鹿児島県 H・K
私の入院したのは、元傷痍軍人療養所、今は国立病院と看板のかかっている所であります。入所当時昭和二三年には五〇〇人位の収容人員でしたが、現在は六〇〇名以上も収容していましょう。それでも収容し得ない程の大繁昌振りで有難くない結構な事です。
私が入所して半月位して、まだ知らない男が私のベッドの側に来て、用件が済んだ後の話に花が咲きました。此道の先輩なのです。此療養所開設以来の家付患者で、最早一〇年生なのであります。「貴君が治りたいなら医者の言う事を聞くな、熱も計るな、脈もとるな、安静もするな、病気は気からだ、気にかけずに暴れ廻れよ」と申すのであります。私は暴言に驚きました。又感心させられました。
尚続けて申しますには「自分は医者の言う事を聞かずに、此通りに元気になった」「一度は危篤の公電まで打ったのが、今ではこんなに元気に生き返った。公電打って生き返ったのは、此療養所始まって以来二人だ。自分は其中の一人だ、喀血も血痰等も問題でない。自分は痰壺抱えて、血痰吐き乍ら、碁も打ち畠も打った事がある。今一番元気な奴は医者の言う事を聞かない暴れん坊ばかりだ、一〇年位みていると、医者の注意を守る奴は、皆死んだ、元気になったのは暴れる奴ばかりだ、だから貴君も医者の注意は聞かない方がよいよ」と言う訳です。成程と感心する所が多かったのですが、全面的に実行するだけの勇気はありませんでした。一部真似て、一部は医学尊重でした。
後で判りましたが、此男は俳句を得意とし、ホトトギスの二句欄にも載る程の実力らしい。福岡県直方市の野見小朱鳥の菜殻火の同人でした。碁もやるし、歌も唄うし、中々の芸術家でした。私も此男位の勇気があったらもっと早く全快していたでしょうと今では思います。
此他に療養生活中に色々と珍しい事医学で説明の出来ない実例に接しました。或者は医者は危険だからと自重安静を勤めるに反対して、家事の都合で退院して、野菜の仲買所謂カツギ屋をやって元気になって、医者は驚いた。此男は既に五号菌を出していた要保護患者であったのであります。或者は卵大の空洞が出来て、現代医学では絶対に駄目だとされているものが、跳び廻り、暴れ廻ってから全治して了い、医者は判らんと驚き、不思議不思議といっていたものである。
前記の名物男は、絶対安静は絶対にするなと言葉を残して全治退院して福岡県飯塚の一炭鉱の採炭夫として働いている様です。此男は何も宗教を信仰しているのではない様子でしたが、兎に角私の印象深いものがあります。此道を知った今では、殊更に思い合して微苦笑を禁じ得ないものがあります。
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神奈川県 Y・Y
結核!これは真の神を知らぬ曲津の神の虜となった者の為に造られた病ではないでしょうか。私もその仲間の一人でした。昭和二二年の暮に青年層を斃す結核に侵される身となりました。医師より左肺浸潤の宣告を受けた時の心境を御想像下さい。地獄のドン底につき落された気持でした。
母、兄、姉を次々と将棋倒しにしたその結核、ああ遂に私をも斃そうと襲いかかって来たのだ。絶望!これは私の一生忘れる事の出来ない病名です。悶え苦しみながら、皆彼世へ旅立ってしまったのでした。医師はブラブラ養生をして、栄養物を摂るようにとの事でしたので、医師のよいという事はやるだけの事はやりました。誰でも助かりたい、助けてやりたいの一心でした。然し結果はどうでしょう。五人共死んでしまった。その時彼等の言った事は何でしょう。「養生が足らない、体力がない、寿命だ」とただこれだけの言葉でした。何と冷たい言葉ではないでしょうか。五人を一心に助けてやりたいと思って行った誠が、かくも踏みにじられたのです。六番目に私の宣告!断腸の思いでした。
私も右のような運命になるのは火を見るより明かです。一カ月二カ月医師に通いました。忘れもしない明けて二三年一月、或夜半突然喀血をしました。傍に見ていた父の目には光るものがありました。布団をかぶって床に臥す父の姿、自分を忘れ父の寝姿に手を合せるより仕方がなく、私が死んだらこの身寄りのない年老いた父!近所からは肺病一家だと言われて退け者にされ、養老院へ行くだろうか、野垂死をするのだろうかとの思いは、私の胸の中を走馬灯のように駈けまわり、ただ涙が頬を流れるままでした。
翌朝父は起きなかった。一枚の寝床に入って泣く父子二人の姿、何たる悲惨な姿でしょう。その傷ましい父の姿を見た私は何としても病に打勝ち、父を喜ばそうと意を決したかも知れません。然し自分の病は募るばかり、御嶽教、大師、地蔵、稲荷と次々と宗教にすがり続けましたが、良くなる所か衰弱してゆくばかりでした。もう私は神にも見離されたのだと思い、病に打勝とうとする心も遂に花のしおれる如くの有様でした。
