五 岡田氏の『信仰雑話』を読みて

岡田自観氏は、『信仰雑話』の冒頭、先ず誠について説き、誠を以って、世界、国家、個人等あらゆる部面の、あらゆる問題を解決する鍵であると指摘しております。

千変万化変転極りなき現実の世界に於きまして、「誠」のみは絶対不変であり、宇宙根本の精神に通じ、神の乳房を探り得る唯一つの鍵であります、人誠だにあらば、嫉妬も、怨嗟も、憎惡も、誤解も、太陽に照らされた雪の如く、いつかは消滅し、平和の芽は必ずそこより発生します。誠の人こそ菩薩の姿であります。

岡田氏が冒頭誠を説くからは、氏は誠の人であると信じます。教祖と仰がれ、篤信家とたたえらるる人は誠の人であります。宗教家にして誠なくば、真の宗教家とは申されません。宗教家に誠ありてこそ、人を導き、人を教化して、信仰の人となし得るのであります。観音教団が、日未だ浅きにも関らず、既に十幾万の信徒を有し、尚続々と入信の徒を増しつつある所以も、氏が誠の人であり、誠を以って人を導くからだと思います。観音教団に興味と関心を有する私は、氏の『信仰雑話』を繙き、巻頭に誠の文字を見、誠を説く文章を読むを得て、氏の為人を知り、『信仰雑話』を世に公にする心境も想像され、深き感銘を覚えるのであります。

正しき信仰

氏は先ず疑い、研究し、合理性を認め、御利益あらたに且つ奇蹟の現れる程の宗教を択んで信仰せよと説かれております。自己の宗教に自信満々たるところが窺われます。自信なき信仰を他に伝えるのは不徳であり、詐術であります。宗教と自称するものに、此の種の多いことは事実で、殊に新興宗教にそれが多いと言われています。観音教団も、ややもすれば玉石混淆視され易いことは否定出来ません。氏が断乎として自信を披瀝し、敢然、天下の批判に訴えたことは、素より確固たる信念を有し、顧みて疚しからざる故であろうが、また、時宜を得たものと言えましょう。

神仏に階級があると言う説は、有神論者の中でも信用しない者が多いのであります。而し、心霊現象研究の進歩と共に、近来霊界の模様も段々判明するようになり、霊界に階級のあること、また諸霊はその浄化の程度によって、各住む霊界の段階が違うこと、更に、人各に守護霊がついておられてその守護霊にも階級のあること等が信ぜられるようになって来ました。従って、人間信仰の対象に、高下の階級のあることは不自然ではありません。ここで氏が神仏と称しておるのは、こう言う意味の信仰対象を指されたのでしょう。厳格の意味で仏と言えば、最上覚位者を指すので、そこに高下の別はありません。また神と申しますと、創造の神、即ち絶対神を指すのが普通ですが、日本では八百万の神と申しまして、種々階級の神を拝します。故に無限絶対無始無終宇宙の主宰神を認めると言い、而もそれが、理想世界顕現の目的を以って、各時代、各地域に、聖者賢哲を出すと説く氏が、ここで、差別神を云為するのを矛盾と見る者があれば、この間の消息を玩味さるれば会得されることと思います。

氏は、狐、狸、龍等の霊にも階級があり、力の強弱があると説いております。是等の説は、唯物論者の否定するばかりでなく、多くの智識階級は寧ろ冷笑します。而しながら、心靈現象研究の結果はこれを肯定します。此の点洵に興味ある研究課題と申されましょう。

常識

信仰の究極の目的は、完全なる人間をつくることであると述べております。これは氏が、絶対無限の宇宙主宰神を認め、而も主宰神の目的は理想世界の顕現にあると観ずる、宇宙観の流露と思われます。キリスト教の教義も究極は、正しき世界-善人の世界を神の理想と見るようです。大日如来自受法楽常時説法論も畢竟、宇宙人格化の大日如来が、完全なる悟境の世界を讃美し、祈念しておることに外ならないでしょう。氏が主宰神の目的に見る、理想の世界とは愛の世界、真善美の世界の謂いであろう。何となれば氏に於ては、宇宙精神即愛即神であり、それがまた、真善美の源泉であるとの宇宙観、芸術観を把持するからであります。

信仰に徹すれば、平々凡々たる普通人の如くに見えなくてはならないとする氏の主張は、禅語の、「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず」の一句と同工異曲の説法であります。結局、和光同塵の菩薩行を指すのであります。

氏は更に、吉凶禍福一切神仏にまかせて福来れば、その恵みを感謝し、禍来れば、これは自己の霊的向上のためであると甘受すると言っています。これこそ絶対的信仰の真の態度であります。この絶対的信仰ありてこそ、神仏の感応もあり、従って奇蹟も行われることになるのでしょう、一般に学ぶべきことと思います。

