(付録)おかげ話100例 51~60

新潟県 T・T

謹んで肺結核治癒の体験を御報告させて頂きます。私は幼少の頃より腺病質で体も大変弱く、五歳の時ジフテリヤになり危うく死にかけた命を数十本の注射で治り、六歳と七歳の時、二度肛門に悪性の腫物が出来て手術をして治すという具合で、病気の連続でした。

学校卒業後工場に勤めておりましたが、昭和一〇年九月突然胸痛と四〇度近い高熱を発し医者の診断を受けた処、左湿性肋膜炎との事で工場を休み、絶対安静を一カ月続け、その間毎日の様にカルシウム注射をやり、水も一升五合位とり、ようやく固りましたので再び勤めに出ましたが、常に惰るく、微熱があり、胸も痛く、蒼黒い顔をして何時晴々とした体にはなれませんでした。再発を恐れて常に健康診断を受け、又栄養のありそうな食物を摂り、栄養剤など服み、体は充分に注意しておりました。

昭和二一年六月市内の病院で健康診断を受けた処「肋膜の方は大体治ったが今度は肺が悪くなってきている、まだ大した事はないから、一カ月位工場を休めば大体よくなるだろう」と言われました。

一時は呆然として了いましたが、一カ月位でよくなるだろうとの医師の言葉に気をよくし「左上葉結核の診断書を工場に出して休み、割合呑気になって遊んでおりましたが、一カ月後には自覚症状など全然なくなり、 今度こそすっかり治ったものと思い、再び病院で診察を受け、血沈、レントゲン撮影をやってもらった処、結果は全く正反対で「病気も大分進行して来た、今が君の命の岐れ目だ、此儘家で不規則な生活を続けるのなら、命は保証されない。新潟市郊外に国立の療養所があるから、そこに入って規則正しい療養生活をすれば治る見込みもある。家族の人ともよく相談する様に、兎に角家へ帰ったら安静にして寝ている様に」と申渡され、「両性結核」の診断書に、療養所の用紙まで渡され、全く暗然たる気持で家に帰って来ました。

「不治」という肺結核に対する先入観念から、命も半ば諦めた様な気持になり、病院から渡された薬をただ習慣的に服んで安静にして寝ておりますが、その頃から症状も本格的になり、盗汗、微熱は毎日続き、肩はこり、 日増しに衰弱してくる様でした。

その頃より浄霊の事も或程度聞かされておりましたが、医学でさえ結核に対しては何等決定的な治病法もないのに、民間療法などでは治る筈はない。何をやっても結局は同じ事だと思い、家族の者が一度先生から来て頂いて浄霊を頂いてはどうかと勧めてくれましたが、一向に乗気がしませんでした。

処が昭和二一年七月一三日、私には知らせないで親戚の人がお願いしてN先生から御越しを願いました。「病気は浄化作用で決して恐るべきものではない」事など、病気の事に就いて大変丁寧に、御熱心に説明して下さいましたが、余り耳新らしいお話にどう判断してよいやら判りませんでしたが、「貴方の様な肺結核の人が、浄霊によって多勢治っている」と言われた。この一言に私も浄霊をしていただく気になり、N先生からやって頂いたら、何だかよくなりましたが、帰られてからも心が決らずにおりました所、家族の者に連れられて現在のK中教会長、O先生の御宅へお伺いしました。順番を待っている中に、次第に胃が痛み出し、一時間位後には堪えられない位猛烈に痛むので、会長先生から浄霊をして頂いたら、二〇分位で吐き、あれ程の痛みは完全にとまって了いました。

初日からこれだけの体験を得たので、これ丈の効果があるなら結核も治るに違いないと思い、翌日から通って浄霊を頂く様になりました。盗汗も次第に出なくなり、肩のこりもとれはじめ、体も気分も日増しによくなってゆき、来てよかったとつくづく思いました。私の外に結核の方も四、五人来ておられましたが、皆異口同音に具合がいいと言っておりました。

毎日先生のお宅へ行ってお話をお聞きする中に、これはただの民間療法とは違う事を知り、一刻も早く教修を頂きたい気持になり、昭和二一年八月一七日O会長先生から、お守を胸に下げて頂き、大変な感激と誇りとで、生れ返らせて頂いたのでありました。

入信後も一カ月半浄霊を受けました。お蔭様であらゆる自覚症状はなくなり、体重は増し、気分も実に爽快となりつくづく人間としての生甲斐を感じました。

肺結核でもどんな病気でも、こんなにどんどんよくなって行くんだから、自分もこのように人助けが出来たら随分愉快だろうと思い、会長先生宅に一〇月の初めから助手として使っていただく事になりました。昭和二〇年一〇月二九日には、初めて会長先生に連れられて、熱海で明主様に御面会させていただきました。

