岐阜県 M・M
過去の追憶は走馬灯の如く脳裏をめぐる、其頃の哀れなる姿よ……。昭和一九年蓄膿手術後出血多量の為悪化の一路を辿り身体の衰弱は肺結核の病状に迄進みました。身体はだるく、咳、痰は多量に出る様になり、医師より安静を命ぜられ入院中、毎日毎日注射注射と続け乍ら一進一退の有様、如何になるのか哀れなる身体、ますます苦しみは強く、三月後自宅療養にと退院致しました。自己の身体には自信なく、苦悩より救われる日道を求めて御仏の御前にひれ伏す我身となりました。精神的には御仏の御慈悲を喜び乍ら、前生の罪業だとあきらめ乍ら、日一日と衰弱の我身を思い、木葉の落ちるを見ても涙を流す頃、如何なる縁ありや、今一歩にて生命の消えなんとする時、神の御加護大神の示現大愛の御浄霊により救わるる身となり、幸福なる身とならさせて頂きました。
薬毒多量なる身には、頭痛、咳、血痰等の浄化は一年程毎日の如くありました。
御守護頂いてより一年余の昭和二三年春浄化にて休んでおりました折、光明如来と金文字の御字より御光を拝させて頂き、余りの有難さに唯ひれ伏して拝して居りました。
それより浄化も次第にうすらぎ、何時とはなしに健康なる身となり、朗らかな生活の出来る様にならせて頂きました。御経様の中に釈尊が違提希夫人の双により眉間の白毫より光明を放ちて光明の中に極楽浄土を示現して拝ましめ給い、苦悩より救われる日道を御示しなされたとある。明主様は白毫より光明を放ちて我等一切衆生を苦悩の世界より救わせ給う。ああ有難き御光の尊さよ。あらゆる生物の救われるこの偉大なる大神業、此度箱根別院に参詣させて頂き、神の御胸に抱かれて、地上天国の嬉々として神の御子達と共に参詣し語り、 楽しく過す一時、 明主様の御偉業の尊さを思い、感激にむせびつつ帰路に付きました。 ああ有難き意義ある九月二五日、永久に忘れる事の出来ない感激この幸福を、神知らぬ人々に味わって頂きたい。邪神の為に迷う世の人々よ、早く眼を覚して集い来れ。美わしの地上天国建設にと念双して止みません。明主様誠に有難うございました。
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静岡県 S・M
其頃を顧みすれば恐ろしも闇路杖なく彷ひし吾との御歌は実に私達の過去を看破せられたお歌と痛感致して居ります。
想えば長年月の胸部疾患に呻吟し、又信仰地獄に喘いでいた私達一家は、思い掛けない尊い光明如来様の御力を戴き、毎日感謝の生活を送るようにならせて戴きました事を、拙ない筆では御座いますが御礼旁々御報告させて頂きます。
忘れも致しません、昭和二一年秋、少しの無理が原因で発熱し胸痛を感ずる様になりました。その時は既に前夫は腸結核で三年も床に付いたきりで、ありと凡ゆる事を致しましたが、全く骨と皮のみに衰弱し、それでも何とか助け度いと思い種々迷った揚句、龍神様を信仰するようになって居りました。その御利益があって前夫は働ける程にまでなりましたので、一家を挙げて信仰致しました。然し前夫は再び病床の人となってしまいました。家族の者は一心に神様に祈りましたが、遂にO町の医療組合病院に入院する程に悪化してしまいました。何とか助けたいものと懸命な信仰を続けましたが、昭和二三年一月他界の憂き目を見る事となってしまいました。運命とか因縁として諦める事が信仰者としての一つの誇と自己に言いきかせ、諦める事に努力して居りましたが、同年五月夫の母親も肋膜と診断され熱烈な祈願を捧げるにも拘らず死亡致しました。
看護やら信仰やらで無理した私の体は、この衝撃で悪化し遂に我身も床に就かねばならぬ状態になってしまいました。ところがこれに加えて長女T(一四歳)も学校から肺結核故絶対安静を申渡され、 私と枕を並べて寝なくてはならぬ始末、 全く此世の地獄そのものでした。 これ程信仰したにも拘らず、夫と母を亡くしその上現在私と子供が同じ病で倒れ、同じ途を辿らんとしている。神も仏もないのではないかとの迷いが出て来るのも、決して無理からぬ事だと思います。心の依り所を失った私は益々病状が悪化し、遂に医師より死の宣告を受けるようになりました。
恰度其頃、もと同じ信仰をしていたYさんが以前とは見違える程の晴々した顔で来られ、過去の信仰は正しいものではない、 光明如来様のお話を伺ったり御浄霊をして頂きました。それまで苦しかった体が幾分楽にもなり、Yさんの見違える程明るくなった顔を見乍らお話を伺っていると、絶望していた私に希望と光明を与えてくれました。
昭和二三年八月三日、会長先生が秋田地方へ御出張下さいました際、早速入信さして頂きました。その入信式で会長先生が「人を助ける事が我を助ける事」と仰言られた一言が魂に刻み込まれ、又今までの信仰が如何に間違っていたか、そして知らず識らずの間に、信仰地獄に喘えいでいた事もはっきり判らせて頂きました。不思議にも入信させて頂くと体に力が付いて来て、起きられるようになりました。
