東京都 M・M
シベリヤの捕虜生活の苦難の道をたどり、帰国の喜びも束の間、病魔におそわれ生きる希望もなく、此世に神は絶対になきものと一家心中まで覚悟した私の目前に、救世の光は輝き初めたのです。疑いつつうけた浄霊に奇しくも再起の喜びを得、感謝感激の余り拙文をも省みず御礼申し上げます。
思起せば六年前、終戦と同時に緑鬱蒼と生茂るシベリヤの奥地に連行され、想像だもしなかった捕虜生活が始まったのです。九月中旬早や降雪、気温は下り、毎食飯盒の蓋一杯の高梁或は玉蜀黍等へ塩を入れて炊いたもの、塩鰊のスープ塩鰈等が渡され、なれぬ食物に始めは咽喉を通らなかったのが、何時しかやっと咽喉を通る様になり捕虜生活も板について来た一〇月、一一月には野菜の配給は少しもなく、手あたり次第とってたべた青草も枯野原と化し、雪にとざされてしまうと同時に、食糧不足、栄養失調の為、体の自由がきかなくなり、次第に寒さ加わり、肉も凍る厳寒にたえかねてバタバタ倒れてゆきました。
「皆頑張ろう、忍耐だ、我慢だ、帰るまでは」を合言葉に頑張りぬいていた気力も潰え果て、妻を子をそして故郷に思いを馳せつつ異郷の空に儚なくも一人、一人と散ってゆくのでした。そして五、六百人収容の病院で日に一割以上の死亡者を出す様になり、死屍は屋外の一カ処に集められ、それがカチカチに凍ると軍医がタポール(鉞)を持って来て頭から腹まで立割り、何処を調べるでもなく解剖した事にして、死亡診断書を書いて行って仕舞う。後の死体を日本人の兵隊が南京袋に詰めて馬橇ではこび、各処に掘られた穴に投込む由、同胞の此痛々しい姿に、誰か暗涙にむせばざる人があるでしょうか。此惨劇に目をおおいつつ、こんな事が赦されて神や仏があるのだろうかと寂莫さを感じつつも、一日千秋の思いで無事の復員を待っているだろう家族を思うと、崩れゆく心に鞭打って森林の奥深く膝まで没す雪の中で、杖をひき、伐材の作業に頑張り続けました。 苦労に苦労を重ねて満二年、やっとシベリヤの山奥にも民主グループの声高く、 作業も、食糧も楽になった時、ハラショラボータ(作業良好)として政治部員より帰国の内命を受け、患者の中に加えられ懐しの故郷へ元気で帰る事が出来ました。しかし、長いシベリヤ生活に病気一つしなかった私が故郷へ帰りやれやれと腰を伸したのも束の間、二二年九月に帰り、同年一二月には左鼠蹊腺が腫れ上り、 T診療所にて第四種性病だろうとの診断、早速硼酸湿布、ズルファミンの服薬致し、一週間で散ってしまった、と一息致しましたら、 翌年一月尿道と直腸の間に穴が開き、小便の半分は肛門へ廻る様になりA病院へ通院中、二月には左睾丸が腫れ、激痛加わり、三週間程病室の空くのを待って手術(切取)致しました。此間ペニシリン三〇万単位、ザルブロ二〇一〇本注射致しました。手術の疵口も治らぬ内に、左湿性胸膜となり、ザルブロ三〇本射ち、三カ月で治癒の形をとり、勤めに出て一カ月、今度は右睾丸が腫れ上り片方だけは何とかして助けたいと、ペニシリン三〇万単位五本、ザルプロ一五本注射しましたが痛みは益々加わり、卵大に腫れ、遂にまた手術を言渡されました。手術せず治るものなら、とダイヤジン五〇粒程飲みましたが、やはり腫れと痛みは退かず、止むをえず入院手術を受けました。幸い子供は男児が一人ありましたものの無慙に切取られた睾丸を見て、一生子供は一人より授からぬかと思うと、何時しかハラハラと頬を濡らす涙を止め様もありませんでした。三カ月して又左胸膜が再発、六カ月休養して勤めに出て五カ月、又しても再発、医師より絶対安静を申渡され遂に立つ事の出来ぬ体となり、二四年一二月には右肺も侵され、同時に腸結核も発病せし診断を受けた時は、一時に希望も消え、只々悲歎の涙に暮れました。
近所の子供は「肺病肺病」と寄りつかず、罪なき子まで相手にされず、一人淋しく遊ぶ姿を見ては、父故にと思えば吾運命に女々しく泣くのみ。あの捕虜の苦しみも此子の為に親子して楽しい生活を夢見つつ、頑張りぬいて来たのではないか。生きたい、もう一度元気になりたい。再起を念願して最後の財布もはたきストレプトマイシン五本を入手致し、一日に二回の注射で解熱し始め、ザルブロ、ザルピタール静脈注射八〇本にて二五年三月四月と発熱もなく、嗚呼之で助かった、後は恢復を待つのみと夫婦手を取って嬉し泣きに泣きました。が又々五月発熱腸は痛み、下痢は増し、背中、胸はたえ難き激痛、氷枕ははなされず、右肺に空洞が出来手術するより方法なしといわれ、打のめされた様な衝動をおさえ、入院を御願い致しましたが、何時まで待っても部屋は空きません。
最早や恢復の望みも夢、一日も早く死のう、皆さんの御迷惑を無くせねば申訳ない。一枚二枚と手放された着物も今は薬代に変るものさえなく、病苦と経済苦とにせめられて前途は死あるのみ、それより唯自殺の機会を待ちました。
「父を許してくれ」も心の内、青酸加里を入れたアンパンを手に「坊や良い物を上げるよ」と差出せば、飛び来たり喜ぶ吾子、皆さん如何に心を鬼にしても渡す事ができましょうか。 手は震え 「待て」 と叫ぶ心の声、 ハッと吾に帰る悪夢の様な瞬間から呼び覚された時罪深さに後から後からこみ上る鳴咽。今日は死のう、明日は死のう、と準備し乍らも、無心に微笑で眠り居る子供の顔を見ると決心も鈍り、もう一日一日親の務めを果してと夫婦して涙に暮れました。死を覚悟しながらも生延びたい、生への欲望故にパスを服み続けて居りました。
二六年三月一六日実家の前のSさんが、母より「Mが死にそうです。何とか助けて下さいと依頼された」と来宅下さいました。そして光明如来様の御話を御聞かせ下さいましたが、シベリヤ生活より神仏に合掌致す事が出来なくなっておりました心には、尊き御話も信ずる事は出来ず、夜を徹してお話し下さるSさんの誠心に動かされ、どうせ死を覚悟していた私です。薬を止めるのはいと易き事です。「それでは信じなくてもよいでしょうか」と言った時は夜はしらじらと明け初めていました。「結構です。只御浄霊を頂くと種々変化がありますが、其時驚いて間違った手当をして自ら墓穴を掘らない様に」と申されます。助かるものなら今一度元気になりたい、子供の為に!