昭和二一年は、悲しみに明け、大変な喜びの裡に暮れました。二二年三月頃より然毒が出はじめ、特に手や足に酷く体中に拡がり、猛烈な痒みの為、毎日明け方頃まで殆んど眠る事が出来ない位でした。その頃より再び肺の浄化作用が始り、熱が出て来て体が倦く、胸も痛み、一回目の浄化の時よりも衰弱多く、 一日半分以上は床に就き、やっとの思いで毎日会長先生の御宅まで行って浄霊を頂いてまいりました。私の衰弱しきった体や、蒼白い顔色を見て、近所の人達は誰も私が助かるとは思っておられなかったそうであります。

こんな状態が二カ月も続き、一時は全く壁に突当った様な気持になりましたが、八月に入り然毒が治り始める様になってから、肺の浄化も次第におさまり、二度目の浄化も全く御守護によって終らせて頂きました。

それから二四年の半ば頃までの一カ年半は、毎日少しずつ浄化して怠い日も続いておりましたが、一生懸命に浄霊に従事させて頂き、又私も殆んど毎日の様に浄霊をして頂きました。

二四年七月頃から非常に怠い日が続いておりましたが、八月一一日になり朝から急に熱が出始め一一時頃には四〇度位になり、足も腰も立てなくなり、頭はポーとして来て、何が何やら判らず、その上呼吸が苦しく物凄く咳と痰が出て、体中どこを触っても火の様な熱です。食欲など全く無く、ただ水だけが大変うまく、会長先生はじめ諸先生が代る代るお越し下さり、御浄霊して下さいましたが、頭や首、肩の熱がなかなか下らず、一〇日ばかりの間にうんと衰弱して了いました。

こんな酷い肺の再浄化は今回がはじめてで、生も死も神様にお任せしておりました処、今度も再び御守護により二週間位経てから、次第に熱も下り一カ月後には大体治りました。

浄化後は何年間も続いた体の怠さもすっかりとれ、顔色もずっとよくなり、体も軽くなり、気分も爽快になり、浄化は本当に有難いものだとつくづく身を以って体験させて頂きました。

その後二五年になり四月から六月頃まで、軽い肺の浄化がおきましたが、それ以後は本当に好調で如何なる仕事にも何の不安もなく、耐え得る様な健康体にさせて頂き、現在では専心御用を勤めさせて頂いております。

現在六年前を振返ってみると、全く夢の様な気持が致します。世間には以前の私と同様肺結核になられ、希望のない生活を送っておいでの方も多いかと思いますが、一日も早く目醒めて、浄霊を受け健康体になられる事を祈っております。

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東京都 K・S

顧みますれば昭和二三年七月より肺浸潤が再発し、早速に日本赤十字及び慶応病院等で診ていただき既に手おくれ、気胸も出来ず、手術して療養所に行き、絶対安静との宣告を受け、私始め家内中が悲歎のドン底に陥りました。

その時M区のO先生より救世教の有難い御話を聞かせて頂きましたので、早速主人と相談致しました処、主人は至って無信仰故一向聞いてくれず、ただ療養所へ行く事をすすめるばかりでした。

私は療養所へ行ってしまえば此世の別れと毎日毎日淋しくなやんでいました。そして遂にどうせ行くなら一度浄霊をして頂いて様子をみた上でと思い、主人には内密で受けてみました。ところが一週間位経ちますと熱も下り、肩の凝りもなくなり、何だか苦痛もとれたようになりました。そして見ると快方に向い始め、元気な体になって参りました。それを見てさすがの主人も全く驚いた次第です。

それから早速入信させていただきましたが、 体は益々元気になり、 かつての衰えた様子はどこへやら、今では見ちがえるほどになりました。そして数知れぬ御神徳を頂き、今ではあれほど極端な無信仰者であった主人も入信さしていただき、一家揃って毎日楽しい生活を送っております。これも皆、明主様の御光により救われたことを感謝致しております。

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福岡県 S・S

私事昨年三月末、 O町のM先生から電車の中でお道のお話を伺い、四月初め入信しました。

医者の診断は肺結核、右側は非常にわるく、その上活動性の病気との事、種々の注意と共に、早速入院して療養するようにと言われましたが、注射や飲み薬は勿論、入院するなどとは思っても嫌な事で、気が進まぬままに、家でブラブラしていましたところ、主人が大手田行きの電車の中で、一面識もないM先生からいろいろとお道の事をお聞きして帰り、話してくれましたので、光明如来様のお導きと存じ、早速雨の降りしきる中を主人に連れられO町の教会へお詣りさして戴きましたが、何分遠方で又道も悪く乗物で身体に無理がゆくからとおっしゃって、久留米市K集会所を紹介していただき、その翌日久留米にお詣りしました。丁度教修日になっていたのです、御講話を拝聴するのも御浄霊をお受けしつつでしたのに、 教修の三日間が過ぎた頃から、非常に呼吸も楽になり熱も下り気味で、大変楽になりました。

