(付録)おかげ話100例 41~50

愛知県 H・T

昭和二四年八月、猛烈なる頭痛に耐えきれず、国立愛知療養所の門をたたいたのでありますが、病名は不明。ただ背にラッセルが聴えると言われるのみ、あまり疲労を感ずるので九月四日再び検診を受け、レントゲンをとってみた結果、我々青年期に多い胸の病に犯されていたのであります。「肺浸潤肺浸潤」と医師の言葉を幾度も幾度も繰返してみました。そして暗くなってゆく気持をどうする事も出来ず、唯苦しみなやみました。親も全快は半ばあきらめていたようでした。

その後注射をうち肝油をのみ蝮の粉末と人の良いと言われる事をし、安静加療に専念したのであります。そして二カ月余りは過ぎました。

そして忘れもしない一二月二五日N先生のすすめにより浄霊を受けてみたのです。なんと不思議な事でしょう。体がとても楽なのです。医師にみせた所「大分よくなっている」と言って首をかたむけ驚いていました。唯一度の浄霊でこんなに良くなるとは夢としか思われません。「夢ではない、 夢ではない」と、 嬉しさのあまり、 N先生宅にかけつけました。

これ程はっきりした事実を見せつけられてはもう疑う余地はありません。教会のG先生に懇々と話していただき御浄霊を受けると益々調子がよいのです。一二月一七日より三日間教修を受け、 おそるおそるお守を押し戴いたのであります。

其からは勇気百倍、奮然とたち上り「一人でも多く世の人を救う事だ、そうだ自分の進む道はこれだ」と誓ったのであります。今では友達に遇っても「そんなに良い顔をして、どこが悪かったのだ」と言われるほど、あまり早く快くなったので驚かぬ者はありません。

ああ世の人よ、此偉大な御力に何を言う余地があるか、「明主様の御業をもう一歩深く検討されよ」と私は叫びます。中途半端で人の口に合せて、確信あるかの如く論ずる事はおかしな話です。私はこの幸福の道をめざして突進さして頂きます。

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広島県 M・I

其頃を顧みすれば恐ろしも闇路杖なく彷ひし吾

思えば長年の胸部疾患に呻吟し、 はては喉頭結核に罹り、あまつさえ声さえも出なくなった私が、思いがけない奇蹟によって病苦より救われ、声まで以前と同様になり、日々感謝の生活を送るようにならして頂きました一端を、 御礼旁々御報告させて頂きます。

忘れも致しません。昭和二一年の秋左右の肋膜を病み一時は良くなっていましたが、二二年秋少しの無理が因で発熱し胸痛を感ずるようになりましたので、早速医師の診断を受けた処、肺結核と宣告され眼前が急に真暗になり、一時は茫然として食事も喉を通らない有様で御座いました。

然し生きたいという本能の執着は捨てられず、何とかしてもう一度良くなりたいと思い闘病生活へ一心になり、最初は毎日通院しつつその間種々の結核療養書をあさり、あれやこれやと療法も試みましたが、目立った効果は更になく、その中出血するようになり、病勢は悪化の一路を辿ったのであります。処が今度は喉に痛痒があり、食事の度毎に非常な苦痛を感じて参りましたが、遂に喉頭結核と診断され声も次第に出なくなりました。その上食欲は減退して衰弱が激しく便秘が続き、灌腸しなければ出ないという状態になってしまいました。その頃から妻は、「苦しい時の神頼み」と申しましょうか、彼方此方と人の噂に従い神信心を始めたのですが、おかげの現われる間もなく、 二四年正月には元旦早々大喀血を起し、このまま不帰の旅へ旅立つのではないかと思うような状態で御座いました。それよりは、とみに肉体の衰弱はひどくなり、喀血は回を重ね、身体をちょっと動かしても極度の苦痛があり、まさに「空しく生ける屍」の言葉通りで、一年前の闘病精神はくじけ果て、医薬にも絶望し、神仏の加護も断たれ、今はただ結核菌にむしばまれつつ、最後の日の到来を待つより外に方法はなく、泣くにも泣けない気持で御座いました。

処が、神様のお導きとでも申しましょうか、全然予期しない処から知人の紹介で、 Y集会所からT様がお見えになって「治るとは言えませんが、楽にはなられるでしょう」と申され、早速御浄霊をして下さいました。処が御浄霊後は楽になる処か反って呼吸が苦しくなり、胸痛が激しくなってまいりましたので、果して良くなるのだろうかと疑い、且つ心配しましたが、考えてみますとただ手を振っただけで急に呼吸が苦しくなり、胸痛が増すという変化が表われるだけの力があるなら、もしかすると治していただけるかも知れないと思い、どうせ病気もここまで来ているのであるからという考えも手伝って、毎日御浄霊をして頂く事にお願致しました。一日、二日と休みなく御浄霊を頂いている中に、いろいろと不思議な事が現われ、或時は胸中に薄荷でも入れたように大変涼しく気持の良い事もございました。又或時は呼吸が逼迫し、咳、吐痰が激しい時もありました。その度に家内の者は一喜一憂し、或時などは非常に心配した事もありましたが、私はすべて御浄化なのだ。体内の汚穢が排泄されているのだと思い、何かしら有難さを覚え「自分はこれで救っていただけるのだ」と、ひたすらに神様におすがりさせて頂きました。