それからと言うものは自分は倒れてもこの有難い御教を多くの人に判って頂き、真の幸福を得て頂き度いと真剣に話しやら、御浄霊をさせて頂きました。そして三人、五人、一〇人と御導きさせて頂きます毎に、自分の体が軽くなって参ります。病気は体内の毒素の浄化作用であるとの御教を受けてからは何と気持の軽くなった事でありましょう。全く教理と御利益が何事に於ても一致している絶対力の神様にお縋り出来た心強さは、筆舌に尽す事が出来ません。
其後も人をお救いさせて頂く毎に、私も子供も快復し全くの健康人にならせて頂きました。現在では会長先生のお蔭で、秋田県から明主様のお膝元であります熱海へ住わせて頂き、家族一同歓喜の生活の中から此「天国の福音」を全人類に伝えさせて頂き度く、微々たるもの乍ら努力させて頂いて居ります。これが又尊き生命の救われた者の報恩の道として当然の事と覚らせて頂いて居ります。明主様、本当に有難う御座います。
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宮崎県 N・Y
「駄目だ」「むずかしい」と言う感じが強く私の頭を去来したのは、 昭和一八年七月スラバヤの病院ででした。 肺浸潤という病名で入院していた私は或日今までにない倦怠感を覚えた。恰度その日軍医の喀痰検査があり、二日後に「三号菌」と銘打たれてTB病棟へと移された。安静、禁煙、看護婦の監視は厳重である。然し私は考えました。「どうせ駄目ならば、好きな莨位は吸ってよさそうなものだ」と、風呂も水浴も駄目、一人裏側の病舎に移されて淋しくてたまらない。夜中に起出て汗ばんだ体を拭いたり、隠した莨を吸ったりしました。 内地還送とは廉恥心の強い当時の軍人は極力きらったものである。今にして思えば幸を不幸らしく見せかけて、自己を価値づけんとした人間動物の見難しい一場面でしかありますまい。
ジャカルタの病院に後送されたとき二名の軍医将校がTBに侵されて入院していた。「軍医でも手当が遅れるとTBになるかね」「そりゃあんた医者でも病気をせんとは言えないですよ」「肺は一体治るのかね」「治りませんね、内地へ帰って静養した方がましですよ」「治らんのを知っていてカルシウムだ、何んだと注射するのですか」「没法子よ(しようがない)」と支那語で語った軍医さんは広島の人でした。「美味しいものをうんと食べて体力をつけるより他に方法はないですね」という軍医のTB患者から聞かされてより、自暴自棄の病気生活が始まった。ゴツンコする位入っている兵舎の方は毎日死んでゆく、軈てあんなになるよりは存分に遊んだ方がましだ。変な気持が頭をかすめた。注射器を持って看護婦さんが来て毛布をめくると、人は寝ておらずに柳行李に毛布をかぶせ「看護婦の馬鹿」と書いてある。「Nさんは?」と尋ねれば豚追い羊追いは優しい方で、軍服と白衣と脱ぎかえて柵を乗り越えて街に遊びに行っている。こんな具合で手のつけられない病院生活を始めました。その悪徳が今の私の生命を繋いでいるとも言える訳です。シンガポール、マニラ、小倉、熊本と次々と病院を経て自宅に帰りましたが、どこまでも哀れな目に遭いました。就中輸送船等は土蔵の中みたいなところであるし、どこの病院でもTB病棟だけは、自然の恩恵を少しでも受けられない様に造ってあります。余り待遇がよろしくないので、何処でも軍医と口論した。拳銃と軍刀を医務室へ預けてないのは私一人でしたので、それが恐ろしかったのか地獄の一丁目にいた私の言い分は他の人たちよりも通った。「注射なんかはやらねえよ」一点張である。面倒がって熊本を早目に退院させて自宅へ帰した。
「絶対医学に頼らない」と決心していた私は、遂にそれから三年目、子供の疫痢で、将又家内の胃病で有難い「神力」を知らされたのであります。
夥しい吐痰は腐敗した毒素でありましたろう、出た出た位の話ではなく今も尚菌の住家がどんどん吐き出されています。「結核菌の住家がどんどんと覆滅して行く」なる程という具合に合理的に説かれた明主様の御言葉が御一言御一言身にしみて有難く感ぜられます。
そして今日数多くの結核患者にあたらして貰いましたが、どれもこれも暗黒の中に希望を失い青菜に塩みたいに萎れています。「神力」という原子爆弾に驚いたり喜んだりで御座います。救はれし幸を思へば身を竭し心砕きて酬はでおかめやその儘感激を持続してお縋りをし、一家揃って熱心にお縋りした者は一〇〇パーセント救われましたし、一時的なものや全然疑って初めから御浄霊を頂かない人は、多額の金額を使い一路地獄へとストレプト邁進で可哀想なものです。お縋りすべきです。お縋りなさいと結核恐怖学校の卒業生たる私は叫びたいのであります。
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大分県 H・A
謹みて御礼申し上げます。大慈大悲の御救いにより有難き御道に御導きを頂き、只一途に光明如来様にお縋りし、朝は希望に燃え、夕に感謝の日々を送らせて戴いて居ます。私が入信させて頂き光明如来様にお縋りし大変な幸福者に成らせて戴いた喜びの一端を御報告させて頂きます。
