(付録)おかげ話100例 71~80

埼玉県 O・T

昭和一九年五月御浄霊を頂いてより今日迄、一日として忘れる事の出来ない今日ある我身を思いますと、感謝感激でいっぱいでございます。顧みますれば、五年間の本当に長い間の病床生活でございました。

希望に燃えて学窓を出た筈の私は間もなく急性腎臓炎によって、一年程塩絶ちをして居ります中、或る日お風呂に入っているとひどい咳と共に血の塊が出たのでした。 その時の驚き様といったらありません。 肺が悪いとの医者の診断に本当にがっかり致しました。それからはずっと安静にして居りましたが、痰に血筋の混るのがどうしてもとれません。少しよくなったと思っていますと喀血があって、又々安静を続けなければなりませんでした。

その間最もつらかったのは、胃腸がすっかり悪くなって、御浄霊を頂く前の一年程は流動食の様な食事しかとれませんでしたのと肩の凝りでございました。肩は大きな石を乗せられた様な重さで箸を持つ事も、本を読む事も人様とお話する事も出来ない程で、ありとあらゆる手当を致しましたが一向に良くなりません。よく母に「昔聖人が手を触れただけで病人を治したという話の様に、私の肩も手を触れただけで拭った様に軽くして下さる御方はないかしら」と言ったものでした。併し夢の様な空想が実現したのでございます。この上もない偉大なるお力にお縋り出来る時が来たのです。

父の知人よりこの有難い光明如来様の事をお聞きして早速お願いして御浄霊を頂きましたところ、何と驚いた事でございましょう。たった一度の御浄霊であれ程長年苦しんだ肩がすっかり軽くなったのです。それと同時に一年も流動食の様な物しか頂いてないお腹に普通の御飯を頂いてみましたが、併も先生のおっしゃるままに天婦羅を沢山頂いてどうもないのです。遂にその晩は休む前にお腹が空いてもう一度お食事を頂いた程でした。その時の嬉しさ喜び何と御礼申上げてよいのかわかりません。未だにその時の感激は忘れる事が出来ません。悩みの種の喀血も御浄霊一週間日に血の塊がポンと一つ出て、それきり今日迄血の色を見た事がありません。

それからは日に日によくして頂いて、一週間目に外に出られる様になりました。長い間の病床生活に呆き呆きしていた私は嬉しくてたまりません。外へ出ますと近所の方の評判になって了いました。もう詳しいお話をしなくとも皆様が感激して是非そういう有難いお力にお縋りしたいとおっしゃって随分大勢の方がお救い頂きました。それ以来下痢と咳の御浄化を何回か頂きましたが、その都度順調によくして頂いて、一昨年結婚、昨年三月には子供迄授りまして、今では毎日元気に幸せな日を送らせて頂いて居ります。本当にあれ程酷かった体をこんなにもよくして下すった明主様の有難い限りない御恩に報ゆべく、此命を続く限り地上天国建設の御役にたたせて頂きたいと願って、微力ながらお尽しさせて頂いて居ります。

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岐阜県 F・K

元来私はあまり病気に罹った事がなく、当時鉄道員として連日徹夜勤務に従事しており、連日の徹夜勤務で軽い風邪を引きましたが、仕事の多忙のままに尚も私は勤務を続けていましたが、体が段々何だか重苦しくなり、何か重労働をしますと、左の胸がドキドキして針を刺すような痛みがするのです。これは大変だと、医師の診察を受けました。医師は診察の結果「これは気管支炎ですよ、このままではいけないから一週間ばかりおいでなさい」といわれ、私もその日より医師の言うまま、毎日通院しました。処が再度、これは肋膜炎になったと診断されたので、私はあまりに医師の無責任な言葉に憤激しました。そしてレントゲンにかかってみると左肺三分の二、右肺三分の一位駄目になっているとの事です。

私はおどろいて医療をやめ種々養生をして、治癒につとめました。そのかいもなく体はだんだんと衰弱し、 病気は益々悪化してゆくばかりで、さしも頑固な私も苦痛と共に気持も次第に暗くなり、ついに診断の結果肺浸潤と断定されました。この一言により私の心境は、病苦よりも尚一そう恐怖と淋しさに襲われ、ただ暗黒の旅路をさまよって行くようでした。