朝戸が開かないので近所の方が心配して来て下さったが、朝まで父子二人で抱き合って泣き明してしまったのでした。「今日は、とても良い療法があるって聞いたから知らせに来たのです。光明如来様のお力で、どんな病気でも治されるそうですから、どう、やってもらったら」と、然しそのような事私には考える余地はない。「だめだよ、おばさん、僕は結核だよ」ああこの言葉は人の前ではっきり自分の事を言うにはどれだけ勇気がいるか、然し、私にはそれが言えました。もう近々死ぬのが判っていたから、がその人は「いいんだってよ、胸でも何でも治るらしいよ」と今迄五人を亡くす迄既成療法、信仰療法とあらゆる事をしたのだから、光明如来様だって駄目だろうと笑った位でした。
その人が帰ってから床に入って考えた。真実に治るだろうか。治りたい、父の為にY家の為に、治りたい治りたいの一心でした。やってみるか、やってみなければ判らない。治らないものを治ると言う事は嘘をつく事だ。いい加減な事は言わない事だ。よしやろう、やってもらおう。おそるおそる服を着かえて出かけた。右足をつけば右の胸ヘズーンと痛みが来る、左足をつけばやはり痛い、苦しい、やっとの事で辿り着いた。
中へ入って唖然とした。ただ手を振っているだけで私はがっかりした、気抜けがした。然し来た以上帰る訳には行かず先生に話した。「治るでしょうか」先生は「簡単ですよ、必ず治ります」と、その時の私の喜びは、如何ばかりでしたでしょう。赤児が乳房を吸うあの気持でしょうか、私の番が来た時無意識にやってもらっていた。不思議だ不思議、体が軽くなった軽くなった。もう私は治る治る、有難い有難いと、三度口より出た。今迄の信仰と大部ちがう。何かあるぞと思った。今の今迄唯の一度もはっきりと「治る」と言われた事があったであろうか。これを求めていたのだ。先生のお顔を見ればニッコリと笑っておられ、そのお顔がお観音様のようだった。
教会を出た時は、来る時と斯うもちがうものかと、生れて初めて味った事だ真の喜びとは此事だろう。家に帰ってみればまだ父は床に入っていた。「お父さん」とその声に父は首を上げ、今迄にない元気な声に、父も目をパチクリパチクリ数分後には父子抱き合って泣き合い嬉し泣きの涙でした。前に抱き合って泣いた涙とどれだけの違いさか御想像下さい!
今迄にない盗汗、又牛乳のような真白な小便が出た。不思議というより言葉はない。以後一五日間で肺患三期で、医者の捨てた人間が会社へ入社する状態になりました。光明如来様の御守護によって私等父子の喜び、周囲のおどろき、遂に私は救われたのだ。此喜びを母や兄姉にも味あわせたかった。唯物主義にとらわれていたのだ。ああ恐るべきは唯物教育!薬剤だ!その後医者にレントゲンを撮ってもらったのは勿論です。雲翳がなくなっていたのは勿論です。母、兄、姉を死に導いた医学を呪い悲しみ、又再度この道を通って死に進もうとした私に、真の道標を御示し下さった明主様に御礼を申上げながら、私は声を大にして叫びたい。多くの悩める方々へ、この福音を!これは私達一家のたどった、生々しい地獄絵巻であった事を!
程なく私は尊い尊い御守を拝受さして戴き、以来N先生の御指導を頂き、救世の道に邁進さして頂いています。明主様本当に本当に有難うございました。
長き世の夢は実となりぬらむそれの徴しのはや見え初めぬ
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兵庫県 I・T
母の顔を血しぶきに紅く彩って、先立つであろう不幸をわびた大喀血の夜の憶出、一語毎に噴き出す血液、涙が出たか出なかったか、今も覚えがないが動顛もせず、冷静に処置をしてくれた母の姿は、今も尚私の網膜に灼けついて忘れ得ない。昭和一六年九月九日、青蚊帳が初秋の風にゆれる夜の事であった。
これが以後八年間、絶対安静の床に、私をして膠着せしめ、結核病にあらず喀血病なりと嘆じさせた発端である。
発病はそれよりまだ早い。昭和一三年二月、山東省にて戦傷後、肺浸潤を宣せられていた。一年余の病院生活後、家に帰ってきて、そして九日目、小量の血を吐いたが、喀血とは夢思わず、止血と共に、魚釣り、水泳、山登と、真夏の炎天下真黒になっていた。
一〇月再度の喀血が有ったが、これも間もなく止血して、元の職場に帰るべく上京した。
これが人生運命の転機であろうか、村の医師のいう、単なる咽喉出血と信じ、止血と共に起上り元気になって行ったのだから、あのままで一年も家郷にとどまっていたら、私の人生行路も、もっと違ったもので有ったかも知れない。
京都へ戻って来た私を待っていたものは、所謂社会の恩恵と称せられる種々の健康診断であった。レントゲン線上の極微の陰影を捉らえては、誇大的に恐怖を吹き込まれた。不安にかられて、僅かな微熱の出没にも神経を尖らし、人目をさけて秘かに職場の便所に隠れては検温する様になった。栄養剤と称するものを漁り、或は注射薬に絶大の期待をかけ、そして次々と裏切られていった。
以前二回の出血もはっきりと肺出血と知った。それ以後は兢々として血を怖れた。事後恐怖だから考えれば、おかしな話ではある。
