結核治癒の実例4

愛知県H・M

私は昭和二二年一月三日妊娠六カ月の身重で右肺浸潤にて入院しました。その後二カ月程一人で自炊しておりましたが、生命が危いと言われ人工流産を致しました。その間、気胸療法を続けて居りましたが、良いと言われて五カ月程で退院をしました。その後も尚二カ月程通院しましたが右肋膜に水が溜り、一回水を抜取りましたが通院は止めまして家へ帰り月二、三回村の診療所の診察を受け、寝たり起きたり、自分だけ家族から離れて淋しい生活をして居りました。処が、本年五月頃近所の先生に浄霊をして戴く内に体が楽になりまして、一寸した事が出来るようになりましたので、五月一三日T先生から御守を夫と一緒にいただき浄霊を続けました。少しのお掃除も大変だった体が日に日に丈夫になり、七月の田植には家人と一緒に面白くやれました。

観音様の御利益とほんとうに嬉しく存じます。有難うございました。御礼中上げます。

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愛知県H・Y

私は昭和一九年の五月二〇日頃に脚気になり、医師に二カ月程通います内、少しも良くなりませんので困っておりました処、人の話に聞きまして近所のK町のH先生に御世話になります内に、経過が良くなり間もなく御守を戴きましたが、夫は戦地へ行っておりましたので父親にも同時に受けさせて戴き浄霊を続け合いました。昭和二一年五月に夫が復員しましてから浄霊をやりませんでした。昭和二二年の五月にお産をしまして三カ月程は丈夫でおりましたが、九月にチフスの注射をしましたが散らないので腕が腫れましたので散らしましたら、四〇度位熱が出ました。医師に診て貰いましたら肋膜との事でしたので、通っておりましたら肺浸潤になりました。病院を代えてその後七カ月通いましたが、悪くなる一方で困っておりましたら、親類の人に再度奨められて、名古屋のT先生に御話を聞き浄霊をしていただいてから、日に日に良くなり一カ月後には麦刈りから田植までやりました。

その後五月末に下痢を続け流産をしましたが、浄霊のお蔭にて一〇日目には健康人と同じ様に仕事が出来る様になりました。その後益々健康になり、家中が観音様の御利益をいただいております。うれしく御手伝いをさせて頂いております。有難うございました。

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愛知県A・M

命の親と頼みし医学を去り、療養の友としていた沢山な薬品を捨て、唯一筋に大光明如来様を頼り、今日あるを喜びつつ感謝の一端を御報告申させていただきます。嬉しさの余り長文にわたります事をお許し下さい。去る昭和二一年九月三〇日、母校の小学校で児童と体操の最中、大量なる喀血をなし、その後は六カ月間転々として医師に見離され、一〇里程離れた名古屋のK病院長に最後の断を下され、二二年四月には最早霊界ゆきと半ば生に対する一種の諦に似た自分を如何に更生しようと努力しても何うしても自分から遠去かる正しい心を引付ける事が出来ませんでした。父も胸の病にて死亡致して居りますので、家人からは感染するからと、同室は勿論兄弟の会話すら遠慮せねばならず、まるで虫や動物のように、くさい薬で消毒され食膳も一人淋しく向わねばならず、食は進まず肉や卵や魚で盛られた食膳でさえ、箸は進まず、大切な身体は細り精神的にも健康の美を呪い、はた又恨み果ては唯空ろなる世界と言うか、茫然とした姿になり若人の心は千々に乱れ或いは死生の間をさ迷い苦しい闘病生活でした。

数回に渉る大量なる喀血、又胸からの痔瘻で極度の痛みで軽い咳一つするのでさえ、痛みが頭に響く有様で自他共に死の近み来るのを何うする事も出来ませんでした。絶対安静の療養当時近所の五六七教会信者の方から色々とお話を戴きましても、その当時は、如何なる事があろうとも医学を頼り不治の病を追っているより方法は無いと信じ唯只管にお金を出して少しでも良い注射をと、既存療法とは知りつつも高価な「ペニシリン」やら、他の薬を飲んで居りました。医師の言葉のままに治療したのに身体は細り痔の痛みは強まるばかりで底なき沼へでも引きずり込まれてでも行く様な気がして不安の日々でした。力なく弱り行く私を見た伯母が五六七教会教修を受けて二カ月目に私の枕元で不思議な治病力の話をして下さいました。

