一、扁桃腺炎、盲腸炎、手術

現代医学の診断に於て、誤謬の頗る多い事は、多数の患者を取扱はれた経験豊富の医家はよく知ってゐる筈である。何よりも医科大学に於て、診断と解剖の結果とを照合してみれば、思半ばに過ぎるであらう。先づそれ等に就て、事実によって順次解説してみよう。近来、最も多い病気として扁桃腺炎なるものがある。此病気は大抵の人は経験してゐる筈であるから、先づ之から採り上げてみよう。

元来、此扁桃腺なる機能は如何なる役目をしてゐるものであるか、又扁桃腺炎なるものは、如何なる理由によって発病するものであるか、恐らく医学に於ては未だ不明であらう。何となれば、手術によって除去するのを最上の方法としてゐる位だからである。そうして手術の理由としては、扁桃腺は不必要であるばかりではなく、反って有害な存在であるとしてゐる。故にもし医学で言ふ如きものとすれば、それは人間を造った程の偉大なる造物主が、無益にして有害なる機能を造ったといふ訳である。医学が不必要視するものを、造物主は必要とされたのである。-といふ事は洵に不可解極まる話ではあるまいか。仮にそうだとすれば、造物主の頭脳よりも医学者の頭脳の方が優れてゐるといふ事になる。造物主即ち神よりも、人間である現代の医学者の方が上位であるとは驚くべき僣越である。然るに実は、医学者と雖も、造物主に造られたのではないか。医学者が如何に学理を以てするも、一本の睫(マツゲ)一ミリの皮膚さへ造り出す事は到底不可能であらう。故に、扁桃腺が不必要といふのは、その存在理由が未だ判明しないに関はらず、判明したやうに錯覚した結果が手術を生んだといふべきであらう。

然らば、扁桃腺なるものは何が故に存在するのであるか、私の発見によれば、非常に重要なる使命を果してゐるのである。それは人体に於て、最も毒素が集溜し易いのは頸部淋巴腺附近である。そうして此集溜毒素は、浄化作用によって排泄されなければならないので、曩に説いた如く、第一浄化作用によって一旦扁桃腺に毒素が集溜し、凝結し、それが第二浄化作用の発熱によって溶解し、液体となって排泄せらるるのである。即ち、扁桃腺は、毒素の排泄口である。此理によって、扁桃腺の起った場合、放置しておけば、浄化作用が順調に行はれ、普通二三日で治癒するのである。然るに医療は此場合、ルゴールの塗布や氷冷、湿布、解熱剤等によって浄化作用の停止を行ふから、浄化作用と其停止との摩擦を起し、治癒迄に相当の時日を要するといふ事になる。そうして一時治癒したとしても、実は真の治癒ではなく、浄化発生以前に還元させた迄であるから、扁桃腺固結は依然としてゐる。然しそればかりではない。其後に集溜する毒素が加はって、固結は漸次増大する。再び浄化が起る。復浄化を停止し還元させる。斯様な事を繰返すに於て慢性症となり、固結は愈よ膨大する。之を扁桃腺肥大症といふのである。そうして、手術除去を慂めるのであるが、何ぞ知らん、除去しなければならない程に膨大させたのは、医療の結果であるのである。そうして、此様に膨大した扁桃腺は、発病するや激烈なる浄化作用が起るから、高熱は勿論の事、患部の腫脹甚だしく、喉頭は閉鎖され、甚だしきは、水一滴さへも飲下する能はざる程になるのである。斯様な悪性扁桃腺炎を恐るるが故、除去を勧むるといふ事になるのである。然るに自然治癒によれば、扁桃腺炎は、一回より二回、二回より三回といふやうに、漸次軽症となり、畢に全く扁桃腺炎は発病しない事になるのである。

茲で、脳貧血に就て一応説明しておかう。之は扁桃腺炎に関係があるからである。それは仮に、頸部淋巴腺に集溜する毒素が、その排泄口である扁桃腺が失(ナ)いとしたならどうなるであらう。それは其儘淋巴腺附近に停溜固結する。その固結が頭脳に送血する血管を圧迫するから、頭脳の血液が不足する。それが脳貧血であり、神経衰弱でもある。頭脳が朦朧として圧迫感や不快感等の患者が、近年非常に多いのは全く右の如きが原因であることも尠くないのである。

そればかりではない。扁桃腺を固結させるか、又は除去した場合、淋巴腺集溜毒素は出口を他に求めるの止むなきに至る。それは、反対の方向に流進して排泄されようとする。即ち耳下腺を通って中耳に到り、鼓膜を破って排泄されようとするのである。其際、高熱によって液体化した毒素は耳骨を穿孔しようとする。その痛みと発熱を中耳炎といふのである。近来、中耳炎患者の増加したのも全く右の理由によるのである。扁桃腺炎なら、軽症で済むべきものを、医療はより重症である中耳炎にまで発展させる訳である。そうして中耳炎の場合必ず氷冷法を行ふから、液体毒素は方向を転換するのである。即ち中耳に向って流進してゐたのが、頭脳に向って転進するのである。之を医師は“中耳炎に因る脳膜炎”といふのである。斯様に扁桃腺炎を中耳炎に発展させ、終に脳膜炎まで起させるといふのは全く驚くべきである。次に、盲腸炎に就て説明してみよう。之も近来非常に多い病気であって、扁桃腺炎と同じく手術除去を奨めるのである。そうして医学では多く食物に原因を置いてゐる。彼の、葡萄の種が原因といふ学説であるが、私は何時も嗤ふのである。葡萄の種位で盲腸炎が起るとすれば、柿の種や魚の骨など嚥下したら即死するであらう-と。 そうして医療に於ては、最初氷冷によって浄化を停止し、還元させようとするか乃至は直ちに手術を行ふのである。そうして速かに手術せざれば化膿し、虫様突起が破れて急性腹膜炎を起すといふが、之も誤りである。そうして、盲腸手術の結果予後良好で、健康時の状態となったとしても、慢性腹膜炎及腎臓病が起り易くなるのである。それ等は、如何なる訳であるか。左に詳説してみよう。

