秋田県 I・Y
数々の算え切れぬ御守護を頂き、無き生命をお救い頂きました感激を、そのままここに御報告さして頂きました。
私は二人の子供の母親でございますが、昭和二三年の春よりどことなく身体の調子が悪く、花笑い鳥うたう春だというのに、私の心は次第に憂愁にとざされて行くのでした。医師の診断によれば脚気、痔、胃腸、肝臓病、肋膜炎、両肺浸潤とまるで病気の問屋で、思うだにぞっとする程でございました。あらゆる手当を試みましたが少しもはかばかしくなく、医師は絶対安静を言い渡され、日一日と衰弱する一方なので、近所の人々からは「棺桶に片足を入れているようだ」と迄いわれました。又丁度その頃妊娠をしていましたが、医師から「こんな状態ではとても母体がもたない」と言われ人工流産をさせられ、それからは子宮も痛み出し益々悪化の一途を辿り、やがて右下腹部に赤ン坊のコブシ大の固結が出来、右足をつけて歩く事が出来ず、自然ビッコを引き引き歩くような始末となりました。 一方、 軍隊気質の抜け切らない主人は、少しも同情心がなく「お前なんか何時死んでもいい、新しいのはいくらでもある、畳と嬶は新しい程いいからな」と言われた時の心中をお察し下さいませ、やがて子供をつれて実家にかえり、主人とは別居生活をすることとなりましたが食欲はだんだんなくなり、一かけらの御飯も、のどを通らなくなってしまいました。実家では母親一人が寝食を忘れて、私の世話はいうに及ばず、子供の面倒までみてくれましたが、母の誠は神に通じないのか益々悪くなる一方です。
来る夜も来る夜も子供を抱き、泣きくずれて枕をぬらさぬ夜とてありませんでした。母や主人や子供の事を考えると、私の為どんな心配と苦労をかけることかと、身を切られる思いがし、早く丈夫になりたいと焦ればあせるほど益々死期が近づいてくるようなので、思わず不覚の涙のこみ上げてくるのをどうする事も出来ませんでした。いっそ一思いにあの世へと、幾度死を覚悟した事か知れません。それでもまだ医師よ薬よと飛びまわり、最後には自分の住宅まで売らなければならぬ破目となりました。
今にして思えば、ああ何と有難い日であったでしょうか。昭和二三年九月一二日、ああこの日こそ私にとっては生涯忘れることの出来ない感激の更生の日でした。そんなに尊くも美しき歓喜の人生がかつてあったでしょうか。「夢に見たこともない、聞いた事もない」「思ったこともない」有難い光明如来様が、こんな曇だらけの私共をもお見すてになさらず御慈悲の御手をさしのべて下すったのでした。
主人がはからずも列車の中で、戦友のS先生にめぐりあい、この尊い光明如来様をお知らせ下さったのでした。先生は丁度、遠い静岡より秋田地方へ御布教中でした。
当時の私はどうしても率直に信ずる事が出来ず「医師でも治らなかった身体が、何で神様如きで治るもんか」と腹の中で笑っていました。
九月一二日夜、S先生は御多忙中にもかかわらず、私一人の為にわざわざ三里の道もいとわずおいで下さったのでした。その晩は半信半疑のまま二度御浄霊を受け、床に就きました。
処がどうでしょう、夜半どうもお腹の具合が変なので起きてみますと、真黒な血がどんどん出ているではありませんか。
その翌朝の気持よさはたとえようもなく、白々と東方が明るむ頃思わず飛び起きてしまいました。歩いてみるとあれほど痛んでいた右足がビッコも引かずに歩けるではありませんか。オヤと思ってお腹に手をやってみると、腫れも固結もどこへやらすっかり消失し、体も急に軽々しく爽快になりました。幾カ月か笑いを忘れた淋しい尖った私の顔も、明るい微笑にほころんでいるではありませんか。その時の嬉しかった事、今でも決して脳裏を放れません。まことに手の舞い足のふむ所を知らずとは、この心境を言ったものではないでしょうか。
何だかじっとしておられず、すぐ寝衣をぬぎすて、洋服に着かえてお台所に立ちますと、心の奥底から力の盛り上ってくるのが感ぜられます。昨日に変る今日の私の姿をみて、さすがの先生もびっくりされ、主人も「本当か本当か」といって嬉しさのあまり、後の言葉もつづかぬ程でございました。此時の嬉しさはとてもとても筆舌に尽すことは出来ません。
