鹿児島県 H・K
私の入院したのは、元傷痍軍人療養所、今は国立病院と看板のかかっている所であります。入所当時昭和二三年には五〇〇人位の収容人員でしたが、現在は六〇〇名以上も収容していましょう。それでも収容し得ない程の大繁昌振りで有難くない結構な事です。
私が入所して半月位して、まだ知らない男が私のベッドの側に来て、用件が済んだ後の話に花が咲きました。此道の先輩なのです。此療養所開設以来の家付患者で、最早一〇年生なのであります。「貴君が治りたいなら医者の言う事を聞くな、熱も計るな、脈もとるな、安静もするな、病気は気からだ、気にかけずに暴れ廻れよ」と申すのであります。私は暴言に驚きました。又感心させられました。尚続けて申しますには「自分は医者の言う事を聞かずに、此通りに元気になった」「一度は危篤の公電まで打ったのが、今ではこんなに元気に生き返った。公電打って生き返ったのは、此療養所始まって以来二人だ。自分は其中の一人だ、喀血も血痰等も問題でない。自分は痰壺抱えて、血痰吐き乍ら、碁も打ち畠も打った事がある。今一番元気な奴は医者の言う事を聞かない暴れん坊ばかりだ、一〇年位みていると、医者の注意を守る奴は、皆死んだ、元気になったのは暴れる奴ばかりだ、だから貴君も医者の注意は聞かない方がよいよ」と言う訳です。成程と感心する所が多かったのですが、全面的に実行するだけの勇気はありませんでした。一部真似て、一部は医学尊重でした。後で判りましたが、此男は俳句を得意とし、ホトトギスの二句欄にも載る程の実力らしい。福岡県直方市の野見小朱鳥の菜殻火の同人でした。碁もやるし、歌も唄うし、中々の芸術家でした。私も此男位の勇気があったらもっと早く全快していたでしょうと今では思います。
此他に療養生活中に色々と珍しい事医学で説明の出来ない実例に接しました。或者は医者は危険だからと自重安静を勤めるに反対して、家事の都合で退院して、野菜の仲買所謂カツギ屋をやって元気になって、医者は驚いた。此男は既に五号菌を出していた要保護患者であったのであります。或者は卵大の空洞が出来て、現代医学では絶対に駄目だとされているものが、跳び廻り、暴れ廻ってから全治して了い、医者は判らんと驚き、不思議不思議といっていたものである。
前記の名物男は、絶対安静は絶対にするなと言葉を残して全治退院して福岡県飯塚の一炭鉱の採炭夫として働いている様です。此男は何も宗教を信仰しているのではない様子でしたが、兎に角私の印象深いものがあります。此道を知った今では、殊更に思い合して微苦笑を禁じ得ないものがあります。
神奈川県 Y・Y
結核!これは真の神を知らぬ曲津の神の虜となった者の為に造られた病ではないでしょうか。私もその仲間の一人でした。昭和二二年の暮に青年層を斃す結核に侵される身となりました。医師より左肺浸潤の宣告を受けた時の心境を御想像下さい。地獄のドン底につき落された気持でした。母、兄、姉を次々と将棋倒しにしたその結核、ああ遂に私をも斃そうと襲いかかって来たのだ。絶望!これは私の一生忘れる事の出来ない病名です。悶え苦しみながら、皆彼世へ旅立ってしまったのでした。医師はブラブラ養生をして、栄養物を摂るようにとの事でしたので、医師のよいという事はやるだけの事はやりました。誰でも助かりたい、助けてやりたいの一心でした。然し結果はどうでしょう。五人共死んでしまった。その時彼等の言った事は何でしょう。「養生が足らない、体力がない、寿命だ」とただこれだけの言葉でした。何と冷たい言葉ではないでしょうか。五人を一心に助けてやりたいと思って行った誠が、かくも踏みにじられたのです。六番目に私の宣告!断腸の思いでした。私も右のような運命になるのは火を見るより明かです。一カ月二カ月医師に通いました。忘れもしない明けて二三年一月、或夜半突然喀血をしました。傍に見ていた父の目には光るものがありました。布団をかぶって床に臥す父の姿、自分を忘れ父の寝姿に手を合せるより仕方がなく、私が死んだらこの身寄りのない年老いた父!近所からは肺病一家だと言われて退け者にされ、養老院へ行くだろうか、野垂死をするのだろうかとの思いは、私の胸の中を走馬灯のように駈けまわり、ただ涙が頬を流れるままでした。
翌朝父は起きなかった。一枚の寝床に入って泣く父子二人の姿、何たる悲惨な姿でしょう。その傷ましい父の姿を見た私は何としても病に打勝ち、父を喜ばそうと意を決したかも知れません。然し自分の病は募るばかり、御嶽教、大師、地蔵、稲荷と次々と宗教にすがり続けましたが、良くなる所か衰弱してゆくばかりでした。もう私は神にも見離されたのだと思い、病に打勝とうとする心も遂に花のしおれる如くの有様でした。
朝戸が開かないので近所の方が心配して来て下さったが、朝まで父子二人で抱き合って泣き明してしまったのでした。「今日は、とても良い療法があるって聞いたから知らせに来たのです。光明如来様のお力で、どんな病気でも治されるそうですから、どう、やってもらったら」と、然しそのような事私には考える余地はない。「だめだよ、おばさん、僕は結核だよ」ああこの言葉は人の前ではっきり自分の事を言うにはどれだけ勇気がいるか、然し、私にはそれが言えました。もう近々死ぬのが判っていたから、がその人は「いいんだってよ、胸でも何でも治るらしいよ」と今迄五人を亡くす迄既成療法、信仰療法とあらゆる事をしたのだから、光明如来様だって駄目だろうと笑った位でした。
その人が帰ってから床に入って考えた。真実に治るだろうか。治りたい、父の為にY家の為に、治りたい治りたいの一心でした。やってみるか、やってみなければ判らない。治らないものを治ると言う事は嘘をつく事だ。いい加減な事は言わない事だ。よしやろう、やってもらおう。おそるおそる服を着かえて出かけた。右足をつけば右の胸ヘズーンと痛みが来る、左足をつけばやはり痛い、苦しい、やっとの事で辿り着いた。
中へ入って唖然とした。ただ手を振っているだけで私はがっかりした、気抜けがした。然し来た以上帰る訳には行かず先生に話した。「治るでしょうか」先生は「簡単ですよ、必ず治ります」と、その時の私の喜びは、如何ばかりでしたでしょう。赤児が乳房を吸うあの気持でしょうか、私の番が来た時無意識にやってもらっていた。不思議だ不思議、体が軽くなった軽くなった。もう私は治る治る、有難い有難いと、三度口より出た。今迄の信仰と大部ちがう。何かあるぞと思った。今の今迄唯の一度もはっきりと「治る」と言われた事があったであろうか。これを求めていたのだ。先生のお顔を見ればニッコリと笑っておられ、そのお顔がお観音様のようだった。
教会を出た時は、来る時と斯うもちがうものかと、生れて初めて味った事だ真の喜びとは此事だろう。家に帰ってみればまだ父は床に入っていた。「お父さん」とその声に父は首を上げ、今迄にない元気な声に、父も目をパチクリパチクリ数分後には父子抱き合って泣き合い嬉し泣きの涙でした。前に抱き合って泣いた涙とどれだけの違いさか御想像下さい!
今迄にない盗汗、又牛乳のような真白な小便が出た。不思議というより言葉はない。以後一五日間で肺患三期で、医者の捨てた人間が会社へ入社する状態になりました。光明如来様の御守護によって私等父子の喜び、周囲のおどろき、遂に私は救われたのだ。此喜びを母や兄姉にも味あわせたかった。唯物主義にとらわれていたのだ。ああ恐るべきは唯物教育!薬剤だ!その後医者にレントゲンを撮ってもらったのは勿論です。雲翳がなくなっていたのは勿論です。母、兄、姉を死に導いた医学を呪い悲しみ、又再度この道を通って死に進もうとした私に、真の道標を御示し下さった明主様に御礼を申上げながら、私は声を大にして叫びたい。多くの悩める方々へ、この福音を!これは私達一家のたどった、生々しい地獄絵巻であった事を!
程なく私は尊い尊い御守を拝受さして戴き、以来N先生の御指導を頂き、救世の道に邁進さして頂いています。明主様本当に本当に有難うございました。
長き世の夢は実となりぬらむそれの徴しのはや見え初めぬ
兵庫県 I・T
母の顔を血しぶきに紅く彩って、先立つであろう不幸をわびた大喀血の夜の憶出、一語毎に噴き出す血液、涙が出たか出なかったか、今も覚えがないが動顛もせず、冷静に処置をしてくれた母の姿は、今も尚私の網膜に灼けついて忘れ得ない。昭和一六年九月九日、青蚊帳が初秋の風にゆれる夜の事であった。
これが以後八年間、絶対安静の床に、私をして膠着せしめ、結核病にあらず喀血病なりと嘆じさせた発端である。
発病はそれよりまだ早い。昭和一三年二月、山東省にて戦傷後、肺浸潤を宣せられていた。一年余の病院生活後、家に帰ってきて、そして九日目、小量の血を吐いたが、喀血とは夢思わず、止血と共に、魚釣り、水泳、山登と、真夏の炎天下真黒になっていた。一〇月再度の喀血が有ったが、これも間もなく止血して、元の職場に帰るべく上京した。
これが人生運命の転機であろうか、村の医師のいう、単なる咽喉出血と信じ、止血と共に起上り元気になって行ったのだから、あのままで一年も家郷にとどまっていたら、私の人生行路も、もっと違ったもので有ったかも知れない。
京都へ戻って来た私を待っていたものは、所謂社会の恩恵と称せられる種々の健康診断であった。レントゲン線上の極微の陰影を捉らえては、誇大的に恐怖を吹き込まれた。不安にかられて、僅かな微熱の出没にも神経を尖らし、人目をさけて秘かに職場の便所に隠れては検温する様になった。栄養剤と称するものを漁り、或は注射薬に絶大の期待をかけ、そして次々と裏切られていった。
以前二回の出血もはっきりと肺出血と知った。それ以後は兢々として血を怖れた。事後恐怖だから考えれば、おかしな話ではある。
青葉咲く五月、孤影悄然と故郷に戻ってきてそしてこの血の大洗礼である。喀血は前後七日続いた。大小の喀血、よくも血があるものだと思う。体験者の話として、よく一度に二升も三升も吐いたというが、それは誇張がある。色彩が鮮か丈に、気持が動顛して幻惑されてしまい、少しの量でも大仰に感じるからであろう。私は意識が朦朧として、四、五日は正気がなかったからどの程度だったか知らない。家人も語るを欲しなかった。最後の喀血は、魚腸の腐った如き臭気が有ったという。この折は、医師がまだ生きていたのかと、首をかしげた話があり、今でも村人の話題となって残っている。
秋深まると共に衰えた身にも力が甦ってきた。そして今度は、頻々たる小喀血と血痰の襲来である。起座に移ろうとすると喀血、安静によってやっと白にして、皆となると又赤、精神沈滞させることおびただしい。幾度泣き幾度嘆じたことか、実に八年間の連続、私をして喀血病と嘆ぜしめるのも無理からぬと思うのである。
ブレーメル、トルードーの唱導する安静、栄養、空気の三大原則による自然療法の忠実なる実行も、遂にこの出血は止め得なかった。某通信療養者の会員だった私は精しく病状を記して、N博士の指導を仰いだが、安静を忠実に実行することのみに返事は終始していた。
遂に病苦に沈湎する私から、運命は最上の看護者の母を奪い去った。昭和一七年一二月、「せめて一足なり庭先位歩ける迄にして死にたかった」の一語を最後に、苦悩多き七〇の生涯を閉じた。逆境に立っても、決して動じた事のなかった母丈に、この言葉は断腸の思いできいた。階上と階下に分れて、遂に死顔すら見る事も出来ぬままに、納棺の釘音が、母と子の別れの曲となった。それからは、七二の老父に看られての生活、学者型の父丈に細々とした水仕事は辛らかったに相違ない。逆境は更に逆境を生む。一八、一九、二〇と三年に四度の大洪水に遭って、家財一切水浸しにも遭った。
戦況の不利は、いつしか療養生活の上にも変化を来たし、米粒すら見ぬ日も幾日か続いた。肉も、魚も、卵もとうの昔に食膳から姿を消していた。信奉していた栄養説も根底から崩れていった。野菜に、野草、それで生きている以上変らざるを得ないのである。
