(付録)おかげ話100例 81~90

岐阜県 Y・H

現代医学では不治の病とされている肺結核を治して頂き、今日あるを喜びつつ感謝の一端を御報告させて頂きます。

顧みれば昭和一九年七月一八日呉海兵団で作業中、突然胸苦しき眩暈を感じ同時に血痰を吐き其場に倒れて了いました。それより一週間程は四〇度の高熱にて食事も通らず、右胸部が猛烈に痛み寝返りは勿論、話をしてさえも胸に響くので、横向になり歯を喰いしばって辛抱しました。その時私達の部隊は戦地へ出発する一〇日程前でしたから班長が「診察を受けると内地に残されるから」と診察許可が出ませんので、私も無茶とは思いながらも内地にいて肺病で死ぬより戦地で死んだ方がよいと悲壮な気持で出発しました。

戦地に着いてからも尚苦しく、微熱が続き胸部に圧迫を感ずるので、診察の結果肺浸潤の疑いにて、海軍病院に入院しレントゲンの検診を受けた処、病原解らず一カ月程してから急性気管支炎と出鱈目な病名をつけてもらいました。以後入院生活一カ年の翌二〇年七月四日、全員退院にて海兵団に帰り敗戦の八月二四日復員しましたが、その年の一一月風邪が因で再発し、血痰し一カ月で微熱と血痰が出なくなりました。

それ以後は医師の言葉に従い静養して約一カ年程してから無理のないような仕事をしましたが、二カ月もすると又々悪くなり朝洗顔する度に血痰が出る様になりました。すぐ病院に駆付け、レントゲンの結果左の肺も悪くなり、両肺とも冒されていると診断されたのです。その時の気持は何とも言えない恐しい真暗闇につき落された様で、力ない足取りで家に帰りました。

今度は前に悪かった時と違い、日増しに痰や盗汗が多くなり、熱は午後になると決って三七度三分前後出るので、心配のあまリ通院するのを止めて自宅で絶対安静につとめ、カルシウム注射一本、ビタミンB注射二本ずつ毎日五カ月間続けました。

それに治りたい一心から苦い青松葉を生のままかんで汁を吸ったり、貝を粉にして飲んだり「にんにく」を生のまま喰ったり、良いと言われる事は種々やりましたが、病気は悪化する一方で少しも良くならず、熱は三八度を上下するようになりました。家人からは感染するからと何もかも全部別扱いにされるのです。自分自身肺病故致し方ないとは思いながらも、余りにも冷たい仕草につい腹が立ち、夜は到底眠れず睡眠剤を一〇日間服用しましたが全く効果なく、身体は日増に衰弱し精神的にも世の中を呪い恨み、医者も薬も自分にはもう駄目だと思い飲むのを中止して了いました。その当時知人で汚血療法をやっている人があり、強いられるままに四カ月間毎日のように受けましたが、最初は気持がよい様に思われましたが病気は却って悪化し、歩行するのが困難になり、食事も進まず衰弱も激しくなりましたのでやめて了いました。注射や薬を諦めた現在は、楽になる方法は死より他にないと思い、幾度自殺を計ったか知れません。然し父母の悲しみ、心に潜む生への執着の為、それも出来ず精神的にでも楽にして頂ける宗教はないものかと無神論者の私もいよいよ神仏に縋る気持になり、知人より教わった弘法様へお願いすることに致しました。

早速母に連れられ一時間余り汽車に乗って苦しい身体を無理矢理にお大師様の元に着きました。祈祷をして頂きました所「貴方は結核の第三期だから私の所にいるなら来年八月迄に治してやるがそれでなければそれ迄に死んで了う」と言う事で治りたい一心で入所することに決心して、入所している人にいろいろお話を聞きましたら、入所したら病が治る迄家に帰れないとの事、外出は許されない事、食事は一日お米一合を粥にして二食に頂く事など聞いて吃驚しました。

そればかりではありません。 期日前に家に帰りたくも「家へ帰ると不幸の災難で死ぬ」と言われるので気持が悪くて帰ることも出来ないとみんな不平不満を抱いており「貴方もよく考えてみた方が良い」と言われたので神仏が信じられなくなり、暗い気持で足を引ずるようにして家へ帰りました。

期待した弘法様も駄目にて宗教に縋ろうとする気もいつしかなくなり、健康の美を呪い世の中を呪い果ては家人を恨み、親兄弟にまで当り散らし毎日を怒っては泣き泣いては悲しみ、文字通り自暴自棄になり苦しい日々を送っておりました。

病勢は日一日と悪化しどうする術もなく死の一寸手前となって了いました。

ああその時に此私にも光明如来様の救いの手が延べられました。母が近所で光明如来様の有難い話を聞いて来て最後の頼みだとて浄霊を受ける事を勧めましたが、私は汚血療法や弘法様と同じようなことで迷信だと言って受けつけなかったのです。

それでも余り母が頼むので遂に自分の「我」を折って浄霊を受けてみました。忘れも致しません。

昭和二三年二月二三日の午後一時頃でした。K先生より病気は神様から与えられた自然の浄化作用である事を教えて頂き、心配していた熱や痰、盗汗などは浄化作用の結果である事が判りました。

一回の浄霊にて身体が大層軽くなり便所へ行くのもとても楽になり、 その日より生れ変った様な爽かな気分になってしまいました。

三日目にはもう近くの教会までフラフラ乍らも歩いて行く事が出来、教会のS先生より今迄の手当法の間違っていた事を聞かされ、今迄四年間苦しみに苦しんだ病苦から解放される事が出来、嬉し涙に咽んだのでございます。

翌月三月一九日教会の臨時祭で会長先生がおみえになり、早速入信させて頂きました。お守様を頂戴しました時には唯々有難涙で胸が一杯でした。

それ以来S先生の御指導を受け、毎日毎日病気で苦しんでいる人を訪問して浄霊をさせて頂きました処、どうでしょう、医師から絶対安静を命ぜられた重病人が数限りない程起き上れたのでございます。これこそ光明如来様の大慈大悲のお力でなくてなんでありましょう。このような宏大無辺なお力に優るものが此世に又とございますでしょうか。終日浄霊の為に街を歩きましたが少しの苦痛も感ぜず、家人は勿論隣人や友人も皆驚きました。

四月中頃より浄化を頂き、血痰や盗汗が盛んに出ましたが、一日も休まず受ける浄霊の為に差程の苦痛もなく、一カ月程で前以上気持のよい軽い身体になりました。

医師からは絶対安静を命ぜられ、 弘法様には昨年八月迄に死ぬと言われた私が、昨年七月には明主様に御面会させて頂きました。あの日の喜び、あの日の感激は筆や口では表わす事が到底出来ません。唯々、明主様、有難うございました。此一言の外にございません。

聖恩の万分の一にもお報い致したく此有難い救いの道へ一人でもお誘いしたいとそれのみに努力致しております。明主様有難うございました。そして直接御指導下さいます会長先生始め諸先生方に厚く厚く御礼申上げます。