御浄霊を頂きまして何時になくグッスリと眠られ、翌朝は床の上に起上り、食事も出来ました。今迄は呼吸苦しく、便所に行くのもやっとだったのに、二〇分三〇分過ぎても疲れる事なく、不思議だ不思議だと妻と話合って居りました。それより毎日御浄霊を受け、一週間後に庭へ散歩も出来る程になり、嗚呼助かった、業病治る、きっと治して頂けると感じ、心より唯々有難うございました、と合掌致す事が出来る様になりました。嘔吐、下痢の激しい浄化も三、四回あり日増に元気が加わって参りました。
有難い御守様を頂きなさい、とSさんが妻の御礼を貸して下さり、御厚志により夫婦そろって教修を受けさせて頂ける様になり、M町の教修会場へ行きました。行く時はフラッとしていた体も、一日の教修を終り、一歩外に踏出せば足がシャンとして歩みの軽き事、不思議!駅の階段さえ元気の時とかわらぬように昇降出来ました。有難い御守護と感謝申し上げるばかりでした。三日間終始涙で拝聴致し、御守様を拝受致します時は、手は震え、神人合一、観念の神にはあらず、現実の神、神は此世に厳然とおられたのだ、穢れ多き吾身にも御分霊が宿らせ給う、随喜の涙にひれふしてしまいました。
「もう二度と死ぬなんて考えを起しません。お救い下さい」と涙で後の声は消え、Sさんがお日出度うと申された時は声も出ませんでした。なみいる方々も皆涙を流して喜んで下さいました。
戦争、捕虜生活、病床、幾度か吾子と共に死を決した絶望のドン底の姿、走馬灯の様に過ぎし日がうかんでくる。真理を知らぬが為に我と吾身をさいなんでいた過去、最初は鼠蹊腺部が腫れた丈であるのに浄化停止の為に再発に再発を重ね、肉を切り、医師から見離されるまで医薬に対する不信が何故おきなかったのだろうか。犯罪、戦慄すべき戦も元を正せば薬剤の為とは。世界人類の知らざる処に不幸の種が根強くはられている。判れば判る程、一つ一つが驚異でした。今此処に真理は開明され、不幸を生んだ文明は幸福を生む文明と切換えられる時期が到来している事、真善美調和した天国の出現……苦しみが大きかった丈に救われし喜びも又一入でした。
入信翌日から三人、五人と毎日御浄霊に飛び廻らせて頂いており全く夢の様でございます。それよりは一途に光明如来様に御縋り申し上げ、度々御浄化を頂き、日増に健康になりつつあります。
K支部の旬並祭、月並祭にはかかさず参拝しておりますが、其日必ず出掛ける前一回二回と嘔吐の浄化を頂き、罪穢多き身を浄めて御詣りさせて頂けます御恵みに、其度毎に明主様への感謝を深めさせて頂いております。
五月一日には熱海へ、七月一日には強羅へ御参拝させて頂き、親しく明主様の御顔を拝し、地獄世界より救われしこの身の倖せを心より感謝申し上げました。あれ程無神論者で疑った頑固な私が申訳なく、感無量で御座居ました。此絶大なる救世の御力を未だ知らざる世の人々に一人でも多く、一日も早くお知らせ申し上げねばと固く固く明主様にお誓い中し上げた次第でございます。
(二六年九月一五日提出)
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長崎県 M・S
謹んで御守護御礼申し上げます。
其頃を顧みすれば恐ろしも暗路杖なく彷ひし吾
本当に私は一年半もの長い間幾度か躓き転びながら苦しい淋しい毎日を送って居りました。今静かに苦しかった病床生活を顧みる時、光明如来様の余りの有難さに私の体は震えるので御座居ます。 ここに私の発病より光明如来様に救われる迄の体験を御報告致し、今なお病める人達への光明ともなれば幸で御座居ます。
昭和二四年一二月、正月も間近にひかえた慌しい二六日で御座居ました。突然喀血! 呼吸すら出来ない大喀血「アッ肺病だ、死」瞬間眼前が真暗くなって何もわからなくなってまいりました。眼を覚した時は冷い病院の病床に寝かされて居ました。是から私の苦しい療養生活が始ったのです。私は一日も早く家に帰りたく、母に無理に先生へ御相談していただいて、六日目の三一日病院より家に帰していただきました。私は同じ病室の御方の苦しい姿を見るのが苦しかったのです。痩せおとろえ声はかすれ、苦しそうに呼吸する苦しみを、見るにつけ聞くにつけ私は堪えられなかったのです。いずれ私も辿るであろうあのような苦しみの道、人の言う「肺病は治らぬ。第一に肺病に効く薬がない」と。だが、私は誰が死ぬものか肺病なんかで誰が死ぬものか。科学の発達した現在効く薬がないなんてそんな馬鹿な、と強いて打消しました。事実薬が有りませんでした。安静が第一の薬だと教えられた時は本当に落胆致しました。いつまで寝ていたら治るのかしらんと思った時に、安静注射散薬と毎日身動きすら出来ない私でした。私が喀血してから二カ月目二五年二月一八日妹が盲腸手遅れの為にアッと言う間もなく他界致しました。母の悲しみは勿論最後の御別れすら何も出来ず床の中に潜り込んで泣いていた私、神も仏もあるものかと世の中を呪ったもので御座います。それからの私は前よりも苦しく、不眠に悩まされ体は痩せて参りました。熱は三八度から下らず食欲はなく、先生の来診を首長くして待ったものです。六日を過る頃から熱も下り喜んだのも束の間、又私はドッと寝込んでしまいました。肺を鉄棒でかき廻される様な其痛さといったら口にも筆にも言えたものでは有りません。私は両手を胸の上にのせ抱き抱える様にして眠られない幾日かを送りました。妹を亡くしてから母の看護は一生懸命で悲観の私をいつも優しく元気付けて呉れる母に励まされ新薬のパス、マイシンと服用注射致しましたが思った程の効果なく二六年五月を迎えました。
五月二〇日に世界救世教信徒Nさんが商用で御出になり光明如来様の偉大なる御慈悲の御話を承り、是非御浄霊を受けてはどうですか、 御受けになれば先生が出張して下さる様御願してあげますがと奨められましたが、どんな治療かさっぱり判りませんし、神様の御力とは思い乍らも事実こんな病気が治るものやら御医者でさえ思う様に軽快にもならないこの病気がと半信半疑で貸して下さった『地上天国』を拝読しておりました。二三日又Nさんが商売に御出て御話して下さいましたので御願して見る気持になりました。二六日B支部長S先生が御出下さいました。家に御入り下さった途端私は先生の御顔を見て何か知らん身体が軽くなった気持でした。何とはなしに屹度救われる様な気持でした。直に御浄霊を受け乍ら御話しも承り其日は済みました。翌二七日朝になりますと今迄微痛になやんで居た胸部の重苦しさが拭って取った様に気持よくなっておりました。この事を先生に御話しましたら「では貴女はもう病気はなくなったじゃありませんか」と笑われました。三日目には一カ年半も寝て居た病床に寝る事なく座ったり歩いたりして身体は何ともありません。先生は気持がよくなったら御参詣に御出なさいと申されます。けれども大事大事をとり、六月一〇日初めて御参拝しました。御家に入り御神前に参りますと何だか一種言いしれない高貴な薫りが致します。参拝を終ってから御床の御花をよく見ますけれども、別に御花の香りでもありませんでした。後日『地上天国』を拝読する時に明主様の御垂示に神の間には高貴な薫りを発する事があるとの御教えがありましたので、ああそれだったかと思わず頭が下りました。其後は一日一日と元気になりまして只今では御浄霊の御手伝もさして戴き家事に励んでおります。一家一〇人、 今迄はほんとうに暗い生活でありました私が、元気になりましてから生れ変った様な明るい楽しい生活をさして戴いております。
真に有難うございました。
(二六年八月一日提出)
