おかげばなし

静岡県 Y・K

茲に述べますこよなくも尊い体験談は、曾つて無神論者であった私の、其浅はかな常識や愚かしい理屈が一瞬にして崩れ去られた日の実録であります。

誤れる思想が如何に惨憺たる悲劇をもたらすかと言う事は、終戦五年目の今日に至って尚私共の心に痛ましき迄に刻みついておりますが、就中戦争中に於る恐怖と嫌悪の情は今尚生々しく脳裏に蘇って参ります。それは四年前の今日三月九日のあの東京大空襲の日のことでありました。幾十幾百の焼夷弾の落下に汚穢混乱の真中なる下町一帯は他愛なく一瞬にして燃え拡がり、遂には向いの家も隣家にも猛然と火の手は延びて参りました。危機を知って私は大急ぎで御床間の御掛軸をはずし、御著書『明日の医術』を手にして家族七人と共に何処にか避難すべく外に出て驚愕してしまいました。外は火災にともなって起る猛烈な竜巻が塵埃を吹きとばし、焔を巻き上げ巻き上げ憤怒に燃えていきり立っているのです。人々はまどい泣き叫び、しかも抗しきれぬ烈風にあおられるまにまに何処へともなく拉し去られるよう歩き行くのです。そうした炎の乱舞の中で私達は家を出て一町も行かぬ内に母と姉とを見失い、残る者は父と妹弟私の四人、私達は大声で母を姉を呼び叫んでみましたが、突風の吹き荒びは人間の無能をせせら笑って執着の一瞬だにとどまるを許しては呉れませんでした。

吹きとばされぬ様、四人はしっかりと腕を組んで漸く区役所の四ツ角に来ました時、行途一面火の海ではたと追いつめられました。慌てて振り返れば、ああ紅蓮の炎は不気味な舌なめずりをして迫って来るではありませんか。左の道筋からも、右の道筋からも、死の恐怖に漂わされ殆んど魂を喪失した人々が口々に何かわめき乍ら逃げまどって来るのです。万事休す。しかし其時突如「前に進め」と私の心の絶体絶命的に其命のまま躊躇する三人を励まして炎々と燃え狂う中を遮二無二突き進みました。熱火に頬はほてり、喉はしきりと渇きます。それは殆んど無我夢中でありました。

その時です。凡そ液体という液体の存在を許さぬ筈の焔のさ中に突如として爽やかなそれは恰度狭霧にも似た冷水が降りそそぎ出しました、アア何という奇蹟でしょう。そしてその奇蹟の狭霧は私達四人の体を包み包み遂に炎の壁道より逃れさせてくれました。オオ其時の私の感激炎の只中にあることさえ忘れて、私は半ば恍惚として走っておりました。第一の危機を逃れてやがて二町も走ったでしょうか、其時既に猛り狂った火の手は八方に拡がり既に行くことも帰ることも出来ない窮地に陥入ってしまいました。

そんな焦熱地獄の中に落ちて私は初めて吾が命の既に吾がものならざることを知りました。神への冒瀆者共への苛責なき罰責は激烈な竜巻と成り、阿鼻叫喚を尻目に一呑みにしてしまうぞと迫って来るのです。しかしどうした事か、私の心は不思議に何の悶えもありませんでした。其時父が近くの校舎に避難しようと申しました。此学校は二百名余の防備兵のいる避難校でありましたが、私達は奇しくもこの地下室に導かれて、信じられぬ程物静かな一夜をすごすことが出来ました。

暁を待って地下室より出た私達は思わずアッと声を立てました。オオあたりは見渡す限りの焼野原なのです。兵隊さん達の必死の防備はさしもの猛火よりかろうじて逃れてここにたった一つ全形を留めてやけ残っていたのです。道には折重なり折重なり累々たる焼死者の山を築き上げ、みるものをして目を掩わしむる悲惨極りなき光景でありました。何たる奇蹟何たる御守護、私は一言も発し得ず五体は只限りもなくこみ上げる感激の涙に、わなわなと震えて「観音様、観音様」と御名を呼び続けました。其朝は不気味なオレンジ色の太陽がまるで呪の瞳の様にのそりのそりと昇りました。風は依然として烈しくやきつく様に熱く、燃え残りはぶすぶすとくすぶっております。

妙に鼻につく焼跡の死臭に吐気を感じ乍ら私達は家を出た時離れ離れになった母と姉を必死になって探し求めました。四人は各々手分けをしてあちこちと足の続く限り、黒焦の人の間を縫っては声をからしてよび歩きましたが、何処にもそれらしき姿を見出すことは出来ませんでした。二日二晩尋ねあぐみ探し疲れて遂に最後の望をかけて神奈川の伯母の家に辿り着きましたが、そこにも姿はなく最早やこの世では再び逢う事が出来ないと思うと精も根もつき果てて歎き合いました。

それなのにしかも数日後、或思いがけぬ所に母親の生存を知った時の私達の喜びは正に言語に絶するものがありました。母達はあの大火災の中でも最も凄惨を極めたというH町へ吹きさらわれ、絶体絶命の境地に彷い乍ら幾多の奇蹟に遭遇し、かろうじて此世に生を許されたのであります。恐怖の一夜を過し暁の薄明りにみたその場の光景は焦熱地獄さながら、将に十重二十重の焼死人の中にぽつねんと二つの命がうごめいていたのです。ホッとした瞬間名状しがたい緊張から解放されて母はヒリヒリとした痛みを両手に感じました。みれば両手は非道い火傷のために或指は真赤に焼ただれ、ある指は痛々しく引きつり、左手の薬指と小指は崩れてべったりくっついてしまっているのです。母は大急ぎで交互に手を振って一心に御浄霊を致しました。半月後私達一家が再び懐しい夕げの膳についた時当時の恐怖と感激に目をうるませて語る母の指は何の痕跡もなく美しく揃っておりました。

追憶を辿って語る者、聞く者は互に生死の境を彷徨して再び蘇らせて頂いたそれぞれの生命を祝福しひたすら神の御前に感謝の祈りを捧げました。然し私はもう一つの奇蹟を申さねばなりません。それは罹災後一カ月も経たある日、農林省の某官吏の方より焼跡に皮鞄が落ちていたことを知らせて下さったのです。その鞄とはレザー製で予て父が空襲に備えて預金帳、火災保険証書、其他重要書類を入れてあったもので、当日母が持ち出したものの、いつの間にか何処にか落してしまいました。

お互の生命を浸す歓び合う事のみであった当時に於て、皮カバンのことなど誰の念頭にもなかったのであります。あまつさえ家をやき人をやき果てはガラス金属をさえ飴の様にドロドロに溶かしてしまったあの大火災に、レザーのカバンが焼けもせず、しかもあの混雑の中より無事に手元に届けられたのであります。夢よりも尚奇なる思いでした。

私は今静かにあの日を思う時、あの生々しい地獄絵巻の中にうごめいていた私が果して今の平和な私なのであろうかと、自ら信じられぬ程なのであります。当時入信後日浅く、半ば嘲笑していた私がその日をして目の前に寛大無限なるしかも絶対厳正なる観世音の御心にふれ、御前に只々おそれひれ伏したのでありました。今日新聞にラジオに特異なる存在として賛否交々、果ては心なき人の口さがない中傷に合うとしても、此団体にある一人一人が観音の絶対力をこの世に於て、如実に体験された幸福者であってみれば、如何なる風波に遭遇しようとも、ますますその信念は確固として無限の発展をとぐることは否みがたきところでありましょう。

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岡山県 O・H

昨年一二月九日午前一一時頃でした。私は自宅屋根の上に干してあった吊柿を子供に与えたいと思い取りに上りました。南側に吊してあった柿を子供に与える分だけ取り、残りを都合で北側へ移そうと思い北側の屋根に出ました。その日は非常に寒い朝でありましたので、霜が溶けて瓦が濡れており、要心し乍ら出たのでありますが二、三歩出た途端、不意に足がすべってアッと言うと同時に気を失って了いました。すると向うの方で誰か女の人がこけて観音様に導かれて戻っておいでになられる様な夢を見ておりましたが、その間に何時の間にか自分の家に帰っておったのであります。その後数十分はうわ言を言っておりました。父母が大変心配して直ぐU教導所に馳け付けてお願いして下さいました。

N先生が来て下さった時には気は付いておりましたが、尚浄霊を頂きましたら頭もすっかり良くなり、意識もはっきりと致しました。只左の肩が少し痛んで充分手が上に上らない丈で外には何の異状もありませんでした。落ちた所は細い川ではありましたが、如何して上りましたものやら、どうして帰りましたやら、夢中で帰ったのであります。幾度考えて見ましても不思議でなりません。全く奇蹟の御力で一命を救って頂きましたと言うより他は御座いません。今日で九日目で御座いますが、手も大分上にあがり自由も大分利く様になりました。是も御観音様の御恵と毎日感謝しつつ日を送らせて頂いております。右御報告と共に御礼申上げます。

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神奈川県 K・H

大先生の御霊徳を拝み奉りて、薄学菲才の身も顧みず、私の体験を発表させて頂きますが御霊徳の万分の一も表現出来得ません事を遺憾と思います。

私は昭和一五年四月一八日、玉川の御邸に於て、大先生より直接講習を頂きました(当時は岡田式浄化療法時代でありました)。爾来私を始め家族一同数知れぬ程絶大なる御恵みを頂いて参りました。その御恵みの万分の一の御恩報じも出来ませぬ中に亦々広大無辺なる御恵みに浴し唯々感泣致す次第であります。この私の貴重なる体験が皆様の御神業の一助ともなれば誠に幸甚と存じます。

時は本年弥生も終らんとする二七日午前六時三二分、O駅頭に於ける浄化作用であります。唯物万能の現代人には想像もつかぬ一大椿事!只人は不可思議の言葉を連発するのみであります。私は教修を頼まれ、三月二三日O駅出発無事任務を終え、二六日T駅発混雑の汽車に揺れ乍ら乗換三回一五時間を殆んど立ち続けで、然も四日間の睡眠不足も加わり身体はヘトヘトでありました。フトH駅にて眼を醒ましました。H川を渡ったら下車の準備をと思ううち再び眠りに入りガタンという衝戟に「はっ」として眼を醒ますと既にO駅を走り出しております。之は大変と立ち上りざま荷物を抱えてデッキに出ますと、丁度一人の青年が飛乗りをなし、そのため二、三秒間を要したので速力は加わる、左手に荷物を提げ、右手は手摺を握ったまま列車と共に五、六歩走った時、ホームの後から危い!危い!手をはなせ!手をはなせという声が聞えるが、どうした事か握った手が容易に離れません。やっとの思いで放した瞬間、俯伏せに倒れ同時に列車とホームの間に両大腿部を捲込まれ一回半回転致し列車から離脱致しました。列車とホームの距離は四、五寸位、其間へ体重一八貫の両大腿部が捲込まれ一回半も転走、列車の左斜後方へ身体が方向転換の上離脱したのは全く奇蹟中の奇蹟、勿論列車は急停車しましたが、一人の駅員も近づかぬ中に私は上体を起し、両足を見ますと、左足の靴は指の付根から、足の土不踏まで、鋭利な刃物で切断した如く破損し、甲部も又一寸程破れ、ホックは飛び去り、直視出来ぬ程の悲惨な状態!その破れ目より露出せる足先を見て「ヤラレタ」と思い乍ら静かに指圧してみましたが不思議も不思議、靴下も破損せず負傷もせず、無論痛みも感じません。御霊徳だ!御守護だ!鳴呼有難い!瞬間、私は全身全霊が感電した様に痙攣を覚えました。直ぐ起立して服の塵をはらいますと、ふと右大腿部外側へ右の手が入り、初めてズボンの破損に気付き、驚愕し、更にまた、広大無辺の御霊徳により九死に一生を得た余りの有難さに感激の涙さえも出ませんでした。