宗教と政治

宗教と信仰と題して氏は、政治家に宗教心のないことを歎き、政治家は宗教心をもって政治を行えと言っております。全く同感であります。宗教心篤き、偉大なる政治家が出現して、政治を担当し、議員諸公の心にも、宗教的情操が涌くようになれば、正しい、潤いのある政治も行われて、今よりは遥かに明るい世の中になることと思うのは誰しも同じ意見だと思います。敗戦後の日本は、物質的にも、精神的にも、一大変動を余儀なくされ、未だ混沌期を脱していませんから上にたつものが宗教心に燃え、宗教的指導を行い、国民の間に宗教心が瀰漫するようにならないと、いつ迄でも虚脱状態が続き、悪徳が行われ、犯罪が増加するばかりでなく、遂には日本人の美点も失われ果てて、永久に劣等国として終らねばならないとも限りません。然るに今の日本には、かかる政治家も見当らねば、宗教家も、思想家も、片々たる小物揃いで、誠に心細い次第であります。嘗てのインドが、あの苦しい中から、タゴール詩聖や、ガンジー翁が現われて、万丈の気を吐き、ためにインド思想が発揚され維持されたことを思うとき、感慨一入深きものがあります。国衰えて何とやら、哲人政治家出でよ、詩聖現れよ、大思想家生れよ、これこそ識者血を吐く思いの心の叫びであります。氏の獅子吼は識者の声に応ずるものと言えましょう。

宗教と芸術

氏は、宇宙の主宰神は、理想世界をつくらんとして、聖者、哲人を世に現わす。而してその理想の世界とは、真善美の世界だと説きます。氏が地上天国即ち芸術の世界を理想としてその建設に懸命するは、神意に副うものだと信じておるようであります。されどそれは一応の説明でありまして、氏の胸奥にひそむ宇宙観は、宇宙精神を認め、宇宙精神は大愛心だと観じ、而も、叡智を德とし、生成化育の作用を具うる大調和心であると信じ、それが真善美の源泉であるとして、理路整然、一つの体系をなしておるのであります。故に神の心、神の御業既に真善美であり、一大芸術であって、鳴く鳥の声にも、すだく虫の音にも、また、行く雲にも、流るる水にも美を観ずるのであります。既ち大自然そのままが大芸術だと観ずるのであります。それは、天体の姿そのままが、一塵、一坋の姿であることを発見した、近代科学の理にもかなう、最高の思想でもあります。

エデンの園の樹の実を食した人、即ち差別智に囚われた者の眼には、宇宙精神も、それが愛の心であり、真善美の源でもあると言うことも解し難いのです、況して万有悉くその同根より発現した真善美の姿、即ち一大芸術であると言うが如き、深刻な思想に触れることは容易ではありません。ここに聖人、賢哲現われて、其の理を説き、人々をして自己本来の面目を自覚せしめ、万有の美を直観せしめ、大愛の生活に入らしむる時、それが地上天国であり、芸術の世界でもあるのです。氏は這般の消息を述べられたものと解されるのであります。

敗戦の教訓

氏は日本が、敗戦によって武器を捨てざるを得なくなったのを、神の御業なりと断じておられる。洵に卓越せる観察である、霊感より得たる神の声でありましょう。氏は嘗て、今や霊界に於ける大転換の時が迫り来った、即ち『聖書』に謂うところの最後の審判が近づいた。ために絶対的救済の力が必要となったと言われました。然るに欧米に於ても、恰もこれと符節を合する如く、原子爆弾の発生は、神の最後の審判なりと称え一大センセーションを捲き起しております。即ちアーサー・S・マックスウェルは、その著『時は迫る』の中に、「これぞ終りなり」と題する一文を掲載しております。曰く。「到る所、思慮深い人々の間で、我々の文明も終りに近づいたと言う事が確信されて来た。地球上の二大戦争は、人命財産を手酷く破壞し、遂に原子力の発見と解放に到り、かくて我々の時代並びに我々の世界が終る迄に僅かな期間しか残っていないと彼等に信ぜしめるに至った。僅か二、三年前であったならば、奇妙且つ不合理であると思われたような言葉で、今や彼等は声を大にして叫ぶ。人類歴史の終末は近い」(H・G・ウエルズ)

マックスウェル氏はこれに就て「最近に到るまでそのような見解は、普通は『聖書』の預言の解釈に熱心に携っていた宗教団体のみの関心事であった。然るに今や有名な政治家、大学総長、著名作家、時事解説者や、極めて保守的で伝統的な宗派の教会指導者達でさえも、時が僅かしかない事と、現時の極めて重大なる事に関して、異口同音に、証言を与えおる」と付言し尚多数の人々の論説を羅列して、全世界に警告を与えております。