抑々、盲腸炎の原因は何であるかといふとそれには先づ、盲腸なる機能の役目から説かねばならない。身体不断の浄化作用によって下半身の毒素溜結個所として、盲腸部は上半身の扁桃腺と同じ様な意味である。即ち、第一浄化作用によって盲腸部へ毒素が溜結するのである。其際同部を指頭にて圧診すれば、大小の痛みを感ずるのである。そうして重痛は毒素溜結が強度に達し、盲腸炎即ち第二浄化作用の近づいた徴候であって、軽痛は、毒素の溜結が軽度又は少量なる為である。又其際盲腸部以外の腹部を圧診する時、痛苦があれば腹膜にも毒素溜結があって、急性腹膜炎合併症の前兆である。然し乍ら茲で面白いのは、全身的に衰弱してゐる時は第二浄化作用は起り得ないもので、第二浄化作用が起り得るのは活力旺盛であるからである。故に過激な運動を行った後など起り易い事と、青壮年時に起り易いといふ事はそういふ意味である。又第二浄化作用が起るまでに毒素が溜結するには、大抵数年乃至十数年の長時日を要するものであるから、幼児又は小児には殆んどないにみても明かである。

右の如き理によるのであるから、盲腸炎発生の際は放任しておけば容易に治癒するのである。即ち高熱によって溜結毒素が液体化し両三日経て下痢となって排泄せられ治癒するのである。右の毒素溶解を医学では化膿といって恐れるのであるが、実は化膿するから治癒するのである。即ち化膿した時は下痢の一歩手前であるから半ば治癒したと見做して可いのである。故に、盲腸炎発生時の養生法としては、一日断食、二日目三日目は流動物、四日目五日目は粥、六日目から普通食で差閊へない迄に治癒するのである。そうして自然療法による時には、激痛は半日乃至一日位軽痛二日間位で、四日目からは室内歩行が出来る位になるから、何等恐るべき病気ではないのである。

そうして、盲腸炎の根本原因としては、右側腎臓部に硬度の毒素溜結があり、その為の萎縮腎による余剰尿が盲腸部に溜結したのであるから、右の毒結を解消するに於て決して再発はないのである。又、腹膜炎併発は盲腸に直接関係はないのであって、之は、腹膜部の毒素溜結が同時に浄化作用を起す為である。其際医療は手術を慂める事もあるが、之は予後不良である。故に医師によっては手術を避け、他の療法によって浄化作用を停止し、還元させようとするのであるが、それには非常に長時日を要するので、其結果は漸次腹部の毒素は固結し、板の如くなり、其圧迫によって胃腸障碍を起し食欲不振となり、衰弱甚だしく多くは斃れるのである。

之は、自然療法によるも、三日間位は激痛を堪え忍ばなければならないし、其間絶食のやむなきに至るのである。然し、医療によって生命の危険に曝(サラ)すよりも、必ず治癒するのであるから、三日や五日位の忍苦は何でもないであらう。そうして其結果、猛烈なる下痢を起し、完全に治癒するので、普通二三週間位で治癒し、勿論再発の憂は絶無である。

茲で、手術に就て一言を挿む事とする。今日医学の進歩をいふ時、必ず手術の進歩を誇るのである。之は一寸聞くと尤ものやうであるが、実は大いに間違ってゐる。何となれば患部の機能を除去するといふ事は、人体に於ける重要機能を消失させるので、他に悪影響を及ぼすのは当然である。成程手術後一時的或期間は安全であるが、浄化作用の機関が失くなるとすれば、毒素は他の凡ゆる機能を犯す事になるからである。それは不自然な方法が齎(モタラ)す結果としてそうなるべきである。最も高級で微妙極まる人体の組織であるから、仮令聊かの毀損も全体に悪影響を及ぼさぬ筈はないのである。之を例へていへば、如何なる名画と雖も、画面の一部が毀損さるれば、それは全体の毀損であり、価値は大いに低下するであらう。又家屋にしても、一本の柱、一石の土台を除去したとしたら、直に倒れないまでも、その家屋の安全性はそれだけ減殺される訳である。そうして手術は、病気の除去ではない。病気と共に機能を除去するのであるから、如何に理由づけようとしても、医術の進歩とはならないであらう。私は真の医術とは、病気そのものだけを除去して、機能は以前のまま、生れたままの本来の姿でなくてはならないと思ふのである。そうして手術は外部即ち指一本を除去するとすれば不具者として恐れられるが、内臓なるがため直接不自由と外観に影響しないので左程恐れられないのである。故に私は惟ふ、手術が進歩するといふ事は、医学が進歩しないといふ事である。即ちメスによって患部を欠損させ治療の目的を達するといふ洵に原始的方法を以て唯一としてゐるからである。此意味に於て、今日称ふる手術の進歩とは、医術の進歩ではなく“技術の進歩”であると、私は言ひたいのである。

(明日の医術 第二篇 昭和十七年九月二十八日)