一〇日目位から少しずつ声が出るようになり、一五日目には完全に声が出るようになりました。声を失って一年間、用事の度毎に笛を鳴らして合図をし、漸く用を達していた私でしたのにと、 自然にこみ上げて来る感謝感激の涙! 私如き者にまでかくも偉大なる御救いの御手を延べさせ給う大慈大悲の御心を思えば、ただ有難くて何とも御礼の言葉もございませんでした。

二月六日早速妻がY集会所にて御教修を頂き、御守を頂かしていただきました。その日から早速私を浄霊してくれる一方「一人でも多く御浄霊させて頂き、神様の御手伝をさせていただく事によって尚一そう早く健康な幸福者になれるのですよ」と申されました先生のお言葉をそのままに、近所の方の御浄霊にも廻らせて頂いていました。 闘病一年間、 衰弱しきって動けなかった身体が、曲りなりにも庭へ出られるようにならせて頂き、二月二六日には二里余の山道をリヤカーに揺られて集会所へ参り、三日間の御教修を無事にすませ入信さして頂きました。

それからは御浄化の都度楽になり、近所の方の御浄霊もさせて頂き、疲れて動けなくなると妻に御浄霊を頼み、又自由に動けるようになると、御近所の方々の御浄霊にと、こうした毎日を続けている中に何時しか私の身体は日一日と健康にならして頂いたのでございます。

過ぎし日の事を思いますと、まるで悪夢よりさめたような気持で御座います。

明主様、本当に有難うございました。

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大分県 E・F

幼い時から至って病弱な私で御座いましたが、今年四月頃より何だか少し衰弱したように思われるので医師にみて頂きますと、有名な某病院に行って診察して頂けとの事に、あわててみて頂きますと、驚くべき重体病状を言渡され、一緒に行った父も呆然としてしまいました。でも父にもまして私は一瞬にして絶望の淵に突落された如く生きる希望を失ってしまいました。後から考えますと、人間は感情の動物とは申しながら、正に言葉の力の偉大さには驚かされます。「肩を切開し、ピンポン球のようなものを空洞に入れる手術より外にすべなし」と宣告され、忽ちにして重態に陥いってしまいました。それまで自分の身体の調子を考えつつ、無理のないようにと家事の手伝いをしていた私は、それ以後病の床にどっと倒れてしまい、毎日毎日脈をしらべ、三、四回の検温に熱の上下を、悲しく見つめるばかりでした。一人ッ子の私を頼りに生きる父母は、ない元気を無理に出し、枕辺に私をはげまして下さいますが、その心中は如何ばかりだった事でしょう。父母の心中を察しつつ病の床に横たわりながら、自分の亡き後に起るいろいろな悲しき想像に、細かく小かな神経は益々尖ってゆくのです。夜は眠れず、明くれば考える日々を過すうち、フト余りにも自分の了見の狭さに気づき「そうだ、病は気からという事もあるではないか、治せぬ筈はない」と思い立ったのです。それ以後は生長の家の雑誌が良いと聞いて熟読していましたが、此本は健康人には精神修養の価値を有するが、病と闘う者にはただ理想でしかないように思われてきたのです。 処がある嵐の日でした。 すぐ近所の脳膜炎のお子さんをお持ちでなやんでいられる方が、私の家にお出で下さってお話下さるには、あれほど何を食べさせても全部吐いてしまっていた子供が、今日フトした事で人より聞いて、或所へ参りましたら、すっかり吐気をもよおさなくなり、大そう気嫌が好いとの事、そして私にも御詣りしてはとすすめて下さるのです。

私は此話を聞くと、未だ何とも分らぬうちに何物かに引かれるように、むしょうにお詣りしたくてならないのです。だがとうていお参りも叶いませんので、母に行ってもらってお願いしますと、 H先生は快く御承諾下さいまして、 すぐお出で下さいました。そして初めて御浄霊を頂いたのでした。先生は御浄霊をして下さりつつ「こんなに手を振るだけでは皆信ぜず、頭から笑うんですよ」と仰有いましたが、私は一寸もおかしくなく、何か真剣味を感じたものでした。第一回の御浄霊で、次の日は何とはなしに体が軽く、気分がよくて不思議に思って居ました。

第二回目の御浄霊を頂くと、不思議や三カ月も停止していた月経があったのにはすっかり驚かされました。そして何だか体が軽くなり、それ以後御浄霊毎に血色が良くなり、ズンズン元気づいて参りました。父母は薬を絶っての療法に不安を感じていたようでしたが、御親切にお出で下さる先生方の真心こもる御浄霊に、日々元気になって行くわが子の姿に、今はただ喜びと感謝あるのみでございます。