思えばダーウィンの進化論と前後して、ダルトン(一七六六年-一八八二年)が物質不滅、即ち原子の不壊性を提唱して、一切万有は人間の理智によって説明し能わざるなし、神秘説の如きは全く空論なりと主張し、この説が一時全世界を風靡しましたが、今より七、八十年前、英国の物理学者クルックスが、固体にあらず、液体にあらず、気体にあらず、即ち物質にあらざる第四体を発見し、これが一八九一年ジョン・ストーニによって電子と命名され、キュリー夫人等のラジウムと称する新元素の発見等あって、これ等が物質不滅、原子不壊性説転覆の導火線となり、科学者をして、宇宙の根源は物質にあらず、精なる電子であると叫ばしむるようになりました。かくてこの現実世界の外に、神秘世界の存在をも肯定せざるを得なくなり、延いては神秘力の存在、神仏の存在等も否定し得ざるに至ったと同時に、原子爆弾の発明によって、茲に霊なる神仏の御旨に従って、一平和世界を建設するか。原子爆弾を交えて、人類の破滅を招来するか。二途何れかを択ばざるを得ない岐路に当面しました。これが『聖書』中に謂う、神の最後の審判前夜なのでありましょう。従って日本が、世界各国に率先して、武器を捨てざるを得なくなったことは、誠に神の恩寵であると思わねばなりません。国民等しく神の恩寵を感じ、平和の民として、自らの霊を浄め、世界平和の先駆とならねばならないのであります。よって私は氏の所見に全面の賛意を表するのであります。

悪の追放―善を楽しむ

悪の追放及善を楽しむの二章は、悪を憎み、善を愛する性格の氏として、当然の意見だと思います、悪を追放し、善を楽しむことは国民多数の熱望するところであるにも関らず、終戦後の我国には悪事が余りにも多く目だって来ました、寔に慨歎にたえないことであります。これは物価の昂騰と、経済の逼迫にも原因しますが、国民性の脆弱なことを反省し、匡正することが急務であります。氏が、為政者も、教育者も、智識人も、共に悪の追放に協力すべきだと主張さるることは当然のことと思います。

信仰の醍醐味

信仰によって、安心と歓喜に浸ることが出来てこそ、始めて真の信仰に入ったと言えましょう。信仰三昧の妙味はここにあるのです。氏がこの点を力説し、花鳥風月にも、虫の音にも、山水の美にも、神の慈悲を感謝せよ。草木、禽獣にも親しみを感ぜよ、何事も人事を尽して後は、神仏に御任せせよ、と仰せらるることは、自ら信仰の極致に到達し、その味わいを一般にわかたんがためと察せられます。

奇蹟

奇蹟は宗教につきものだと述べておられる。これは、観音教団の奇蹟について牢固たる、確信を有する信念の表現でもあろうと思われます。従来、奇蹟は、不可解とか、迷信とか、詐術とか見なされていたのですが、自然科学の発達により、原子不可壊説が覆えり、霊の発見となって以来、科学者も態度を一変して、心霊科学の研究に力を傾けるに至りました。そして、それが心霊現象の実験に拍車を加え、近頃では、欧米はもとより、我国でも盛んに行われており、漸次優秀な成績をあげて、もはや疑う余地なき状態に達しております。されば、今日に於ては、従来不可思議とされた奇蹟も、奇蹟ではなく、普通のこととなっておるのであります。ただ半可通な一部ジャーナリストが兎角の盲評を下す丈で、反って彼等自身の無智を告白しておるに過ぎないのであります。岡田氏は、自ら体験する日々の奇蹟、就中、浄霊治病に確信を固め、堂々、信を世に問わんとするものと推測することが出来るのであります。

プラグマチズム

プラグマチズムは、普通わが国では、実証主義又は実用主義と訳されており、その思想系統は、端をウィリアム・ジェームスに発し、現実の流れのうちに実在を求めんとするのが主要な目的で、経験的実験主義、行動主義、知性的創造主義を主張するのであります。氏の特に興味をもつものは、その行動主義にあるようでありますが、プラグマチズムは、米国に於て発達しただけに、アメリカの社界的地盤と共通するものがあり、何等の伝統を有せず、大自然の中に、自己の新天地を開拓した、フロンティーアの精神を多分に含有しており、氏の性格が、この精神に共通するところの極めて多い点も看過すべからざるところと思われるのであります。