それから後、A町の本部へは一度もかかさずお詣りさして頂き、その都度二、三日はきまって御浄化をいただきましたが、その度毎に気分が良くなり、元気が出て参りました。

入信してから三カ月は、まだする事もなく日を送っていましたが、六月末突然母が亡くなり、後は他に女手がなく、何も彼も家事一切を一人でやって参りましたが、初めの中こそ多少は疲れて夜もねむれぬ位でしたが、これも仕事になれるにつれ、日一日と元気にさして頂き今日では何をしましても平気で、時たま軽い御浄化をいただく程度までになり、その上妊娠は丁度一〇年目でございます。主人始め親兄弟の喜びも一通りではございません。

子供の頃から体の弱かった私は、あらゆる薬や注射、それから鍼灸の療法を試みました。そして一日に二時間以内しか他人との会話も出来得ないような体でしたのに、斯くも元気に、そして自他共に思いあきらめていた子宝にさえ恵まれるようになった事は、僅か半年の間の出来事で、ただただ夢みる心地でございます。

このように未だ日の浅い私が斯くも偉大な御利益を頂きました事を、何とお礼申上げてよろしいやら、その言葉も見出せない次第でございます。家内一同心から感謝申上げております。つい先頃まで身体の弱かった私の事故、周囲の者は申合したように、 妊婦によいという薬や注射とあれこれ心配してくれますが、私はただ「神様に授けていただいた子供ですから、御教のままに致します」とのみ答え、ひたすら光明如来様の御力に御すがり申上げております。

今では胎動を感ずる度に、 溢れ出る喜びは筆舌には表わせません。有難うございました。

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大分県 F・Y

一家三人肺結核に冒され、筆舌に尽せぬ病苦と貧苦に悲観の極に喘いで居ましたが、尊き御霊徳に依りまして死滅を救われ、輝く光明一家に更生致しました喜びを、御礼旁々御報告させて頂きます。

昭和二一年四月それまで元気で働いて居りました母が、何か体の具合が悪いからと医者に診断を受けますと、気管支炎と診断され種々手当ても致しましたが、八月に肋膜炎を併発し、 一旦は入院も致しましたが病勢は募るばかりで、 何等の効果もなく最早取返しの付かない病気になって仕舞いました。私は母に変って家業に従事致して居りましたが、二三年四月体がだるく疲れるので、医師の診断を受けました処、肺浸潤との事で病床に伏さねばならぬ身となって仕舞いました。斯くする内只一人の働手の姉が発病、これも肺が悪いとの診断です。学校に通って居ました妹と弟の二人を除きまして母子三人、枕を並べて病床に伏し、一人の働手も無く、頭痛、倦怠、咳嗽、不眠症あらゆる病苦に昼夜を分たず悩まされまして、日々募る病苦と貧苦に一家は悲みの極に達して仕舞いました。其間他人から聞いた良いと言う療法は何もかも致しました。薬、注射、灸等遂に薬に見切りを付けまして、信仰も致して見ましたが、何も救ってくれるものは有りませんでした。最早此世に頼るものは何一つないと諦めて、只死を待つのみとなったのでありました。処が忘れも致しません。昭和二三年三月一三日母の知人が来まして母に種々救世教の御話を聞かせて下さいました。又話だけでは分らないからと御浄霊もして下さいました。母は大変気持が良いからと姉や私に勧めました。姉の方は浄霊を受けて不思議に体が軽くなったと喜んで居りましたが、私はそんな事で病気が治るものかと笑って居りました。母は今まで種々迷って来たんだから、ついでにもう一度迷ってみようと言う気持で、妹を入信させる事になりました。三月一五日入信、其後母や姉を浄霊致して居りましたが、私はつまらない迷信に迷ってと腹が立って仕方がありませんので、毎日悪口を言って居りました。処がどうした事でしょう、二日三日とたつにつれて、何だか元気になるではありませんか。一週間目には今まで病床より一歩も出た事の無かった母が散歩出来るようになりますし、自分の身の廻りの事も出来かねて居りました姉が、炊事が出来だしたのです。嗚呼何と言う不思議な事でしょう。このような奇蹟が他にありましょうか、さしも頑固に反対致して居りました私も、此現実の御利益の前致しまして、今日までの療法の誤りを知り、一生懸命治らないように努力して居た自分の愚さを、つくづく悟らせて頂きました。

其後は御浄霊に依り日に日に快復、今まで何十貫もの重荷を背負って居たような重みが、一遍一遍の御浄霊に依りましてぐんぐん軽くなり、散歩どころではなく起きて用事する事さえ辛かった私が、仕事が出来る様になったのでございます。此時の喜びは何物にも例え様がありません。知らなかったとは言い乍ら反対し続けた私まで、短時日の中に御救い下さいました。大慈大悲の神様の前にひれ伏すのみでありました。

其後一年目二四年四月、長年に渡る薬毒の浄化で母は此世を去りましたが、其時の死顔の良さ何もかも安心し切って、 あの世で光明如来様に救われるんだと眠るが如く死んで行きましたが、死の直前までもがき苦しみ、安心のない無信仰者に比して何と言う幸でありましょう。ここにも御霊徳の有難さを深く深く感じさせて頂きました。