帰宅して光明如来様に跪伏して始めて吾に返り、感謝感激の涙はとめどもなく膝を濡らし、家族一同呆然自失共に号泣し、大先生の方角へ向って御礼を言上致しました。

当日午後、誠に御無礼とは存じましたが、その時の服装のままにて熱海の御邸へ御礼に馳せ参じました処、光明如来様御揮毫中にも不拘、拝顔の栄を賜わり、当時の状況を逐一言上致しました処、大先生には「嗚呼あ、危なかったね、良かったね」と有難い御言葉を賜りました。その時の感激は私には到底筆舌には表現出来ません。私は何たる幸運児でしょう。罪穢の多い私に、斯くの如き大いなる御恵みを賜るとは想像も出来ません。私は日本一の果報者であると思いつつ発表させて頂きます事を誇りといたすものであります。

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愛知県 T・K

私は昭和二一年八月に光を受けましたトラックの運転手でございます。本年一月二〇日○町の工場の依頼で愛知郡N村へ同乗者二人とともに亜炭の運搬に出掛けました。その帰途、午後二時頃でした。東海道線D駅付近の踏切で上り列車の通過を待合していました。そして列車の通過後、遮断機が上ったので汽車は通過したものと思い、待っていた人々と共に線路を越えようとしました。然し実際はその瞬間すぐそばに迫っている列車の煙り、物凄き勢いで進んでくる列車前には乳母車を曳いた人がいるのを突嗟にみて、ままよと突進し逃れ様と一心にレールを越えようとした。然しおそい、三人とも「ダメダ」と叫びました。ガンとしたショックを受け、運転台以外の後の車体は亜炭諸共粉々に突きとばされ、又、大きな電信柱も根元より折れて機関車に倒れかかり二〇間も前へ引きずられております。列車は急行列車だったそうで、その惨状に目を見張ると共によくもよくも助かったものだと背中に寒気が走るのでした。

そして乳母車はどこにかとんであとかたもありませんが、その人は見物人の中に無事にいるのを見てホッとしました。今更つくづくと観音様の偉大なる御救いの有難さに此の教えをしらぬ他の二人も共に涙を流して感極まったのでした。そして迎いの自動車に乗り無事に家へ帰る事が出来た時、夢の中を彷よっている感じでございました。

家にお祀りしてある光明如来様御前にひれ伏し、次にT教導所の大光明如来様御前に、感謝感激に涙を流しつつ何物にも代え難い命をお救い下さったお礼を申上げました。そして頭部と腰に受けた打撲傷も御浄霊をして頂き次の日から出勤致す事が出来ました。

後からきくところによると昨日の出来事は全く踏切番の不注意によるものだそうで、私の車の積荷であった亜炭は二〇尺も高く吹きとばされて前にあった家にとび込んだのですが、実に不思議な事にはガラス一枚も破損しておらず『信仰雑話』の中の「奇蹟」の項を読むにつけてもつくづく身に沁みて体験させて頂きこの偉大な御力御守護は筆には表わし難く地に伏して御礼申上げます。

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埼玉県 K・T

一月二二日午前一時四〇分頃、突然隣に寝ていた長女に「火事だ」と起されたので反射的に表の方をみますと、僅か一寸程開いている襖の間から道路に面した座敷の障子が真赤にみえましたので、早速表座敷の障子を開けて近所の人々に大声で火災を告げました。此の騒ぎに階下に寝ていた次女、三女も起きて二階に来て光明如来様に祝詞を上げ始めました。私も長女もこれに伍して一心に祝詞を上げました。何しろ火事は意外に近く私の家から僅か七、八米の筋向いの二階家です。深夜の事故人々は集まらず、火の廻りは意外に早く猛火は私の家の真前の二階に移ってしまいました。近隣の半鐘も漸く乱打され始めました。此の間まったく数分間のように思われましたが、実際はそれほどでもなかったのでしょう。私の家も既に類焼を免れない事を私は覚悟しました。女手ばかりのところへ長女が病気の為どうにもならず、私はすべてを光明如来様にお任せする事に決め、さらに祝詞を奏上火に向って浄霊いたしておりました。火は漸く猛威を揮い私の家も軒下一杯に火がはってまいりました。ガラスは次々に音を立てて割れてゆき、階下で誰かがT屋(私の家の屋号)についたという声をききました時には、流石に心の動揺を禁じ得ませんでしたが、すでに此の期に及んではいたし方がありませんので、更に神に対する信念をつよめ、浄霊を続けておりました。

この時不思議と申しましては誠に勿体ない事でございますが、軒下をはっていた火が私の家から離れて唯ガラスの割れる音のみが残りました。勿論家の戸は全部しめてありましたので、家の中へはまだ誰も入りませんでしたが、たまりかねてこの時裏木戸を破って大勢の人が入って来て「大切なものから出しましょう」といってくれますので、一応荷物を出してもらう事にし、三女に荷物の番をさせすべては他人の力を借りて荷物も順調に出していただきました。火も多少下火になり駈付けた消防ポンプも水を出し始めましたので、私の家は焼けないと人々がいい出しましたので、光明如来様の御力に感銘し神様への信念を一層深くいたしました。細い路をへだてて向う三軒が失われた事に対しては、唯お気の毒でなりません。此の間僅か四、五十分全く夢の様でした。再び人手を借りて荷物を家の中へ入れて頂き、幸い失くなった物もなく、総てが終り手伝って下さった人々の話がただ「不思議だった、不思議だった」と言う言葉のみ交わされましたが、私はこの人達に知らせる適当な言葉が見当りませんでした。此の人達の心がまだ落付いていなかったからです。しかし間もなく此の多くの人達がこの尊いお力によって次々救われて行く日の近い事を信じております。猛火より救われた私ども一家の喜びを御想像下さい。

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兵庫県 K・Y

二日間に渡り降り続いた豪雨が二一日未明より雷を伴い、兵庫県下一帯を襲いました。日頃水量の少ないこの辺の河水はグングン増水し数カ所決壊しました。

私の住んでいるY村に約三〇〇〇坪の弁天池という池があります。地形上この辺は傾斜がきつく池は割合高い処にあります。弁天池は山から流れ落ちる濁水で渦を巻きゴウゴウと水鳴が起きました。雷雨に夢破られた村人達の必死の砂防工事の甲斐もなく、遂に堤防は一五米にわたり決壊口を開けました。

私の家から一〇〇米程離れた所で丁度弁天池が約五〇米離れた低地に、会員のUさんの家がありますので危険とみて、Uさんの避難の手伝いに行きました。最初安全な場所へ荷物を運び、すぐ引返してくるともうその時はUさんの家へは入る事も出来ませんでしたので私はすぐ自宅へ移りますと、早や水は私の家の玄関まで来ていました。水量は増す一方なので私は光明如来様の御前に額き心をこめて御願い致しました。

そして縁先へ出て、一生懸命浄霊をしますと暫くして、不思議にも玄関へ来ていた水は、すーと引いて行きました。私は嬉しく思い乍ら尚も水の引く様子をみていますと、満水の弁天池から余勢を駆って流れ出た奔流は土砂樹木と共に渦を巻き乍ら、此のY村の集落は一瞬にして濁流に呑まれました。

時も経って一応水が引いた後で、人に聞くとY村は濁流の中心地だったそうです。この中にあって私の家は何等被害もなく無事水禍を逃れる事の出来ましたのは、唯々観音様の有難い御利益と感謝しています。翌々日二三日にいつも御指導を受けている和歌山のN先生に御報告する様とのお話でしたので、水禍より逃れ得た喜びと御利益を感謝しつつ御報告させていただきます。

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福井県 Y・K

私は昭和二二年五月二三日に教修を受け、カリエスを治して頂いた者ですが、忘れも致しませぬ昭和二三年六月二八日、福井地方大震災の時、丁度福井市T町の国際劇場で映画観覧中災害に遇い建物の下敷となり観客は殆んど圧死又は焼死したのですが(新聞の報道によりますと観客約一〇〇〇名中生存者一五、六名の由)その中で本当に九死に一生を得させて頂きましたので、拙い筆をも顧りみず、ここに有難い御守護を頂きました体験記をかかせて頂きます。

私と友達とは二人とも一番後の椅子に坐ってみておりました。五分間の休憩中の事です「アッ!地震」と叫んで思わず二、三歩余り歩むと同時に壁や建物が「ドッ」と倒れかけ私より前方の人が二、三人倒れると次ぎ次ぎと倒れました。私はその時思わず「大先生様」と手を合わせつつ五分間位じっとしておりました。すると後の男の人が私の足を引張って「アッ貴女のすぐ前に穴がある、早くそこから出なさい」と呼んでおりますので思わず前の方を見ますと小さい穴があるではありませんか。私は夢中ですぐそこから板や瓦を上の方へ持ちあげてやっと外へ出る事が出来、ホッとして体をみますとほんの少し手にかすりきずを受けただけでしたので、その時は思わず「大先生様御守護有難うございます」と心から御礼の言葉を申上ました。

あたりを見廻しますと建物はすっかり潰れておりますので、きっと私の家は潰れているに違いないとあきらめ乍ら吾家の方へ歩いていますと鯖江から福井の方へ帰る人が「S町なら駄目だな」と言われました時には、本当に眼の前が真暗に成り何処をどうして歩いたか、今尚分らない位でございました。

しかし吾家についてみますと家中皆御守護を頂いて無事でいましたし吾家も立っているではありませんか、私はその時思わずM町のY先生のところの御写真の方に向って「大先生様本当に御守護有難うございました」と涙してお礼申させて頂きました。当時の事を思います度に御守護の有難さを心より感謝致し、今後共益々信者の一人としてお仕えさせて頂きたいと存じている次第でございます。