………………………………………………………………

岐阜県 I・K

忘れも致しません、昭和二一年一一月一〇日突然大喀血を三回もしまして自分は勿論家族の者も日の前が真暗になり、そのまま私は不治の病魔に襲われ落胆の余りドッと床についてしまいました。

それからは何んと思っても致し方ないので、医者の言葉通り絶対安静にして、患部を氷で冷しカルシウム注射をして喀血するのを除きました。

何しろ幼い三人の子の母として又年老いた両親主人とその中で一家の主婦が床についている程世にも惨めな情ない事はありません。全く火の消えた様です。何が何でも一日も早く起きなければ、せめて自分の田なりとも出来る様にならなければと、栄養薬、栄養食と到れりつくせりで、今の医学では之以上の方法はないと迄して頂きましたが、病勢は一進一退で計々しくなく、気ばかり焦って又他の医者に変えてみました。そして今では結核に一番よいと言われるセファランチン注射をすれば完全によくなると言われて、飛立つ思いで二本して頂きました処、今迄の微熱が一ぺんに三八度に上り御飯も少い乍らも美味しく頂いておりましたのにまずくなり、血痰も出る様になりましたので驚いて止めて了いました。医者は「貴方の身体には合わないでしょう」と言われました。其れから時々動悸が激しくその為安眠出来なくなりました。医者は、「神経性の心臓だから心配せぬ様にしておればよい」と言われました。けれど

余り苦しいので心臓の注射も十数本しました。もう右腕は注射の打つ所もない程コンコンになり、注射の針をみてもゾッとする様になりました。

その時知人から心臓病には「天然療養泉」と言う薬がよいと言われまして飲んでみました。初めの中はよい様に思いましたが、段々続ける中に心臓を締めつける様な苦しさがしますので又々之も止めて了いました。

その中今度は腹痛と下痢が始まり、もう完全に駄目だ、どうすればいいだろうと日夜恐しい夢にうなされ、衰弱の度も日毎に加わり、苦しさの余り二回も遺言をしました。其頃ブドウ糖の注射を毎日打っておりましたがそれも効果なく、ああもう自分は薬が効かない身体になって了ったのかと情けなくなってしまいました。

もうこうなれば、 神仏の外に縋る術なしと思い、苦しい時の神頼みではありますが、家中一心になって氏神様に祈り続けました。その願いがきいて頂けたのか、一八日目頃近所の同病の方から有難い救世教の事を聞き、もう矢も楯も堪らず「溺れる者は藁をも掴む」の譬え、早速S先生、M先生の御浄霊を受けました。

何しろ初めてなのでこんな事でどんな病気でも治るのかと半信半疑でしたが、S先生の言われる事が一つ一つ胸に応える事ばかり、中でも「もう貴方は今夜全快祝して貰いなさいね」と言われました時には本当に地獄の底から一ぺんに天国へ昇った様な気が致しました。これは私の一生忘れる事の出来ない言葉の一つです。此尊い救世教を知る迄七カ月間は便所にも行けぬ地獄の生活でした。それ以後今日迄毎日御浄霊を受けました。その経過を申し上げます。

第一回の浄霊を受けました翌日実に気持のよい事、今迄死の恐怖に襲われていたのが拭われた様に楽になり、朝迄ぐっすり熟睡する事が出来ました。もう何んか起きられる様な嬉しい気分になりました。

四日目にはもう便所へ歩いて行く事が出来ました。何んだか恐しい様でしたが大丈夫と言われましたので杖に縋って行き気持よく放尿出来、身体が大変軽くなりました。家の人達も泣いて喜んでくれました。六日目には蜘蛛の巣のようになっている髪をときました。

八日目にとても強い浄化を頂きもう駄目かとも思う位激しい動悸がしましたがすぐ先生に来て頂き、浄霊を受けましたら受けている内に段々とよくなり翌日の午前中は三〇分おきに小便がどんどん出ました。夕方には梅雨が明けた様な晴々しいよい気分になりました。

一三日目に初めて入浴しました、七カ月余も入らないのでその気持のよい事、一寸入って出ただけでしたが本当にさっぱりとした気持でした。

一六日目には十五、六町もある所に臨時祭がありましたので是非入信させて頂きたく母に付添われて恐る恐る行ったのでした。こうした実に素晴らしい変化なので近所の人達も亦赤坊が歩き出した様に珍らしく眺めておりました。

二カ月目から約一カ月間毎日お風呂から上った位盗汗が出ました。そして又一週間位動悸が激しく歩く事さえ困難な時もありました。喀血も五、六回血痰もよく出ました。其浄化後には身体が前よりも楽になる事がよくわかりました。

今月で丁度五カ年になります。二三年の一〇月と二四年五月と二五年三月、二六年四月に明主様に御面会させて頂き、本当に何と御礼申上げてよいやらその言葉もなく、唯々嬉し涙で胸が一杯でございます。此喜びを一人でも多くの人にお分けしたいと思い忙しい主婦の身ではありますが日夜お手伝いさせて頂いております。私の此拙い文が同病に悩める方に少しでも御参考になれば誠に幸いと存じます。

………………………………………………………………

兵庫県 Y・Y

不思議な神の御力を以って御光の国へと導かれた現在の倖せな自分を静かに省みて、感謝の意をここに拙ない文字によって綴らせて戴きます。

本年の初めより体の調子が悪く医師の診察を受けて居ましたが、三月おひなまつりの日に「肺浸潤」の宣告を受けてより悲歎のどん底に明けくれ、来る日も来る日も涙ですごしたあの幾十日、今思い出しただけでもぞっとします。「幸福」そんなものは私にとって凡そ縁の遠いものとしか考えられませんでした。五月の初から完全に床に就いたきり不眠高熱がずっと続き一〇Hすぎ二〇日すぎても食欲は全然なく、ただ衰弱の一途を辿るのみでした。全身絶えず何ものかに圧迫されている様な気持ち、頭の上から押さえつけられる様な重圧感、一日一回御不浄へ行くのが本当に苦しい日課でした。

ベッドの上に起上ろうと努力しても気が遠くなって倒れて了い、それでも無我夢中で手探りで歩いて行って柱にぶつかり、初めて我に返ったことも度々ありました。家中しめっぽい空気に包まれたまま、斯くして私は死んで行くのか知ら?死!あきらめ!寂しい生涯!次から次、絶望的な感情の錯綜で頭の中は狂いそうでした。心の闇に彷徨い乍ら、さて死後何処へ行くのか知ら?と思うと無性に心細くなって来て、やはり死ぬのはいや否絶対に生き度いという欲望だけが残るのです。そして何かにすがり度い、何かを求めたいと焦りつつ悩みの坩堝に置かれている時、はからずもS先生を紹介して戴いたのでした。

五月二二日に御友達が訪ねて来て半年間悪かった母が救われたのだから、だまされたと思って此御道を信じなさいと進められたのです。けれど何故か新興宗教という名称に頭からどうしてもうなずけないものがありました。之が私の最初の偽らざる気持ちです。