怒る勿れ

この一文は、蓋し氏が血のにじむ想いの回顧録でありましょう。言々句々、涙痕点々として、読む者の心を痛めしむるものがあります。霜雪に耐えて咲く梅花に馥郁の香があり、百槌錬磨の名刀は陸離たる光輝を放つ如く、氏が今日あるは、過去にかかる試錬のあればこそと、しみじみ会得されるのであります。而も氏がこれを神の御業と感謝して怨まざるところに、其非凡さが窺われます。何事も神の愛なりと甘受する境地に到れば、既に信仰の極地に達したもので、かくて始めて、神の恩寵に浴する事が出来るのであります。事のなるはなるの日になるのではありません、氏が百折撓ゆまず、よく幾多の屈辱にたえたればこそ、今日の大成を得たのであると思えます。この一文は吾等を教訓するところ寔に大なるものがあります。

氏はまた、借金をつつしめと説いていますが、私は「負債を重ねるのは刃物に塩水を注ぐが如し」と戒めた古人の言を思い起して、氏の説に全幅の共感を覚えるのであります。想うに氏は、苦労人であり、世の辛酸を嘗めつくした人であるようです。古来野に臥し山に寝ね、難行を重ねて悟境に達した人は少くありませんが、氏の如く世の荒浪にもまれ、俗事の中に磨かれて悟達した人は稀であります。仏縁深き人と申さねばなりません。

難行苦行―禁欲

此の二章に現れたる思想には極めて深遠なものが潜んでいます。即ちインドに於ける婆羅門教時代に於きましては、難行苦行を解脱の方法と考え、殊に極端に肉体を苦しめることが解脱最上の方法なりとしていたようで、釈迦が王城をぬけ出でて山に入り、跋伽仙人と道を論じた時の光景を井上哲次郎博士は次の如く叙述しています。「思うに釈迦は、蚤に苦行外道の事は聞き及びたるべけれども、現に之を目撃するは、此の時を以って始めとなす。跋伽仙人の徒は、或は草を以って衣となすものあり、或は樹皮を以って衣となすものあり、或は破皮乱髪を以って衣となすものあり、或は唯だ草木花果を食とするものあり、甚しきは一樹の枝のみを食うあり、又唯だ草のみを食うあり、或は水のみを飲んで生活するあり、或は唯糞を食いて生活するあり、……或は水に入り火に事え、或は一脚をあぐるあり、或は板上、或は株上、或は杵上に臥するあり、或は塵土に臥するあり、或は荊棘の上に臥するあり……或は両手を挙げて安全立住するあり、或は頭髪を抜くあり、或は髭髯を抜くあり、彼等は此の如き苦行を以て天に生ずる唯一の法なりとせるなり。換言すれば、彼等は肉欲戕殺によるにあらざれば解脱し得ずとせるなり、云々」と一読慄然たらざるを得ないではありませんか。

釈迦はそれより数多の学者とも道を論じたのでありますが、結局仙人や学者に就て修学することの無駄なことを知って、自ら工夫を凝らし、考察を積まんと、尼連禅河に近き樹林中に入って、父王より贈られた食糧を辞し、近傍の人家に食を乞い、僅かに、一麻一米を食し、婆羅門の学者の実行した戒律を修め、厳酷な苦行を続けたのであります。かくて六年身形削痩し、血脈尽く現われ、骸骨の如く衰弱するまでの修行もその甲斐なく、漸くかくの如きは真正解脱の法にあらざるを覚り、尼連禅河に洗浴し、行くこと二英里半、伽耶即ち今の仏陀伽耶にある、有名な菩提樹の下に達し、ここにある金剛坐=古来幾多の仙人の端坐思惟せるところ=に草を敷きて安坐し、黙然思惟、四九日、茲に大悟徹底したとのことであります。

釈迦は、婆羅門教徒の難行苦行が、解脱の方法でないと覚って、端坐し、黙然思惟して悟りを開いたこと以上述ぶる如くでありますが、それでも尚、原始仏教には、厭世的思想が極めて濃厚で、而も人間の本能を蛇蝎の如く嫌悪しております。即ち釈迦が、難陀を戒めて次の如く言っております「婬欲の事、楽は少く苦は多し、猶風に逆いて熾炬を執るが如し、愚者放たざれば必ず焼害せられん。欲は不浄なり、彼の屎聚の如し、欲は反復する勿れ尿塗毒蛇の如し、欲は怨賊の如く、詐りて人に親付す……、欲は仮借の如く必ず還帰すべし、欲は悪むべしとなす、厠に華を生ずるが如し、欲は疥瘡の如く、火に伺いて之を掻けば転た劇し、……欲は渇したる人の鹹水を飲んで愈々其の渇を増す如く、欲は衆鳥の段肉を競い逐うが如く、欲は魚獣の味を貪りて死に至るが如く、其の患甚だ大なり云々」