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神奈川県 T・K

去る一九年四月半ばの事です。日曜日を農の手伝いに叔父の所へ行き、馬の蹄鉄打ちかえを頼まれて出掛けました。広い県道を行く途中、後から疾走して来たトラックに馬が急に暴れ出し、それを静めようとした拍子に、馬と共に道路に転倒した瞬間「アッ」という間もなくトラックと衝突してしまいました。倒れた上に自動車が衝突したのか、自動車にひかれて倒れたのか判りませんでした。ちょうど倒れた私の横腹が車の歯止めのようになって止まったのです。それなのに私がかすり傷一つなく馬も倒れた時に腰の皮を一寸程擦りむいただけで助りました。そこに通り合わせた叔父は馬共ひかれたと思ったそうです。又後で自動車の運転士が「あの時は人と馬とひいてしまったと思った。自動車の止ったのが不思議だった」と話しました。倒れた私は勿論運転手も又見ていた人も一様に轢かれたと思ったのですから完全に轢かれる筈であったのに不思議に助かったのが実に奇蹟だと思います。

これこそ本当に観音様の御守護でございます。私は教修を頂き信者になって一六日目の出来事でした。このことが動機となってそれ以後、観音様の熱心な信者になったのであります。今日では微力乍ら大先生様の御理想であられる病貧争無の世界の一日も早く来る様働かせて頂いております。

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愛知県 M・M

観音の御救ひなくば吾は今底なき沼に悩みつづけむ

此大先生の御讃歌が何時も脳裏にこびりつき胸にこみあげて嬉し涙となって参ります。

顧みますれば母の胃腸病で約一カ年半も病院に通い院長さんの仰言る儘に寸分も違えず親類知人もそれ程にと笑われる程に実行致しましたが、さて結果といえば衰弱ひどく、病人は勿論家族の者の心配はそれ以上で、日に増し暗黒な家庭となるばかりでした。その頃O先生に御案内戴き、昭和一九年八月中京のW先生の処に伺い御力を頂きましてから、家族八名は蘇ったように御光に浴する幸福な一家とならして頂きました。父は子供の時よりの漁師でございますが、昨年程漁のあった事は生れて以来初めてで御座います。毎年秋一〇月中旬より下旬にかけまして釣の一番よい時季でございます。朝な夕なに御観音様にお願い致しまして漁に出ます。或日は朝潮には漁はなく今日は釣れないと思っていると帰りがけにウンと釣らして頂くとか何時も不思議に沢山釣らして頂くのでございます。何時も帰りは遅く六、七時になる時がございます。家の者は心待ちにまっておりますと重そうにかついで来ます。父と弟はニコニコして観音力観音力といって魚籠をあけますとびっくり致しました。何時になく大漁で、まるで網で獲れた如くでございます。その晩は観音様に御礼申上げ、それから今日の大漁の状況を話して呉れました。それは今朝は少し他の人より遅れて行ったのですが、他家の五、六隻の舟は「何時もの釣り場所はサメに魚を取られて釣れないから」とて他の場所へかえていますので、弟もその場所へ行こうと致しましたのを父はその皆のいない何時もの場所へ行き針を下しました。

そして釣り始めて二、三匹釣りましたら弟は「アッ、サメにとられた」と叫び即座に海中に向い浄霊を行いました。するとそれ以後ピタリと一匹もとられなくなり、此処で釣り其処で釣り又場所を換えれば釣れ舟の行く所面白い程釣れ中々忙しい事で不思議とよく釣れました。他の五、六隻並んで釣っていた人達はサメに悩まされていくら場所をかえてもちっとも釣れず、父はサメの来る場所で普通なれば釣れない筈のが思い掛けなくも沢山釣らして頂き、他の漁師は唖然として見ていたそうです。又他の人は「Jさの側で釣ると魚がよく釣れる」といって側によって来るそうですから「本当に御観音様は病気はなくして下さるし、魚は沢山釣らして頂けるしこんな有難い事はないじゃないか」とお話して上げたと申していました。確かに観音力を見せて頂いたと今更乍らもったいないお話ではございますが、御力の偉大さと申しましょうか驚嘆せずにはおられません。

他の人が五、六貫匁の時に父は二〇貫匁位も釣らして頂いた日もございます。本当に今迄の暗い家庭も今日では一家が日々を笑顔で送らせて頂ける様になり、唯々言葉も知らず嬉し涙に咽ぶ許りでございます。今後はより一層一家にて及ばず乍ら御用さして頂きます。有難とう御座います。

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岐阜県 H・H

顧みますれば昭和二一年八月母が胃痙攣を起し苦しんでいるところ目前で救われ、その偉大なる力に驚き、そして一人でも多く苦悶の底にある方々をお救いしたいと思う一念で九月教修を受け入信させて頂きました。

家業は土瓦製造業で二十余年営んでおります。ところが気に入った瓦は一年を通じて二、三回しか出来ません。先生より浄霊に就いてお話を承り本年一月に初めて瓦窯に浄霊をしました。先ず観音様にお参りして全く無我の境地で窯に浄霊をしました。丁度その日は窯炊きで四日目に窯の口をあけ、瓦を出すのですからその日より四日間何時もより早く起床し浄霊をしました。四日目にはもうじっとしていることが出来ず早速窯へ急ぐ、父母は一心に窯あけをしている。まあどうでしょう。一窯一〇〇〇枚入りの窯で今迄の成績は平均上等六〇〇枚、二等三〇〇枚、等外一〇〇枚でしたが、驚いた事には上等瓦が七〇〇枚、二等は二九〇枚、等外は四枚と言う素晴しい御利益を頂きました。そして二回目は等外は一枚もなしです。

唯余りの不思議さ有難さに驚き感謝に堪えず、今では家内全部信者となり喜びの生活を送っております。このような大きな御利益を頂き皆様にも安く販売して共に喜んでいる次第でございます。この嬉しさを同村の業者にも話し観音様の御霊徳を讃え感謝と歓喜の日々を送っております。

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大分県 O・T

私が昭和二二年一二月入信させて頂きまして以来、ほんとうに讃えても讃えきれない御守護を頂いています数々の中、林産物に於ける御守護の一端ではございますが、私の頂きました事実を御報告させて頂きたいと存じます。先ず製炭でございますが私方の炭釜は奥行八尺横巾九尺でございます。炭木の長さ大五尺五寸小四尺で生木所要量(普通樫雑木)四二〇-四三〇貫となっています。今年早々自家用炭も不足しましたので二、三杯でも焼いたらと言う事で、久方振りに釜に行ってみますと一〇年前焼いてそのままなものですから釜も相当痛んでいました。やっと修理を終りましたがどう考えても、私も余り炭焼きには自信なく、ましてや古釜のことではありますしとは思いましたが、何時も本部のO先生又K分会長先生から素直に手を振りなさいのお言葉に所要の木を釜にくべるや釜口から素直に浄霊致しました処、普通古釜はなかなか点火が悪いのですがわけなく点火致しました。又私が炭釜に行っていると村の炭焼小五郎と言われる熟練者が来まして、これでせめて二〇俵製品が出れば大変だと申していました(製炭は冷釜の際二杯焼いての結果を何俵と申します)。処が何とおどろくではありませんか、三八俵と言う製品を出しました。続いて余りにも御利益が大きいものですから二、三杯やきましたが、何れも一釜に四、五俵は多く製炭できます。私も素人にしてこんなに多くの製品の出来たのには全く何と申上げてよいやら余りにも御守護に感激致しています。最初三八俵は早速私方農業協同組合に出荷させて頂きました。全国製炭に従事されている皆様、熟練者がやられたならば、もっともっと素晴しい結果が出る事を確信致します。製品の多い事又品質に於ても絶対なること、此業に全然素人である私でございますが確信を以て御報告致す訳でございます。

次に椎茸栽培について御報告させて頂きます。先ず私方の原木は昭和二一年三月一五日伐倒しの物でございまして同年一二〇日椎茸組合より配給のコマ(椎茸菌培養の長さ一寸位の小さな杭木)を原木四-五尺に成木したものに浄霊しては埋木(植付)致しました。そして普通なら山谷で水浸しを行いますがこれをやめ、昭和二二年一月杉林の中に入木(コマを埋木したもの)致しました。そして時折その付近に行けば浄霊を致していました処、昨年秋製品だけでも普通多くて五〇〇匁程度の処、その三倍の一貫五〇〇匁(乾燥出来上り)と言う実に素晴しいものでございました。私はここで強く申上げたいことは原木を水浸しせず大いに手数も省け、品質量に於て普通栽培を断然超越した観音様の御利益に益々感謝感激致しています。

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静岡県 I・S

私は四人の子供の母で御座居ます。昭和一八年頃よりリウマチに苦しみ、毎年夏になると胸、手、足など所を変えて痛み出し、昨年も六月の末頃より左足の膝がはれあがり、その苦しみは譬えようもありませんでした。医者、お灸、電気、鍼等色々な療法を続けましたが、一度はよくなりましても少々使う様になると又痛み出しますので自分で自分をどうする事も出来ず、すっかり自信を失ってしまいました。

主人は一九年に北支にて戦病死致し、今は四人の子供に七八になる祖母と六人家族で御座居ます。体に自信はなく、責任は重く日々の生活に追われ、どうして生活したらよいかと途方に暮れました。気持は何時もいらいらし子供は段々悪くなる。ああ!之ではいけないと思い乍らもどうする事もできず、焦れば焦るほど心は自暴自棄になって来ました。夏も終りの九月の末でした。御近所の方より此の観音様のお話を聞き、その方に願いますと直きに浜松市A町のM先生が来て下さいまして、その日からお世話になりました。少しも歩けなかった足が一日増しに快方に向い、七日たたない中に立派に歩いて五、六丁もある先生のお宅まで通える様になりました。私は本当に一度に長い暗い寒い冬が去って暖い春が訪れた様な気持で御座いました。毎日通うつどいろいろな有難いお話を聞かせて戴き、自分が浄化すれば先生に御浄霊をお願い致しておりますが最近では不思議にも家業の菓子製造業の方も大変に忙しくなって参りました。私や家族の体と言い又商売の方と申し、これも皆観音様の御力の御利益と毎日感謝の生活を致しております。又朝夕御先祖様のおつとめには家内揃って、善言讃詞を上げておりますが、一日も早く光明如来様をお迎えしてお祭り致したく努めております。又此の不思議な有難いお力を戴けた大先生様に御礼参りさせて戴く日を心まちに致しております。末筆ですが此の言い様のない大きな御利益を伏して御礼申上げます。

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福岡県 Y・K

御加護話を述べさせて戴きます。私はひどい頭の御浄化で夜となく昼となく睡眠も出来ず、遠方に歩く人の下駄の音さえ頭へ響く程の苦しみに御勿体ない事ですが、一月六日に御守護願いをさせて戴き、奇蹟的な、お救いを戴き、健康の喜びに感謝申上げておる者で御座います。その節まだ衰弱が、ひどかったのですが、是非T町にお参りさせて戴きたいと念じまして無事に済せて戴きました。その夜子供のいたずらで御座いましょう、金庫が開かないので御座います。「金庫の符号が合わないからお前あける様に」と主人より言いつけられ、「ハイ」と返事は致しましたものの頭はハッキリしないし、一度は符号を廻して見ましたけれど、何うしても開きません。主人からは、セッカチに言われるし、御もったいないとは存じましたが、暫く一心に念じさせて戴き、再び符号を廻しました処、すーと開けさして戴きました。ほんとに此んな事に迄絶大な御守護に唯々うれし涙と共にお観音様に御礼述べさせていただきました。乱筆をもかえりみず喜びの余り御加護の一端を御報告させて戴きます。