そして重い体を引ずりつつも、何とかして助かりたいと、近鉄四日市診療所へ行ったのです。ここに神様は私をすて給わず、光明の道をお教え下さったのでございます。診療所のかえり、重い体を電車にゆられていますと、突然本教信徒の方が同車しておられ種々私の状態をみて本教のお話をして下さいました。私は早速その足で御同道願って、K会M先生宅へお伺いしました。先生からは種々と詳しいお話をして頂き、ともかく疑ってよいから御浄霊を受けてみなさいといって下され、一週間御願いする事となり、その日は御浄霊を受けて帰りました。そして翌朝起きてみると、今迄なやみ続けて来た私に、明るい救いの道が開かれたように体も何だか気持よく、又行く気になって、御世話になりました。そして御浄霊を続けてお願いしている中に、体は日々に良くなって行き、私もあまりの嬉しさにお守を一週間目に頂き、全く今迄の悪夢からさめ、明るく幸福な日々を送らして頂けるようになり、家族の者は大変喜び、一家揃って入信さして戴き、大光明如来様も御奉斎さして頂きました。

この上は、同じ病気になやむ皆様に少しでも、この尊い御力を、一日も早くお知らせしたいと毎日御救の為に、専念さして頂いています。明主様有難うございました。

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鹿児島県 H・M

私は一六歳の時から気管支がわるく、女学校でも少し無理をすると咳き続け苦しむものですから、先生や友達からは病人扱いにされていました。進学の希望でしたが、先生は願書を提出して下さらず、元気な人を見ると唯羨ましくて、自分の病弱が残念でなりませんでした。

可哀相に思ったか父母は、洋裁と文化学校の二校に通わせて呉れました。これらの仕事は皆前かがみになってするので、その為か三年目には何だか体がだるく、夕方になると微熱を出し医者の診断は気管支炎が無理の為、肺門淋巴腺及び腎臓炎となったと宣告され、絶対安静の憂鬱な日がつづき、毎日注射五本を打ち続けていました。

一年目にはやっとフラフラする程度になりましたが、レントゲンには一向に好い結果が現われません。姉の洋裁を手伝っていますと、二、三日目には起きて居られぬ始末でした。一昨年九月レントゲンは右肺浸潤となり、一そう悲惨な思いになりました。

何か善い療法はないかと、蛇の黒焼を飲んだりして居りましたが、九月中旬頃、救世教の座談会のある事を聞き、半信半疑でいても病が癒されてゆくとか、そんな便利なうまい宗教があるのかしらと疑いながら、K教会を訪れ、 それから毎日先生の御浄霊を頂いているうちに咳もひどくなり、お米のとぎ汁のような尿をしたり下痢をしたり、何度となくひどい風邪をひき、その浄化がある度に体が軽くなる思いがしていましたが、家族の者は気のせいだと笑っていました。又、医者は今注射がきいた所だと申します。ただ私だけは此調子でゆけば治るという楽しさが湧き、一一月末には一年半なかった月経があり、食欲も進み、その時の嬉しさは例えようもなく、小踊りして喜びました。

御力の有難さが分り一二月にお守を頂きました。御浄霊を続けるうちに調子もよくなり、洋裁の仕事が多い為、姉と毎晩夜業し、たまには徹夜も数日続ける事もありました。一月に姉が嫁ぎ、その後を一人で洋裁業をしていますが別に疲れず、お祝に来てくれた親戚の人達は、私の顔の色艶、肥え方などを見て吃驚しない者はありませんでした。今迄の疑う気持は跡方もなく消え、暗黒の生活から明朗な生活へと、私の一生は転廻されたのかと思うと、絶大な御力に感謝の言葉もありません。お蔭様で私の短気も治り、家の者からは此頃女らしく、素直な娘になったと喜ばれています。これもひとえに明主様の御加護の賜と、毎日御神体に向い御礼申上げております。