斯くの如き思想の原始仏教も、真言密教に至っては、男女交会を以って表現する大楽思想と発達しておるのであります、その経路を説明することは仏教全史を語ることになって容易ではありませんが、発達するには当然の理由があって、発達したので、決して偶然でもまた、不自然な飛躍でもありません。故に今日では、真言密教の大楽思想は、仏教思想の最高峰とされておるのであります。大楽思想とは、変転窮りなきこの現象世界に即して、永劫不滅の実相を認め、自ら宇宙の大生命となって、有無の二辺を超脱した生活をなすところに、初めて永劫不滅の大楽を実現することが出来ると説くのでありまして、即ち来世の極楽往生に対し、現世にこの大安楽を実現することが出来ると説くのであります。岡田氏の地上天国建設思想はこの大楽思想と一致するのであります。ここが注目すべき最も肝要な点であります。

また大楽思想の主張するところは欲を治するに欲を以ってして、瞋を治するに瞋を以ってし、痴を治するに痴を以ってせよと言うのであります。詳説すれば、欲ありてこそ向上も出来、衆生済度も出来るのである、従って世の中に欲を捨つる程大罪はないと説くのであります。ただ小我に囚れた小欲を浄化するに、囚れざる清浄の大欲を以ってせよと言うのであります。瞋についても、剛強難化の衆生を済度するには大忿怒大瞋恚を以てする外手段はない、この剛強難化の衆生を如何にもして摂取せんとする大忿怒こそ、是れ軈て大悲の溢れであると説き、大悲の上に起る大忿怒、大瞋恚を以って、私欲のためにする、小忿怒小嗔恚を浄化せよと言うのであります。又私欲に眼昏みて正邪の分別なき愚痴も、これを浄化するに、私欲を離れた無我の愛、即ち大痴を以ってせよと言うのであります。

氏が、真言密教を研究したとは到底思われません、真言密教を研究せざる氏が、人間の本能を神より与えられたるものなりと断言し、現世に地上天国を建設すると称し、山水の美、四季の風光、鳥の囀り、虫の音、皆これ悉く神の賜物なりと達観するに至っては、学ばず、読まずして既に大楽思想の奥義を瞰射するもの、将に思想上の一大偉観と称すべきであります。

加之弘法大師は「われ都率天に昇天し、弥勒の傍らに侍し、後日弥勒と共に下生せん」と遺言して遷化され、岡田氏また頻りに弥勒の下生を唱う、彼此思い合せて氏の思想が、弘法大師と一脈通ずる如き思いがするのであります。

地上天国―観音教団

氏の理想とする地上天国は、病と貧と争のない世界を、現実世界に実現しようとするので、弥陀の極楽浄土の如く、これを来世に求むるのとは大いにその趣を異にするのであります。それは前にも触れた如く、真言密教の、大楽世界と同一理想なのであります。

日蓮宗の法華経、真宗の阿弥陀経に於ける如く、真言密教では、『大楽金剛不空真実三摩耶経』〔別名〕『般若波羅蜜多理趣品』を所依の経典とするのであります。故に理趣経を研究すれば、密教の大楽思想の内容も自ら明かとなり、従って大楽思想と、氏の思想の共通点も明瞭になるのであります。依って以下聊か理趣経の梗概の一端を述べることにいたしましょう。

理趣経は、大体、一、大楽の法門。二、証悟の法門。三、降伏の法門。四、観照の法門。五、富の法門。六、実動の法門。七、字輪の法門。八、入大輪の法門。九、供養の法門。一〇、忿怒の法門。一一、普集の法門。一二、有情加持の法門。一三、諸母天の法門。一四、三兄弟の法門。一五、四姉妹の法門。一六、各具の法門。一七、深秘の法門、の一七法門を説かれたもので、一度これを読めば、それが極めて現実的で、積極的で而も活動的であるのに驚き、仏教と言えば、ややもすれば消極的、非活動的である如く思われがちの中に、潑剌の生気を覚え、百花燦爛の感があるのであります。

先ず最初の大楽の法門には、「妙適(男女交会の快楽を指す)清浄の句是れ菩薩の位なり、欲箭(男女交会の快楽を得んとの欲望を起すことを言う)清浄の句是れ菩薩の位なり。触(男女抱擁するところを言う)清浄の句是れ菩薩の位なり。愛縛(触により男女離れ能わざる心を生ずるところを指す)清浄の句是れ菩薩の位なり。一切自在主(愛縛を受用する所か一切自在主なりと説く)清浄の句是れ菩薩の位なり……」等と説かれ、人間の本能を讃美し、決して排斥しないのであります。勿論これは、現実的な人間男女交会の快楽を借り来って、一切諸法の本性が元来清浄なるものであることを説明したまでで、深遠厳粛な意義を有し、字句の末に囚われてはならないのですが、要之、人間の本能の重要性を強調されたもので、本能を三毒五欲などと排斥する小乗仏教に比較すれば、その説きかたに霄壌の差があるのであります。