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栃木県 A・H

昭和二三年五月二四日、雨、毛染色会社工場に於て夜半突然、けたたましく犬が吠えるので家人が眼を醒ましましたが、なんの事もなく何だか気掛りでしたが又床の中に入りました。明方工場に泥棒が入った事が解りさては昨夜あの時入られたのだなと一同残念がり工場を調べますと工場は取乱され、絹糸数貫盗難に遇い、付近工場より道路上へ可成り糸を引いておりました。最早全部駄目とは思いましたが私は早速家にお祭りしてある光明如来様に此の災害よりお救い下さる様お願い致しました。処が数時間後警察より電話がありまして泥棒の報らせを受けました。当地で今迄に随分絹糸の盗難はありましたがまだ曾て一度も出た事がありませんでした。早速警察に行き係官に合いますと絹糸は一七貫もあり全部私の手に帰ってきました。

その上泥棒に遇いまして話をした処、泥棒は半島人で本人が言うには、今迄に数回外の家に入りましたが、貴方の家は何だか入るのに恐ろしかった。そしてもし家の人が出て来たら殺してしまおうと短刀を持って居たと言われ驚きました。何とあの時気づいて出て行けば誰か殺されたか怪我は免れなかったのだと重ね重ねの御恵みに只々有難く早速本部玉川へ御礼に伺いました。

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大分県 Y・S

教団になったと言うお話を聴いて余り間のない頃ですから二二年の九月頃の事と思います。

朝起きて見ますと火鉢のそばにある座布団の上に二百二、三十円位のお札がばらまかれてあるのです。おかしな事があるものだと思い、もしかすると主人が使った残金を忘れたのだろうと思い気にもとめずにしまいました。

それから暫くして主人が煙草を買うから金を呉れと申しますのでタンスの抽出しをあけましたが、確かにしまってある筈の金が一五〇〇円程ありません。主人に尋ねても一向知らぬと言いますし、では座布団の上に今朝二百二、三十円の金がおいてありましたが、あれは貴方のですかと訊きますと知らぬとの事ですから、もしかすると盗難に罹ったのかと思い、その時はまだ御書体をお祭りしてありませんでしたので、教導所のお観音様に一生懸命お願い致しました。それから自分の不注意をお詫び致しまして余り気にもとめずにいました。

すると三日後に階段にハダシの足跡がついているのです。おかしいねえ一体どうしたのだろう又盗難かな、としらべてみると机の上の本箱の上に一五〇〇円の金が置いてあるのです。良心にとがめてもっていられなくなって吃度返しに来たものだと思います。その時程観音様の御利益を感じさせられた事はありません。余りの不思議さに主人も驚き、早速会員にならしていただくのだと御守様をおかけし、それからは特に協力して下さる様になりました。それから二カ月程経った一一月頃だったと思います。霊気を入れると魚がよくつれると言う御話しを先生から御伺いしましたので、その頃は主人がイサリが好きで毎夜一貫目位いな魚をとって来ます。

その話を主人にしました処いくら有難くても霊気を入れて魚がとれるなんてそんな事はないだろうと申すものですから、でも先生が仰言ったのですから間違いはないでしょう兎に角やってみましょうと、イサリ漁の御供をさしていただきまして舟を浄め、海に向って一生懸命に霊気を入れてゆく中に一貫三〇〇匁もある大きなヒラメをとるやら、チヌを二貫目ウナギやら色々な御魚をその晩に限って五貫目も漁がありました。有難いやら勿体ないやらで翌日魚を持って教導所に早速御礼参りをさしていただきました。

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栃木県 S・K

去る五月一三日U小学校の運動会の日の事でした。学校へお弁当を届けに出向いたU町のYさん方へ盗人が押入り衣類約二〇点が盗まれている事を帰宅後発見、驚いたYさんは直ちに警察へ届けに出ると共にYさんの内儀さんはSさん宅で、光明如来様をお祭りして頂いた頃よりその有難さを知っておりますので、早速御願いにあがりました。Yさんの家では時節柄子供に一枚の着物を買って与える事も出来ない様な暮しで盗難という事は非常な痛手なのです。これを聞いたSさんは早速観音様の妙智力にすがるべく一心に善言讃詞を奉唱致しました。そしてその翌くる日の夜、巡察中のお巡りさんからA駅のホームの籔かげに大きな風呂敷包み二箇がかくされてあると言う知らせがYさんのもとに届きました。取るものも取り敢えず、Yさんは現場へ行って調べました処、品物は全部自分の物でした。しかも二〇点位と思っていたのが、約四〇点近くの品物だったのです。狂気の如く喜んだYさんはSさん共々教導所へ御礼参りに来ました。

此の偉大なる観音様の御利益に一同感激しそれからは尚一層感謝の毎日を送っております。

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静岡県 W・S

私等は光明如来様をお祭りさせて頂き、六人家族の内祖母、弟の外四名御守様を頂いて居ります。

昭和二三年八月一六日、この日何時も留守番をしてくれる祖母が水神様のお祭りで親戚に泊り不在中の出来事です。夜一二時頃迄確かにあったリヤカー一台が、翌一七日朝四時半頃盗まれている事に気付ました故、西の方を探して廻りましたが見付かりませんので、今では盗まれた物が出ないのは当り前と思って諦める気持になって居りましたが、妻が東の方も探して見たらと言うのでその気になり段々見てまいりますと、今度出来た東海道の新道の軟かい土の上にリヤカーの跡がはっきりついているのが見えましたので、約一五丁位行くと富士宮街道に出て了い、その跡は遂に解らなくなりました。その時ふと近所に友達のSという者のいる事を思いだし事情を話しました処が、それは女だろうと言われ驚きました。尚色々話を聞きますとSは一六日夜親戚に泊り、朝三時半頃に身延線の踏切の処まで来ますと未だ薄暗いのに女の人がリヤカーを引いて来るので山の畑にでも行くのかと思い「早いねえ山路へ行くのかね」と言葉をかけましたが別に返事もしないので変な女だなあ位で、気にも止めずに通り過ぎまして一寸来た時に「ガタン」という音がしたので振返って見ると線路にリヤカーの輪が篏り込んで押したり引いたりしていました。

その時道路を真直ぐ歩いて車が線路に篏る訳がないと尚見て居りますと、そのままの方向でOという家の庭に引込みました。あの家はよく賭博打ちや色々の家族が四、五世帯いるがこんなに早くなんだろうと不思議に思い乍ら帰り、まだ早いので又一寝した処へ私が来たのでした。早速その家の表庭へ行って見るとリヤカーはないが引込んだ跡と引出した跡がハッキリ付いて居るのです。然し突然飛込む訳にも行きませんのでTという町会議員を頼み先ず隣のM家で様子を聞きますと、五時頃リヤカーを引出した人はK(五〇歳位)という女でOが妾の様にして居るという事も解りました。Oの家を尋ねますと妻君は「来ない知らない」の一点張りだったが傍に居た主人が「来た。俺は頭が悪いから時間は解らないが自分の処から一五〇円の金を持って大宮の親戚へ行ったからすぐ電話します」と言って行き少時してから戻って来て、是非公にしない様に内済にして貰いたい。たとえ第三者の手に渡っていても取戻すからと、盛にあやまり今から自分が迎えに行くと子供(一三歳位)を連れて出て行きましたが、少しすると不思議に富士宮にいるべき筈のKが突然帰って来まして、その儘倒れる様にその場に眠って終いました。聞くとKはモルヒネ中毒で注射しなければ人の物も自分の物も見境なく盗りたくなり、注射すればいい気持で眠て終うそうです。Oの主人もやはりモヒ中毒だそうです。

少時して気がつき色々尋ねるとG町という処の実家にリヤカーを置いて在るというので女を自転車に乗せて行き、早速取戻させて頂きました。処が富士宮に行った親子がその日の内に又泥棒を働き、親子泥棒だと大変な騒ぎで人の評判では新聞にも出たとの事です。一方Kは自家にその晩は泊り、又Oの家に来て泊り込み翌朝O主人の物を手当り次第盗んで姿を消して終ったとの事です。僅か二日間に斯くも大きな御守護を頂き、善悪に降された賞罰を余りにもはっきりと見せて頂き只々有難く御礼の言葉もありません。

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滋賀県 H・T

昭和二三年一〇月二四日、私は和歌山市へ出張の帰途、南海線I町の得意先へ立寄り午前一〇時すぎ同駅より乗車約四〇分後N駅にて大変なる奇蹟を頂き実に驚きました。左に此の真相を申し上げたく存じます。

当日私持参の鞄中には重要書類と大切なお金が一万二〇〇〇円、その他私物等でありますが、之等は現在最重要品でありますので手に持っておりましたが、少し重いので棚に上げ、絶えず注目致しておりました処、二、三日前よりの疲労と昨夜の睡眠不足の為、N駅停車の際一寸二〇秒許り目を瞑った様に思いました。

電車が発車すると同時に前に立っている婦人が、「棚にあった鞄は貴方のと違いますか」と注意して下さったので見ると大切な鞄がなく驚いて立上り動いている電車から飛び降りその場に倒れました。早速立上りホーム中を探し廻りましたが見付かりません。此の瞬間犯人は逃げたと直感目先は真暗となりました。此の時電車は急停車し車掌が私の前へ来て「犯人は此の男です。鞄は持って来て上げますから此の電車内で待って下さい」と言い五〇米程後の線路上にある鞄を拾って呉れている有様が見えておりました。之を私は受取り次駅S駅迄行き車掌は私と犯人を駅長に引き渡し電車は発車しました。私は知らして下さった車中の婦人に手を合せ御礼を申しました。S駅では駅長と犯人とが相当口論しましたが、私は鞄が手に入った以上此の人を目撃した訳でもなし、深く責める事を止め、光明如来様の御利益を喜び周囲の人等にお話を致し難波に向いました。此の時午前一〇時五分、難波下車後直ちに車掌の処へ御礼に参りました処、犯人は口論中でありましたが私の言葉により何事もなく出て行く様子でした。午後四時すぎY駅へ安着、如来様の有難さを一同に伝えました。私が深く感じましたのは電車から飛び降りた際、一寸左の手首を傷めましたが血が出る程でもなく、痛くない程度であり、自動扉ですからいつも締っておりますのに少し開いてあった事、電車が停車して車掌が機敏に動作をされた事婦人が知らせて下さった事等総て一秒遅く共此の機会を逸した事でありましょう。

全く此の奇蹟は神様より頂いた事を深く有難く存じる次第で御座居ます。

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静岡県 M・T

昭和二二年一〇月一一日朝五時半頃、突然「バーン」という物凄い音がしました。私は跳起ました。

体中血だらけの弟を見出したのです。私は余りの凄さにふるえ、然し兎に角御教修を戴いて居る私は無我夢中で御浄霊をし乍ら医者へ飛込んだのです。落着いて弟を見た私は、又喫驚しました。顔面はブツブツと噴き出る血、黒い破片、目の下は黒紫色に腫れ上り両手はささらの如く左手は親指から三本爪から先が取れているではありませんか、私は医師がなすままを見ていました。弟は気絶しているのか体が痺れているかの如く声も立てられません。