私と姉とは御浄化の度に健康を増して参ります。 もしこの御救を頂かなかったら妹や弟達まで次々に発病致し、一家死滅の運命を辿ったでありましょう。結核一家も、御恵に依りまして輝く光明一家に救われ、地上天国の御聖業の一端にでも御奉仕させて頂けます事を、厚く御礼申上げます。

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静岡県 M・T

青春燃ゆる二二歳の九月二日朝、頭痛と寒気がしましたが、日頃丈夫で薬一服呑んだ事が無いので平気で勤めて居ります中、約一〇日過ぎた頃、高熱とひどい頭痛で汗が全身より流れる様に出て、国立病院の医師より肋膜炎と診断されました。今迄病気の事など考えた事もなかった私故、別に気にもせず頭の痛みさえなくなればすぐ元の元気な体になれるものと思っていました。

来る日も来る日も四〇度近い熱とひどい盗汗が続き、当時の私としては只医師の言葉を忠実に守って安静に寝ているより他、術を知りませんでした。

処が今思い出してもゾッとする八月二四日夜半の一時頃、突然咳と共に咽喉元が生暖いのにハッとして吐出した鮮紅色の喀血に、一時は失神同様で御座居ましたが、気がついてあたり一面に血の飛沫を見た時は、私自身忌わしき病にとりつかれ、死の宣告を受けた感じに茫然として仕舞いました。こみあげてくる悲しみと心の苛立たしさを凝っと堪え、唯だ医師に総てを委せて希望のない淋しい毎日が続きました。病気前は一五貫もあった体が急にげっそりしてしまい、あまりに変り果てた自分の体を床の上に持て余しながら、何時治るという当もなしに、只死への悲しい旅路をさ迷い続けました。病勢は一進一退、家人も話している医師の言葉の端に、もう私は駄目だと知り、日頃大事にしていたいろいろの品物も妹たちに形見にと分けてやり、この年になる迄何も出来ず親に心配かけたまま死んでゆかねばならない私自身を腑甲斐無く思い、床の中では人知れず何度泣いたか分りません。初めて迎える昭和二三年の寝正月、もう今年が最後だ、もう何も思い残す事はないと諦めて居りますと、一月八日、顔覚えのある小母さんが見舞に来て下され、私のお腹の膨れているのを見て「これは腹膜炎だね、これを治せば胸の方もずっと楽になりますよ」といわれ、御浄霊の話をして下さいました。溺れる者は藁をも掴むとか、誠の籠った小母さんの言葉に元気づけられて、其場で御浄霊を戴きました。今迄寝返りするにさえ息苦しかった私が、小母さんの言う通り右にも左にも何の苦もなく向く事が出来て、今迄にない楽な気持にさせて頂きました。小母さんのお話を聞いている中、今迄私の歩んで来た道が、神様のお道から見れば全く反対の事をしていた事に気がつきました。それからは淋しい病床を訪れてくれる小母さんの姿が毎日待遠しくなりました。三日目には一人で起きて便所へも行ける様になり、毎日頂いてくる薬は服まずにドブへ捨て、注射もしない方が気分がよいからと言って御断りしました。七日目ぐらいからは寝てばかりいるのが退屈になり、床を上げて貰いますと、布団の下になっていた畳が崩れかかっていました。御腹の膨らみがとれて行くに従って食事も急に進み、体に力がついて参りました。囲炉裏端で『明日の医術』を読ませて頂いている中、薬、注射のいけなかった事等身に沁みました。神様は御見捨てなかったのだ、誰が何と言おうと私は神様に縋って何処迄も、丈夫にさして頂こうと強く決心しました。御浄霊頂く裡、変な匂いのする水を口から洗面器一杯位時々吐き、周囲の人も之が薬毒の浄化と聞いて驚いていました。

一月二七日に小母さんに連れられて、どうやら教会迄御参させていただきました時は、全く生れ変ったかの様に思われました。出掛る時は心配そうに送って呉れた父母も、元気で帰って参りますと、何か黙り込んで居りますので聞いてみますと「あまりの元気な姿で、綺麗な着物を着て町へ行くなんて、いよいよ死花が咲いたのではなかろうかと思って、一話して泣いた処だよ、そうならなけりゃいいがね」と父が元気のない声で言うので、思わず吹き出してしまいました。救われた私、信じられない父、思わず嬉し涙が込み上げて参りました。二月一三日入信、 其後丸三カ月下痢の御浄化を頂きまして、本当に大奇蹟により丈夫にならせて戴きました。

知らぬ間に救はれにけり観音の真の御教吾聴きてより

只今はF中教会で御奉仕させて頂いて居ります。御奉仕に上りました当時より御蔭様で太りまして、楽しい毎日を過して居ります。尊き明主様が此世に御出でになりませんでしたら、疾うに私は霊界で姉妹を次々に引寄せて我家を暗黒のドン底へ導いていたかも判りません。大慈大悲の明主様の御救いを頂き、御恵みに唯止めどなく涙が出てくるので御座います。