初めは其の話も何処かの迷信位いに思って居りましたが、治らぬ物を治ると偽りは言えぬものだと一度痔の悩みだけでも試してみようと思い立ち母の留守を見込で伯母と二人で半里程離れたT先生のもとへ参りました。母に勝る愛の持主の先生から誠の道をお話しいただき痔の痛みも弱まり「ウタガッテモ治ル」此の不思議な妙智力には何一つ議論も出ませんでした。其の後、或る時は誠、或る時は愛と熱とを持って此の救世の道の如何に大切な事かを知らされ、三月に教修をいただいてから六カ月目には出張の出来る様になり不安だった四月も無事にすぎ、五月八日から四日間喀血の大浄化をいただき人の判別の出来なかつた一時すらありましたが、御霊紙をいただき五、六名で浄霊いただき、五日目には先生の宅まで一人で参上させていただき、医学での喀血後の安静など全く不用なるを自分の体で知らせていただきました。

八月二日には全身浄化をいただき、以前の病状になるかと思つておりましたが、朝家を出たまま先生のお宅で一一日間御世話いただく内に元気になり、その月の中旬から手、足、腹部、腰との浄化を一一月中旬頃までいただいておりました。一〇月には願望の大先生の御面会並に本部への参拝も無事に済ませていただき、今日までに一一回までも御面会のさせていただけます事を喜んでおります。その年(昭和二二年)の一二月S管長先生が名古屋にお出で下さいました時に御願い申して、紀州の勝浦方面へ開拓に立たせていただき、大阪までの車中夜中急に咽喉がかわき、殆ど声が出なくなりキップを求めるのに相手に通じぬ程でしたが、御浄霊をいただく中に三ヵ月程で言葉は通じ得る様になり、五月中旬腸結核の病状で最初の内は下痢をしておりましたが、数日の間にドロドロの液の様なものが下り、自分自身驚きましたが、何糞これが浄化だと家人の反対をよそに、お茶がけで食べてみて数日に及び下痢しても茶漬で何共ないので増々力強くなり、その後は不思議と身体は軽くなり、驚く程身体が使いよくなり、この間教修後W先生より数回にもわたり力強い御指導をいただき、私初め先生方の前ではよく理解している様で本当の救世の道を知らなかった母が、近頃では進んで浄霊や布教のため人々に勧めて歩く様になり、小学校五年生の妹一人の本当の観音一家にどうやらさせていただきました。

W先生並にT先生の御親切なる御指導により今では健康人同様に、 朝早くから夜おそくまで御用に専心させていただいており、この有難い救いの道を一刻も早く多くの人に理解していただこうと精進しております。

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岐阜県G・A

私は幼少時代から跣で庭へ下りることすらさせられなかった位温室育ちの人間でありました。一つの嚏でもすぐ隣りのお医者様へという様な具合でした。中学五年迄は少しも浄化しない位ですから、今から思うと随分毒が塊っていたのでしょう。 処がやがて中学校を終え、上級学校への徹夜の試験勉強のため遂にドット病床に斃れる身となりました。四〇度を越す高熱、心臓の鼓動の激しさ、今にも息の止まるような苦痛、隣の医師は心臓が悪いと言いました。その晩は冷すやら、あれやこれやと大騒動でした。翌日他の医者に診ていただくと、何と今度は湿性肋膜炎に早がわりしているではありませんか。嗚呼遂に来るべきものが来た、 もう俺は駄目だとあらゆる結核患者が悉く受ける死の宣告を自分も亦同じ様に宣告され、意気消沈して終いました。

