四 米国キリスト教と自観師の共通点

1 渡米前後のキリスト教

自由派の巨頭、エマーソンが「真の米国キリスト教は、新大陸大平原の中に打ち建てられる」と宣言した、その米国キリスト教とは如何なるものか、原始キリスト教に比較して、その進歩変化や如何、これ等の叙述に先だち、米国渡米前のキリスト教と渡米後の経過に触れねばならぬ。

紀元四七四年、ローマ・カトリック教会の「法王制度」成立後、約一〇〇〇年を経過せる紀元一四〇〇年頃のキリスト教は、東に、ギリシア、ロシア、トルコ、セルビア、ルーマニア、オーストリア等の諸国に跨るギリシア教会―東教会―あり。西に、ローマより、フランス、スペイン等の諸国を統轄するローマ教会―西教会―あり。

何れも、その組織に於て、また設備と活動に於ては、極めて堂々たる觀を呈せるも、一度内部を覗かば、高僧と称せらるる者に至るまで、酒色に耽溺し、僧階の進級さえも賄賂によって決せらるるなど、風紀の頽廃言語に絶するものあり。

従ってかかる実状に対する悲歌慷慨の声漸く台頭し、革新を希望する者続出するに至った。此の雰囲気の中に蹶然奮起せるものが、かの有名なるマルティン・ルターその人である。

マルティン・ルターは、紀元一四八三年一一月一〇日、ドイツのアイスレーベンに生れ、青雲の志やみがたく、一五〇一年エルフルト大学に入り、法律を専修し同五年卒業したのであるが、偶々出先より学校への帰途、突然落雷にあい、同伴の学友は忽ち雷撃のために惨死し、ルター自身もまた一時気絶するに至り、爾来世のはかなさを感じて、身を神に捧げる決意を固めたと伝えられる。

かくして総てを神に捧ぐる身となりしルターにとって、ローマは、特に憧憬の都であったに相違ない。然るに一度足をローマに踏み入るるや(一五一一年)、その眼網に映ずるもの、その耳朶に触るるもの、悉くローマ教会と、法王庁の腐敗堕落ならざるなく、遂に彼をして「今までの尊敬は、憤慨と侮蔑にかわった」と絶叫するに至らしめたのである。

一五一二年神学博士となれる彼マルティン・ルターは、一五一五年愈々「宗教改革」の一声を放ち、先ず「贖罪の符」金銭で自分の罪が贖われると言う―の不合理を難詰し、法王庁の罪状九五箇条を列記して、ヴィッテンベルク教会堂の門扉に掲げた。これが有名な「ローマ法王弾劾状」である。

この法王弾劾状は、果然嵐をよんで、民衆の憤激は怒濤の如く高鳴り、法王側の狼狽はその極に達し、あらゆる迫害相つぎ、六四歳、病に斃るるまで絶えなかったのである。

が、その結果「信仰の自由」は合言葉となり、一切のキリスト信者の間に、ローマ法王及び、法王を中心とする、一切の機構から解放され、直接キリストを通じて神と交渉せんとする風潮、恰も燎原の火の如くに伝播し、キリスト教の国々を揺り動かすに至った。

この運動は、ルターが、ローマ法王にプロテスト(反抗)して起った新教義なるが故に、総称して「新教」と呼ばれる。

上述の如く、欧州に誕生せる新教徒は、約三〇〇年以前雪崩れを打って大西洋を越え、新大陸に殺到した。此の新教徒移民群は、東部海岸を後に、アリゲニー山脈を越えて、中央平野めがけて西へ西へと前進し、軈て、茫々三千哩の曠野に達した。

そこには猛獣の群、荒涼無辺の大森林、未開蒙昧の先住民インディアン等あるのみ。何等伝統もなく、歴史もなく従って一点の拘束なく、思うがままに自由の英気を満喫することが出来たのである。

宗教の自由を叫ぶ新教徒が、かかる自由の天地に到達し、ここに発生し成長したのが米国キリスト教である。

勿論渡米後のキリスト教についても、幾多の論争葛藤あり、迂余曲折は免れなかった。が、初期を経て中頃に及んでは、ユニテリアン派の「自由神学」と、これに共鳴する進歩主義の純米国的キリスト教とが、米国宗教界の主流となった。

