリ、ああこれは大した事だ、これだけ反応があれば大丈夫、医者も仏も頼りない現在、これこそ天の助けと思い、これで自分は救われた。もう大丈夫という気がしてしまいました。すっかり此治療をして頂いて帰ろうとしますと、何だか身体がすっかり軽くなったようで、シャンとして来ました。もう来る時のように今にも倒れるか倒れるかとフラフラ歩く事はありません、すっかり安心してしまいました。

お蔭様で下痢も頂き、一週間もしますと妹が「今だから言うが、初めて一緒に行く時のこわかった事、顔をみれば土色に血の気は失せ今にも倒れるような足取りでソロソロと歩いているので、いまにも倒れやしないかとハラハラしていたのだけれど、帰りにはエライ元気が出たし、それから毎日毎日行って来る度に見違えるように変ってゆくので、家中でまるで幽霊のようで何だか恐ろしいようだと言って話していたが、本当に丈夫になれてよかったね」と申しますので、今更のように有難く、思えばこんなに簡単に治して頂けて而も伝染の心配もなく、栄養、休養の心配もなく、ただ御浄化の一言のみで安心して喜んでこの肺病が根本から治して頂けるのだから其他一切の病気がこの簡単な手を翳す事、御浄霊の一言で解決ついてゆくとは何と偉大な事でしょう。

其後日の経つにつれて、 此偉大な御力が尊くも光明如来様のお力であります事の分りました時の私達信者の喜びと誇りは如何でございましたでしょう。誠に筆にも口にも言表わす事の出来ない喜びでございました。

思えば兄妹も今三月待っていてくれたら私が此尊いお力をいただいてそばへよってやさしく慰めて浄霊してあげたものをと、ついかえらぬ愚痴が出そうでございますが、亡くなったものは仕方ございません。

今現に生きながら、 しかばねにも等しい私の過去のような悩みに苦しんで居られる人々に一日も早く、一人も多くお知らせしたい心で一ぱいでございます。

終りにのぞみまして罪深き身でございますのに尊い生命を頂きました事を一族に代って深く深く御礼申し上げます。

(二六年二月八日提出)

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宮城県 S・Y

暗黒から光明への文字通り絶望の泥沼に悩み続けて居りました私共が、余りにも尊い光明如来様の御力に、今こうして救われ、喜びの毎日を過さして頂けます幸福は、何に譬え様も御座居ません。明主様に厚く厚く御礼申し上げますと共に、御守護の一端を御奉告申させて頂きます。

戦病を持つ主人は勝れない健康の上に昭和二〇年七月長い事病床にありました先妻に先立たれ、残された幼い四人の子等の唯一の親として、内外共に多忙を極めて居りました処へ、同二一年四月私が参ったのでした。

幼い頃母親に死別した私は、不幸な子等のよき母たらんとして、あれもこれもと胸に希望を抱いて嫁いで来たのでしたが、其翌日から私の悩みの生活は始まったのでした。

と申しますのは、主人の二つになる末の子が百日咳から両肺炎を起し、四〇度前後の熱が二カ月も連続し、主人共々農繁期の五月慣れない生活に戸惑い乍らも、夜の日も寝ずに看病した甲斐もなく、とうとう死なれてしまい、主人は全く打ちのめされた形でした。子供の百箇日も済ました頃、一寸した食当りから主人が下痢を起し、三週間も続き、血便も出る程の酷さに色々と手を尽しても、中々良くならず、其中風邪でも引き込んだのか、二一年の一〇月九日の夜胸の苦しさと共に四〇度以上の高熱となり、 譫言も言ったりするので、 吃驚してしまいました。取敢えず応急手当を施し、不安の一夜を過し翌朝早々従弟の医者に診て頂きました。病名は気管支炎其他胃腸障害、脚気等の余病もあり、相当重症の旨話され、この日から長い五カ年の病床生活は始まったのでした。

気管支炎の為トロトロ眠ったかと思うと、 豆粒大の汗が総身から流れ出し、忽ち着物も敷布もダラダラになり、一日一〇回以上も取り換え、それが一〇日以上も続いたのですっかり衰弱し、其為戦病肋膜迄再発し、それから絶対安静と医薬療法を続けたのです。幸い従弟が泊りがけであらゆる治療を試みてくれましたので、二カ月程で床の上に起きられる様になり、主人も私達も喜んだのも束の間の事でした。一寸した無理から風邪を引き、両扁桃腺を腫らし、食事もろくろく摂れない上に肺浸潤の診断迄下された時の私共の心中、絶望のドン底に突落された思いでした。再び安静とあらゆる療法を試み、翌年の二月頃は何うやら床の上に起きられる様になり、ホッと喜んだのも夢でした。今度は戦病当時の肋膜の癒着がはがれ、心囊炎迄併発し、胸背部の甚しい激痛と高熱に又しても安静と朝晩二回ずつの湿布、前にさんざん苛めつけた血管は静脈注射も出来なくなり、一日四、五本ずつの皮下注射を打つのが其頃の日課でした。

だんだん暖かになるにつれて快復し、夏頃迄に縁側辺り迄這い出す様になったので、主人共々用心していたのですが、旧暦お盆の一六日朝迄何ともなかった主人が、留守にして帰宅して見たらもう生死の境を彷徨する程の変り方でした。その翌日からパッタリと声まで出なくなり、再び苦痛と懊悩の日が続く様になりました。咽喉が痛み、声が出ないのでお医者様は「慢性咽喉カタルだと思うが、 或は喉頭結核とも懸念されるから充分な消毒と大事をとる様に」と言われた時は、涙許りが先き立ち茫然としてなす術も知らぬ程でした。一家の大黒柱と頼む主人の重なる病の床、幼い子等を抱えて一家は全く暗闇そのもの、生死の境をさ迷い乍ら何うして死なれよう、何うして死なされようと一生懸命治病に努め、二二年一一月幾分快方に向い、何うやら愁眉を開いた頃、どんな因縁のつきまといか、俯伏せから一寸頭を擡げただけの事に「アッ」と叫んだまま又々苦悶し始め、まるで頭が空中をフッ飛んで歩く様な感じがするといい、ジッと額を抑え通しで一週間も過し、お医者様からは三叉神経の障害と話されたのでした。其後も絶対安静、仰向けのまま声もたたず発病以来二度目のお正月も病床で迎えたのでした。暖かになるにつれて再び元気を取戻し床から這い出せる程になりましたので、今度こそは起き上れるものと期待して居りましたら、又しても七月六日の午後、それまで元気に起きていたのに太り過ぎがもとで、 脂肪心臓となり、 突然狭心症発作を起し、 一時は死と諦める程の重態乍ら、 お医者様方の手厚い治療によりどうやら落ち着き、もう起きても大丈夫と話されても、病人の不安は一寸も去らず、ともすると動悸がする、眩暈がするの連続に、つきっきりのまま看護人は御不浄に立つ事も出来なかったのです。それからは一日に強心剤を何本打った事でしょう。医薬丈では飽き足らず、良いという事は何んでも試み、其他生長の家や闘病雑誌を読み、気長に精神療法を始めたのですが、依然として病人は日に数回の苦痛を訴えるのでした。幾分快方に向って来たと思うと又グッと心臓の苦痛が甚しくなり、其都度お医者様に診て頂いても「大した事はないから、無理しても起きられる様に」と言われるばかりで、別段の手当もなく、でも本人の苦痛は甚しく「仇の子にもこんな病気はさせたくない」と繰返すばかり、余りの苦痛と悩みに私共の隙を見ては何度か自殺までしようとした事でしょう。共に死んで呉れと願われ、共に涙の日を過した事も幾度あった事でしょう。本当に本人の苦痛の程は側につきっきりの私でさえも想像だも出来ない有様でした。こうした暗い苦しみの中にも病床三度目のお正月を迎えねばなりませんでした。今年こそいい年であります様にと、神をおろがむ私の眼にはひとりでに涙が頬をつたうのでした。暖かになっても依然として仰向けに寝た儘よくもならず、又特別悪くもならずに五月の農繁期を過した頃、今度は両肩、腕、背が突然に痛み出し、それ迄筆談で用を済ましていたのが、ペンを取る事は勿論、時計のねじ、呼鈴のボタンさえも押す事が出来なくなりました。身動き一つ出来ない上に口もきけず、おまけに手の自由まで奪われた主人の悩み方は傍で見るも気の毒な程、文字板を作っては一字一字拾ってやっと自分の意志を通じさせる為に、自分の思う事の何分の一も人に通ずる事は出来ず、遂には文字板を指す力さえもない程の時も度々でした。本人は勿論看護の私迄気ばかりあせり、こうした症状を繰返し乍ら、昭和二五年のお正月も亦病床の中でした。空頼みとは思い乍らも暖かになったらと看護に手を尽したのでしたが相変らず声も立たず眩暈、動悸は治まらず、身動き一つ出来ぬのでした。病人の不安は去る事なく四六時中、つきっきりの看病に病人共々悩みの日のみ送らねばならず、これ程の病人の苦痛も余所にお医者様は何時も「病気は落ちついたから、無理しても起きられる様に、余り病人に手伝い過ぎるから病人が起きられないのだ」と言われるので、無理に病人を起そうとすると、まるで地獄からでも出て来た時の様な苦しい顔して「もう少し待って呉れ、人に言われるまでもなく、一時間が一分でも寝ていたくない」とのみで、手の施し様もなく、唯悩み続けるのみでした。 最後に残された療法は、 結核新薬のストレプトマイシンとパス療法、期待薄い療法とは思い乍らも若しや声丈でも出るようにと、パスを服薬して見ましたら、尿量が多いがとても上気して困ると言われ、それでも無理に一本服んだのでした。ストレプトマイシンは生憎手に入らずに居る中に、近所の方から有難い御浄霊の御話をお聞きし、早速P先生にお願いして家にいらして頂いたのは、丁度二五年の六月の初めでした。