家に連れ帰った私は、何時間もの間唯々御力にお縋りして御浄霊を致しました。その夜は痛んで寝られないかと心配致して居りましたが、良く休めたらしく痛がりません。それより三日三晩というものは夜中にも二、三時間位御浄霊を致し、大した熱も出ず痛がりもせず大変よくなって行くのが誰の眼にも明瞭にわかるではありませんか、何んと有難い事でしょう。母を始め皆んな泣いて喜びました。一日一日と顔の脹れも黒紫色も綺麗になって参ります。御浄霊を戴きに、K先生の処へ行くと程無くして肉の取れた指が盛り上って参り医者で三本縫った糸も自然と落て、僅か一カ月半で全く良くなって参りました。私も家中の者も皆んな半歳は懸ると思って居りましたが、御観音様の御蔭御浄霊の御蔭で御座居ます。

後の話に、その朝弟は早く起きて戦争中拾って来た弾丸を思い出し穴を何かで突いたからたまりません爆発したのです。

今でも指は少々短いけれども分りません。今年一二歳になりましたが、本人が余りにも縋るので昨年の一二月に御教修を戴きました。小さな胸に御光を掛けて元気で学校に通って居ります。

あの事件から七カ月を経た昨年五月の終り頃学校にて顔に入った儘になっていた破片が糸切歯の間から出たのです。早速先生に御見せ致しました。それは黄色い三角の小さな物で三、四粍位でした。今尚私の手元に保存してあります。

私達は申す迄もなく近隣の人達までが御観音様の偉大なる御力に驚き絶讃の声を挙げました。此の歓びを胸に私達家内一同日々御観音様の御守護を仰ぎ感謝の日を過ごさして戴いて居ります。

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香川県 O・Y

祖国日本の敗戦、無条件降伏等々の悲報に昨日に変る今日の惨めさ、植民地生活一一年の名残りを留めて龍虎に追わるる子羊の如く暴行、掠奪拉致等筆舌につくしがたき幾多の悲惨事を身を以って味いつつ一歩一歩故国へ故国へと引揚げましたが、その引揚の苦しさに神はあるか、仏はあるのかどうして斯く迄苦しみを味わねばならぬか、神仏が何んだと敗戦を期に私の信仰心は何時しか一遍に遠い処に消え去って仕舞いました。それに加えて引揚路に於ける愛児の死により愈々その心を強く致しました。懐しい故国に辿りついたものの戦災に遭った我家は僅かな瓦解物と土台石が残るのみで、当時の心境は誠に想像するだに余りあるもので御座いました。

当時、実兄が観音教団に入信致しており毎日毎日教を説き聞かせてくれたり、時にはS教導所へ無理やりに伴われて先生からお話や浄霊も受けましたが、神仏の存在を認めない私には如何なる金言も全く馬耳東風で親切に説いてくれる兄や姉には申訳ないと思いつつ信仰は自由だとて親切にされる程返って反対論を叫びましたが、事情あって四国の現住地に引越すに当り、先生に進められて妻が昭和二一年六月教修をうけました。そして四国に参りましてから妻が某婦人の吹出物を浄霊致しました処、治癒する処か益々化膿致し遂に婦人をして怒らして仕舞い、私もこれ幸いとばかり「人を浄霊して喜んで貰うのが目的だのに返って悪化さして怒らせる位なら親切が仇だ、兄や姉が何と言おうとやめてしまえ」と妻にどなりつけました。信念浅き妻も良人に従順こそ大切なりとてトランクの中へお光を仕舞い込んでしまいました。

爾来丸二年間夫婦共々に深い眠りに落ちてしまって兄姉から浄霊は如何かしっかり頑張れと激励や意見の手紙が次々参りましたものの、一回の返事も出さず苦笑の内に抹殺するのみで御座いました。処が丁度昨年四月郷土祭りに帰省致しました処、果然教団の話がもち上りS先生のお話を聞け教導所に行けと強制され種々問答の末、兄の言う事だとしぶしぶ妻と共に教導所を訪れましてお話を伺ったものの「手を振る事位で病気や社会の諸々の難題が解決するならば、医者も薬も不要だ、神仏があるなら何故我々が引揚以来かく迄苦労をしなければならないのだ」と帰途大空を眺めて溜息をつき、帰省中の尊い日程を一日無駄に損してしまったと小言を言いながら帰宅致しました。すると兄が「どうだ四国へ一度行く、そしてお前達の目の前に御利益をみせてやるから当分世話して貰いたい」との言葉にウウンと弱音をはきましたが、世話になっている兄の言う事であり不承不承ながら承諾致したのであります。

丁度子供が頭に吹出物が一つ二つ出ておりましたので浄霊を受けますと二、三日で頭全体に拡がり下痢はどんどんするし、目やに鼻汁等ものすごく出るのをみまして如何に浄霊とは謂えとても堪らないと思い、薬局より薬を求めて来て兄に内密で服用せしめようと致しました事から「兄さんに済まない」と妻が力説致しますため遂に夫婦喧嘩迄しましたのも一再ではありませんでしたが、己が職を投げ捨てて世の人を救わんと折角何も知らない四国迄乗り出して来て、毎日二里、三里と病人を探し求めて並々ならぬ苦労する兄達の姿を見、且又八年間も患いつづけ生き乍ら此世を断っていた娘さんや、医師に死の宣告をされて遺言までしていた婦人等が日増しに快方致して希望に溢れてゆく姿を目の辺りみせつけられて、此枚挙にいとまなき奇なる事実に牙城の如き私の心も遂に心から飜然と目覚めたのであります。

私は今更乍ら過去の数々の行為や又思想が身につまされまして、本当に申訳ない事だったと観音様にお詫び致しました。と共に腹も立ったでしょう兄が最後迄私をみ捨てる事なく己が生活を犠牲に致してまでも事実をみせつけて導いてくれました愛情に只頭が下るのでございました。坂出に於ける最初の教修に入信致しまして以来一〇カ月、W先生始めS先生や幾多の先生の慈愛こもる御指導を受けまして大先生の御面会にも五回参上致しました。過日には大光明如来様もお授けの栄を賜りまして、その喜びは誠に文字に表わす術もなく一刻も早く香川県に最初の分会を設立致さねばと多くの協力者を得まして御用に邁進致しております。

今暗黒から光明に救われまして只感謝の言葉も見出せない私で御座います。

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神奈川県 N・T

私は一九歳の春忘れも致しません。三月一五日二階の階段二段目より足を踏みはずし顛落したのが動機で、それ以来脊髄カリエス患者となり、一六年の長い年月の明け暮れ、何とかして健康者になりたいと激痛と精神的の悩みに日夜どれ程苦しんだか、その当時を顧み今思出してもぞっと致します。

最初の三年程は割合に苦痛も少なかったために半年入院致し、退院後は絶えず医師の忠告をうけ乍らカリエスに良いと言われる温泉には何処へでも出掛けて行き色々と養生に勤めておりました。

此様な事を繰返しております内に四年目頃より表を歩いております時など急に膝を折ったり小石などに躓きましても全身に響き、その度に息もつけぬ様な痛さを感じ、歩行も段々困難になり体全体がだるく床に伏している時が多くなって来ました。勿論ギブスも作り注射薬は一日も休む事なく医師に頼り切っておりましたが、その後二五歳の正月元日の夜中から腰が痛み出し、二日の朝目が覚めますと腰が全然立たなくなって非常に吃驚し、早速医師を迎えて診察を受けたのですが、注射より外に手当の方法はなく、実に頼りない思いで毎日をすごしております中、一〇日目にやっと床の上に座れる様になり、妹に背中をさすってもらいますと、今迄それ程出ていなかった脊髄の骨が三分程高くなっているのに驚き、ついに偃瘻になった事を知りました。そして此時から医学に許り頼ってはいられないと思い、民間療法を手当り次第に漁ることとなり、電気、指圧、鍼、灸、漢方薬は勿論毎日の新聞は第一番に広告欄に目を通し、カリエスの薬が出ておりますと片端しからとりよせますし、医師からは絶対安静を言渡されておりましたが、何処其処によい病院があるとか治療があると教え戴くとどの様な遠方迄も自動車で苦心を致して診察を受けに行くのですが、帰りは必ず失望する事も幾度となくありました。ただ健康になれたらと焦る余り、色々な事に迷いますので、親、兄妹知人に「そんなに迷っては」と意見をされた事も度々ありましたが、何しろ我儘が通せる立場にありましたのと、私はもし此世に神仏があるとすればいつかは必ず奇蹟にぶつかって救われる様な気持がしており、本当の物に突当る迄は何でも受入れてみると言う強い信念を持っておりました。勿論色々な信仰も致しましたが、何んの御利益も戴けませんでした。

私がその頃どんなに迷ったかと言うにお見舞に来て下さる方が「また何かよい薬か療法がありましたか」とよく聴かれたものです。こうして焦り乍らも月日は矢の様にすぎ病勢は段々悪化の一途を辿って行くのでした。そして三二歳の二月半ばに急性肺炎と腎盂炎を患い忽ち重態に陥り愈々衰弱の極に達しました。床の上から担架にのせられて出て行く時は自分も周囲の人も「今度は生きて再び此家の門はくぐれまい」と思って堪らない淋しさを感じました。

そして入院後五日間は意識不明で、気がついた時の親兄妹の喜びようは譬えようも有りませんでしたが、それから一カ月位の間はお見舞の人が殆んど見えないので不思議に思っておりますと、或日廊下で「まだ面会謝絶ですか」と言う声がしているのを聞いて吃驚し、早速謝絶の札を外ずしてもらいましたが、其後も危険状態になった事が三度許りあったそうです。後になって院長副院長の話によれば「たまに奇蹟的に治る患者もあるが、貴女の様な患者が助かったのは初めての事だ」と驚いておりました。

これは後で聴いた話ですが、医師は親兄弟には「よくなった様でも今一時的で長い事はない」とはっきり申していたそうです。兎に角五カ月目には無理に退院致し、看護婦付添いで帰って参り、自宅療法二カ月で看護婦の手が一時切れましたので喜んでおりましたのもつかのま、それから二〇日程経ました或夜便所に立って歩き出そうとした途端ぎくんと腰に響いたと思うと、其処にあった椅子に掴まったきり便所に行く事も出来ず一足の所にある床の上に戻る事もどうする事も出来ないのです。何しろ一寸足を動かしても全神経に響き激痛が全神経に感じ、他の人でも触れる事も出来ず二時間以上かかってやっと寝床に横になる事が出来、それ以来の苦しみはとても言葉で言い表す事は出来ません。主治医は勿論何処の医師を迎えても診察はおろか手を触れる事もなりません。自分で指一本動かしても電流の様に全神経に響き、その度に呼吸が止まる程の苦しみに医者も手がつけられず、此時より総ゆる物に見離され、ついに文字通り絶望状態に陥り家人の様子からも、既に医師から死の宣告を受けた事をはっきりと知り、愈々私の命も三二歳で終りを告ぐるのかと前途は真暗になりましたが、人間の命程脆い様でまた強いものはなく、そのまま死ぬ事も出来ず、日夜言語に絶する苦しみから逃れる術もなく、死よりも尚辛く暗い私でした。苦しみの中で一番辛かった事は笑う事の出来ない事でした。