然し半信半疑の儘S先生から生れて初めて浄霊をして戴きました。 そして何か知ら浄霊という言葉の響きに魅きつけられて行く様な感じが致しました。

先ず第一の現象、あれだけ続いていた高熱が下りました。三日目から痰がものすごく出る様になり、一週間に下腹部全体に蕁麻疹の様なものが出来ました。日増しに先生のおっしゃる通りの症状に変って行きます。熱が出なくなったこと、夜ねむれる様になったこと、便通が良くなったこと等全く不思議です。

周囲の反対はありましたけれど、 五月二二日を期してすっかり医薬から離れ、一日一日と浄化されて行く自己を見つめて本当にうれしくなって来ました。

喀血は一度も無く最も奇蹟と思ったことは、今まで月経不順で三カ月位滞るのが常でしたけれど、浄霊をつづけて戴く様になってから九〇日の長い間毎日毎日出血を見ました。三カ月間も月経が続いたと人に話しても誰も恐らく信じられないだろうと思います。常識では考えられない、然し現実に私はこんなに有難い御利益によって快くして戴きました。

「物を観た一瞬直観した印象こそ物そのものの実体を把握して誤りが無い。確に難病が治った事実をこの眼で見たなら、そのまま信ずべきである。それが正しい見方である」

明主様の此尊い御言葉を理解させて戴くことの出来たよろこび、感謝しても感謝してもし尽されない気持ちで一杯です。一日も一刻も早く、斯くも尊い御神徳が世のすべての人々に分っていただける日の来るのを心の底から切望しつつ、御恩の万分の一に副うべく覚束ない私もただ今御用の一端を果させて戴いて居ます。ありがとうございました。

………………………………………………………………

埼玉県 I・N

有難い光明如来様の偉大なる御神力に感涙拙き筆ながら、御報告申上げます。

私は昨年一二月二七日K先生より教修を受けました。

以前十年余看護婦として臨床看護の生活を続けて参りました。其間、病気の問屋と言われる程あらゆる病魔に侵され、薬、注射を何年となく愛用していましただけに、家庭医学等は専門家を驚かすほど研究していましたが、病気は全治とまでゆかず、唯進行性でなくなっただけのまま、家庭の人となってしまいました。

処が此度はからずも長男の病気の時、受持のO先生がお見舞に来て下さいまして、種々と救世教のお話をして下さいましたので、早速御浄霊を頂きましたら、それまで高熱だったのが急に解熱し、食物も流動物だったのを、お話により患者の要求のままに何でも上げました処、悪化するどころか急に元気が出て、起きて遊びたいというようになりました。あまりの不思議さに早速入信さして頂きました。

教修を終った翌々日より、私が戴きました御浄化の経過を御報告申上げます。

最初、猛烈な悪寒より始まり、胸部から腰部全身痛と変り、身動きならぬ日が二昼夜も続き、此間、O先生より数回の御浄霊を受けました。

処が、二日目頃より左胸部(肺尖部)から、気味わるくラッセルが聴診器なしに聞えるようになったと思うと、予期はしていましたが、驚く程の大喀血を二度致しました。入信以前ならばどんなに驚きあわてた事でしょう、一、二カ月は絶対安静、やれ注射、氷等を家人のあわてる様が思い出されます。只今ではお守様をいただいている身故、安心しておられます。喀血後の気持の快感は十何年味わった事がございません。この有難い御浄化によって、御神力の偉大さを悟らして頂きました。

病気で苦しむ世の多くの皆様、この御浄霊の尊さ御神力の有難さは、とうてい医学では解決出来るものではありません。この偉大なる御力と喜びを、一人でも多くの人に知って頂きたく、拙い走りがきを致した次第でございます。

………………………………………………………………

福岡県 H・Y

かつての軍国調華やかなりし頃、「ああ特幹の……」で名高い旧太刀洗飛行場の一望の雪の原の一本道を、久方振りに降った雪の美を賞でつつ、走らす自転車のペダル踏む足は軽かった。軽い咳と共に出た一種異様な啖を吐いた瞬間、瞳を射た白銀一色の中にパッと開いた真紅の花!ハッと激しいショックを覚え乍らも、其儘自転車を走らす事暫し、やはり止みそうもない。遂に道端にうずくまって強く膝を抱き、胸を圧したがゴホゴホと出る鮮血は只徒らに四辺の雪を染めるのみ。意を決してガバッガバッと吐き乍ら家路についた。家の者は一瞬凍り付いた様に凝っとした、食塩水を飲み消毒薬を入れた洗面器を口の端に置いて床に横臥した。顔色を変えつつも妻は私の手真似とつぶやきの指図にきびきびと動いてくれた。

見ていた人の機転の注進で、医師は直ぐ来て幾本かの止血剤(トロンボーゲン)と鎮静剤(モヒ)を注射してくれた。次第と喀血も間遠になり落付いて、夢現の境をさまよう時、あの満日白銀一色の広漠たる飛行場の雪の原が現れては、消えては、又現れていた。純白の雪の上に点々と印されし鮮血と共に。ひびの入った壺は簡単に割れてしまった。遂に来るべき時が来た。ああとうとう遂に!私の肉体は無傷では無かった、結核菌と共に歩いて来た道はもう永いのだ、南朝鮮の地に生れ、日本は中等学校の五箇年しか知らなかった私は、釜山府立病院で昭和一五年七月肺浸潤の宣告を受け、一六年八月迄自宅療養後、応召し其年の一二月喀痰検査に依り、肺結核の烙印を捺され、平壌陸軍病院に、一七年四月馬山傷痍軍人療養所へ、一八年末同所を全治退所、ぼつぼつ農業に従事した。

一九年五月初めて仕事中喀血を知らされた。而し安静のみで医師の診療も受けず一カ月余で起きた。二〇年五月再度の応召、 幾度か講演後血痰はあったが、其まま押し通しあの終戦を釜山で迎えた。回顧してもゾッとする引揚! 良くぞ家族皆生きて帰えって来たと思われる引揚げ!二一年四月此太刀洗原頭の一角に開墾の鍬を打込んで、後は只生きんが為、遮二無二働いた。其年の三月母は風邪が元で死去、五月甥が不発弾に依る負傷死、七月末子が水死!一〇〇日の間に三つの棺を出す悲境に堕ちた。其上又一二月小喀血、而し此時も只うがいと安静のみで一〇日目には餅を搗いた。二二年、二三年と無事に働き続け、漸く結核菌を忘れかけ様とした二四年二月八日遂に此大喀血となったのだ。洗面器約七分目!捨てに行く妻の手は震えていた。

幸か不幸か官職の下っ端に籍を置いていた為、医療費は全額補助であり、毎日医師には来てもらい注射と投薬をしてもらった。発熱も無く月末には血痰も無く、気分も良く起き出し、春の蒔付を指揮したが三月には悪化、喀血は一週間毎、一〇日毎に繰返し、遂に四月九日には死亡率九五%とかの肺気腫と診断され二人の医師から「もう駄目だ、只死は時間の問題だ」と宣告され兄妹からも見離されてしまった。只死の恐怖に戦きつつも生への執着に喘ぐのみだった。