夜も遅かったので寝て居たお蒲団の上から手を翳して頂いただけで、主人はとても体がポカポカして気分がいいと言うので、お暇を見て其後三回程お願いして御浄霊を頂きました。其都度色々有難いお話や新聞を拝読させて頂き、疑っても治る不思議な妙智力にて、絶望に施す術もなき私どもの心に、有難い御救いの道を分らして頂きました。命の親と頼みし薬なしでは、夜も日も明けぬ程の主人も此時から一切の薬をスッパリと止め、唯一筋に大光明如来様にお縋り致しました。

六月一六日P先生にお願いして、一関のO先生のお出で頂き、御浄霊をお受け致しました。先生には一目見るなり「これじゃ起きろと言う方が無理じゃないですか、起きられないのが当然です。体中毒素で一杯ですよ」とおっしゃるのでした。何処に触ってみても痛く無い箇所が無い程の酷さに、本当に驚くばかり。それ以来慈母にも勝る先生から愛と熱の真心を以って、数々の有難いお話や御浄霊を頂き光明如来様の不思議な救いの御力と、明主様の御霊徳の程をよく分らして頂いたのですが、五年という長い年月を悩みに悩み、苦しみに苦しんだ私達は、まさか手を翳すだけでと今にして思うと勿体ないお話なのですが、浄化を頂く毎日にこんな事でいいものかしらと思うのでした。でも御浄霊を頂けば必ずその都度病人は不思議によくなって行くのです。O先生に「手を翳し乍ら看護されたら快復が早いですよ」と申され、早速六月二七日K様のお宅に行って主人の分は私が代行して共にお守様を頂きました。急いで帰宅し主人にもお守様を掛けさせ、共に救いの綱に縋らして戴いた嬉しさを喜び合いました。祖先が救われなければとのお話も頂き、同じ日O先生、P先生、K様がお出でになり、 屏風観音様もお祀りさして頂いた私共の喜びは、まるで慈母の懐にでも入った様な安心と心の明るさを覚えるのでした。 其晩O先生に早速御浄霊を頂き「今日は楽に動けるから動いて見なさい」と言われ、初めて左横に楽に動けたのでした。枕覆一つ取替えるさえも眩暈だ、動悸だと騒いでいたのに、楽々向く事が出来たので、本人は勿論、不思議な神様の御力に驚かざるを得ませんでした。二日程して腹痛の酷い御浄化を頂きましたが、善言讃詞をあげて早速手を翳さして頂きましたら、段々落ちついて来るのでした。私が手を翳してもと思うと喜しくてなりませんでした。でも主人は余りの苦痛から一時は注射もして呉れと迷いも生じた事もありました。七月一日の朝叔父さんが突然「何か変った事でも出来たんじゃないかと思って来て見た」と言って、お見舞に来て下さったのでした。それは主人の亡くなった父親が夢枕に立ち「急用が出来たから是非来て呉れ」と二度も繰返され、叔父が「病人は何うだろうか」と聞いたら「うんTは死にそうだ」と言われたとの事でした。「T」とは亡父の弟分で近くに家を建てて別になる筈だったのが、舌癌の為手術の甲斐なく、生れたばかりの子供を残して淋しく死んで逝った叔父さんで、三三年の年忌辺りになっていたのでした。

亡くなった父親が信仰の厚い叔父さんの夢枕に立つとは何を意味するのだろうかと、主人は随分考えさせられた様子でした。此頃光明如来様にお縋りした私達に対して、周囲の反対は猛烈だったのです。叔父は「信仰には反対が付物だから、人に何と言われ様と迷わず信仰の道に進む様に」と話されましたので、主人も私も反対の中にあって一〇〇倍の力を得た思いでした。少しでも迷うた事が申訳なく、其日から一生懸命お道に縋らして頂きました。

其後も時々心臓の御浄化を頂き、其度何時もお守袋の裏側一杯に青黒く染るのでした。先生にお伺いしましたら、薬毒の故だとお話頂き、一カ月以上も続いて段々染らなくなり、それと同時に心臓の苦しみも大分楽になって来ました。其後O先生お出での折「光明如来様を御奉斎申し上げると因縁が早くとれるから治りも早い」とお話頂き、 早速お祀りさして下さる様にお願い致しました。

七月二二日には勿体なくも本部のB先生を御案内して頂き、先生から懇ろな御浄霊をお受けし、初めて俯伏にして頂きました。相当な苦痛らしくまるで赤ん坊をお湯に入れた時の様に体中を強ばらして、枕にしがみつくのでした。御浄霊を頂き楽になってから聞いたら、「まるで地獄へでも落ちて行く様なとても恐ろしい気持だった」と話すのでした。B先生お帰りの折に「相当の邪霊が働いているからしっかりしなさい。うっかりすると家迄亡ぼす程の邪霊だから命がけでかからねば」とのお話に本当に寒気がする程の思いでした。

先生方がおかえりになった後とても御浄化がきついので、O先生をお迎えして御浄霊を頂き、側で私が『霊界叢談』を読まして頂いて居りましたら、T叔父さんと其息子の戦死したRと祖母らしい人(主人が生れる前に死んだので)が日に浮んだとの事でした。