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京都府 T・N
命さへ危ふき程の病きも癒えて恵みに浸る嬉しさ
謹んで御讃歌を拝唱致します度毎に、明主様に御救い頂いて、神の御恵に浸ることの出来ました吾が身と一家の幸は筆や口には言表せぬ程でありますが、 茲に拙い筆を以ちまして御礼の言葉を申し上げさして頂きます。
昨年の三月末頃のことであります。それ迄に多少風邪気味で空咳が止まらず、感冒の手当をしておりましたが、夕方になると体が熱っぽくだるい様に感ぜられますので、今迄軽い風邪だからと言う医師の言葉を信頼して、服薬はしていたものの、何か不安になり、詳しく診察して貰う様頼みました処、その時になって「肋膜が悪い様であるし、肺にも少し疑問なところがある」と言うのであります。最初の頃に簡単に治る様に片づけて置き乍ら、今更と一抹の不安を自分の健康に対して抱くと共に、医師の頼りなさを覚えさせられました。何とかしなくてはならぬ。何かよい療法はないものかと、あれこれ心を配って灸、生姜まさつ、等々寝たまま致し、三十七、八度を上下する熱に一喜一憂、食欲皆無の状態に悩み乍らも熱心に続けましたところ、少し楽になった様で起き出して屋外を散歩する事が出来ほっと安心したのも僅か一〇日間程のこと、忘れもしません、四月一八日のこと、夕方から悪寒がすると思う間もなく、どっと出た猛烈な熱に一晩一晩一睡も出来ず、折角の自信と希望は完全に跡形もなく崩れ去ってしまいました。自分の体が一体どの様になっているのか、この上は正しい診断をして貰って、それから悲しむなら悲しむ許りだと意を決して、翌日、近在では著名な病院長の来診を乞い、綿密な診察をし写真を撮って貰った結果は致命的なものでありました。「相当進行している肺浸潤症、絶対安静と食餌養生、二カ年は勤務不可能」もうこれだけ聞けばおしまいです。十数年前、徹底的に医師に頼って三年間肺結核を患って死んだ兄、軍隊での胸膜炎から、教職について間もなく肺浸潤で苦しみつつ死去した弟、一家の更生に苦虜しつつ、之亦肺浸潤で四年前逝った父、一家で働ける者は自分が最後だ。来るものが遂に来たのだろうか。桜の花が散り出し、若葉を薫風が吹き渡る五月が来るというに、春を楽しむ心は更になく、一切が投げやりの気持になり、眼覚めては早朝から七度を越す熱が、夜ともなれば八度九度に上がるあけくれ、気力なく眠り、気力なく考えつつ、天井を眺めて暮す淋しさ、このまま推移しましたならば生気を失い、果ては私は父や兄弟のあとを追い、地獄の熱火に焼かれ、吾が家は悲境のどん底におち入っていたことでありましょう。思えば慄然として肌に粟を生ずる思いが致します。この時御救いの御手を伸ばし、罪業多き身と一家を御救い下さいました明主様の広大無辺なる御仁慈、これ以上の喜びと歓喜がどこにありましょうか。
罪深き此身も尤め給はずて大いなる幸豊に恵まふ
手を翳し病気を治す観音教(当時の名称)のある事は最近知り始めた位でしたが、ふと御願して見ようと言う気持になり、妻と相談して病床からハガキを書いたのが、そもそも私の救のM先生を知り、最初は信じられないままに、それから先生達の御浄霊を毎日受ける様になりました。数日にしてそれ迄毎日三八度線を上下していた熱が先ず三六度から七度迄に落着いてむらがなくなり、従って気分が良く、食欲が出かかって参りました。そして毎日聞かせて頂くことは想像もし得なかったことばかりでありました。病気は体内毒素の排除作用であり、浄化作用に依って健康体になる事、今迄私が知らずして行ってきた治療は、その浄化作用を逆に抑える方法であって、浄化停止の結果は薬毒の害と一緒に恐ろしい結果を来たす事、浄霊のみが楽に体内毒素を排除清浄化すること等を伺って、今こそ目が醒めた感に打たれたのであります。そして先生の仰言る言葉通りに、逐次病体が現実によくなってゆく事実、これは否定しようとしても否定し切れない明るくして楽しい現実でありました。数年来、健康法として完全そしゃく法を実行して、一口の食物がどろどろになって始めて嚥下することを忠実に守って、それで下痢に悩まされ、きまって「げんのしょうこ」を用いる事しか知らなかったのに、「茶漬が好きならよろしい」と言われて、こわごわたべて腹一つこわさず、下痢の心配が根こそぎ吹き飛んでしまった時の嬉しさ。薄紙を剥ぐ様に、とはこの時のさまを言うのでしょう。此様にして、安静二年の言渡を受けた私が、たった二カ月足らずで勤務が出来る様になって、嘗て宣告を受けた医師に不審に思われ乍ら診察と写真の結果殆んどよくなっていると言われた時の痛快さと嬉しさは、今以て忘れる事が出来ません。
勤め出しましてからは体が恢復するにつれ、面白い程楽々と然も持参の紙がべとべとになる程頻繁に痰を出し、それが軽い熱の浄化と連繋して周期的に起って参り、明主様の御教えの通り、安静は浄化停止であり、動くことが浄化促進であることを判らせて頂きました。かくして、昨年夏、私と妻が前後して入信させて頂きましたし昨年秋盲腸炎を患った妹が、医師が「冷せ」と言うのを断って浄霊で治して頂いてから入信、御救いに励まして頂いて居ります。又五歳と三歳の子供が同時に百日咳にかかりましたが、御話をきいておりましたから、安心して最初から御浄霊だけでとても楽に浄化を過させて頂きました。普通ですと、この咳は親として見て居られぬ程、苦しみ咳くものでございますが、御浄霊によりますと、とても楽に粘液様のものを吐きつつ、 吐いた後は「けろり」として居り、前後二週間程で元通り元気になりましたし、浄化の後は子供が前よりも変って良くなる様に思われ、苦しい時は浄霊を求める我が子に親として手を差し伸べてやることの出来る御救いの力をゆだねられている有難さは、何にも増して嬉しき限りであります。
本年春は待望の光明如来様を御奉斎、御守護を頂き、御屏風観音様をお祀り致しまして、 一家はとみに明るさを増して参りました。 罪けがれ多くして名もなき私と私達一家を、死と地獄相より御救い下さいました明主様、 誠に有難うございました。謹んで御礼を申し述べさせて頂きます。終りに、S大教会長N先生始め、H支部長先生及び諸先生方の親身も及ばぬ御指導と御激励を賜わりました事を厚く御礼申し上げ、今後一層の救道に邁進努力を御誓い申し上げます。
(二六年一〇月二二日提出)
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宮崎県 I・T
謹んで御報告申し上げさせて戴きます。私は昭和二五年四月健康診断を受けました時、両肺浸潤と言われ、三カ月間の休養を命ぜられ、始めは漢方薬を服んで居りましたが効果がなかったのであきらめ、色々と医師の薬等を服んで居りました。
併し盗汗をかいたり、背中が痛かったりしてどうもはっきり致しませんでしたので、私はもう之で生命をとられるのではないかと全く絶望しておりましたが、或る時救世教の有難い御話を聞き、何時もは神様とか信仰した事も手を合わせた事もない私が、苦しまぎれに疑い乍ら御浄霊を戴きました。その時はすぐ胸部の痛みもとれ三カ月間の御浄霊で仕事に行かれる様になり、工都延岡のA工場に、私の家から汽車で一時間かかりますが、全く元気で通勤致しておりました。
処が昭和二六年三月頃より再び胸痛を感じ、背中も痛くなって参りましたので、工場で診断を受け、レントゲンを撮りました処、両上部に一銭銅貨大位の空洞があると言われ、又前のがブリ返したのではないかと悲観致しておりました。工場の医師は「君の病気に対しての処置は唯一つしかない。それは手術を直ぐする事だ」と言われ、工場の医師の言う通りにしなければ工場は馘になるし、しかし医師の言う様にすれば骨なしになって了うし、医師も手術をすれば確実に治るという事は請け合い得ないだろうと思うと、どんなにしたら良いものかと迷って居りました。