而し未だ天は我を見捨て給わず、六月下旬には細心の心使いの中に散歩し得る迄になった。一般は結核患者の常道、安静、大気、精神、栄養、そして驚嘆に値する程の薬と注射を金科玉条として厳守し続けつつ!而し固めたものは又壊れた。一〇月一日私としては珍らしく高熱が続き又危篤に陥ちた。最早や近隣は勿論、兄妹も来てくれなかった。貧窮のどん底に喘ぎ、病魔に取憑かれている者に寄付けば、借金の申込みを受けるか菌の伝播を被るかだもの、只一、二の友の心からなる物心両面共の友情には幾度か泣かされた。最早や医者も薬も兄妹も隣人も妻子でさえも頼りにならなかった。自分一人だ、其最後の頼りの綱の自分が之一番頼りにならない「もうじたばたせずに、半年死んだつもりで寝よう」で本当に大の字に仰臥し徹底した安静に入り、再度次第と落付いて来た。

二四年一年間、私は完全に医師を、現代医学を信頼し、医師も私の境遇に同情し、医師と患者との心は最も効果的に合致し、全額補助の為、何等気懸りにならず、注射、投薬等安心して医師の意志通り与えてもらい服用した。其為病気に対(する処置は殆んど理想的に近く万全を期してもらい、現代医学に対しての不足感は自弁であった為、六本丈に止めなければならなかったストレプトマイシンより他感じなかった。而し一家の支柱の倒れた後の生活苦は見るも哀れだった。命の次と玄海の怒濤を越して持って来た僅かの物品は次々と栄養食代に変貌して消えて行った。妻は一五歳を頭の三人の子女を相手に馴れぬ農耕の上、輸血組合に入るべく検査を受け血を売り、行商をし、只喰って生きんが為のみの努力で、帯を解いて睡眠を取る事は珍らしかった。

其上離れ行く人の心を見る時六つからの公職を持って走り廻っていた頃、あれ程チヤホヤ言いつつ寄り着いていた人達の足はばったり止り、時折訪れ来れる人々も逃げ腰の挨拶!親の結核の為、子迄肩身狭い生活をしなければならず、学校の整列の時ですら、前後とも開いて一人ポツンと取残される事も度々とか、兄妹にも病と貧なるが故に見捨てられし孤独感!人知れず荒れ果てた妻の手を握って男泣きに泣いた事も又幾度か……何故に俺は斯迄しいたげられなければならないか?「血を吐く思い」とは形容詞だが現実に血を吐き続ける苦悩は、何故に次から次に繰返して迫って来るのだろうか?これでもかこれでもかと言わんばかりの悲境の連続は何故か?神は何を知らしめ様となさるのだろうか。

愛、慈悲、智の権化の神仏が何故に俺には斯く迄も辛くあたられ、苦難の連続を与え苦しめられるのだろうか。神の試練と受取るべきだろうか。人間を病苦に喘がせ、貧苦に焦だたせ、死の恐怖に悶えさせられるのが神仏の御仕事だろうか?然らば抜苦与楽の大慈悲は何か?矛盾だ、矢張り宗教は無神論者の言う阿片だろうか?「読書も害だ」と医師には幾度か注意されつつも、心の悶えは如何ともし難く読みあさった。仏書を、神の道を、生命の実相をそしてバイブルを……を、其間にもやれ何宗だ、やれ何教だと十指に数え切れない宗教ないし其類似の人が、余りにはでだった。発病が原因し訪ねて来られては私の心を満し得ず、無為に「度し難し」と言わんばかりの顔で帰って行かれた。後では只「信ぜよ、而らば汝助けられんのみで素直に其儘信じ得る事に依って飛び込み得る人は幸福だ。何故に俺は勉強し本を読み生半かな知識を持っているのだろう、と自己批判に陥入っては苦しむのだった。

病状の漸く落付き出した一一月、 一二月と実に頼りにならない人間以上の何ものかを求めに求め、考え、悩み、悶え苦しんだ矢張り駄目だ!凡夫の俺には出来ない事だろうか?だけど面壁九年、石の上に三年の荒業、苦業しなければ本当の神、仏は解らないのだろうか、出来ない相談だ、ええもう神、仏は解らないでも良い、病苦より脱するのみでも良い、どうしても俺は只単純に「汝等信ぜよ、求めよ」のみで、 いろはも知らない様な田舎の老媼が御信心する事に依って不思議に安心を得、ケロリと病気の全治するのは何故だろう?偶然だ。偶然でも良い。病苦より脱し得れば、其偶然の連続は奇蹟と言って良い筈だ。奇蹟なれば尚結構、偶然でも良い。何でも良い。鰯の頭でも良い。此病苦を、生活苦を、悩みを、悶えを脱したい。逃れたい!

大小便迄臥床のままの徹底した安静裡に肉体は平安を保っていた。自覚症は只僅かの咳と痰のみ、脈搏は少し早く九〇位、熱も、胸痛も盗汗も、不眠も無く、食欲も二杯は美味に食し得る位はあった。而し医師の言を借ればラッセルはバリパリ聞え、菌はガッキー六号位は出ているとの事だった。

此様な状況の内に我が生涯の最良の日一二月二八日を迎えた。

同村のN先生がひょっこり見えた。未だ処女美の崇高な迄の清潔な感じの若人である。「私も胸が此教えで治りました」成程はち切れ相な元気さを目前に見ては、病気の暗い影など微塵もない。「他の信仰では信じなさい、助けられますと言い乍ら、助からない時は信仰が足りないからと逃げるのです。此教えでは先ず助けましょうが先です。病気が治ったら良いでしょう。文句は要らない筈です。手を振ろうが、足を振ろうが貴方の体には指一本触れません。治ったら良いでしょう」呆気に取られる程の信念だ。医師でさえ半年の絶対安静を守り得れば或は助かるかも知れぬと、明確な言はさけるのに、余りにも自信満々の口ぶり!

N先生の御話を小理屈並べて反駁している時、電工について天井に登ろうとした一四歳の次男が、約一間半の天井から踏外して混凝土の土間に転落!身動きも出来ず、声も出し得ぬのがN先生の十数分間の浄霊で「もういいよ、なおったよ」と前と同じ棚を足懸りにするすると登ってしまった。偶然だ。大して打っていなかったんだ。 丁度治る時期に手を振られた迄だ、 と信じる気にはなれず

妻が、「御浄霊とやらを御受けになったら」と勧めても、かたくなに拒否し続けた。「疑われて結構です。まあ暇つぶしにこれを読んで御覧になったら」と数冊の本や機関紙『光』を置いて行かれた。