当時、厚生省予防局長、高野六郎博士の「人間が徹底的に栄養が不足すると結核は進行しない。という説が有る。先天性虚弱児童をみても分る如く、之等児童は決して結核にかからない。体力のないものは、かからないのだ。結核患者で、こうした食事情を機に、実験台になる人はないか、結核は籤と同じだ。どこまで行って治るか分らない。重いといって悲観も出来ないし、軽いとて楽観も出来ない。とすればこの方法で救われるかも知れないのだ」との随筆を読んだ時、完全に私は分らなくなった。そしてどうせ現代医学から見限られた自分なら、今度はこちらで医学を見限ろうと決心した。
然し人間の弱さだろうか、効のないと知りつつ、兄弟、知人の親切にくれる民間薬に、若しやと望みを継いで呑む度、反応は直に現われて、異様な喀血を誘発させる丈で有った。疲労困憊なすところを知らず、天井に向って長溜息をもらすよりなかった。
小酒井不木の「闘病術」に失敗し、自然療法に信頼出来なくなった身は、如何にすべきか、思考はただ一処を空廻りする丈であった。下根の徒と感じないではいられなかった。それも機縁の熟する迄の過程で有ったのだろう。
私の村にも、メシヤ教の教が入ってきた。救いの道は知らぬ間につけられていたのである。然し容易に迷わずその大道に出るは難しい。様々の神の道を教えられて、そして総てに失望し、中でも霊験いやちこと称するある祈祷師は、後一年の命と託宣を下したが、それから六年死にもせずいた丈に、神にも心傾ける事もうとましかった。
然し、神の大愛は、如何なる小さき者をも見捨て給わぬのである。昭和二四年夏、先ず兄の入信に依り、暗黒の世界に光はさし初めた。けれども猜疑深くなっている私は、その手を振る仕種が馬鹿らしく、そんな事でとニヒルな目でみつめていた。その反面、人間心理の面白さ、なんでもいい救われたかった。一度、二度と浄霊うける度、五体に生気の溢れるは覚えたが、自ら起上る気力は欠けていた。
「病気は浄化作用、喀血を怖れるな、せめて一足と望んだ母の墓に、這ってでも詣ってから死ね、それ丈でも、心配かけて心残して逝った母への孝養だと思わんか、汚い病気で朽ちるよりどれ丈立派か知れない」励まされ、漸く起上る気になった。怖れた喀血も有った。血痰も有った、然しその都度浄霊によって切抜けて行った。
奇蹟は有るのである。この脆い喀血性は、アレルギー性だといい、欝血性だともいわれるが、どちらにしても要するに癒ればいいのである。月の殆んどを埋めた赤い痰も、やがて白が多くなる日に変って急速に元気になって行った。
はじめて大地を踏んだ感激は今もって忘れ得ない。人目につくところに出た時、記憶の中から喪失されかけていた人間だった私は、声もなく驚きの目で迎えられる丈で有った。私にとっては、むしろ子供達の成長が驚きだった。八年の歳月をまざまざとそこに見たのである。
櫟林の木立から、バラバラと音を立てて、黄葉が墓標に降りかかる秋の昼下り、今は一本の墓標と化した母の墓に私は静かに額ずいた。墓標の文字さえ、もう風化しかけて、額ずけば様々の想出が去来して嗚咽がひとりでに洩れるのだった。どの位いたであろうか、私の前後左右に、しきりなしに黄葉が散りかかっていた。一つの責は、今果したのである。これから先、私の行くべき道は何であろうか、深い感慨に打たれて、静かに丘を下ってきた。
その年の一二月、M先生から、親しく教修を受けて、御守を頂いた。諸先生から、信者から、浄霊をうけつつ、浄化も有ったが、益々元気になって行った。
元気になればなる程、一人でも多くの人に、この喜びの世界を知らせ、導いて上げたいと感じ、無理乍らM先生に、I中教会での御手伝をさせて頂きたく御願した。快く許して頂いた折の喜びは、たとえ様もなかった。島根県の西から、西宮への長旅も御守護により無事に教会に着かせて頂いた。
間もなく熱海へも参拝させて頂き、そして今日に及んでいる。様々の消長は有ったが、益々元気にさせて頂いている。御参り毎に、明主様の御光、直接に浴びさせて頂き、生きる喜びを知り、己が倖せを沁々と味う今日此頃である。ただ願うは、現世地上天国建設に些かなりと誠捧げて、一日も早きその日の到来のために、粉骨砕身したい念願である。
大分県 S・M
私は昭和二一年三月教修を頂き、其後光明如来様を御奉斎、毎月の例祭にも御詣りさせて戴き、今では微力ながら人類救済の為に尽さして頂いています。
私は些かながらも神を信ずる有神論者の一人であります。然し初め一、二年の間は、今迄の信仰観念が抜切れず、勿体ない話ですが、全身全霊を打込んでまで信仰するという程にまではなれませんでした。けれども其間数々の御利益を戴いているだけは否定の出来ない事実であります。この偉大なる御神力の前には私も心機一転せざるを得なくなりました。
その数限りなく戴いた御加護の一、二を御報告させていただきます。昭和二五年一月頃でした。三男(五歳)と四女(七歳)の二人が同時に百日咳にかかり、御浄霊によって三男の方だけは間もなく元気になりましたが、四女の方は一向に良くならず、日に日にわるくなるばかりです。その頃私は大工職で、幸いに近所の仕事をしていたので光明如来様にお願いし、朝仕事に出る前に浄霊をして、昼も帰って来、夕方帰っては又御浄霊と、毎日一心に続けましたがただ悪化するばかり、ついに肺炎になり、神様の力も及ばなかったのか殆んど絶望状態におちいりました。もはや助からぬとすれば、診断書をとる都合もあるから一度は医師にみせておかねばと思いましたが、すでにその時は動かす事さえ出来ぬようになっているので、医師をよぶより仕方ないのです。今日よぶか明日よぶかと考えているうち二日三日と過ぎました。処がどうでしょう。助からぬと思った病人は段々快方に向いはじめました。ああ助かったと思った時の一家の喜びは筆や口では言い表わせません。ただ「有難うございました」の言葉だけです。光明如来様の御利益、それは理論ではありません。私はその時信仰の有難さをしみじみと味わいました。
明主様有難うございます。
大阪府 M・T
光明如来様に救われ、苦悩のドン底より、歓喜に満ちた生活へ転換さして頂いた私の尊い体験を、御報告さして頂きます。
幼い時から至って病弱でしたが、一三の時肋膜炎にかかり、どうやら学校は終えたものの、数年後、風邪を引き医師の診断を受けた処、肺結核と言い渡されました。AOの注射、ヤトコニン、漢方薬等々毎日の日課にしていましたが、少し良くなったので会社に勤めたら又再発しました。
神戸の或病院でレントゲンをとった処、両肺とも大変わるく、全快の見込なしと医師より宣告されました。それより別府温泉で療養生活を送りましたが病状も大して進まず、二三の時結婚しました。無事に子供も生みましたが、誕生すぎ頃より又悪くなって参りました。遂に愛児を伊丹の姉の所に預け、私は神戸の山で隔離療養する事になりました。日一日とやせ細ってゆくのが目に見え、子供の事を思うと悲歎のドン底におち入りました。丁度その時、伊丹のU様より姉が御浄霊の事を伺い、再三A市のO先生の所へお詣りするようすすめられました。でもこんなになっても未だ医学の迷夢からさめる事の出来なかった愚かな私でございました。U様の御親切なお心も省みずストレプトマイシンを打っていましたが何の効果もなく、いよいよ病状は悪くなるばかりでした。もう
今度こそ私も駄目だと思い、藁をも掴む気持で、A市のO先生の所へお参りさして頂きました。今から思うとほんとうにお恥しい次第でございます。姉が抱きかかえるようにしてつれて行ってくれました。御神前にお詣りしたら大光明如来様の御文字が、金色に光り輝くのが拝されました。先生の一度の御浄霊で、身体がスーッと軽くなりました。何という奇蹟でございましょうか。翌る日は嬉しくて嬉しくて朝早くから一人で御浄霊を頂きに参りました。無信仰な私に斯くまでもあつきお恵みを賜わったこの感激は生涯忘れる事は出来ません。それからはどんどん食欲も出て来て、生れ変ったように元気になりました。お蔭で勤めにも出られ、それより五カ月位の間はお仕事に励まして頂いているうち、一一月に入り浄化を戴き、会社へも行けなくなりました。雨の日も風の日もO先生は御浄霊に来て下さいました。御浄霊頂くと、痰がどんどん出だし、胸の詰ったような息苦しさが大変楽になりました。浄化を頂いて後のすがすがしさ、その気持のよい事は何ともたとえようのないものでございました。そして一一月二五日、いよいよ念願かないK先生から御守を頂く事が出来ました。それからというものは喀痰、喀血、下痢、又下からの出血等、次々と浄化を頂きましたが、その度毎に前にも増して元気になってゆくのがしみじみと感ぜられるのでございます。
明主様、有難うございました。
死から生へと救われた此喜び、そして地上天国建設の一員として参加さして頂いた光栄を一人でも多くの人にお知らせし、御高恩の万分の一にもと、微力ながら日夜はげましていただいております。
長野県 Y・F
私は永年病床にあって非常に苦しみ、光明如来様に救われた者でございます。嬉しさの余り拙文を以て御報告させて頂きます。
観音の御救ひなくば吾は今底なき沼に悩みつづけむ
此明主様の御讃歌にあります通り、本当に光明如来様を知らなかったら、私は今頃どうなっていた事やらと思い出してゾッとする程でございます。昭和一四年の春頃でした。風邪気味で床に就きましたらそれっきり起き上る事が出来ず病床の身となって仕舞いました。人様から嫌われる胸の病だと医者に言われました時の悲しさ、泣いても泣き切れぬ思いでございました。あちらの医者、こちらの医者と世間の人から良いと言われる薬は必ず買ってのみました。然し中々熱はとれず、気ばかり焦って私の病気を治して呉るものは此世にないのかとまで、暗い思いで細り行く自分の顔や手を眺めては涙するのでした。初めの中は母を始め皆の者が掻い所へ手の届く様に手厚い看病をして下さいました。八年間も天井の節穴を数えて暮して居る者には、あきあきしてしまい母や家人も酷く疲れて参りました。母の愚痴を聞く度に母も私も二人乍ら随分泣いたものでした。友人は次々と嫁いで参ります其ニュースを聞く度に自分は病床の身、運命とはいえ余りにも世は無情と一人淋しく又新たなる涙で蒲団の襟を濡すのでした。雨の日も風の日も一人淋しい病床の中で死より外に考える余裕もなく、人様に顔を見られるのも厭な位でした。只私の心を慰めて呉れるものは雑誌『主婦の友』でした。同じ所を毎日見るのも飽き飽きし私は広告の薬の所を何時もよく目を通しました。其中同社発行の林本民間療法の治療法を取り入れてやって見ました。冷水摩擦、日光浴、生姜摩擦と次ぎ次ぎと自分乍ら良くも続くと思う位やって見ました。それ迄に一番よく固めたのが矢張り摩擦で一番よく楽になりました。一時は起き出て庭で遊ぶ事すらありました。其時の嬉しさは譬え様なく、一時は死さえ思われた私ですので何とも言えぬ気持で歩き廻りました。此様子に一番嬉んで呉れたのは矢張り母でした。三年程経た或日「生長の家」というのを知らされて、今度は信仰で行こうかと思い、早速入れて貰いやっている中にどうやら精神だけは救って頂きました。けれども矢張り駄目でした。私の熱心の足らぬのか又々病床の人となり、今度は少し重態でした。其後丁度二四年一月私の体にもお光に包まれる日が廻り合せ、有難い光明如来様に救って頂く事が出来たのでございます。御導き頂いた時の嬉しさは本当に何に譬えん術もなく此神様こそ救いの神と、只もう躍る心に手の舞い、足の踏む所も知りませんでした。お蔭で迷わず一心にお縋りする事が出来、初めて御浄霊をして頂いた時の気持は今迄になく、身も心も軽くなって寝ているのが何となく厭になり飛び起きて仕舞いました。一筋に御浄霊を受けに出掛けました。二月二日一里半程離れた所へ教修会に行く為幾年も歩かなかった足で日帰りで行かせて戴きました。何時もならば足が痛くふらついて困りますのに大して疲れず、少しも休むことなく歩かせて頂きまして、此時の母上の喜び様はもう私以上でした。其後体は軽くなるばかり、家中喜んで信仰に入らせて頂きました。