青葉咲く五月、孤影悄然と故郷に戻ってきてそしてこの血の大洗礼である。喀血は前後七日続いた。大小の喀血、よくも血があるものだと思う。体験者の話として、よく一度に二升も三升も吐いたというが、それは誇張がある。色彩が鮮か丈に、気持が動顛して幻惑されてしまい、少しの量でも大仰に感じるからであろう。私は意識が朦朧として、四、五日は正気がなかったからどの程度だったか知らない。家人も語るを欲しなかった。最後の喀血は、魚腸の腐った如き臭気が有ったという。
この折は、医師がまだ生きていたのかと、首をかしげた話があり、今でも村人の話題となって残っている。
秋深まると共に衰えた身にも力が甦ってきた。そして今度は、頻々たる小喀血と血痰の襲来である。起座に移ろうとすると喀血、安静によってやっと白にして、皆となると又赤、精神沈滞させることおびただしい。幾度泣き幾度嘆じたことか、実に八年間の連続、私をして喀血病と嘆ぜしめるのも無理からぬと思うのである。
ブレーメル、トルードーの唱導する安静、栄養、空気の三大原則による自然療法の忠実なる実行も、遂にこの出血は止め得なかった。某通信療養者の会員だった私は精しく病状を記して、N博士の指導を仰いだが、安静を忠実に実行することのみに返事は終始していた。
遂に病苦に沈湎する私から、運命は最上の看護者の母を奪い去った。昭和一七年一二月、「せめて一足なり庭先位歩ける迄にして死にたかった」の一語を最後に、苦悩多き七〇の生涯を閉じた。逆境に立っても、決して動じた事のなかった母丈に、この言葉は断腸の思いできいた。階上と階下に分れて、遂に死顔すら見る事も出来ぬままに、納棺の釘音が、母と子の別れの曲となった。それからは、七二の老父に看られての生活、学者型の父丈に細々とした水仕事は辛らかったに相違ない。逆境は更に逆境を生む。一八、一九、二〇と三年に四度の大洪水に遭って、家財一切水浸しにも遭った。
戦況の不利は、いつしか療養生活の上にも変化を来たし、米粒すら見ぬ日も幾日か続いた。肉も、魚も、卵もとうの昔に食膳から姿を消していた。信奉していた栄養説も根底から崩れていった。野菜に、野草、それで生きている以上変らざるを得ないのである。
当時、厚生省予防局長、高野六郎博士の「人間が徹底的に栄養が不足すると結核は進行しない。という説が有る。先天性虚弱児童をみても分る如く、之等児童は決して結核にかからない。体力のないものは、かからないのだ。結核患者で、こうした食事情を機に、実験台になる人はないか、結核は籤と同じだ。どこまで行って治るか分らない。重いといって悲観も出来ないし、軽いとて楽観も出来ない。とすればこの方法で救われるかも知れないのだ」との随筆を読んだ時、完全に私は分らなくなった。そしてどうせ現代医学から見限られた自分なら、今度はこちらで医学を見限ろうと決心した。
然し人間の弱さだろうか、効のないと知りつつ、兄弟、知人の親切にくれる民間薬に、若しやと望みを継いで呑む度、反応は直に現われて、異様な喀血を誘発させる丈で有った。疲労困憊なすところを知らず、天井に向って長溜息をもらすよりなかった。
小酒井不木の「闘病術」に失敗し、自然療法に信頼出来なくなった身は、如何にすべきか、思考はただ一処を空廻りする丈であった。下根の徒と感じないではいられなかった。それも機縁の熟する迄の過程で有ったのだろう。
私の村にも、メシヤ教の教が入ってきた。救いの道は知らぬ間につけられていたのである。然し容易に迷わずその大道に出るは難しい。様々の神の道を教えられて、そして総てに失望し、中でも霊験いやちこと称するある祈祷師は、後一年の命と託宣を下したが、それから六年死にもせずいた丈に、神にも心傾ける事もうとましかった。
然し、神の大愛は、如何なる小さき者をも見捨て給わぬのである。昭和二四年夏、先ず兄の入信に依り、暗黒の世界に光はさし初めた。けれども猜疑深くなっている私は、その手を振る仕種が馬鹿らしく、そんな事でとニヒルな目でみつめていた。その反面、人間心理の面白さ、なんでもいい救われたかった。一度、二度と浄霊うける度、五体に生気の溢れるは覚えたが、自ら起上る気力は欠けていた。
「病気は浄化作用、喀血を怖れるな、せめて一足と望んだ母の墓に、這ってでも詣ってから死ね、それ丈でも、心配かけて心残して逝った母への孝養だと思わんか、汚い病気で朽ちるよりどれ丈立派か知れない」励まされ、漸く起上る気になった。怖れた喀血も有った。血痰も有った、然しその都度浄霊によって切抜けて行った。
奇蹟は有るのである。この脆い喀血性は、アレルギー性だといい、欝血性だともいわれるが、どちらにしても要するに癒ればいいのである。月の殆んどを埋めた赤い痰も、やがて白が多くなる日に変って急速に元気になって行った。
はじめて大地を踏んだ感激は今もって忘れ得ない。人目につくところに出た時、記憶の中から喪失されかけていた人間だった私は、声もなく驚きの目で迎えられる丈で有った。私にとっては、むしろ子供達の成長が驚きだった。八年の歳月をまざまざとそこに見たのである。