七月二七日御守を戴き、何かにつけての御守護にただ有難さで一杯です。

入院寸前にして救われた私は、あの時入院していたらどの様になっていた事でしょう。今思ってもゾッと致します。

心身共にお救い頂きました私は微力ながら地上天国建設につくさせていただく覚悟でございます。

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兵庫県 U・A

昭和二四年四月、両下肢に数カ所、拇指大位の塊りが出来、押すと痛みを感じますが、他には何にも障りもないまま放っておきました。すると右下肢の一カ所が紅く大きく腫れ上り、その部分に熱をもっていますので、付近の医師に診察してもらうと「丹毒になるかも知れぬ」といってペニシリンを二度注射して頂きましたが何の変化もありませんでした。家の者も「何か判らぬ」という事は良くないものに違いないと申し自分でも不安になって、 大阪の皮膚科の診察を受けた所「バザン氏硬結性紅斑」という結核性の腫物である事が判りました。

それと同時に胸部にも異常があるかもしれませんという事で、レントゲンを撮ると左肺浸潤が出ていました。それで左肺に気胸をし、下肢にはレントゲン照射をしながら治療をつづけていましたが、別段苦しくもないまま勤めていた所、下肢はだんだん腫れがひどくなり、塊は大きくなり、赤かった一カ所がとうとう崩れ潰瘍となりました。

七月になって足は益々腫れ、ふくらはぎも、くるぶしも同じ太さになり、潰瘍は大きくなり、且つ塗り薬にまけてぐるりの皮は水ぶくれになり、痒く、とてもひどくなってしまいました。阪大の医師も、これでは伊丹から大阪まで来る事が既にいけないから、足を使わぬよう高く、 ふとんの上にでもあげて寝ているように、治療は付近の先生にしてもらうようにとの事でしたので、近所の病院でレントゲンがない為紫外線をかけて頂き、気胸もうけていましたが、八、九月と思いきって二カ月休ましてもらい、ずっと寝ていました。そのうち九月終り頃やっと潰瘍はふさぎましたが、他の塊りと腫れは一向によくなりません。

一〇月になってから気胸が原因で湿性肋膜炎になり、熱は三十八、九度を上下し、とうとう少しも動けなくなってしまいました。食欲は七月頃から減っていましたが、寝ついてからは少しも食欲がなく、衰弱をして見るかげもなくやせてしまいました。母も死ぬのではないかとひどく心配して一生懸命看護をしてくれましたので、翌昭和二五年三月頃ようやく床の上に起き上るようになりました。

その頃今度は母が弱り、中風のようになり、身体がきかなくなりました。私自身まだ一向食欲も出ませんし、一旦治ったかにみえた下肢の塊りが、足も使わぬのに又々数カ所出て参りましたし、何かにつけて、真暗な思いが致しました。医師はマイシンを打ってみたらと言われますが、とてもそんな余裕もなく、母が寝ている為、しっかりせぬ自分が何から何迄していては、今度はどんな結核性疾患を起すやらと、不安と焦燥とでたまらない心地でした。

丁度この頃の事でした。御近所の奥様が、このお道の先生がみえられるから来てみたらと言われ、初めてK先生にお目にかかったのでした。いろいろお話を伺いましたが、其時は全然信じられませんでしたが、何とかして治りたい、母より先に死ぬような事があってはと、藁をつかむ思いで一杯でしたので、兎に角御浄霊を受ける気になりました。

K先生に御浄霊して頂いた夜でした。足の拇指から電気が走るようなピリビリした感じがして二度も目がさめましたので、何かあるという事は気がつきました。

それからはO先生がずっと御浄霊して下さいましたが、半信半疑でいる内に病気は人間のもつ自然の浄化力の表われであり、神の恩恵である事をだんだん覚らして頂き、治ってから入信したのではおそいと、自分で判然と感じ、信ずるからにはと、医師と医薬の絶対信の観念から一八〇度転換をして五月一七日教修をお受けしました。それよりはひたすらに神様を信仰しおすがりして参りました。

御浄霊を頂き初めてから一〇日程して、目立って食欲も出、元気も出て参りました。

それに入信後間のない私に迄、神様の御力を授け賜わり、近所の方で不眠になやむ人も、一度でよく寝られるようになられたり、又母を浄霊しますと霊動をし、それが狐霊や祖霊である事も判らせて頂きました。それに中風も追々軽快に、おサジからお箸も持てるようになり、もつれた言葉もだんだんはっきりさして頂き、便所にもゆけるようになりました。

それに私も七月になって下肢の腫れは去り、塊りは消えてしまって、足を使っていながら此ようになり得ました事、ただただおどろくばかりの御恩恵を賜わり、何と神様に感謝申上げてよろしいやら言葉も分りません。