お見舞に来て下さる方が私を慰めて下さるお気持で面白い世間話を色々と聴かせて私を笑わせ様となさるので何時でもその様な時には先にお断りするのですが、時折り話に釣込まれて笑おうと致しますとさあ大変で、一寸の笑いでも全神経にさわり、その激痛で呼吸が止ったかと思う程に苦しみます。此苦しみは私以外の人には想像だも出来ないと思います。

此苦しみの状態が四年間続いたのです。全く生ける屍とは私の事だったでしょう。しかもその屍は苦しみの塊でした。親兄弟知人も恐らく私の知る限りの人は私の生きている事を不思議に思わぬ人はなく、何時とはなしに町の話題に迄なっていました。私には何か変った特別の心臓がついているのではないかと言われ、強心臓さんと綽名がついた位で兎に角不思議な病人にされていました。自分でも愈々駄目だと思う時が来て、今度こそ絶対に最後だと言う事が親戚中に伝りましたのが発病以来一六年目の三五歳の夏、即ち昭和一七年の八月でした。私は最早凡てを覚悟して死期の至るのを待っておりますと、その月の二七日遠い親戚に当る叔母さんがみえて、「良い手指療法があるから一度治療を受けてみては」と勧められましたが、あらゆる指圧療法をうけてみたが何の効果もないのだからと、今迄人にすすめられて一度もお断りした事のない私が一切を諦めていたし今度は初めてきっぱりと断りました。

翌日になりますとその叔母様が再び来られて「私の孫(当時二二歳の大学生)が肋骨カリエスで手術を受ける事になっていたのが二回の治療で腫れがひいて手術をする事なく治ったのだから今一度欺されると思って」と熱心に勧められますので遂に断りきれず、治療を受けることにしましたが、一、二度治療を受けたらお断りするつもりでおりました。その晩早速H先生を案内して来て頂きました。私は勧めて頂いた方への義理で仕方なく、治療を受けていたのですが、先生が三〇分程治療をした後「横にむいて御覧なさい」と言われて吃驚致しました。一寸動いても非常な苦痛を感じる私の躰が恐わ恐わ動かしてみると、僅かの痛みを覚える丈けで横になれたのです。アア何と言う奇蹟、夢ではないかと思いました。長い年月の病床生活の間一寸でも良いから横になれたらと思っていて果し得なかった事が、僅か三〇分の簡単な治療で不思議に横向きになれたのですから吃驚すると同時に、これは普通の指圧療法ではないと直感しました。

先生の帰られる時には嬉しさに知らず知らずの中に床の上に座ってお礼を申しておりました。側にいた妹と女中が驚いて「アラ座れた」と言う言葉に初めて自分の座っている姿に気づいて二度吃驚致しました。先生を案内して来て下さいました方も非常に喜んで帰られましたが、再び躰を寝かせようと致しますと非常に痛み出して苦労を致し、又横向きにもなる事が出来ませんでしたが、兎に角治療を受けている間は痛みがとれますので今一度欺されてみようと思いました。処が二度目の治療を受けますと前日よりも躰を動かせても痛みを感じませんので、愈々不思議に思われ先生に「此治療は人間だけの力ではなく、何か外の力が働いていますね」と申しますと先生は一寸驚かれた様な顔をなさいまして、実は此処にあるのですよと左の胸を叩いて笑ってそのまま帰られました。

私は後で先生は心臓に何か仕掛がある様な事を言って帰られたが実に不思議でなりませんでした。三度目の治療を受けた時「先生、私のような重体では再び快方に向う事は出来ないでしょうが、せめて死ぬ迄に一〇日でもよいから立って便所へ行かれたらどんなに嬉しいか判りません」と申しますと、先生は真面目な顔をして「便所は愚か貴女の気持次第でもとの健康な体に必らずなれます」と言われ吃驚致しました。今迄一六年の間医師は勿論、民間療法の方に「治して頂けますか」と尋ねますと「治った人もありますからやってみましょう」位の返事許りで治ると思ったことは一度もありませんでしたが、H先生の「治りますよ」との力強いお言葉は私の胸につよくひびいたと同時に「先生、判然とお教え下さい、この療法は唯の指圧ではありませんね、何か神仏何れかの強い霊の働きによると思います」と申しますと、私の枕許にある沢山の宗教の本を御覧になって「宗教心のある方だけに解りが早い」と言われ「実はお観音様のお力で治して下さるので私の力ではありません」と聴かされた時の私の目の前がパッと明るくなるのを感じました。

アア今迄一度も感じた事のないその喜び!暗黒と絶望の中に彷徨し続けて死の関頭に立たされた瞬間にパッと点ぜられた一筋の光明を仰ぐ無限の喜びに、只々夢中で「先生のお言葉を信じて一心にお観音様にお縋りさせて頂きます。尚先生のお言葉通り致しますから是非お導き下さい」とお願い致しました。それからは毎日薄紙を剝がす如く快方に向って治療を受け始めてから二〇日目頃から腰が立つ様になって、遂に長い間夢みた、物に摑り乍らも便所へも行ける様になりました時の感激は到底筆舌につくせるものではありません。

観音様の御利益の偉大さに只々驚嘆の外ありませんでした。一〇月二八日にS先生(現日本五六七会会長)に二階へお観音様をお祀りして頂き、私も二階へ上ってお参りさせて頂きました。初めて大先生御直筆観音様のお姿を拝しました時は、唯々余りの有難さに止めどなくふり落つる涙、涙、感慨無量との言葉は此時私のために出来ていたのだと思われる程でした。その時私は来月一〇日(一一月一〇日)には東京淀橋にあったS先生のお家へ行って教修を頂くと言う大変な約束をしてしまいました。然しお約束した以上必らず行かして頂くのだと深く決心して一心に観音様にお願いしている中、不思議と一足二足と独り歩きが許され、遂にお約束の日に妹に連れられて参りました時は、流石に心臓は苦しく頭痛はひどく、目は眩んで参りました。その時の私の姿は宛ら幽霊の様な状態だったそうです。それでも三日間は横須賀から通い、四日目から通えなくて旅館から通って一週間の教修を終えてお守様を頂きました時の嬉しさ、又譬え様もありません。妹も一緒に教修を頂きました。此日より只一筋に観音様にお縋り致し御守護と御利益を頂き、七年の歳月は流れて数限りないおかげを頂き今日に及んでおります。

顧みますれば幾度か死の宣告をうけ、私自身死を寸前に覚悟しておりました。文字通り生ける屍であった私が、尊い観音様の大慈大悲によりて再び健康な体が与えられ、現在どんな遠方へでも伝道の旅に行ける様になった幸福は如何にお礼を申上げても御恵みの万分の一にも及ぶものではございません。誠に

我生命甦るさへ嬉しきに医しの業まで許されにける

の御讃歌を奉唱して観音様の限りなき大慈大悲に感泣しつつ私自身の救われた喜びを一人でも多くの人にお伝え及ぼさんものと日々感謝の中に伝道の道に微力をつくさせて頂いている次第で御座います。

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石川県 I・S

大先生様、洪大無辺なる御守護を頂き感泣措くところを知らず、ただほとばしり湧く感謝感激に震え乍ら、御守護頂きました次第を申し上げ、ここに深甚の感謝を捧げ厚く御礼申し上げます。一九歳の九月、カリエスにかかり日々病弱な身に悩され、暗黒にとざされた日を送り、ついに二五歳の年に病床に臥す身となりました。

それより病院(ギブス三回作る)、指圧、灸、気合術、整骨と凡そ良いと聞く限りの事はやって見ました。何の効めもなく、初めは胸椎カリエスのみでございましたが、頸椎、腰椎もおかされ、全身各部に故障は増すばかり、身体は衰弱し、起る力もなくなりました。不治の病とききながらも、どうかして癒したい一念で、出来得る限りの努力もし忍耐もして病と闘いました。

気力も二九歳の秋にはついにうせてしまい、もう回復の見込なしとあきらめました。人間にとって病が不治とあきらめる程、悲惨な事がございましょうか?それより自暴自棄におちいり、来る日も来る日も苦悩と煩悶で、暗黒無明の生活がつづき、余りの苦しさにひそかに死の道を考えた事もしばしばでございました。

ところが、或日姉より浄霊の有難い事をきかされましたが、これまで何をしても失敗に終ったので到底信じられず、どうせ今迄の事と変りない無駄な事と気乗りもしませんでしたが、あまり姉が熱心にすすめますので、ともかくやって頂きましたところ、有難いことには苦痛がうすらぎ、すこしずつ身体を起しておれる様になり、何だかH先生より病患の根本原因、「病は健康増進の自然生理作用であって、神の一大恩恵である」その他色々と御懇切な御話を承り、これまで一時の間も忘れる事の出来なかった病に対しての不安、恐怖感がなくなり、その日より体をおこしました。

それより、心は明るく、気持は落着き、食欲は進み、真心から御指導下さる諸先生の御浄霊を頂き、ぐんぐん快方に向いました、病のみでございません。身も魂もよみがえり行く此の嬉しさ……何んという有難い御恵みなのでございましょう。

只今はN先生の御宅に御世話頂き、先生の真心からの御浄霊を頂き、日一日と快方に向い、輝かしい希望にみちた今日となりました。

過去を顧みれば本当にこの世の地獄の苦しみ、自他共に認めた、「死」以外になかった此の身が、大慈大悲の御手に救われました。……此の悦び何に譬え様もございません。嗚呼あの時の事を思い救われた今を考えますと、涙が止めどもなく流れ、ペンは震えます。唯感激の涙にむせびながら、大光明如来様の御前に額く私です。

ああ驚異的妙智力……素晴らしい救の力、現代の医学で難病とされていますカリエスが、医学、唯一の治療法としている安静療法を止め、唯観音妙智力の神霊放射能によって癒され行くとは、カリエスのみでは御ざいません。医学で不治とされています病がいと簡単に癒され行くのを確かに此の目で見ました。この大きな喜びを通じて全人類が何千年以来要望して止まなかったところ、最大にして最後の目標の、「幸福」が此の宗教に入ることによって受けられることを知りました。

嗚呼、偉大な宗教の現われた事を讃えずにはおれません。大先生の御恵に唯々感涙に咽ぶばかりでございます。一日も早く癒の業で凡ゆる苦悩が根本的に解決され、喜にひたる事の出来ることを一人でも多くの人に伝え、病貧争絶無の世界建設の御手伝いをさせて頂きたいと、私の願いはそれのみでございます。