それからの永い療養生活の間、如何に手をつくすとも衰弱する一方でとうとう棺桶に両足を突っ込み、首だけ出して今は只死を待つばかりの様でした。それからの病状は一進一退の長い長い闘病生活が続きました。全く生ける屍とは自分のことでした。以来三年間、自分の療養生活は全く忠実無比なる療養道の遵法者で一切の民間療法を片端から実行してゆきました。勿論、医学絶対崇拝者で他の病理上の問題や医者が診断する色々な病状用式までも殆ど覚え込んだ程です。そして簡単な医療器具や医薬品など、二〇種類を茶箪笥に並べて安心をしていました。此様にして徹底的に浄化停止をして終いました。それから昭和二〇年も明けて一月一八日のことでした。鳴呼、思えばその日もたらされた音信が貴き観世音菩薩の最後の救いでした。

今五六七教教師N先生(当時は一軍需工場の会社員)からお便りをいただき、そのお話を聞いてから自分は必ず助かる、きっと救われると一日二日と全く首を長くしてお待ちしました。二月二五日その方がわざわざお越しになり、過去一切の観念の全然間違っていることを一晩中夜の明けるのも忘れて諄々諭され、全く心気一転こうすれば治るという確かな信念を得て前途は光明に輝き始め、希望は私の全身に溢れました。私の感激は如何ばかりでしたでしょう。到底同様になやむ人でなくてはこの気持は知ることは出来ないと思います。その翌日からの生活は全く別人の如く変りました。三年間は戸棚の上の物を取るにも肋膜が破れるからと言って絶対手を上げることすらしませんでしたのに、風呂水を汲むやら百姓の鍬を振り上げるやら、極端な私の動作に全く家族の者にも気狂だと笑われました。

嗚呼何という不思議なことでしょう。こんな事をすれば当然今までの常識で考えれば病気が治るどころか即死してもよいと思われるような無茶苦茶な振舞いでした。それなのに日々健康は増進し、見違えるようになりました。ああ奇蹟とはこれをいうのでありましょう。再び此世に生きる希望を見出し、歓喜の泣笑いに頬を濡す、又大先生のお書きになった論文を拝読して現界霊界の区別あるを知り、人間最大の苦しみである死の恐怖から脱がれ、人類史創って以来如何なる聖賢君子哲人も説き得なかった人間の使命又神の御恵に全く感涙致しました。早速当日は講習会後御守を頂き、その時今の五六七教管長先生の御講話を拝聴して、勇気百倍家へ帰り当時は治療時代だったのでその実際的効果にとりかかりました。それからの毎日は明けても暮れても浄霊に専念、その治病力の偉大さを自ら体験し朝から晩まで、寝食も忘れてやらせて頂きました。

続々押し寄せる患者の起死回生の喜び。又私の喜びであります。それから三カ月目に第一回の講習会を自宅で開かせて頂きました。三十数名の御守拝受の歓喜に溢れた顔は、生涯忘れることは出来ません。実に人間生命の尊さを初めて知りました。それからは毎日の何と早かったことでしょう。今月も来月もその翌月も講習に暮れ、遂に終戦の八月一五日が参りました。私達一家は挙って此の貴き人類救済の御仕事であることを知らして頂き、一層の拍車をかけ邁進させて頂ける幸せを頂きました。その間、親戚や縁故者の早く足を洗えとまるで犯罪でも犯しているかのような、近所の人々の邪推と罵言に悩み、或る時は何かの陰謀と官憲の圧迫に妨害され、言論機関即ち新聞の救われたる多数の人の事実を隠し已むを得ず寿命がつきて死んだ、極く少数の人を材料としての悪口の誇大宣伝に。

又最近の雑誌に於ける如く(それは余りにも真相を暴露すると言う記事が真相を伝えてない)或は金儲けのために握ち上げた、小説等々実に試練の連続でした。顧りみれば今は、隔世の感ありである。時は移り変り観音様の信者は全国に拡り、十数万にも達し、これ等信者全部が全部救われた、喜びの人々である事実がどうして認識されない筈がありましょうか。吾等は此の喜びを未だ御存知なき、日本の皆様に知って頂くべく唯邁進あるのみです。