私も兄も只今では御資格を頂きまして一心に御用を勤めさせて頂いています。又大光明如来様を御迎え奉り、数々の御浄化や沢山な御利益を頂き、御恵みの宏大無辺に感激して居ります。此有難き地上天国建設の大聖業に御用の一端を御尽しする事が出来ます身の幸を思えば、本当に命を捧げて最後まで頑張って頑張り抜く決心でございます。誠に有難うございました。
健やかに今我在るはおほけなくも世尊があつき恵みとぞ思ふ
あな嬉し望みを絶ちし世にしあれど観音知りてゆ希望み芽生えぬ
拙文をも返り見ず天竜川畔に生を賜った嬉びの御報告と致します。
島根県 H・K
五、六年以前風邪を引き出雲市I町のお医者様に診て頂きましたところ、初めは気管支炎と診断され其後も治療を続けましたが、はかばかしくなく医者を何軒も取りかえている中に、だんだん身体が衰弱しますのでレントゲンにかかりましたところ、右の肺が大分曇っているから絶対安静にして栄養を摂り養生をする様に言われました。私はもう肺病の三期になった様な気がし、今にもあの恐ろしい喀血で血を吐くのではないかと思われ、身体中の力が無くなってしまう様にがっかり致しましたが、医師の言われる通りに一室に入り、子供も近づけず、親も伝染を恐れて近づかないような有様で悲歎のどん底に沈み死を待つ許りの有様でした。その時に忘れも致しません。昭和二四年三月二〇日近所のK様が来られまして「先日親戚に行った処、御光さんのS先生が来ていられ、種々話しを聞いているうちに、自分のお腹がなり出した所先生が貴下のお腹は少しおかしいですね。一寸御浄霊をしてみて上げましょうと言われ、自分は日頃元気で何ともないと思っていたのだのに腹具合がおかしいから御浄霊を受けてみました。処が全身電気にかかった如くなり震い出し、立って御浄霊を受けましたが、だんだん前後に身体が動き出し、熱くなり全身汗がだらだら流れ出し、実に不思議なおかげを受けました。先生の御話しでは、殆んどどんな病気でも治るそうだから貴女も先生をお迎えして御浄霊を受けられたらきっと治りますよ」と力強く教えられ、生きかえった如くに嬉しく、早速S先生にお願い致しました。御浄霊を受けますと大変に気持ち良く又先生は「安静にして居ると体が弱る一方だから無理しない程度に動きなさい。御飯も美味しくなりますよ」とおっしゃいました。私はお話しを聞きまして再生の思いが致しました。四月にKさんが入信され、私は五月一七日I先生より教修を受け入信させて頂き、毎日Kさんから御浄霊を受けました。
入信後一〇日ばかりたちました頃、大熱が出まして大変苦しくなりましたので夜Kさんに来て御浄霊を頂き翌日S先生を迎えました。一晩泊って戴き御浄霊を受けました処、その翌朝は忘れた如くに楽になりまして、御浄化と御浄霊の有難さをしみじみ悟らして戴きました。それで一家中おかげを戴きました事が、余りに嬉しく私も手伝ってお餅をついて祝いました。その後薄紙をはぐ如くにぐんぐん快方に向かい、六月の末田植も手伝うことが出来ました。その後全快致し働いて居りました所、今春、H保健所から、村ヘレントゲン検査に来られ、私も写真を取って戴きましたところ、少しも肺病をやったあともなく、きれいに治って居ましたので、お医者さんも大変に驚き、不思議がって「あんな手を振った位で治るものかなあ」と首をかしげられ、私の顔を眺めて居られました。
明主様、大光明如来様本当に有難う御座いました。おかげ様で今日では家内中すっかり健康になりまして子供も一人増え、日々感謝の日を過さして戴いて居ります。世の中には私のような病気でお困りの方が沢山おありと存じます。一人でも多くの方に教えてさし上げ度いと存じましてここに御報告させて戴きます。
明主様、誠に有難う御座居ました。厚く御礼申上げます。
大分県 K・M
観音の御救ひなくば吾は今底なき沼に悩みつづけむ
昨年の今頃をふり返り今日は心身共に大変な変化のあるこの有難さを、明主様、光明如来様に拙文を以って御礼申上げさせて戴きます。
桜の花時は結核患者にとって危機とされていますので、美しく賞でるべき桜花も今迄はうらめしく眺めたのでしたが、先日も早咲の桜花を見て、唯々感慨無量にて春を喜び、花を心から美しいと思える今日の喜びを何と御礼申上げてよいか言葉も見つかりません。
御浄霊を私が初めて戴きましたのは二五年の御盆の日でございました。今にして思えば何かの先祖様の御導きであったかと思われますが……其当時の私の病状は一日中床の中の方が多くて便所に行ったついでに部屋の中をぶらぶらと言う程度のところまで持直した時で御座いました。二三年一一月発病以来少し好いとぶらぶら戸外を歩いたりして、医者の言う絶対安静はせずにいましたら、其度にシューブを起して二五年初めより三八度に毎日の様に昇り、四月頃には盗汗、咳痰が恐ろしい程出て、熱は三九度を越して食欲は全然なく、骨と皮ばかりになり医者より「空洞はあいていると思うから、マイシンを二〇本ほどして、体がもう少し出来たら気胸なり手術なり出来る方をしましょう」と言われ、二児を残しては死ぬにも死に切れず、入院費さえない中を借金してまで一五本マイシンを打ち、それから前記のところまで持直していました。初めて御導を戴いたのはA様、S様と言われるまだ若い方でした。色々と御話を御伺いしても全然信じられず「体に触れる訳でもなし、折角遠い所(大分市より三里の山道)を来て下さったのだから」と言う気持で、御浄霊を戴きました。
若い二人が夏の暑いのに床の両側で手を振る様は勿体ない事でしたが其時は唯可笑しくて此方が恥しいのでした。すると次の日も其次の日も玄関に姿の見えた時は、今考えると申訳ない事でしたが「若いのに御盆の休みを棒に振ってまで、しかもあんなに此方が夫婦で失礼な事ばかり言うのに根気が好いねー」と思いました。そしてふと私は頭の中で手を振った丈で之丈迄持直した体が、若し悪くなる様な事があれば、好くなく御力もあろうから、暫く続けてみようと思い御願い致しました。
其からは大分市のT先生、賀来のH先生の御親切な御指導を戴いて、一一回目の御浄霊を戴く頃より霊気の通るのが解り、日に日に何だか体が軽くなった様で、今迄秋口から春先迄湯タンポが欲しくて、夏でも足先の冷える様なのが何だか温く、咳や痰が沢山出るのに起きても余り疲れない様になり、今迄のマイシン等の医学は固め療法なる事を判らして戴いて一一月三日には大分市迄の山坂道を超えて日帰で出て、御守様を戴きました時の喜しさは一寸此所には書けません。御守護とは申し乍ら足が疲れただけで外に何事もなく、翌日になっても前日あんな体に過ぎた強行をしたとも思えない様で、全く夢の様でございました。この御道の貴さは浄霊をうけて初めて体に分り、御守を戴いて一入有難さが判り、自分で手を振らして戴いて見て、ますます感謝報恩の気持と信念を深めさして戴けますと先生方の言われていた通りだと思いました。
私が御守を戴いて間もなく、N(当時二年三ヵ月)が自家中毒症にて五日間吐き通し、之では体力が持たないかも知れないと心配する迄になりましたが、先生方の「九分迄行っても真心で一生懸命お縋りすれば、後の一分で御守護戴ける」との御導きに力を得て、遂に御守護を戴きました。その時の事、一度は発病して二日目の朝御霊紙を戴きますと、其御水と共に蛔虫が一匹口から出ました。二度目は三日目の朝、私が祝詞を上げて浄霊していましたら、私の胸がカァーと熱くなると同時に、Nが吐気のある様な口をしたと思ったら、又一匹蛔虫のみがニューと出て来た時は驚きました。そして二度共食べたものは全然吐かないのです。それにあれ程の吐気や腹痛のあるのに、夜はグッスリ寝むるのでございます。全く医学では説明出来ない事だと思いました。入信間もなく私共にこんな有難い御浄化の御守護を戴いて、唯々有難く、一つ一つが尊い経験となりました。こうして益々神の御力の偉大さを解らして戴いて、一二月二四日主人も入信させて戴きました。其後私も日増に元気にならせて戴いています。
マイシンで固めた人は浄化も激しいとか考えた事もございますが、薄紙をはぐ様に元気にならせて戴き、昨年は出る度に恐怖の目で見詰めた痰の量も只今では、有難うございますと申したい位でございます。そして只今では自分の救われし嬉しさを一人でも多くの人に解って戴きたいと思い、御恩の万分の一にも届きませんが、地上天国建設のため微力を尽さして戴きたいと念じつつ、感謝の日々を過しています。光明如来様、明主様の大慈大悲に心から御礼申し上げ、此偉大なる御霊徳に浴せる幸福を拙き筆にて、御報告させて戴きます。
明主様有難うございました。厚く御礼申上げます。
香川県 S・S
針をつき刺したように痛む腹をおさえてじっと我慢すること日に数回「余程食物には注意してる心算りであるのに、今日もこいつに悩まされるのか」と三日に一度は来る此の腹痛に自分乍ら情なくなる。結核闘病の四年前、軍医が腸結核の初期症状として危んでいた丈あってそれ以来毎月の下痢、便に血や膿が混って下りる。それに右の痛み、昭和二一年九月元来好きでなかった灸を治す薬がないので仕方なく始めた。二、三日してピタリと右の症状が止った。歓喜した私は三カ月もすれば完全に治ると信じられたので、農繁期も寒い冬の朝も欠かさずに一年六カ月続けたが初めの予期に反して効目は少しずつ衰えて来るように思えた。症状は止ってはいるものの二、三日怠ると昔の樣な症状を訴える私の行手に見つめていた希望は薄れ始めた。ひそかに余命の短いのを覚悟した。
昭和二三年二月二一日若きH先生の誠溢れる布教講話を聞いていた私は、最初懐いていた疑と侮りが頭の一隅におし込められてしまって入信を申出た「これだ」と思った私はその日から灸を止めてしまった。艾も捨ててしまった。
昭和二三年三月一四日、私はI先生より「お守」を拝授した。その晩から手当り次第に浄霊を始めた。そして私は自分で毎日五分間程一週間浄霊すると胃腸は完全に治った。夏でも毛糸の腹巻の外せなかった私がもう腹巻が邪魔臭くなった。血便も膿も止った。爾来、食事は食欲に任せてむら食いを始めた。だが何等の症状も起らない。胃腸の健康と共に悩みの種であった頭重感も一掃されて心気全く一変した。もし本教を知らなければ今頃は他界していたかも知れない。思うだに怖しい過去であった。
御恵に報ひ奉らでおくべきや生きし此身の幸を思へば
それ以来二年、全く無医薬の一家となった。特に子供の疫痢はただ一回の浄霊で治して戴き、脳膜炎は初期の中に僅か一週間で完全に治り只々有難き御利益に溢る一家となった。そして昨年三月一家五人全部入信させて戴き、七月三日には会長先生に大光明如来様を奉斎さして戴き、一〇月二二日にはW先生の讃岐初めての御来駕を賜り、只々身に余る光栄と感泣致して居ります。二年間の信仰生活により病友の悉くが他界しているに拘わらず、最も重症であった私がこうして生き残り、しかも完全な身体になっていることの、意義を悟らせて戴きました。死線を彷徨しつついつも免れさして下さった偉大な力の操りを感じていた私はその御力が何であるか、はっきりと悟らせて戴きました。特に妻が死寸前から甦った時に御手をさしのべて下さったあの不思議な霊現象、光明如来様の御情は私如き不浄の者をも地上天国建設の大事業に使役して下さる厚き御意であったのだ。今宵ひしひしと肺腑に迫り来るものがある。思えば誠に申訳ない事であった。今こそ此の聖業に砕身すべき時である。厚き神の御意に応え奉らでおくべきや。
罪深き此身も尤め給はずて大いなる幸豊に恵まう
魂機張る生命賜ひし御仏に酬はでおかむ我世の限り