ユニテリアン派の「信条」を見るに、先ず第一に「キリスト」は「唯一神」を説くために生れた一導師としての「イエス」であって、今日の牧師とかわりなきものと考えているようである。

人間イエスである以上、アダムの原罪説も、三位一体説も、贖罪説も、認めないのは当然で、ひいて、キリスト教の生命とも言うべき「復活」まで問題とされないのである。

何故に「三位一体説」を信ぜざるか、「神」は一つの絶対的霊格である「子」も「聖霊」もそれと一体なりとするのは許しがたき矛盾だと言うのである。

「贖罪」については、一切の人類を皆罪人なりと見、イエスがその罪を贖うために十字架にかけられて死んだと言う如きは、善人にも悪人にも、義者にも不義者にも、一様に日も照らせば雨も降らせる、広大無辺なる神の愛にそぐわぬと言うのである。

ユニテリアン派に於ては「贖罪」を否定する関係より、アダムの原罪説も、人間永遠の刑罰説も反対するのである。

然らば、かくの如く、かずかずの伝統的信条を否定する、ユニテリアン派の尊重する信条は何か、彼等はルカ伝第一〇章二七節に誌さるる「神を愛し、隣を愛すること」の教えこそ、キリスト教の二大原則なりと説き、自由思想の尊重と、個人の人格崇敬とを強調する。

米国民主主義の根底は、その源泉実にここにありと解すべきであろう。

ユニテリアンの自由神学首唱者は、チャニングで、これに一代の文豪としてその名を知られし、エマーソンの共鳴あって、共に米国国民を指導し、自由主義の高揚に貢献した事は有名である。

殊にエマーソンが、その得意の人間至上論を提げて、米国民を鼓舞し、激励して、人間的米国キリスト教を建立したことは、宗教史上特筆すべきことで、英国の文豪カーライルが遥かに書を彼におくりて、彼を礼讃したことも、周ねく世に知らるるとのことである。

また自由主義キリスト教が、かく発展するに及んで、第一次世界大戦後、ボストン神学系統に属する、守旧派を筆頭とする旧新学派の連合攻勢行われ、その結果、連合軍はあえなく惨敗を喫し、自由主義派は、米国キリスト教の主流として、益々隆盛を加え、今日に至った。

尚お、此の新教派は「プロテスタント」としての清教徒主義者に対して、「モダニズム」を標榜するを以って、新教中の新教派、即ち「新新教」と呼ばれておる。

米国に於ける新旧両派の抗争終って、次に行われたのが、キリスト教対科学の思想戦である。この論戦は、『旧約聖書』の「創世記」―神万物を造る―の説と、ダーウィンの進化論が中心となって熾烈を極め、一時キリスト教の危機をさえ思わせるものがあった。

然るにその結果科学的宗教の出現を見、以て科学者の批判に応えるに至った。クリスチャン・サイエンスと称する新新教もその一つである。

クリスチャン・サイエンスは、グロヴァー夫人を開祖とし、宗教と科学の妥協せるものと目され「唯一神」と「キリスト」と「心」との三つを立てて、人の心と神と、キリストとの感応道交を説き、この感応道交によって、万病も平癒すると主張する。

現に教徒三〇万を数え、『クリスチャン・サイエンス・モニター』と題する大新聞を刊行し、堂々の陣を張って、その宣伝に努めつつある。またその外、自然科学に基盤をおき、科学によって新神学を組織せんとする機運が漸次濃厚化しつつあることも見のがす可らざる事実である。

米国キリスト教が、旧キリスト教の伝統に拘束さるることなく、自由の天地に、自由の意志を以って、自由主義的色彩を多分にただよわせつつ発展し、更に科学とも協調しながら、時代と共に進み、時代に応じて益々神の愛を讃え、永久に神の恵にひたらんと、新鮮、溌剌、の妙味を発揮しつつあること、実に叙上の如くである。