尚八月には肺浸潤も非常に良くなっている事が、勤先へ提出する厳重な診断でハッキリさして頂き、毎日毎日感謝で一杯でした。

又経済的にもおかげを頂きまして、一〇月には大光明如来様をお迎え申上げ、其間筆舌に尽せぬ御恩恵を賜わりまして、神様の偉大なる御力をまざまざわからせて頂きました。

明主様、まことに有難うございました。厚くあつく御礼申上げます。

尚又一二月二一日より再浄化頂き、毎日発熱三十八、九度に昇り、激しい咳と沢山の痰が出て、夜はその為に寝れず、食欲は少しもなくなり、見る見る衰弱しましたが、O先生の親身も及ばぬ御浄霊をうけ、この二六年の元旦には床を離れる事が出来ました。家族の者は又ブリ返すのではないか、こんどは死ぬかと心配したようですが、自分では神様にひたすらおすがりしており、身も魂も神様のものと有難く、再浄化頂きました事が尚更有難く、心から御礼申上げました。

果して一月一〇日頃から俄然食欲が出て、自分でもおどろくほど何でも美味しく見る見る肥りました。

病気以前は体重一三貫位だったのが、最近では一四貫五〇〇を越え、何をしても疲れず、毎年三月頃に出てくる下肢の塊も腫れも、本年は何の事もなく、 しんからよくなった事を知り得まして、 毎日毎日愉快に有難く、 勿体なく過させて頂いています。

神様のこの尊い御守護に対し、一人でも多くの方々を御救い申上げ、御高恩の万分の一にでも御報いし地上天国御建設に少しでも御協力さして頂きたいと念願しています。

明主様、有難うございました。

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福岡県 S・T

物情騒然たる昭和二六年のこの春、私の長男H(一七歳)は、福岡県T高等学校へ入学する事となりました。常日頃さしたる勉強の様子もなく入試困難というよりは、当然入学不能とさえ思っていた処、奇蹟的にも入学の喜びに胸を張って家を出て行く我子の姿を見る時に、私の想いは一三年前の追憶に耽けるのでございます。

長男は昭和一〇年七月二三日に出生間もなく排便の状態を医師に見られたのが始まりで、消化不良の烙印を捺され、人工栄養、栄養注射等々、手を尽す毎に状態は悪化し、当時私は三五円也の月給生活者として当然落ちて行く経済逼迫に、医療の手当も段々遠くなり、手を拱いて唯子供の死の迫るを待つ状態となったのであります。其間肺炎を惹起し、吸入器を買ってかけるようにとの医師の言葉にも、それを購う金すらなく、胸のはり裂けるような思いに家に居たたまれず、そっと抜け出で、放心の姿を町はずれの小川の堤に歩いた事も幾度かありました。

その間に医師を替えてみたらとの人の言葉に誘われて今迄の小児科専門医をやめて、産婦人科専門医へ転じたのです。処がその医師のやり方は、以前の小児科医とは全然反対で、総て放任主義で、その言う事は「私の家の子供なんかは腐りかかったバナナでも少しずつやるようにしている。そのうちに物にあたらなくなる。乞食の子を御覧よ、私なんか風邪を引いて熱のある時には、必ず風呂に入るようにしている」と言うのです。私はびっくりしましたが、もう所詮この子の生命はないものだとの観念から、私も放任主義をとったのです。

処が良くなってくる様子はないが、それかといって死ぬ様子もないのです。

此様な状態で生れた時は丸々肥っていた優良乳児も今は見るかげもない姿となりながら、四歳を過ぎた頃変調を来たし、当時東京でも有名な早期診断の大家ともいわれる某博士の診察を受けたのです(私もその頃はまだ、博士の診察料位は、一、二度ならばどうやら支払えるような状態にありました)。処が某博士は「これは小児結核です。而もかなり進んでいる。まあ遠慮なくいうなら、後二年位しかもたないでしょう」といい、私は又も大鉄槌を加えられたのです。今となっては為すべき方法もない。

どんな事をしようとも後二年……此時……ああこの時!御光に接したので御座います。わがまま一杯に育てたわが子、時には親も腹立たしくなる位のわがままの子を……

明主様はいつも慈愛の御顔をもって御浄霊下されたのでございます。 親としては唯々感謝、 感謝の明暮がつづきました。

それ以来、或時は眉をひそめる程の大浄化を、幾度か戴いて参ったのでございます。此間、次男K(当年一四歳)は一三回に亘る疫痢の状態、又或時は絶望的の脳膜炎の状態等々一大浄化も御救い賜わり、今日に至ったので御座います。現在私は五児の親となっていますが、各々の子供がそれぞれ奇蹟の御救いの中に、今日では益々元気で、日々を送らせて頂いている次第で御座います。

私は声を大にして、世の子を持つ親としての皆様に御告げ申したいのでございます。六歳を限りとして、此世に無いといわれた私のこの子が、今日あるこの姿を御覧下さいませ。

尚此子は現在バレーボールの選手にさえなり、背丈も親よりすでに越えて五尺三寸、足も一〇文半を越えようとさえしています。此事実をどうぞ御覧頂きたいと、常々希望致しております。