藁を摑む気持で読み出した。面白い!「病気とは浄化作用だ。皆三毒を持って生きている」今迄感銘深く読んだ歎異抄が、甘露の法雨が、バイブルが、今や疑問のヴェールを一枚一枚と取外され出した。常識を逸一脱した説き方なので実に面白い。と同時に何か「コロンブスの卵」の話で、机の角でコツンとやるヒントを教えてある様だ。新聞でも二時間も連続に読めば疲労を感じて居たのに、其夜は遂に徹夜で読んだ。真夜中思わず「ナアーンダ、ワッハッハ!」と腹から笑えた。今迄の苦しみが、悩みが悶えが馬鹿らしく「ソウダッタノカ!ワッハッハッハ」と又笑った。ぼたぼた涙を流しつつ!うば玉の闇に閉されて居た心には、ほのかな一条の白光が差込んだ。開け放っていた窓からは朝の清澄の気が流れ込み黎明は今や正に訪れんとし、鶏鳴も又雄々しく聞えて来た。「ものは試しだ」二九日から今迄驚嘆に値する程の正確さで服用し続けた食前、食後の薬を飲む事を止めた。

三〇日にはN先生はA村のM先生を同道され種々と御話を聞かして下さった。明主様の叢書に依り受信機の電波調節はOKI御話は非常に良く解る。「貴方は安静安静で御飯を食べるミイラになるつもりですか?人間としての生甲斐がミイラであってよいのですか?」と、M先生の此一言にはギャフンと参った。 其でも未だ素直に御浄霊を受ける気にはなれなかった。一六歳の長男が昨日から下痢八、九回、朝、昼共食事を取らず、起れば吐気がするとて友の好意の加勢を受けて迄の餅搗きなのに「済みません」と言いつつ寝ていたのを、起してM先生とN先生と二人に浄盡して戴いた。約二〇分間、長男は其儘餅一臼を立派に搗き上げてしまった。之も偶然でかた付けるべきだろうか?私はさし込む白光に縋り付く気持で、初めて浄霊を受けた。大晦日の正午より妻は姉の死去の為行かなければならなかったので、床上に起き上り三人の子を指揮して迎春準備を心楽しく談笑裡にさした。

二五年の元旦!若水を汲み、神、仏を拝し、家族一同一緒に躍る歓喜を静かに包んで雑煮を祝った。顔見合しては只微笑し合いつつ!御かげ話に余りにも奇蹟が多過ぎるのが、何か事更な宣伝の様な感じがしていたのが、自身二、三日で此心境の変化と同時に肉体の変化を自覚させられ、住所氏名只の一字の隠し字無く、完全に記載されて居るのが成程とうなずけた。腹具合も便通の状況又上々!三一日には注射器を出した医師に「暫く試験的に気を悪くなさらず、止めて見てくれませんか」と止め、宗教を論じ「信教の自由は私にもある筈です。私は救世教を信仰します。而し折角一年の間私の肉体の良き相談相手になって下さった先生です。健康診断的に……御見捨て無く」と願った。争は作り出さねば無いものだ。一線の白光は次第と幅を拡げて行った。

素晴らしい法悦と歓喜の中に日は流れ、肉体又加速度的に改造されて行った。万物の流転も、瞬間の人生も、直感の意識もだんだんと判り出した。総ての事がら、物の観方に光明面を見得る心構えも出来出した。而し金銭的の悩みで尚一抹の疑心を如何する事も出来なかった。

一月一六日遂に決定的な断の下される日は来た。N先生と一緒にH教会よりはK先生が見え、種々御話をして下さった。現代物理学の粋、電子、中性子論より入り、万物に神の存在を見出し、人間の生の瞬間に見る仏、霊の実在を説かれ、阿片の宗教を脱却したより以上の尚前進する宗教のあり方、人生の意義等ユーモアを混ぜての言々句々火を吐く熱弁!其最中医師の来場!患者の私と鼎坐して先ず唯物論の医師より激論が飛び出し、K先生は悠揚迫らず唯心論で反駁され、三人共三十七、八歳、甲論乙駁、実に二時間、何時果てるやら尽きる所を知らない有様!遂にたまりかねた私は「S先生(医師)良く唯物唯心両面の理論が明確に判りました。私の念願が達せられ、私は実に恵まれし者と言わなければなりません。今度は事実です。心に神様を念じ医薬は止め、安静は先生の言を守って比較的にやって来た二週間の私です。

理論と実際とはどうか?まあ見て下さい」で漸く聴診器を取出し、聴診、打診「前より大分良い様です!」此一言、思わず「万歳」を叫びたかった。医師は「而しKさん、未だHさんからはバサラカ(沢山の意)結核菌が出ていますから余り近寄るのは危険です」と玄関から私にも聞える大声「御親切に御注意下さいまして有難う御座居ます」とやわらかくK先生!此一言のやりとりで勝負は完全に決ったと感じた「Hさん、明主様も先ず御説きになっている様に問題の焦点は誠心です。誠心さえあれば物質の金銭等、無限供給です。いいですか、素直な心で神、我と共にあり、我、神と共にありの神人一体を信じ得る誠心こそ肝要ですよ」とK先生!無限供給、何たる現世の通念に比して超然たる言葉だろう。私は思わずニッコリした。燦々たる陽光は光を増し眼前を照した。

一月一八日、早速無限供給は如実に現れ一月二一日待望の御守をT教会、K先生より先ず妻に受けさせ、家の内は一層の微笑が充満し、ほのぼのたる白光は輝き、悩み、呪い、悲しみ、争いは影を消してしまった。

妻はA村のM先生宅、T先生宅、別府の九州本部と御詣りさして戴き、より良く心を洗い毎夜かかさず私始め近所の人にも浄霊し、早くも微か乍らずつも、偶然か奇蹟を日一日と戴き、私も又実に奇蹟的と言わなければならない偶然では片付けられない無限供給に依り、締切りぎりぎりの二月二七日午前五時、 A村M先生の御尽力に依り御守を抱く身となり、私より一日早く近所の人にも受けさせ、一瞬一瞬只々感謝、歓喜の中に日を送らして戴く有難さ!死線上を徨彷いし身が救世教に入らせて戴いて二月半!風の無い春光やわらかき日は遅々なれど菜種品の除草に鼻唄交りで時を過し、一人の人にも此歓喜を御取次致すべく田の畦に腰掛けて四時間!時には夕方の五時頃より翌朝の四時迄もぶっ通しで悩める人と宗教を論じても、何等疲労も感ぜず、此肉体に此心境に到達さして戴きし明主様始めH教会K先生、A村のM先生、同村のN先生に対する感謝の言葉は実に言無し、只合掌し拝する他無いのです。

妻もまねかれては御道の御手伝いをさして戴き、涙の出る程の感謝を受ける有難さ!此御鴻恩の幾分かでも御報い致す術は何か?他なし!報恩行に、利他行に、隣人愛に邁進するのみと思うのであります。「あらゆる運命、境遇は総て善也、霊魂の錬磨か、劫の自壊作用かなればなり」と只一途に光明面を求め、凝視し、安心立命を求め「悟とは死を怖れざる事にあらずして生を怖れざる事なり」との大勇猛心は躍動し、先ず自己を向上し、家の中を、近隣を、そして社会を向上さす、人間生かされている以上、果さなければならぬ大使命を思う時、尚更と之迄御導き下された諸先生方の御恩の程がひしひしと感銘させられるのであります。光明如来様も御迎え致すべくH教会K先生に御尽力を御願いし、日々是好日!の毎日!朝に神様を念じ、暮にも又神様を念じ、念々従心起念々不離心、只一すじに、真実一路、誠心の道を行き只々感謝、合掌し拙なきペンを擱かして戴きます。