罪多き身も心も、大光明如来様の大愛に再生の喜びを得さして頂きました。茲に深甚の感謝を捧げあつく御礼申上げます。

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愛知県 T・E

私は昭和二四年一月二九日より発病、会社の医師に診てもらうと、人の嫌う肺浸潤と診断され、二月四日早速愛知県病院へ入院しましたが、医師より絶対安静にするよう申されました。その時の前途真暗な悲しい気持は、病める人以外味わう事は出来ません。何とかして一日も早く快癒したい一心から、医師の言う通り毎日栄養食と注射や薬を服用しましたが、胸の方は少しずつ楽になるが、入院後三カ月頃より腕が痛くだんだん上らないようになりました。お医者にリウマチスと診断され、時々注射や薬も変え、又電気療法もしましたが、病状はだんだん悪化するばかりでした。八、九月頃には非常に痛み着物さえ着る事が出来ないで医師もいろいろと手当しましたが、効果なく悩んでいるうち、これが神様の御引合せでございましょう。 救世教の有難い御話や新聞等も見せて頂きましたが、罪穢の多い無神論者の私は神様や仏様があるとは思えませんでしたが、病気の苦しさから、半信半疑ながらもN町通りのK様の奥様のおすすめに、医者が退院は未だ不可能だと言われましたが、無理に一〇月七日退院して、O町のA様方で、A様より御浄霊を御受けするうち、一週間一〇日と経るうちに痛みもだんだん去り、又両腕も上り胸の方も楽になりましたので、初めて偉大な大光明如来様の御神徳を不思議に思い、疑深い私乍らも一一月二八日にS町の教会でF先生より有難い御守を御受けしました。その時の有難さは何とも言えないほどで、暗黒世界より明るい世界へ初めて生れ出たような気がしました。

其後入院中のいろいろな注射薬毒と、病気前酒飲みだった為か、二五年一月三日の晩から大浄化を頂き、三九度五分から四〇度位の高熱がつづき、四日目より三八度五分まで下るようになり、A様方の御親切な御浄霊によりだんだん良くして頂きました。三九度や四〇度の高熱にも拘らず、不思議と何等の苦痛もなかったのは、全く神様の御守護をただただ感謝を致し頭が下るばかりでございます。

罪穢の多い私にもこのような偉大なる御守護に、思わず知らず手を合せて御礼申上げたのでございます。

妻も二五年三月教修を受け、朝と晩二回妻の御浄霊を頂いていましたが、三月頃より今度は昼と夜二回約二時間位物凄く膿や痰が出て、背中が丁度水でも浴せたような寒気がした後熱が出るので、妻に御浄霊頂くと不思議に解熱し大変楽になりました。

そのような状態が六月の中旬頃まで連続し、その為身体も非常に衰弱し、本当に骨と皮になり、もはや九分九厘まで此世のものとは思われない程で御座いました。その為両手両足、頭や背中、お腹等、本当に病気の巣のようなもので起きる事も出来ず、又足も不自由でした私も覚悟をきめ、同じ死ぬなら大慈大悲の大光明如来様におすがりして、今迄の罪穢をお詫びし、楽に死なして戴きたいと思い、時々床の中で一生懸命にお念じ致しました。

六月の下旬頃と思いますが、突然紅茶色のような痰が物凄く出るので、先生に後でおききした処、これは毒血との事でした。六月二四日より今日迄下痢をした事のなかった私が、下痢を二日間七、八回位しましたが、その結果二六日頃より非常に食物が美味しくなり、七月八月になると身体も元気になり、八月下旬頃には病気前と同様に肥りました。

ああ私のような罪穢の多いものでも、有難い広大無辺な御神力により、お救い下さいました事を思いますと、大慈大悲の光明如来様、明主様にただただ感謝するのみでございます。私の様な病気に悩んでいる人々は一人でも多くこの有難い神様におすがりされ、明るい幸福な日が訪れますよう祈って止みません。明主様有難うございました。

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大阪府 M・M

昨年の残暑未だ厳しき候、近畿一円を見舞ったジェーン台風の洗礼を受けつつある奈良春日の奥山をぬれ鼠になって、あわれ「天国への階段」を求めてさまよい。嵐の山に三日三晩昏々と眠りつづけ、 志を遂げ得ず再び希望なきこの世に、好奇の衆目の前にさらす身となり、加えてこれ迄の奔放な生活のむくいが胸部疾患として現われ、プログ剤の毒は腎臓を荒し、身は四〇度の高熱に、心は罪悪嫌悪、羞恥の思いにさいなまれ、日夜病床に呻吟し、医師の診断によれば、再起までに一年、全快までには早くて三年、先ず四、五年は覚悟を要するとの事に、心は暗澹となり、又しても死の天国を憧れていましたがちょうど此頃、私の父母と妹は此お道を教えられ入信、盛んに御浄化を戴いており、度々Y先生に御足労を煩わしていましたので、私の事も自然耳に入りおすすめを頂きました。