奇蹟の生命、奇蹟の発育、次いで奇蹟の入学……明主様誠に有難うございます。何卒今後とも私共親子等を、地上天国御建設の御聖業の御一端にお使い賜わりますよう伏して御願申上げます。

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兵庫県 N・N

拙き文ではございますが、ここに再生の喜びを御報告さして頂き、厚く御礼申上げます。昭和一四年の秋、身体に異常な倦怠を覚え、医師より肺結核と診断され、それより私の長い療養生活が始まったのでございます。

初めはずい分医薬にも親しみましたがいろいろ療養書を漁っているうちに、結核に薬はない事を悟り、無薬主義で自然良能力を発揮する国島療法を実行しましたら少し肥えて参りました。然し毒素の多い為か今度は腸が悪くなったので中止しました。

その頃知人より相当医学が良いという事を教えられ、その説により野菜食をとって、肝臓、腎臓の復活に重きをおいて、その温冷法を行ってみますと、元気が出て、少しずつ起きられるようにもなりましたが、一九年の秋、冷えた為か突然ひどい腹痛を起し、右横腹に卵大のしこりが出来て寝返りも出来ない程になりました。この時医師は家人に今年中の命だと告げたようでございます。

尚も相当医学の療法を続けていますと痛みも止り、しこりも小さくなりましたが、今度は下痢をするようになりました。身体はだんだんやせて文字通り骨と皮になってしまって、起き上る事が出来なくなりました。

こうして病状は一進一退を続けながら、次第に衰弱して行きましたが不思議と生かされていました。

こうなれば再起はとてもおぼつかないとあきらめて、後はただ神様にお委せする境地でいました処、はからずも昨年七月、救世教に入信していられる近隣のM様宅へ神戸より先生が見えられ、すすめられるままに来て頂き、初めて御浄霊を受け御話をお伺いして何の躊躇もなく家族とも入信さしていただき御屏風観音様をお祭致しました。さし延べられた救いの手に一心におすがり致しました。

毎日三回ずつの御浄霊により食は進み次第に肥えて来て、三カ月程で戸外に出られるようになりました。

幾度ぶりに大地に立って太陽を拝む事の出来た事の感激は、終生忘れる事の出来ないものでございます。

御守護を戴き、あまり急激な浄化も起らず日一日と体力を増し、見るかげもなく痩せおとろえた身体も、今では見違えるほどの元気にならせて頂きました。

一〇年の長い病床生活をかえりみて、感慨無量のものがございます。

明主様の御霊徳による事は申すまでもありませんが、諸先生始め皆様の誠を戴きまして、今日あるを得ました御恩にはただ感謝あるのみで御座います。

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愛知県 N・Y

あの山この山と、鶯の音のひびいてくるのどかな小春日和の頃、 病床に泣き暮した過ぎし日を想い起しては、 救われしこの身の有難さにただただ感泣している私でございます。其頃を顧みすれば恐ろしも闇路杖なく彷ひし吾の御讃歌そのまま、思えば長い苦難の年月を、よくぞ暮して来たものだとしみじみ昔が偲ばれます。

顧みれば昭和二三年七月、母の病に昼夜の別なく看護をつづけていた私が、母の恢復するにつれ、異様な疲労を感じ、午後になれば微熱を発するようになりました。それ迄唯物医学を信ずる私は、もはや一種の恐怖心をもち保健所の診察を受けた処、レントゲン写真の結果、ほんの少し胸に曇りがあるようだから絶対安静をするように申されました。ああその一言、もしやと意識しながらも余りにひどい心の打撃に目の前は真暗になって了いました。

その日より一切の栄養剤からお灸、あの注射、この薬と、出来得る限りの養生を続けながら、三カ月、半年と、次第に苦痛は増すばかりでございました。

ついにどうした訳か一日に何十回となく上半身火炎の中へ飛込んだような暑さを感じ、こうした身体の苦しみの増すにつれ、底知れぬ淵に沈んでゆく自分の心をどうする術もありませんでした。

お医者様といえば「とうに治っているんだが」-と何時も同じお言葉、然し治っていて何故こんなに苦しい筈がありましょう。とうとう頼みに思っていた医師への信頼感は失せて、果しない佗しさにおそわれて了いました。

若しやいつまでも?と思った時の私の心、病む身が悲しく寂しく、涙の止まるひまがございません。

言い知れぬ孤独寂寞の中に、あてもなく神仏に一心にお祈り致しておりました。ああ、その時の心境、もう一度どうしても元気になりたい、今迄何一つお役に立つ事もせずしてどうして空しく死んでゆけようか、ただ一度ただ一度元気な身体になり、心の美しい人間になって、苦労かける母や姉の為に、又苦しんで居られる気の毒な人々の為に、如何なる事でもして少しでもお役に立ちたい、きっと元気にならなくては、この世に生れた甲斐がないと、来る日も来る日も一心に思いつめては、ままならぬ身体に枕をぬらしていました。