吾等は今更ながら、米国人の優秀なる進歩性に驚服せざるを得ないのである。宗教もかくありてこそ、永遠にその生命を保ち得て、よく変遷し行く世に適応し、進化してやまざる人の機根に相応して、絶えず宗教としての使命を全うし得るもの、今日の仏教が、兎角萎靡沈滞して生気を失い、旧態依然僅かに葬祭の行事によって、奄々たる気息を保持しつつある状態は、吾等の大に省察を要するところである。

宗教と雖も、その行わるる国の国民性によって、或は隆盛を招来し、または沈滞に堕するは当然にして、米国民がよくイギリスの真骨頂を捉えて、夾雑物に毒せらるることなく、一定の規矩に固執することなく、その精神を活かして時の流れに順応せしめ、常に精神の糧となし、絶えず生活の潤いとなし、文化文明の基盤となしつつ、威風堂々たるキリスト教国民としての範を示しつつある壮観は、これ偏えにその国民性による。

吾等は、国民として、また仏教国人として、深く考え、大に学ばねばならぬ。

2 自観師の教義と米国キリスト教義の類似点

自観師とクリスチャン・サイエンスの病気治癒

岡田自観師は曰う。

「宗教は時代に適せねば、人を救うことは出来ない。昔、その時代の人々に適応したからと言って、それを現在の人々に適応させようとするのは無理である。

今日、既成宗教が、宗教としての使命を十分に達成し得ない状態にあるのは、この理による。されば神は、その時代により、その環境を撰んで聖者を出だし、その時代に応じ、その環境に適する教えを垂れ、人を救い、世をただすのである」と。

師はこの見地にたって、教団を組織し、教えをひろめつつあるようである。故に師の最も高調するところは、「平和」であり、「自由」であり、「幸福」である。此の点米国キリスト教徒と全然同一である。

治病に力を注ぐも、人の最大不幸は病であるからである。貧を除去せんとするは、何人にも自由且つ平等に幸福なる生活にひたることを得しめんがためである。争を排除せんとするは、世に平和を来らせんがために外ならない。

特に注目すべきは、かくの如き師の教えは、師の思想と、その信仰より迸り出づるもので、決して布教上の方便ではないことである。

前にも述べし如く、師は唯一主宰神は、宇宙精神そのものであり、宇宙精神は即ち普遍の大愛心であるとの一大思想を有しておる。

されば現界の生物も無機物も、将たまた幽界靈界の居住者も、共に主宰神たる大愛精神より発生せるもの、神の創造なるが故に、神よりせば何れも神の子であり、また吾等よりせば親を同じうする兄弟であり、姉妹である。

此の理に目ざめ、親の大愛心に徹する時、そこに葛藤や、闘争は起り得ない道理で、互いに相恵み、相助け、「平和」を楽しむことが神に仕える唯一の道であることが知られるのである。師の教義こそは、キリストの説く平和と愛隣の精神に徹せるものであろう。

病についても、神の創造し給える吾等に本来病のある筈がない。病と称せらるるものは、神の大愛心にそむくが故である。

神の愛に目ざめ、神に感謝し、神の恵みによって自念の曇りを一掃するとき、そこに本来の完全性が現れて、病と称せらるる現象は消滅するのである。

自念と言うも、人体は肉体と幽体、霊体の合成なるが故に、幽体、霊体の念も浄化されねばならない。これが師の言う浄霊である。

唯だ自力のみでの浄化は容易でないため、観音菩薩の念力により、特種の浄化力を享受せる自観師自身が、浄霊を行い、且つその浄化力を信徒にも授けると言う。

これ等病気治癒に関する所説がクリスチャン・サイエンスのそれと、類似することの余りに甚しきに驚かざるを得ない。

3 自観師の立場―「霊肉一如」と「神富の融合」

キリスト教の根底に横〔た〕わる最大難点とされるものに、「肉と霊との対立」、「神と富との対立」がある。

霊を重視する結果、肉体を軽視し、霊性と、肉欲は到底一致し得ざるものと説き、ついには、肉性を断たざる限り、人生は永久に暗黒なり、肉性を絶滅することによって霊性が顕れると説くに至った。またこの肉性を罪悪なりと観る結果厭世主義となり、非現実主義となる。