大前に額く毎に涙しぬ救はれたりし此身思へば

あの地獄生活を思うにつけても、本当に幸福の最上で御座います。世に私と同じような病気で呻吟されている不幸な方々へ、光明への道標ともなればと思って、御報告させて頂きます。

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北海道 T・K

一昨年一〇月なんとなく、 躯がだるく咳も出て痰も非常に多くなり風邪気味なので、医師の診察を受けた所、レントゲン診断の結果、肺がわるいから当分の間絶対安静を言い渡され、やれカルシウムだそれビタミンだと、毎日のように注射や薬を欠かさず用いましたが、病勢は益々悪化するばかりで、喘息も併発して青ざめた身を失望のドン底に喘ぎながら病床に横たえていました。

たまたま近所の方に光明如来様の事を聞かされ、溺れるものは藁でもの例で、 半分疑いながらM教会のK先生の御浄霊を頂きました。

処が約一週間目より気分が非常に軽く、なんとなく元気が出たような心持ちに毎日続けましたが、昨年二月五日に入信さして戴き、その後ずっと光明如来様を礼拝さして頂き、臨時祭にはS先生の有難いお話をその度毎に聞かして頂いています。最近の健康も周囲の人達も驚く程で、ただただ有難い光明如来様のあつき御恵みに感謝致しております。ここに謹んで、明主様に心からなる御礼を申上げる次第であります。

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岐阜県 U・K

私は幼少の時から病弱で、感冒、咽喉カタル、扁桃腺炎、中耳炎等はもとより肺炎、猩紅熱(小学校六年当時)までもわずらい、随分親を泣かせました。幼時の思出といえば、医療を受けたり保養の為の避暑等が殆んどで、全く病気には神経が鋭くなっていて、僅かな病状にも医者だ薬だと騒ぎ、平常時でさえも肝油を始め種々の消化剤栄養剤を欠かした事はありません。それを今顧みますに-もし薬が健康に益あるならば、自分は余程健康になっていただろうし、そうでなくとも平常から要心していたのだから、順次健康にならなければならなかった訳だが-と述懐せざるを得ません。そんな私が昭和一七年(中学二年)の夏には、 突然に出始めた血尿に腎臓結核の診断を下され、手術せぬばならぬ所を、兎も角も薬で治しました。然しその直後より頭痛、倦怠感、微熱、食欲不振、脚の惰気等がするようになり、又々医者通いを余儀なくされ、医師から肺浸潤と宣せられた時には、とうとう自分も不治の病にまでなったのか、俺はもう駄目だという心情に前途を閉されてしまいました。それでも初めの間は誰もが辿るように医者をかえ、新薬を求め、人の勧める療法をあさって快復すべくつくしたのですが少しも効なく、不安の明暮を送るようになり、終にはどうにでもなれという捨鉢的な気持にまでなってしまいました。そのような陰惨な生活を続けていた昭和一九年八月の或日、身内に当るO氏のすすめにより、母が疑半分で入信(当時は浄化療法でしたから受講といっていました)しました。その頃私は、自分の身体が医学ではどうにもならぬのに、母が入信した事を貶して(これまでには、一家の不健康の為もあって種々の信仰や療法を次々行ったにも拘わらず皆良くなくて長続きせず、半年乃至二年位で止めていた為もあったのですが)「物好きに又そんなものを受けたりして、きっと半年位「でやめてしまうだろうに」などと不届きな事を言っていましたが、然し浄霊を受けると、何となく体が爽快になるのには頭を下げざるを得なくなりました。先生にも御浄霊をお願すると「出来るだけ身体を使うように、その方が早く健康になれる」との仰せに、「そんな事をしたら大変だ」と思いましたが、兎に角御浄霊を暫くつづけてお願していました。その間に「先生があのように言われるのは成程本当だな」と考えられるようになり一カ月も続けない間に少々無理な事でも進んで行うようになりました。その頃になって、これこそ本当に健康になる道だという信念が湧くようになり、それ迄の暗雲は拭うように消え去りました。之は医者を頼り、衛生には特に注意していながら、常に病んでいた私には大きな驚喜にも値し、 お話を聞く事が何よりの楽しみになってしまいました。

又母の入信当時、弟は小学三年生の身で小児結核と診られ、入手困難な注射薬を無理に整え、医師に頼んで注射を続けている最中であったのを中止し、浄霊するようになってから半月と経たないうちに、もう飛廻るようになったのには家中おどろきました。其他母は入信日浅くして種々の奇蹟を見せつけられ(之もかきたいのですが、あまり長くなるので省きます)それによって父も入信し、二〇年一月には私も入信さして頂き非常な安心感を得て、一途におすがりして参りました。