降伏の法門に於きましては、前に「難行苦行」の章にも説明した如く、三毒煩悩と言わるる、貪、瞋、痴も衆生済度の如き大欲を以って小欲を浄化し、剛強難化のものを済度せんとする如き大瞋を以って小瞋を浄化せよ、また大痴即無我の愛を以って小痴を浄化せよと説かれるので、決してこれを嫌悪し、これを排斥するのではないのであります。

観照の法門に於きましては、宇宙の本体を、静寂、非活動的なものと見ず、これを常に流動せる、全一の生命体であると如実に観照し、自らその活動せる全一生命体と合一して、如実に生きよと説き、如実観照の智を以って、普く宇宙の事物を照見すれば、宇宙の事物は一法として単なる自力によって存在するものはなく、何れも法界の力により、宇宙全として生きて居るので、この宇宙は、各人が生きるための思処であるが故に各人はこの宇宙に対して、報恩の誠を尽さねばならぬと共に、渾身を宇宙の思処に捧げんとする所に、真実の慈悲が湧いて来るのである、これが観自在菩薩の妙観察智であると説くのであります。

富の法門に於きましては、私欲私念の繋縛から解脱して、実の如くに宇宙一切の事物を観照すると、この宇宙一切の事物は、そのままに、仏菩薩の表現であると共に、その一切如来より、常に甘露の智水を以って灌瀉され、心眼を開くことが出来、至る所に無尽の実を発見するに至ると説かれてあるのであります。

各具の法門では、毘盧遮那とか金剛薩埵とか言うのは、菩提涅槃の実相の世界、即ち法界を象徴したものであると共に、それは単に有情のみでなく、森羅万象としてこれを具せざるはない。弘法大師の語を藉りて言えば、因即ち法界、縁即ち法界、因縁所生の法も即ち法界で、一事一物、各に全宇宙法界を具することを明かにして、現見の一事物悉く絶対に住し、平等究竟の光明を放つと説くのであります。

茲に於て注目すべきは、近代科学に於て、物質ならざる即ち精神的電子が発見され、而も彼等科学者は、その陽核と陰電子の関係が、天体の組織と全く同一で、若し、一方の目に望遠鏡をあて、一方の目で顕微鏡を覗いた時、果して何れが広大なる天体の姿であり、何れが毛髪にも宿る原子の姿であるかを、判断するに苦しむと言うのでありますがこれを以上述ぶるところの理趣経各具の法門の説明と対照しますと、全く同一の見解に帰するので、洵に驚歎すべき一大事実と申すべきだと思います。

而もこの理趣経に説く思想と、『信仰雑話』に現れた岡田氏の思想とに一脈相通ずるものあるを見る時、感興一入深きを覚ゆるのであります。また、観音教団の章に、キリストの世の終り、最後の審判の時が切迫したことを思わせる、新しい世界即ち地上天国の出現の前には、旧世界の清算がなくてはならないと説かれておりますが、これについては前に敗戦の教訓の章で述べて置きましたから、ここには省略しますが、氏は更に、新旧世界の大転換期に際し、これを乗り越す資格者たらしむべく、教導するのが観音教団であると言っております。即ちノアの箱舟に乗り得る資格の人物をつくるのが同教団だと主張するのであります。

下座の行

釈尊は生れて間もなく、「天上天下唯我独尊」と称えたと伝えられますが、勿論それは後世史家の添削で、成道後の釈尊を讃美する意に外なりません。釈尊は身王子と生れながらも、一般の人々に伍し諄々として道を説き、その日常の生活には、毫も貴族的趣味は現れていません。我国でも、親鸞上人は高貴の出にも関らず自ら「愚禿親鸞」と称してつねに謙譲の態度で衆生済度に当られた事は有名な話であります。岡田氏が慢心を戒め、謙譲の徳をたたえ、また公徳の重んずべきを諭されたことは、祖師共通の美徳で信徒の渇仰もさることと思われます。

運命と自由主義

近頃は猫も杓子も、口をひらけば自由主義を称えます。而もその多くは真の自由主義を解してはいないようです。彼等の多くの所謂自由主義は、勝手主義であり、わが儘主義であり、畢竟利己主義なのであります。それは、電車、汽車、其他公衆道徳を必要とする場合に於ける、彼等の行動によって知ることが出来ます。岡田氏の戒むる如く、人間に枠のない自由と言うものはあり得ない、否人間そのものばかりでなく森羅万象悉く一定の法則の下に自由を与えられておるので、法則を無視した自由はないのであります。半可通な人間共が自由の声に便乗して、親にそむくのも自由、夫婦勝手に振舞うのも自由、他人の迷惑をかえりみぬのも自由なりとする、自由のはきちがえが、今日の悪世相をつくっておるのであり、岡田氏の宇宙観たる、根本愛の精神に目醒め、愛の心に浸る時、真の自由の意味がわかるのであります。而して、真の自由の意味を会得する時、初めて平和な家庭が生れ、平和な社会がつくられ、平和な世界が現れるのであります。猿真似上手の日本人には、氏のこの戒めこそ洵に頂門の一針と言うべきであります。