主人はその年の一〇月に、私は翌年の一月に入信さして頂きました。又主人は瑞雲台建設の御奉仕に参加さして頂き、私は四月に御本部へお詣りさして頂きました。
拙文ではございますが、これを綴らして頂いているうちにも又熱いものがこみ上げて参ります。あの時の私の心境に比べますと、光明輝かしき、希望にみちみちた今日この頃の生活は何と勿体ない事でしょう。心から厚くあつく御礼申上げますと共に、光明如来様におすがりして、戴いた此生命のあらん限り、一生懸命地上天国建設の為、御奉仕さして頂く覚悟でございます。
明主様、本当に有難うございました。はるか雪の秋田の山奥より、厚くあつく御礼申上げさして頂きます。
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宮崎県 Y・S
私は昭和二五年肺病全快と共に入信さして戴きました歓びを御礼申上げます。
顧みれば二四年八月少々の腰痛でA町のH病院に行きました処、一本の注射ですぐ回復しましたら、医者はこの薬がよく効いたらリウマチではないかと申します。
それから冬になり再び痛みが出て注射をしましたが治らず、又九年前に産後に肋膜炎になった事がありましたので、何だか気になり、レントゲンを取りました。「後三年とない命であった。よい時に来た、早速安静にして食養生をせよ」と言われました。左胸に気胸を三回しましたが、次第に不安はつのり、医者は右胸を守らねばと今度は右胸に再度の気胸を致しました。引続き五三回も致しましたが、何の効果もなく、早く元気になりたいと思えば思う程、情ない憂欝な日を送っていました。弟も結核で入院していて「気胸が出来れば幸福ですよ」との手紙を見る毎に、 アー、 之でよいのかと思うばかりでした。
九月の初め頃、一青年が新聞を売りに来ました。其時まで世界救世教がどんな宗教であるかとも知らず、まあ気安めに読んでみようと戴き、病気全快の体験談を拝見致しました。
判らず乍らも延岡の分教会に御参り致しました。今までに見聞した事もない御浄霊というものを疑いながら戴きますと、肩のこりがとれ、気持が楽になり、次の日も御参りさして戴くことが出来ますのも何か神様の御引合せと思いました。
弟からは「迷信邪教にまどわされて、現代の科学の進歩している時、宗教で病気が治るなんていう事はない」と手紙が来るし、夫は「自分の言う事は全然聞かない」と言い、親は実家に引取るとの話まで持上りました。
周囲の者の反対で心も落付かず、又病院に行きましたら、「息切れがするでしょう」と言われ、他に別に異状はないがとの事でしたが不安は止まらず、 右肺が悪いと申します。
前には左が悪いと言われましたがと言いますと、そうかねと言ったままで、医者の言葉も信用出来ない。科学が進歩していると言い乍ら、 此様な誤りがあるかと不安と反感を抱き、漸く御浄霊の御蔭でこんなによくなったことが判りました。
其後は出張して頂いて次第にズンズン良くなり、僅か三日間の御教修とやらを戴き自他共に神の御力を頂く事が出来た事が判り、今では夫も「弟にも早く御浄霊を頂くように話してやれ」と口添えする位に信用して参りました。今では旅行しても何ともなく、自然農法の作物を見せて戴き、自ら作っては、誠に広大無辺な神様の御力に感謝せずには居られません。有難う御座います。
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東京都 T・Y
病気一つしたことのない私が、昭和一七年音楽学校卒業の喜びも束の間、医者より右肺炎カタル、左肋膜浸潤と言い渡され、失望落胆、一日も早く全快するようにと、三人の医者の言葉通り薬よ、注射よ、栄養をと言われる事は皆守り、安静にしながら一進一退の状態でじりじり衰弱し、二年後には医者も首をかしげるようになり、楽しい娘盛りも床の中で終ってしまうのかと、 自分程の不幸な者はないと、 呑気な性質もいがみきり、何も彼も悪い方にしか考えられずにいた時、この救世教をすすめられましたが「そんな迷信で」と、てんで馬鹿にして耳を傾けませんでした、が母が治してやりたい一心で「お守」を受けて参りました、それでも尚頑固に反対しつづけていましたが、暑さの折から身のおき所のない程の辛さに、試しにと浄霊をしてもらった所、非常に具合がいいので、半信半疑の儘T町の中教会本部につれて行ってもらい、一週間もたたない間にすっかり元気になり、さすがに頑固な私も「お光」の絶対の有難さを信ぜざるを得なくなりました。