その中に願がかなって、神は未だ見捨て給わず、慈愛の御手は差のばされました。同村で救世教信徒のSさん、隣村のお友達M先生から温かい愛のこもったお話を承わり、偉大なる光明如来様の御力に驚歎し、初めは疑いをもちましたが、一切の薬剤をすてて、御浄霊をお受けするようになりました。

それから二月、三月と、御親切にお世話下さり、次第に心の暗雲晴れて感謝感激に満ち溢れ、 身体は日々快方に向って参りました。

丁度九月下旬Kさんの御家に行かせて頂き、光明如来様の御前に頭を下げさして頂いた時の表現出来ない嬉しい気持、それより御浄霊受ける事一〇日間、めっきり丈夫にさせて頂

き、忘れもしません昭和二四年一〇月五日、運命の一大転換として、有難い御守を受けさして頂きました。その日より日毎日毎に健康人と変り、あの病院生活の日を思い浮べるにつけ、あまりの有難さに涙する私でございます。今では母も姉も入信さしていただき、澄みきった秋空の如き心にならせて頂いて明るい希望にもえ、この広大無辺なる光明如来様の大恩恵の万分の一なりとも御報いしたいので、世に苦しみなやめる人の、一人でも多く御救いいただける事を心より念じ、一生懸命地上天国建設の御事業に御手伝させて頂きとうございます。明主様有難う御座います。とうてい筆舌に現わす事の出来ないこの感激の涙を、拙文もちまして御報告さしていただきます。

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新潟県 O・E

私が肺結核の宣告を受けたのは昭和二一年の秋、新潟逓信診療所でした。当時NN郵便局に勤めていましたが、それが為退職を余儀なくされ、それより約一〇年間療養の為の生活を送って来たところ、幸いにして御浄霊によって救われ、永年の病弱体を一掃し、 現在は人も羨む健康体となり、 全快後五年間は東奔西走席暖まる暇なく、月の半分は旅で暮し、一般人からみたら無理のし通しであるが、益々身体頑健であり、御浄霊の効果を疑う人は私を見て下さいと生証人になっています。この歓喜この感激、永年病床にあった者ならでは味わう事の出来ない喜びを味わいつつ暮しています。私は以前新潟市にA学舎という珠算塾を開いて多くの人に珠算を教えていましたので、知人も沢山いますが、皆よくもあのように健康になったものだと驚歎しています。過去を振返ってみる時、もしもお道に救われなかったならば此身はどうなっていたであろうと思うと慄然とする次第であります。

肺結核の為に退職してより、一人ボッチの私は、僅かばかりの退職金と特症金をもらって亡母の生家へ療養の身を寄せましたが、色々の事情もあったのですが、家族に伝染するのを恐れて今度は父の生家に移りました。

然しやはり同じ事で、いろいろ考えた揚句、一里位離れたY町の一隅にある水門小屋を、療養所というよりは死場所位に考えて移ったのであります。貧血の為に顔色は青白く、骨と皮ばかりに痩せた体を番人の住んでいた部屋に横たえ、俺もついにここまで生きて来たが、この先幾年生きられるか、この身体がどこまで蝕ばまれてどうなってゆくか運を天に委せるよりは外はない。僅かの所持金は医療費を入れて一カ年位でなくなる。それから

後はどうなるか、親戚もあるが、不幸にして人の嫌う肺結核では御迷惑をかけるばかりだ。 それからそれと考えてゆくうちに眠りに入ったと思うと、 恐ろしい大蛇に追いかけられて、いくら逃げようとしても足が動かず、 思わず大きな声を揚げたら眼がさめる。ベットリと全身に気持の悪い盗汗をかいていた等々。

病苦と悪夢の療養生活を水門小屋で一カ年位送りましたが、そのうちに○○健康法を知り、又入院の世話をしてくれる人も出て、 その後少々かたまりかけて来たものか、病状も治り少し太って参りました。

何時までも人の世話にばかりなっていられないので、軽い仕事を求めて村の役場の書記に就職しましたが、少し仕事らしい事をすればすぐに疲労し、盗汗血痰微熱等々の病状が起り毎日戦々兢々としている有様で、いろいろ考えた末、療養しながら生活の糧を得る道を求めて、新潟医大の研究室に就職し働いているうちに医学に興味をもち、医師になりたい希望を持ち、知人の医師を頼って上京し、C町のH病院に就職、助手を勤める傍ら医学を学んだり研究したりし、その間現代医学の療法は勿論、鍼灸民間療法、漢方療法、物理療法等々殆んど身を以て学理と実験に没入し自己の健康の恢復に努めました。

然し外形は或程度健康らしくなりましたが、頑固なる頭痛、便秘、消化不良、不眠、微熱、血痰に悩まされ、丁度ヒビの入った茶碗を扱うようにしていなければならず、病院に居た為、その都度対症療法を施しつつ、どこへ行くにも鞄の中は薬ビンを入れておかなければなりませんでした。

当時は大東亜戦争の最中であり、昭和一四年一〇月には若松歩兵二七連隊に召集になりましたが、肺結核の故を以て即日帰郷、一八年五月徴用令の際も同じく解除、一九年八月仙台東部二一部隊に召集を受けましたが、同病に即日帰郷になりましたにみても、どんな状態であったかが察せられると思います。