岡山県 M・T
光明如来様の有難い御恵により難病をお救い下さり、その上尊いお力まで戴きまして、日々の御守護の感謝の一端を拙筆乍ら御報告させて戴きます。顧みますると一昨年七月頃より、常に腹部に不快を感じる様になり、段々それが悪化し、下痢、十二指腸、心臓脚気、遂には左肺浸潤まで進行し、失望のどん底にて唯新聞雑誌を友として、永い淋しい日を送っていました。そして気胸療法を知り、一生懸命医師の一語一句を守って、少しずつ良くなり炊事も出来る様になり、喜んで居りましたが、もう一歩と思う所で気胸の効果もあまり判らぬ様になり、毎日の天気の様に晴れたり曇ったりした気持で居りましたが、何をするにも根気が続かず、唯無意識な生活を続けていました。すると或日の夕方隣家のNさんが、『救世』新聞を三、四枚持って来て下さいました。其れを隅から隅まで読んでいましたら、自分と同じ難病が全快したことが出ていました。成程大勢の方々がこんなおかげを戴いておられることに気が付き、自分にもおかげが戴けるかしらんと思い、少しばかり気分が晴れる様でした。一度先生の所にいって見る気になりましたら八月九日偶然にも先生がおいでになったから、お話を聞かれたらと新聞を見せて下さった方がお知らせ下さいました。そこでお願いして私の家へ来て戴きました。今まで聞いたことのないお話ばかりで一夜を明かしました。其方はH先生で成程と思われることばかりに五人の家族がうなずくのでした。その先生が御浄霊をして下さいました。最初は何だか恥かしいやらおかしいやらで、そわそわした気分で先生の前に跪くのでした。二、三回して戴くと何となく肩の辺が軟くなった位でありました。先生は色々と病気のことに付いて説明をして下され、兎に角瞞されたと思って一週間の御浄霊を続けてみるように勧めて下さいました。私は駅まで五〇分程もかかる山の上より毎日高梁の仮教会迄お詣をすることに決心を致しました。今まで少し無理をすると頭が重くなり、体全体がだるくなるのでしたが、一週間二週間と毎日坂路を通っても痛まず、大変元気になりました。父母達もこんな私が日に日に良くなるのに驚く程でありました。八月九日よりこのことを知り、入信させて戴くように先生にお願しました。其時父母も理解し私と妹と二人このお力を八月二一日に戴きました。それから段々と御救いの尊いことを知り、弟にもお守を戴き、又尊い御神体を戴きました。其時会長先生、H先生、A先生、そして入信者の大勢の方々に厳粛なるお祭りをして戴き、本当に有難いこととお礼の言いようも御座いませんでした。八月九日より私の病気の事は全然思わぬ位いになり毎日働いています。兄弟三人と尊い御神体まで戴き、誠に感謝に堪えられません。父母達にもこのお守を戴き、一家揃っての信仰が出来る日を祈願致しております。
又昨年秋季大祭にも弟二人とお詣りさせて戴き、尊い地上天国の一木一草一石まで拝見させて戴き、新たなる感激に胸を打たれました。この様に御救い下さる神力の偉大さには只々感謝感激の外ありません。今まで会長先生を始め諸先生のお手厚きお導きに、何とお礼申上げてよいかわかりません。充分なる表現をすることの出来ないのが、残念と思います。今後も諸先生の御指導の下に苦しんでおられる人々を一人でも多く救わせて戴き、御恩の万分の一にもお報いしたいと祈願致しています。色々と御守護有難う御座居ました。
鳥取県 U・K
私の入信させて戴いたのは二三年四月上旬の事でした。神はない、科学科学と教え込まれ、又自分も唱えて来たのですが、病気が無神論の私を救って呉れました。
私は肺結核だったのです。不治の病いとされているだけに私はもとより一家に与えられた影響は大きなものでした。医者だ、薬だ、祈祷だ……と人が良いと教えて呉れるものは皆やって見ましたが、一向に良くなりません。病状は悪化するばかりです。終いには肺ばかりでなく腸まで侵され、医者からは二、三度死の宣告を受けました。其重態にありました私が、京都のH教会よりお出になって居られたY先生に浄霊を受けました処、最初は半信半疑で居た私も驚く程僅かの間に起ち上る事が出来ました。私の死を待っていた周囲の者の驚き様は一通りではありませんでした。
病床を離れて一カ月余りで本部にも参拝させて戴き、以後浄霊に従事さして戴いて居りました処、其後疥癬の浄化をいただきました。起ち上ってから僅か半年位しか経って居りません。殆んど全身に出た疥癬も半年ですっかりよくなりました。まだまだ奇蹟を戴いて居りますが此れにて筆を擱かせて戴きます。厚く御礼申上ます。
東京都 M・T
謹んで御礼旁々御報告させて戴きます。私は満三一歳の大工で御座いまして、二四年七月御教修を戴き、昨年一月一日、光明如来様を御奉斎させて戴きました者で御座居ます。二四年四月当時自分で数えても三十数個、大はピンポン球位から小は小豆位の空洞を認め、医師からは切断若しくは切開の上、整形手術を受けなければと言われて居りました。これより三年前人工気胸に通院中、医家の専門書を盗読したり、折々の医師の言葉を綜合してみますと二期よりも悪く三期よりは肺組織が稍々健全という状態で御座居ました。
さて私は一八歳の折結核の初期と診断され、第一回の療養を初めましたが、三年目毎に再発致しまして、昭和一九年四月第四回目の折喀血をして、遂に床に就いたままになりました。絶対安静を命ぜられ一カ年後空襲で罹災し、郷里に帰るまで屋外に出た事がない有様で御座いました。郷里で人工気胸を初め、最高の時は一〇〇〇㏄を入気して右肺を全部押し縮めて了い、極く少量の運動は許される様になりました。併し何分にも狭い郷土のこととて肺病患者と厭られ、他家との交際すら心遣いせねばならぬ有様で御座居ました。近親者とて同じ事で、病気の苦痛よりもその方の苦痛がより大きく、母の血の結晶たる開墾畠も投げ捨てて自殺的行為と知りつつ上京、肺患を隠して仕事を見付け歩くという仕末になりました。それでも尚母親の慈愛で無い中から一通りの医療を受けたので御座いましたが、一昨年四月、愈々前記の状態に陥入り、生命の保証すら判らない手術を強制され「経過がよくて精々事務仕事位出来よう」との宣告を受けました時の私の胸中如何ばかりか、御察し下さいませ。此時近所の知人宅に布教に御越しのI様と言う信者さんに御会いして、御浄霊をして戴きました。最初はたった三〇〇米そこそこの道を三〇分もかかって、骨と皮ばかりにやつれた肉体を毎夜搬んで、御願いしたもので御座いましたが、一カ月半目には此三〇〇米の道のりの過半は駈足で通える程にまで恢復致し、御教修の御話を賜わり早速御受け致したいと思いましたが、家計之を許さず、其儘一カ月経ち半月分の生活費をさき衣類を売却しましたが工面できず、もう一月延ばそうかと迷いました。そして次の衣類売却に専念致しましたがなかなか売れず困っておりました処を、或方の御同情により立替えて戴き、待望の御守様を予定より一カ月早く戴く事が出来ました。三日目の教修を終り御守様を戴いて帰りますと、早速御守護が御座居ました。肺病故に借家を追い立てられて心安まる部屋すらなかった身に、四畳半一間と翌日から手伝いに来て欲しいと言う仕事とが与えられたので御座居ます。翌日から喜びに苦痛を忘れて、毎日大工仕事を致し、帰りには必ずI様宅へ御寄り致したので御座居ます。当時の御話を聞きますと、私が入った部屋は一晩中臭かったとの事で御座います。
斯の如くにして一〇月には母も教修を戴き、家で浄霊して戴ける様になり、身体の調子も順調に良くなり、昨年末には一通り空洞の整理と浸潤を消滅させて戴けたので御座います。一一月一日と一二月一日の二回喀血が御座いましたが、仕事はその度に仕易くなり、一軒の請負仕事を完了致しましたので、早速御神体を御願い致し、昨年一月一日より御奉斎させて戴きました。
尚、前記御教修の費用調達に関し、更に次の様な御守護を戴きました。私が二四年四月上旬、臥床前に或人から仏壇の作製を依頼されておりました。勤務先が農機具工場で大工が出来ます故、再発で寝付いてからも先方で早く入用の事と思い、部下二名と農機具の師となる人に作製を依頼致しましたが、三人とも一時間もせぬ中に頭痛がして出来なくなり何回しても同じなので、七月迄其儘に捨置いて居りました。教修料を得たさの一念(初めは家計の一助たらんとする積りでしたが)に初めから作り直しましたが、病状には何んの変化もなく二日で完成させて戴き、厚い御守護を戴きました。唯今は時々軽い御浄化を戴きつつ、益々元気で仕事に励ませて戴き近所の方々に御道の話をさせて戴いて居ります。未だ未だ曇り多き身の事とて何の御役にも立ちませず誠に申訳ないとは思い乍ら、御救い戴きました御恩の万分の一にも御報い申し上げたいと、それのみ念願致して居ります。
以上誠に拙文にて恐縮で御座いますが、感謝感激の一端をここに申し述べさせて戴きました次第で御座居ます。
愛知県 O・S
入信させて頂いてより一年余りになります。汚れ多き私を此世に楽しく明け暮れさせて頂けますのも偏に明主様の御力と絶えずお導き下さった会長先生を始め諸先生方の賜と厚く厚く御礼申上げます。
省りみますれば二四年九月の事でございました。何時も早く治る風邪がいつになくひどく、咳も止まらず苦しいので医者にかかりました。レントゲンの結果左肺の上部に曇りがあり安静を申渡されて、それからは言われるより、より以上に療養生活を致しました。三度の薬、二度の体温の測定、人工気胸の憂鬱、良くなったと思えば少しの事で又取り返しのつかぬ病勢となり、初めは無事に通った病院へも日がたつにつれ息苦しく終いには市電の中でうずくまってしまう事もありました。
一一月になれば気候も良くなるからと楽しみにしていましたのに、右の肺に痛みを覚え、二カ月過ぎましても快方に向わず、かえって悪くなって行く様です。その上胃が痛み出し、御飯の度にエビオスを余分に飲んで居りました。
丁度此時、是非救世教のお話を聞いてご覧なさいと近くにお住みのK先生より熱心に勧められ教会まで出掛けました。いろいろお話をきき納得する点が多々あり先ず御浄霊を続ける事に致しました。お薬りは此時からすっかり止めて了いました。その内今迄出なかった盗汗がしっとりと出始め、おさまっていた咳がねむれぬ程に出て思わぬ状態となりましたが、お聞きしている浄化作用と知り、少しの不安もなく毎日教会へ通う事が出来ました。此状態も一〇日程で無くなり、一日一日と元気な体に変り、青白かった顔も艶が出始め、近所の方が何うして急に元気になったかと不思議がって尋ねられる程でした。あれ程痛かった胸の痛みも知らぬ間に消え、お掃除や片づけもぼつぼつ出来る様になりました。お話をきいてより六日目の一一月二三日に母が、一二月一一日には主人共々私迄お守様拝受の光栄に浴したのでございます。此有難き喜びの瞬間は永遠に忘れる事は出来ません。大いなる明主様の尊い御力を微力乍らも未だ知らぬ人にお伝えする事を誓いました。入信により二歳になる長男迄もおかげを頂く事が出来ました。生れてから丈夫な方でしたが三月にかかった百日咳から小児喘息となり、よく風邪を引く弱い子供に変って了いました。私が御浄霊を受けると共に、手初めとして子供に毎日続けています中にいつの間にか一代病気として恐れていた小児喘息が治ってしまっているのです。顔色よく元気一杯遊ぶ子供の姿を眺め、御光様のお蔭の子だと一同喜んで感謝の明け暮れを過しております。処が是程の素晴らしい御利益を戴き乍らも、まだ今迄の唯物主義の頭が残っていて次の様な失敗を致しました。