帝大で診察の結果、 かかりつけの医学博士もびっくりする程この回復で、レントゲンの曇もすっかりなくなり、その後空襲、終戦後の多難な時も、人一倍元気で、どんどん買出しにも平気で行けるようになりました。
以来六年、家人知人と浄霊しては、その度に絶対の信仰は深まり、家中病気心配もなくなり、明るく朗かになって、これこそ明主様の御教えの通り、病貧争のない地上天国ともいうべき日々を送っています。
その後結婚して、医学では一時治っても御産は気をつけねばならず、絶えず再発の心配をしなければならない所なのに昨年少しの不安もなく、九五〇匁もある男の子を授かり、而も三〇過ぎての初産にもかかわらず、産婆の驚く程の安産で、その後病気一つせず、平均をはるかに上廻る発育ぶり、お誕生前の歩けそうな様子に皆びっくりしています。
これもひとえに光明如来様の有難い御守護のおかげと、深く深く感謝し、一人でも多くの人に、この御教御力を知って頂きたいと日夜念願しています。
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静岡県 M・H
二四年の一月から三月の二カ月間、私は肺浸潤の病名に地獄の道を横須賀の某病院に過していました。
この事は幸か不幸か、私にとって実に意義の深い事で、それは叔母以外誰にも知らせてない入院に、翌日突然今日死ぬか明日死ぬかと人に騒がれた肺結核だった叔父が、病院の長い坂を登って、シャンとした姿をして、叔父「お前の病気を治しに来た」と。私の驚き、否側にいた叔母もおどろいた事は勿論でした。
浄霊が終って叔父が帰って行った後、私は一人で考えていた。「手を振って霊気というものが出て病気を治す」「薬は服まない方がいいよ」「気が進まなければいくら入院していても構わないから」「未だお前達には解らない」少しは楽になったが何だか変だ。叔父の言った事と私の考える事が交叉し、考える程虚空に駆られて行く、兎に角わざわざ遠い山梨より来て、浄霊して下さったのだ。
退院してからは紹介された逗子の教会に通い始めそれから二日目に会社に出勤、続いて夜学に通い、尚昼休みにはテニスなどをしたが、それでも別に身体に異状はなく、反って気持が愉快になって来た。その頃より私の胸に光明が射して来たのだ。そうなるとただもうお守が戴きたくなり、光明如来様に日夜お願いしました。すると奇蹟にも、受教修御礼額と同額の突破資金と、光明如来様を拝受するお礼と同額のボーナス等、 相続いての入金に感泣した。 私は神の大愛に、 その厚い御霊衣に包まれている。そして御先祖様の導きなのだ。ただ一人嬉しさの余り手の舞い足のふむ所を知らなかった。こうして大いなる神の御恵みに勿体ない程幸福な生活を送らしていただいています。
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山口県 S・M
私は昨年三月入信さして頂きまして以来、ずい分と奇蹟をみせていただき数え切れない程の御守護を戴いて参りました。病気に対する何の不安も苦しみもない此頃を思うにつけても、日々を注射や薬の辛さに過した四年間の事が想い出されます。
昭和一九年私達は学徒動員の名の下にK製鋼に勤める事になりました。勤め始めてから一月もすぎた頃身体検査があり、私は虚弱の故を以て不合格を言渡され学校に帰る事になったので、一度医師に診てもらうと、「今どこと言って悪い所はないが」と言ってAOという注射を打つようにすすめられたので、三カ月位通ってAOを打っていましたが、何か不安なので医者を代えてみた処、レントゲンの結果肺門淋巴腺といわれ、尚AOは絶対不可といわれたので、驚いて前の医者をやめ一カ年休校して毎日医者通いを続けましたが、さしたる変化もない儘にあちこちと医者を変え、薬を変えて療養に努めましたが段々わるくなるばかりで、それに医者を代える毎に肺門淋巴腺炎といい肺浸潤といって一定しませんので馬鹿らしくなり、又疎開もしましたので医者を休み、自宅で療養致しておりました。