櫟林の木立から、バラバラと音を立てて、黄葉が墓標に降りかかる秋の昼下り、今は一本の墓標と化した母の墓に私は静かに額ずいた。墓標の文字さえ、もう風化しかけて、額ずけば様々の想出が去来して嗚咽がひとりでに洩れるのだった。どの位いたであろうか、私の前後左右に、しきりなしに黄葉が散りかかっていた。一つの責は、今果したのである。これから先、私の行くべき道は何であろうか、深い感慨に打たれて、静かに丘を下ってきた。
その年の一二月、M先生から、親しく教修を受けて、御守を頂いた。諸先生から、信者から、浄霊をうけつつ、浄化も有ったが、益々元気になって行った。
元気になればなる程、一人でも多くの人に、この喜びの世界を知らせ、導いて上げたいと感じ、無理乍らM先生に、I中教会での御手伝をさせて頂きたく御願した。快く許して頂いた折の喜びは、たとえ様もなかった。
島根県の西から、西宮への長旅も御守護により無事に教会に着かせて頂いた。
間もなく熱海へも参拝させて頂き、そして今日に及んでいる。様々の消長は有ったが、益々元気にさせて頂いている。御参り毎に、明主様の御光、直接に浴びさせて頂き、生きる喜びを知り、己が倖せを沁々と味う今日此頃である。ただ願うは、現世地上天国建設に些かなりと誠捧げて、一日も早きその日の到来のために、粉骨砕身したい念願である。
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大分県 S・M
私は昭和二一年三月教修を頂き、其後光明如来様を御奉斎、毎月の例祭にも御詣りさせて戴き、今では微力ながら人類救済の為に尽さして頂いています。
私は些かながらも神を信ずる有神論者の一人であります。然し初め一、二年の間は、今迄の信仰観念が抜切れず、勿体ない話ですが、全身全霊を打込んでまで信仰するという程にまではなれませんでした。けれども其間数々の御利益を戴いているだけは否定の出来ない事実であります。この偉大なる御神力の前には私も心機一転せざるを得なくなりました。
その数限りなく戴いた御加護の一、二を御報告させていただきます。
昭和二五年一月頃でした。三男(五歳)と四女(七歳)の二人が同時に百日咳にかかり、御浄霊によって三男の方だけは間もなく元気になりましたが、四女の方は一向に良くならず、日に日にわるくなるばかりです。その頃私は大工職で、幸いに近所の仕事をしていたので光明如来様にお願いし、朝仕事に出る前に浄霊をして、昼も帰って来、夕方帰っては又御浄霊と、毎日一心に続けましたがただ悪化するばかり、ついに肺炎になり、神様の力も及ばなかったのか殆んど絶望状態におちいりました。
もはや助からぬとすれば、診断書をとる都合もあるから一度は医師にみせておかねばと思いましたが、すでにその時は動かす事さえ出来ぬようになっているので、医師をよぶより仕方ないのです。今日よぶか明日よぶかと考えているうち二日三日と過ぎました。
処がどうでしょう。助からぬと思った病人は段々快方に向いはじめました。ああ助かったと思った時の一家の喜びは筆や口では言い表わせません。ただ「有難うございました」の言葉だけです。
光明如来様の御利益、それは理論ではありません。私はその時信仰の有難さをしみじみと味わいました。
明主様有難うございます。
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大阪府 M・T
光明如来様に救われ、苦悩のドン底より、歓喜に満ちた生活へ転換さして頂いた私の尊い体験を、御報告さして頂きます。
幼い時から至って病弱でしたが、一三の時肋膜炎にかかり、どうやら学校は終えたものの、数年後、風邪を引き医師の診断を受けた処、肺結核と言い渡されました。AOの注射、ヤトコニン、漢方薬等々毎日の日課にしていましたが、少し良くなったので会社に勤めたら又再発しました。
神戸の或病院でレントゲンをとった処、両肺とも大変わるく、全快の見込なしと医師より宣告されました。それより別府温泉で療養生活を送りましたが病状も大して進まず、二三の時結婚しました。無事に子供も生みましたが、誕生すぎ頃より又悪くなって参りました。遂に愛児を伊丹の姉の所に預け、私は神戸の山で隔離療養する事になりました。日一日とやせ細ってゆくのが目に見え、子供の事を思うと悲歎のドン底におち入りました。丁度その時、伊丹のU様より姉が御浄霊の事を伺い、再三A市のO先生の所へお詣りするようすすめられました。でもこんなになっても未だ医学の迷夢からさめる事の出来なかった愚かな私でございました。U様の御親切なお心も省みずストレプトマイシンを打っていましたが何の効果もなく、いよいよ病状は悪くなるばかりでした。
もう今度こそ私も駄目だと思い、藁をも掴む気持で、A市のO先生の所へお参りさして頂きました。今から思うとほんとうにお恥しい次第でございます。