私は二五年三月二一日に入信させて戴いた者で御座います。私の母が病床に伏する身となったのは、昭和一二年でした。其後父は男の手にて六人の子供を養育しつつ、母の看病に努めて呉れました。其間父は何んとかして全快さすべく、医者の言われる様に安静、栄養、大気等自然療法を行い、又他人様の言われる良いと言う事は、ほとんど行い、又種々と信仰も致しましたが、一進一退、病勢は募るばかりで御座居ました。募る病勢の前には為す術を知らず、貧しき故に行き届いた看病も出来ず、涙の明暮が続きました。父は太り行く子供の姿を見る事が唯一の楽しみの様でした。そして常に、 父は悲しみに溺れてはいけない、 悲しみに打勝つ様にと、励まし又励まし合いました。この苦しさの中に私達兄弟も、どうやら一人前に成らせて頂き、苦しさの中に、希望を抱き一生懸命働かせて戴いて居ました。
斯くして十余年は過ぎ去り、昭和二三年の初め頃より身体がとてもだるくなり、背中が少し張る様になったので医師の診断を受けた処、肋膜炎肺門浸潤と宣告せられ、 悄然として家に帰りました。嗚呼もう俺は駄目だ、 此時の精神的な痛手は経験者のみ知る悲惨なものです。私が発病して三カ月日に、母は私の病気を心配しながら他界しました。其医者の一言一句、忠実に守って参りましたが、更に効果なく一進一退の日が続きました。
処が一二月に腹膜炎を併発し、いよいよ絶対安静をする身となりました。朝起きても夜寝ても重い頭、痛い背中、不愉快な腹、来る日も来る日も涙の連続で御座居ました。「自分自身、何の為に生れて来たのか、苦しむ為に生れて来たのか」全くわかりませんでした。親兄弟妹の愛情で盛られた食膳でさえ箸は進まず、絶対安静の毎日が続きました。母が病床に伏す身となって、十余年間続き故に、思う様に薬価も払えませんでしたが、それでも経済の許す限り、医者よ薬よと手を尽して戴きましたが、おとろえ行く身体をどうする事も出来ませんでした。全く生ける屍とは自分の事でした。
此頃より医者でも薬でも治らぬものかと、半ば諦める様になりました。それでも何んとかして治りたいと生きる欲望を捨てる事は出来ませんでした。
寂しい辛い日々を過して居た私に、我が家に御恵の光明がさし始めました。兄が信徒の方々から色々と御道の御話を聞き、お前も御縋りしてはとすすめられましたが、母も随分信仰したけれど、結局御利益を受け得なかった事を思い出し、又信仰によって病気が治るなど考えられず、全く耳を傾けませんでした。其当時の私は医者に頼るより他に道を知らなかったのです。しかし神は私を見捨て給わず、御救いの手をさしのばして下さいました。兄がT先生より病気の真因、浄化御力の偉大さ等有難き御話を戴き、私と父に説明して下さいました。そして父が二月二六日の御祭に御詣りさせて戴き、御力の偉大さ、救世の道の尊い事等悟らせて戴き、O先生に御浄霊を御願い致しました。二月二七日早速先生を御迎えし、先生より御浄霊により御利益を受けた人々の御話を承り、浄霊を御願い致しました処先生は手を振る丈です。
此んな事で病気が治るのだろうかと何んだか物たりなさを感じ乍ら、御浄霊をして戴いて居りますと、体が温まり、何か異様な感じがいたしました。浄霊を終り先生は帰られる時に、今朝起きた時と明朝起きた時の気持をくらべて見なさいと言って帰られました。一回の御浄霊で夜が楽に眠れ、尿量が増し、気持の良い朝を迎える事が出来ました。二回目には散髪をしなさい、三回目には入浴もしてよいと言われ全く不安でしたが、全てを神に任せて髪も刈り入浴もさせて戴きましたが、何の事もありません。二、三回の御浄霊で数日前の自分の生活とは全く別人の様に変りました。あまりの変り方に、家人も心配してそんな事をしてはと随分叱られました。四回の御浄霊を受け、三月二一日御祭に御詣りさせていただきました。嗚呼何という不思議の事でしょう。
絶対安静をしていた病人が、狭い別小屋に身体を横たえて居た自分が、地獄のどん底をさまよって居た自分が、僅か三、 四回の御浄霊により、 二里の道を自転車に乗って御詣りさせて戴きました。全く夢の様な気持が致します。全く奇蹟とはこの様な事を言うのでしょうか、 此事実の前に今まで頼りに頼った医学も根本的に間違って居る事がわかりました。唯物的な教育を受けてきた私も神の御守護を知り、真の信仰の道に入れたのも病気をした為、病気は神の賜わった御恵みで御座居ます。同病で悩める人々又底無き沼にあえいで居る人々を一人でも多く救うべく諸先生方の御指導のもと、微力乍ら御手伝させて戴いて居ます。理想世界建設の御業の一端に御奉仕させて戴く事が出来ましたら此上もなく幸福の至りです。筆舌に尽し得ぬ御守護を厚く御礼申し上げます。
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富山県 T・N
病気は人生最大の不幸と昔から伝えられて居ますが、その中でも不治と言われる肺結核を患らった私が、此有難いお道に救われて以前に増して健康にして頂き希望と感謝の日々を過させて頂いて居ます。
顧り見ますれば、昭和二二年四月町の医師より結核と悲しい診断を受け、絶望のどん底に落ちた私は老いた母の悲しみにこたえる術もなく、淋しいままに古里の療養所に入所致しました。その当時は全身悪く喀血、胸は痛み、肋膜炎のためか背部の痛み激しく肩の凝り、胃腸の痛み、便秘、歯痛等々次から次と医師に訴えるのが気の毒になり気兼する位でした。