以後度々浄化を戴き、その都度健康も増進するという喜ばしい結果となって来ましたが、茲にその浄化の経緯をかかして戴きます。

初め御浄霊を続けていただくようになってから二カ月程は順次楽になり(少々無理な事でも行うようになった事は前記の通りですが)食欲もついて体力が随分快復したと思われる頃初の浄化を頂きました。頭痛と微熱、全身の倦怠に、さては再発したのではなかろうかという不安が起り、先生におたずねしますと「それが浄化なのだから心配しなくともよい」と聞かされ有難いとも思い、いやだなとも考え何ともいいようのない気持で、御浄霊をつづけてお願していました。不安なようで安心なちょっと説明のつかない気持のまま、浄化は随分長く続きました。然しすっかり終って暫く経った時には、頭を始め全身が爽やかになり食欲も進んで、結核などをやった者とは思えぬ体力にまでなっていました。此嬉しさは一人でに口に出て、学校では無口で評判だった私が、友人に語り聞かせた程で、学校の帰路を不調法な口調で得意気に語った事を今も忘れません。

そして日中は学校農場(学時の学徒動員中を、 弱体者のみ学校の農場で働いていました)に一人前働き夜はおそくまで、当時の明主様の医術に関する御著述を読み耽ったものでした。此時初めて先生の言を疑った事を申訳なく思うと共に、浄化を感謝する気持が湧いて来ました。

その後も頭痛、発熱、咳嗽、下痢等種々の浄化を頂きましたが、前の時は随分長く続き苦痛も激しかったものが、何回か浄化している間に順次期間は短かくなり、楽に多量の毒素が、痰、鼻汁、下痢、赤く色づいた尿、汗等になって排泄出来るようになって来ました。そしてその浄化のすむ度毎に必ずそれ以前にも増した楽な身体になっていますので、次第に浄化を待つようにもなり、遂にわざと浄化するように体を使い、寝不足までするようになりました。

このようになって「病気とは浄化作用であって、体内の毒素の排除される作業であり、それによって浄化発生前よりも健康になる。故に病気は神の恩恵である」と先生方より聞かされていた事がはっきりと白分の体を以て知る事が出来ました。

このような御救いに与り、初めは病人に手を出す事に臆病であった私も、人を救いの道に導き、悩める人々が救われ、喜ばれる事を以て自分の喜びとするようになり、それが神様に対する御奉公である事を知り、一人でも多くこの苦悩の現世から救われるよう力を尽さねばならぬという心情に燃え、今日に及びました。

近頃にも感冒の浄化を頂き、一週間程頭痛発熱がつづきましたが、(勿論一日も寝る事なく平常通り働きもすれば、夜更かしもし、入浴もしました)浄化発生より三日目位から五日間程に亘り、多量の鼻汁と喀痰を出し、すっかり良くなりました。それ以来とても頭が軽く、爽快な気分で御用に勤しんでいます。

明主様は『栄光』新聞九〇号にも「結核なんか何でもない」 と題して、 風邪こそ体の大掃除であり、 万病を免る因だ-と御発表になられましたが、私は自分の体を通じて、一点の疑い所か絶対の真理である事を信じ、之を特に浄化を恐れている方や、本教を疑っておられる方々にお伝えします。

風邪を引かないように特に注意しながらも、常に不健康であった過去や、肺浸潤で悩みつづけていた当時を顧みます時、今日の幸を一入有難く感ずると共に、ただただ感謝の外ありません。

斯かる上は、尚いっそう人類救済の御聖業の御手伝いに、神の下僕としてひたすら進ませて頂きたい念願で一ぱいです。

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岐阜県 M・K

私の家は二五年前より母を初め弟妹が胸の病で次々と亡くなり、 所謂「肺病の筋」といわれていました。文化の進歩、医学の進歩をよそに、私共の家庭には冷たく病魔は次々と私の懸命の看護のかいもなく、弟妹を奪い去ってしまい、而もその余波は主人にまでおそいかかったのです。

昭和一九年冬、主人がフトした風邪がもとで夜中に急に苦しみ出し、高熱で一時は肺炎かと驚き、直ちに医師の診断を受けました処「肺浸潤で絶対安静が必要です」と宣告されたのでした。

その時の私の驚き落胆を御想像下さい。全く暗黒この渦中におち込む思いでした。現在家には年老いた父と未だ幼い子供がいます。人々の冷い目を受けねばならぬかと思えば居ても立ってもおられぬが、気をとり直しきっと癒してみせると、少しでも良い薬を、注射をと、お金にかまわず医師の意のままに肉や卵、魚、牛乳と栄養摂取に懸命の努力を致しました。

その頃戦争の最も激しい時で、全くそれ等を整えるのは並大抵ではありませんでした。

又感染してはとの恐れから大事な子供達が父ちゃんと恋しがるのを、癒るまではと絶対に主人の室から遠ざけ、全く完璧の看護を致しましたが、経過は捗々しくなく、だんだんと衰弱し、遂に一年後の二〇年一〇月頃には「もう長くなかろう」との医師の言葉でした。