霊肉矛盾の一元論は、山上の垂訓にも、「……もし右の目なんぢを躓かせば、抉り出して棄てよ、五体の一つ亡びて、全身ゲヘナに投げ入れられぬは益なり。もし右の手なんぢを躓かせば、切りて棄てよ、五体の一つ亡びて、全身ゲヘナに往かぬは益なり……」(マタイ伝第五章)とあり、イエス・キリストの抱懐せる思想に相違なからんも「……汝等もし肉に従ひて活きなば、死なん。もし霊によりて体の行為を殺さば活くべし……」(ロマ書第八章)にある如く、パウロによって高調され、アウグスティヌスによって確定的教義となるに至ったようである。

「神と富との関係」に就いては「山上の垂訓」に於て、その根本義を明かにしておる。

即ち「人は二人の主に兼事ふること能はず、或は、これを憎み、かれを愛し、或は、これに親しみ、かれを軽しむべければなり。汝ら神と富とに兼事ふること能はず。この故に我なんぢらに告ぐ、何を食ひ、何を飮まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと体のことを思ひ煩ふ(マタイ伝第六章)が好個の文証である。

またマルコ伝第一〇章には子たちよ、神の国に入るは、如何に難いかな、富める者の神の国に入るよりは、駱駄の針の孔を通るかた、反つて易し」とある。

かくの如く、キリスト教に於ては富を嫌悪し、罪悪視したのである。

勿論イエス出生当時のユダヤ国は、余りにも物質尊重の弊に陥入り、専ら富と享楽を追って、精神方面を閑却して顧みなかった為め、イエスが殊更精神方面を強く押し出して主張したと見られぬでもない。

而し乍ら、既成の二大宗教たる、キリスト教も、仏教も、兎角肉体を蔑視し、富を嫌悪した傾向あることは被う可らざる事実で、これが人智進み、文化の程度高まるに従って、一大難礁となって、その伝播をさまたげつつある。

試みにこれを仏教について一瞥せんか、仏教に於ては人間の本能を「三毒」と呼んで、蔑視し、排斥し、人間の受ける一切の苦患は皆この三毒即ち「煩悩」から起ると見、此の煩悩を断滅することによってのみ真の安心を得「苦縛」を免れて、「涅槃」に到達すると説く。而もこの見解は釈迦自ら強調したところである。

然るに年代を経るに従って「煩悩即菩提」と説き、「穢土即楽土」と説き、「身心一如」とも説くに至った。仏教の進歩であり、発展であり、変貌でもある。

キリスト教の、「霊肉矛盾」、「神富対立」の如きも、米国キリスト教に至って一大進歩を遂げ、驚く可き変貌を示しておる。

見よ米国キリスト信者は、神の前に額づくことを忘れざると共に、盛にスポーツを好み、専ら身体の健全を計っておるではないか。かくて霊肉の矛盾の原始キリスト教精神は一変して、霊肉の調和となり、健全なる精神は健全なる身体に宿るとさえ考えらるるに至った。

神と富とについても、世界的大富豪と称せらるるカーネギー翁は、その全財産を世界の平和に捧げて、キリストの博愛精神を、富を通して実現しておる。ロックフェラー氏も、世界的大富豪と目せらるまでの富を蓄積し乍ら、盛に寄付して、愛隣のキリスト精神を発揚しつつある。

尚お、世界の富の八割は米国民によって所有せらると称せられ、而も米国に於けるキリスト教信者の数は全人口の五割強、約七千万以上に達すると言う。これぞ、神と富とに兼事うる典型的盛観と目すべきであろう。

以上述ぶる如く米国キリスト信者に於ては、「霊肉一致」、「神富兼事」はもとより、科学と宗教の協調にまで進展しつつあるのである。極言すれば、宗教極致の域に到達しつつあるのである。