そうして人工気胸を行い又カルシウム、ビタミン等の注射療法や栄養食をとり、絶対安静を言いわたされ、室内の散歩すら許されませんでした。この為家人には申訳ない程日々費用はかさむばかりでどれだけ経っても微熱は頑として下らず脈搏はいつも九〇以上で、入院当時とほとんど変りませんでした。それでも私は今一度健康になりたい一心で唯医師の命に従って居ましたが、むしろ進むかさえ思える病状に段々神経質になり、何にも頼るところとてなく、悲歎の明け暮れの一年間を過して終ったのです。
その時でした、どうせ駄目ならと療養所を退所して来る途中、この有難いお道に導びいて頂いたので御座います。そんな事でと思いもしましたが、溺れる者は藁をも掴むと申しますが、本当にその儘の気持でした。
早速二三年一月母が入信させて頂き、 三月後私も御守を頂き入信させて頂きました。けれども初めの中は一足飛びに全快するものと思い、早くよくなるため非常にあせりましたが、次々と先生方の真心からのお教えに心も落付き、光明如来様に一心にお縋りし御浄霊を頂いて居ました。
その中に私の一番苦痛であった背中の痛みが丁度六カ月目位から少しずつ薄らぎ、一年後にはすっかり消えて終い、それに伴なって色んな余病も全快致しました。
御守を頂きましてより、先生の言われるままに普通健康な方と変らぬ食事を頂いて居ますが、胃腸障害もなく美味しく頂いて居ます。
その上家事の手伝は勿論室内の散歩さえ出来なかった私が、近くの信者さんの家へも度々御詣りさせて頂き、中教会本部へも足取りも軽く元気で御詣りさせて頂ける様になりました。時に浄化も頂きますが何の不安も恐怖感も無く、明るい気持で御浄霊を頂いて居ます。
病気は恐ろしいものとしていた病院生活当時と、病気は体のお掃除、 浄化作用として喜んで神様にお縋りしている今日を比べてみる時、なんと私は幸福でしょう。天地の差です。此世に生を受けてこれに勝る喜びがありましょうか。お察し下さいませ。此限り無き御恵みに浴しましてもう三年にもなります今、目をつむりますと明主様の偉大なる大慈悲の御心、又先生始め諸先生方の御恩の数々が走馬灯のように脳裏をかすめて参ります。此感激のままを筆に表わす事の出来ないのが残念で御座いますが、世の中に同病に悩む方々の上にこの福音が一日も早く訪れん事をお祈り致しますと共に、一人でも多くの人にお伝えさせて頂き、地上天国建設の尊い御聖業に万分の一たりとも御手伝いさせて頂く覚悟で御ざいます。明主様、誠に有難う御座いました。
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新潟県 I・K
顧りみれば一八歳の春蓄膿症を手術したのが元で、不治の病として世にも恐れられている肺病と言う刻印を捺された時の私は、此世の中から一人締出された様な奈落の底に突き落された様な気持で、幾日か母と共に泣き明した事で御座居ましょう。 当時食事すら進まず、 僅か一週間に一貫目も体重が減った位で御座いました。無理に親の元に帰り、田舎の病院に診療を求めましたが、結果はやはり両肺が侵されているがたいした事はない、三カ月位で完全に治してやると何気なく言われるので、頼りない様にも思いましたが、内心とても嬉しく此恐るべき病源を除くべく医師の言う儘に、療養の日を送って居ましたが、三カ月経っても一年二年の歳月が過ぎても病勢は悪化する一方でした。長い年月笑う事も知らず、青春時代を一日として朗かな楽しい気持にもなれず、長い九年間只悲しみに泣き濡れ、枕を濡さぬ夜とてありませんでした。
絶対安静で読書などはもとより堅く禁ぜられて居ましたので、ラジオの療養者の時間のみ楽しみにして居ましたが、聞けば聞く程情無く悲しさが増すばかりで、現代医学にも頼る気にもなれず、半ば自暴自棄となって医療を止め家庭薬だけにして、気のむく儘に過して参りましたら、以前より体が楽になった様に思われた喜びも束の間に、又も不幸が重なり二一年一月急性盲腸炎で入院手術後、益々病気は悪化しとうとう恐れていた大喀血する事二回、余りの驚きにもう涙も出ませんでした。愈々最後の時が来たのかと悲しい乍らも覚悟を決め、自分の持物を整理した事も御座いました。その頃、 医薬から見放された私は、断然意を決して救いを神に求めました。偉大なる御力に、さしもの難病も御守護賜り、全快させて頂きました。死に直面して初めて神の実在を教えて頂き、有難い光明如来様の御力迄頂き、信仰の道に入らして頂くことが出来ました。人としてこれ以上の喜びは何処に御座いましょう。御救い頂いた身の幸福を思うとき、病める人の悲しみに泣き濡れている人々を、一日も早くお救いさせて頂き、共に共に幸福な生活が出来ましたらどんなにか有難い喜ばしいことで御座いましょう。明主様、 有難う御座いました。 海よりも深く、 山よりも高き御恵みの万分の一たりとも御酬いさせて戴き度く心に誓い、堅い信念をもって生命の続く限り御奉仕させて頂きます。
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富山県 H・T