早速御願いして臥した儘で御浄霊を御受けしました。

二、三日お受けすると、痰が今迄よりも一そうひどく出るようになり、予め知らされてはいましたが、初めての事とて心配になり、薬をやめた為ではないかとも思いましたが、どうせ一度はすてた生命ですし未練はありませんので続けて頂き、一週間程するとボツボツ起上れるようになり、経過も順調に快方に向い、御神体の前で御浄霊を受けられるようになり、一そう身も心も爽かに、晩秋の太陽の和かい日ざしに接する事が出来るようになり、全く救われて蘇生の思いでした。勤先へ提出する診断書をもらう為、医師に診察を依頼した処、御浄霊を受け始めて以来御無沙汰していましたので、その問の事情を簡単にお話致しますと「オガミ屋で病気が治るか、君は薬を扱っていて(私は医薬品等に関係ある所に勤めていた)そんな事をよくしたな、あほらしくてお話にならんじゃないか」とさんざん罵倒されましたが、兎に角診察をしようという事で診はじめた所、盛んに小首をかしげ「おかしいな、大分よくなっているぞ」と不思議そうな、疑わしげな顔をしていました。全く医師にしてみれば、一年以上かかると言った処を二〇日足らずで右のような状態になっているのですから、不思議がるのも無理のない話でございます。

そして一カ月目には教修をお受け出来るようにして頂きました。このあつき御神徳に感謝感激致しております。

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京都府 N・A

もう絶対駄目だ、死んでしまうんだとあきらめた死期の肺結核が、 僅か四カ月で治ったとは全く奇蹟と申すより外は御座居ません。

それは昭和二三年一二月の中旬の事、それ迄親に隠しこらえて来た胸の病が遂に隠し切れず、病床に倒れたのであります。 今迄一度も病気をした事のない私だけに両親の驚き様は喩え様もありません。早速専門の医師に見て戴いた所「右肺は三分ノ二は侵され上部に大きな空洞があり、左肺も三分の一侵されている、生か死かの境い目です。もし人工気胸が可能ならば一生懸命養生すればよくなるかも知れません、兎に角入院して見なさい」といきなり冷水を浴せられた様な暗黒の宣言を下されました。

早速医師の言われる通り入院し、気胸を試みた所、案外うまく行き、医師もこれならば養生次第でよくなるだろうとの事でしたが、其後私も一生懸命医師の言い付けを守りながら養生を続けましたが、だんだん悪化する一方です。

翌二四年四月には最早左の肺全体は病巣が拡がってしまいました。もういよいよ駄目だと思っている矢先、又も風邪がもとで右肺肋膜に水が溜り、何回ともなく水を取っている中に、遂に一〇月頃には膿胸となり、無惨にも胸の形も変って終いました。

その上熱が続き食欲は全く減退し、骨と皮になり、歩行も困難となり、眼もあてられぬ衰弱した体となってしまいました。その間、カルシウム、ビタミン等あらゆる注射を打って見ましたが、その効もなく手の施し様もありませんでした。

隣りの病室からは同僚が死人となり棺におさまり出て行く様を見て、自分もあの様になって病院を出て行かなければならないのかと、たまらなく淋しい気持でした。

丁度一一月の初頃、母が同村のM先生より有難い神様の浄霊でどんな病気でも救われるという事を聞き、今迄信仰心のない母ではありましたが、早速「お守」を受けさせて戴きました。併し父は大反対で「迷信だ、馬鹿げた事に熱中するな」と母と論争を起し、遂には母は父に家から追い出された事もありました。村の人からは気が狂っていると笑われました。先生方からも助からないかも知れないと聞かされました。それでも強い信念でもって私の為に毎日浄霊に病院へ通って下さいました。私も半信半疑ではありましたが、教会へ時々お見えになるA先生のお導びきを承り、懸命に神様におすがり致しました。

初めの一〇日程の間は非常に気分がよく食欲もだんだん旺盛になって来ました。

その後血痰が一週間程続き、白い痰が黄緑色に変り浄化が続きました。勿論気胸も止めたのです。医師からは気胸を止めればすぐに死んでしまうからと叱られ、 人々からもよくも君は命の綱である気胸迄止めて、そんな馬鹿げた事をするのだと笑われました。しかし私にとっては、そんな事が問題ではありませんでした。唯救われたい心で一杯でした。

所が一一月の終り頃には、半月毎に決って取らねばならなかった肋膜の膿がすっかり出なくなり、変形していた胸の形が元通りになったのです。本当に何とも言えない嬉びでした。

一二月四日退院しましてより一ヵ月間下痢が続き、弱い浄化を頂きました。翌二五年一月なり、二月一九日には「お守」を受けさせて戴く身となり、翌日から毎日御奉公をさせて戴く様になり、今迄笑っていた村人達や大反対の父をアッと驚かせました。私の嬉しさは筆舌に尽せません。本当に光明如来様の偉大なる御守護と感謝の念で一杯です。明主様有難う御座居ました。謹しんで御礼申上げます。

