三 岡田氏の宇宙観及び人生観を検討す

氏は曰う「私は元来無神論者で、信仰心などは全々なかったのである。従って、神社仏閣の前を通って頭を下げたことがない、神社は単なる建造物でしかない、その中に祠るものは、鏡か、文字に過ぎない。また寺院にある仏像は、彫刻師か鋳物師の手になる偶像である、何の尊ぶべき理由も、信仰する訳もないと思っていた。而も屡々、憐憫の情に泣き、正義の念に憤り、割り切れない生活が長く続いた。今にして思えば、全く誤った物質万能の教育に禍いされて居た為めであった。ダーウィンの進化論に興味をもち、ドルトンの原子不可壊性説を信じ、万物悉く物質よりなり、物質と力これ凡てであると、物及び力の崇拝者となり終り、自然に催し来る、憐憫の情や、正義の念が、宇宙の根源たる愛と、霊智の閃めき、即ち神仏の声であることに気づかなかった。

入信の動機は事業の失敗からで、大本教に入って、神霊に目覚めるに及んで、人生観に一大変化を来たし、同時に、奇蹟の連続をみるに至った。爾来信仰の進むにつれ、何故に宗教と科学は互いに相反するか、真理は一つであるべきだ、宗教も、科学も、哲学も、相援け、相携えて真理の探究に精進すべきである。然るに科学のために宗教が否定さるる如きは、その何れかに欠陥あるによる、これこそ徹底的に究明さるべき大問題であると考え、爾来科学に関心を寄せ、哲学に興味を有するに至った」と。

かく言いて氏は、当時の心境を告白しておる。かかる葛藤の裡より氏の宇宙観は生れ出たようである。げに当時は、ダーウィン(一八〇九-一八八二)の進化論が、世界の隅々にまで信ぜられ、生存競争、適者生存の哲学は、殆んど全人類の心を震憾しつつある最なかであり、これと時を同うして、カール・マルクス(一八一八-一八八三)が、『経済学批判』なる著書を公にして、人類の歴史は、物質の生産関係の総和に基くと説く等、将に物質万能の世界観全盛の時代であった。而もその一面に於ては、かかる物質中毒より漸く覚醒して、思想的苦悶を抱ける者も少からず、氏も亦その一人であったと思える。然るに一九世紀の末葉に於て、驚くべき物質観革命の萌芽が、英国の物理学者クルックスの研究せる、真空管の中より発見さるるに至った。即ち、元来物質は、固体、液体、気体の三種に区別されると説かれたるに、茲に、固体にあらず、液体にあらず、気体にもあらざる奇態なる存在が発見され、クルックスは、これに、所謂三体を超越した「第四体」と仮りに命名し、軈てこれが物質観革命の烽火となったのである。爾来、クルックスの発見せる真空管の研究は、英国のJ・J・トムソン初め、多くの物理学者の手に於ても試験され、一八九一年に、ジョン・ストーニに依って、これに電子と命名さるるに至った。また、クルックスの発見せる真空管内の現象は、この電子、即陰電子が陽極に向って運ばれる現象なりと判断され、次でキュリー夫人によって、ラジウムなるものが発見され、更に、所謂元素なるものは、一定不変なるものにあらずして、絶えず変化しゆく運命を有するものなること、且つ物理学者の数うる八十有余の元素は、各独立せるものにあらずして、陽電子と陰電子の組合せよりなり、陽核の周囲を陰子がグルグル廻転しつつある姿なること等が判明したのである。而してこの電子こそはもはや分つ可らざる究極のものなること、また、この電子は物質を超越したある物で、霊と呼ぶべきか、精と見るべきか、兎に角全く精神的のものなることが確認さるるに至った。然らば陽核と、その周囲を廻転する陰電子の結合力を何と解釈すべきか、ここには、流石の科学者も、万有引力を口にする能わず、従って別種の力を考えざるを得ず、これが現在彼等最大苦悩の種となっておる。