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愛知県H・T

私は昭和二一年三月に海南島より復員致しまして間もなく、胆石病にて松山赤十字病院に入院致しました。が仲々良くならず、二カ月間病院生活を致しました。やっとの事で良くなり退院致しましたが、七月再び病名不明の熱病にかかり、二〇日間も苦しみぬいて、やれやれ良くなったと思う間もなく、八月四日に現代医学に於ては不治とされて居る肺結核に罹病、病床に伏して三日もたたぬ間に、足も腰もたたれぬ様になりました。それから一〇日もたたぬ間に床ずれが出来、三九度から四○度の熱が一カ月もつづき、食は進まず、お粥さえも頂けない有様で、恐ろしい程痩せ細り、毎日医者よ薬よ、水湿布と苦しい安静療法をすること九カ月。その暗黒無明、唯死を待つばかりの苦しみにたえかねて、或時は母の手当の不足を言い、動かぬ体をもたげ病床を這い出して用便をしたこともあり、又或時は病苦に堪え兼ねて足も立たぬ体で手のとどき次第、枕元のものをなげちらし、今考えれば自暴自棄申訳のないことばかり平気でやって居りました。

それからやっと歩くことの出来るようになってから父母に奨められて、日教導所のE先生にお浄めをして戴くことになりました。その時医者からはそんなことをして居たならば死んで仕舞うと言われましたが、医学界に於て不治の病とされているこの肺結核、どうせ死ぬならば父母の良いと言う事をして死ねば父母も心残りはないであろうと、昭和二二年四月一七日に私の姪に連れられて初めてH町のE先生の処に御厄介になる事になりました。その時の姿たるや、頬はこけ肉はおち、顔青ざめて髪はのび道行く人は私をみると鼻をつまんで通る程でございました。先生の御言葉で安静療法等、一切の療養法を断ちぶらぶらと遊んで養生をするようになってからは食は進み、気持は落ちつき、浄化であって身体のよくなる作用だという日々の生活が楽しくなり、五、六日目には先生に散髪しておいでなさいと言われた時には驚きました。

散髪などして又悪くなりはしないかと心配しましたが、先生がついているのだから大丈夫と思い、町まで散髪に行きましたが何の事もなく、一〇日目には風呂へ入りましたが気持が良いばかりか、九カ月もの長い間の垢を一時に洗い落して生き帰った如くさっぱり致しました。その中以前良くなった人々の体験を聞き、 現在良くなった人達をみて私も何時になったらあの様に元気な身体になるだろうと思って居りました。然し日々快調に向う自分を覚える時、何かしら明るく楽しみを感じておりました。丁度その頃やはり私と同じ病気で参りました二二歳の娘さんがありました。E先生はその娘さんに、今ならば大丈夫だが放って置くと大変な事になると言われました。その娘さん四、五回も来たでしょうか。こんな事では良くならないと言ってやめてしまい、その後お医者にかかりました。

ところが一年たった今日の二人の運命の差はどうでしょう。その当時、余りひどくなかった娘さんは今年の五月お気の毒にもなくなりました。あの時生死の淵に居た私は村人も驚く程元気になって居ます。此の間も麦の供出の時、麦俵一俵担いでみましたが楽々と担ぐ事も出来ましたし、馬鈴薯の供出も二〇貫ばかり担いでから、山を下る事が出来ました。昨年五月一九日に管長先生から教修を受け、今は観音様のお手伝いをさせて頂いております。この有難い観音様の救いの御手に皆さんおすがり致しましょう。そして病貧争のない立派な地上天国を作りましょう。