翌日も又同じ様に御浄霊を頂き、『霊界叢談』を読んでいましたら、疾くに死んだ婆やその次のRが冠をかぶってニッコリ笑ったと思う中に、今度はT叔父さんが明瞭しない顔をして出て来たので「アアT叔父さんだなあ」と思ったら、急に足もとからゾクゾクとなり、とても気持が悪いといって酷い顔をしていました。早速善言讃詞をあげて御浄霊を頂きましたら落ちつきました。この時始めて先の叔父さんの夢も声のたたない原因もわかったのでした。B先生がお出でになった時、O先生に舌癌の箇所をよく浄霊する様にと仰言られた由、喉頭結核にしては声がたたないだけで、それらしい症状もなく、不思議に思い厳重な消毒も遂怠り勝ちになっては、 主人によく叱られたものでした。 声がバッタリ出なくなったのも、 丁度お盆の一六日、 主人にはT叔父さんの霊が救って貰い度くて、憑依していたと言う事がよく判りました。

T叔父さんの霊が主人に来ていたとは、誰もが想像もしなかった事でした。翌日早速仏壇を拝みお墓参りをして、T叔父さんの家にも御屏風観音様をお祀りして頂きました。それからは丸で一枚一枚薄紙を剥ぐ様に、一日一日がだんだん楽になって来ました。

七月二九日には酷い御浄化を頂き、電報を打ってO先生にお出で頂き、早速楽にして下さいますと同時に、今度は上半身を起して頂きました。病人はまるで地獄からでも出て来た顔と言ったらいいでしょうか、物凄い顔に母等余りの酷さに逃げる程でした。それ程のも御浄霊を頂くと忽ち楽にして頂ける嬉しさ、光明如来様の無量無辺の御力には唯々有難さで一杯でした。

七月三〇日は朝からのひどい雨にも拘らず、先生方を始め信者の皆さんにお出で頂き、光明如来様をお祀りさして頂きました。御讃歌の中に「光明如来斎き奉りし今日よりぞわが家ぬちは明るかるらむ」と御座居ます様に、今迄暗かった家の中も、そして私達の心も急に明るくなった様な、余りの有難さ嬉しさに、何度此御歌を拝誦さして頂いた事でしょう。

八月一二日には又心臓の御浄化を頂きましたが、翌日丁度O先生がH先生を御案内してお出になり、H先生には一週間つきっきりで御浄霊頂きましたのでとても楽になり、先生のお帰りになる頃は、光明如来様を起きて拝む程の元気も出て来ました。

八月二七日(旧暦お盆の一四日)にはK様のお宅に光明如来様の御奉斎がありましたので、私も参加さして頂き、其後主人が二三日から少し浄化一緒にO先生のお伴をさして頂きました。夕方若い者が、とても浄化が酷いからと言って馬で迎えに来ましたので、もう夜も一二時に近かったのですが、O先生に御無理をお願いして、家迄御一緒に来て頂きました。帰る道々先生に「何時からお盆棚を飾られ、何時から病人が悪くなったか」と尋ねられましたので「二二日の夕方お飾りして二三日から悪かった」と申し上げたら「それではお盆棚の故ですから、帰ったらよく御先祖様にお詫してあげるから」と話されて帰宅するや、直に御仏前にお詫びして頂きましたら、もう病人はニコニコする程楽にさして頂きました。それまで凡そ仮死状態七時間、日先生には打っ通し汗だくで御浄霊をして下さいました由、 本当に御迷惑をおかけ致しました。 O先生によくお伺いしてからにすればよかったのでしたが、何時もの習慣から遂うっかりしてお飾りしてしまい、飛んだ失敗をやったのでした。ここでも霊の存在を明瞭と分らして頂き、目に見えぬ知らぬ事とはいい乍ら、全く恐ろしく思いました。翌日は昨日の今日とは思われぬ程になり、 楽に床の上に起きられたのでした。

其後順調に快方に向い、九月五日にはO先生、H先生お出でになりましたので、お願いして丸二カ年以上も寝たっきりの床を換えて頂きました。仰向けのまま身動き一つ出来ず寝たままだった床はまるで人間の鋳型そのもの、これでは体も悪い筈と先生方も驚かれた様でした。敷蒲団を片づけ様と思って端を持ち上げたら、蒲団の周囲だけが手に残って、背中の当った部分は下に残ったのです。二枚敷いた蒲団も厚い畳もみんな一緒になって、まるで一枚の板の様になり丁度よく熟した堆肥の様に真黒に板にこびりついていたのでした。その臭さたるや、 とても手では取れず、草削りを持って来てやっと取る事が出来ました。 病人の二カ年の苦痛の程度は聞かずとも、 此状態を見ただけで成程と思われ、お医者様が仰言られた様に「大した事はない、勇気がないんだ」という事だけで誰が丸二カ年以上も枕覆一枚取替える事も出来ずに寝たままでいるものがございましょうか。全く驚くばかりでした。

九月一七日家でお祭をさして頂いた時は、何年振りかで着物に帯をしめて礼拝さして頂きましたので、一時は死んだと迄評判された主人の事とて、五年振で見る元気な姿に、いらした方々は吃驚するやら、喜こんで下さるやらで御座居ました。九月二〇日には初めてうつ伏せから一人で起きて坐れる様になり、御飯も初めて起きて頂きました。丸二年以上というもの、雨の日も風の日も、 凡そ日に三度共匙でのみ食べさせられていた主人の事とて、何んなに嬉しかった事でしょう。H先生にはお祭以来つきっきりで、誠心溢れる御浄霊頂きましたので、身動きも随分楽になり、この頃から文字板も捨て、微か乍らも少しずつ饒舌れる様になりましたので、私等は嬉しくて嬉しくてこみ上げて来る涙を何うする事も出来ない程でした。

一〇月六日の午後主人の枕元で『光の道』の御神書を読まして頂きもう一頁で読み終える時になったら、とても眠くてたまらなくなりそのまま眠ってしまい、不思議な夢を見てハッとして目を覚したのです。それは明主様御夫妻がお出になり、明主様から御言葉を頂き余りの有難さに主人共々御礼を申上げていたところでした。翌日O先生がいらしたので、この事をお話ししましたら「大変いい夢を見られたから、必ず御守護を頂けますよ」とお話頂き、有難いやら嬉しいやらで一杯で御座いました。それでは今日は必ず立てるから立たして見ましょうと言われ、両方の足を一時間ずつ浄霊して頂きましたが、曲った膝小僧はなかなか伸びず、片方だけを浄霊して比べてみたら二寸も違うのです。両方よく浄霊して頂いて、立たしてみたら本当に立ったのです。何んなに嬉しかった事でしょう。主人も私も唯涙あるのみ、O先生も我が事の様に喜んで下さるのでした。

一〇月一一日には初めて畳に足を踏み出し、H先生の御浄霊に依り、それからは毎日杖や肩に縋っては一米二米と歩き出し、子供等は巻尺迄持ち出す騒ぎに、今日は勝手迄、今日は広間迄と、広い家の中を少しずつ歩く様になり、朝夕の礼拝も家族と揃って出来る様になりました。