其後終戦となったので又帰って参り、父の親友であるN博士に一カ年通い、ついには絶対安静を言渡されてしまいましたが、そのうちに結核よりももっと恐ろしいものにかかっている自分に気づきました。それは神経衰弱と申しましょうか、被害妄想狂とでもいうのでしょうか。とに角世の中のすべてが恐ろしく、ひどい時は畳一枚恐くて歩けないのです。言い度い事も言えず、仕たいことも出来ず、たえず心の中で、誰かが何か悪い事があるとささやいているようで、いらいらして絶えず神経は極度に尖り、発狂しそうになるのをじっと制えることの苦しさというものは並大抵ではありませんでした。
それはもう健全な頭では到底解する事の出来ない程、悲惨なものでございました。それを人に訴える事も出来ず、よしんば訴えた処で分ってはもらえず自分一人でなやみ苦しみました。この為私は精神的にヘトヘトに疲れてしまい、此世に生きる事さえいやになって、こんな辛い思いをする位なら、いっそ死んだ方がいいと思うようになりました。レントゲンに写しては自分の胸が次第に悪化してゆくのを他人事のように冷然と眺めて、両親の歎きもよそに「ああだんだんわるくなって来た。もう少しで死ねるだろう」と、それを秘かな喜びにさえした私でございました。「此世に未練はない。ただ肺は痛まないので苦しまずに死ねるのが一ばんの倖せだ」と自分も思い、人にも語っていた私でした。その時母が「従妹が脳脊髄膜炎になり、それが手を振って治り、又近所の小児麻痺の人が今では走れるようになったそうだから、是非お詣りしなさい」とすすめるのを、そんな馬鹿な事とも思いましたし、もし本当に治ったら、折角死ぬ日を待っているのに体のみ治って、この精神的苦しみが続いたのでは、それこそたまらないと思ってことわりました。
半月程して思い直して、宗教なら精神的な苦しみもとってくれるかも知れないと不遜な考えでお詣りしました。それから三月、あれ程苦しんだ被害妄想狂から知らぬまに解放されている自分に気づき、今更のように驚きました。又絶対安静を言渡されていた自分が、御浄霊を頂いた翌日から軽い仕事が出来、今では人に負けぬだけの仕事が出来るようになった事を考えるとまるで夢のようでございます。このお道をあの時に知らなかったなら、今頃は発狂しているか、死んでいるかであろうと思うと、ゾッとするようでございます。それにつけても光明如来様のお慈悲、 明主様のおかげを感ぜずにおられません。あまりにも大きい御恵みにお報いする事など、とても望むべくもない事でございますが、せめてものお手伝いの真似事でもさしていただきたく、B先生の下で御用させていただいています、愚かな私故たどたどしく思う事の半分も言えませんが、私のような苦しみに喘いでおられる方の御参考にもなればと存じ、乏しい私の経験を述べさせていただき併せて御礼申上げさしていただきます。
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兵庫県 N・M
私は昭和一九年八月の末頃より時々胸背中に痛みを感じ、医者に診て頂いた処、肋膜といわれ早速入院しましたが、其後気分も快くなり退院し、家事の手伝いをしていましたが、それが無理だったのか、再発して以前と同様となり、それに頭痛が加わり、安静の身となりました。総ゆる注射と薬を用いましたがその効果もなく、毎日不安な日を送っていました。
此時神様の御引合せとでも申しましょうか。友達が「A先生が手を振っただけで、どんな病気でも治して下さる」と言われたので、早速A先生にお願して御浄霊を頂いた処、何という不思議な事でしょう。あれ程苦しんだ頭痛をすっかり楽にして頂きました。その後は日一日と気分も良くなり、御浄霊の有難さを分らして頂き、二一年一一月一七日入信さして頂きました。