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静岡県S・K

此れは御守護の一端一小話として御礼申上げます。それは昭和二一年の冬の事、私の所へその頃半歳程前から肺結核第三期、医者からは不治の宣告を与えられて幾度か死を決意したという二八歳、子供一人を持った農家の一婦人の話。私の所へ初めて見えた時は僅か一〇丁位の所からですが、実に喘ぎ喘ぎ唯気力だけで生きているとしか思えない位「五合の水柄杓も両手でなければ持ち上げられない」とも言いました。それでも御守護により本人の熱烈な信仰により日々薄紙を剥ぐように快方に向かい、さしもの難症も、もう二、三カ月継続したらと思われる迄になりました。処が丁度その頃農家には忙しい麦の季節となりました。此の人は非常に従順な律義者で恐らくは此の人の性質、それから環境、病知らずで無理解な夫、頑迷で仕事一途の姑、この環境が一番此の人には災いしたのでした。

家の中の仕事がどうにか出来る様になれば田畑の仕事もと思うのは、或は手不足な農家の事とて無理はなかったとも言えましょうが、此の人の場合それは明らかに無理でした。寒風に晒されての労働に手足は凍え、寒さは骨身に徹したのでしょう。遂に風邪を引き込んでしまい、それがもとで直接死の転機となった肺炎、而も両肺を併発してしまいました。情けない事にはこうなってもまだ家の人達は理解を欠いていました。 漸くに私が行った時には已に肺炎も肺炎、 あえぎ乍らの切な相なその呼吸の度毎に両肺は「ガツ(と言うか)ゴー(と言うか)」と異様になり、疲れ傷ついた肺臓のその状態が手に取る様に感じられました。そして高熱、極度の衰弱、ああせめてもう三日早かったらと私は痛歎しました。こんなになる迄すてて置いた家の人達を私は恨めしく眺めました。

もう命旦夕に迫っているのです。突然病人は私を呼びました。意識ははっきりしております。私は思わず病人の手をしっかり握りしめました。嬉しそうなその顔「お待ちしていました。有難う御座います」と病む人は、私の来るのをどんなにか待ち侘びた事でしょう。嬉しそうな顔が語らずともよく判ります。死ぬまでにもう一度最後に御浄霊をと願っておったのでしょう。暫し我を忘れて御浄霊をしておりますと、今度は「お観音様有難う御座いました」はっきり、そして亦再び「お観音様有難う御座いました」と呼吸も大変楽になりましたが、もう時間の問題だと直感されました。ああ此の世の別れだ。刻一刻最後の瞬間は近づきました。死出の旅路、胸にしっかと抱いたお観音様霊界に行っても幸福であります様にと、生前の御守護を心から御礼申上げると共に、一心に祈り続けました。

これだけの病患に拘わらず、此の人のその顔は何と清々した美しい事でしょう。病み苦しんだ人の苦悩の色は微塵もありません。常々会長先生からお聞きしておりましたが「死の刹那の相はそのまま霊界へ行って天国八衢地獄の自分の位置を表わす」と今私には此の人の相はお観音様のお顔の様にも思えました。生と死を問わない、生死を超越しての絶対の無限の御力によって御守護によって此の人は完全に救われたのです。劇的と言わんか、崇高と言わんか、こんなに美しい最後を私は初めてみました。家の人達にも一人一人に今までのお礼を言い、尚残した一子の事も呉々も頼んで、世間多くの信仰なき者の死の場面とは余りにも相違せるその安らかな状でした。強く正しく信仰の道に励んだ此の人は唯死に際して狼狽や或は此の世の執着等の全然なかった事は勿論ですが、第三者から現実的にみればもう二、三カ月せめて暖くなる迄経てば健康体になれたのですから不幸と言えますが、その不幸を超越し運命に満足して唯一切を感謝で送ったのです。

何と有難くも尊いお観音様の御慈悲でしょう。若くしてその肉体は遂に衰弱のために倒れましたが、霊は即ちあの人は最後の気高く安らかな相そのままに天国に住まいまして、きっとお観音様のお膝元で、何か楽しく日々御用を務めさせて頂いている事でしょう。私は折にふれては思い泛べます。