岩崎 栄
一間の土間が表から裏に抜けている。土間の左側の大きな掘り炉で榾木が燻り自在鍵に懸けた煤けた鍋で、芋粥らしいものが沸々と煮こぼれている。屋内の灯りは、煙りながら、ときどきチロチロと燃えあがる榾火だけで、電灯も石油ランプも無い生活である。
「まァ一ぷくするがええだ」
「うん…やっぱァ、一ぷくするだか」
吉太は煮え切らない返辞のその男と、炉に対い合って腰をおろし、
「煙草はあるのかね」
「無えよゥ」
「これのむがよかかッぺ」
自分の煙草容れを渡してやる亭主を、炉の一ばん奥の側で、何か刻み物をしながら、女房のお春はプリプリした気持でまァ、あんてお人好しの阿呆ずら、うちの人ッたら……と憤慨している。二人の子供は相変らず母親の大きな腰を楯と恃み、その両側から、まるで蛇に巣を狙われた小雀みたいに、全身を竦め、眼ばかり黒水晶のように、キラキラ焚き火に光らせている。
家の中で、しだいにこの、えたいの知れぬ他所者の持って来た、乞食くさい体臭が濃く拡がり、それが一そうお春の神経をいらいらさせるのだった。
吉太は、ゆっくりした口調で、
「ほんで、おめえ、どこから来ただよゥ」
「戦地から」
「いまごろ、戦地からか……えらく遅かったでねえか」
「永げえ間捕虜ンなったり、脱走して山ン中をうろついとったりしてたで……」
「ふうーン……それァまァごくろうだったこンだなァ、へえーそうかい。そンで、どこさ行くだか、おめえ」
「どこもねえだ。ここさ来ただ。戻って来ただよ」
「ここさつゥて、おめえ、郷里つゥもンは無えこたなかんペー」
「あるだよ。女房も、子も一人あるだ」
「ほんだらおめえ、へえ、なんでそこンとこさ戻らねえだ」
「ほんでへえ戻って来ただ」
「戻って来たつゥて、こんな山ン中さ……はアン!おめえ、この信州が郷里だか」
「そンだよ」
「信州の……この近くか」
「そンだよ」
「そこに、妻子が待っとるだか」
「そンだはずだよ」
「ほんだら、なんでへえ、そこさ戻って行かねえだ」
「そこさ戻って来ただよ」
「はて-わかンねえこというだなァ。おめえ、気はたしかけえ?」
吉太は相手の、ひどく窶れた顔を、覗き込むように見上げ、
「おめえの村は、何村だね」
「……」
暫く黙っていたあとで、その男は嗄すれた低い声で、
「ここだよ」
ぽつンと、口からものをこぼすような言い方をした。
「ここの生れか。そうか、ほんだらうちのお春を知っとるだべ。何つゥ名めえだ」
「平太だよ」
もう五分間ばかり前から、刻み物の手を止めていたお春の体が、俄にギクリ!となった。吉太は黙って、そのお春へ鋭い視線を向けた。
お春はごそりと這い出し、旅の男の横から、その臭い体臭を嗅ぐように顔をすり寄せて行った。その男も、じっとお春の顔に、掘るような眼つきを据えて瞬きもしない。
お春は、彼女が一生に出したこともない、まるで病人みたいに弱々しい、微かな声で、
「おまえ……昔の……あんただか」
「ああ……そうだよゥ」
男は、むしろきまりが悪そうにうなだれた。
「こりゃァ、困ったことが降って湧いたもんだが……」
二度目の亭主は、ためいきをついて腕を拱んだ。
「ほかに、おらの行くとこねえで-ここおらの家だもんで……」
「ふウーン……困ったこンだなァ」
「わりィとこさ戻って来たけンどが-ここがおらの生れ故郷だし……」
前の亭主は二人の子供を見て、
「あの女の児はおらがの児だべな」
「そうだよ。男の餓鬼さおらがのだ」
子供二人は部屋の隅へ行き、寝藁の蔭へ躯をひそめ、そこから眼だけを光らしている。
お春は二人の男の間で、身を投げ伏して泣いていた。そそけた髪の毛が炉ぶちから灰の上に流れこんでいる。
前の亭主が今度は、深いためいきをつき、
「さて、困ったこンだが……」
とうなだれ込んでしまった。
後の亭主は、もっと大きなため息を何度もつき、炉の灰に頭を突っこむばかりに首を垂れている。女房はうつ伏せの背筋に波を打たせ、喘息犬のような泣き声をもらしている。
やがて、永い沈黙のあとで、戻って来た方の亭主が、ぼそぼそとした言いかたで口をきった。
「おらがいまさら、戻って来たつゥことが悪いだ。でも、おらはなんにも知らねえで、自分の家へ戻ったわけだ」
「そうだよ。したが、このおらにしても、おめえの女房を盗んだつゥわけでもねえだ。おめえは戦死したつゥて、ちゃんとおかみから遺骨のようなもんも届いただからの」
「誰れが悪いつゥこともねえだよ。したが、どうも困ったこンだて……」
鍋の芋粥が煮こぼれて、榾火がじゅうんと鳴いて消え、灰神楽が霜のように降っているのだが、お春は相変らず泣き伏しているし、二人の男は途方にくれて沈み込んだままだし、藁布団の蔭の姉弟はいつのまにか抱き合ったままで眠ったらしい。
山峡の夜はしだいに更けて行った。
(救五十四号 昭和二十五年三月十八日)