岡田氏は、これを率直に愛と見るのである、科学者が既に電子の精神性を認めながら、尚お且つその間に法則を求めんとするは、従来の惰性を脱却し得ざるもの、岡田氏がこれを愛なりと断定せるは、寧ろ意義ありと認めざるを得ない。

岡田氏は宇宙の根本に大精神を認め、この大精神は大愛心なりと言うのである。森羅万象悉く宇宙精神即ち大愛心の流露であると言うのである。囀る鳥の声にも、すだく虫の音にも、咲く花にも、散る木の葉にも、愛の姿を見ると言うのである。また、人おのおのが、共に、同根たる宇宙大愛心の表現たることを自覚するに至らば、人の子に怨嗟なく、嫉妬なく、世に争いなく、初めて世界に平和を来たらし、所謂地上天国の実現を見ると説くのである。

ベルギーの文豪にして、ノーベル賞の受賞者たる、メーテルリンクは、宇宙の根源は愛なりと宣言し、インドの聖者、ガンジーは、変化する現象界の奥に変化せざる、万物を結合し、創造し、壊滅すと同時に再び創造する、偉大なる生ける力を認め、この精神を、神なり、純粋の慈悲なりと説く。岡田氏また知己ありと言うべきか。

岡田氏に於ては、宇宙精神は、愛であると共に、叡智であり、大調和であり、造次にも顛沛にも生成化育を希念してやまぬ大活動心であると見る。かかる、積極的、活動的解釈を宇宙の本体に下したものは、甚だ稀である。唯り真言密教説くところの、大日如来自受法楽の不断説法は、その積極的、活動的なる点に於て、相類似するところあるも、風光に於て頗る逕庭あるを免れない。況んや、真如法体論の如き、阿頼耶縁起論の如き、何れも氏の所見に比し、冷徹消極の観あるは、否む能わざるところである。

また人生観に於ては、華厳は唯善論を持し、善を本質とし、悪はその上に現わるる波浪なり、幻影なりと説き、天台にては、善が本然なる如く、悪も亦本然なりと称し、善悪倶存論を主張し、真言密教に於ては、善悪不二論をとなえ、議論紛々として絶えざるは、畢竟、本体観に不備なる点あるがためである。

岡田氏の宇宙観は宇宙の根本は大愛の精神なりとするが故に、この宇宙観に徹すれば、そこに悪念の生ずる筈なく、悪と見らるる言動は、自己が宇宙愛の表現たることを忘念するがためなりと主張する。論旨極めて明快ではないか。従って純粋理性即ち宇宙観と、実践理性即ち人生観上の道徳とは、矛盾すると言い、又万有神観と倫理は、衝突すると称する、一部学者と雖も、容喙の余地を見出し得ないであろう。

氏が宇宙の根本を愛の精神と見、万有これによって現るると説くに対し、愛の精神の依拠するところなきを論難するものがあるが、これは、従来の物質論者より、人の心は物質の所産なりと教えられたる、因習を脱し得ざるがためで、物質より心の生るるにあらずして、物質は念力の具体化たることを思えば、かかる疑念は自ら氷解するであろう。

遮莫、余は茲に氏の宇宙観を、老荘の思想、キリスト教及仏教の思想に比較して聊か所見を述べるであろう。老荘の思想では、宇宙の根源を指して道と言う、道はあらゆる事物が、依って以って存立し、活動する究極的なものであると説き、道は絶対者であるから、相対界の多に即して言えば一と言うことも出来る、万物が存在し、活動し得るのは、一によってである、即ち、一が万物に内在することに依って初めて万物が存在することが出来ると説明するのである。更にまた、道は万物を創造し変化するとも言うのである。ただ道と呼ぶだけでは、氏の言う大愛の精神とは縁遠く感ぜらるるも、彼等は更に「この道の人に賦与せられたるものを徳と言う」と説く、以って、その思想の内容が窺われるのではないか、而もそこに岡田氏の思想と一脈相通ずるものあるを看取することが出来るのである。