………………………………………………………………

兵庫県 K・T

命の親と頼みし医者を去り、療養の友とした多くの御薬に別れを告げ、唯一筋に光明如来様の有難い光に浴し偉大なる御利益を戴き、毎日の御守護に感謝の日を送って居ります。その感謝の一端を御報告させて戴き、併せて、同じ病に苦しんで居られる幾多の人々の御参考になりますれば幸と存じます。

顧みますれば去る昭和一四年三月楽しかった学校生活に別れを告げ、明るい希望に胸ふくらませながら教員としての第一歩を踏み出したので御座いました。

しかし其喜びも束の間、其年の六月児童より耳下腺炎をうつされ四〇度の高熱が続きました。しかし小さい生徒達の事を思うと長く休んでも居れなく、 少し熱の下るのを待って一〇日ぶりで登校致しました。しかし食欲は少しもなく微熱が続きました、 体は日々おとろえる一方でした。でも家庭訪問、音楽会、学期末といそがしい毎日を送り、夏休となりやれやれと思ったきり立ち上れなくなってしまいました。しかし医者は八月一ぱい静養すれば元気になり学校へ出れるとの事でした。 それからは毎日快方に向って参りましたので、此分では九月より登校できるものと喜んで居りました。然しまだ微熱が続きますし食欲がないので困って居りました所、母が近所の御大師さんでとても御利益を戴ける所が有ると聞かされ早速御願して来て戴いたのです。そしてあやしげな薬をのまされてより一口の食事も口に出来ず、下痢が一日十四、五回も続きました。それより病気が進み発熱四〇度が一週間続きました。やっとまよいがさめ医者に来て戴いた時には両肺が大部おかされて腸結核になって居て既に手遅れの一歩手前まで来て居るとの事でした。結核に対して全く無智で有った私でした。夢にも思った事のない世にも恐しい病に侵されていたのでした。

それからと言うものは奈落のどん底に突落された様な悲嘆の病床生活が始まりました。医者の言葉にしたがい朝夕温度計をにらみつつストレプトマイシンを続け注射、栄養、絶対安静を続ける事三カ月、 しかし病気は悪化する一方でした。 苛立つ神経をおさえながら天井をながめ楽しかった日の事を思い浮べながら一一月中ばに入りやっと二カ月ぶりで散歩を許される体となりました。しかし腸結核と微熱ははかばかしくなく、マイシンを注射しました時は食欲は進みますが薬が切れると最後、一口の御飯ものどに通らず下痢が一日五、 六回も続くと言う有様でした。初めは一週間おきに一本ずつマイシンの注射をして居ましたが、五日間置きになり三カ月目は三日毎になると薬が切れてしまい、も早マイシンの効力を知り私もいよいよ此世から去って行かねばならぬ時なのかと心は乱れ一思いに自殺をしようかしらなどと涙にむせびつつ転々として、一夜をもだえ苦しむ日も多う御座いました。青春時代の私に迫り来る死の恐怖の近づいて来るのをどうする事も出来ませんでした。感染を恐れ、世間からは冷たい目で見られ、一人淋しく二階で明暮の毎日で御座いました。

忘れもしません暗黒の生活の続いた其年も明け三月の末で御座いました。私の前に行って居た先生で、熱心に信仰して居られる人が有るので、一度来て話をして頂いたり治して頂いてはと姉の話でした。一度信仰で失敗した私にはどうしても信ずる気になれず、如何なる事が有ろうとも医者を頼り不治の病を追って居るより道はないと信じて居た私でしたが、姉や紹介して頂いた先生の顔を立てる為に唯体を貸して上げるからと言う気持で来て頂く気になりました。

早速S先生とM先生が来て下さり御話をして頂いたり浄霊を頂いたりしました。

驚いた事には一度浄霊を受けましてより気分良くなり八カ月間一日として楽しい事のなかった食事がとてもおいしくなり、三杯ずつも食べられる様になりました。其嬉しかった事は本当に忘れる事が出来ませんでした。

それよりS先生に毎日来て頂き浄霊を受けて居ります内に熱も下り、自転車で出張所迄雨の日も風の日も一日の休みもなく通わして頂き、四月に入りまして二里の教会迄自転車で教修を受けに行かして頂ける様になりました。その内六月に入りまして下痢の大浄化を頂き、一日十五、六回も下り、二〇日間も続き体は衰弱をし貧血を起しましたが、一日も寝る事なく御用さして頂き、八月に入り光明如来様を御迎え致しましてより二度目の浄化を頂きましたが、大した事もなく元気で毎日を暮さして頂いて居りました。一〇月に入り教会のA先生宅へ御修業に上げて頂き明るい楽しい毎日を過さして頂き体は日々肥て参りました。そして何をしましても之迄の様に苦痛を感じない様にして頂きました。二月に中教会の御修業に参りまして病気全快の喜びに心行く迄奉仕さして頂きました。そして顔色もとても良くなり、不思議な程身体が軽く、驚く程身体が使いよくなりました。体重も病気中は一一貫になって居たが中教会より帰りました時一四貫五〇〇の本当の健康体になりました。しかし御薬が沢山入って居る由、未だ本当の体でないとの事でした。

中教会より帰りましてより全身浄化を頂き以前の発病当時の病状そのままになりました。 昼になりますと七度五、 六分の熱が出て咳と啖がひっきりなしに出る始末でした。教会で一一日間御世話頂く間に、 すっかり元気になり帰りましてより本当に明るい楽しい気持で御用に明け暮れの毎日を送って居ります。

会長先生を初めA先生、S先生の或時は「誠」或時は「愛と熱」とを以て御親切なる御指導によりまして此救世の業の如何に大切な事かを教えて頂き病気を救って頂いた嬉しさの、万分一でも此有難い御教のため、 青春時代の総てを捧げさせて頂き、少しでも御役に立てさせて頂こうと御親切なる先生方の御指導の下に、 微力ながら御手伝いさして頂いております。光明如来様に救われて苦悩のどん底より歓喜に満ちた生活へと転換致しましたお蔭と信仰へ進んだ道を御礼と共に御報告さして戴きます。

………………………………………………………………

静岡県 M・T

私は昭和二三年風邪が原因で肺浸潤となりました。日赤病院へ行って診察の結果大変悪く、レントゲンによれば両肺特に右肺一面に雲翳があり、医師からは絶対安静にして、入浴も禁ぜられました。私の落胆はたとえ様もありませんでした。その時は眼前暗黒となり、何処に生甲斐があるかと毎日苦しんで居りました。この時光明如来様の御慈悲に救われたのであります。