姉が抱きかかえるようにしてつれて行ってくれました。御神前にお詣りしたら大光明如来様の御文字が、金色に光り輝くのが拝されました。先生の一度の御浄霊で、身体がスーッと軽くなりました。何という奇蹟でございましょうか。翌る日は嬉しくて嬉しくて朝早くから一人で御浄霊を頂きに参りました。無信仰な私に斯くまでもあつきお恵みを賜わったこの感激は生涯忘れる事は出来ません。
それからはどんどん食欲も出て来て、生れ変ったように元気になりました。お蔭で勤めにも出られ、それより五カ月位の間はお仕事に励まして頂いているうち、一一月に入り浄化を戴き、会社へも行けなくなりました。
雨の日も風の日もO先生は御浄霊に来て下さいました。御浄霊頂くと、痰がどんどん出だし、胸の詰ったような息苦しさが大変楽になりました。浄化を頂いて後のすがすがしさ、その気持のよい事は何ともたとえようのないものでございました。
そして一一月二五日、いよいよ念願かないK先生から御守を頂く事が出来ました。それからというものは喀痰、喀血、下痢、又下からの出血等、次々と浄化を頂きましたが、その度毎に前にも増して元気になってゆくのがしみじみと感ぜられるのでございます。
明主様、有難うございました。
死から生へと救われた此喜び、そして地上天国建設の一員として参加さして頂いた光栄を一人でも多くの人にお知らせし、御高恩の万分の一にもと、微力ながら日夜はげましていただいております。
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長野県 Y・F
私は永年病床にあって非常に苦しみ、光明如来様に救われた者でございます。嬉しさの余り拙文を以て御報告させて頂きます。
観音の御救ひなくば吾は今底なき沼に悩みつづけむ
此明主様の御讃歌にあります通り、本当に光明如来様を知らなかったら、私は今頃どうなっていた事やらと思い出してゾッとする程でございます。昭和一四年の春頃でした。風邪気味で床に就きましたらそれっきり起き上る事が出来ず病床の身となって仕舞いました。人様から嫌われる胸の病だと医者に言われました時の悲しさ、泣いても泣き切れぬ思いでございました。
あちらの医者、こちらの医者と世間の人から良いと言われる薬は必ず買ってのみました。然し中々熱はとれず、気ばかり焦って私の病気を治して呉るものは此世にないのかとまで、暗い思いで細り行く自分の顔や手を眺めては涙するのでした。
初めの中は母を始め皆の者が掻い所へ手の届く様に手厚い看病をして下さいました。八年間も天井の節穴を数えて暮して居る者には、あきあきしてしまい母や家人も酷く疲れて参りました。母の愚痴を聞く度に母も私も二人乍ら随分泣いたものでした。
友人は次々と嫁いで参ります其ニュースを聞く度に自分は病床の身、運命とはいえ余りにも世は無情と一人淋しく又新たなる涙で蒲団の襟を濡すのでした。雨の日も風の日も一人淋しい病床の中で死より外に考える余裕もなく、人様に顔を見られるのも厭な位でした。
只私の心を慰めて呉れるものは雑誌『主婦の友』でした。
同じ所を毎日見るのも飽き飽きし私は広告の薬の所を何時もよく目を通しました。其中同社発行の林本民間療法の治療法を取り入れてやって見ました。冷水摩擦、日光浴、生姜摩擦と次ぎ次ぎと自分乍ら良くも続くと思う位やって見ました。それ迄に一番よく固めたのが矢張り摩擦で一番よく楽になりました。一時は起き出て庭で遊ぶ事すらありました。其時の嬉しさは譬え様なく、一時は死さえ思われた私ですので何とも言えぬ気持で歩き廻りました。此様子に一番嬉んで呉れたのは矢張り母でした。
三年程経た或日「生長の家」というのを知らされて、今度は信仰で行こうかと思い、早速入れて貰いやっている中にどうやら精神だけは救って頂きました。けれども矢張り駄目でした。
私の熱心の足らぬのか又々病床の人となり、今度は少し重態でした。其後丁度二四年一月私の体にもお光に包まれる日が廻り合せ、有難い光明如来様に救って頂く事が出来たのでございます。御導き頂いた時の嬉しさは本当に何に譬えん術もなく此神様こそ救いの神と、只もう躍る心に手の舞い、足の踏む所も知りませんでした。お蔭で迷わず一心にお縋りする事が出来、初めて御浄霊をして頂いた時の気持は今迄になく、身も心も軽くなって寝ているのが何となく厭になり飛び起きて仕舞いました。一筋に御浄霊を受けに出掛けました。二月二日一里半程離れた所へ教修会に行く為幾年も歩かなかった足で日帰りで行かせて戴きました。何時もならば足が痛くふらついて困りますのに大して疲れず、少しも休むことなく歩かせて頂きまして、此時の母上の喜び様はもう私以上でした。其後体は軽くなるばかり、家中喜んで信仰に入らせて頂きました。
私も兄も只今では御資格を頂きまして一心に御用を勤めさせて頂いています。又大光明如来様を御迎え奉り、数々の御浄化や沢山な御利益を頂き、御恵みの宏大無辺に感激して居ります。此有難き地上天国建設の大聖業に御用の一端を御尽しする事が出来ます身の幸を思えば、本当に命を捧げて最後まで頑張って頑張り抜く決心でございます。誠に有難うございました。