キリスト教に於ては、神は愛なりを説きながらも、「大愛神即神」とは言い切らないのである。而しヨハネ第一書に「神は愛なり、愛に居る者は神に居り、神も亦かれに居給ふ」「我等もし互に相愛せば、神われらに在し………」等々と誌るされておる。そもこれを何んと解すべきか、虚心坦懐に心読すれば、氏の思想と相違する点を発見するに苦しむ程である。

仏教に於ては、原始仏教では、一方に実体論たる、元素説的の法体恒存説、即ち物心二元論があり、又一方には、唯心論の先駆たる業感縁起説あり、更に大乗仏教に及んで、一方には抽象的非物非心たる、真如縁起説となり、他方には極端なる唯心論即ち阿頼耶縁起説となる等、所論極めて多岐に渉り、適帰するところに逡巡せざるを得ないのである。依ってここには、大乗の極致、仏教思想の最高峰と言わるる、真言密教の思想をとらえて比較することにする。

真言密教に、五秘密と称し、金鋼薩埵を、欲、触、愛、慢の四明妃が囲繞しておる曼荼羅がある。これは、現世に得らるべき大安楽思想を、最も強く宣揚せんがために、精神的無限の大安楽を象徴するに、身的欲楽を以ってし、これを秘密の標幟としたもので、無限の大安楽に住する、金鋼薩埵を表わすに、男女和合の妙適を以ってし、更にその過程を、愛欲を熱望すること、それに接触すること、それを愛念すること、それを自由にして慢ずること、の四つに分ち、欲、触、愛、慢の四明妃によって囲繞さるる金剛薩埵の所謂五秘密曼荼羅となったのだと説く。而して五秘密法と称し、この五秘密菩薩を本尊として修する法すらあり、深甚秘密の而も最も厳粛なる修法とされておる。尤も金剛薩埵は、大日如来のことで、四明妃は、阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就の四仏を象徴すると言いて、其の説明は種々に展開されるのであるが、要するに一貫して流れる思想は愛である。前にも述べたる如く岡田氏は、量子力学の説く、陽核を中心に陰電子が廻転を続けつつある現象を愛と観じ、宇宙精神即愛と説き、万有悉くに、此の大愛心の表れを観るのであるが、氏の眼に映ずる陽核囲繞の陰電子関係と、五秘密曼荼羅との関係は洵に興味深きものがあるであろう。

そは兎も角、真言密教に於ては宇宙それ自身が人格的大日法身であると説き、其の内部に森羅する万象も亦、人格的活物たる小大日如来で、恰も吾等が一活物なると同時に、吾等の四肢、五体、臓腑を構成せる各細胞も亦活物であり、人格的意義を有すと言う理に同じと説明し、大日如来の自受法楽常時説法を説く等、其の論旨甚だ多彩であるが、宇宙観、人生観とも畢竟、即事而真、当相即道の八字に尽きるようである。これを岡田氏の、行く雲にも、流るる水にも愛を観じ、宇宙の大愛心を讃美する説と比較して、同工異曲と見るは必ずしも短見ではあるまい。

要するに、キリスト教も仏教も、老荘も、皆宇宙の根本に大愛の流れを観じておるのである。ただその説き方が異なるだけである、試みにキリスト教より愛を除き、仏教より慈悲を去らば残るものは何か、両教が世界人類の心奥に滲透して、其の個々を動かし、社会を改善し、世界の文化を向上せしむる等、偉大なる力を現わしつつあるは、キリスト教は愛を説き、仏教に慈悲の教えあるがためである。人は自己に包蔵していないものに共感を覚えるものではない、人心の奥深く、本然としての愛、即ち慈悲心が存すればこそ、その教えが世界人心の琴線をかき鳴らして、遂にかかる偉業となって現れるのである。この意味より推理するも、吾等の本、即ち宇宙の根源に、本然として愛の存することは明かで、宇宙の根源に脈動する大愛心、これが万有の母であると観るのは、最も当を得たる、而も最も荘厳なる宇宙観と言うべきである。