本当に顔を横に向ける事さえも、眩暈だ動悸だと騒いで居た主人がと思うとまるで夢の様でした。

一一月一六日にはO先生お出でになり、五年振りでお風呂に入らして頂き、本人の喜び嬉しさは格別の様でした。二五日の臨時祭にはリヤカーに乗って始めて参加さして頂く事が出来ましたので、会う人毎に吃驚されました。お祭後背と腰の浄化を頂きましたが半月程で落着き、一二月二五日にはP先生、Cさん、Eさんのお宅の光明如来様の御奉斎に又リヤカーで参加さして頂き、私の生家にまで立ち寄ったら八〇の年寄始めびっくりし、まるで夢の様だと話すのでした。翌日の夜中頃から又腰とお腹の激しい御浄化を頂きましたが、だんだん落着くに随って前よりもズッと身動きも楽になり、今では先生方の真心のお蔭をもちまして家の中は自由に歩ける様になり、声も相当高くなり楽に自分の用を話せる程になりました。本年二月一二日一関の臨時祭には主人共々お詣りさせて頂き、そしてB先生より懇ろな御浄霊をして頂きましたので、其後は一層元気になり、話す事も歩く事も随分楽にさして頂き御利益の偉大さに今更の如く、唯々感謝の念で一杯で御座います。本当に私達がこのお道にお縋りしなかったら、今頃はどうなっていた事でしょう。徒らに薬のみに頼っていた当時を思うと、ゾッとする程です。御讃歌にもあります様に「其頃を顧みすれば恐ろしも闇路杖なく彷ひし吾」病気の真理も分らず、霊の存在も明瞭分らず唯悩みに悩んだ当時が、恐ろしく思い出されます。今では一家五人お守様を頂き、暗かった家の中も明るくなり、 楽しく希望の毎日を過さして頂けます幸福、唯々明主様への感謝で一杯で御座居ます。此他一二月一二日には馬が酷い腹痛の御浄化を頂きましたが、御守護を頂き、忽ち元気にさして頂き、子供達も度々御浄化を頂きますが、その都度御浄霊の有難さに、薬等全く昔の事の様に忘れる程になりました。此有難い尊いお恵みを一人でも多くの方々にお分ち致し度く、嬉しさの余り拙文も省みず御奉告申し上げさせて頂きました。

微力な私共では御座居ますが、御宏恩の万分の一にもお報い致し度いと念願致して居ります。

(二六年三月五日提出)

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秋田県 I・Y

数々の数え切れぬ御守護を頂き、 無き生命をお救い頂きました感激を、そのままここに御報告さして頂きました。

私は二人の子供の母親でございますが、昭和二三年の春よりどことなく身体の調子が悪く、花笑い鳥うたう春だというのに、私の心は次第に憂愁にとざされて行くのでした。医師の診断によれば脚気、痔、胃腸、肝臓病、肋膜炎、両肺浸潤とまるで病気の問屋で、思うだにぞっとする程でございました。あらゆる手当を試みましたが少しもはかばかしくなく、医師からは絶対安静を言い渡され、日一日と衰弱する一方なので、近所の人々からは「棺桶に片足を入れているようだ」とまでいわれました。又丁度その頃妊娠をしていましたが、医師から「こんな状態ではとても母体がもたない」と言われ人工流産をさせられ、それからは子宮も痛み出し益々悪化の一途を辿り、やがて右下腹部に赤ン坊のコブシ大の固結が出来、右足をつけて歩く事が出来ず、自然ビッコを引きつつ歩くような始末となりました。

一方、軍隊気質の抜け切らない主人は、少しも同情心がなく「お前なんか何時死んでもいい、新しいのはいくらでもある。畳と媽は新しい程いいからな」と言われた時の心中をお察し下さいませ。やがて子供をつれて実家にかえり、主人とは別居生活をすることとなりましたが、食欲はだんだんなくなり、一かけらの御飯ものどを通らなくなってしまいました。実家では母親一人が寝食を忘れて、私の世話はいうに及ばず、子供の面倒までみてくれましたが、母の誠は神に通じないのか益々悪くなる一方でした。

来る夜も来る夜も子供を抱き、泣きくずれて枕をぬらさぬ夜とてありませんでした。母や主人や子供の事を考えると、私の為どんな心配と苦労をかけることかと、身を切られる思いがし、早く丈夫になりたいと焦ればあせるほど益々死期が近づいてくるようなので、思わず不覚の涙のこみ上げてくるのをどうする事も出来ませんでした。いっそ一思いにあの世へと、幾度死を覚悟した事か知れません。それでもまだ医師よ薬よと飛び廻り、最後には自分の住宅まで売らなければならぬ羽目となりました。

今にして思えば、ああ何と有難い日であったでしょうか。昭和二三年九月一二日、 ああこの日こそ私にとっては生涯忘れることの出来ない感激の更生の日でした。そんなに尊くも美しき歓喜の人生がかつてあったでしょうか。「夢に見たこともない」「聞いた事もない」「思ったこともない」有難い光明如来様が、こんな曇だらけの私共をもお見すてなさらず、御慈悲の御手をさしのべて下すったのでした。主人がはからずも列車の中で、戦友のS先生にめぐりあい、この尊い光明如来様をお知らせ下さったのでした。先生は丁度、遠い静岡より秋田地方へ御布教中でした。当時の私はどうしても素直に信ずる事が出来ず「医師でも治らなかった身体が、何で神様如きで治るもんか」と腹の中で笑っていました。九月一二日夜、S先生は御多忙中にもかかわらず、私一人の為にわざわざ三里もの道もいとわずおいで下さったのでした。その晩は半信半疑のまま二度御浄霊を受け、床に就きました。処がどうでしょう、夜半どうもお腹の工合が変なので起きてみますと、真黒な血がどくどく出ているではありませんか、その翌朝の気持よさはたとえようもなく、白々と東方が明るむ頃思わず飛び起きてしまいました。歩いてみるとあれほど痛んでいた右足がビッコも引かずに歩けるではありせんか。オヤと思ってお腹に手をやってみると、腫れも固結もどこへやらすっかり消失し、体も急に軽々しく爽快になりました。幾カ月か笑いを忘れた淋しい尖った私の顔も、明るい微笑にほころんでいるではありませんか、その時の嬉しかった事今でも決して脳裡を離れません。まことに手の舞い足のふむ処を知らずとは、この心境を言ったものではないでしょうか。何だかじっとしておられず、すぐ寝衣をぬぎすて、洋服に着かえてお台所に立ちますと、心の奥底から力の盛り上っているのが感ぜられます。昨日に変る今日の私の姿を見て、さすがの先生もびっくりされ、主人も「本当か本当か」といって嬉しさのあまり後の言葉もつづかぬ程でございました。此時の嬉しさはとてもとても筆舌に尽すことは出来ません。主人はその年の一〇月に、私は翌年の一月に入信さして頂きました。又主人は瑞雲台建設の御奉仕に参加さして頂き、私は四月に御本部へお詣りさして頂きました。

拙文ではございますが、これを綴らして頂いているうちにも又熱いものがこみあげて参ります。あの時の私の心境に比べますと、光明輝かしき、希望にみちみちた今日この頃の生活は何と勿体ない事でしょう。心から厚く厚く御礼申し上げますと共に、光明如来様におすがりして戴いたこの生命のあらん限り、一生懸命地上天国建設の為、御奉仕さして頂く覚悟でございます。

明主様、本当に有難うございました。はるか雪の秋田の山奥より、厚く厚く御礼申し上げさして頂きます。

(二六年二月一五日提出)