健やかに今我在るはおほけなくも世尊があつき恵みとぞ思ふ
あな嬉し望みを絶ちし世にしあれど観音知りてゆ希望み芽生えぬ
拙文をも返り見ず天竜川畔に生を賜った嬉びの御報告と致します。
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島根県 H・K
五、六年以前風邪を引き出雲市I町のお医者様に診て頂きましたところ、初めは気管支炎と診断され其後も治療を続けましたが、はかばかしくなく医者を何軒も取りかえている中に、だんだん身体が衰弱しますのでレントゲンにかかりましたところ、右の肺が大分曇っているから絶対安静にして栄養を摂り養生をする様に言われました。私はもう肺病の三期になった様な気がし、今にもあの恐ろしい喀血で血を吐くのではないかと思われ、身体中の力が無くなってしまう様にがっかり致しましたが、医師の言われる通りに一室に入り、子供も近づけず、親も伝染を恐れて近づかないような有様で悲歎のどん底に沈み死を待つ許りの有様でした。
その時に忘れも致しません。昭和二四年三月二〇日近所のK様が来られまして「先日親戚に行った処、御光さんのS先生が来ていられ、種々話しを聞いているうちに、自分のお腹がなり出した所先生が貴下のお腹は少しおかしいですね。一寸御浄霊をしてみて上げましょうと言われ、自分は日頃元気で何ともないと思っていたのだのに腹具合がおかしいから御浄霊を受けてみました。処が全身電気にかかった如くなり震い出し、立って御浄霊を受けましたが、だんだん前後に身体が動き出し、熱くなり全身汗がだらだら流れ出し、実に不思議なおかげを受けました。先生の御話しでは、殆んどどんな病気でも治るそうだから貴女も先生をお迎えして御浄霊を受けられたらきっと治りますよ」と力強く教えられ、生きかえった如くに嬉しく、早速S先生にお願い致しました。御浄霊を受けますと大変に気持ち良く又先生は「安静にして居ると体が弱る一方だから無理しない程度に動きなさい。御飯も美味しくなりますよ」とおっしゃいました。私はお話しを聞きまして再生の思いが致しました。
四月にKさんが入信され、私は五月一七日I先生より教修を受け入信させて頂き、毎日Kさんから御浄霊を受けました。
入信後一〇日ばかりたちました頃、大熱が出まして大変苦しくなりましたので夜Kさんに来て御浄霊を頂き翌日S先生を迎えました。一晩泊って戴き御浄霊を受けました処、その翌朝は忘れた如くに楽になりまして、御浄化と御浄霊の有難さをしみじみ悟らして戴きました。
それで一家中おかげを戴きました事が、余りに嬉しく私も手伝ってお餅をついて祝いました。その後薄紙をはぐ如くにぐんぐん快方に向かい、六月の末田植も手伝うことが出来ました。その後全快致し働いて居りました所、今春、H保健所から、村ヘレントゲン検査に来られ、私も写真を取って戴きましたところ、少しも肺病をやったあともなく、きれいに治って居ましたので、お医者さんも大変に驚き、不思議がって「あんな手を振った位で治るものかなあ」と首をかしげられ、私の顔を眺めて居られました。
明主様、大光明如来様本当に有難う御座いました。おかげ様で今日では家内中すっかり健康になりまして子供も一人増え、日々感謝の日を過さして戴いて居ります。世の中には私のような病気でお困りの方が沢山おありと存じます。一人でも多くの方に教えてさし上げ度いと存じましてここに御報告させて戴きます。
明主様、誠に有難う御座居ました。厚く御礼申上げます。
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大分県 K・M
観音の御救ひなくば吾は今底なき沼に悩みつづけむ
昨年の今頃をふり返り今日は心身共に大変な変化のあるこの有難さを、明主様、光明如来様に拙文を以って御礼申上げさせて戴きます。
桜の花時は結核患者にとって危機とされていますので、美しく賞でるべき桜花も今迄はうらめしく眺めたのでしたが、先日も早咲の桜花を見て、唯々感慨無量にて春を喜び、花を心から美しいと思える今日の喜びを何と御礼申上げてよいか言葉も見つかりません。
御浄霊を私が初めて戴きましたのは二五年の御盆の日でございました。今にして思えば何かの先祖様の御導きであったかと思われますが……其当時の私の病状は一日中床の中の方が多くて便所に行ったついでに部屋の中をぶらぶらと言う程度のところまで持直した時で御座いました。二三年一一月発病以来少し好いとぶらぶら戸外を歩いたりして、医者の言う絶対安静はせずにいましたら、其度にシューブを起して二五年初めより三八度に毎日の様に昇り、四月頃には盗汗、咳痰が恐ろしい程出て、熱は三九度を越して食欲は全然なく、骨と皮ばかりになり医者より「空洞はあいていると思うから、マイシンを二〇本ほどして、体がもう少し出来たら気胸なり手術なり出来る方をしましょう」と言われ、二児を残しては死ぬにも死に切れず、入院費さえない中を借金してまで一五本マイシンを打ち、それから前記のところまで持直していました。初めて御導を戴いたのはA様、S様と言われるまだ若い方でした。色々と御話を御伺いしても全然信じられず「体に触れる訳でもなし、折角遠い所(大分市より三里の山道)を来て下さったのだから」と言う気持で、御浄霊を戴きました。