日一日とこの願いは強く燃えて行きます。胸中溢るる感謝の万分の一も書き表わすことの出来ませぬのを残念に思いつつペンを終らせて頂きます。

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静岡県 M・M

私は長い間脊髄カリエスで苦しんでおりました。過去六年間多くの医師の診療を受け、最後は静岡の日赤でコルセットを作って四年と二カ月着て参りました。

昨年一一月一一日より肺炎を併発し、六日の朝と七日の一〇時頃多量な鼻血が出ました。呼吸も大変苦しくなり早速医師の診療を受けました。大変重態とのことで絶対安静を宣告されました。一家の悲しみは何にたとえようもなく、私もいよいよ死の迫ったことを知って狂おしい焦燥に駆られながら動けない身を悶えてとめどもなく溢れる涙をどうすることも出来ませんでした、母は身を切られる思いで一〇日の朝ふと私に「私は三日も御飯が咽喉を通らない、此上はお観音様にお縋りしたら」と言われたのでございます。そうして一一日の午後Sさんの所へお願いにあがりました。

何と神様のお導きで御座いましょうか、翌一二日よりO村で教修が開かれますとのこと急に春が来たような喜びで母は帰って参りました。一二日より私はSさんに朝夕二回の御浄霊を頂き母は教修会へ一日も早く救われますようにと朝早くから出かけました。

それから三日後の一四日には一生涯とることが出来ないと思ったコルセットを取ることが出来ました。此喜び此嬉しさ唯々一途にお観音様の御威光に一同咽び泣いたのでございます。私も三日間の教修も無事終りまして一五日からは夜となく昼となく御浄霊をして下さいました。Sさんも一生懸命来て下さいまして三九度を下りなかった熱も一九日頃より下りはじめ、二五日にはお屏風観音様を頂き御先祖様のお祭をして頂く時には私をはじめ家内一同一緒に拝むことが出来ました。

誠に此偉大な御力に一家は救われ私は死の直前から命をたすけられ、コルセットまでとり去り医薬も頂かずにおたすけ下さいました御恩は山よりも高く海よりも深く感激の余り感謝の言葉も御ざいません。此偉大なる御力を頂く事が出来ましたのも大先生様御守護、H先生のお導きによることを深く深く感謝致します。

その後順調に身体は回復に向い一二月一八日Sさんのお宅へ母と一緒にお礼に上り御神体へお詣りさせて頂きました処、体がだるく寒気がして胸も痛くなり又肺炎の再発かと思いまして帰って参りました。そして仏壇の前へ行き一心にお観音様へお念じし善言讃詞を七回あげまして床に就き母に御浄霊して頂きました。

それから二二日の晩はお観音様に御浄霊をして頂いた夢をみまして誠に畏れ多い御守護を頂いたのでございます。一二月二四日より兄と共にH先生の教修を頂き一月二六日弟も入信させて頂き家庭は春のよろこびに満ち溢れております。又二月には御神体をお祀りさせて頂きました。

この有難いお力に縋って今後一生懸命お救いの道に励まして頂き過去の私の様な苦しみにある人達を一人も多く光明に輝く幸福の道へお誘いさせて頂く決心でございます。

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愛媛県 I・H

私は昭和二二年六月復員致しましたが、約三年半の南方生活で身体は弱り、頭髪は薄くなって我家に帰りましても元気なく毎日ぶらぶら何一つせず居りましたが、不眠が続き、食欲は無く頭がぼんやりと成り不愉快な気持で過して居る中、頭は益々重く成り、判断も正確を欠き考え事は出来なくなり一日一日気が遠く成って行く様に感じました。

一人で海岸へ出て見たり眠れなくて真夜中に月を眺めて坐って居たり苦しみ続け「もう自分は駄目だ、死んだ方がましだ」と思った事も有りましたその末に或日家業を手伝って居りました時頭がたまらなくなりのぼせ上ってしまいました。

それからは周囲をみても何が何だか解らないようになり一つ処に坐っている事も出来ず家中ぐるぐる廻り、外へ出ては一つ路を行ったり来たりするばかりで自分の気持は今にも気狂いになるように思いました。私は両親に「私は今日か明日か気が狂ってしまうから早く何とかして下さい」と言いその夜は嘔吐し気分は極度に悪く、もだえ苦しみ両親は心配して薬を呑ませて呉れましたが、何の効果もありません。

私は脳病院に行けば治るものと思い両親に伴われて入院致しました。病院では精神に異常はないが考えることがまとまらない病気だ、といわれとうとう軽い程度の精神病者の室に一人入る事になりました。そして「良くなるまでは此の部屋からは絶対出てはいけない話しもいけない、寝台に寝ているか窓から外を眺める程度なればよい」と言われました。その通りして居りましたが、一人でいると苦痛と不安に益々神経が尖ってたまらなくなり部屋を飛び出し、看護員の処まで行った事も幾度もありました。仕舞には部屋を出ては養生にならぬから戸を締め鍵をされその中で我慢しなさいと言われ、苦痛を我慢して一カ月過ぎました。

その間約半月は服薬し後半月は電気にかかって養生致しました。不眠の為身体は極度に衰弱し少しも良くなりません、特に電気にかかる時が恐ろしいのです。それは電気にかかると人事不省になり何時間か全然判らなくなるのです、結局退院することに致しました。我家に帰りましても近所の人々も心配して下さいましたが、私は話をするのも厭で一口だけ言った後は逃げるようにしておりました。私の話は一つ事を何回も言っておりすでに精神病となっていたのです。

その時母よりH町にE先生と言われる方が居られ何の病気でも治すとの事で今日お願いに行って見なさいと言われ早速E先生に浄霊をして戴きに参りました。その時の私は歩いていても夢の様な気持で人から言われた事を漸く判断する程でした。

五日目の浄霊をして戴いて帰りますと後頭部が何か崖崩れでもした様に何か下に降った様に思いましたと同時に苦しかった頭が非常に楽になり判断がはっきりして来ました。先生に此の事を話しますとそれは頭に溜って居た毒素が溶けて降ったので楽に成ったのですと言われました。

それから一生懸命に続けましたところ尿は濁り鼻痰、下痢等続いて一日一日快方に向い、一カ月半後には全然出来なかった仕事も出来る様に成りました。次々と浄化を戴きまして痰や鼻が沢山に出て又下痢も四カ月間位続き内一カ月は一番多くて毎日続きました。浄化が終った後は食欲は進み熟睡する様になり頭ははっきりとし体は丈夫になりました。私は精神病で一生を終る処で御ざいましたが、有難い観音様のお力に救って戴きました。

此の嬉しさはとうてい筆や言葉では表す事は出来ません。教修を受けさせて戴き観音様の御用の御手伝いをさせて戴き御恩の万分の一にも御報いさせて戴かねばとE先生にお願いしてお手伝させて戴いて居ります。

世間には私の様な病気で苦しんで居られる方が沢山居られる事と思います。一日も早くお観音様にお縋りして浄霊をお受けする事をお祈り致します。私の家庭も父が一度目はもう駄目かと思う樣な呼吸の苦しい病気になりましたが御蔭を戴きました。

又弟も頭が悪く苦しんで居りましたが、E先生の御指導を戴きましてお蔭を戴いて居ります。父の二度目の浄化も終りまして今では元気で家業に励んで居ります。家中教修を戴き光明如来様を御祭りさせて戴きました。

私の病気以来暗い家庭となって居りましたがE先生の御指導により明るい家庭にならせて頂き毎日感謝の日を送っております。

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静岡県 H・R

私は昭和二二年七月入信させて頂きまして、夫の復員を待ちつつ、二人の子供の成長を祈りながら、感謝の日を送らせて頂いて居ります母親で御座います。ここに拙い筆をとりまして、子供が小児麻痺より救われました御報告をさせて頂きます。

昨年御正月の松飾もとれて間もない九日の昼頃、突然表で、「早く早く」と呼ぶ声に飛出して見ますと、お向の御主人に抱かれて、グッタリした長男T(九歳)の姿を見た時は気も顛倒しそうでした。早速近所の熱心な信者さんMさんと、教導所からI先生にもおいでいただきました。夕方までに二回も引つけて目はつり、口は食い縛り、いくら呼んでも甲斐もなく、二日目の晩まで一進一退、変り果てた我子の姿にどうなるものかと心配しつつ念じ続けました。

三日目の夜明頃より口をきく様になり「お母ちゃんお母ちゃん」と呼び続けます。私が顔をさすり、口を耳許につけて「お母ちゃんは此処に居るのだよ、Tと一緒に居るよ」と幾度言っても判らず、目も見えず耳も聞えぬ我が子淋しい思いで、母を呼び泣き叫ぶ様は見る目もつらく、私の胸は張りさけんばかりでした。その時見舞に来てくれた叔父は、「Tが可愛ければこそ言うのだ。お観音様お観音様ってお観音様もいいけれど、良く考えた方がいい、早く医者を頼んで来い。若し父親の留守に医者にもかけず、殺して終ったら申訳が無いとは思わないのか」と言われた時私は途方にくれて終いましたが、此の時こそお観音様にお縋りしようと思い直して、きっと解って呉れる時が来るからもう一度言って見ようと思い、「叔父さんが心配して下さる御気持は充分解りますが、私は何処までもお観音様にお縋りします。若し此の子が死んでも、浄まって往ってくれれば本望です」と言うと、「産の親が其の気ならどうなったって仕方がない」と荒い言葉で立上りました。

私は夢中で、「どうぞお観音様お救い下さい。せめて目か耳かどちらでも良いから、時も早く御救い下さい」とお念じ致しました。その中に少しずつこちらの言う事に、返事の出来る様になりました。其の時の嬉しさは、何にたとえ様もなく只々有難さで一杯でした。それから間もなく目も見える様になり笑顔さえ浮べ午後になったら、「リンゴ」を一つ食べました。併し依然として左半身はききません。I先生から早く正会員になって、御先祖をお救いしなくてはと御注意を受けました。私も、「本当にそうだった。もっと本気でお縋りしましょう」と思い四日目の朝I先生に手続のため教導所へ行って頂きました。それから一時間程経った頃、急に手足がきく様に成りました。私は夢かとばかり驚きました。居合せた人々もまるで嘘の様だと言って、吃驚して色々話合っている処へ、I先生がお観音様を頂いて来て下さいました。先生の御話しをききますと、教導所で正会員の手続を終られて、お観音様を頂いて下さった時間と、病人の手足が自由に成った時間と、全く同じであった事が判り、今更乍ら驚きました。すぐにお祭りさせて頂き、改めて御礼申し上げようと仏壇の前に座らせて頂いた時は、胸は一杯で何んとも言えず、只有難うございました有難うございましたと、言い続けたのみでございました。五日目にはもう外へ出て遊びたいと困らせましたが、漸く其の日は家の中で遊ばせました。六日目からは近所の子供と遊び、九日目には学校へ通う吾子の姿を見送ってこれが四、五日前まで生死もわからず病んでいた子かと思いますと本当に夢の様でした。