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三重県 N・Y

私は昭和二四年三月初旬より、発熱が続き、すぐ医師に診察して頂きましたら「肺浸潤」と言われ、その時すでに妊娠三カ月の身体でした。 医師は 「身体が弱るから一日も早く人工流産する様に」と申され、早速致しました。処がそれより二カ月余り大出血が続き、身体の方も衰弱し、X線により左上部肺がだんだん悪化し始め、六月頃より白きベッドの人となりました。入院後一〇日目頃より痰の中より結核菌が発見せられ「肺病」と言われ其の日より隔離の身となり、一度に地獄につき落された思いで、人に話しを交すことすらいやになり、悲しみの底に落されて仕舞いました。処が医師は「貴女のは、片方上部故手術が出来ます、すれば良くなるでしょう」と言われ、このままでは一日一日死に近づく思いにかられ「すれば良くなるでしょう」のたよりない言葉乍ら医学は最高の物と信じた私は、大決心をし、同年八月三日背中の肩胛骨を切り、合成樹脂球一一箇つめました。手術後一カ月程高熱がつづき、我ながら自己の身体を見るのもいやな程弱り切って仕舞いました。歩行すら困難になり、一カ月目にX線の透視を受け、又も右肺浸潤におかされている事を聞き、家の経済方面も考え合せ、医師の強い反対も押切り、九月二四日退院しました。手術した方の左手は全く動かなくなり、毎日三八度の熱が続き肩はいたみ、床の上に三〇分すらも起きていられない身上となりました。三人の子供を残していよいよ死の途へと想うと、私の苦しみ、悲しみは、言語につくす事は出来なかったのです。

その時、近所のUさん(二〇歳)から「不思議に病が良くなる神様がある」と聞かされ、しかも「大分変った事をする」と言われますので、私は医学で快くならないものが、どうして快くなるものかと思い、唯物主義の私は、「神」と聞かされました時は、嫌な思いがしましたが、どうせ駄目な身体故、一つためして見る気になり、一一月二七日にE先生にお願いしました。処が初めは余りにも、常識では判断が出来ぬお話し故、「此人は多分頭が変だ」位に思い、 お話を聞くより、 先生の顔を穴があく程見て居りました。二、三回続け、先生に毎日遠路来て頂くのも悪く思い、そのお力を主人が頂く事になり、毎日主人に浄霊を受けていましたら、四日目頃より、手が動く様になり、身体も寝て居られない程元気になって参りました。如何に無信仰の私も、「ああ、急にこんなに元気にして頂き、このお力こそ神様でなくて、何でありましょう」と、生れて初めて、真心より、涙を流して、手を合せて御礼を申しました。

主人もどんなにか喜びました。その後一カ月程で以前よりまして、健康な身体になりました。もし、私だけの奇蹟だったら、人にすすめられぬと思い、私も「お守様」を頂き度くなり、主人に申しましたが、なかなか聞き入れられず、仕方無く、内密で私も入信させて頂きました。

其の後、次女が、リヤカーの輪にて足をはさまれ、大変ひどく怪我しました。その時も、浄霊のおかげで救って頂き、子供達も、次々に浄化致し、何と御礼を申してよろしいかわかりません。主人は、入信後私のみ浄霊を致しましたので、私だけの奇蹟と思い、他人様の救いを好まず、私は蔭で一人でも多くお導きをさせて戴きましたらきっと、主人も救われます事と信じて居ります。

明主様数々の御守護、余りの嬉しさを、拙なき筆にて御報告させて頂きました。明主様、有難う御座居ます。

(二六年一〇月一八日提出)

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新潟県 T・T

謹んで肺結核の体験を御報告させて頂きます。 私は幼少の頃より腺病質で体も大変弱く、五歳の時ジフテリヤになり危く死にかけた命を数十本の注射で治り、六歳と七歳の時、二度肛門に悪性の腫物が出来て手術をして治すという工合で、病気の連続でした。学校卒業後工場に勤めておりましたが、昭和一九年九月突然胸痛と四〇度近い高熱を発し、医者の診断を受けた処、左湿性肋膜炎との事で工場を休み、絶対安静を一カ月続け、その間毎日の様にカルシウム注射をやり、水も一升五合位とり、ようやく固りましたので再び勤めに出ましたが、常にだるく、微熱があり、胸も痛く蒼黒い顔をして何時も晴々とした体にはなれませんでした。再発を恐れて常に健康診断を受け、又栄養のありそうな食物を摂り、栄養剤など服み、体は充分に注意しておりました。

昭和二一年六月市内の病院で健康診断を受けた処「肋膜の方は大体治ったが、今度は肺が悪くなってきている。まだ大した事はないから、一カ月位工場を休めば大体よくなるだろう」と言われました。

一時は茫然として了いましたが、一カ月位でよくなるだろうとの医師の言葉に気をよくし、「左上葉結核」の診断書を工場に出して休み、一カ月後には自覚症状など全然なくなり、今度こそすっかり治ったものと思い、再び病院で診察を受け血沈、レントゲン撮影をやってもらった処、結果は全く正反対で「病気も大部進行して来た。今が君の命の岐れ目だ、このまま家で不規則な生活を続けるなら、命は保証されない。新潟市郊外に国立の療養所があるから、そこに入って規則正しい療養生活をすれば治る見込みもある。 家族の人ともよく相談する様に、 兎に角家へ帰ったら安静にして寝ている様に」と申し渡され「両肺結核」の診断書に、療養所の用紙まで渡され、全く暗然たる気持で家に帰って来ました。「不治」という肺結核に対する先入観念から、命も半ば諦めた様な気持になり、病院から渡された薬をただ習慣的に服んで安静にして寝ておりましたが、 其頃から症状も本格的になり、 盗汗、 微熱は毎日続き、肩はこり、 食欲も余りなく、 日増しに衰弱してゆく様でした。

その頃より浄霊の事も或程度聞かされておりましたが、医学でさえ結核に対しては何等決定的な治病法もないのに、民間療法などでは治る筈はない。何をやっても結局は同じ事だと思い、家族の者が「一度先生に来て頂いて浄霊を頂いてはどうか」と勧めてくれましたが、一向に乗り気がしませんでした。

処が昭和二一年七月三〇日、私には知らせないで、親戚の人がお願いしてN先生に御越しを願いました。「病気は浄化作用で決して恐るべきものではない」事など、病気の事に就いて大変叮嚀に、御熱心に説明して下さいましたが、余りの耳新らしいお話に、どう判断してよいやら判りませんでしたが、「貴方の様な肺結核の人が、浄霊によって大勢治っている」と言われたこの一言に、私も浄霊していただく気になり、N先生からやって頂いたら、何だかよい気持になりましたが、帰られてからも心が定まらずにおりました処、家族の者に連れられて現在のK中教会長、O先生の御宅へお伺いしました。

順番を待っている中に、次第に胃が痛み出し、一時間位後には堪えられない位猛烈に痛むので、会長先生から浄霊をして頂いたら、二〇分位で吐き、あれ程の痛みは完全にとまって了いました。

初日からこれだけの体験を得たので、これ丈の効果があるなら結核も治るに違いないと思い、翌日から通って浄霊を頂く様になりました。盗汗も次第に出なくなり、肩のこりもとれはじめ体も気分も日増しによくなってゆき、来てよかったとつくづく思いました。私の外に結核の方も四、五人来ておられましたが、皆異口同音に工合がいいと言っておりました。

毎日先生のお宅へ行ってお話をお聞きする中に、これはただの民間療法とは違う事を知り、一刻も早く教修を頂きたい気持になり、昭和二一年八月一七日O会長先生からお守を胸に下げて頂き、 大変な感激と誇りとで、 生れ変らせて頂いたのでありました。

入信後も一カ月半浄霊を受けました。お蔭様であらゆる自覚症状はなくなり、体重は増し、気分も実に爽快となり、つくづく人間としての生甲斐を感じました。

肺結核でもどんな病気でも、こんなにどんどんよくなって行くんだから、自分もこんな人助けをしたら随分愉快だろうと思い、会長先生宅に一〇月の初めから助手として使っていただく事になりました。