前回御浄霊を戴いてよくならして戴き、良くなったら知らぬふりして「吾のみ良かれ」主義であった私が本当に申し訳ない事だったと気づかして戴き、再び支部の先生へ申し上げ、色々とお導き戴き、御浄霊を戴くと共に御神書をよく拝読させて戴きました。又その時、私と同じ様な病気で治られた大阪の或る方にお手紙さし上げた処、早速激励の御返事を戴き「本当にこの最高の御力以外に方法はないのです」とお会いした事もなくどんな方かも知らない人から親しくお手紙を戴きまして、私も、神様から戴いた生命であるから神様の御光を戴けば治るんだ、と確信させて戴き、一生懸命にお縋りさせて戴きました。
早速、私始め家内も妹も全部入信させて戴きました。御浄霊を戴いている内、熱が出る、血痰が出る、下痢をする、風邪を引く等々本当に吾々でなければ喜ぶ事の出来ない有難い御浄化を次々と戴き気分も良くなり、胸部の痛みもとれ、本当に救われた喜びは何と御礼申し上げて良いやら分りませんでした。
工場に勤めるべき手続をとりました処、工場の医師は「君は手術せねば駄目だ」と言いますので、他の病院でレントゲン其他色々の診断を受けました。私は「空洞が両肺上部に一銭銅貨位のものがあるんですが」と話しました処「アア貴方の命は長くて三年ですね。併しまあ折角ですからレントゲンを撮って見ましょう」との事でレントゲンを撮りました。すると「いや、もう貴方は殆んど治っていますよ。少しあればあると言う様な位で気胸を半年もすれば完全に治りますよ」と言われましたが、私は「いや、今日は診断を受けに来ただけですから」といって帰宅致しました。その後も続けて御浄霊を戴き、今度は県立病院で診断を受け、「悪い所なし」と院長より診断書を受け、工場から通勤してはとの通知に接しました。
今迄あちこちふらふらと或時は死を覚悟し、或時はどうにでもなれと自暴自棄になり、変な事ばかり考えて居りましたのに今では反対に喜びと感謝に変り、暗黒に光明を見出した様で、一家中で祝い合い、夜もねむられぬ位の嬉しさでした。
神様の宏大無辺なる御力に接し、既に無き生命をもお救いいただきましたこの有難さは何と御礼申し上げてよいやらその言葉もありません。今後は自分の体験を通して、世の多くの人々に、 一人でも多く、 一日でも早く、 この御道をお伝えさしていただき、 御高恩の万分の一にもお報いさしていただき度いと念願致しております。
明主様本当に有難うございました。厚く厚く御礼申し上げます。
(二七年一月二五日提出)
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千葉県 U・K
私は入信日浅い者で御座いますが、長い間の病床生活より救われ薬毒の恐ろしさと、神力の偉大なる事を身を以って体験致しましたので、拙文をも顧みず御報告させて戴き、病苦に悩める方々に聊かなりとも御参考になりますれば幸に存じます。
昭和二二年一〇月、体の工合が悪いので〇〇医院にて診察を受けますと、「慢性気管支炎にて一カ月の安静を要す」と言われ、養生しても快くならず、再度診察の結果、初期結核と言われ、入院、気胸、安静、注射、と色々な療法をして居る中に湿性肋膜炎、膿胸、腹膜炎、神経痛と、次から次へと病の数が増し、遂には七つの結核性の病名をつけられてしまったので御座居ます。
之程医学が進歩しているのに拘らず、一つの病気を治そうとして二つとなり、それを治そうとして三つとなり、だんだん病気の数が増すとは、一体どうしたわけだろうか、と不思議でなりませんでした。
医者の薬は勿論、一日も早く治りたい一心に薬局からは高価な薬を買い集めては飲み続けましたが、一向に思う様になりませんでしたので、遂には頼るものは無く、姓名鑑定を願い名前を変えるなど色々な事をしてみたのですが中々快くなって参りませんでした。
一一貫足らずに痩せ細った体をベッドに横たえ、来る日も来る日も天井の節穴を数え、蜘蛛の巣を眺めるのを日課とし、三回の正月を病院のベッドで過した足掛四年の苦難の道は、一〇年にも勝る長い月日で御座居ました。
「生きてさえ居たら人生は素晴しい。生きて退院が出来、外の景色でも眺められたら」と味気ない淋しい日を過し、何回か生死の境を彷徨って居たので御座居ました。
二四年七月頃、本教の信者さんが布教に来られたのですが、その当時は神仏などある筈はない、神仏や宗教は統一をとる為に人間が造ってしまったのだ、と勝手な考えをして居りましたが「読んで下さい」と置いて行かれた御神書を拝読させて戴いている中、 病気は浄化作用である事が分りましたので、薬は一切止め信じられなかった御浄霊も戴いて居る中、 だんだん快方に向い、二五年二月医師の反対を押切って退院しました。
退院後は思いの外快調で、一ヵ月後には座談会にも出席出来る様になりましたが、中々信じられず、申し訳ない事ですが色々求めて研究してみました。熱心な信者さんや先生方のお話を聞かせていただいて居る中に、だんだんお道の重要なる事を覚らせて戴いたので御座居ます。
一〇月頃より三十八、九度の高熱が二〇日も続く大浄化が御座居ましたが、御浄霊により大部快くして戴きましたが、しかし喉痛が最後まで残り、だんだん体力も弱り気になって参りましたので、医師の診察を受けますと、「喉頭結核の疑いがある。浄化作用だなどと言って医者で助かる生命を捨てる様な事があってはならない、薬局で注射液を求めて射ちなさい」と言われ、すっかりその気になり一時注射で止めて又後ボツボツ浄化させて戴こうと勝手な考えを起し、注射をすると同時に副作用で苦しみ出してしまいました。薬毒は頭に上り、猛烈な頭痛と眩暈で目を開く事すら出来ません。この苦しみは筆舌には表わす事が出来ません。ああ、とんでもない事をした、申し訳無い事をしたと気付き、御明主様にお詫びをし、一心に御浄霊を戴きました処、この苦しみの中にも熱も出ず、三度の食事も戴けたので御座居ます。
咽喉の痛みは前より猛烈な痛みと変り、今にも息の根が止まるかと思った事も何十回か御座居ました。
生死の境を彷徨う事二カ月、あれ程苦しかったのも御浄霊によりだんだん快方に向って参りました。そして本年七月三一日御先祖様の霊が、近所の信者さんに憑依し、色々お道の大切なる事や霊界の事など論されたので御座居ます。今までは霊界など単なる仮説としか思わず疑って居たので御座居ます。
信仰の尊さ、薬毒の恐ろしさ、神の偉大さ、霊魂の救いである、と身を以って分らせて戴く事が出来たので御座居ます。
日々の御浄霊により、近頃では稲刈から脱穀までする体にさせて戴きました。この様な仕事の出来る体になると誰が想像出来るでありましょう。あの絶望の境より救われ希望を見出した喜び、御讃歌に
あな嬉し望みを絶ちし世にしあれど
観音知りてゆ希望み芽生えぬ
生命さへ危き程の病きも
癒えて恵みに浸る嬉しさ
と御座居ます。この教以外に真の救いは無く、この教こそ真理であって永遠に栄え地上に天国が出来るのだとはっきり分らせて戴きました。世の悩める方々に一日も早くこの有難いお道をお伝え致し、共に安心立命の境地に入らせて戴けます様、切に思うので御座居ます。
明主様誠に有難う御座居ました。
(二六年一一月一日提出)
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長崎県 O・Y