氏は今精魂を傾けて、全世界に一大警鐘を打ちならさんとしておる。そは時は迫れり、全世界の人々覚醒せよ、覚醒して、宇宙の根源たる大愛の精神に反れと言うのである。即ち吾等の親たる大愛の懐ろに抱かれ、大愛の息吹きを感じ、大愛の乳しるに蕩心して、大愛を語り、大愛を行い、世界平和を招来せよ、然らざれば世界的自壊作用起る、これ所謂神の審判なり、而も時は近づけりと言うのである。氏は自壞作用について、宇宙の根源が大愛心なるが故に、無情、無慈悲、嫉視、反目、闘争等、今日の如き愛に反する世相の継続する時は、そこに自壊作用の行わるるは理の当然なりと説明する。誠に傾聴すべき言ではないか。

更に氏は、神の啓示を聴けと叫び、神は科学者に霊の扉を開くことを許し、物質にあらずして霊なる電子を示し、大愛心に触れしむると共に、一面原子爆弾の製造を許し、神怒の様相に対面せしめ、最後の審判を吾等に啓示しておると言うのである。

また氏は、世界人類は今、神の啓示に従い、大愛の親心に目ざめて、世界平和を招来するか、将にまた、神の啓示に背き、原子爆弾を背負いて壊滅に向うか、二途その何れかを択ばざるを得ざる岐路にたたされていると言い、キリスト再生の予言も、弥勒下生の仏語も、今日を指せるなり。今直ちに覚醒せよ、覚醒して、本然の大愛心にかえれ、大愛心にかえりて、キリストの愛の殿堂を築け、弥勒の慈悲の御宮を建てよ、即ち地上天国を建設せよと叫ぶのである。

而も真の世界平和は、世界人類各自が、自己本然の姿たる、愛の心にかえって初めて実現し得る、此の自覚なくして、たとえ世界政府を樹立し得ても、永久的真の平和は望めないと言うのである。

ああこれぞ氏の真骨頂であり、真面目である。雄渾壮麗なる識見、烈々たる気魄、まさに瞠目に値す。思うに、百の非難も、千の攻撃も、以って、この露堂々たる真骨頂を穢がし、躍如たる真面目を傷つくることは出来ないであろう。氏がこの識見を提げ、地上天国の建設に献身するからは、既に聖者の域を摩するもの、紛々たる世評何かあらん。百千万と雖も吾行かんの慨を以って一路邁進すべきである。

余はここに原子爆弾の出現について、世界の識者、有力者が、如何なる考えを有するか、また原子爆弾と『聖書』に誌るされたる、世界終末の予言との関連に対し、如何なる見解を有するかにつき、好個の資料を得たれば、次に紹介する。これに依って岡田氏の所見が、世界輿論の核心に触るるものあるを知り、益々容易ならざる時態の認識を深め、裨益するところ少なからずと思うが故である。

ウィンストン・チャーチルは一九四六年三月五日ミズーリ州のフルトンに於て「暗黒時代が帰って来るかも知れぬ、科学の輝かしい翼に乗って石器時代が帰って来るかも知れぬ、警戒せよ、時は短いかも知れぬ」と演説し、其後六カ月彼はスイスのチューリヒに於て、「広範な地域にわたり、虐げられた、空腹な、窶れた当惑した大衆が、震えながら彼等の都市の廃墟を見つめ何か新しい危険、圧制、或は恐怖が近づきはしないかと暗い地平線に目をこらす」と言い、更に原子爆弾に言及して、「数年ならずして、この恐ろしい破壊者は普及し、もし交戦国が此を用いそして一大災害を齎すならば、唯に我等の所謂文明を破壞するのみでなく、地球自体をも崩壊せしめるという事はありそうな事である」と言っておる。

一九四六年九月一九日シカゴ大学名誉総長ロバート・M・ハッチンズは次の様に語って多くの人々にセンセーションを与えた。即ち、「六歳より二一歳までの年少者達に対して我等の教育的努力を尽す事は無益に思われる。世界はそれ程長くは続くまい」と。