昭和二一年一〇月二九日には、初めて会長先生に連れられて熱海で明主様に御面会させていただきました。昭和二一年は悲しみに明け、大変な喜びの裡に暮れました。

二二年三月頃より然毒が出始め、特に手や足に酷く体中に拡がり、猛烈な痒みの為、毎日明け方頃まで殆んど眠る事が出来ない位でした。

その頃より再び肺の浄化作用が始り、熱が出て来て体がだるく、胸も痛み、一回目の浄化の時よりも衰弱多く、一日の半分以上は床に就き、やっとの思いで毎日会長先生の御宅まで行って浄霊を頂いてまいりました。

私の衰弱しきった体や、蒼白い顔色を見て、近所の人達は誰も私が助かるとは思っておらなかったそうであります。こんな状態が二カ月も続き、一時は全く壁に突当った様な気持になりましたが、八月に入り然毒が治り始める様になってから肺の浄化も次第におさまり、二度目の浄化も全く御守護によって終らせて頂きました。

それから二四年の半ば頃までの一カ年半は、毎日少しずつ浄化してだるい日も続いておりましたが、一生懸命に浄霊をして頂き、又私も殆んど毎日の様に浄霊をして頂きました。

二四年七月頃から非常にだるい日が続いておりましたが、八月一一日になり、朝から急に熱が出始め、一一時頃には四〇度位になり、足も腰も立てなくなり、頭はボーッとして来て、何が何やら判らず、その上呼吸が苦しく物凄く咳と痰が出て、体中どこを触っても火の様な熱です。食欲など全く無く、ただ水だけが大変うまく、会長先生はじめ諸先生が代る代るお越し下さり、御浄霊して下さいましたが、頭や首、肩の熱がなかなか下らず、一〇日ばかりの間にうんと衰弱して了いました。こんな酷い浄化は今回がはじめてで、生も死も神様にお任せしておりました処、今度も再び御守護により二週間位経てから次第に熱も下り、一カ月後には大体治りました。浄霊後は何年間も続いた体のだるさもすっかりとれ、顔色もずっとよくなり、体も軽くなり、気分も爽快になり、浄化は本当に有難いものだとつくづく身を以って体験させて頂きました。その後二五年になり四月から六月頃まで、軽い肺の浄化がおきましたが、それ以後は本当に好調で如何なる仕事にも、何の不安もなく耐え得る様な健康体にさせて頂き、現在では専心御用を勤めさせて頂いております。

現在六年前を振返ってみると、全く夢の様な気持が致します。世間には以前の私と同様肺結核になられ、希望のない生活を送っておいでの方も多いかと思いますが、一日も早く目醒めて、浄霊を受け健康体になられる事を願っております。

(二六年四月一一日提出)

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大阪府 Y・Y

私は結核患者でした。 正しくは慢性結核恐怖症とも言えます。何故なら私が医師から結核性喘息両肺浸潤との医学的断定を下されたその瞬間から、私の無垢だった頭脳には一つ一つ結核を恐怖する事のみが刻み込まれて参りました。それまでは結核というものにさして深い関心が無かった為か、医学に絶大な信頼を寄せていた為か、そんな恐しいものと思って居りませんでした。 処がさて自分が結核という宣告を受けた後というものは、余りにも総てが悲観的で、期待は次から次へと裏切られ、その都度私の得るものは大なる恐怖でありました。そして一つとして理論に反した事は無いに拘らず、予定は徒らに逆のコースを進みました。医師は私に笑い顔で私の健康恢復を約束して呉れた筈でしたが、その約束とは反対に私の肉体はボロボロになってゆく冷い現実が、私を悲嘆のどん底へ追い込んで終いました。その私が結核の正体を教えられる今日迄の、真実を知らされない者の悪戦苦闘哀れな恐怖症時代を話してみましょう。

古い話ですが、私がまだ一八歳の中学生徒の頃だと思います。その頃から私は結核と知り合いになったのです。忘れもしません私の今は亡き父が、一粒種の私を吾が身以上に心配して呉れまして、当時忙しい勤務を捨てて私を伴い、医師へ凡そ知る限りの伝てを求め、 私を結核から護ろうと努力して呉れました涙ぐましい悲惨な想い出は、未だ消えもしないで私の脳裡に焼きついて居ります。当時の父は社会的にもかなりな地歩を有した知識人であったのですから、恐らく結核に対する知識は豊富であった筈です。その頃は現在程でもなかったにせよ、やはり結核予防のかなり喧しく言われた時でありましたから、父としても結核の恐しさというものを充分認識して居ったのでしょう。だからこそ苦しい生活設計の大部を私の病気の為に割いて私を結核から護ろうと努力して呉れたのです。

そして最新最善の手段が選ばれる可く私の体は各所であらゆる面に渉って余す所無く、繰返し検診されました。問診、聴診、打診、ツベルクリン反応、レントゲン透視、撮影、血沈、肺活量等々唯煩わしい許りで私の秘められた肉体は医学の完全暴露する所となり、それからの私は父の指示に従い選ばれた療養所へ通う事を日課と致しました。毎日の注射は、私には決して愉快な事ではありませんでしたが、約一カ年は続けました。

斯くの如くして結核に関する限り凡そ無智であった私の脳髄には、結核の知識が初歩から嫌応なく叩きこまれ同時に結核の恐る可き事も植付けられて参りました。そして日一日と私の心身は結核恐怖症に蝕ばまれてゆきました。然し此の結核恐怖症がどう働いたものか、不思議にもその後の出来得る限りの医療が効を奏し、私の肉体を犯した処女結核は一応退散したかに見え、私は次第に元気になって参りました。医師も「大丈夫」と喜びの宣告を発して呉れ、父も大いにその喜びを頒ち合ったものでした。これで話が済めばまことに結構な事でありますが後があるのです、聞いて下さい。

私は其後追々と体力を恢復して参りました。そして何事もなかった様に通常の生活を取り戻す事が出来ました。月日が経つにつれて悪い夢でも見た様な気持で過去の事は私の脳裡から薄らいでゆきました。別に変った事もない様でしたが、唯一つ闘病時代の収獲として残ったものがあります。つまりそれは結核恐怖症であります。「恐る可き結核」「若い肉体を蝕み、青春を葬る恐しい結核」「いつ何時何処から襲い来るか判らぬ恐しい結核」私はそれからというもの、年に似合わぬ神経質な病的な潔癖性へといつしか転向して参りました。これもみな恐しい結核に二度と犯され度くない一念からなのです。そうする事が結核を予防する為罹らぬ為の立派な方法であると習慣づけられ、自身も信じて居りました。

それから数年、私の肉体は異常なく結核から護られて(?)居りました。遂に時局は体を応召させましたが、立派(?)に合格と言われ、麦飯生活を送る様になっても御国の御役にと張切った奉公が出来たものでした。併し依然として結核恐怖症は健在であり、習慣となったその頃では自信満々、特に留意の必要もなく、無意識にも結核に対する予防的手段はとられていた様であります。

処が、私がこれ程注意をしていたに拘らず、突如として私の自信は根底から覆えされて終う重大事実に直面したのであります。

軍隊生活一カ年、何事もなかろう筈の私の肉体に新事実が発生しました。厳しい夏の或る日、私は前夜来の不眠と訓練の辛さとで気分が勝れず、訓練休を申出で、軍医の診断を受けたのであります。何事も予知する事のなかった私は、只疲れが出たのだと軽く考えていたのですが、軍医の診断は何か意味あり気な様子で、私にレントゲン検査を命じました。私はふと何か不吉な予感を感じつつ言われるままに軍病院で検診を受けました。結果はやはり予感の通り入院命令となって私を悲観させました。思い掛けぬこの結果を考えてもみましたが、私の頭は痺れた様で只朦朧、周囲の人達の世話にまかせきりで訳も判らず、 白い着物を着てベッドに横たわる自分をはっきり意識したのは何もかも済んだ後でありました。