此度重ねて大変な御守護を頂きました。昨年六月一〇日頃より頭が痛み出し、 咳が出るようになり、 教会のTさんに御浄霊をお願していましたが、次第に浄化は激しくなり、胸背中に痛みを感じ、息苦しくなって来ました。教会に通っている中、胸背中は楽にして頂きましたが、少し歩いても息苦しく、段々と食欲はなくなり、下痢の御浄化を頂いていました。体はだんだん細くなり、 本当に骨と皮の様になって参り、 浄化だとはいうものの心配でなりません。先生は御親切に「心から大光明如来様にお念じするように」とおっしゃって下さいました。
八月八日朝から、非常に気分が軽く、先生は「ああ有難い、御守護だ、もう峠は越えたようですね」と言われ「ホッ」としましたが、未入信の父母は、「一度医者に看て頂くように」と言われ仕方なく診てもらいました。レントゲンの結果、両肺が大変悪化しているとの事、重病の結核の事故、静かな所で絶対安静をするようにと命ぜられましたが、医者の言われる事など少しも気にかけず入信さして頂き、御浄霊をお願している心強さを感じました。
八月一五日実家に静養に帰りましたが、未入信の兄は「悪い時は薬だ、浄霊なんか迷信だ」と言って聞いてくれません。私は先生の御親切なお話を忘れる事が出来ず、 薬はみんな家族の者に見つからないように捨ててしまい、大光明如来様に一生懸命おすがりしていました。その後日一日と楽にして頂き、食欲はだんだん進み出し顔色も良くなり、やせていた体も少しずつ太って来ました。
あれ程重苦しかった胸痛も楽にして頂き、おかげ様で一一月一一日より一里の坂道を御浄霊を頂きに教会に通う事が出来るようになりました。
此間、医者が母に、私の元気な事を聞いてびっくりして二度も三度も「本当か、本当か、そんな筈はない」と言っていたそうです。
これ程大きな御守護をいただきながら、家族の者に御道の有難さがはっきり分って頂けないのが残念でなりません。何時か必ず分って頂けるものと一生懸命お念じしています。もしこのお道を知らなかったならば、私はどうなっていたでしょう。恐らく二度と起き上る事は出来なかったと思います。大光明如来様の偉大なる御守護のもと感謝の日々を過さして頂いています。
明主様、誠に有難うございました。
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新潟県 K・S
転禍移福、今静かに瞑目して過去五年を振返る時切々として、此感慨を深くするのであります。思いを昭和二一年五月に返せば風邪のこじれと思って医者へ行ったのが初まりで、急性肋膜炎の宣言に仰天し、悲歎と絶望の底へつき落されたのです。三カ月に余る絶対安静で足腰も立たぬまでに衰弱したものの、注射と養生で一時はどうやら小康を得たのであります。ヤレヤレと思ったのも束の間、冬の寒さと共に又も微熱、胸痛等の不快と不安が加わるばかりです。唯物医学を絶対のものと信じ切っていたその頃ですから、又も医大だ、名医だ、やれ高貴薬をあさってはみたものの、遂に肋膜を削りとる手術を行ったのであります。病名は肋膜周囲膿瘍で、肋骨カリエス類似のものです。正味五時間を要した大手術で、て三カ月の入院治療の結果は、益々悪化衰弱あるのみです。医師も「も早用うる薬もなく、ただ前の三、四倍にもなるが再手術を行ってみるより外なし」と言うのです。それも治って廃人同様、今や全く見捨てられた事を知りました。初めて知る薬と医学の頼りなさ、本気になって自殺まで考えました。
その頃親戚のUさんが再手術を聞きつけ、本教の事を熱心に知らして下さったのであります。無断で病院を抜け出し、リヤカーでM教導所を訪れY先生の静かな、而も溢れるばかりの慈愛の一言一句に再び病院には戻らぬ決心をしたのであります。
思えば最後の一線、危ない瀬戸際で御救いの御縁を賜わったのでした。医者の都合で延びていた手術、あの日病院を逃げ出さなかったら、その日医大へ送られる事になったのでした。不思議な神の仕組の偉大さに、ただひれ伏す次第であります。 先ず母が教修を受け、 先生の所へ通う一方、 ひたすら浄霊につとめ、二ケ月後には私自身も教修を受くるまでに快復したのでありますが、体力の付くのを待ったが如く二三年の冬より本格的再浄化に入ったのでした。 今から考えると、本当に理想的排毒だったのですがその頃は意志の弱さと苦しさから、恐れ多い話ですが幾度となく疑心を生じ、其度毎に先生方の御鞭達により、漸く曲りなりにも今日の境遇に到った次第であります。