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島根県 K・S

私は昭和二三年一〇月末頃より仕事の疲れの為か身体がだるく、背面肩胛骨の辺りが痛み始め、鬱々として寝たり起きたりして居りました。

一二月末医師の診断の結果、結核の疑があるとて五、六日注射を受けました。「此分ではどうしても療養所へ入院し充分な手当を受けたがよい」との事でしたが、外科が専門の医師なので、有名な内科医に診断を受けました所「何心配はない一寸した風邪だから」と言われ、一〇日ばかり薬を服んで居りましたら熱も降り、気分も良くなり、医者からもお暇を頂きました。其後家事の手伝い等していましたところ、又以前の如く身が思わしくなく熱も続くのでレントゲンにかかりましたら、肺がかなり悪化して居りました。鳴呼、とうとう本当に結核にまで進んでしまったのだと悲しみに打ひしがれて仕舞った

私は、兄妹の眼さえ冷たく感じられ、不治とされた結核という刻印に行末暗く生きる道を見失ってしまいました。

医師の奨めに二四年の八月まで気胸を四〇本から続けましたが、何等変りなく針をさすのが痛いのみでした。

もう此上は神仏にお縋りする外ないと決心していたところ、此お道の奇蹟的治病力を知らされ、八月の中旬I先生が教修会に御来町の節に御浄霊を受けましたところ、次第次第に気持よく此分ならば必ず治るとの確信がもてました。先生方からも懇々と「気胸を四〇本からしているのだし、余程家中がお道を真剣に信仰される様に」と申され、母も即時に入信させて頂き、次々と兄妹達も受教し、 日々御浄霊を受けて居りました。

其後激しい御浄化もなく九月中旬には光明如来様をお祭りさせて頂き、部屋を浄霊所に使って頂き乍ら、先生方のお出になる度に御浄霊を受けました。早や一カ月立つや立たずの内に、掃除や子守など、あれこれと立働いても一向疲れもせず、先生方も驚かれました位に色艶よく肥えてまいり、自分乍も生きる事の幸福をヒシヒシと感じ、明るさが身中漲るのでした。

一一月にはお許しを得て、待ちに待ったお守様を頂き、今日では何時、誰が結核だったのだろうかと家内揃って打笑い喜びの日を過して居ります。もう大八車へ荷物を積んで曳く事も出来るし、家事一切のきりもりは早朝より私が一人で受持って居ります。

本当に働けば働く程健康を増すような今日で御座います。有難とう御座居ます。明主様、光明如来様の大愛に感泣し、I先生やS先生の御親切につくす言葉もございません。 此上は唯お道の為に一生懸命働かせて頂きます。

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兵庫県 N・K

昭和二五年六月九日の朝見知らぬお方から一通の御手紙を受けとりました。差出人は広島県御調郡のKさん、文面には気候見舞から始まり御本人が『救世』新聞第六一号を拝読し、小生の御かげばなし記事「高熱苦の幼児熱心な浄霊で救わる」を参考に、記事の住所氏名に基き依頼状が来たのです。

面白い事には、KさんはY中教会O集会所の信者です。患者の両親がKさんの近くにおられ、その息(患者三三歳)さんが神戸市I区A町のIさん、小生宅の付近に住居という不思議な因縁です。Kさんは一五日から一〇日間奉仕隊の一員として熱海へ詣る関係上、是非私にお願したいという切々たる御書面でした。時恰も、明主様御受難の最中で鴻恩にむくい、万分の一でも御恩返しが出来ますようにお祈り申していた時で、私はすぐさまその手紙をもって患者の宅を訪れました。

家は鍵がかかっていて留守、隣家の一老母に行先を教えられて辿りついた所は神戸駅前の〇〇病院の三階の一室でした。ベッドの上に苦しそうに横ばいになり顔色は土色、部屋一杯に充満した何とも言えない臭気、この患者を目前に眺め私は一時どうしようかと思いました。

御讃歌の一節に

博愛の道よそにして観音の行はあらじな心せよみな

神の御心に叶い、 患者に一言挨拶したが、 到底坐る力もないので其ままの姿勢でよろしいと伝え、先ず天津祝詞善言讃詞を奉唱し、早速浄霊にうつりました。本人は私の言葉をよく理解してこちらを向いて合掌してくれました。