再発、そうです。私の肉体から消滅してしまったと思っていた結核が、何の事はない永い間温存されていて再びチャンスを狙って私を驚かしたのです。

それからの事は申し上げますまい、何度申し上げても同じ事、 安静、 注射、 服薬、 栄養、 検診、 もう私にはくどい事の連続、青春も、希望もペチャンコです。私の身体には憂欝な薬の臭いが染みついて離れません。唯茫然と天の時至るを待つの境地でした。だが併し、不思議な事に私の心の他にもう一つの私の心があって、その心では何かを乞い願い、何かを求めている矛盾した複雑なものがあった事は否み得ません。でも現実は文字通り生ける屍でありました。

その後二年程一進一退の症状のまま兵役を免除され、退院を命ぜられて幽霊の様な姿を自宅へ送られ懐しい筈の我が家の床に入ったのですが欝々として気は晴れず、悶々の毎日が続きました。私はどうなるのだ。私はどうすればいいのか、私の健康はどうなったのか、私は苦悩に喘ぎました。且ては共に心配し、心の杖とも頼めた父は今既に亡く、母は神経過敏の私を迎えてただおろおろする許り、全くの悲劇だったと言えます。

恐しいもので私の結核恐怖症は嫌が上にも募りました。生れもつかぬ病的な依怙地さと、冷血漢的な性格は、みなこの結核恐怖症の基盤の上にでっち上げられたものです。

医師の指導も、 書物の指針も、 経験者の忠告も、 世間の常識も、 新聞、 ラジオの警告も、 薬の宣伝も、 異口同音私を結核恐怖へ、結核恐怖へと追い立てます。そうして進んで行ったのは地獄への道でありました。

やがて私は大量の喀血を致しました。私の心は大きな激動を覚えましたが、茲で始めて私の心の中に大きく表面化して来たものがあります。それは本能の目覚めであったのです。総てが行詰って終った時たった一つ残されている道、そしていつ誰でも自由に選べる道、為す事が為し果され尽してもいずれは行き着かねばならない道、それが私の場合愈々最後の切り札として与えられたのです。

それは真実の道、光への道でありました。私は恐る恐る神の御名を口にしてみました。変にギコチないものがありました。併し必死でありました。私の十幾年培われた結核恐怖症を解決するものは神の御力に縋る外、道はないと痛感しました。

皮肉、余りにも皮肉です。結核を一番に解決して呉れる筈の医学が私に与えて呉れたものは結核をより以上恐怖する事だけ、結核を癒す可き筈の種々の指針、指導、警告が更に更に恐怖のみを植付けるに役立ちて益なく、そうして創造されて来た結核恐怖症が更に結核を生み、恐怖症を育てる何と恐しい事なのでしょう。そしてその解決の鍵は神が有せられるものであるとは、噫々何をか言わん哉……

神吾を見捨て給わず、 私は救われました。 私は救世教の信徒に加えて戴き早や六年、今は輝ける真の健康体を与えられました。勿論結核恐怖症は既に雲散霧消して残るものそれは只笑いの種、私は徒らに苦笑するのみです。

茲までの御話で私もほっと一息します。

奴羽玉の闇に杖なく彷へる人こそ訪ねよ光明の国

幾多の紆余曲折を経て、偽られた世界から真実の世界への行程は、私にとって良き体験でありました。明主様の大慈悲に縋って初めて知る神の加護は、私の魂の偽りの垢や穢れを、すっかり洗い浄められました。そして其処に総ての真実を教えられたのであります。

私は叫び度い、信仰を土台として成った医術でなくば結核の恐怖からは絶対に離れる事が出来ない、結核を恐怖する限りは絶対結核を癒す事は不可能だと、真実を知らされた者のみ真の健康を把握出来るのだと。

今日猶幾万幾百万と知れぬ結核患者が偽わられた世界を知らで、儚ない夢を画いているかと思えば私は断腸の思いがする。一日も早く彼等の真実に目醒むる日の早からん事を祈りつつ私の回顧を終る事にします。

末筆でありますが明主様に厚く御礼を申し上げます。そして私の回想録が同病同憂の士の何等かの役にも立てばと念じ此の稿を終ります。

(二六年七月一日提出)

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佐賀県 S・M

昭和一〇年一人の兄を訪ねて北海道の片隅から上京し、昭和一五年入信さして頂きました当時を、私は今九州の地でしみじみと追憶しています。あの時の感激、あの時の感謝、それが今尚薄れる事なく残っているのは全く日々の大御恵みの賜物でございます。

人の心の常として、日々に疎くなるのが世の常なのでございましょう。併し御光の中にある私は、来る日も過ぐる日も、奇蹟の大御恵みをこの目で見……此心に映さして戴いて一〇年間起居して来たのであります。御守護で御座います。忘れる事も出来ないようにして下さったのでございます。

明主様、有難うございます。

その頃の私は結核の烙印を捺されていました。当時の兄も同様に「左肺上葉結核」の患者であり、血沈五〇、喀血も時折あるという状態からやや小康を得ておったような状態でありました。加えて経済的にも逼迫のため、現代医学の徹底した治療も出来なかった事も自棄的生活の道を辿る原因ともなり、日毎夜毎に酒に浸り、会社の出勤も全く出鱈目となる始末で、すべては絶望感のみの内面的ななやみはきっと一般の結核患者の辿る心境のそれと同様でありましょう。

其間、僅かに自分を慰める為、売薬を漁り、有田ドラッグや新聞広告の新薬、肝油、ニンニク療法、灸点、乾布摩擦等々併し依然として恐怖に怯える明暮は跡絶えようとしませんでした。肩の凝りは日増しに激しくオーバーを着て二、三町も歩く事も出来ず、時々脱いでは着ると言う工合で歩くという状態となり、それに胃は御茶碗位の大きさに膨脹し、常時吐気を催す事になったのであります。

此時既に兄は入信さして戴いており、私が段々自暴自棄的になってゆく姿に心をいため入信をすすめますので私も何心なく入信したのでございます。併し段々日数を経るに従い、自分の体に就ての自信も生れ、このお道の深さも次第に判らせて戴くにつれて感謝感激の度合も段々強さを加えて参りました。今にして思えば、当時の経済的逼迫も神の御守護であったと痛感致します。もしも私が経済に恵まれ、現代医術の方途を辿ったとしたら……一般結核患者が今日まで辿り着いた結果に私も逢着しておった事でございましょう。

此喜びの幾年の後、兄は此お道に専心御使い賜わる事となり、以来幾千の人々の御救い戴く様を現実に此眼で見せて戴き、私も終に昭和二一年より此お道に身も魂もと捧げ奉らして頂く光栄に浴し、今日に到ったのでございます。日は誠に浅いものですが、今日迄私が救わせて戴いた人々の数も、驚異的なものでございます。何心なく入信し、御神命のまにまに御取次させて戴き、それを通して御救い戴く人々の姿に接する毎に、私の最初の感謝は今日も新たに又明日も新しくなりまして、今日迄参ったのであります。

今日、発病時にはさしたる事もなく、日を追い月を重ねるに従い次第に思わしくなくなり、一時は小康を得たようにみえても数日数カ月ならずして以前よりも悪化して、遂には結核患者が皆一様に到る終結に、私は……此御救いの一時も早く達する事を、人間として等しく思うあせりの一途を辿る今日でございます。