私は終戦迄三カ年北支に応召、防空壕掘りに忠節の誠を捧げていた或日、スコップ作業が馬鹿に胸にこたえるので、軍医の診断の結果、肺患になってしまいました。間もなく入院加療の生活が始まった訳ですが、割合動ける私は戦友の枕元をいろいろと世話もしていましたが、ブラブラ病は追々と悪化し、その内終戦ともなり、一等傷復員として、昭和二二年八月二〇日に帰宅しました。
本当は富山で途中下車、 そのまま国立富山病院に入院の命令だったので、帰宅九日目に仕方なく同病院に出頭してみた処「敗戦国とはいえ、命令を馬鹿にするな」という受付係のお叱りを受け「A療養所へでも行け」と言われたが入院生活に懲りているので、兎に角断って又帰宅してしまいました。丁度妻の妹に戦地仕込みの看護婦がいて、幸い近くの農協病院からカルシウム、葡萄糖、ビタミン何とかを注射に来て呉れるので、半年余りもそんなことをやった或時、二、三日続いて酷い悪寒があったので、それを機会に慌てて止めました。暫くしてやむなく村の民生委員の方の御世話になり、健康保険医の出張を受けて、療養を続けました。
何しろ起きていると背中が痛いので、床に寝たきりの生ける屍、天井の節穴を数える気力もなくなってしまいました。毎日午後になると三時頃から約二時間微熱が出て、翌朝になると三時頃から三〇分程血痰を出しました。年よりの保険医は日に二度は欠かさず来てくれますし、大変苦しい時には夜中でも厭わず来てくれるので、それだけが心丈夫でありましたが、自分としては薬石更に効無しで、来る日も来る日も悲歎の明け暮れ、望みとてもはやうち枯れてしまい、死ぬに死なれぬ悩みの様は「地獄」という言葉では言い足りないのでありました。
二三年一〇月の此時、当地を御布教のF先生がヒョッコリ御訪れ下さいました。そして救いの御話も頂きましたが、どうもまだ気が進まなかったので御願いも致さず、その時は、とうとう御断りしてしまいました。何しろ大黒柱が不治の病と来ては、妻もジッとしている訳にはゆかず、鮮魚を提げては日に二回でも三回でも富山へ通うのでありました。
或日血痰の出る時刻に、何となく咽喉が熱くなって来たかと思うと、 もう真赤な血を吐きました。 何度も何度もあびせかけて出るものは、 膿やら腐肉やら鮮血やらで、忽ち洗面器に杯となって溢れます。翌日も、その又翌日も時刻になると、咽喉もとが燃えて来て洗面器にこぼれる程喀血するのです。四日目もその時刻に今や遅しと待っていたのでしたが、 この日はありませんでした。 都合洗面器に三杯の喀血で終ったのですが、吃驚りした為か尚更体は弱り、力はゲッソリ落ちました。然し次の瞬間気持が何となく楽で、少しばかりやれやれと息をつくことが出来ました。けれども、やっぱり背が痛いことおびただしいのです。
ここで医者はこう申しました。最初洗面器に一杯喀血した時、保険医には内々で内科医にも診断してもらったのです。 するとその内科医は「これは性質の良い結核で、出るだけ出してしまえば、後は早く楽になるから、出易い様にして出しなさい」というのです。そして胸にあててある砂袋を見て「何を当てみたって変らないから、取っときなさい」といって帰りました。保険医は丁度反対で、喀血すると体が弱るから出すなと言って、胸に水枕や砂袋を当てさせました。そして喀血が無くなった四日目から塩水をうんと塩辛くして煮たのを、絶えず薬飲みで飲ませるのでありました。少々楽な時は上体を起しているのですが、直ぐ背が痛くなって来るので寝てしまいます。
そんなことを繰り返している内に二四年六月一七日の春祭になりました。その日F先生が再び御訪ね下されまして「少しでも楽になることですから」と申されるので、空っぽな気持で御浄霊を受けました。忽ち何となく快いし、翌日から薬も飲まぬことにし、三日日になると背の痛みがとれてなくなりましたので「御浄霊にかかって行けば間違いない」ということに心がきまり、それから欠さず御浄霊を受けておりますと、次第に身動きが軽くなり、翌月の二三日には床を離れて六里も隔るB町へ御守様を拝受に出かけ得たことは、本当に夢知らぬ変り方であります。
当日はN様宅で大光明如来様御奉斎の為、 会長先生が御霊祭に御臨席になりました。 いろいろと救いの御道のことを拝聴致しまして、入信させていただきましたことの嬉しさは、どうしても包み隠すことは出来ませんでした。本当に前の年の秋祭の際、F先生の御言葉に従わせていただかなかったことが、悔まれてなりません。申訳のないことでありました。
入信一カ月の八月二〇日、私の家の屋根を葺きかえました。三日間で葺き終りましたが、最初縄をなう藁を槌で打っても背は痛くないし、縄をなっても痛くなし、今度は屋根へ上って屋根葺しても痛みはない。近所の手伝人は「そんな無理して、後で又寝るなよ」と笑いました。
F先生は雨の日も風の日も御浄霊においでになりました。二日目の屋根葺の休憩の時、近所の人達が西瓜を食べている処へ先生がおいでになって、早速と御浄霊をいただきました。見ている人達は浄霊を笑うのです。その人達は未だに御浄霊の何たるかを知ろうとしてくれません。兎に角三日間の屋根葺は終りましたが、寝ることもなく別状無いので、その時から床を上げてしまいました。それからは真夏の昼寝もせず、先生のおっしゃる通り薪を切ってみたり、割っても見たり、妻が内職に出かけて昼ともなれば「おつゆ」のこしらえもややっている内に、知らず識らずに順調に力がついて、毎日が若芽の様に伸びゆく歓喜で一杯でありました。その間にC教会のS先生と岐阜のG先生にもおいで願いまして、懇ろに御浄霊と御導を頂きました。