其頃には胃腸障害と便秘と胸部疼痛を伴い、もはや医薬による手当の術もなく、その苦しむ様は側でみていても、筆舌に現わし得ない程で、茫然として私はもう神仏に御加護を祈る外なく「どうか神様、主人を楽にしてやって下さい」と夢中で気も転倒するばかりに祈りつづけました。

丁度その時見舞に来られた主人の弟さんが、ちょっと変った療法がM町で流行しているが一度お願してみたらとの話に、私は遂に意を決し、一〇月一五日M町G教会へお願いに参りました処、いろいろお話下され「あなたが入信なされ御浄霊をなさる事が大事ですよ」と申されたので、早速入信さしていただき、先生の御出張もお願し、帰宅後先生のお話通り浄霊をさして頂きました処、ほんとうに苦しみが和らぎ、病人が話までするようになりました。

翌日先生に来て頂き浄霊下さるや、急に便通もあり、大変痰切れもよくなり「大丈夫救われます。一生

懸命おすがりしなさい」との先生の御言葉に、ほんとうに夜となく昼となく暇ある度に夢中で浄霊をつづけ、先生にも一カ月ほど隔日に御来駕を願いました処、食欲もすすみ三度の食事も要求するようになり、 血色も見ちがえる程良くなり、呼吸の困難もなくなり、 肥えて来て、 今迄死の床に呻吟していた病人と思われなくなりました。

その後光明如来様を御奉斎さして頂きました。

その時先生が「御主人は未だ本当の体ではありませんから、気をゆるさず浄霊なさい。光明如来様のお光に先祖も喜んで協力して呉れ浄めて下さるから」といわれましたが、丁度御奉斎一週間後、ほんとうに浄化が来て高熱でうわ言を言うようになり、食欲は全く無くなり、早速会長先生にも御浄霊をお願いし、一生懸命家中で浄霊致しましたが、一進一退で段々衰弱し苦しみは増すばかりで、もう今度は駄目かと幾度思ったかしれませんでした。そこであつかましい事でしたが、電報で明主様に御守護お願致しますや、急に楽にしていただき、生命を救って頂きました。

此一週間ばかり、主人は夢うつつで、喀血、喀痰が一升ほど出た程で、ほんとうに有難うございました。

罪多き私共に度重なる浄化を其後も度々いただき、その度毎に偉大なる御守護を頂き、今ではそんな事があったかと思うような体にして頂きました。

尚「結核は絶対に感染しない」「浄霊によれば必ず治る」との確信も得、この次は奥さんだ子供だと近所の人達から、噂され冷い眼で見られて、世を呪い人を怨んで、全く反逆者の家の如く暗く陰気だった私達の生活も、全く夜があけた如く光に満ちた喜びの生活が始まりました。

今では近所の皆さん、 親戚の方々も入信をおすすめし、今年高農専を卒業した子供も、一生懸命に先生の御指導の下に、微力乍らもお手伝さしていただいております。

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佐賀県 S・M

昭和一〇年一人の兄を訪ねて、北海道の片偶から上京し、昭和一五年入信さして頂きました当時を、私は今九州の地でしみじみと追憶しています。 あの時の感激、 あの時の感謝、それが今尚薄れる事なく残っているのは、全く日々の大御恵の賜でございます。

人の心の常として、日々に疎くなるのが世の常なのでございましょう……然し御光の中にある私は、来る日も過ぐる日も、奇蹟の大御恵みをこの眼で見……此心に映さして戴いて、一〇年間起居して参ったのであります。

御守護で御座います。忘れる事も出来ないようにして下さったのでございます。明主様、有難うございます。その頃の私は、結核の烙印を捺されていました。当時の兄も同様に「左肺上葉結核」の患者であり、血沈五〇、喀血も時折あるという状態からやや小康を得ておったような状態でありました。加えて経済的にも逼迫のため現代医学の徹底した治療も出来なかった事も自棄的生活の道を辿る原因ともなり、日毎夜毎に酒に浸り、会社の出勤も全く出鱈目となる始末で、すべては絶望感のみの内面的ななやみは、きっと一般の結核患者の辿る心境のそれと同様でありましょう。其間僅かに自分を慰める為、売薬を漁り有田ドラッグや新聞広告の新薬、 肝油、 ニンニク療法、 灸点乾布摩擦等々然し依然として恐怖に怯える明暮はと絶えようとしませんでした。肩の凝りは日増しに激しく、オーバーを着て二、三町も歩く事は出来ず時々脱いでは着て脱いでは着て歩くという状態となり、それに胃は御茶椀位の大きさに膨脹し、常時吐気を催す事になったのであります。此時既に兄は入信さして戴いており、私が段々自暴自棄的になってゆく姿に心をいため入信をすすめますので、私も何心なく入信したのでございます。然し段々日数を経るに従い、自分の体に就ての自信も生まれ、このお道の深さも高さも次第に判らせて頂くにつれて感謝感激の度合も段々強さを加えて参りました。今にして思えば、当時の経済的逼迫も神の御守護であったと痛感致します。もしも私が経済に恵まれ、現代医術の方途を辿ったとしたら……一般結核患者が今日まで辿り着いた結果に、私も逢着しておった事でございましょう。此喜びの幾年の後、兄は此お道に専心御使い賜わる事となり、以来幾千の人々の御救い戴く様を現実に此眼で見せて戴き、私も終に昭和二一年より此御道に、身も魂もと捧げ奉らして頂く光栄に浴し、今日に到ったのでございます。日は誠に浅いものですが、今日迄私が救わせて戴いた人々の数も、驚異的なものでございます。何心なく入信し、御神命のまにまに御取次させて戴き、それを通してお救い戴く人々の姿に接する毎に、私の最初の感激は今日も新たに又明日も新しくなりまして、今日迄参ったのであります。