若い二人が夏の暑いのに床の両側で手を振る様は勿体ない事でしたが其時は唯可笑しくて此方が恥しいのでした。すると次の日も其次の日も玄関に姿の見えた時は、今考えると申訳ない事でしたが「若いのに御盆の休みを棒に振ってまで、しかもあんなに此方が夫婦で失礼な事ばかり言うのに根気が好いねー」と思いました。そしてふと私は頭の中で手を振った丈で之丈迄持直した体が、若し悪くなる様な事があれば、好くなく御力もあろうから、暫く続けてみようと思い御願い致しました。
其からは大分市のT先生、賀来のH先生の御親切な御指導を戴いて、一一回目の御浄霊を戴く頃より霊気の通るのが解り、日に日に何だか体が軽くなった様で、今迄秋口から春先迄湯タンポが欲しくて、夏でも足先の冷える様なのが何だか温く、咳や痰が沢山出るのに起きても余り疲れない様になり、今迄のマイシン等の医学は固め療法なる事を判らして戴いて一一月三日には大分市迄の山坂道を超えて日帰で出て、御守様を戴きました時の喜しさは一寸此所には書けません。御守護とは申し乍ら足が疲れただけで外に何事もなく、翌日になっても前日あんな体に過ぎた強行をしたとも思えない様で、全く夢の様でございました。この御道の貴さは浄霊をうけて初めて体に分り、御守を戴いて一入有難さが判り、自分で手を振らして戴いて見て、ますます感謝報恩の気持と信念を深めさして戴けますと先生方の言われていた通りだと思いました。
私が御守を戴いて間もなく、N(当時二年三ヵ月)が自家中毒症にて五日間吐き通し、之では体力が持たないかも知れないと心配する迄になりましたが、先生方の「九分迄行っても真心で一生懸命お縋りすれば、後の一分で御守護戴ける」との御導きに力を得て、遂に御守護を戴きました。その時の事、一度は発病して二日目の朝御霊紙を戴きますと、其御水と共に蛔虫が一匹口から出ました。二度目は三日目の朝、私が祝詞を上げて浄霊していましたら、私の胸がカァーと熱くなると同時に、Nが吐気のある様な口をしたと思ったら、又一匹蛔虫のみがニューと出て来た時は驚きました。そして二度共食べたものは全然吐かないのです。それにあれ程の吐気や腹痛のあるのに、夜はグッスリ寝むるのでございます。全く医学では説明出来ない事だと思いました。入信間もなく私共にこんな有難い御浄化の御守護を戴いて、唯々有難く、一つ一つが尊い経験となりました。こうして益々神の御力の偉大さを解らして戴いて、一二月二四日主人も入信させて戴きました。
其後私も日増に元気にならせて戴いています。
マイシンで固めた人は浄化も激しいとか考えた事もございますが、薄紙をはぐ様に元気にならせて戴き、昨年は出る度に恐怖の目で見詰めた痰の量も只今では、有難うございますと申したい位でございます。そして只今では自分の救われし嬉しさを一人でも多くの人に解って戴きたいと思い、御恩の万分の一にも届きませんが、地上天国建設のため微力を尽さして戴きたいと念じつつ、感謝の日々を過しています。光明如来様、明主様の大慈大悲に心から御礼申し上げ、此偉大なる御霊徳に浴せる幸福を拙き筆にて、御報告させて戴きます。
明主様有難うございました。厚く御礼申上げます。
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香川県 S・S
針をつき刺したように痛む腹をおさえてじっと我慢すること日に数回「余程食物には注意してる心算りであるのに、今日もこいつに悩まされるのか」と三日に一度は来る此の腹痛に自分乍ら情なくなる。結核闘病の四年前、軍医が腸結核の初期症状として危んでいた丈あってそれ以来毎月の下痢、便に血や膿が混って下りる。それに右の痛み、昭和二一年九月元来好きでなかった灸を治す薬がないので仕方なく始めた。二、三日してピタリと右の症状が止った。歓喜した私は三カ月もすれば完全に治ると信じられたので、農繁期も寒い冬の朝も欠かさずに一年六カ月続けたが初めの予期に反して効目は少しずつ衰えて来るように思えた。症状は止ってはいるものの二、三日怠ると昔の樣な症状を訴える私の行手に見つめていた希望は薄れ始めた。ひそかに余命の短いのを覚悟した。
昭和二三年二月二一日若きH先生の誠溢れる布教講話を聞いていた私は、最初懐いていた疑と侮りが頭の一隅におし込められてしまって入信を申出た「これだ」と思った私はその日から灸を止めてしまった。艾も捨ててしまった。
昭和二三年三月一四日、私はI先生より「お守」を拝授した。その晩から手当り次第に浄霊を始めた。そして私は自分で毎日五分間程一週間浄霊すると胃腸は完全に治った。夏でも毛糸の腹巻の外せなかった私がもう腹巻が邪魔臭くなった。血便も膿も止った。爾来、食事は食欲に任せてむら食いを始めた。だが何等の症状も起らない。胃腸の健康と共に悩みの種であった頭重感も一掃されて心気全く一変した。もし本教を知らなければ今頃は他界していたかも知れない。思うだに怖しい過去であった。