一九四五年一一月教区に宛た手紙に於て、ヨークの大僧正シリル・フォースター・ガーベット博士は、次のような注目すべき事を述べた。「世界の終末が、突然やってくるという『聖書』の宣言は、新なる意味をもって銘記されねばならない。恐るべき運命と破壊の文字は、今やすべての思慮深き人々によって、明白に読まれるのである」と。

一九四五年を追想してロックフェラー財団の社長レイモンド・B・フォスディックは「戦争が運命の戸口へ我等を導いた。広島に落ちた爆弾が忽ち我々をして、恐らく我々は極めて僅かの時日しか持っていない、という事実に目醒したのである。これから先、すべての我々の努力には「我々には時間があるのか」という疑念がつきまとうであろう。恐怖と不安が現世代の後を恐ろしい影のようにつきまとって来るであろう」と述懐しておる。

レイモンド・スイングは最近のラジオ放送で述べた。「我等に残されているのは僅に四、五年である。その期間に我等は世界国家を設立する道を発見するか、或は原子戦に於いて消滅するであろう」と。

原子力管理の方法並びに手段を研究するために、召集された評議委員会の席上、「マンハッタン計画」のロスアラモス支部長であり、又今日の最も素晴しい科学者の一人であるJ・R・オッペンハイマー博士は、上院議員によって、合衆国の都市に一攻撃加えられたなら、四〇〇〇万のアメリカ人が殺戮されるというのは事実かと問われて、「残念ながら事実と思う」と答えた。更に付言して「原子兵器の出現は、恐らく、合衆国の軍事的位置を弱体化したかも知れない。何故ならば、合衆国は集中、且高度に工業化された国であるから、原子兵器は、今日より一〇年乃至二〇年後には極めて安価となるであろう」といった。

セントルイスのワシントン大学名誉総長、且宇宙線の権威者、ノーベル賞受賞者、アーサー・コンプトンは「何らかの話合に到らなければ、一九五五年迄に原子兵器により武装された世界が出現するであろう」と述べた。

ロンドンのサンデー・エクスプレス紙は、「原子爆弾は広島と長崎にのみならず、全世界に爆発したのであった。それは我々の知っている唯一の爆弾であるが、我々を全部破壊する事が出来る。我等は急いでこの災害より全世界を安全な世界とするために努力しなければならない」と言っておる。

レイモンド・B・フォスディックはニューヨークの『タイムズ・マガジン』に寄稿して、「運命の足音は幾多の人々の耳に聞える……時は短い。我等は長き歴史に於て、我等の為し得なかった事を僅々二、三十年或はそれより少い期間においてするよう召されている。火の手は我等の踵に接して来た」と言っておる。

チャールズ・クレイトン・モリソン博士は『クリスチャン世紀』一九四五年一〇月二四日号において「合衆国が今持っている智脳を搾って凡ての国々に、必然破壊の道を辿る武装競争を中止するよう勧告すべき時間は極めて短いという事を、科学者達は一致して認めている」又「人類は、世界が今や想像の出来ない危険な状態に直面しているという事を自覚しなければならない……広大な宇宙に於いて生命を生み出し、人間を生みだし、文明を生み出す事ができる地球の性格は一転して、かつての太古の状態に後退する事が考えられる。地球は月や火星のように死せる遊星となるか、或は太陽のような光源ともなり得るのである」と説き、更に「そのような可能性の発見の充分な意味が、すべての人間に、徹底しなければならない。今日より後、我々の世界が不安心な世界であり、その未来を予測する事が出来ないという事実を率直に認めねばならない」との意見を発表し、一九四六年五月八日に彼は「有識者の絶対的大部分は、文明がもう一つの大戦には生存し得ぬという事を確信している」「或はそのような警告が遅きに失するのではないか。今や問題は、文明は、崩壊するかではなくて、既に崩壊したのではないか、である」と言っておる。