四月一五日の朝七時半頃でした。少し気持が悪いから横になると言って床に入った母が、見る見る中に苦しみ出し、体をくの字に曲げているのです。唸る声、高熱、顔の青ざめ、眼がくぼみ、小鼻が打ち出して凄い形相になって了い、もう駄目かと思い浄化とは考えられませんでした。医者医者と呻く母の声を耳にして家を飛び出し、往診を依頼して主人を呼びに走りました。家へ辿りつく手前で診察をすませた医者に逢いましたら、心臓が上にあがっただけで心配はないが一本注射をしておきましたとの事、帰って枕辺によって三分もしたかと思った頃、突然呻き声の中に「ああ手が縮む、手が縮む」と片手で引っぱり伸ばそうとするのです。見ている私は胸がはりさける様でございました。間違った事をする人に浄霊をしても張合がないけれどお気の毒だからして上げましょう、とK先生が御浄霊を始めて下さいました。四〇分も過ぎました頃指が伸びてもとの様になりました。此時程御浄霊の尊さ有難さをしみじみと味あわさせて頂きました。苦悶の状態から一時間半、一一時半の時には緊張しきっていた気持も安堵の気持に返る事が出来ました。
母の浄化により薬毒の恐しさを知らせて戴くと共に、信仰心を深めた次第でございます。光明如来様を御奉斎させて戴き、我が家は本当に明るくなりました。御讃歌を奉上させて戴く度毎に胸に迫るものがございます。誠に誠に有難うございました。
宮城県 S・Y
暗黒から光明への文字通り絶望の泥沼に悩み続けて居りました私共が、余りにも尊い光明如来様の御力に、今こうして救われ、喜びの毎日を過さして頂けます幸福は、何に譬え様も御座居ません。明主様に厚く厚く御礼申し上げますと共に、御守護の一端を御奉告申させて頂きます。
戦病を持つ主人Dは勝れない健康の上に、昭和二〇年七月長い事病床にありました。先妻に先立たれ、残された幼い四人の子等の唯一人の親として、内外共に多忙を極めて居りました処へ、同二一年四月私が参ったのでした。幼い頃母親に死別した私は不幸な子等のよき母たらんとして、あれもこれもと胸に希望を抱いて嫁いで来たのでしたが、其翌日から私の悩みの生活は始まったのでした。
と申しますのは、主人の二つになる末の子が百日咳から両肺炎を起し、四〇度前後の熱が二カ月も連続し、主人共々農繁期の五月慣れない生活に戸惑い乍らも、夜の目も寝ずに看病した甲斐もなく、とうとう死なれてしまい、主人は全く打ちのめされた形でした。子供の一〇〇カ日も済ました頃、一寸した食当りから主人が下痢を起し、三週間も続き、血便も出る程の酷さに色々と手を尽しても、中々良くならず其中風邪でも引き込んだのか、二一年の一〇月九日の夜、胸の苦しさと共に四〇度以上の高熱となり、譫言も言ったりするので、吃驚りしてしまいました。取り敢ず応急手当を施し、不安の一夜を過し翌朝早々従弟の医者に診て頂きました。病名は気管支炎、其他胃腸障害、脚気等の余病もあり、相当重症の旨話され、この日から長い五カ年の病床生活は始まったのでした。気管支炎の為トロトロ眠ったかと思うと、豆粒大の汗が総身から流れ出し、忽ち着物も敷布もダラダラになり、一日一〇回以上も取り換え、それが一〇日以上も続いたのですっかり衰弱し、其為戦病肋膜迄再発し、それから絶対安静と医薬療法を続けたのです。幸い従弟が泊りがけであらゆる治療を試みて下さいましたので、二カ月程で床の上に起きられる様になり、主人も私達も喜こんだのも束の間の事でした。一寸した無理から風邪を引き、両扁桃腺を腫らし食事もろくろく摂れない上に、肺浸潤の診断迄下された時の私共の心中絶望のドン底に突落された思いでした。再び安静とあらゆる療法を試み翌年の二月頃は何うやら床の上に起きられる様になり、ホッと喜こんだのも夢でした。今度は戦病当時の肋膜の癒着がはがれ、心嚢炎迄併発し、胸背部の甚い激痛と高熱に又しても安静と朝晩二回ずつの湿布、前にさんざん苛めつけた血管は静脈注射も出来なくなり、一日四、五本ずつの皮下注射を打つのが此頃の日課でした。だんだん暖かになるにつれて快復し、夏頃迄は縁側辺り迄這い出す様になったので主人共々用心していたのですが、旧暦お盆の一六日朝迄何ともなかった主人が、留守にして帰宅して見たらもう生死の境を彷徨する程の変り方でした。その翌日からはパッタリと声まで出なくなり、再び苦痛と懊悩の日が続く様になりました。咽喉が痛み、声が出ないのでお医者様は慢性咽喉カタルだと思うが、或は喉頭結核も心配されるから、充分な消毒と大事をとる様にと言われた時は、涙ばかりが先に立ち、茫然としてなす術も知らぬ程でした。一家の大黒柱と頼む主人の重なる病の床、幼い子等を抱えて一家は全く暗闇そのもの、生死の境をさ迷い乍らも何うして死なれよう。何うして死なされようと一生懸命治病に努め、二二年の一一月幾分快方に向い何うやら愁眉を開いた頃、何んな因縁のつきまといか、俯伏せから一寸頭を擡げただけの事に「アッ」と叫んだまま又々苦悶し始め、まるで頭が室中をフッ飛んで歩く様な感じがするといい、ジッと額を抑え通しで一週間も過し、お医者様からは三叉神経の障害と話されたのでした。
其後も絶対安静、仰向けのまま声もたたず、発病以来二度目のお正月も病床で迎えたのでした。暖かになるにつれて再び元気を取戻し、床から這い出せる程になりましたので、今度こそは起き上れるものと期待して居りましたら、又しても七月六日の午後それまで元気に起きていたのに太り過ぎがもとで、脂肪心臓となり、突然狭心症発作を起し、一時は死と諦める程の重態乍ら、お医者様方の手厚い治療によりどうやら落ち付き、もう起きても大丈夫と話されても、病人の不安は一寸も去らず、ともすると動悸がする、眩暈がするの連続につききりのまま、看護人は御不浄に立つ事も出来なかったのです。それからは一日に強心剤を何本打った事でしょう。
医薬だけでは飽足らず、良いという事は何んでも試み、其他生長の家や闘病雑誌を読み、気長に精神療法を始めたのですが、依然として病人は日に数回の苦痛を訴えるのでした。幾分快方に向って来たと思うと又グッと心臓の苦痛が甚しくなり、其都度お医者様に診て頂いても「大した事はないから、無理しても起きられる様に」と言われるばかりで、別段の手当もなく、でも本人の苦痛は甚しく「仇の子にもこんな病気はさせたくない」と繰返すばかり、余りの苦痛と悩みに、私共の隙を見ては何度か自殺までしようとした事でしょう。共に死んで呉れと願われ、共に涙の日を過した事も幾度あった事でしょう。本当に本人の苦痛の程は側につきっきりの私でさえも想像だも出来ない有様でした。
こうした暗い苦しみの中にも病床三度目のお正月を迎えねばなりませんでした。今年こそいい年であります様にと、神をおろがむ私の眼にはひとりでに涙が頬をつたうのでした。
暖かになっても依然として仰向けに寝た儘よくもならず、又特別悪くもならずに五月の農繁期を過した頃、今度は両肩、腕、背が突然に痛み出し、それ迄筆談で用を済ましていたのが、ペン取る事は勿論、時計のねじ、呼鈴のボタンさえも押す事が出来なくなりました。身動き一ツ出来ない上に口もきけず、おまけに手の自由まで奪われた主人の悩み方は端で見るも気の毒な程、文字板を作っては一字一字拾ってやっと自分の意志を通じさせる為に、自分の思う事の何分の一も人に通ずる事は出来ず、折には文字板を指す力さえもない程の時も度々でした。本人は勿論看護の私迄気ばかり焦るばかり、こうした症状を繰返し乍ら、昭和二五年のお正月も又病床の中でした。空頼みとは思い乍らも暖かになったらと看護に手を尽したのでしたが、相変らず声も立たず眩暈動悸は治まらず、身動き一つ出来ぬのでした。病人の不安は去る事なく、四六時中、つきっきりの看病に病人共々悩みの日のみ送らねばならず、これ程の病人の苦痛も外に、お医者様は何時も「病気は落ちついたから、無理しても起きられる様に、余り病人に手伝い過ぎるから病人が起きられないのだ」と言われるので、無理に病人を起そうとすると、丸で地獄からでも出て来た時の様な苦しい顔して「もう少し待って呉れ、人に言われるまでもなく、一時間が一分でも寝ていたくない」とのみで、手の施し様もなく、唯悩み続けるのみでした。
最後に残された療法は、結核新薬のストレプトマイシンとパス療法、期待薄い療法とは思い乍らも、若しや声だけでも出るようと、パスを服薬して見ましたら、尿量が多いがとても上気して困ると言われ、それでも無理に一本呑んだのでした。ストレプトマイシンは生憎手に入らずに居る中に、近所の方から有難い御浄霊のお話しをお聞きし、早速T先生にお願いして家に来て頂いたのは、丁度二五年の六月の初めでした。
夜も遅かったので寝て居たお布団の上から手を振って頂いただけで、主人はとても体がポカポカして気分がいいと言うので、お暇を見て、其後三回程お願いして御浄霊を頂きました。其都度色々有難いお話や新聞を拝読させて頂き、疑っても治ると不思議な妙智力に絶望に施す術もなく居た私共の心に、有難い御救の道を分らして頂きました。命の親と頼みし薬なしでは夜も日も明けぬ程の主人も、此時から一切の薬をスッパリと止め、唯一筋に大光明如来様にお縋り致しました。
六月一六日T先生にお願いして、一関のO先生にお出で頂き、御浄霊をお受け致しました。先生には一目見るなり「これじゃ起きろと言う方が無理じゃないですか、起きられないのが当然です。体中毒素で一杯ですよ」とおっしゃるのでした。何処に触って見ても痛く無い箇所が無い程の酷さに、本当に驚くばかり、それ以来慈母にも勝る先生から愛と熱の真心を以って、数々の有難いお話や御浄霊を頂き、光明如来様の不思議な救の御力と、明主様の御霊徳の程をよく判らして頂いたのですが、五年という長い年月を悩みに悩み、苦しみに苦しんだ私達は、まさか手を振る如きでと今にして思うと勿体ないお話なのですが、浄化を頂く毎日にこんな事でいいものかしらと思うのでした。でも御浄霊を頂けば必ずその都度病人の気分は不思議によくなっていくのです。
O先生に「手を振り乍ら看護されたら快復が早いですよ」と申され、早速六月二七日、A様のお宅に行って主人の分は私が代行して共にお守様を頂きました。急いで帰宅し主人にもお守様を掛けさせ、共に救の綱に縋らして戴いた嬉しさを喜び合いました。祖先が救われなければとのお話も頂き同じ日O先生、T先生、A様がお出になり、屏風観音様もお祭さして頂いた私共の喜びは、まるで慈母の懐にでも帰った様な安心と心の明るさを覚えるのでした。其晩O先生に早速御浄霊を戴き「今日は楽に動けるから動いて見なさい」と言われ、初めて左横に楽に動けたのでした。枕覆一つ取替えるさえも眩暈だ、動悸だと騒いでいたのに、楽々向く事が出来たので本人は勿論、不思議な神様の御力に驚かざるを得ませんでした。二日程して腹痛の酷い御浄化を頂きましたが、善言讃詞をあげて早速手を振らして頂きましたら、段々落ちついて来るのでした。私が手を振ってもと思うと嬉しくてなりませんでした。でも主人は余りの苦痛から一時は注射もして呉れと迷いも生じた事もありました。
七月一日の朝叔父さんが突然「何か変った事でも出来たんじゃないかと思って来て見た」と言って、お見舞に来て下さったのでした。それは主人の亡くなった父親が夢枕に立ち「急用が出来たから是非来て呉れ」と二度も繰返され、叔父が「病人は何うだろうか」聞いたら「うんBは死にそうだ」と言われたとの事でした。「B」とは亡父の弟分で近くに家を建てて別になる筈だったのが舌癌の為手術の甲斐なく、生れたばかりの子供を残して淋しく死んで逝った叔父さんで、三三年の年忌当りになっていたのでした。
亡くなった父親が信仰の厚い叔父さんの夢枕に立つとは何を意味するのだろうかと、主人は随分考えさせられた様子でした。此頃光明如来様にお縋りした私達に対して、周囲の反対は猛烈だったのです。叔父は「信仰には反対が付物だから、人に何と言われ様と迷わず信仰の道に進む様に」と話されましたので、主人も私も反対の中にあって、一〇〇倍の力を得た思いです。少しでも迷うた事が申訳なく、其日から一生懸命お道に縋らして頂きました。其後も時々心臓の御浄化を頂き、其度何時もお守袋の裏側一杯に青黒く染るのでした。先生にお伺いしましたら、薬毒の故だとお話頂き、一カ月以上も続いて、段々染らなくなり、それと同時に心臓の苦しみも大分楽になって来ました。其後O先生お出の折、光明如来様を御奉斎申上げると、因縁が早くとれるから治りも早いとお話を聞き、早速お祭りさして下さる様にお願い致しました。