病は医学が治すもの否治すべきものと規則的な先入観念に捉われず、私共は事実を此目で見る事であります。治癒した者を幾人見たか、現在一時小康を得ている人々が数カ月後或は一、二年後にはどうなって行くか、私は現実に是等の人々の姿を見て参ったのであります。ひるがえって今日の私は、絶望より小康へ、小康より発病以前に勝る健康体に復元し、以来一〇年、今日も尚一歩一歩とより完全に近くなる肉体を喜びつつあるのであります。今日の私の肉体は更生と申すよりも、新しく造られた肉体の感がございます。

万物を生成化育し給う神力によってこそ、この今日の私の肉体も現存しているのでございます。

末筆ながら、重ねて厚く御礼申し上げさせて戴きます。

明主様、有難うございます。

(二六年四月一三日提出)

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岐阜県 U・K

私は幼少の時から病弱で、感冒、咽喉カタル、扁桃腺炎、中耳炎等はもとより肺炎、猩紅熱(小学校六年当時)までもわずらい、随分親を泣かせました。幼時の思出といえば、医療を受けたり保養の為の避暑等が殆んどで、全く病気には神経が鋭くなっていて、僅かな病状にも医者だ薬だと騒ぎ、平常時でさえも肝油を初め種々の消化剤、栄養剤を欠かした事はありません。それを今省みますに―もし薬が健康に益あるならば、自分は余程健康になっていただろうし、そうでなくとも平常から用心していたのだから、順次健康にならなければならなかった訳だが―と述懐せざるを得ません。

そんな私が昭和一七年(中学二年)の夏には突然に出始めた血尿に腎臓結核の診断を下され、手術せねばならぬ処を兎も角も薬で治しました。然しその直後より頭痛、倦怠感、微熱、食欲不振、脚の惰気等がするようになり、又々医者通いを余儀なくされ、医師から肺浸潤と宣せられた時には、とうとう自分も不治の病にまでなったのか、俺はもう駄目だという心情に前途を閉されてしまいました。それでも、初めの間は誰もが辿るように医者をかえ、新薬を求め、人の勧める療法をあさって恢復すべくつくしたのですが少しも効なく、不安の明暮を送るようになり、終にはどうにもなれという捨鉢的な気持にまでなってしまいました。

そのような陰惨な生活を続けていた昭和一九年八月の或日、身内に当るO氏のすすめにより、母が疑半分で入信(当時は浄化療法でしたから受講といっていました)しました。その頃私は、自分の身体が医学ではどうにもならぬのに、母が入信した事を貶して(これまでには一家の不健康の為もあって種々の信仰や療法を次々に行ったにも拘らず、皆良くなくて長続きせず、半年乃至二年半位で止めていた為もあったのですが)「物好きに又そんなものを受けたりして、きっと半年位でやめてしまうだろうに」などと不届きな事を言っていましたが、併し浄霊を受けると、何となく体が爽快になるのには頭を下げざるを得なくなりました。先生にも御浄霊をお願いすると「出来るだけ身体を使うように、その方が早く健康になれる」との仰せに「そんな事をしたら大変だ」と思いましたが、兎に角御浄霊を暫くつづけてお願いしていました。

其間に「先生があのように言われるのは成程本当だ」などと考えられるようになり、一カ月も続けない間に少々無理な事でも進んで行うようになりました。その頃になって、これこそ本当に健康になる道だという信念が湧くようになり、それ迄の暗雲は拭うように消え去りました。之は医者を頼り、衛生には特に注意していながら常に病んでいた私には大きな驚喜にも値し、其後は先生の御浄霊を戴き、お話を聞く事が何より楽しみになってしまいました。

又母の入信当時、弟は小学三年生の身で小児結核と診られ、入手困難な注射薬を無理に整え、医師に頼んで注射を続けている最中であったのを中止し、浄霊するようになってから半月と経たないうちに、もう飛廻るようになったのには家中おどろきました。其他母は入信日浅くして種々の奇蹟を見せつけられ(之もかきたいのですがあまり長くなるので省きます)それによって父も入信し二〇年一月には私も入信さして頂き、非常な安心感を得て一途におすがりしました。

以後度々浄化を戴き、その都度健康も増進するという喜ばしい結果となって来ましたが、茲にその浄化の経緯をかかして戴きます。

初め御浄霊を続けていただくようになってから二カ月程は順次楽になり(少々無理な事でも行うようになった事は前記の通りですが)食欲もついて体力が随分恢復したと思われる頃初の浄化を頂きました。頭痛と微熱、全身の倦怠に、さては再発したのではなかろうかという不安が起り、先生におたずねしますと「それが浄化なのだから心配しなくともよい」と聞かされ有難いとも思い、いやだなとも考え何ともいいようのない気持で御浄霊を続けてお願いしていました。不安なようで安心なちょっと説明のつかない気持のまま、浄化は随分長く続きました。併しすっかり終って暫く経った時には、頭を始め全身が爽やかになり、食欲も進んで結核などをやった者とは思えぬ体力にまでなっていました。此嬉しさは独りでに口に出て、学校では無口で評判だった私が、友人に語り聞かせた程で、学校の帰路を不調法な口調で得意気に語った事を今も忘れません。そして日中は学校農場(戦時の学徒動員中を弱体者のみ学校の農場で働いていました)に一人前働き、夜は遅く迄当時の明主様の医術に関する御著述を読み耽ったものでした。此時初めて先生の言葉を疑った事を申訳なく思うと共に、浄化を感謝する気持が湧いて来ました。その後も頭痛、発熱、咳嗽、下痢等種々の浄化を頂きましたが、前の時は随分長く続き苦痛も激しかったものが、何回か浄化している間に順次期間は短かくなり、楽に多量の毒素が痰、鼻汁、下痢、赤く色づいた尿、汗等になって排泄出来るようになって来ました。そしてその浄化のすむ度毎に必ずそれ以前にも増した楽な身体になっていますので、次第に浄化を待つようにもなり、遂にわざと浄化するように体を使い、寝不足までするようになりました。このようになって「病気とは浄化作用であって、体内の毒素の排除される作用であり、それによって浄化発生前よりも健康になる。故に病気は神の恩恵である」と先生方より聞かされていた事がはっきりと自分の体を以て知る事が出来ました。

このような御救いに与り、初めは病人に手を出す事に臆病であった私も、人を救いの道に導き、悩める人々が救われ、喜ばれる事を以て自分の喜びとするようになりそれが神様に対する御奉公である事を知り、一人でも多くこの苦悩の現世から救われるよう力を尽さねばならぬという心情に燃え、今日に及びました。近頃にも感冒の浄化を頂き、一週間程頭痛発熱がつづきましたが(勿論一日も寝る事なく、平常通り働きもすれば、夜ふかしもし、入浴もしました)、浄化発生より三日目位から五日間程に亘り、多量の鼻汁と喀痰を出し、すっかり良くなりました。それ以来とても頭が軽く、爽快な気分で御用に励しんでいます。明主様は『栄光』新聞九〇号にも「結核なんか何でもない」と題して「風邪こそ体の大掃除であり万病を免る因だ」と御発表になられましたが、私は自分の体を通じて、一点の疑い処か絶対の真理である事を信じ、之を特に恐れている方や、本教を疑っておられる方々にお伝えします。風邪を引かないように特に注意しながらも、常に擬健康であった過去や、肺浸潤で悩みつづけていた当時を顧みます時、今日の幸を一入有難く感ずると共に、ただ感謝の外ありません。斯かる上は、尚いっそう人類救済の御聖業の御手伝いに、神の下僕としてひたすら進ませて頂きたい念願で一ぱいです。

(二六年四月一三日提出)

(結核信仰療法 昭和二十七年十二月一日)