それは胸一面蜂の巣のような排膿、脱脂綿にガーゼ、その上におしめまであてて、それまで浸透して一日二、三回交換の止むない程です。今日尚、僅かながらその痕を残している有様です。加うるに下痢それは又一日十数回、便所通いの毎日が夏より翌春まで、更に加えて痰咳です。一日に二回は痰壺を代える程の量です。それが秋より翌五、六月頃までつづきました。その間血便、血痰に変る事幾度、又微熱、不快、食欲不振、腹痛、胸痛、衰弱、文字通り生き乍らの地獄とでも申しましょうか、医者に見せないので病名こそつきませんが、肺結核、腸結核、腹膜にカリエスが一ぺんに出たようなものです。こんな苦しい事が正に一カ年あまり、近所家内の者は勿論私自身も今はこれ迄の天命とあきらめたのでした。
此間ともすれば厭世的自暴自棄になる私を始終親にも勝る愛情に包み、反対して皮肉を言う父に対しても嫌な顔もせず、御浄霊にお出で下され、はげまし慰め、私の手を引いて来て下さったS先生こそ救世主様のお使いであったと感謝の言葉もありません。
それから仕事に疲れた体に献身的看護と浄霊につとめ、最後迄私の生命をあきらめなかった妻への感謝、私のような罪多き者をお救い下さる神の仕組の偉大さ有難さに、恐懼せずにはおれません。
又此間、父の反対にもかかわらず、無事光明如来様、御屏風観音様をお祭りする事も出来得、 又今日御浄力の御守様を拝授しました。かくて五年にわたる業病も二五年の春と共に薄紙をはぐが如くに恢復して、今や全く病前にまさる健康体になりつつあり来春よりの自然耕作にお道への御奉仕に、希望に胸ふくらませています。
私がお道に御縁を頂いたのは、とりも直さず病気がとりもつ縁であった訳で、 本教に御縁がなかったとしたら、 私はどうなっていた事でしょう。あまりにも判然とした運命の岐路でありました。私自身に止まらず、それからそれへと不幸は不幸を生んだ事でしょう。家庭の悲劇、妻子の不幸、想像しただけでも深刻なものがあります。禍を転じて福を下し賜うた救世主様、ほんとに有難うございました。
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北海道 K・H
私は昭和二四年八月入信さして頂きました。光明如来様に救われ、初めて希望に溢れる現在の喜びを明主様始め諸先生に感謝さして頂きますと共に、未だ此道に疑惑を抱いておられる方々に一日も早く、光明如来様の御慈悲に救って頂けましたらどんなに幸福な事でしょうと思い、御報告さして頂きます。
顧みれば九年前の昭和一六年夏、肋間神経痛を患ったのが初めで、翌年四月に風邪を引き、それがもとで肺結核となりました。最初医師の言うようにし一たん良くなったのですが、農家の事とて家の手伝を致しているや、秋となって又再発しました。それより毎年医師その他治療師等かかり、少し良くなるようにみえては又悪くなるという訳でだんだん身体が弱り、自分ながら病気の手当をする事がいやになり、すて鉢の気分にまでなっていました。そうしたいやな年月が六年すぎ、その揚句二二年六月盲腸炎で入院手術してしまいました。手術後三週間で退院しましたものの、手術個所の周囲の腹痛が止まらず農事の手伝いも出来ないので炊事のみようやくしていました。その年の一二月になってどうにか痛みはなくなりましたが、今度はお腹が張るやら、胸がつかえて食事が進まなくなり、内科の薬をあれこれと翌年の四月迄服用しましたが、効果は更になく、次々と悪い所が出来るので医者を代えてみました処、腸癒着とか、ラッパ管といわれ、どこへ行っても手術するか、我慢するより外に致し方がないと言われました。