七月二二日には勿体なくも本部のK先生を御案内して戴き、先生から懇な御浄霊をお受けし、初めてうつ伏せにして頂きました。相当な苦痛らしく、まるで赤ん坊をお湯に入れた時の様に体中を強ばらして、枕にしがみつくのでした。御浄霊を頂き楽になってから聞いたら「まるで地獄へでも落ちていく様なとても恐ろしい気持だった」と話すのでした。K先生お帰りの折に、「相当の邪霊が働いているからしっかりしなさい、うっかりすると家迄亡ぼす程の邪霊だから命がけでかからねば」とのお話に本当に寒気がする程の思いでした。先生方がお帰えりになった後とても御浄化がきついので、O先生をお迎えして御浄霊を頂き、側で私が『霊界叢談』を読まして頂いて居りましたら、B叔父さんと其息子の戦死したRと祖母らしい人(主人が生れる前に死んだので)が目に浮んだとの事でした。翌日も又同じ様に御浄霊を頂き、『霊界叢談』を読んでいましたら、遠に死んだ婆やとその次にRが冠をかぶってニッコリ笑ったと思う中に、今度はB叔父さんが明瞭しない顔をして出て来たので「アアB叔父さんだなあ」と思ったら、急に足もとからゾクゾクとなり、とても気持が悪いといって酷い顔をしていました。早速善言讃詞をあげて御浄霊を頂きましたら落ちつきました。此時初めて先の叔父さんの夢も、声のたたない原因もわかったのでした。K先生がお出になった時、O先生に舌癌の箇所をよく浄霊する様にと仰言れた由、喉頭結核にしては声がたたないだけで、それらしい症状もなく、不思議に思い厳重な消毒も遂怠り勝ちになっては、主人によく叱られたものでした。声がパッタリ出なくなったのも、丁度お盆の一六日、主人にはB叔父さんの霊が救って貰い度くて、憑依していたと言う事がよく判りました。
B叔父さんの霊が主人に来ていたとは、誰もが想像もしなかった事でした。翌日早速仏壇を拝みお墓参りをして、B叔父さんの家へも屏風観音様をお入れして頂きました。それからはまるで一枚一枚薄紙を剥ぐ様に、一日一日がだんだん楽になって来ました。
七月二九日には酷い御浄化を頂き、電報を打ってO先生にお出頂き、早速楽にして下さいますと同時に、今度は上半身を起して頂きました。病人はまるで地獄からでも出て来た顔といったらいいでしょうか、物凄い顔に母等余りの酷さに逃げる程でした。それ程のも御浄霊を頂くと忽ち楽にして頂ける嬉しさ、光明如来様の無量無辺の御力には唯々有難さで一杯でした。
七月三〇日は朝からのひどい雨にも拘らず、先生方を始め信者の皆さんにお出頂き、光明如来様をお祭りさして頂きました。御讃歌の中に「光明如来斎き奉りし今日よりぞわが家ぬちは明るかるらむ」と御座居ます様に、今迄暗かった家の中も、そして私達の心も急に明るくなった様な、余りの有難さ嬉しさに、何度此御歌を拝誦さして頂いた事でしょう。
八月一二日には又心臓の御浄化を頂きましたが、翌日丁度O先生がH先生を御案内してお出になり、H先生には一週間つきっきりで御浄霊頂きましたのでとても楽になり、先生のお帰りになる頃は、光明如来様を起きて拝む程の元気も出て来ました。
八月二七日(旧暦お盆の一四日)にはA様のお宅に光明如来様の御奉斎がありましたので、私も参加さして頂き、其後主人が二三日から少し浄化していましたので、H先生に留守をお願いして、T先生と御一緒にO先生のお伴をさして頂きました。夕方若い者がとても浄化が酷いからと言って馬で迎えに来ましたので、もう夜も一二時に近かったのですが、O先生に御無理をお願いして、家まで御一緒に来て頂きました。帰る道々先生に何時からお盆棚を飾られ、何時から病人が悪くなったかと尋ねられましたので、二二日の夕方お飾りして二三日から悪かったと申し上げたら「それではお盆棚の故ですから、帰ったらよく御先祖様にお詫してあげるから」と話されて帰宅するや、直に御仏前にお詫びして頂きましたら、もう病人はニコニコする程楽にさして頂きました。それまで凡そ仮死状態七時間、H先生には打っ通し汗だくで御浄霊をして下さいました由、本当に御迷惑をおかけ致しました。O先生によくお伺いしてからにすればよかったのでしたが、何時もの習慣から遂うっかりしてお飾りしてしまい、飛んだ失敗をやったのでした。ここでも霊の存在を明瞭と分らして頂き、目に見えぬ知らぬ事とはいい乍ら、全く恐ろしく思いました。翌日は昨日の今日とは思われぬ程になり、楽に床の上に起きられたのでした。
其後順調に快方に向い、九月五日にはO先生、H先生お出になりましたので、お願いして丸二カ年以上も寝たっきりの床を換えて頂きました。仰向けのまま身動き一つ出来ず寝たままだった床はまるで、人間の鋳型そのもの、これでは体も悪い筈と先生方も驚かれた様でした。敷布団を片づけ様と思って端を持ち上げたら、布団の周囲だけが手に残って、背中の当った部分は下に残ったのです。二枚敷いた布団も厚い畳もみんな一緒になって、まるで一枚の板の様になり丁度よく熟した堆肥の様に真黒に板にこびりついていたのでした。その臭さたるや、本当に口も鼻も目も覆いたい程の酷さ、とても手では取れず草削りを持って来てやっと取る事が出来ました。病人の二カ年の苦痛の程度は聞かずとも、此状態を見ただけで成程と思われ、お医者様が仰言られた様に「大した事はない。勇気がないんだ」という事だけで誰が丸二カ年以上も枕覆一枚取替える事も出来ずに寝たままでいるものがございましょうか。全く驚くばかりでした。
九月一七日家でお祭りをさして頂いた時は何年振りかで着物に帯をしめて礼拝さして頂きましたので、一時は死んだと迄評判された主人の事とて五年振で見る元気な姿に、いらした方々は吃驚りするやら、喜こんで下さるやらで御座居ました。
九月二〇日には初めてうつ伏せから一人で起きて座れる様になり、御飯も初めて起きて頂きました。丸二年以上というもの、雨の日も風の日も、凡そ日に三度共匙でのみ食べさせられていた主人の事とて、何んなに嬉しかった事でしょう。H先生にはお祭以来つきっきりで、誠心溢れる御浄霊頂きましたので、身動きも随分楽になり、この頃から文字板も捨て、微か乍らも少しずつ饒舌れる様になりましたので、私等は嬉しくて嬉しくてこみ上げて来る涙を何うすることも出来ない程でした。
一〇月六日の午後主人の枕元で『光への道』の御神書を読まして頂き、もう一頁で読み終える時になったら、とても眠くてたまらなくなりそのまま眠ってしまい、不思議な夢を見てハッとして目を覚したのです。それは明主様御夫妻がお出になり、明主様から御言葉を頂き、余りの有難さに主人共々御礼を申上げていたところでした。翌日O先生がいらしたので、この事をお話しましたら「大変いい夢を見られたから、必ず御守護を頂けますよ」とお話頂き、有難いやら嬉しいやらで一杯で御座いました。それでは今日は必ず立てるから立たして見ましょうと言われ、両方の足を一時間ずつ浄霊して頂きましたが、曲った膝小僧はなかなか伸びず、片方だけを浄霊して比べてみたら二寸も違うのです。両方よく浄霊して頂いて、立たしてみたら本当に立ったのです。何んなに嬉しかった事でしょう。主人も私も唯涙あるのみ、O先生も我が事の様に喜こんで下さるのでした。
一〇月一一日には初めて畳に足を踏み出し、H先生の御浄霊に依り、それからは毎日杖や肩に縋っては一米、二米と歩き出し、子供等は巻尺迄持ち出す騒ぎに、今日は勝手迄、今日は広間迄と、広い家の中を少しずつ歩く様になり、朝夕の礼拝も家族と揃って出来る様になりました。本当に顔を横に向ける事さえも、眩暈だ動悸だと騒いで居た主人がと思うとまるで夢の様でした。
一一月一六日にはO先生お出になり、五年振でお風呂に入らして頂き、本人の喜び、嬉しさは格別の様でした。二五日の臨時祭にはリヤカーに乗って初めて参加さして頂く事が出来ましたので、会う人毎に吃驚りされました。お祭後背と腰の浄化を頂きましたが半月程で落つき、一二月二五日にはT先生、Uさん、Eさんのお宅の光明如来様の御奉斎に又リヤカーで参加さして頂き、私の生家にまで立ち寄ったら八〇の年寄始めびっくりし、まるで夢の様だと話すのでした。翌日の夜中頃から又腰とお腹の激しい御浄化を頂きましたが、だんだん落付くに従って前よりもズッと身動きも楽になり、今では先生方の真心のお蔭を以ちまして家の中は自由に歩ける様になり、声も相当高くなり、楽に自分の用を話せる程になりました。
本年二月一二日一関の臨時祭には主人共々お詣りさせて頂き、そしてK先生より懇な御浄霊をして頂きましたので、其後は一層元気になり、話す事も歩く事も随分楽にさして頂き、御利益の偉大さに今更の如く、唯々感謝の念で一杯で御座います。本当に私達がこのお道にお縋りしなかったら、今頃は何うなっていた事でしょう。徒らに薬のみに頼っていた当時を思うと、ゾッとする程です。御讃歌にあります様に
其頃を顧みすれば恐ろしも闇路杖なく彷ひし吾
病気の真理も分らず、霊の存在も明瞭分らず、唯悩みに悩んだ当時が、恐ろしく思い出されます。今では一家五人お守様を頂き、暗かった家の中も明るくなり、楽しく希望の毎日を過さして頂けます幸福、唯々明主様への感謝で一杯で御座居ます。此他一二月一二日には馬が酷い腹痛の御浄化を頂きましたが、御守護を頂き、忽ち元気にさして頂き、子供達も度々御浄化を頂きますが、その都度御浄霊の有難さに、薬等全く昔の事の様に忘れる程になりました。此有難い尊いお恵みを一人でも多くの方々にお分ち致し度く、嬉しさの余り拙文も省みず御奉告申させて頂きました。
微力な私共では御座居ますが、御厚恩の万分の一にもお報い致し度いと念願致して居ります。
愛知県 S・T
私は一昨年一一月頃から微熱が出、肩が凝るというよりも何かで圧迫されるような気持で気分がすぐれず、食欲減じ、医師の診断の結果、左肺浸潤として絶対安静を命ぜられました。
その後は、医師の仰せのままに、栄養と薬、注射と養生第一に毎日を送りながら彼方こっちと医師も三、四人代え、診察もして頂きましたがはかばかしくなく、気分的にも少しも良くならないばかりか、強い注射の結果却って胃腸を痛めてしまいました。そうなると胸以上に胃の痛みが苦痛となり、胃腸専門の病院に通うかたわらラジウム療法が良いと聞き、そちらへも毎日根気よく通ってもみ、人様が良いといわれる事なら何でも一応はためしてもみましたがなかなか胃の痛みが去らず、食欲が一そう減ずるばかりで夜も寝れず、ほとほと困っていた所へ、知人から注射でとてもよく治る医師を知っているからと聞かされ、喜んでお願いしてみた処、胃潰瘍の初期だが一〇本も打てばよろしいでしょうと言われ、早速続けているうち、本当に八本目頃から今迄の苦痛がなくなり急に元気になり、嬉しさのあまり外出したり少々家の事などで動き出したら一度にぶり返し、又々以前のように苦しみ、毎日ウンウンうなって注射で一応おさえていただきましたが今度は安静を命ぜられ、家の中を歩くのにも注意し、其間食物も軽いお魚、栄養のある、消化の良い物ばかりで三カ月あまり過したがあまりはかばかしくなく、苦痛と憂欝の日を送っていた処、近所のBさんから御浄霊の事を伺いましたが、何だか手をふった位でどうして病気が治り得ようと、即座に一笑してしまいました。