私がこの尊い御道に入信さして頂き、光明如来様におすがりするようになりました動機を謹んで申し上げます。
過去を想い現在を思う時、あまりにも幸福にならせて頂いた喜びを御報告させて頂きます。忘れもしません昭和二四年一月でした。朝起きようとしましたら身体の工合が悪く、早速医師の診断を受けた処、感冒だからすぐ治るとの事にお薬を二〇日ばかり服用した処少しよくなったので、お勝手から洗濯と我慢して仕事をしました処、四月中旬頃又々ひどい感冒にかかり、病院に行き診断してもらった処、栄養不足だから実家に帰り養生せよとの事、でも私が実家に帰っては家庭が困るからと思い、だるい身体を引きずり、子供を背負いながら我慢して家庭の仕事をしていた処、胸が痛み工合は悪く、又毎日夕方になると熱が出て、体は疲労を感じますのですぐ病院へ行った処「肺浸潤だから今後絶対安静をしなければ取返しのつかない事になります」といわれ、世にも恐ろしい病気と診断された時、前途に希望を失い、全く絶望のドン底につき落されてしまいました。皆様、その時の私の気持を御想像下さいませ。医師からは絶対安静をせよと言渡されたけれども、他に女手のない一家に、私が寝込んだら困るので、無理してはと思い乍らも、家事の仕事をしながら注射薬をつづけていましたがはかばかしくなく、人の良いという薬は買求め服用しましたが、やっぱり変りはありません。でも私は医者を絶対的と思い、注射よ薬よと続けていましたが一向に快くなくて快方に向わず、心はいらいらするばかりです。アッそうだ、これからは神仏におすがりして良くして頂くのだと思い病院に通うかたわら信仰もしました。あちらの不動尊、こちらの金光教と二、三カ所の神様におすがりしました処、気持だけはどうやら救われたように思われましたが、病状は少しも変化はありません。ああもう自分は神様からも医者からも見捨てられたのか。いっその事に自殺をと何度思った事でしょう。でも私が死んだなら、後に残るこの小さい二人の子供はどうなる事でしょうか、さぞ母親を慕い泣き叫ぶ事でしょう。そう思えば子供に引かされどうかしてもう一度治して頂き、 元気になって楽しい生活をしたいという一心で、 今度は佐世保病院に診察に行きました処、院長先生のお言葉には、マイシンを二〇本うてばよくなるといわれましたが、長い闘病生活の為にお薬代もお払い出来兼ねる程の貧乏の今日、どうしてマイシン二〇本の薬価二万円(一本一〇〇〇円)の金がある筈はありません。病気は一日も早く治して頂きたいしお金はなく、今にも気が狂わんばかりでした。もうこうなっては実家に帰り、養生させて頂かねばと思い、昨年七月一日実家のあるB町に帰りました。そしてその日に早速R病院に入院し、一日も早く治りたい一心で、義父よりお金を借りてマイシン二〇本を注射しました処、約一カ月は身体の工合もよくなり、之で治るのだと救われるのだと思い安心したのも束の間、又々前と同じ様な症状にかえってしまいました。いつも天井と体温計との睨み合い、 今朝は熱が下ったと思っていると夕方頃になると勿ち三九度の高熱が出て又落胆という日が続きました。医薬は勿論の事、遠方から取寄せた高価な種々の売薬も更に効なく悪化亢進するばかり、腰は痛み、熱は三八度から九度五分、そして苦しみと痛みとをのせて月日はいたずらに三カ月夢のように過ぎました。一進一退もはや治る見込みも薄く、このまま此世の別れとなるのではないかとフト心細く感じ、可哀そうな子供U(一歳)は、肺病が感染したら大変だと親戚の人達から言われ、親を慕う盛りに人にました。ああ何という悲惨な運命だろうか。私もやがて来る自分の死後、愛児の行末を考えると死ぬにも死に切れないような気持で、何時も泣き明していました。今にして思えばああ何という有難い日でしたでしょうか。昭和二五年九月八日、此日こそ私にとって生涯忘れる事の出来ない感激の日でした。斯んなに尊くも美しい歓喜の人生が曾つてあったでしょうか。有難い光明如来様が、こんな曇りだらけの私共をもお見捨てなさらず、御慈悲の御手を差伸べて下さったのでした。近所のWさん(未入信)が病院に来られ、同室隣床のHさんの奥様にお話しておられるのには、今日救世教の先生が私の近所に来られ「どんな病気でも治して下さるそうだから、あなたもお願いしたらどうですか」と教えておられました。Hさんは「自分は絶対に医者に頼ってよくして頂く」と言われ、いろいろと話をしておられるのをじっと横から聞いていた私は、Wさんにお願いして、病院ではいけないからWさんの家まで先生の御出張をお願いし、私も五〇米の道のりを一生懸命で辿りつきました。何といっても三、四カ月絶対安静の身でありながら、初めて道を歩いたのです。今にも息が切れそうです。心臓は動悸がする。杖にすがってそれこそ一生懸命でした。しばらくすると先生がお出でになり早速御浄霊して下さいました。何といっても初めて浄霊を見た事故、お経もあげずただ手を翳すだけで、病気が治るかしらと半信半疑のまま御浄霊を受けました。先生はいろいろと病気に対してのお話をして下さいました。 約四〇分ばかりすると、 今迄重かった頭が大分軽くなり、三八度五分位の熱も普通になりました。ただ手を翳した位でこんなに快くならせて頂いたから、自分も屹度此神様に救われると思いました。何と有難い事でしょうか、帰りには身体が軽くなり、走ってでも行きたい程でした。それから三日目に病院を退院し家に帰りましたが、感染しては大変だといわれ、小さい四畳半の家に一人淋しく明け暮れを過していました処、二日後M先生には、下宿の家が奥まった処なので布教上影響するから同居させてもらいたいとの事でした。家の人ですら寄りつかない此私に、何と有難い事でしょう。その時の嬉しさは到底忘れようとして忘れる事は出来ません。家族の人は一人も寄りついてくれない、ただ母だけが御飯をもって来て、別にしている私の茶碗に入れて、伝染しては大変だとばかり話もそこそこに急いで帰ります。そういう風に家の人達から冷たく扱われる自分を、先生には朝夕二度の浄霊に、又何から何まで親身も及ばぬ御親切、ただ嬉しさで何度泣かされた事でしょう。神の絶大なる御守護と先生の御指導により二〇日目には全快し、見違える身体とならせて頂きました。芋掘りも手伝って近所の人達は喫驚して私の顔を穴のあく程見つめられ、 嬉しいやら恥ずかしいやら胸一杯でした。私のような罪深い者までお救い頂けました事、ただただ有難く感激の外何物もございません。二月八日にはN教会で教修を受けさして頂き、 日々御浄霊に又お道の話を、当地の方々にお知らせしています。もしも尊い此救いのお道を知らなかったならば、病院でまだまだ苦しい闘病生活をしており、ついには彼の世行きになっていた事でしょう。今日のように親子楽しく暮させて頂き、幸福な生活へと入らせて頂くことの出来ましたのも、 皆ひとえに明主様の深き御守護の賜物と、T先生始めD、C、Mの諸先生の御親切な御指導の賜物とあつく御礼申し上げます。
明主様有難う御座いました。
(二六年四月一一日提出)
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山口県 S・M