身体がそんな状態ですから精神状態はいつも憂鬱であり、悲観的消極的で怒り易く、実に心身共に吾と吾身に愛想をつかしていたのでしたが、昭和一九年五月以前にH病院に入院していられた一患者(M氏)より御著書『結核の正体』を贈られ一読しその瞬間今迄求めに求めていた真の治療法はこれだと小躍りし早速上京、 私をこの道の弟子にしてくれるようにM氏に頼んだのであります。

M氏は君は医学徒だから、ちょっと諒解出来ないかもしれないが、白紙になり、第一歩よりやり直すつもりならば紹介してやると、K区のS先生のところへ連れて行って頂いたのであります。

一週間の講習を終え、胸にお守様をかけて頂いた時の喜びは、何とも言われない感激でした。ああ俺も此お光のおかげで、永年の病弱体を解決出来るし、又真の治病を安心して人に接す事が出来ると喜び勇んで帰宅、それから御道のお手伝をさして頂いている中に然毒の御浄化を頂き、漸く少康を得た頃、 今度は本格的に結核病状が出て参りました。

あの時の苦しさを今想い出してもゾッとする位であります。病状も少々おさまったので、箱根の明主様のお邸にお伺いさして頂き、一夜宿屋に泊ってその晩より大浄化で四〇度近い熱に加うるに頻繁なる咳、それにつれて頭も割れんばかりの頭痛、胸痛、呼吸困難、特に尿閉の為浮腫物凄く、顔は自分の顔と思われない位に腫れ、その為に横臥すれば胸内苦悶激しく、 詮方なく周囲に布とんを積み重ね寄りかかりになったまま、一刻も横臥する事は出来ませんでした。勿論食欲は皆無であり、衰弱、疲労困憊、苦悶の為の唸り声は、夜間の如きは隣家にまで聞え、 隣人は今日か明日かと私の死を想像していたそうであります。勿論医師が見たら絶望状態であったでしょう。

その時何という有難い事でしょう。明主様より直接御浄霊を戴く光栄に浴したのであります。一番ひどい時は一日四回御浄霊をいただきました。御多忙の事は一般人は想像も出来ない程の御身にも拘わらず、わざわざ私如き者に御親切にお手をかけ下されたのであります。その時明主様はお傍のお方に、「Oはあぶない」と仰せになられた由、後日お聞きしたにみて如何に重態であったかが想像されると思います。

御浄霊を戴きましてより一日一日軽快にして戴き、さしもの重い肺結核末期の如き病状も、明主様の三週間の御浄霊により、跡方もなく全快させて頂きました。(今であれば到底望めませんが、当時御治療時代だった事もありますが、破格の光栄に浴した次第であります)

真に危機一髪という処をお救い戴いたのであります。その間御浄霊中排出された喀痰の量は、少な目にみて一日五合は確かに出ました。三週間としてその量一斗余、如何に人間の体内には痰が多くあるものかと、ただ驚くほどで、特に睾丸が脹れて、御勿体ない話ですが、明主様が睾丸を御浄霊下さると呼吸が出来ない位痰が排出されるのであります。手をお引きになればピタリと咳は止み、お手をおかざしになれば物凄い咳と共に、黄色い薬臭い痰がドンドン出るのであります。

明主様はお笑いになられ「あんたの肺は睾丸の中にあったんで、それで医者が判らなかったのだね」とのお言葉でありました。その当時お道に入れて頂いていたとは言いながら、過去の医学的知識が邪魔して真から理解する事の出来なかった。所謂病原は体内にある毒素であり、病気とは浄化作用である事を、現在自分が苦しんでいる病状は、すべて自分が飲んだり射したりした薬毒が体内に膿に変化している為、それが排出されんとしての病状だという事をハッキリ身を以て悟らせて頂きました。今静かに往時を追想する時、ただただ明主様の御高恩に感謝感激の涙の、滂沱と頬に伝うを禁じ得ないのであります、ああこの感激こそ、未来永劫到底忘れる事の出来ないものでございます。

罪深き身をも今は許されて御恵み豊かに生くる嬉しさ

身も魂も捧げまつりて御教への道ひとすじに吾は行かなむ

あな楽し心は澄みて身は軽しただひたむきにつとめはげまむ

これはその時の感激を拙い歌に綴ったものであります。古いOという男は死んでしまったのだ。そして新しく神様より御使命を戴いた新しいOが生れたのだ。これからの一日一日は神様の御用をする為に命があるのだ。この感激と覚悟をシッカと胸に抱きしめつつ、御使命に進まして頂いています。

私は斯くして心身共にお救い頂きました。従来の悲観主義は楽天的に変り、御守護豊かに健富和の光明世界を礼讃しつつ暮させて頂いています。実に有難い……明主様の大愛のふところに抱かれて……こんなに幸福で、これでよいのか、奇異の感にうたれる事があります。それはあまりにも私の過去が悲惨であり、現在がそれに逆比例して、幸福だからであります。