あれ程反対した叔父もすっかり此の事実に驚き、早速教修を受けられ、現在共に安らかな信仰生活を送らせて頂いて居ります。今年元気でお正月を迎えた吾子を見ますにつけ、一年前の哀れな姿を思い浮べて感慨無量でございます。

大先生様はじめ、N先生、H先生に御礼の言葉さえなく、心の中を書き表す事も出来ない自分が情なく申訳ございません。この上は一人でも多く此の有難いお道にお救いさせて頂いて、御恩の万分の一なりとも御報いさせていただく外はないと、何時も心に念じて居ります。

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静岡県 T・T

病と貧と争いとの中に、不安と苦悩の日々を続けらるる多くの世人がありましょうのに、私達は有難き尊き神様のお道に御導きを頂きまして、前途に光明を与えられ、大なる希望に生き日夜守護垂れさせ給う忝なさに感謝あるのみでございます。

此度も光明如来様の御力をお授け頂きまして、偉大なる奇蹟を頂き謹みて御報告申上げます。

昨年一二月二二日午前七時頃、自宅前の畑にて作業しておりました処、何気なく東海道路上の人垣に気付き、何事かと近づいて見ました処、人が死の状態にて倒れており、その周辺に四、五〇人の人が集り騒いでいるので、それを見た私は自己を忘れ、人垣を押分けて中に飛込み、第一に左の手をとり脈をみました処、脈一つも私には知る事は出来ません。それのみか手足の関節は固くなっており、体は冷え全く死人そのままの状態でございます。

無神論者の多い公衆の真只中にて、尊い神様の御存在と絶対なる御力を表現なされますために、私達夫婦に此人をお与え下さったに相違ないと悟り、観音様の御慈悲の有難さ忝けなさに感涙に咽び乍ら、尊き御力を授け給えと念じつつ、主人は善言讃詞を奉唱させて頂き、私は御浄霊を続けさせて頂いておりました処、無神論者の多き公衆の中からは、死人に何をする、つまらぬ馬鹿者発狂夫婦などと、強声を発する者すら出て参りました。最早その時には人垣も一〇〇名以上となっており、役場からも警察からも係員が参っておりましたのに、私達は一寸の不安もなく神様の絶対の御力にお縋りしつつ、御浄霊を続けさして頂き、善言讃詞四回同念被観音力を奉唱している時でございました。あの青年はグウと呻き声と共に呼吸は段々平常に復しました。その時の私達の喜び、私達の胸中はお察し下さいませ。御力の尊さ忝なさ、有難さと喜びとが一度に胸を突き、何一つ言葉すら出ず、次々と溢れ出る感謝の涙のみでございました。一五分にて全く回復致しまして、身の上話まで物語る様になり、京都の生れにて二〇歳になる盲人の青年であった事が知れたのであります。

無神論者の目前にて偉大なる御力を表現させて頂きまして、村内の人達も村役場吏員も大なる反省を致したようであります。

偉大なる御神徳をお受致しまして謹みて御報告申上げさせて頂きます。

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岐阜県 A・G

私は昭和一二年一〇月頃より腰痛により苦しみおり、医師よりは神経痛だと診断され、半年間注射療法を受けましたが、腰痛は取れず苦しみは増すばかりでした。諦めて医療をやめ、自然にまかせましたら少し楽になりました。

昭和一四年七月召集され北支に出征致しましたが、腰痛のためやはり注射療法を受け、一人前の勤めも出来ず、一年間を過ごしました。

召集が解除され、帰郷しても一カ年間は十分なる家事の働きも出来ず、その後再度応召し半月程の猛訓練により再発しました。診断の結果神経痛ではなく、「リチャード氏病」と診断、入院を命ぜられました。名古屋練兵場分院に二カ月入院しましたが、薬としてはアスピリン、胃健散を服用しました。

しかし腰痛は忘れる事が出来ず、そのまま退院召集解除になりましたが労働は出来ず、誠に困りましてあちらこちらの医師に診断を受けましたが、根治する法はないとの事、千人に一人か万人に一人と言う様な病名であって、徴用で二度までも出頭させられましたが、「リチャード氏病」なる既往疾患のため不合格となり、又軍の召集も健康調査の結果、やはり既往疾患により不合格にて自分自身死の宣告を受けたる心地でした。

それが昭和二一年七月ふと有難き観音様の大慈の御手に救われました。現在S会会長K先生がその当時よりO市中に於て布教されておりましたが、手を振ることにより病貧争の解決が出来ると承わり、私は非常に反駁いたしましたが、まず先生に言われるままに、浄霊を受け、また入信致し、他人の浄霊も致しましたところ非常に喜ばれました。

入信後医者に、「手おくれにて手術不可能」と言われた盲腸炎患者を浄霊いたしましたが、僅かの時間で楽々と治療致して非常に喜ばれました。これは人間業ではないとつくづく感じさせられました。

その後引続き浄霊に従事させて頂き、W先生、K先生のあたたかき御指導のもとに今日に至り、以前よりの私の腰痛も、何時どうなったのかすっかり忘れる事が出来まして、朗らかな明るい光明の生活に恵まれる様になりました。是も只管観音様の大慈大悲と、只々有難く感涙に咽ぶのみです。

今過去をふりかえりみますれば、医薬にて解決のつかなかった、「リチャード氏病」が観音様より与えられたる試練であったのでしょう。只々感謝の念の湧くのみです。

大先生の御教に「善人とは、見えざるものを信ずる人、悪人とは、見えざるものを信ぜざる人」と説かれてありますように、見えざるものを信じさせて頂くにより、今日この私の喜びは、筆や口にて到底表わすことも出来ず、家族も非常に喜ぶようになりました。

この尊い御用をさせて頂くことは、世の人々に一人でも多く、人類救済の業を悟って頂きたいことに外ならないからです。

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静岡県 U・T

昨日も今日も妹は頭痛がすると言って、学校から帰るや否や床についた。こんな状態が五日、一週間と続いた。

五月下旬と言えば風邪を引くと言っても、時季とすれば一番良い時でございますのに、如何した事でしょう、一〇日頃より左の目が見えない、次の日には胸苦しいとか、村医に何度見て戴いても、はっきりした診断も下さらず、妹の体は日増しに悪くなる許りでした。

小学校も最後の学年でございますので、日頃勉強好きな勝気な妹はそれまでは、学校を休もうと致しません。見るにみかねた私は、医者を代えてみようと思い、学校へ出掛けようとする妹を無理矢理に引止めて、国立療養所R荘に向かったのでした。

病名の分らぬ病人なので内科、外科、あらゆる専門医が手をとって下さいましたのに、何等病名をつけてはくれません。この原因はほんの些細な過失がもとで、と言うのは、学校で細いゴムを張って一年飛びをする子供の遊びをしていた刹那、過って半身を押打したらしいのです。半月程は大した変化も見せず、二〇日過ぎ一カ月過ぎてこんな始末となったのです。

R荘より何等病名を頂かなかった私達は、実に不安な面持で帰路についたのです。病人も実に暗い気持になって、ねかせて、ものの一時間も過ぎませんでした。盛んに痙攣を始めます。農家の事で五月下旬と言えば麦の刈入れ時で、家族の者は全部田畑に出ておりません。一人きり看病していた私は、心細くて近くの人に呼びかけて医者よ薬よと走って頂きました。

今日より明日と言った様に、痙攣の度数は益々ひどくなる許り、その上苦しそうな呼吸が荒々しく、今にも息を引取るのではないかと思われる位で、母と私は傍にいるのも心細くなってしまいました。その中に片半身しびれて手足を揉み通し、頭痛ははげしく、あの医者この医者よと、或時は注射の一四、五本も一度にする始末、然し注射も一時的には楽になりますが、二、三時間もすれば又もとのようになって身体の痛みを訴えます。朝昼晩、一週間、一〇日、二〇日、あの暑い六月昼日中、部屋を閉じ込めて病人に冬の厚いお布団二、三枚をかけて、病人を抱くようにして一緒に寝ていたのでございます。

熱は三八度を上下致しますのに手足は冷く、痙攣の連続に意識を失い、はてはうわ言を口走ったりします。意識のついた時には病人は実に淋しがり、どんな気分の良い時にも一緒のお布団にくるまっていなければ承知しませんでした。

一カ月程経過して、あらゆる医者七、八人にかけつけて頂いた結果、大した効果をみせず、今日は一日中痙攣の絶え間がない、親戚一同隣室に集って医者の攻撃です。この苦しがる病人をもっともっと良い医者はないものかといっているのです。

最近はどうも脳の方を犯されているから脳病院へでも連れて行こうかとか、遠方まで良い医者を呼びに行くとか大騒ぎです。病人は虫の息の様な呼吸をつづけています。私達は実に我が身が病人よりも辛ろう御座いました。出来得れば分ち合って苦しんでやりたい程に苦しがっています。

もう何もかも諦めつくした私達はいろいろ迷いに迷って、或信仰の道に足をふみ入れたのです。しかるに世の中には何々教とか言って悪い人がいるものです。或○○宗の信者に引掛って狐の霊等使ってひどい目に合わされました。と或日観音教団F支部のI先生の母君がお見舞下さって、初めてこの観音教の何たるかをお教え頂いたのでございます。それからと言うもの雨風をいとわず毎日お通い下さるのでございます。

初めの中はお医者さんとも手を切れず、かといって観音教の何たるかの認識のない私達では全く薬の方もやめられず、悶々の幾日かがすぎたのです。しかるに五日経ち一週間すぎる中に痙攣の度数は減り日増しに軽くなるではありませんか。

一時は実に絶望のどん底に叩き込まれ、一生低脳か癲癇か、両親兄弟ともどもどんなに憂き目を見ることかと悩んでおりましたのに、このお光を頂いてより食事は日増しに進み、痙攣も殆んど絶無と言う位になってしまったのでございます。然し長い間床についていた病人は起きる事を忘れてしまいました。

五月下旬より六、七、八月と夏休みもすぎ、終に二学期が始りました。人間と言うものは変なもので、これ程ひどく患っている病人を、或人は悪くののしるらしいのです。何とかしてこれまでの元気を取り戻して、一日も早く学校に行ける様にと教修をうけさせて頂き、朝晩浄霊を始めたのです。

I先生の母君も、七、八、九月と三月もの長い長い間をいやな顔一つせず、通いつづけられたお姿は、実に手を合せて拝みたい気持でございます。最初は病人を床より離すことに苦労致しました。叱ったり、すかしたりしたあげく、起き出したのでございます。床より離れると、思いの外元気がついて、今度は逆に寝ようとしません。

一三歳のあの子、可愛らしいオカッパの子が、朝晩あの祝詞をあげている姿は、全く別人としか思われません。この元気な姿にかつての事は打忘れて、家中明るくなり、ただ今では五つの小さな子供までが手を合せて神にお縋りしているのでございます。

観音教の有難き御教を、身を以って体験致しました私は、無神論者に向って高らかに叫びたくなります。

(自観叢書四 昭和二十四年十月五日)