其頃は相当衰弱していましたので、医者も手術をすると或は死ぬかも知れないなどと言われるので、今度は栄養食第一にし、栄養剤をあさり指圧治療へ行きましたが、やっぱり腸癒着ではあるが良くはなると言われ、指圧を続けてみた処、だんだん良くなって来て秋頃にはとても太って来て、翌年四月迄はよかったのですが、 又胃腸が悪くなり、 オカユを食べなければならないようになりました。
そんな訳で、あれがよいか、これがよいかと迷っているうちに乾性肋膜炎が再発致し、自分では大した事はないと思っていましたが、安静にしなければいけない。二カ月も入院すれば治るといわれましたが、今度は自分で注射をし薬をのんで家で治そうと思い、安静にして少し続けましたが、何としても身体がだるく日まいがするようになりました。
それから暫くすぎてから私の病苦を同情して下さる方があり、帯広にとても良い神様があり、手を振っただけで病気が治ると聞かされ、場所を教えて下さいました。溺れる者は藁をもつかむの諺の如く、手を振っただけで治るとは思えぬとしても、どんな方法でも治ればよいと思い、早速帯広へ行き一日御浄霊を頂きました。処が今迄腹が張って困っていたのもどしどし下痢をして全く楽になり、これなら治るかもしれないと初めて思えるようになり、毎日毎日御浄霊をつづけさせて頂きました。けれども両手の注射をした処が痛く身体中が何となくだるみを感じ、夜もろくろく眠れぬ事が度々でした。色々と先生方のお話をお聞きすると「それは薬毒で、今溶けているのですよ」と言われ、その時は信じられなかったのですが、 御浄霊を頂くうち、 次第に痛みも薄らぎなんともなくなりました。
ただただ光明如来様の御慈悲に私は救われるのだと思い、嬉しさで胸が一杯になり、枕をぬらす事もありました。
しばらくして家人がかえり、近所の御方に御守を頂いている人がありましたので御浄霊をして頂き、いよいよ今度こそは病気の自分にさえ他人を治す御力光明如来様の御救の御力を頂ける事になりました。
救われて初めて人間としての生甲斐をつくづく感じ、希望に満ち満ちています。
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山口県 Y・T
一昨年の八月、不治の病といわれた結核から救われ、神様の大慈悲に感激すると共に、御神業の万分の一も御奉仕出来ればと、只今中教会で御奉仕させて戴いています。
かえりみれば一昨年の五月末頃より体の具合が悪く医師の診断を受けたのですが、夢想もしなかった結核と言われ、而も既に二期であると言われた時の驚き、親兄弟のなげきは勿論、本人の私の失望は如何ばかりでしたでしょうか。遠く将来へ大きな夢を抱きつつ希望に満ちていた私にとって、それはあまりにも惨酷な人生の終止符の如くひびいたのです。
将来に希望をたくましくし、夢と理想をえがきつつ過して来た私でしたのに、結核という死の宣告により、その夢も理想も一瞬にして打砕かれてしまいました。二一歳の若い身空で、はかなく死んでゆかねばならないのだろうか。と思うと情なさに耐えきれず、涙で明け涙で暮れた日々を過していました。でも親兄弟の励ましの言葉に力づけられ、一心に治療すれば万が一治るかも知れぬと、淡い一条の希望は捨てませんでした。
そうして一カ月二カ月と治療をつづけ、二カ月過ぎた頃少し位良師の門を叩き診断をうけたのですが、ああ何という事でしょう。良くなる所か、良かった右肺迄も侵されているではありませんか。治る所か一歩一歩と知らぬうちに死の世界へと近よっておったのです。今は全く光明を失い、一条の希望も消え去り、暗黒の世界の中に静かに死を待つべく、淋しく日々を過しておったのであります。
再び人生の光明を見出すとは夢にも思わず、暗澹として病床に横たわっていた私ですが、何という有難い事でございましょう。夢にも思わなかった人生の光明を、神の御慈悲の御手によって見出す事が出来たのでございます。
それは八月の初め頃、知合の信者の方が私方に煙草の火を借りに寄られ、 是非御浄霊を受けてみなさい。きっと良くなるからと大変すすめて下さいました。このお道の事は早くから知ってはいましたが、今日までそれにすがってみようと思った事もなかったのですが、こうしてすすめられてみると、そうだ今は静かに死を待っている自分なのだ。救われるものなら救って戴きたいと藁をつかむ思いで御すがりしたのです。