浄霊三日目から血色がよくなり、私の来訪に一入信頼感をもち、医薬をベッドの下へ隠すようになりました。何分病院の一室、患者に一指もふれる事を禁ぜられている関係上、一日一日快方に向うにつれ、私は口頭指図を下し「あちらを向いて下さい、手を上げて下さい、坐って下さい」等々と申上げると本当に素直に静々と動作をしてくれました。明主様の御顔が目前に浮んで、私としても心魂込めた浄霊でありました。

いつも患者の妻が同室で夫の看護に当っていましたが、一向に信じていない様子でしたが不思議といおうか六日目の朝急に腹痛を起しました。「ではあなたも御主人と一緒にベッドの上に座って下さい」といって浄霊十二、三分で痛みがピタリと止まりました。此神秘な力に驚きその日から婦人は主人への看護の動作が目に見えて親切になって来ました。浄霊の結果一二日目の二〇日より少量の喀血がありました。二一日二二日にピタリと止り、有難く感泣しました。患者は目出度く一八日目に退院しましたが、病名は申す迄もなく肺浸潤及び咽喉結核です。嬉しそうな笑をたたえ、歩道を一人あるきする姿を眺め、相共に喜びました。

何卒この生々しい体験談を報告すると共に、同じ病に苦しんでいられる方々に、一日でも早く神の福音を、御伝え致したいと思っています。

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広島県 I・K

入信後早くも満一カ年を迎え実に感慨無量で御座います。その間に戴きました数々の御神徳に感激の余り筆を取らせて戴きます。不思議にも初めて教会にお詣りさせて戴きましたのは一昨年の一二月二三日、明主様の御生誕の、意義深き日で御座いました。

当時脳を病んで入院して居りましたが、知人より入信を奨められても半信半疑乍ら、何となくお詣りしたくなって、病院よりぬけ出し、そろりそろりと足を運んだものでございました。

そしてお話を伺いますと何とも言えぬ感銘に打たれまして、翌日から直ちに教修をお受け致し、同月二六日に入信させて戴いたので御座います。あの時思い切って人の止めるのも聞かず教会へ足を運びました事が、今日この蘇生させて戴いた自分があるのだと思います時、更に感無量でございます。

昨年二月一五日に御神体を御奉斎させて頂き、九月の秋の大祭には強羅の聖地へお詣させて戴き、且つ日々有難き御守護を戴いて居ります。

子供が自動車に轢かれました時、二時間位意識不明でございましたが、僅か頬と足にかすり傷を致したのみにて、どう考えましても轢れて死んで居るべき筈の所を、もう翌日は平素と変らぬ元気さに返して頂き、実に大きな奇蹟を頂戴致して居りますし、又後日同人(長男)が日本脳炎らしき御浄化を戴きました時も、四〇度以上の高熱を出しましたが、私が浄霊して僅か二日で元気にして戴きました。

又長女が足をひどく切傷致しました時、たった一回の浄霊で激痛が止りました。

又牛が何も食べなくなり、ぐったりしてぴくぴくけいれんを起していた時も、御浄霊のお蔭にて一日で元気にしていただきました等々、顧みれば以前は一にも二にも、薬よ医者よと走って居た私が、御浄霊にて数々の御守護や大御恵みを戴きまして試に有難く、其都度感極まりて泣き伏したので御座います。

波乱多き私の過去を静かに思い起しますと実に不思議でございます。

七歳にして実母を失いましたが其臨終に私達三人の姉弟を枕元に呼びまして、中の私にのみ「私が死んだら今度来られるお母さんの言われる事をよくきいて、可愛がってもらって偉い人になって呉れよ」と申されましたが、不思議にも私一人だけが後の母に育てられ、姉も弟も又続いて父も遂に私一人だけを残して他界致しました。

最後に只一人頼りにして居りました主人迄も、三年前に三人の子供を残して逝って了いました。私の義母、又主人の義母にどうしても私の心が理解して頂けず、家庭の冷たさ、暗さ、毎日生きて行くと言う事が非常に苦しく感じられました。苦しさに喘ぎつつも残された子供を、何とか育て上げようと努力致しました。然し悲しい努力も空しく、医者より肺浸潤と宣告され休職して病院のベッドに横たわる身となりました時には、全く絶望状態に陥ってしまいました。