それから二、三日過すうち、痛みが夜昼となく続いて、食物もろくろくとれず、苦しまぎれにお願いに行きました処、その日、早速U中教会のA先生がお出で下さいまして、その時は幾分期待をかけて第一回目の御浄霊をしていただきました。それが一一月一八日です。翌日もお伺いして、先生の側でお待ちしている中、全身悪寒がして来ました。それでもどうにか御浄霊をすませ、家へかえり、熱を計った処、三九度の高熱です。今迄長い間病身で過して参りましたが、三九度以上の高熱は初めてですので、一時はズイ分驚きながらも、Bさんにお知らせして御浄霊を頂きましたが一向に熱は下らず亦々先生にお願して一時間余も御浄霊していただきましたが変りありません。その翌日も四〇度以上の高熱と盗汗がつづきます。
ただ不思議な事は、それほど熱がありながら、頭を冷してほしいとは一度も思いません。半信半疑の思いで、皆々様からの心配のあまり近所の医師に一度診ていただいてはといわれるまま診察して頂き、解熱剤を夜になって一服服用しました処、三〇分もすぎると、ひどい胃の激痛になやまされ、熱だけは平熱に下ったが、三時間もするとまた元の高熱に戻ります。益々不思議にかられながら、その翌日今度は一服の半分を服用してみた処、やはり前夜と同様胃の激痛です。長年薬と注射に頼っていた私も、初めて薬が如何に毒だという事を実際にみせつけられ、その後はA先生とBさんのお二人様の、誠を以ての御浄霊を続けて頂く中一週間目から徐々に熱も下り出し、食欲も少しずつ出てまいりました。
二八日丁度一〇日目に、先生がわざわざお出で下され、種々不思議な有難いお話を伺いながら御浄霊をして頂き、その後、日に日に元気が出て来て、熱も盗汗もだんだんなくなり、気分的にも大変よく、不思議な事には高熱を出して以来、以前の胃痛はどこへやら殆んどなくなり、半分疑いながらも、目に見えない大きい神様のお力をみせられ、いよいよ私はこれで救われるのだと自信をもって来るようになりました。
ようやく寝床を上げると同時に、一二月一六日から三日間、無事御教修をいただき、有難いお守様を頂いた時は、もう今迄の迷いも疑いもなく、ただただ救われた嬉しさと有難さに、嬉し涙の出るのをどうする事も出来ませんでした。三日間も寝床をはなれて、急に座り通しで翌日はさぞ疲れが出て、また寝床かと思っていたにも拘わらず、不思議に朝起きても何と気分のすがすがしい事でございましょう。今迄長い間ろくろく外出も出来なかった私が、翌日遠方の病院に入院していられる人をお見舞に行く事が出来ました。過去一カ年間、見舞われるばかりで、他人様をお見舞するという事は不可能だった。私のその時の嬉しさも亦格別で、急に世の中が明るくなったような気持でうきうきしてとても朗らかになり、その日以来救われる道はただ一つ、明主様におすがり申すと同時におまかせ申すより他にない事を知らしめて戴き、感謝の日々をすごさせて頂いています。
私ばかりでなく、主人が二〇年来毎日頭痛に悩まされ、放した事のないノーシンの服用も私のような初心の者のしばらくの御浄霊で、必要もなくなり、過日主人も入信さして頂き、一家感謝の日々をすごさせて頂いています。これも全く光明如来様の大慈悲と心よりお喜びさせて頂いており、今後も一そうこの有難い光明如来様におすがりし、病になやまされていられる方々に、一人でも多くこの御力の尊さをお知らせ致そうと、微力ながら御手伝いさせていただいています。
島根県 O・Y
太平洋戦争に召集されました私は、昭和二〇年一〇月海南島より復員、同年一一月自宅より八里程離れた松江市のある造船所に会計係として入社し、汽車にて通勤を始めましたが、一一月より翌年三月迄は寒さの為自覚しなかったのか身体に異状なく、四月となりぼつぼつ暖かくなるにつれて、何となく身体がだるくなり、出勤する汽車の中で少し疲労を覚え、会社へ着けば忘れて仕事を済まし、帰りの汽車で又疲れ、一晩休むと又元気になり出勤するという様な毎日を繰返す内、遂に全然疲労が回復しない様になり、倦怠感甚しく通勤するのが辛くなり、会社を休み二一年五月病院に行って診て貰いました。其結果、左肺門浸潤と診断、安静する様に言われ、会社に病気退社の届を出し、ぶらぶらと遊び、気が向けば畠の草取りもすると言った自然にまかした家庭療養生活を約八カ月続け、身体の疲労も漸く取れましたので、松江の国立病院で再び診て貰いました所、意外にも病気の悪化している事を知らされ、是非入院療養する様勧められました。自覚症状も無いのに一時は不思議に思い、迷いましたが、妹が看護婦をして居り、早ければ早い程短かくて済むからと勧めましたので、漸くその気になり、翌二二年一月、国立病院島根療養所に入院致しました。
そして安静又安静と、只々安静の一語に尽きる療養生活を始めました。療養所は設備も整い、薬も使い、色々と治療して呉れるものと思っていましたのに、別段これといった手当もして呉れず、放任的な治療方法なのに驚きました。
退屈と平凡な為すことなき療養所生活にたまらなくなった私は、いっそ思い切って短期間に勝負をつけてやろうと思い、肺臓外科手術とかを聞きましたところ「一時良くなっただけで数カ年経つと結果は必ず悪くなるから、まあ見合せたら……」と言われ、これは思い止りましたが、今から思えば何という無暴な事を考え付いたことでしょう。全くゾッと致します。廻りに居る患者は見た所何処が悪いのだろうと不思議に思う程肥えた元気なものが多いのに、聞いて見ると自分はもう七年になる。五年になる、僕は三年になるが思わしくないと言う話に、前途は真暗な気持ちになりましたが、外にこれという良い方法もなく、只々医者の言う通り、安静安静と毎日を過しました。其為病気はだんだん固まって参りました。
そして約一年八カ月療養生活を致しましたが、どんどん良くなると言う事にはならず、又周囲の患者の話す状態など見ている内に、之は何年しても医者の方からもう良くなったから退院しても宜いとは言われないかも知れないと言う事に気が付き、又長くなればなる程働く気力が無くなると思い、昭和二三年九月医者がまだ早い、帰っても安静にして夜ふかしや読書もしない様にと言われましたが、退院しましてぶらぶらと自然に任して家庭で養生して居りました。
そして一冬越し又暖かくなりましたが、自分で思う程は良くならず、身体に全然自信が持てずだんだん不安を感ずる様になり、もしや悪くなっては居はしないかと、毎日びくびくしながら日を送って居りました所、果せるかな二四年一一月六日、自転車にて用達しの途中、路上にて少し喀血しました。其時は来るべきものが遂に来たと言う感じで大して驚きもせず、静かに自転車に乗って自宅へ帰り、前途に希望のない絶対安静の療養生活に入りました。そして自分の死場所として後庭に一間四方の板壁杉皮屋根と言う小屋を立てて貰いました。
ところが未だ私を神様はお見捨てになられなかったのか、小屋を立てて下さった大工さんがTさんと言って親戚に当る人ですが、その人がメシヤ教の信者の方でしたので、おかげ話の出ている新聞を見せて下さいまして「実際に自分の近所でも治った人があるから、物は試しだ、御浄霊を受けて見なさい」と勧められました。唯物教育を受けた私は神の力で病気がよくなると言う事は、今迄信じませんでしたが、新聞を読ませて頂いた時、或は助けて貰えるかも知れないと言う感じを受けましたので、喀血してから二八日目の一二月三日、近所へ御出張になりましたA町教会のN先生に、初めて御浄霊を受けました。そして「必ず良くなります。但し二回や三回の御浄霊では良くなりませんから、続けておやりなさい」と力強い言葉に励まされ、前途に何か明るい希望を見出し、毎日毎日一生懸命にA町教会に通い、御浄霊を受ける様になりました。
そして先生の御話を聞き、明主様の御著書を拝読さして頂き、だんだんと御浄霊の意味も分り、今迄の安静療法の間違いを知り、色々と家の手伝もする様になり、病気に対する恐れと言うものが薄くなり、一生懸命に念ずれば必ず救って頂けるという安心立命と言った感じになり、身体も自分でも驚く程軽くなりこそこそと動きますので、却って家の者が余り無理をせず、少しは安静にしたらと言う程になりました。そして同年一二月二九日御守様を拝授さして頂き益々身も心も軽くなり、只今では命を与えられし、御恵みの万分の一にも足りませぬが、R中教会会長I先生並びにA町教会N先生の御指導に依り、御神業の御手伝いをさして戴いて居ります。
明主様、日月地大御神様、希望なき暗黒無明の世界より光明世界に生れ変らして頂きました事を、深く深く御礼申上げます。
愛知県 S・Y
私は一昨年一〇月中旬、突然風邪に罹り半身神経痛になり、医師の診断の結果急性肺結核と宣告され、到底冬は越されぬだろうといわれた程の重態でありました。
当時K町のW先生から光明如来様におすがりすれば、どんな病気でも治して頂けるというお話や、又治った方々の様子を聞かして頂き、医者ではとても治る見込はないから、光明如来様に御すがりしようという母の言葉に従い、W先生の御浄霊をお願いする事と致しました。W先生は一里ほどもある所を雨の日も寒風吹き荒れる中をも御いといなく、朝晩二回ずつ御出で下さいました。その間いろいろとお指図を下さいましたが、殆んど医師の説と反対でまごつきましたが、仰せの通りにしているうちに、流石の難病も薄紙をはぐように良くなって参りました。体内の毒素が溶けて小便となり一日二〇回も出たり、種々変った事がありました。
医師でさえ治るまいと言われた私は、もう助かった喜びで一杯です。嬉しくてたまらぬので充分動く事も出来ない身体で御守様を頂き、苦痛を押して近所を歩き、光明如来様の有難い事を御話し、ぼつぼつ御浄霊をして上げつつ一心に御すがりいたしました。一二月末には起きられるようになり、知らぬ間に治ってしまいました。昨年一〇月に光明如来様を御迎えさして頂き、一段と家の中が明るくなりました。明主様に御面会をさせて頂くようになりましてから一そう身体が軽くなりました。
発病当時を想起致しますと、暗黒地獄から引上げて頂いたような感が致します。もし此ありがたい御浄霊を知らなかったら、先生の御導きがなかったらと考えると、肌に粟を生ずる思いであります。又母は小やかな菓子店を出していますが、次々と御蔭を頂き、数軒ある同業者からもその繁昌ぶりをうらやまれています。
重ね重ねの御利益に、及ばずながら懸命に御用をさせて頂いています。
島根県 F・T
私は一昨年八月頃より肋膜炎で凡ゆる手段を尽してみましたが、何うしても治らず毎日悩み続けていましたが、昨年の四月二日松江日赤病院にてレントゲン撮影致しましたところ、肺浸潤との事で医師より肋膜炎を固めた為、今は気胸も出来ず、絶対安静と言われ、全く死の宣告を受けたような感じが致しました。帰宅後長途の汽車にゆられたためか、発熱致し床に就きました。その一日の精神的な打撃は経験者のみが知る悲惨なものであります。家人は皆顔を見合せるばかりで、全く暗夜に閉されてしまいました。所がそれより二カ月程前、近所の叔母さんよりO町で「信仰で病気をとても良く治される方がおられる」と聞いたのを思い出し、早速六日に父がO町教会に行き、I先生をお迎え致し御浄霊を戴きますと不思議や食も進み、身体が急に軽く胸の痛みも楽になり、半信半疑驚くばかりでした。
一週間御浄霊を頂き其間真心こめ、光明如来様の御霊徳や、病気の真の原因やお道のお話をして下さいました。そして病の方も一回毎に、一日経つ程に良くして頂きました。一週間後には町の方へも歩いて楽に出られた時のうれしさは本当によみがえった様な気が致し、先生も驚ろいておられました。そして其月一八日O町教会へお詣りさせて戴き、R先生より御教修を頂き、父は入信してお守りを授り、五月には自分も入信させて頂き、今迄の苦しみはどこへやら、全くの健康体となり、現在では薬一服飲まず、明るく楽しくお手伝いさせて頂いております。
この話は私がすっかり体力に自信が出来、家人がしきりに止めて心配するのを振りきって、病後はじめて仕事に出た時の事であります。