親戚のKさんがおいで下さって御浄霊をして下さいました。初めは信じられず、治る訳が無いと思いながらも御浄霊を戴きましたところ、非常に気持が良いのです。一週間程続けて戴きましたら、胸の痛みも咳の出るのも大変楽になって参りましたが、此時には未だ信じられなかったのです。時期がきて良くなった位に思って居りましたが、間もなく腎臓炎に罹りました。今思えば誠に申訳ない事ですが、其時も信じられず薬を飲んで居りましたが、一向に良くならないのです。

再びKさんが教会の帰りによって下さいまして、Kさんのお家へ来る様すすめられ、泊り込みで御浄霊を戴きました。薬を止めてから五日目に腎臓炎の時に飲んだ薬が二回程ゲップになって出るではありませんか、その時初めて薬毒の恐ろしさを知りました。

其後夜中に心臓が凄くときめいて、どうなる事かと心配して居りましたが、光明如来様にお縋り致しましたらスーッと楽になりました。有難うございました。神の存在を否定した私も初めて信じられる様になりました。

その後右手を挫いて箸を持てない手が一回の浄霊で持てる様になりました。本当に次々の奇蹟に驚嘆致し、御慈悲に感謝致しました。心から厚く御礼申上げます。

………………………………………………………………

宮崎県 S・H

私は昭和二二年七月、M教会にて教修頂いた者で御座います。過去を振り返り想い新たに御守護の一端を御報告さして頂きます。

私は一五歳(昭和一七年七月)迄病苦の味は存じない位でしたが、昭和一七年七月より戦時中の無理に無理を重ねた生活が続き、痔を患い、次いで肺門淋巴腺炎、肺炎カタル、肺浸潤、 気管支喘息と終戦になる迄は無理な生活を異郷に営み、其間病院通いレントゲン、血沈、検痰、検便、ツベルクリン注射等々、五カ年間やって参りました。又服薬、注射も数限りなく試み、或時は結核の予防薬「セファランチン」の実験薬も服用しましたが、病気は一向に快方に向いませんでした。

終戦となり、故郷に帰りましても父の残した僅かの貯金も使い果し、一家の柱ともなるべき私が倒れては、明日の生活にも困る状態だったので、無理とは知りつつも工場に通って居ましたが、とうとう神経衰弱が伴い通勤も出来ず、医師には絶対安静の宣告を言渡されました。ああ其時の私の気持は悲観のドン底です。現代医学は私の体をどうすることも出来なかったのです。自暴自棄の身となり死を計ろうとした事も御座居ました。でも一家の柱とも言うべき私を思う時、又しても民間療法、灸、あんま、鍼と無茶苦茶続けましたが、更に何等の効果もなく、此間市内売薬店にも幾回となく出入りし、良いと言われる事はことごとくこころみて参りましたが、病状は寸分変らず、更に衰弱さえ加わり、全く前途は真暗となり、死を待つのみで御座いました。丁度其頃隣村のおばあさんからN村のBさんが変な病気治しをされる事を聞いて早速行きました。昭和二二年五月頃でした。浄化療法当時だったので、神仏の力など全然無知な私は、指圧療法だと感じ、四、五日は半信半疑と言いますか、全く疑いながら続けました。ところが気分がとても楽になり、何だか一皮はげた様な感じが致しました。

それより御浄霊を戴き、有難い御話を聞かして頂き心機一転日に日に元気を取戻し、五年間苦しみ悩んだ病気も一カ月後には働ける身となりました。何と偉大な御力で御座居ましょうか、其時は幼児の如く跳び上り喜びました。

昭和二二年八月教修戴き、又二四年四月三日には光明如来様を奉斎さして頂き、母もびっこが何時の間にか治り、妹の心臓弁膜症、弟の中耳炎、胃拡張も治り、一家揃って元気に生活出来得る様にならして頂きました。明主様御守護を厚く御礼申し上げます。又日々安心の境地にあり、楽しく過さして頂き、数々の御守護に此信仰者のみ知る幸福感を味わいながら、地上大国建設の御聖業に参加さして頂けます事を、深く感謝致しますと同時に、世の不幸の方々に御知らせ致したく、謹んで御報告さして頂きます。

………………………………………………………………

大分県 A・M

昭和二二年一二月、肺結核と診断の結果安静を命ぜられ、間もなく急性肺炎を起し、更に湿性肋膜炎を併発しましたが、引続いての安静の結果、二三年九月、漸く起居の練習を始める事を許されました。ところが一〇月末感冒の為に、再び悪化、その後絶対安静を続ける事約一カ年、二四年九月に又起居運動を始めることが出来ました。約半年間極めて徐々に好転を続けましたが、昨年三月又も悪化し、運動停止を言い渡されました。こうした結核患者によくある経過を辿り乍ら、次第に体は衰弱を加え、 精神的にも痛めつけられて、 気力は衰えるばかり、この頃より医学の貧弱さがつくづくと身に沁みて判り始めた気が致します。

話は更にさかのぼりますが、生来虚弱だった私は一七歳の春(昭和一五年)より、極めて悪性の慢性胃病にかかり、医薬、温泉、電気治療と種々の方法を試みましたが、何れも決定的効果なく、 一進一退の状態で数年を過し、 体はだるく、 頭は重く、仕事はおっくうで、その上性質は暗くなってゆく気さえ致しました。その矢先肺結核を発病、前記の経過を辿ったのであります。

結核に必要とされた安静は、それでなくとも極めて不調な胃腸を徹底的衰弱へ導き、昨年春頃からは加速度的に体力が弱まってゆくし、之以上の安静持続は、遂には消化不能による衰弱死を招く危険さえ考えられ、かといって湿性肋膜後では気胸も出来ぬとのこと、手術などは更に及ばず、医学的処置は殆んど塞がれた感さえ致しました。私の体質病状は医学の常道を悉くこばんだと申しましょうか、かと言って何ら自ら進んでどうする事も出来ませず、進退谷まった状態で、煩悶の日々を送り迎え致しました。

然し慈悲深き神は、こうした状態に呻吟する私を憐れと思い給われたのでございましょうか、五月上旬はからずも救いの御手を私の前に垂れさせられました、と申しますのは知人であるH君の尊父が見えられ、光明如来様の御力により、すべての病気が救われること、H君も結核より救われし事、その他の実例を引いて私にも試みる様すすめられましたが、何分常識はずれの事とて、誰もが初めに考える様な事を考え、さして注意もそそぎませんでした。

その後一カ月程してH君自身が見えられ、かくかくして救われ、現在この通りの体になったということを詳しく説明されたのであります。

薬の効なきことは自からの体験により十分知り尽し、何時にても止める心構えはあった事ですし、今としては勿体ない事乍ら試みる積りで、 七月初めよりH君の浄霊を受けた訳でした。然し驚くべきは、私にとっては毎年最も苦しかった真夏の候であり乍ら、血色、肉付き、共にまして行ったことです。それにつれて気分は爽快に、体力は加わり、容易に起居の時間を延長してゆく事が出来ました。