この年の一二月妻も入信致しました。会長先生からも「暫く教会へ御浄霊を頂きに通う様に」との御言葉をいただき、早速と二五年の春から三カ月間C教会へ通いました。この間に何回となく喀血も致しましたが、S先生から御浄霊を頂くと直ぐ楽になりますので、別段何ともなく布教をしながら全部をおまかせしてのんびりした気持で其日を送るのでありました。教会で御浄霊を受けての帰り、見渡す限りの銀世界をまぶしい反射光を浴びながら、額に汗して病める友に浄霊をしに行く私の幸福を何にたとえ得ましょうか。
二五年の四月一二日には御屏風観音様を御奉斎し、翌五月一七日には光明如来様を御奉斎させて頂きました。命も放げたどん底に、望も絶えて苦悩する屍の身に、此日の訪れることを誰か想像し得たでしょうか。思えば諸先生方は大いなる神の使徒であられる事であります。自からに体験して此身此魂の救われたるを想うに付け、何とも申し上げられない不思議であります。讃えても讃え尽せぬ御恵みに、今又その御神体を御迎え申すにあたり、身に余る光栄を先走るは感泣ばかりで御座います。
御守護によりまして、此私にも輝く再起の日を抱き、二五年九月一八日から元の製材所へ復帰し、休みなく元気で働いております。世の浄化も強くなったのか、二六年の春に入り、私も時々突然喀血することがありますが、其都度教会でも御浄霊を頂くので、何事もなくまた平常通り作業に精を出して居ります。浄化を頂く毎に益々体もシッカリするので、自然浄化の如何に真理であるかは、地上天国建設の礎石として御手伝いさせていただいて初めて知りました。実に比ぶるものなき尊い教であります。 同病に悩む多くの人達の一日も早く醍められんことを希わずにはいられません。
大いなる時も愈々迫り、謹しみて御神業の御手伝いを誓い、御恵の万分の一にも御報い奉りたいのであります。絶大な御守護を頂きまして有難うございました。厚く厚く御礼申上げ奉ります。
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島根県 H・M
二四年の秋以来数々の御利益御守護を頂きました感謝感激を誌るさせて頂きます。
私は昨年の七月初め妊娠三カ月で流産致しましたが、後の養生を怠りました為か、頭痛、眩暈、心臓病、脚気、それに軽い肺病と全身の病気が一時に併発しました。そして毎日微熱が続き絶対安静の身体となり、一頃は毎日悲しい「死」の事のみを考えていました。婚家は父と夫と私の三人で女手が他にありませんので、自然に身体に無理をすることがあるだろうとの事で、実家にて養生をして居ましたところ、身体が弱くては将来困るとの理由で八月末遂に離婚されました。
ああその時の悲しみと身体の腑甲斐なさに対する憤りは、筆舌に尽せませんでした。嫁ぐ迄元気で病気はした事の無い私でありましたが、何故か嫁いでから病気勝となり、弱い弱いと言われながらも辛抱してかしずいていた私でしたのに、流産の後離婚されるとは何という運命の皮肉かと、病床に伏して夜もすがら泣き明した事も幾度ありましたことか、唯自己の腑甲斐なさを歎きつつ仕方なく諦めたり、 又思い出しては我身の不運をかこちながらも日々療養につとめました。
お医者様には二カ月間隔日に往診して頂きました。少しはよくなった様に思いましたが、矢張り微熱も頭痛も取れず、心臓も相変らず動悸が激しく、気短かな私は如何にすれば良いものかと思案にくれました。もう一度元気に笑って日々を過し度いものと一生懸命で御座居ました。あらゆる治療法も行って見ました。丁度薬箱に薬を詰め込む様に種々の薬を飲みました。併し病状には何の変化もありません。
ところが九月二〇日姉が変な病気になり、近所の人から神霊療法の有難い御話をきき、Y村のS先生に来て貰い御浄霊をして頂きました。その時に私の事もお話し致しましたところ、「きっと治る」との嬉しい、力強いお言葉をききお願い致しました。二、三度の御浄霊で頭痛は取れ、不眠が安眠となり、食事はとても美味く、気分がとても良くなり、一週間位で微熱はすっかり取れました。有難い御利益に唯歓喜の涙にむせぶのみで御座いました。顔面の蒼白さも赤味を帯び、二週間目位で野良仕事に出て稲刈りなどして見ましたところ、久方振りの労働にも不思議と驚く程仕事が出来まして、家内一同喜びました。
僅かの日数で全身的な病気をお治し下さった光明如来様、罪穢れ多き私に前途の光明を与えて下さった光明如来様、ああ有難き御慈悲の前に頭をたれ、ひたすら感謝の心で一ぱいで御座居ます。
観音の御救ひなくば吾は今底なき沼に悩みつづけむ
今更に過ぎにし事ども言はざらむ我愚さの尤にありせば
右の御讃歌を奉唱さして頂きます時、唯湧き出づるは感謝の涙、口をついて迸しり出づるは、有難いの一言のみで御座います。
一一月一日入信致しまして以来、元気に快活に日々を過して居ます。そして多くの病める人が一日も早く幸福の世界に救われます事を日夜念じつつ暮して居ます。