私は一昨年三月入信さして頂きまして以来、随分と奇蹟をみせていただき数え切れない程の御守護を戴いて参りました。病気に対する何の不安も苦しみもない此頃を思うにつけても日々を注射や薬の辛さに過した四年間の事が想い出されます。昭和一九年、私達は学徒動員の名の下にK製鋼に勤める事になりました。 勤め始めてから一月もすぎた頃身体検査があり、私は虚弱の故を以て不合格を言渡され、学校に帰る事になったので、一度医者に診てもらうと「今どこと言って悪い処はないが」と言ってAOという注射を打つようにすすめられたので、三カ月位通ってAOを打っていましたが、何か不安なので医者を変えてみた処、レントゲンの結果肺門淋巴腺といわれ、尚AOは絶対不可といわれたので、驚いて前の医者をやめ一カ年休校して毎日医者に通い続けましたが、さしたる変化もないままにあちこちと医者を変え、薬を変えて療養に努めましたが、段々わるくなるばかりで、それに医者を変える毎に肺門淋巴腺炎といい肺浸潤といって一定しませんので馬鹿らしくなり、又疎開もしましたので、医者を休み、自宅で療養致しておりました。 其後終戦となったので又帰って参り、父の親友であるN博士に一カ年通い、ついに絶対安静を言渡されてしまいましたが、そのうちに結核よりももっと恐ろしいものにかかっている自分に気づきました。それは神経衰弱と申しましょうか、被害妄想狂とでもいうのでしょうか、とに角世の中のすべてが恐ろしく、 ひどい時は畳一枚怖くて歩けないのです。言い度い事も言えず、為たいことも出来ず、たえず心の中で誰かが何か悪い事があるとささやいているようで、いらいらして絶えず神経は極度に尖り、発狂しそうになるのをじっと抑えることの苦しさというものは並大抵ではありませんでした。
それはもう健全な頭では到底解する事の出来ない程悲惨なものでございました。それを人に訴える事も出来ず、よしんば訴えた処で分ってはもらえず、自分一人でなやみ苦しみました。この為私は精神的にヘトヘトに疲れてしまい、此世に生きる事さえいやになってこんな辛い思いをする位なら、いっそ死んだ方がいいと思う様になりました。レントゲンに写しては自分の胸が次第に悪化してゆくのを他人事のように冷然と眺めて、両親の歎きもよそに「ああだんだんわるくなって来た、もう少しで死ねるだろう」と、それを密かな喜びにさえした私でございました。「此世に未練はない。ただ肺は痛まないので、苦しまずに死ねるのが一ばんの倖せだ」と自分も思い、人にも語っていた程でした。その時母が「従妹が脳脊髄膜炎になり、それが手を翳して治り、又近所の小児麻痺の人が今では走れるようになったそうだから是非お詣りしなさい」とすすめるのを、そんな馬鹿な事とも思いましたし、もし本当に治ったら、 折角死ぬ日を待っているのに体のみ治ってこの精神的苦しみが続いたのではそれこそたまらないと思ってことわりました。
半月程して思い直して、宗教なら精神的な苦しみもとってくれるかも知れないと不遜な考えでお詣りしました。それから三月、あれ程苦しんだ被害妄想狂から知らぬ間に解放されている自分に気づき、今更の様に驚きました。又絶対安静を言渡されていた自分が、御浄霊を頂いた翌日から軽い仕事が出来、今では人に負けぬだけの仕事が出来るようになった事を考えると、まるで夢のようでございます。このお道をあの時に知らなかったなら、今頃は発狂しているか死んでいるかであろうと思うと、ゾッとするようでございます。それにつけても光明如来様のお慈悲、明主様のおかげを感ぜずにおられません。あまりに大きい御恵みにお報いする事などとても望むべくもない事でございますが、せめてものお手伝いの真似事でもさして戴きたくB先生の下で御用させていただいています。愚かな私の筆故たどたどしく、思う事の半分も言えませんが、私のような苦しみに喘いでおられる方の御参考にもなればと存じ、乏しい私の経験を述べさせて戴き、併せて御礼申し上げさして頂きます。
(二六年一月七日提出)
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愛知県 M・A
罪深き私を是迄御救い下さいました光明如来様に心から御礼申し上げ、今日迄頂きました御神徳の一端を御報告させて頂きます。
私は昭和二五年一二月に入信させて頂き、その後は希望に満ちた明るい日々を送らせて頂いて居ります。
忘れも致しません、二四年春頃より胃が悪くなり出し、毎日苦しい厭な日を送る様になりました。色々の薬から薬へ、医者の言うこと人の言うことを皆やって見ましたが、一向によくならず、胃痙攣を時々起し、翌年の春頃には一六貫程あった体重が一二貫程になり、会社の勤めも辛く、直に疲労し、顔の色は全く無くなり、死人の様な顔だと言われる度に悲しい想いに閉されます。しかし人の言うのも嘘でなく事実なので、どうなるやらと内科の医者に替ってみました。今迄胃腸専門の医者でしたので分らなかったのが、実は肺尖が悪くなっていて、その上十二指腸虫がわいているとの事です。仕方が無く寮に居ては何も出来ぬからと家へ帰って療養しつつ、医者へ通いました。十二指腸虫を下したら良くなると言われた胃も、眼の廻る様な強い薬を服んで虫を出した甲斐も無く、朝食べた食物が夜になっても咽喉につかえて食欲は全くなくなりました。寝たり起きたりの日を送っている内、又今度は急性盲腸炎に罹り、入院手術をしましたが、手遅れですっかり化膿してしまったのです。絶対安静で傷口からゴム管を入れ、少しずつ膿を出しては膿の無くなるのを待ちゴム管を抜きました。寝返りも出来ぬ日が半月程続きました。夜うつらうつらと寝る時に見る夢は何時も決った様に谷底へ落ちる様な恐しい夢ばかりです。そして目を覚せば私の周囲皆苦しんでいる人達、 ああこれが此世の地獄だと思い、神や仏等全く無いものだと世の中も亦あらゆる人も、否もっと尊い生みの親迄も怨んだのです。「母ちゃん、私はこんな苦しい世の中に生んで欲しくなかった」と何回言ったことでしょう。母はその度看護にやつれた顔に一杯涙を浮べて病室の外へ出て行きました。その姿を見て又私も泣きました。その中背中が丁度えぐり取られる様に痛み出しました。午後になると決って熱が出てまいります。見舞に来てくれた人と少し話をしても、氷で冷さねばならぬ程熱が上下する様になりました。顔の色を鏡で見てみると土色になり、目はおちくぼみ、頬骨が出て一見三〇歳位の女に見えます。これが私の顔なのかと見詰めている鏡の中の私の顔が涙で何時しか分らなくなり、蒲団の中へもぐり込んでむせび泣きました。充分診断してもらおうと医師に頼み、レントゲンやら血沈を調べて貰いました。結果は今迄悪かった肺尖は悪化して肺浸潤となり、血沈が八四にもなっていました。一カ月目漸く退院の日です。院長が、盲腸の傷はすっかり良いが「胸の方は悪いから暫く通院する様に、そして無理をしない様に」とくれぐれも注意され退院しました。久し振りに家に帰られた喜びも束の間、日頃折合いの悪い兄は長い病気の私を邪魔にし、食事の時も兄の顔色をうかがいつつ食べねばなりません。「働かざるものは食うべからず」等と書いたものを見せてくれます。ああ早く働き度い。皆と一緒に白の作業衣を着て御菓子の包装がやり度い。早く寮へ行かれる様にと心ばかり焦りますが、心とは反対に私の体はぐんぐんと悪化の道を進むばかりです。通院するのも駅の階段を上るのに大変なのです。手すりにつかまって三段程上り、一休みして又上るのですが息切れがして目が廻りそうです。 しかしどんなに辛くてもこれが病気の治る為だと遠い病院へ通いました。しかし日一日と酷くなるので遠い病院へ通われなくなり、近所の医者へ変りました。背中は鉄のカタマリで押えられている様に苦しく、胸は針をさす様な痛み、加えて腹が大きくうつむくことも出来ません。暫くして医者の言うのに肋膜と腹膜を起しているから、療養所へ行きなさいと言ってくれます。