こうして御浄霊の偉力を体験することにより、自から救われるのだという自信と、無限の感謝が起きて参ったのでした。そうして遂には八月二〇日入信さして頂き九月五日にはH君の家の御祭に、一里位の、しかも坂道を交えた道路を、自転車で詣らせて頂いたのです。この時はとてもとても言葉で表せない実に複雑なよろこびの気持でした。其後、下痢、風邪等の形による軽い浄化を頂きながら、ぐんぐんと実に急速度に健康に向い、初めて自転車で外出した日より、僅か五〇日間、浄霊を受ける事約四カ月間にして、さしもの衰弱も殆んど恢復し、食物も次々と制限を解かれ、しかも美味しく食べられるし、これで過去一〇年間の病床生活より完全に救われることが出来る喜びに満ちています。過去の経験よりして、こんなにも素晴しい速度で慢性の病気が処理されるとは思いも及ばなかったところでありまして、それにつけても、神の限りなき御慈悲、偉大なる御力、明主様の尊さ、及びお導き頂く諸先生方の御徳に対し、心からなる感謝を捧げさせて頂きます。更には又激しき病気の苦痛に呻吟し、又は光明を失って人生に煩悶を抱く様な人々を一日も早く一人でも多く、神の御光に浴して頂く様微力乍ら、諸先生の御手伝いをさせて頂き度い念願です。有難う御座居ました。

………………………………………………………………

佐賀県 F・T

私は当年二九歳の女で御座います。昭和一九年二月挺身隊に召集され、佐賀市の或鉄工所にて働いて居りました処が、夫れ迄は病気一ツせず至極健康でありましたが、同年七月初旬のある日、不図頭が痛み気持が悪いので早引して家に帰りました。初めの四、五日は一寸した風邪位に思い、休んで居りましたが、一向快くなりませんので、近所の医師に診察を乞うた所、意外にも肺浸潤との事に家中驚き、且つ嘆き、早速又内科専門の某医師に相談、一日置きに注射も致し服薬致て居りましたが、良くなるどころか病勢は進む一方、遂に其年の九月初旬には絶対安静を宣言され起きる元気もなくなりました。其れ迄は病院通いも出来た身がぱったりと臥床やむなく医師に往診して戴き、尚一層医師の忠告を厳守療養に務めましたが、幸か不幸か其医師は其年の暮に斃れたので、又次の医師に御世話になりつつ、以来足かけ七年日の今年迄臥床のままで御座いました。

七年の月日は私の精神を乱して、失わせる程の苦しみで御座いました。今日迄生きて居る事が不思議な事ですが、生きて行き度いと言う望みは強く頭を擡げてあきらめる事は出来ませず「さりとて其生きたい」と思う事それが苦しみの種で御座いました。生への執着程恐しい物はありません。此間次から次に医者をかえ薬を求め、根拠のない世迷い言にも溺れる者は藁をもつかむの例の通り、あれが良いこれが効いたと聞いた薬は買い、或る神様にも熱烈な信仰をして縋りましたが、一向効果なく二、三年は一進一退重くともならず、軽くもならず、まことはかなき人の世で御座いました。

年若くして母を失いましたので、年老いた父も弟妹達も何んとかして今一度健康にと、泣きの涙の年月で御座いました。取り分け父の心痛の様は可哀そうになる位で御座いました。いっそ自殺でもして死んだらあきらめてあれ程の御心配もなさるまいと思う事も一再ではありませんでした。

丁度昨年六月、親族のU様がわざわざ訪ねて参りまして、光明如来様の偉大なる御救いを戴き多くの人々が助かりつつあるお話しを聞かして戴き、是非お縋り致して御霊徳を戴く様にと勧められましたので、私の如き永年患いし者でも救われるだろうかと疑われましたが、U様の御親切に対しても無駄にお帰し出来ない様な気が致しましたので、御浄霊をお願い致しました処、今までになく良い気持ちになれましたので、引き続き毎日お願い致しましたが其後三度位でお願い出来なく成りました。と言うのはU様方には沢山お子さんが在りますのと余りに遠方の為私の思う様になりませず、残念に思うて居りました時に、H先生を御紹介して下さいました。

H先生にお世話になる様に成りまして、追々頭も軽くなり、永い問なやまされました便秘が良くなりました。一週間も一〇日も通ぜず催した時は半時間位は泣く様な苦しみをしてカチカチの便が少しずつでしたのに、御浄霊を始めて四、五日すると、やわらかな便となり何の苦痛もありませんのです。毎日気持ちの好い眠りが取れますので、何だかかすかな光りの様な希望が湧いて来ました。日の経つにつれて、益々御浄霊が楽しみになりました。前途に光明を見出したとは此事で御座います。

確に生きられる、健康を快復出来ると言う一つの信念が出て来たので御座います。之に気のついた時の私の喜びを御想像下さいませ。天国に上れた様な嬉しさで御座いました。毎日の先生の見えられる時間が待ち遠しくてなりません。其内に起きて見よ、歩いて見よ、髪をとかしなさいと御言葉のままに実行しました処、出来ない事だと思い込んで居た事が、次々に楽々と出来る様になり、遂に床上げとなったのが九月中旬で御座います。最初の頃に佐賀市の教会のS先生もお出で下さいまして、種々懇篤なる御諭しを戴いた事は感謝にたえません。苦しみの七年、再び明るい人の世に迎えられたので御座います。何と御礼を申上げて良いのか此言葉を知りません。神秘な世界の戸が開かれた。今迄見たり聞いたりした世界の事とは格段の差があり、出来ない事が見事出来た神様の御光の偉大さは計り知れぬ事で御座います。H先生に御世話に成る様になってから三カ月、七年間の死の床を離れさして、生れかわらして戴きました。生きたままで……。一〇月八日佐賀市の教会に神様の御前に初めて御参りが出来た時は、天国の様な気が致しました。三日二晩御世話様に成り、有難き御講話を承り、尊き御浄霊を戴き、我家に帰り度くない様な気が致しました。七年振りに乗ったバスの乗りし心持ち、市中の有様等、見る物聞く物が皆珍らしくない物はありませんでした。床上げ

後は毎日五時には起床、永い間父に委ねた(弟妹達は勤め先に行き留守)炊事も掃除も洗濯迄自分で出来、一時間も休んで遊ぶのがいやで何かと働いて居ります。

現在思い出す度に恐しくなる事がありますが、諸先生が言われた「神様にお縋りすれば必ず快くなる」との御言葉が神様の御声でありました事で御座います。広い世の中には最初の私が考えた様に、 信仰とは心を安んずるだけの事と思うて居る人の如何に多く、其為に苦しんで居る人々のあまりにも多い事で御座います。

同じ苦しみになやみつつある人達よ、 一日も速く光明如来様にお縋りして真実の喜びを味わって下さいませ。私の様に確実に健康体になる事が出来ますから……。健康こそ幸福で御座います。病んでこそ健康の幸福なる事が判ります。光明如来様有難う御座います。明主様有難う御座いました。

過去の追憶は走馬灯の如く脳裡をめぐる、其頃の哀れなる

(結核の革命的療法 昭和二十六年八月十五日)