どんなに学理がどうだ、埋屈がどうだと言ったって、人間にとって健康に勝る幸福はないと思います。御浄霊を戴けば私のような使い物にならないような体の人間でも、斯のように治して頂けるのであります。

世人は知らないで迷信だ邪教だと言っていますが、私はそんな人にいつも言います。「私のように治った者はメシヤ教にウヨウヨしています。お望みならば、何人でも日の前につれて来て生証人になりますよ、理屈を言わないで一日でも早く、一人でも多くお守を頂き、魂と身体の毒素を出して、キレイな人間にして頂いて、明主様のお造り下さる輝かしい地上天国に住ませて頂くべく各々の御使命に進もうではありませんか」と。

終りに当り、世の結核に悩む人に私は声を大にして告げたいのです。結核は決して不治ではない、治らないのは療病法を間違っているからですよ、メシヤ教へ来なさい。結核なんてドンドン解決つきますよ、もしお疑いになるなら、『栄光』新聞や『地上天国』誌のおかげ話を読んで、最寄りの住所の人を訪問して下さい。その日より悲観と絶望は、歓喜と希望に転換することでしょう。

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神奈川県 T・K

明主様、筆紙に表すことの出来ない御利益を頂き、嬉しさに乱筆にて一言御礼を申し上げます。今思い出しても怖しい良人の肺浸潤のために、家内中絶望のドン底に突落されたあの頃を思いますと、今は何と有難い日々を送らせて頂いている事でしょう。

一昨年の四月初め、主人が会社の健康診断で肺浸潤と判った時の私の驚き、 医者の言われるままに薬と、気胸を致しましたが、日に日に顔色は悪く食事も取らず、気は沈み生きた心地はございませんでした。その頃より近所の奥様から光明如来様の有難いお話を聞いておりますものの、医者も薬も捨ててお縋り致す気にもなれずにおりました。

五月二三日夜、不思議な夢を見せて頂きました。それは美しい観音様の前に私の亡き母と私が、有難いお話を聞いている夢なのです。亡き母の導きかしら?一時も早く行ってみたいままに、近所のIさんの奥様にお願い致しまして、S先生のJ教会につれて行って頂きました。その日が亡き母の命日二四日なのでございます。母が導いて下さると信じ、光明如来様にお縋り致し御浄霊を頂きますと、何となく気持が良く食欲も追々に出て参りまして、 絶対安静のあの身体が三カ月後には、漁師の父の手伝が出来て明るい毎日を送らせて頂くようになりました。二人でお守を頂き仏壇もなかったのですが、母の命日に先祖代々の霊位をお祀りしました八月二八日に光明如来様をお迎出来ました時の嬉しかった事は言い表わしようも御座いません。家の中が本当に明るくなりまして又不思議な事に光明如来様をお迎え致しまして間もない九月一五日に、今迄は床の間のない家で御座いましたが、今度は床の間のある八畳と三畳の小さい家ではございますが明るい家がみつかりました。ただ有難く感泣の外御座いません。又五歳のNが心臓病になりました時も、S先生の二度の御浄霊で全快致しました。

今では主人も就職させて頂き、入社の時のレントゲンにも表われず、発病以前にも増して元気で夜業迄やっております。

数限りない御利益を毎日頂き、御恩を厚く感謝致します。良人と共に感謝の誠を捧げるため、出来る限りの御奉仕をさせて頂きたく念じております。

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大分県 A・T

私は重症の肺結核の為、世の中のすべての希望を失った者でございます。入信以後日々快方に向い、五カ月を経た今日では殆んど全快に近いまでに治して頂き今日では心から光明如来様の御慈悲に感謝して暮している者でございます。

顧みますれば昭和二一年二月頃より頭が痛く足がだるくて、自分は妊娠のため「つわり」とばかり思い気にもとめませんでしたが、四月になって二、三回の喀血に驚き、四月二五日入院しました。医師は胎児をとらねば母体が危いからとの事で、早速胎児をとりました。又結核には気胸療法が一番良いとの事で、 五、 六回施しましたがはかばかしくなく、 二週間位で退院しました。

その後近所の医師で養生しました。カルシウムやいろいろと注射をしましたが、なんの効果なく、只悪化するばかりでした。今度は阿弥陀様の灸が良いとの事で、早速その療法を続けてみましたが、元のような身体にはなれず、今度はストレブトマイシンが良い事を聞き、何回も注射しましたが効果なく悪化するばかりで、ついには喉頭結核にまで進み、声は出なく室内で話す事さえ出来ず、ただ死のどん底に落ち、又再びこの世に生きる事の出来ぬ悲しい淋しい気持は、言葉で言い表わすことの出来ない程でした。

これが光明如来様のお蔭で、再びこの世に生きさして頂き、唯々毎日、喜びと感謝の念でいっぱいでございます。

(結核の革命的療法 昭和二十六年八月十五日)