今日、 病に悩める人々の世相を顧みる時、 発病時にはさしたる事もなく、日を追い月を重ねるに従い次第に思わしくなく、一時は小康を得たようにみえても、数日数カ月ならずして以前よりも悪化して、遂には結核患者が皆一様に到る終結に、私は……此御救いの一時も早く達する事を、人間として等しく思うあせりの一途を辿る今日でございます。

病は医学が治すもの否治すべきものとの規則的な先入感に捉われず、私共は事実を此目で見る事であります。治癒した者は幾人見たか、現在一時小康を得ている人々が、数カ月後或は一、二年後にはどうなって行くか、私は現実に之等の人々の姿を見て参ったのであります。

ひるがえって今日の私は、絶望より小康へ、小康より発病以前に勝る健康体に復元し以来一〇年、今日も尚一歩一歩とより完全に近くなる肉体を迎えつつあるのであります。今日の私の肉体は更生と申すよりも、新しく造られた肉体の感がございます。

万物を生成化育し給う神力によってこそ、この今日の私の肉体も現存しているのでございます。

末筆ながら、重ねて厚く御礼申上げさせて戴きます。明主様、有難うございました。

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岐阜県 K・R

御讃歌罪深き此身も尤め給はずて大いなる幸豊に恵まふ

思えばどこ迄罪深きかもしれぬ此身を、明主様の大御恵を頂きました数多い御利益の中、私の持病であった十数年来の胸部疾患を簡単に治して頂きました事を御報告御礼申上げます。

私は昭和一一年二歳の夏、気管支炎で一カ月入院しましてより、夏になると毎年悪くなるのでございました。昭和一九年七月、応召中右肺浸潤で入院四カ月にして治癒退院しましたが、一カ月して再発入院三カ月にして不治の理由で退院、召集解除となりました。その後は自宅で静養して小康を得ていました処、昭和二四年一〇月もの凄く発熱し苦しみましたが、今度は思うように楽になりませんでした。

その中医師から毎食事消毒、家族九人の予防注射、気胸療法、ストレブトマイシンの注射等の処置を言い渡され、世にも恐ろしい結核の烙印を捺され、家族一同呆然として悲歎に暮れていた時でございました。

忘れも致しません否一生忘れる事は出来ません。一一月二〇日折柄の秋雨に寒い夕方でした。妹の案内で天使G先生の御出でを頂いたのでございます。そうしてその晩と翌朝と二度までも御慈悲深い先生の御浄霊を頂き、その都度しつっこくつづいていた熱も下り、気分の爽快に、モウじっとしておれず、直ちに飛び起き床上げしてしまいました。

二二日S教会へ妹に付添われ参拝さして頂き、妹も共に教修を戴き、有難い御守様を拝受致しました。その後は自宅で妹に、朝夕二回ずつ御浄霊を受けながら、折柄の農繁期子守役を引受け、時には背負う等、今迄は重い物は成可持たぬようにしていた私には到底思いもよらぬ事が平気で出来るようになりました。心身共に疲れ果て、家族一同暗澹たる気持でいた時が嘘のようでした。

それから二週間後一二月五日に、熱海の明主様の御膝元へ御礼詣りさせて頂きました。その道中もお蔭様で非常に楽で、明主様の御面会を頂き、御慈悲溢るる御尊顔を拝し、歓喜のうちに心身共に軽々と無事帰れました。

其後一年有半の今日まで益々健康に恵まれ、百姓仕事もとても楽で、自然能率も上り、非常に愉快な毎日を送らせて頂いています。その上勿体なくも、光明如来様を奉斎させて頂き、御守護のおかげで家族一同歓喜にむせびつつ、及ばずながら御用に励まして頂いています。

右御礼御報告申上げると共に、胸部疾患になやむ世の多くの方々が、正しき神の御救いにあずかられる日の一日も早からん事をお祈りさせて頂きます。明主様、有難うございました。

(結核の革命的療法 昭和二十六年八月十五日)