一日二日と御浄霊を受けている中に、 何と不思議な事でございましょう。ぐんぐん身体が元気になるではありませんか。その時の喜び、私は救われるのだ。以前のような元気な体になる事が出来るのだと思うと、嬉しさはたとえようもなく、すべての治療を一度にやめ、一心におすがりしたのでございます。
そうして僅か一週間過ぎた頃には全く元気になり、これが数日前までは、暗澹とした想いで死を覚悟していた私なのかと思うと、全く神様の偉大な御力に感激の外はなかったのでございます。
今はどうして信じない訳にゆくでしょう。早速入信K先生より有難いお守様を戴き、御神業の万分の一にも御報いし奉らんと固い決意にもえたのでありました。
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福岡県 N・K
私は昭和二五年八月二九日入信さして戴きました。
昭和二四年六月、健康診断を受けた時、左肺浸潤を宣告され、療養所に入院いたしました。此間、医師の強制的な勧告により気胸療法を行い、毎日毎日変化のない空虚な生活が続きました。回数にして四〇回約一年間続行し、度々のレントゲン写真にも完全気胸という事で、 今から考えますと身震いする思いがいたします。
ようやく退院の身となりましたがどうも体の調子が悪く、少し重い物は持つ事が出来ず又持つ気がしません。電車に乗っても人が押したらそれが気になり、満員電車なんかにはとてものれません。又走る事が出来ず好きな野球なんか到底生涯を通じて出来ないとあきらめていました。
最も幻滅を感じた事はハーモニカの吹けなくなった事です。小さい時から愛して来ました可愛いい友達でしたが、現代の医学はこれを遠ざけてしまいました。
斯の如き状態で何の生甲斐がありましょうか。 何の希望がありましょうか。前途洋々たるべき意気は消沈し悶々として過していました。
昭和二五年の八月、暑い盛りの事でした。あまり暑いので水行水をしていましたら、近所の奥さんが通りかかり「退屈でしょうから海水浴にでも行ったら」と仰有いましたので「実はこういう訳で……」とお話して「海水浴なんかやると死んでしまいます」と申しました所、その人は救世教の事をお話しされ、それでは早速今晩お供しましょうと、当時分教会が福岡市箱崎A町にあったので、早速S先生にお目にかかり、種々のお話を承わり、御浄霊をして頂きました。
二、三日続けるうちに、どうも体の調子が軽くなり気分も朗かになり、とんだりはねたりしたい様な衝動にかられ、確かに異状を感じました。それから一週間の後には教修を受けましたが、それからというものは元気になる一方で、荷物なんか平気で持つようになるし、勿論走る事も出来るし、何一つ不自由なく、前と一つも変らず、何でも出来るようになりました。
御力の偉大さに唯々感謝の外ございません。T町の御本部のお祭りにはハーモニカを吹かせて頂きまして、これほどの光栄、これほどの喜びはございません。これひとえに、明主様のおかげと厚く御礼申上げます。
尚私の御浄霊の体験としましては、私の家に狐霊つきの叔母がいましたが、私が二回程御浄霊さして頂いた所、その晩に叔母は寝ついてしまい、狐霊は御光に接し、常日頃の昼夜の別なき発動もしずまり常人の如き姿とならして頂きました。
今迄幾多の行者が祈祷しても何の変化もなかったのが、ただの二回の御浄霊で、かかる奇蹟をみせて頂き、唯々おどろきの外ありません。
斯かる偉大なる御力を出来るだけ多くの人に伝え少しでも多くの人が御光に浴するよう努力し、 念願致す次第でございます。
明主様の御教えを少しでも正しく我々信徒に御伝えなされようと、常々お努めになられる、K会長先生を始め諸先生方の崇高なる御日常に接し、その万分の一にも近くなる事を以て、御道に精進さして頂く第一歩をふみ出しました私でございます。
計り知れない大いなる御恵みを、御報告、御礼申上ぐる次第でございます。
(結核の革命的療法 昭和二十六年八月十五日)