しかし療養所から健康になって帰やった人を知らぬ私は、悲しみの余り、総ての希望を失いました。兄は相変らず家の中が面白くないと大酒をあおっては私の枕元で厭なことを言います。近所隣りへ聞える様な大声で「俺はな、兄弟の面倒は見てやらないぞ、出て行け」とわめきます。私と兄の中間に立って母はおろおろと兄をたしなめて呉れます。「ああ母ちゃん、どんなに貴女の胸の中は苦しい事でしょう。私の様な病気の子がある為に」と思い「生きていてこんなに不幸なら、死んだ方が良い」と心に決めました。それからは明けても暮れても楽に死なれる方法ばかり考えました。併し生への執着と辛い病苦にはさまれて、悶え続けました。我身無き後人に笑われぬ様にと会社の寮に置いてある荷物を整理しながら出掛けました。すると友達のKさんが「一度話がある」と言うので行きましたら、Kさんがそれまでに頂いた有難い御蔭話を色々としてくれますが、そんな事でと半信半疑の気持です。併し溺れる者藁をも掴むとか、信じられぬ儘に浄霊を受けました。翌日日頃御世話になる勤め先のN製菓の工場長、T先生の御宅へ連れて行って貰いました。浄霊を受けつつ神の尊さ、私と同じ病気ですっかり治った人の話、又先生御自身の体験談を御話し下さいます。何もわからぬ私の心もいつしかしっかりと行く道が見つかった様な気がします。色々の薬もすっかり止め、一筋に先生の仰言ることを守りました。四回五回と浄霊を受ける内あれ程酷かった胃は治り、御飯がおいしくなりました。天にも昇る気持です。ただ嬉しくて御神書や新聞を読ませて頂きました。
そうする内に背中の苦しさも胸の痛みも取れ、死人の様な顔色は消え血色が出だしたのです。 夜眠られなかったのも治り、ぐっすりと眠れる様になりました。余りの御利益の大きさに、今迄の死生観は撤回され生きられる喜びに言い様のない希望が湧いてまいりました。
悲観のドン底から歓喜の絶頂へと向上し、親にも及ばぬ御親切な先生の御指導に、 一二月一一日には晴の教修を頂きました。その後年末に姉夫婦病床につき困っているのを、私が引き受け、 朝早くから夜遅くまで働き続けることが出来る様になりました。
新年になり、希望に胸をふくらませつつ会社へ出勤しました処、労務課長が健康診断を受けよと言います。日赤へ行きレントゲンやら血沈を調べました。結果を聞きに翌日行きますと「右肺に卵子大の空洞があり、血沈も数が多く、とても働ける体ではない。安静する様、この調子だと病気は進行して命に関わる」とのこと、何と言われようとも毎日元気で働く体です。張切っている私は医者の言う事も半分聞いて帰ってしまいました。しかしあの悪い診断の結果が労務課長の耳へ入ったらどうしよう、と困り果て、先生に御相談しました。「それじゃ主人に頼んでもらいましょう」との御言葉に胸を撫で下しました。翌日工場長から話しがあったのでしょう。労務課長に呼出され「工場長からの言い付けだから、何とも仕方がないが、御前の様な酷い病人を本当なら使えない、他の人の迷惑だからな。しかし長期にわたって会社を休む様なことがあったら馘にするから」と言われます。先生にそのことを言いましたら「一日に一度の浄霊では会社を休まねばならぬといかぬから、先生が根気負けする程浄霊に来い」との有難いお言葉を頂きました。
それから四カ月過ぎました。機会の許す限りW先生始めS先生の御浄霊を御受けする毎、浄化の尊い御話を聞かせて頂き、今日では一五貫にも肥り、一日も休まず働かせて頂いています。又御浄化を頂いた時には朝、昼、夜と三回の御浄霊を受けています。T先生が御本部へ御参拝の折や、御都合の悪い時には御疲れもいとわず、工場長自らの御浄霊に、一女工としてこれに勝る喜びはありません。会社では社長も入信してこの道に邁進されて、私共は力強く働かさして頂いています。会社の人達と作業をしながら神の尊さを語り自分の体験談をするのが此頃の楽しみとなりました。そして一人でも多くの人々に、神の大きな御神徳を知ってもらうのがせめてもの私に出来る御奉公と思い、日夜張切っています。
観音の御救ひなくば吾は今底なき沼に悩みつづけむ
明主様の御歌のままの私でございます。有難う御座いました。
(二六年四月一一日提出)
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北海道 K・S
私は小学校当時、全国健康優良児童として表彰されました。一見非常に健康そうな体でしたので、一生病気に苦しむ事はないものと自信満々たるものでございました。
昭和一五年会社の社用で渡満、三年間満州生活を続けました。ふとした事から急性腸炎続いて乾性肋膜炎と診断されましたが、一時少康を得て作業に従事していますうちに、肛門より少し離れた処に腫物が出来、恥も外聞もなく診断を受けましたら早速切開され、 永らく通院していましたが治らず、新京へ出て静養六カ月にして又入山しました。
肋膜炎は再発し、注射、医薬、栄養剤等熱心に続け又小康を得ましたが、 徴兵検査の時には右肺浸潤、 左肺尖カタル、痔瘻の為に第二国民兵、徴兵免除となり、故郷へ泣いて帰国早速村の医師を迎え、注射、薬にて安静にし保養していました。
田舎の事とて肺病といえば伝染するときらわれ、 肩身の狭い生活を続けて、新聞の広告、雑誌の広告、先ず眼に着くものは肺病特効薬という広告に夢中になり、あれやこれやと注文して服用し、又蝮、縞蛇等の蒸焼、生ぎも等、ただただ健康になりたい一心に服用しました。又山羊乳が良いと聞き四方八方探して一頭の山羊をもとめ、毎日新鮮な乳を二、三合飲みにくい思いで服用していましたが、少し無理をすると再発し、医師よ薬よと家族の者に心配をかけ、小康を得て日光浴をしては発熱喀血になやみ、灸は毎日のように据え、未だ当時の灸のあとを見る度に、よくも斯んなに焼いたものだと思うほど忠実に実行したものです。
医師曰く 「貴方の体はガラスのかけたのと同じで無理をすればはがれるから、無理をしないで静養しなさい」と。再三発熱して医師を迎えると「私の言う事を聞かないで無理をしたからだ」と叱られる事度々でした。
無理のないように大事に静養を続けているうち、昭和一九年八月痔瘻再発歩行困難となり、入院手術をしました。手術の結果直腸が一五糎も入っていたそうです。 八月の暑さと手術後の苦痛の為、衰弱するばかりでした。二カ月して漸く退院しましたが全治せず、毎日バスで通院しましたが、膿の出る処は依然として治りません。医師は再度の手術をすすめましたが、あの苦痛は恐ろしくてどうしても二度と手術する勇気は出ません。怖しさの余り他によい治療はないかと探しましたら、京橋に注射で治す先生がいる。手術より非常に楽だと聞き、家族と相談して早速上京して診断の結果、六カ月位で治るといわれ、当日肛門に注射、一カ月分の膏薬を頂いて半年通院しましたが治らず、もう三カ月又もう三カ月、又……と呆れるほど治りませんでした。痔瘻は不治なるものと、希望も青春の夢も消え、何の為に此世に生れて来たのであろうかと考えさせられ、求むるものは死……、併し、死の恐怖はどうする事も出来ませんでした。あちらの病院こちらの病院と代えても一向に健康にはならず、私はその頃から宗教を探し求め、禅宗の本を読むようになり、しかし何回読んでもさっぱり判りませんでした。その分らない処に意を注ぎいっそ僧侶となって世を捨てたらと考えましたが、ある立派な僧侶に伺いましたら一笑に付され、今の宗教家で『碧巌録』を解ける人は、日本中に十指あるかないか解らん、君はその詩でも学んで居ればいいのだ、又もや希望は挫けてしまいました。