同紙一九四六年九月二五日号においてウェスナー・ファローはキリスト教世界のすべての教会に於て、各キリスト信者をして、世界の終の意義を理解させる為に教育する、研究グループの組織を提唱した。更に彼は次のような注目すべき事を述べている。「キリスト教徒は終末観を重視するのが普通である。終末観を、かくも長い間無視したのは異常であった。しかしながら、一九四五年八月六日は、いかに信者達の持つような恐怖に捲きこまれる事があろうとも兎も角その常道にひき戻した。日本に於ける原子爆弾の爆発は、クリスチャンを当然の道に取り戻したのであるが、これは只世界の終末を瞑想するのみならず、それを期待する事の正しいことを示している」と述べておる。

以上のような論説は、全く意義深い。というのは其等は熱狂的煽動者達からではなくて、冷静な学識ある人々により来たからである。これ等の人々は、人類が今や新な恐るべき力の所有者となった事を知った。そして間もなく一〇〇〇倍以上もそれを利用するであろう事、又この力は今でさえも二〇万の人口を有する都市を一秒の十分の一の時間で消滅する事が出来、一夜にして全国を破壊し尽す事が出来る、又間もなく凡ての国々は、この力を有するに至り、未来の戦争においてそれを用いれば、想像もつかない破壊をもたらすであろうという事を良く知っているのである。その危険が現実のものであり、身近のものであるという事は、疑いの余地がない。全く多くの強い人々が充分な理由なしで驚いているとは考えられない。もしも彼等が正しいとすれば、これこそ今日の人類にとって、最も緊要な事であると言わなければならない。その重要さにおいてこれと比すべきものはない。これ等科学者達、教育家達、編集者達によって予見された運命の日が真に近き未来にありとすれば我等の生命、家庭、家族、未来の計画は根本的な影響を受けるのである。

さて、これ等の人々が恐れている世界の不幸が、何らかの意味で『聖書』に述べられている世界の終末と、連関しているのであろうか。それがキリストの再来、並びに古えの多くの予言者の宣べた最後の審判の日と関連しているのであろうか。

もし、そうであるならば、この問題は一層厳粛となる。何故なら、この場合宗教的問題が含まれているからである。即ち我等の神に対する個人的関係並びに彼を迎える我々の準備が問題となってくるのである。全く地球上の全人口の永遠の運命は、危機に瀕している。

このような可能性を思うにつけ預言者ゼパニヤの言葉が思い出される。「エホバの大なる日近づけり、近づきて速かに来る、聴けよ是エホバの日なるぞ、彼等に勇士のいたく叫ぶあり」……

以上は、アーサー・S・マックスウェル著『福音訳書』中より一小部分を抜萃したものに過ぎないが、世界の識者が、原子爆弾発明後の人生の考察に、如何に真剣であるかが窺われ、岡田氏の予言を検討する上に好個の参考資料ともなるのである。

尚お著者は、使徒ペテロの予言「されど主の日は盗人のごとく来らん、その日には天とどろき去り、もろもろの天体は焼け崩れ、地とその中にある工とは焼け尽きん」を引用し、今明かとなった、宇宙の原子の破壊力を描写したものだと言い、また、テサロニケ後書の「主イエス焰の中にその能力の御使たちと共に大より顕れ、神を知らぬ者と我らの主イエスの福音に服はぬ者とに報をなし給ふとき……」の句を引用しては原子力の発見は、人類にふりかかる肌寒き光景の最後的警告だと言っておる。更に、世界の出来事に神が介入し給う時が来ておる、……キリストの再来が世界の希望であると言うと、かつての人々は笑った、しかしもう笑いはしない、時はあまり深刻であるとも述べ、ノアの時代に、神の警告を拒否した為めに、神は霊を退け給うたのである。今はその轍をふんではならないと戒め、尚幾多の意見と教訓を示しておる。詳細は親しくその著書について知らるるよう希望する。

要之、原子力の発見と、『聖書』の予言について東西、期せずして同一の見解を有し、同じく世界に警告を発して、世人の覚醒を促がし、世界平和を提唱する者あるは、注目すべき事である。