一八歳頃より人の世の冷たさをしみじみと感じ、又色んな矛盾や、家庭の風波に厭世感を起し、何とかして絶対の力に縋りたい、又永遠の真実が知りたいと求めに求め、追究に追究を重ねて来ましたが、如何にしても目的を達し得ず悩んで居りました折から、杖とも柱とも頼む主人の死に遭い、はた又、自分が病に倒れ、実に其苦しみは何とも言えない程でございました。併し今にして思えばそんな目にあっていたからこそ此御道を知らせて戴く事が出来、今日此喜びが味わせて頂けたのだと存じまして、唯々感無量と申す他は御座いません。

広島が原爆に見舞われた時、其現場を目撃しまして目を覆うばかりの惨状に、人類の此一大危機を救うべき大宗教家はお出ましにならないものかと焦燥にかられたものでございます。

科学が進歩しても決して人類の幸福はそれに正比例していない事等、不可解やる方なき気がしてなりませんでしたが、これ等すべて入信させて戴きまして、明主様の御教えを拝聴致し、御神書を拝読させて戴きます度にはっきりさせて戴きました。肺浸潤と宣告されていなかったら、自分の求めに求めていた真理も、世界人類を御救い下さる明主様のいらっしゃいます事も、有難い大光明如来様の大慈大悲も、祖霊の戒告と言うことも知らずに、ますます苦しみ喘いで居たに違い御座いません。これを思います時救われた喜びで一入胸が一杯でございます。あれこれと考えてみます時、神様はずっと以前から、その大慈大悲の御手を罪深き私の身にまでも差し延べて居て下さったのではなかろうかと思われまして、実に感慨深いものが御座います。

そうとも知らず人間の力で何んとか彼んとかとばたばたして、ずるずると苦しみの淵へ落ち込んでいた私で御座いました。観音の御救ひなくば吾は今底なき沼に悩みつづけむとの御讃歌を拝唱します時「有難う御座います」「御願い致します」との言葉のみで、日々を感謝と歓喜で過させて戴ける様になりました事、誠に誠に有難うございます。感謝一杯で御神体の御前にぬかずかせて戴きます度に、御神体の御文字より金色の御光を拝させて戴き、感謝感激に身体をふるわせて居ります。

本年は早速、人に冷笑されるのを押切って、とにかく明主様の御教を戴いた通りやらせて頂くべきだと、自然栽培を全部実施させていただきました。 申訳ない事ですが時には不安になった事も御座いましたが、其度に御神書や、人様の体験記を一生懸命拝読させて戴きつつ、一心にお縋りし御念じさせて頂きました。

お蔭様でよいお米を肥料代を費さないで平年以上にとらせて頂きました。 こうして百姓をしつつ私の肺浸潤もきれいに治して戴き、身体検査も合格して復職の許可を得ましたので御座います。

此福音を此御救いの御道を一人でも多くの方へお伝えさせて戴き、此歓喜、この法悦に浸って頂くべく常に心がけ、努めさせて戴き度いと念願しております。

神を力に誠の杖もて進む身は世に恐るものなきを知りけり

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埼玉県 A・S

光明如来様の有難い御光に浴し、一身をお救い戴きました上、日々の御守護に感謝の日を送らせて頂いて居ります。有難さ嬉しさの余り拙ない筆を顧みず書かせて戴きます。

顧みれば昭和一九年一一月一九日の夜一〇時頃、一日の仕事を終えてお風呂に入った私は、湯槽に半身浸った頃、突然無気味な悪寒と共に多量の喀血を致しました。早速某病院の院長先生に診て頂き体をお任せ致しました。医師の指導の下に時局柄家庭療養(大気、安静、対症療法)に入りました。夢にも思わぬ世にも恐しい病に浸されていたのです。底知れぬ悲嘆の病床生活が始まったのです。絶対安静を命ぜられ、胸部全面に「テラビヤ」の温湿布を巻かれた私は、ズーンと重く身動きも出来ませんでした。医師は一日おき或は毎日往診して下さいました。喀血は繰返す事なく血痰が二、三日続き、微熱三七度三分、午後二回位一時間程の発汗があり、大した苦痛も感じませんでした。

二週間目に微熱は去り、三週間目には湿布も取れましたので、やれやれと思ったのも束の間、今度は一〇日余りの便秘に悩まされた後激しい下痢に見舞われ貧血を起し急に疲れ出しました。それ以来凍え付くような寒さにも私の体は昼夜の別なく全身発熱発汗、頭からもうもうと湯気が立ち、胸痛が咳や呼吸の度毎に荒々しく、ラッセルが頭まで響き、後頭部の激しい痛みに嘔吐や不眠に足が脱け出しそうな腰痛、無気味な腹圧等に心臓は圧迫され、三九―四〇度の高熱を発する事暫々でした。 仰向になったままの体は板の様になり、一寸でも口や手足を動しても異様な物が胸に響き、喀痰すら一人でする事が出来ませんでした。頭には氷冷、胸には湿布、腹には懐炉、腰の左右に湯タンポを全く生ける屍其ものでした。

