キリスト教に、「神の審判」の教訓あるは何人も知るところである。自観師にもまた「審判」の思想がある、そは師が『讃歌集』に、
厳かな神の審判に赦さるる人にこそなれ身魂清めて
誤れる道や心に気付かずばやがて滅びむ神の審判に
と詠めるによっても明かである。
が、師は更に、最近驚歎すべき一大識見を示して、神の警告を聴けと叫ぶのである。
師は、従来物質絶対主義に陶酔せる科学者自身が、宇宙の根源は物質にあらずして霊なることを発見すると共に、その発見途上に於て、かの恐る可き原子爆弾を製造し世界の一大脅威として、今、全人類に激烈なる刺戟を与えつつある事実は、これ審判に関する神の警告と見るのである。
詳言すれば、科学者が宇宙の本体は、精神的なることを突きとめながら、尚おこれを糊塗せんとし、世人もまたこの一大事実には、極めて無関心なることを遺憾とし、更にその宇宙精神の普遍大愛心なることを悟らず、反って派生的発見たる原子爆弾の製造のみに耳目を集中しつつある偏見を正さんとし、盛に宇宙精神、即大愛心、即神なることを力説すると共に、この一大事実こそ、神が一面霊扉をひらきて、大愛心の姿を示しながら、その一面、原子爆弾の発明を許して、神の大愛を悟らず、闘争これ事とし、平和を阻害せんとするものの末路の悲惨極ることを教ゆる、神の警告である、若しこの警告に心をよせず、爆弾を背負いて戦うが如き事あらば、これ神の警告を無視して、自ら審判の庭にたつものなりと獅子吼するのである。
ああ慧眼か、達識か、霊感か、神示か、誠に瞠目すべき金言ではないか。
然るに悲哉我国に於ては、未だかかる見解を発表せるもの皆無なるのみならず、かかる卓越せる金言にも、耳を傾けんとする者極めて少いのである。
されど流石広き世界の中には、師の金言に彷彿する所見を発表せるものあるを散見する。
即ち、死の寸前、コロンビア大学の名総長ニコラス・マレー・バトラー博士は、世界情勢並びに「過去五〇〇〇年間を通じて達成された文明の完全な破壊」の可能性を論じて次のように言った。
「我等は、前途に希望を抱かねばならない。しかし乍ら、その希望にして、明日の世界が道徳の基礎の上に再建され、且その基礎が防禦され永続して、来るべき世紀を通じて、人類の支持と導きとならねばならぬという勇気、ならびに決意によって裏打ちされなければ、その希望自体は、希望なきものとなるであろう。さもなければ終末は遠からず来るであろう」
また、アメリカのアーサー・S・マックスウェル氏は大要次の如く言っている。
「キリスト教の指導者達が世界の終末を予想した時代があった。紀元後一〇〇〇年が近づくにつれて此の事はキリストが再び現われキリスト親政時代(ミレニアム)となるであろうという説によって全ヨーロッパはセンセーションを捲き起した。
再び一九世紀の初期に、全キリスト教世界にキリストの再来並に世界の終末は一八四三年であろうという説が広まった。次に運命の日は一八四四年の春に、持ち越された。更に一八四四年の一〇月に延期された。説教者達は誤解され、世人は嘲笑し同問題を不合理であるとして一掃し去った。
しかし乍ら今日の想定は性質を異にする。それは教会から来ったものでなく世間より来たものである。それは世界の終りがキリストの再来と結びついているとは思わない人によってなされている。疑もなくそれ等の人々の大部分はキリスト再来説を否認するであろう。
にも拘わらず最も厳粛なる言葉、即ち奇妙にも再来の予言に類似している言葉を用いて、彼等は、世界の終末が近きにありと述べているのである」
更に、ウェスナーファロー氏は、「クリスチャン世紀」一九四六年九月二五日号紙上において、キリスト教世界のすべての教会に於いて、「各キリスト信者をして、世界の終の意義を理解させる為に教育する」研究グループの組織を提唱した。そして彼は次のように注目しなければならない事を述べている。
「キリスト教徒は終末観を重視するのが普通である。終末観を、かくも長い間無視したのは異常であった。
しかし乍ら、一九四五年八月六日は、いかに信者達の持つような恐怖に捲きこまれる事があろうとも兎も角もその常道にひき戻した。
日本に於ける原子爆弾の爆発はクリスチャンを当然の道に取り戻したのであるが、これは只世界の終末を瞑想するのみならずそれを期待する事の正しいことを示している」と述べておる。
以上は僅かに二、三の例に過ぎざるも、かく原子爆弾を、神の審判、世界を通じて決して少くないのである。
而しながら、科学の実証を神秘的に解釈し、玄妙幽邃なる理を、而も極めて平易に説くは、師をおいて他には未だこれあらざるなり。これこそわが日本の誇りにして、世界の驚異なりと言うべきであろう。
(日本観音教団編纂部客員 松井誠勲)
(自観叢書十五 昭和二十五年一月二十五日)