昭和二二年五月、又もや肺の病に苦しんでいた処、信者のIさんが来られいろいろ不思議なお話を伺い、翌日『天国の福音』を持って来て下さいまして、最初さほど意にとめませんでしたが二度三度と繰返し繰返し拝読しているうちに、今までの健康法とは全く相違していますので、物は試しにと思って五月一七日初めて御浄霊をして頂きましたが、あまり簡単すぎる治療で物足りなさを感じて帰宅しました。
昼食中急にお腹がゴーゴーと下る様な気持がしますので用便にゆきましたら多量の下痢がありました。少しの痛みもなく反って腹部が軽くなりました。 毒素が出るといわれたが今日の御浄霊が効いたのかなと嬉しく感じ、又翌日御浄霊をいただきましたら肛門から膿が出る、あんな簡単な事をしてと不思議に思い、それ以来約三月通いました。
不治の痔瘻とあきらめたのが何時しか忘れるようになり、全身から多量の盗汗が三朝続けて出、又或時急に発熱して胃が痛み、ふうふういって寝ていましたら、鼻から急に強臭のある薬の匂いが出て来ました。その晩二回ほどにがみのある液体を吐き出しましたら熱も痛みも去り非常に楽になりました。御著書の薬毒、 尿毒、 然毒というものは実際ある事と体験さしていただき、日に日に胸部も楽になりましたので、嬉しさのあまり是非私もその御力を頂きたい、そして世の病人を助けたいと人生の希望に燃え、八月鎌倉にてO先生より教修を頂き、御守様を頂きました時は、本当に嬉しく感激致しました。
すっかり大船に乗せて頂いた感じでございました。早速帰宅、母の坐骨神経痛を浄霊しましたら一カ月程して楽にして頂き、母も九月O先生より御教修を頂き感謝致しております。
それ以来先生の御指導頂きまして、旧D会本部に御奉仕さして頂き、M教会にも御奉仕させて頂きました、只今では体重一八貫、以前の病苦も悩みも一掃さして頂きました。只今は救世の御用にお使い頂き、これほど幸福な喜びはございません。
私のお救い頂きました幸福の感激を涙で御礼申し上げます。
(二六年六月二六日提出)
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神奈川県 Y・Y
結核!これは真の神を知らぬ曲津神の虜となった者の為に造られた病ではないでしょうか。私もその仲間の一人でした。昭和二二年の暮に青年層を斃す結核に侵される身となりました。医師より左肺浸潤と宣告を受けた時の心境を御想像下さい。地獄のドン底につき落された気持でした。母、兄、姉を次々と将棋倒しにしたその結核、ああ遂に私をも斃そうと襲いかかって来たのだ。絶望!是は私の一生に忘れる事の出来ない病名です。悶え苦しみながら、皆彼世へ旅立ってしまったのでした。医師はブラブラ養生をして栄養物を摂るようにとの事でしたので、医師のよいという事はやれるだけの事はやりました。誰でも助かりたい、助けてやりたいの一心でした。然し結果はどうでしょう。五人共死んでしまったその時彼等の言った事は何でしょう。「養生が足りない、体力がない、寿命だ」とただこれだけの言葉でした。何と冷たい言葉ではないでしょうか。五人を一心に助けてやりたいと思って行った誠がかくも踏みにじられたのです。六番目に私の宣告!断腸の思いでした。私も右のような運命になるのは火を見るより瞭かです。一カ月二カ月医師に通いました。忘れもしない明けて二三年一月、或夜半突然喀血をしました。傍に見ていた父の目には光るものがありました。蒲団を被って床に臥す父の姿、自分を忘れ父の寝姿に手を合せるより仕方がなく、私が死んだらこの身寄りのない年老いた父!近所からは肺病一家だと言われて退け者にされ、 養老院へ行くだろうか、野垂死をするのだろうかとの思いは、私の胸の中を走馬灯のように駈けまわり、ただ涙が頬を流れるままでした。翌朝父は起きなかった。一枚の寝床に入って泣く父子二人の姿、何たる悲惨な姿でしょう。その傷ましい父の姿を見た私は何としても病に打勝ち、父を喜ばそうと意を決したかもしれません。併し自分の病は募るばかり、御嶽教、大師、地蔵、稲荷と次々と宗教にすがり続けましたが、良くなる処か衰弱してゆくばかりでした。もう私は神にも見離されたのだと思い、 病に打勝とうとする心も遂に花のしおれる如くの有様でした。朝戸が開かないので近所の方が心配して来て下さったが、 朝まで父子二人で抱き合って泣き明してしまったのでした。「今日はとても良い療法があるって聞いたから知らせに来たのです。光明如来様のお力で、どんな病気でも治されるそうですから、どう、やってもらったら」と。併しそのような事私には考える余地はない。「だめだよ、おばさん、僕は結核だよ」ああこの言葉は人の前ではっきり自分の事を言うにはどれだけ勇気がいるか、併し私にはそれが言えました。もう近々死ぬのが判っていたから、がその人は「いいんだってよ、胸でも何でも治るらしいよ」と。今迄五人を亡くす迄既成療法、信仰療法と凡ゆる事をしたのだから、光明如来様だって駄目だろうと笑った位でした。その人が帰ってから床に入って考えた。真実に治るだろうか、治りたい、父の為にY家の為に、早く治りたいの一心でした。やってみるか、やってみなければ判らない。治らないものを治ると言う事は嘘をつく事だ、いい加減な事は言わない訳だ、よしやろう、やって貰おうとおそるおそる服を着かえて出かけた。右足をつけば右の胸へズーンと痛みが来る。左足をつけばやはり痛い、苦しい、やっとの事で辿り着いた。中へ入って唖然とした。ただ手を翳しているだけで私はがっかりした。気抜けがした。併し来た以上帰る訳には行かず先生に話した「治るでしょうか」先生は「簡単ですよ、必ず治ります」と、その時の私の喜びは、如何ばかりでしたでしょう。赤児が乳房を吸うあの気持でしょうか。私の番が来た時無意識にやってもらっていた。不思議だ不思議だ。体が軽くなった軽くなった。もう私は治る治る。有難い有難いと三度口より出た。今迄の信仰と大部ちがう、何かあるぞと思った。今の今迄唯の一度もはっきりと「治る」と言われた事があったであろうか。これを求めていたのだ。先生のお顔を見ればニッコリと笑って居られ、そのお顔が光明如来様の様だった。教会を出た時は、来る時と斯うもちがうものかと、生れて初めて味わった事だ。真の喜びとは此事だろう。家に帰ってみればまだ父は床に入っていた。「お父さん」とその声に父は首を上げ、今迄にない元気な声に、父も目をパチクリパチクリ数分後は父子抱き合って泣き合い、嬉し泣きの涙でした。前に抱き合って泣いた涙とどれだけの違いさか御想像下さい! 今迄にない盗汗、又牛乳のような真白な小便が出た。不思議というより言葉はない。以後一五日間で肺患三期で、医者の捨てた人間が会社へ入社する状態になりました。光明如来様の御守護によって、私等父子の喜び、周囲のおどろき、遂に私は救われたのだ。此喜びを母や兄姉にも味あわせたかった。唯物主義にとらわれていたのだ。 その後医者にレントゲンを撮って貰ったのは勿論です。雲翳がなくなっていた事は勿論です。
母、兄、姉を死に導いた医学を呪い悲しみ、又再度この道を通って死に進もうとした私に、真の道標を御示し下さった明主様に御礼を申し上げながら、私は声を大にして叫びたい。多くの悩める方々へ、この福音を!是は私達一家の辿った生々しい地獄絵巻であった事を!
程なく私は尊い尊い御守を拝受さして戴き以来N先生の御指導を頂き、救世の道に邁進さして頂いています。明主様本当に本当に有難うございました。
長き世の夢は実となりぬらむ
それの徴しのはや見え初めぬ
(二六年一月二八日提出)
(結核信仰療法 昭和二十七年十二月一日)