気候と天候

霊界の消息について、目下研究を始めたばかりの私には、此の章に於ける氏の説明は批判することは困難であります。而しながら、私の研究の範囲でも、従来の物理科学によって教育された私には、全く夢想だもしなかった、幾多の霊界現象を知ることが出来ました。而もそれが正確、厳密なる方法によって実験され、其の間決して疑いを挿む余地がないのですから、これを否定することが出来ません。況して欧米諸国では、有名な大科学者、心理学者、哲学者、批評家等、あらゆる権威者立会いの下で、また、それ等自らの手に於て実験され、確認され、公表されておるのですから、これを信ずる外ありません。かくの如く今では霊界の消息も漸次明かにされそめたとは言え、未だ僅かにその曙光に過ぎません。従って霊界人にはわかっていても、吾々普通人にはわからない事も多いことは想像に難くありません。これ私が敢て批判を差し控える所以であります。

主義というもの

岡田氏の指摘さるる如く、近頃程何々主義と称して、主義の争い、理屈の葛藤の甚しい時代も珍らしい。理屈の多い家庭は兎角円満を欠き、主義の争いの激しい国に隆盛の姿を見ることは出来ません。それは宇宙観、人生観が確立しないからであります。人各が大愛の精神を自覚し、大愛の行動をなすとき、そこに相互扶助の途がひらけ、理屈をならべて争う余地はなくなります。主義とさえ言えば、非常に尊び権威のあるもののように錯覚しておるのが今日の状態です。吾等日本国民は一日も早く冷静にかえり、幽玄深遠なる思想に触れ、情操を養い、そこに人生観を確立すべきで、いつまでも浮草的観念遊戯を金科玉条と心得て、今日の如き状態を繰返すならば、平和国家を建設して、世界平和に参加せんと言うが如きは、痴人の夢に終るであろう。等しく氏の訓言に耳を傾け、猛省すべきだと思うのであります。

科学の力

男女の恋愛を、科学で説明出来るかと喝破した氏の言葉に、私は快心の笑みを禁じえないのであります。科学万能を主張し、宇宙万有、悉く科学によって説明し得ると呼唱した科学者も、今では物質ならぬ霊の世界にぶつかって、途迷いの状態であります。科学の進歩は、一面幾多の発明に成功し、遂に、原子爆弾の発明とまで進展したのでありますが、而しながら、未だ木の葉一枚も、毛髪一筋も作り得ないではありませんか。楯の半面のみを見る半可通の徒は、発明進歩に眩惑し、未知の世界を閑却し、神を忘れ、愛の御心に背きて、果ては原子爆弾戦によって世界人類の大半を死滅に導く如き、即ちノアの洪水の前夜を偲ぶが如き今日の状態にすら盲目であるのは、痛歎の極みであります。須叟も早く、宇宙の主宰神を認め、大愛心の脈動に触れ、科学も哲学も、宗教も、みな主宰神たる大愛の御心を探る―即ち真理探究の同一目的であることに気付き、科学の発明は人類の幸福増進のために利用するようにして、原子戦を未然に防いで人類の破滅を免るべきであります。

其の他

地震、地球は呼吸するの二章及び十干十二支、家相方位等の数章には、氏独特の見解が奔放に展開され、霊界人ならぬ私は、また易学にも通ぜぬ私には、半解の見を以て批判することは避けねばならぬことと、わざと省略することにしました。篤学なる読者各位の自由なる判断を待つ外ありません。

神と仏の章に掲げられた、観世音菩薩の御本体につきましては、古来種々の解釈が行われており、或は、仏は大慈悲心であるから、その大慈悲心を象徴したものだとするもの。又は観世音菩薩は西方極楽浄土にいまし、衆生済度のために、和光同塵の徳をたれ給い、観音経に説かるる如く、辟支仏の身を以て得度せんとするものには、辟支仏の身を現わして為めに法を説き……長者の身を以って得度せんとする者には長者の身を現して為めに法を説き、……童男童女の身を以て得度せんとする者には、童男童女の身を現わして為めに法を説き……天龍、夜叉―人非人の身を以って得度せんとする者には、天龍、夜叉―人非人の身を現じて為めに法を説かるるのだと信ずるもの。其他、阿弥陀、観音同体論、大日、化仏の観音説等誠に多岐であります。