四月中旬医師は東京の或呼吸器専門の博士を招いて下さり、自らも熱心に尽力下さいました。然し今は此上の治療法はない迄の医薬と注射の毎日に病は良くなっては悪くなり、再三繰返す度に病状は悪化の一途を辿るのみでした。当時の空襲下に天井と体温計を睨合の淋しい明暮れに何時となく、神経は衰弱し夜となく昼となく恐しい悪夢に惑わされ、生死の境をさまよう事夥しく、家の中は暗雲に閉され、母は黒髪迄切って氏神様にお祈りされたそうです。医師の一語一句を忠実に守り長い療養生活を続けました。

発病三年目の春には散歩を許されましたが、一寸で疲れては血痰を出して床についてしまうのでした。

発病当時は血沈一時間一五も、一時間四五と降る様になりました。長い間の注射の連続に、筋肉や、静脈が硬くなり、腕は棒のようになってしまいました。

二二年の秋、薬も注射もいやになり一時止めさせて頂きました。所が二三年二月、またまた発熱四〇度三分、解熱一カ月後、人工気胸をせよと命ぜられたが気胸も良いが、併発病が恐しく考えに考えた上、とうとう病院から遠ざかってしまいました。其後胸よりも左の腰が重い様な腫れぼったいような感じがし、お腹はパンパンに張って、時々顔や手足に軽い腫れが出て、打診や検尿では、腹膜炎とも腎臓結核とも判らぬ様でした。もう此処迄来ては生きる事が怖しく、 寧ろあの世へ行った方が幸福かとさえ思われました。一昨年五月中旬、午後何か息苦しいものを感じ乍ら「今日は一九日か」とただやるせない気持……ふと見知らぬ方の御来客に気付きました。今考えて見れば、此御来客が私を永久に救って下さった神の代行者であったわけで御座居ます。

不意に母が「治るかどうかやって頂いたら……何で治るかやって見なくては」私は何の事やら当惑しました。お話を少しも承っていないので母の意のままお任せ致しました。最初の浄霊を頂きましたが、初め何だか恥しい様な、可笑しい様な気が致しました。やがて一五分も経った頃先生は「どうですか、何か感じましたか」と問われたので、後頭部に何かスーッとする物が感じ、不思議と思って先生に此事を申しました。浄霊も終る頃お腹に腹鳴と共に鼓動が感じました。間もなく小便が沢山出て何となく体が軽くなった様な気が致しました。

それからというものは風雨も厭わず先生には一カ月余り御出張下さいまして、浄霊の傍ら救世の如何に重大であるかをお聞き致しました。

或時は会長先生宅の臨時祭にお詣りさせて頂きました時は、 一寸無理だとは思ったのですがバスが間に合わず、徒歩で行く事に致しました。先生宅迄二里位はあるのです。歩いた事のない私は途中で浄化を頂き、心臓は重苦しく、足は重く咳や痰、鼻汁が沢山でて相当の苦痛を覚えましたが、一人ならば道端に腰を下ろしたい程でしたが、連れの人もあったし我慢に我慢をしてやっとの思いで先生宅まで辿りつきました。

大光明如来様の御前に額き、五分一〇分も経つうちにスーッとさっきの苦痛はどこへやら、本当に楽にして頂きました。罹病以来歩いた事のない私が二里の道を歩き、且又浄化を頂き、帰り道は殆んど何んの苦痛もなく帰宅出来ました事を御浄霊の賜と深く感じましたので御座居ます。

其後度々浄化を頂きましたが、直ぐ浄霊によってとんとん拍子によくなり、全く此迄五年間の苦しみも何処へやら、只今では心身共に健康になり、軽い農耕作業も出来、それにもまして有難い事は、此偉大な救世のお道に加えられ、お守様を頂きました事は偏に大慈大悲の光明如来様お恵の有難い事を深く感じ、今後は会長先生始め諸先生の御指導の下に、苦しんでいる人々をお救いさせて頂き、御恩の万分の一にも報いたいと存じます。御守護を有難う御座いました。

(結核の革命的療法 昭和二十六年八月十五日)