五 和歌を通して見る自観師の精神

自観師著『讃歌集』に師自作の和歌が輯録されてある。此和歌に最もよく師の精神が現れておる。今其中より十数種を択び、夫を通して師の精神を検討するであろう。

キリストも釈迦も讃えむ大いなるわが神業を幽世に居まして

万人の再臨待ちしキリストもメシヤもみろくも同じとぞ思ふ

釈迦孔子や耶蘇の教をいやはてに生かさむとする観世音かも

師は、キリストの精神も、釈迦の思想も、これを大所高所より達観して、他の宗教家の如く、局部的経文や、文句の末に拘泥し、所謂群盲象をさぐるの愚に陥入らない、常に全貌を検討して、その真髄を把握する活手段を得意とする。而もその真精神に触れる独特の天才を有するのである。

師は言う。苟も世界的聖者の説くところ、真理は一つである。唯だ、その時代に適応す可く説きかたがちがうだけであると。

此の見地より、キリスト研究し、釈迦を吟味するが故に、両者の説く奥底に流るる共通の真理を発見することが出来るのである。

されば師に於ては、キリストも、釈迦も、また今、師自らの説くところも、その真主旨は同一で、何れも、人間には「抜苦与楽」を、世には「安穏平和」-地上天国-娑婆即寂光土を目標とし、この願望を達成するには、神の大愛-仏の大慈悲を徹底するにありと達観しておる。

前に掲ぐる師の和歌もこの精神の表現に外ならぬのである。従って師の眼中には、宗派的対立の如きは微塵だも存せないのである。これ師の偉大なる所であり卓越せるところで、師は寧ろ、キリストの企図せるところ、釈迦の希念せるところを師自らが実現する一大使命を有すと考えておるようである。

されば、

永久に此土の上に打樹たむあくがれ待ちし夢の天国

の和歌ともなって、その真意を吐露するに至るのである。

美はしき花に見入りて意ふかな神の恵みのいとも深きを

これキリストが、「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ」と言い、また、「野の百合は如何して育つかを思へ、労せず、紡がざるなり」と言いて神の恵みを讃えし同一の心境を、師は三十一文字に現せるもの。

神の大愛に浴せる両聖の胸中羨望あるのみ。鳥声、渓流これ梵音と唱えし仏者の心境もまたかくやあらん。

思えば、歎げかわしきは凡夫なり、神の大愛―仏の大慈悲を悟らず、人を怨み、我身を喞ち、営々として日夜楽しからず。聖者の見る寂光土も、凡夫には穢土なり。天国も地獄なり、神の愛を知ると、知らざるとの幸、不幸、実に雲泥の差あり。

願うべきは信仰に入りて、神の大愛にひたることの須臾も速かならんことなり、この和歌を通し、聖者の心境にふれ、示唆さるるところ実に大なるものがある。

凡そ世に強きは己を打忘れ正しき道を貫く人なり

の一首は、正義の尊ぶべきを説けるもの、神は愛なると共に正義を嘉し給う。キリストが至る処に義を説かれしと、いともよき対照である。

只管に誠の道を履みゆけば観音行の門に入るなり

誠は観音行の門なりとは、観音信者にとりてこの上なき道しるべであり、誠なくして観音にすがる者に対して頂門の一針なり。

誠なき心に感応道交なし、師が誠を以って観音を念じ、誠を以って観音行に入れとの教えは、慈母の子を諭すが如く、慈愛滾々として汲めどもつきせぬものがある。

キリストは言う。「なんぢ心を尽し、精神を尽し、思を尽して主なる汝の神を愛すべし」これは大にして第一の誡命なり」(マタイ伝第二二章)と。

これまた、神に仕うるに誠を以ってせよとの誡ではないか。古今東西、聖者の所見は一つである。

床しけれ我身の事を後にして他人の良かれと希ふ心の

道の為世の為人の為のみを非時おもふ真人となれかし

の二首には、師の愛隣精神が躍動しておる。キリストの、「なんぢの隣を愛すべし」(マタイ伝第五章)の聖訓と同趣旨である。

あな嬉し望みを絶ちし世にしあれど観音知りてゆ希望み芽生えぬ

パウロは叫ぶ、「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(ガラテヤ書第二章)と。

パウロの叫びも、自観師の詠歌も、畢竟、同一の心境を物語れる同工異曲の調べである。信仰にひたり、信仰に生くる聖者の風光眼前に彷彿たるものがある。

儚なきは明日をも知らぬ運命もつ人の限りなき欲にこそあれ

執着と限りなき欲の柵に身も魂も滅びゆくなり

キリストの、「なんぢら己がために財宝を地に積むな、ここは虫と錆とが損ひ、盗人うがちて盗むなり。なんぢら己がために財宝を天に積め、かしこは虫と錆とが損はず、盗人うがちて盗まぬなり。なんぢの財宝のある所には、なんぢの心もあるべし……」(マタイ伝第六章)教訓と、自観師の詠める以上二首の和歌の意を思い合す時、ここにも両聖の精神が全く同一なるを見ることが出来る。

(自観叢書十五 昭和二十五年一月二十五日)