私の家は大工職でありまして、私もその手伝いに行ったのですが、その工事場が行ってびっくりしたのは、私が病気中ずーっと一年以上も通院した病院の真ん前であった事ですが、側で見ていた人々の話しによると、私の働いている姿を院長さんが、我眼を疑うという様な恰好で暫く見ておったが、やがて本当の私と判るや、いきなりスリッパのまんま飛び出して来たそうです。そして一心に仕事をしている私に向い「Fさん、えらい元気になったなー」とつくづく私の全身を見上げ見下ろしていますので、私は「はーおかげ様で、僕は信仰の力に縋りまして……」と言うと、お医者さんは「まあまあ病気は治ればいいんだからな、まー無理せんように」と言って、呆気ない程あっさりと病院へ入ってしまわれました。後で皆んなと話し合った事ですが「あの院長さんがあんなに驚くのでは、よっぽどFさんが悪くって、治る見込みもお医者さんとしてはなかったからかもしれんなー」と言い合っていました。
一一月には光明如来様を御奉斎戴き、此身にとっては何とも言い得ない光明世界が開かれました。今までの事は夢と消え、明るい希望の生活に入れました事は、一重に現世光明如来様即ち明主様の御慈悲と、お導き下さいました諸先生の賜と深く感謝し、万分の一にも此御恩に沿う覚悟で御手伝いさせて頂いて居ります。明主様有難う御座いました。
拙い筆ではありますが救われました喜びの一端を御報告させて頂きます。
宮崎県 K・M
私は延岡市の或化学工業会社の研究部に籍を置く者ですが、元来物事をどこまでも科学的に究明しなければ夜も日も明けぬ環境にあり乍ら、私が俄然救世教の浄霊作用御利益地上天国建設を全幅的に受入れた事に就て、友人等は今更の如くおどろき、恐らく私のいない折はお茶のみ話のツマにされている事と思います。然し私としては聊かも職場の科学に屈し、宗教へ逃避したものでなく、まして英雄主義や奇行主義的魂胆などの高等戦術?を心得ていたわけでもありません。又
私の入信に就ては家庭的に見ましても、私の実家が郷里で外科医をし、妻の父は内科医ですので、将来私との間に多少の摩擦は免れないと覚悟はしていますが、彼等医者としても救世教の御教示による神霊医術、つまり大自然の法則大真理を認めざるを得ない時期が、遠からず来るものと確信しています。或は既に少しは感得していても商売柄黙殺しているのかも知れません。
此様にかいてくると、私という人間が偉い見識をもった科学者であり、また相当裕福な階級に属する近より難い人種に見えるかと考えますが、私とて戦後映画の筋書通り東京と鹿児島でヒドイ戦災にあい、家財は全く失い、あまつさえ永年勤めていた会社は解体の為職を失い、親子四人で職を求めて東奔西走の末当地に辿りつき、辛うじて下積の研究員として現職にありついたのも束の間、就職二年目に一家の唯一の支柱である私が、医師より両肺結核に侵されている診断を言渡され、もし放置すればここ一、二年の寿命だ。胸廓成形術をやれば幾分寿命は延びるが、未だ日本医学界では両側の手術で成功した臨床例は殆んどないとの冷厳なる宣告でした。ああ自らを殺すは易くとも、私は何としても生き抜かなければならぬあの恐ろしい空襲下生死を共にし、今また悲惨な食住生活を甘んじていてくれる妻子を残してどうして犬死されよう。私は即座に医師に対し、両側胸部手術を施行してもらい、予後はどうなろうと、自分の意志力と天の御守護におすがりして、早速某大学病院に入院さしてもらい、入院後一カ月目に、当院としては当時最初の胸廓成形術が私を実験台として実施された訳です。
其手術までの一カ月間、私はこの大学病院で何を見たか。それは隣のベッドで、次の病棟で、入院当時はかなり元気であった患者達(一般内外科患者)が、病変の度に高価な注射、服薬処置を受け、日に増し衰弱して、遂に不帰の客になってゆく姿を朝夕見る度に、誰にともなく義憤を感じ当代医学に対し懐疑をもち始め、医学の誤謬を接求すること数旬、結論として重病患者の萎縮不活潑になった体細胞に、病変の都度痛みどめ剤のモルヒネ、解熱剤のアスピリン、ピラミドン、消炎剤のサルチール、サルファー、その他種々の高価薬と称せられる化学薬の薬毒が、如何に体質を弱めてゆくかを理解するに至りました。
然し当時私としては救世教は勿論、浄化作用の何たるかも知る由もなく、このあわれな小羊は三度手術台の人となり、幸い手術後熱発も早く納り、食欲が旺盛である事を理由に、実兄の知人である主治医に頼んで一切の服薬と注射をことわり、その後徹底した外気安静療法に入り、食事前後だけは勇をふるって運動し、食欲増進を計りました。然しわずかの健康保健の給付金であってみれば、家族四人の生計費を差引いて、私の毎日とる滋養食たるや想像にあまるものがあるのですが、天を信じ『聖書』(闘病の修養書として)をひもとく度に、心は常に豊になり、不思議に外の同種患者とは日毎に治療成績が離れてゆき、入院後一年目には体重一二キロを増し、二年後(昭和二五年)四月には、日本医学界でも奇蹟に価する両側成形手術の治療者として復職する運びになった次第ですが、この奇蹟は果して医学だけがもたらしてくれたものか。この拙文をお読みになった御方にはお判りになるわけです。偶然に私のとった闘病方針の結果から申しましても如何に救世教の無薬主義が真理であるかが確認されます。
扨てこの春先から単身復職はしてみたものの療養中と種々条件もちがい、折角手術虚脱療法により固結した胸部の病巣が溶けはじめたのか、六月初め風邪で一週間病床に就き、やや再発状態になりました処、救世教入信者のT氏より救世教の御教示御趣旨につき興味ある談話をされ、後で彼の所蔵しておられる一年分位の『光』新聞と、明主様の御著述になる御教書十数冊を貸していただき、それを三日間で読破する程に、私としては未だかつて経験した事のない満足と感激を以て読了し、早速彼にお願してS先生をお訪ねして、いろいろ有難い御導きを頂くと共に、御浄霊の奇蹟的事実に私自身で触れさして戴く中に私の入信の決意は動かし難いものとなり遂に七月初旬、教修を頂かしてもらった次第です。
私の如き者でも地上天国建設者の一員につつがなく加えて頂いた上は、自分の座右銘である誠実を、内的にも外的にもいよいよ現実化して、明主様の御本願に沿い奉らんと、深く心に誓っています。
愛知県 M・A
罪深き私を此迄御救い下さいました光明如来様に心から御礼申上げ、今日迄頂きました御神徳の一端を御報告させて頂きます。
私は昭和二五年一二月に入信させて頂き、その後は希望に満ちた明るい日々を送らせて頂いています。
忘れも致しません。二四年春頃より胃が悪くなり出し、毎日苦しい厭な日を送る様になりました。色々の薬から薬へ、医者の言うこと人の言うことを皆やって見ましたが、一向によくならず、胃痙攣を時々起し、昨年の春頃には一六貫程あった体重が一二貫程になり、会社の勤めも辛く、直に疲労し顔の色は全く無くなり、死人の様な顔だと言われる度に悲しい想いに閉されます。しかし人の言うのも嘘でなく事実なので、どうなるやらと内科の医者に代ってみました。今迄胃腸専門の医者でしたので分らなかったのが、実は肺尖が悪くなっていて、その上十二指腸虫がわいているとのことです。仕方が無く寮に居ては何も出来ぬからと家へ帰って療養しつつ、医者へ通いました。十二指腸虫を下したら良くなると言われた胃も、眼の廻る様な強い薬を服んで虫を出した甲斐も無く、朝食べた食物が夜になっても咽喉につかえて食欲は全くなくなりました。寝たり起きたりの日を送っている内、又今度は急性盲腸に罹り入院手術を受けましたが、手遅れですっかり化膿してしまっているのです。絶対安静で傷口からゴム管を入れ、少しずつ膿を出しては膿の無くなるのを待ちゴム管を抜きました。寝返りも出来ぬ日が半月程続きました。
夜うつらうつらと寝る時に見る夢は、何時も決った様に谷底へ落ちる様な怖しい夢ばかりです。そして目を醒せば私の周囲皆苦しんでいる人達、ああこれが此世の地獄だと思い、神や仏等全く無いものだと世の中も又あらゆる人も、否もっと尊い生みの親迄も怨んだのです「母ちゃん、私はこんな苦しい世の中に生んで欲しくなかった」と何回言ったことでしょう。母はその度看護にやつれた顔に一杯涙を浮べて病室の外へ出て行きました。その姿を見て又私も泣きました。
その中背中が丁度えぐり取られる様に痛み出しました。午後になると決って熱が出てまいります。見舞に来てくれた人と少し話をしても、氷で冷さねばならぬ程熱が上下する様になりました。顔の色を鏡で見てみると土色になり、目はおちくぼみ、頬骨が出て一見三〇歳位の女に見えます。これが私の顔なのかと見詰めている鏡の中の私の顔が涙で何時しか分らなくなり、蒲団の中へもぐり込んでむせび泣きました。
充分診断してもらおうと医師に頼み、レントゲンやら血沈を調べて貰いました。結果は今迄悪かった肺尖は悪化して肺浸潤となり、血沈が八四にもなっていました。一カ月目漸く退院の日です。院長が「盲腸の傷はすっかり良いが、胸の方は悪いから暫く通院する様に、そして無理をしない様に」とくれぐれも注意され退院しました。
久し振りに家へ帰られた喜びも束の間、日頃折合いの悪い兄は長い病気の私を邪魔にし、食事の時も兄の顔色をうかがいつつ食べねばなりません。「働かざるもの食うべからず」等と書いたものを見せてくれます。ああ早く働き度い。皆と一緒に白の作業衣を着て御菓子の包装がやり度い。早く寮へ行かれる様にと心ばかり焦りますが、心とは反対に私の体はぐんぐんと悪化の道を進むばかりです。
通院するのも駅の階段を上るのに大変なのです。手すりにつかまって三段程上り、一休みして又上るのですが息切れがして目が廻りそうです。しかしどんなに辛くてもこれが病気の治る為だと遠い病院へ通いました。しかし日一日と酷くなるので遠い病院へ通われなくなり、近所の医者へ変りました。背中は鉄のカタマリで押えられている様に苦しく、胸は針をさす様な痛み、加えて腹が大きくうつむくことも出来ません。暫くして医者の言うのに肋膜と腹膜を起しているから、療養所へ行きなさいと言ってくれます。しかし療養所から健康になって帰った人を知らぬ私は、悲しみの余り総ての希望を失いました。
兄は相変らず家の中が面白くないと大酒をあおっては、私の枕元で厭なことを言います。隣り近所へ聞える様な大声で「俺はな、兄弟の面倒は見てやらないぞ、出て行け」とわめきます。私と兄との中間に立って母はおろおろと兄をたしなめて呉れます。「ああ母ちゃん、どんなに貴女の胸の中は苦しい事でしょう。私の様な病気の子がある為に」と思い「生きていてこんなに不幸なら、死んだ方が良い」と心に決めました。
それからは明けても暮れても楽に死なれる方法ばかり考えます。しかし生への執着と辛い病苦にはさまれて、悶え続けました。
我身無き後人に笑われぬ様にと会社の寮に置いてある荷物を整理しながら出掛けました。すると友達のHさんが「一度話がある」と言うので行きましたら、Hさんがそれまで頂いた有難いおかげ話を色々としてくれますが、そんな事でと半信半疑の気持です。然し溺れるもの藁をも掴むとか、信じられぬままに浄霊を受けました。
翌日、日頃御世話になる勤め先の工場長、T先生の御宅へ連れて行ってもらいました。浄霊を受けつつ神の尊さ、私と同じ病気ですっかり治った人の話、又先生御自身の体験談を御話し下さいます。何もわからぬ私の心も、いつしかしっかりと行く道が見つかった様な気がします。色々の薬もすっかり止め、一筋に先生の仰言ることを守りました。
四回五回と浄霊を受ける内、あれ程酷かった胃は治り、御飯がおいしくなりました。天にも昇る気持です。ただ嬉しくて御神書や新聞を読ませて頂きました。そうする内に背中の苦しさも胸の痛みも取れ、死人の様な顔色は消え、血色が出だしたのです。夜眠むられなかったのも治り、ぐっすりと眠れる様になりました。余りの御利益の大きさに、今迄の死生観は徹回され、生きられる喜びに