岡田氏は、この菩薩を日本の神様であると言い、邪神の迫害を受け、身の危険をのがれるために、インドに逃避行され、インドの南方海岸補陀落迦山頂に一堂を建立され、南海大士、又は観自在菩薩と言う名で教を説かれたのだと主張されます。こは全くの新説で、仏典はもとより如何なる文献にも勿論見当りません。

西蔵経典の説くところによれば、西方福徳蓮華国に一王ありて、福徳欠くるところなかったが、未だ一子なきを悲しみ、毎に蓮江に就き、華開く毎に之を採りて阿弥陀仏に献じていたところ、一日華中より端厳な相を具せる童子出現し、衆宝を以って、其の身を飾り、絹を以って半身を包み、肩に鹿皮を被っておられ、口を開いて「愛」なる語を発した、これが観自在菩薩だと言うのであります。出現した一童子即ち観音が、開口一番愛と呼んだと言うあたり、なかなか風韻ある説ではありませんか。

要するに、観世音菩薩は、愛の権化とされ、愛の象徴とされ、また現世利益の最も顕著なものとされ、諸仏、諸菩薩を通じ、この菩薩ほど広く多くの人々から信仰されるものはないのであります。従って、そこに諸種の観察が行われ、延て諸種の伝説が流布されるのも、自然の傾向と見るべきでしょう。

善と悪について氏は、神仏を信ずるものを善なりとし、神仏を信ぜざるものを悪なりと説いておられる。ここに最も注目すべきことは、此の善悪観の裡に氏の宇宙観を把握し得ることであります。氏は宇宙精神を大愛心と観るのであります。而して人各自が、その郷に帰り大愛心に浸る時、そこに一切の対立は消滅し、宇宙万有に葛藤の声やんで、聞ゆるものはただ、大愛の息吹きのみだと言うのであります。故に郷愁の姿、即ち大愛心を慕う心、即ち宇宙精神たる神を信ずるところに悪はありえない。悪は自己本然の大愛心即ち神に背をむけ、万有の対立を盲信し、自我の迷妄に囚われるから生ずるのだと教えるのであります。実に深遠にして、霊妙而も極めて直截であり、また簡明であるのであります。此の宇宙観こそは、氏が思想家としても、宗教家としても、将また哲学者としても、嶄然群を抜く一大特色であります。

霊線説の提唱は、氏独自の見解によるものと思われます、人間には肉体の外に霊体を具備しておることが心霊研究によって明かとなって来ました。また霊界人との連絡交渉も可能であることも実証されています。従ってこれ等が霊線によってつながりを保つと言うことも一応首肯されないでもありませんが、これには、未だ心霊現象研究家の何人も着目していないようであります。従って氏のこの提唱を研究家達が何と見、如何に取り扱うか、興味ある今後の問題であると思います。尚お霊人には階級によって霊線の光に強弱があり、色にも白色、灰白色、黒色等の別があると説き、現実世界に住む人間は、階級によって、霊線の数に多少があると説明されておりますが、これ等も今後心霊研究家によって解決される時があると思われます。

人間の賢愚は、再生の霊と、新生の霊とによって分れると説き、新生の霊は、霊界の神秘的生殖作用によって生れるので、人間として経験乏しく、従って新生の霊を享けて生れた人間は賢明を欠き、これに反し再生の霊は、已に人間的訓練を経ておるから賢明であると説明されております。雲界の神秘的生殖と言い、新生霊、再生霊の別と言い、共に興味深きものがありますが、これ等は何れも心霊研究大家の批判に待つほかないのであります。

文化の進歩に人間の幸福が伴わないのは、物質文化丈け進歩して、精神文化がこれに伴わないからである、即ち跛行文化であるからだと指摘されております。誠に当を得た言だと思います。現在の文化は確かに跛行的であります。精神面の向上発達を促進することが最も急務であります、前にも繰り返せる如く、平和世界の建設か、原子戦的破滅かの岐路にあえぐ今日の世界は氏の言わるる如く、雲界の神秘を探り、宇宙の根本精神即ち大愛心に触れ、精神的一大革新を遂げ現実世界も霊界の神秘世界も、愛の所産であり、愛によってつながり、愛によって結ばれていることに気づく時、初めて真の世界平和を来らすことが出来るのであります。

ああ壊滅か!平和か!今や世界終末の前夜を思う、有史以来の重大時期にあらずや。醒めよ、醒めて厳粛なる神秘の威容を拝せよ。起てよ、起ちて大愛の扉をひらき、自己本来の姿を見よ。然らば人各自ら平和世界即ち地上天国の建設に一致し団結すべきであろう。これが氏の胸奥に潜む烈々たる信念であり、而して『信仰雑話』は、その信念の流露であると見るのであります。

(文学士 須江孝雄)