御恵に報ひ奉らでおくべきや生きし此身の幸を思へば
それ以来二年、全く無医薬の一家となった。特に子供の疫痢はただ一回の浄霊で治して戴き、脳膜炎は初期の中に僅か一週間で完全に治り只々有難き御利益に溢る一家となった。そして昨年三月一家五人全部入信させて戴き、七月三日には会長先生に大光明如来様を奉斎さして戴き、一〇月二二日にはW先生の讃岐初めての御来駕を賜り、只々身に余る光栄と感泣致して居ります。二年間の信仰生活により病友の悉くが他界しているに拘わらず、最も重症であった私がこうして生き残り、しかも完全な身体になっていることの、意義を悟らせて戴きました。死線を彷徨しつついつも免れさして下さった偉大な力の操りを感じていた私はその御力が何であるか、はっきりと悟らせて戴きました。特に妻が死寸前から甦った時に御手をさしのべて下さったあの不思議な霊現象、光明如来様の御情は私如き不浄の者をも地上天国建設の大事業に使役して下さる厚き御意であったのだ。今宵ひしひしと肺腑に迫り来るものがある。思えば誠に申訳ない事であった。今こそ此の聖業に砕身すべき時である。厚き神の御意に応え奉らでおくべきや。
罪深き此身も尤め給はずて大いなる幸豊に恵まう
魂機張る生命賜ひし御仏に酬はでおかむ我世の限り
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岡山県 M・T
光明如来様の有難い御恵により難病をお救い下さり、その上尊いお力まで戴きまして、日々の御守護の感謝の一端を拙筆乍ら御報告させて戴きます。顧みますると一昨年七月頃より、常に腹部に不快を感じる様になり、段々それが悪化し、下痢、十二指腸、心臓脚気、遂には左肺浸潤まで進行し、失望のどん底にて唯新聞雑誌を友として、永い淋しい日を送っていました。そして気胸療法を知り、一生懸命医師の一語一句を守って、少しずつ良くなり炊事も出来る様になり、喜んで居りましたが、もう一歩と思う所で気胸の効果もあまり判らぬ様になり、毎日の天気の様に晴れたり曇ったりした気持で居りましたが、何をするにも根気が続かず、唯無意識な生活を続けていました。
すると或日の夕方隣家のNさんが、『救世』新聞を三、四枚持って来て下さいました。其れを隅から隅まで読んでいましたら、自分と同じ難病が全快したことが出ていました。成程大勢の方々がこんなおかげを戴いておられることに気が付き、自分にもおかげが戴けるかしらんと思い、少しばかり気分が晴れる様でした。
一度先生の所にいって見る気になりましたら八月九日偶然にも先生がおいでになったから、お話を聞かれたらと新聞を見せて下さった方がお知らせ下さいました。そこでお願いして私の家へ来て戴きました。今まで聞いたことのないお話ばかりで一夜を明かしました。其方はH先生で成程と思われることばかりに五人の家族がうなずくのでした。その先生が御浄霊をして下さいました。
最初は何だか恥かしいやらおかしいやらで、そわそわした気分で先生の前に跪くのでした。二、三回して戴くと何となく肩の辺が軟くなった位でありました。先生は色々と病気のことに付いて説明をして下され、兎に角瞞されたと思って一週間の御浄霊を続けてみるように勧めて下さいました。私は駅まで五〇分程もかかる山の上より毎日高梁の仮教会迄お詣をすることに決心を致しました。今まで少し無理をすると頭が重くなり、体全体がだるくなるのでしたが、一週間二週間と毎日坂路を通っても痛まず、大変元気になりました。父母達もこんな私が日に日に良くなるのに驚く程でありました。
八月九日よりこのことを知り、入信させて戴くように先生にお願しました。其時父母も理解し私と妹と二人このお力を八月二一日に戴きました。それから段々と御救いの尊いことを知り、弟にもお守を戴き、又尊い御神体を戴きました。其時会長先生、H先生、A先生、そして入信者の大勢の方々に厳粛なるお祭りをして戴き、本当に有難いこととお礼の言いようも御座いませんでした。八月九日より私の病気の事は全然思わぬ位いになり毎日働いています。兄弟三人と尊い御神体まで戴き、誠に感謝に堪えられません。父母達にもこのお守を戴き、一家揃っての信仰が出来る日を祈願致しております。
又昨年秋季大祭にも弟二人とお詣りさせて戴き、尊い地上天国の一木一草一石まで拝見させて戴き、新たなる感激に胸を打たれました。この様に御救い下さる神力の偉大さには只々感謝感激の外ありません。今まで会長先生を始め諸先生のお手厚きお導きに、何とお礼申上げてよいかわかりません。充分なる表現をすることの出来ないのが、残念と思います。今後も諸先生の御指導の下に苦しんでおられる人々を一人でも多く救わせて戴き、御恩の万分の一にもお報いしたいと祈願致しています。色々と御守護有難う御座居ました。
(結核の革命的療法 昭和二十六年八月十五日)