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島根県 H・E
私は昭和二四年四月一七日T教会に於てM先生より御教修を受け、お守様を頂いた者でございます。ここに限りなき御利益の一端を拙い筆ながら謹んで御報告させていただきます。
当市O農協に勤務中突然喀血し、肺浸潤と診断せられ、にわかに重病人となりましたのが、昭和二三年一一月五日でありました。爾来医師の命令を守り、絶対安静をなし、格別懇意な人とて薬に注射にあらん限りの治療をして下さいましたが、寸効も認められず病勢は募るのみにて、遂に治る希望を失ってしまいました。
丁度その頃三月初めの事でした。母が知人から御浄霊のお話を聞いて、是非私にも受ける様色々勧めました。然し医療に絶大の信頼をかけ、又終戦後真宗の教を聞いていた私は、どうしても現当利益を信ずる訳にゆかず、浄霊を受ける気にはなれませんでしたが、母が余り熱心に勧めますので、四月初め頃よりT先生の御浄霊を受けることになりました。併し一方では前通り医療を続けました。かくてT先生や毎月の教修会でI先生より色々と有難いお話を承り、又医療による固め療法とは根本的に違う所以も度々伺いましたが、余り医師が熱心に回診されますので、つい断りかねて七月一一日まで注射療法を受けましたが、七月一六日意を決して医師に事情を話しましたら、医師も大変理解を持ってくれまして「では一心に御信仰なさい」との事で、それからは唯一筋にお縋りする心になりました。
それから四日後の七月一九日から四〇度五分という高熱を発し、驚いて早速T先生をお迎えして御浄霊を受けました。先生は御覧になると直ぐ「Hさんは大変よい御浄化を頂かれましたね、これで病気が根本的に治りますよ」と力をつけて下さいまして、それから約一カ月半毎日一度乃至二度宛実に親身も及ばない御親切な御浄霊を頂きました。
お蔭様で一週間余りで熱も七度乃至八度に下り、それから順調に快方に向い、八月末には床上げをするようになり、九月一日より毎日七時半のT教会の朝礼に間に合うよう参拝し、九月二六日よりは毎日、半日宛御浄霊の御手伝をさして頂いております、尚瀕死の鶏も、片足不自由になって歩かない豚も、私の浄霊で皆よくなりました。そして八月一八日には御屏風観音様をお迎え申し上げる事が出来、同月教修会には妻もお守を頂き、家内一同病気に対する不安が一掃され、日々明主様に感謝しつつ楽しい日を過させて頂いております。
明主様有難う御座いました。御報告を兼ね、厚く厚く御礼申上げます。
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神奈川県 N・S
月日の流れるのは早いもので、私が入信させて頂きましてより四年余りになりました。今日楽しい生活を送らせて頂けるのも、偏えに明主様の偉大なる御守護と、感謝の日々を過させて頂いて居ります。
私が発病致しましたのは、昭和八年二一歳の春でした。当時私は看護婦をして居りましたので、病気に就いては一般の人以上の注意をして居りましたにも不拘、ふとした事から風邪を引き幾日も熱が下らず、背中一面が板の様に感ぜられ、食欲は日増に減退し、一日に僅か茶碗二杯の状態でした。こんな容態では若しや肺病ではないか知らと、恐る恐る専門医の診断を受けました処、 レントゲン写真と血沈検査の結果、右肺尖カタルと診定され、絶対安静と言われた時は、若しやと予期はして居たものの目の前が急に真暗になり、谷底に突落された様な気持になり、これで私の一生もメチャメチャかと悲しさと口惜しさに、只泣けて来る許りでした。
職業柄肺尖カタルとはどんな病気か?肺結核を体裁よく表現する言葉に過ぎないのは充分承知している私、如何なる医療も之を完全に全治する事の不可能を知っている故に、どうしてこんな病気になったのかと煩悶し乍ら、自宅療養となってからも、万一兄弟に感染でもしたらと自宅の一室に籠り、私の使った食器類は全部煮沸消毒をし、文字通りの肺結核患者になって終いました。
それからは医師の言う儘に、凡ゆる注射と投薬を忠実に守って来ました。過去の職業からも医学を絶対に信じて居た私も、何とかして治り度い一心に、新薬から新薬をと漁りつつも一向に快方に向わず、相変らず背中一面板を張った様で、増々食欲は減退し、食事と聞きます事すら腹立たしさを感ずる程で、一日に茶碗一杯の御飯と一合の牛乳が漸くの状態で、何時も重い荷物を背負わされている感じで、暗い気持の毎日を二年余りも続けました。
或る日叔母が来て「肺病に良いお灸があるから行ってみては」と言われた時も、医学を信じ切って居た私には、そんな民間療法等と否定しましたが、熱心な叔母の奨めに一緒に清水市に行き灸を受けました。一時的かそれから割合気分も良く熱も出ないままにお灸をすえ乍ら、医師の診察を受けつつ、注射を主とした医療を続けて来ました。
発病後三年程してより大分気分もよくなって来たのでレントゲン検診の結果、大分良くなったから働いてもよいとの事で、早速病院勤務をする事になりましたが、三年間の絶対安静と静養療法の為、勤務を始めるや、仕事が面白く愉快に働きましたが、それも束の間、又々微熱が出始めました。