自観師の説く教義が、宇宙精神即普遍愛の大思想に淵源するが故に、「愛即神」を基調とし、大慈悲の高揚に主力を傾倒することはもとよりである。

尚お森羅万象悉く大愛心即神の分霊なりとするが故に、当然愛隣-博愛を説き、万民の幸福の希図と、世界平和の招来に、懸命の努力をいたすも、自然の理である。

師の歌に、

博愛の道よそにして観音の行はあらじな心せよみな

力なり愛なり慈悲なり非時に一切衆生の救願ぐなり

と言うがある。また以って師の愛の―博愛の思想を窺うに足る。

而し乍らこれ等の事は前にも述べたれば、ここに重複を避けるであろうが、自観師が霊と肉、及び神と富との関係を如何に説くかを見るに、自観師は、霊肉一如と説き、神富の融合を主張する事、至って鮮明である。

こはもとより、師の宇宙観より出発する当然の帰結ではあるが、特に師は、心霊現象の研究にも造詣深く、心霊現象の実証に基づく説明によっても、霊肉一如を明かにするのである。

神と富との問題については、師の著『信仰雑話』の「禁欲」の章、

「昔から立派な宗教家たらんとするには、禁欲生活をしなければならないように想われ、それが真理を悟り魂を磨く最良の方法とさえ思われていた。然し私は反対である。以下判り易くかいてみよう。

抑々、森羅万象一切は人間の為に存在している事である。見よ、春の花、秋の紅葉、百鳥の囀り、虫の啼く声、明媚なる山水、月の夜の風情や温泉等々は、何が故に存在するのであろうかという事を考えなくてはならない。言う迄もなく、神が人間を楽しませる為に造られたものでなくて何であろう。

又人間が謡う美しき声や、舞踊や、文学芸術等も、勿論それによって当人も楽しみ、他人をも楽しませるのである。それのみではない、人間生活に於て凡ゆる美味なる食物は固より、建築、庭園、衣服等も必要の為のみではない、より娯しむべき要素が含まれている。

飲食を楽しむ事によって、栄養となり、生命が保持される、住居も衣食も必要だけの目的であれば甚だ殺風景のもので済む訳である。子供を造る事も必要の目的のみでない事は言う迄もない。

以上の如く大自然も、人為的の凡ゆる物も、一方それを楽しむべき本能を神が人間に与えられている以上、それを娯しむのが本当である。それを拒否し、生存上必要のもののみに満足するという禁欲主義は、深き神の恩恵に対する背反的考え方である。

又他の方面を見る時、今日迄の特権者が利他的観念に乏しく、自分や自分一族の者のみの快楽に専心し、社会や他人を顧慮せず、衆と偕に楽しむという、人類愛的思想の発露が余りにも無かった。それは神の恩恵を独占する訳になろう。

此意味に於ても私は富豪の大庭園を開放し、美術品を公開し、衆と倶に楽しむべきが神慮に応える所以である。

飜って想うに、古えの聖者が粗衣粗食極端なる禁欲生活をなし、「祖師は紙衣の五十年」的生活に尊き一生を捧げたという事は、神の恩恵に叛く訳になろう。

それに気付かない世人は宗教家を観る時、禁欲者でなくては有難くないように思う傾向があるのは遺憾である。私は前述の如く禁欲に反対であるから普通人と同様の生活を営んでおり、之が神意に添うものと考えている。

従而地上天国とは、人類総体の生活が向上し、芸術其他の清い楽しみは大いに発達する世界を謂うのである。

又真善美という事は、真とは偽りのない事であり、善とは正しい行であり、美とは美しい事であるから、禁欲生活に於ては善はあるが真と美がないばかりか、反って文化の進歩を阻止する事にもなるのではないかと思う。

彼のインドの社会が精神生活のみに偏した結果、今日の如き文化に後れ沈滞せる国運を来した事を考えるべきであろう」

を読めば、師の意見を明瞭に看取することが出来る。

要之、自観師の説くところが、米国キリスト信徒の解釈する『聖書』の意義、即ち新キリスト精神とも言う可きものと、符節を合する如く共通、類似の点あるは、最も注目すべきところで、これ等こそ、現代的活宗教と称す可く、これによって始めて進歩せる現在の文化社会に適合し、現代の人々を救い得て、現世即天国―娑婆即寂光土の実現を期し得るであろう。

(自観叢書十五 昭和二十五年一月二十五日)