今になって考えれば微熱の出るのが結果に於て良い事なのに、只医学許りを信頼し切って居た私は結核は恐しいもの、こわいものと植付けられた潜在意識の為、僅か許りの微熱にもすっかり恐怖を感じ、直ぐレントゲン検査を受けました処、左右の肋膜が再発したと言われ、又々安静を言渡されました。其度毎に注射よ薬よと日に何本となく痛い思いと、幾度となくうまくもない薬を服みましたが、はかばかしくなく、風邪を引くと又直ぐ肋膜の再発と診断され、恐怖の毎日を過して来ました。
或日私が余り神経を使うので「そんなに心配するなら、一度日本一のレントゲンの大家に診て貰いなさい」と言われ、病院の紹介状を持って東京の某結核療養所の診察を受けました処、貴方の体は丁度亀裂の入った茶碗の様なもので、大事に使えば長持ちするが、無理をすると長持ちがしない故、微熱が出ない程度の労働なればよいと言われ、三〇歳を過ぎてからでないと結婚してはいけないと、又結婚をしても子供を産む事は出来ないとまで言われました。其時の私の気持は言葉では言い表わす事が出来ませんでした。どうせこんな弱い体では長く生きる事が出来ない。幾ら注射をしても薬を服んでも世間の人の様な健康にはなれないものなら、何も手当をせずいようかと思いつつも、生の執着に自分で自分の気持がどうしても諦め切れず、何とかして健康になりたい気持で一杯でした。再度再発との診断を受けながらバケツ一杯の水を持つ事も出来ず、一三年間を過ぎて終いました。
昭和二二年五月、友人から光明如来様でどんな病気をも治して頂けるから、一度行って見たらと勧められましたが、医学の虜になっている私はどうしても信ずる事が出来ず、そんな事で治るなら医者や薬は不要でしょうと言いました処、医者や薬はいらないのだと言われ、増々変に思い乍ら手を振った丈で病気が治るなら、そんな簡単な事はない。一三年間医学に頼って治らない病気が掌を翳しただけで病気が治るものなら、一度行ってみようと思い、早速本部に行って色々と御話を聞かせて頂きましたが、全部を信ずる事は出来ませんでした。併し人々が良いと言う事は何でもやってみようと、疑いつつも早速入信させて頂きました。
其後本部で御浄霊をして頂き帰ろうと思いました処、足がすくんで眩暈がして一歩も歩けなくなって終いました。一緒に行った方が心配してもう一度御浄霊をして頂きましょうと言われ、再度御浄霊をして頂きました処、今迄の足のすくみも眩暈もすっかり治り、元気に帰宅する事が出来ました。家を出る時は元気で行ったのに、僅かの時間本部に居て御浄霊をして頂いたら、一時歩けなくなり、又直ぐ歩けて、何か不思議な事があると思い乍ら帰宅致し、食事も美味しく頂き、寝ようと思いました処、又々足が立たなくなりました。早速友人の御浄霊を頂き大変楽になりましたが、心配なのでM先生を御願い致しました処、不思議な程楽になり色々と御浄化の御話を聞き、薬毒の恐しさと神様の御力の有難さを聞かせて頂き、初めて医者も薬も不要な事が判然と判りました。
それから二日おき位に出張して御浄霊を頂きました処、メキメキと元気になり、顔色もよくなり、軽い仕事をしても、疲れる事を忘れる様になりました。二二年八月腹膜炎の御浄化を戴きましたが、僅か一週間で完全に良くなりました。この病気も医学に頼れば入院手当をしても殆んど全快して退院する人がない事は、過去の体験に依って知って居りますので、この浄霊の力の素晴しさに一層の驚異と信頼の念を深めて参りました。
医学では当分結婚は疎か妊娠する事は絶対に危険だと特に注意をされていた私が、其後引続いて御浄霊を頂き見違える様な健康になって、二三年四月結婚して現在妊娠七カ月となり、軈て生れ来る子供の事を想像して感謝と歓びに浸りつつ、毎日御神業の一端に御使い頂いて居ります。嘗て私が医学は絶対のものだと信じて安静から静養に専念して居りました当時、 時折訪れた湯屋の人々も完全に健康になった現在の私の体を見られ、只々驚きの目を見張って居られます。
この理論と実際が完全に一致した浄霊の力を私の体験を通じて証明して、不治の病だと諦めつつも煩悶と焦燥に日々呻吟し続けて居られるであろう世の多くの人々に、神様は大愛そのものであることをお知らせし、一日も早く一人でも多くの人々が、私の様に救われて人生の本当の歓びに浸られん事を願いつつ、拙なきペンにありのままを記させて頂きました。この体験を綴りつつも過去の絶望感から、今日の歓びと御恵みを御与え頂いた明主様の大愛に、滂沱としてはふり落ちる感謝の涙を止める術もありません。
医学を絶対のものと信じ切って居りました当時の心境を顧みました時に、其頃を顧みすれば恐ろしも闇路杖なく彷ひし吾この御讃歌そのままの絶望の私であったものが、今御恵に救われて観音の御救ひなくば吾は今底なき沼に悩みつづけむの感謝の日々にならせて頂きました今日、希わくば大愛の御手に依りてゆきくれて道に迷へる小羊を救はせ玉ふ観音の御手の御讃歌そのままに全人類が御光に浴して、救われ行く日の一日も早からん事をお祈り致しつつ、拙なき文字に御礼を申上げます。
(『結核の革命的療法』了)
(結核の革命的療法 昭和二十六年八月十五日)