大分県 K・A
一九歳の時学校卒業後間もなく肋膜炎にて二一歳の春迄病床生活を送りました。
その後はずっと体力を回復いたし、大戦中は無事過ごしましたが、二五歳の時終戦後間もなく気力のゆるみか、戦争中の過労のためか遂に肺結核となり以後二八歳の現在迄繰り返す事六回、回を重ねる度に病気は悪化する許りで六回目は最悪の状態に迄なりました。一月二五日喀血して以来は忠実医師の命令通り絶対安静を守り、部屋の天井の節穴を眺めながら五カ月過ごしました。あらゆる方法を取りましたが中々思わしくありません。
偶々、五六七教会の事を耳にして、その主旨その目的を聞き、これこそ真のお救いを得ることが出来ると確信いたしました。丁度五月二二日、従兄弟(御利益を受けし者会員)が先生を御案内して家に来て下さいましたが、最初の浄霊による私の身体の変化にはただ驚く許りでした。それから一週間後仰向けに臥したままの私が、床を離れてそろそろと歩く様になったのには家中ただびっくりしておりました。浄霊による顕著な変化を申しましょう。
私は喀血後非常に歯槽膿漏に苦しみました。朝目をさますと口中血だらけ、然も非常に臭く家の者もその臭みに鼻をつまむ程でした。それが余り長く続くので医者に相談いたしましたところ、それは「ビタミンC」の不足だと申し「ビタミンBC」の注射を盛んにやりました。又ビタミンCを含んでいる果物を食べよと言うので無理をして迄食べました。注射をやっている時は成程やんでいますが、注射を止めると又どえらく出て来ます。非常に困ったものでした。ところが歯槽膿漏は腎臓の悪い為に尿素が歯から出るとのことを『天国の福音』に書かれてありました。そして一回の浄霊にて見事に出なくなりそれ以後全く治まって居り、その効目に私自身が驚いた訳です。
小便、下痢、盗汗、痰、目脂等体中の不純物はぐんぐん排泄されて行きました。初めて今迄最大の信頼を置いていた近代医学も、根本に於て間違っている点をつくづく感じて参りました。
浄霊を受け始めて以来観音様の御加護により、ずんずん健康を回復いたし日々感謝の日を送っております。長かった病床生活を顧て実に感慨無量に耐えません。唯物的な教育許り受けて来た私が神様の御加護を知り、真の信仰生活に入れたのも病気をした為と思っています。病気とは我が罪穢を払拭するために神様の賜った御恵みであるという事が初めて分り、この事が真のお救いを受け、信仰に入れた動機であることを思い、却って感謝いたしております。
種々苦しんでいられる方々に真のお救いを知らせて上げたく、七月二三日入信いたし、観音様に報恩感謝の気持で、微力ながら御用を務めさしていただいております。
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大阪府 Y・Y
第一乙種合格と言われ軍国主義の犠牲となり、あたら青春を、その具に捧げた私は身体に慣れない激動を強いられた結果、いつしか胸部に覚えぬ病状を訴えなければならない様になり、それが練兵休となり、入室となり果ては入院護送患者となり、医学的に完全に胸部疾患患者と極印を押されるに至ったのであります。
その当時の自己診断に依る所の症状は、身体各部に相当の疲労倦怠感があり、それが追々と浄化増進するに及び頭重感、悪寒、微熱が感じられるに及んで、咳が甚だしく一見した所喘息の如く、その都度膿の如き黄色状の痰が湧き出る如く排出され、やがて血痰が出るに及んで入院護送となった次第、入信前である当時の私としては悲痛やる方なく、死の宣告にもひとしかったものである。
それから丸二年遂に医療の及ぶ所なく兵役免除となり、入院当時の状態よりやや咳が楽になり、微熱が出なくなった程度の症状にて事故退院を命ぜられたのであります。二カ年という長い月日に何と言う無駄な、何と言う徒長な療養生活を送ったものか、私の人生の然も青春時代をこんな無意味な生活で終始した事は、実に大いなる必要の無駄であったと同時に、間違いの恐しさを如実に体験させられたのです。
カルシウム20ccの連日注射、之に加えるに高張糖注射、胃腸薬の内服、之れだけの手当法が一日一度の形式的な聴診打診問診の外に、少しも変更さるる事なく二カ年連続された私の病名は、結核性両肺浸潤であって、レントゲン所見は右肺肺門部に一カ所、左肺上部及中央部の二カ所、計三カ所に一銭銅貨大の浸潤点が見られるのである。
退院を命ぜられた私は其の後身体がやや衰弱気味のまま小康状態を得られ、そのまま注射、薬は嫌なままに行わずに居たのでいつしか忘れるようになり、終戦当時頃はほんとうに健康なる様な状態にて、病気の事は念頭より去っていました。自覚症状もやや微熱がある程度で、他に著しいものはありませんでしたので、最早病人だという意識はなく段々と体重も増し元気で働いて居ったのでした。
所が間違いと嘘に依って固められていた私の霊体が、世の移り変るに連れて覆い切れなくなって、遂に解けて来たのです。
私が入信して三カ月目去る一昨年三月、私は社用で外出中の道路上で襲われる如く喀血したのです。胸苦しく息苦しいので「エヘン」と咳払いするのと、同時に、溢れるようにと言うか「ゴボゴボ」と息もつけない程に多量に出血し、ハンカチーフ一枚、日本手拭一本絞る程に血で固まり、口に当てる物がないまま苦しまぎれに、ある家の菜園に転がり込み、そこにしゃがみ込んだまま次から次へと吐いた量は、気が遠くなりそうでしたが、約五合、道路は約一丁程紅に点々としたたっていましたが、案外自分では意識がはっきりしていましたが心臓は躍る様でした。ふと気が付くと数十人の見物人が私を取りかこみ、巡査が来て私を抱き上げて呉れ、やがて嫌応なく病院に連れ込まれてしまいました。
そのままつかれて眠ってしまった私はふと目が覚め、病院の一室で横たわる自分を改めて自覚した。私はそれからあわてて馳けつけて呉れた母を、猶あわてさせて病院脱出の一幕を目論んだのであります。全く悪夢というか、もう再びあの地獄の苦しみを味わい度くない気持で一杯でした。
注射、服薬、検診、果ては人工気胸法等という聞くのも恐ろしき事々、私は耐え得られなかった、私の一生がこのままでブランクになって終いそうなので之等の真心の凡そ、存在しない機械的な診療等では到底救わるる筈がないと、私は御守を必死に抱きしめ自己浄霊を施しながら、母の肩に依りかかり乍ら夜に乗じて病院を脱出し、自宅に戻った時は唯救われるという嬉しさで一杯でした。
母は気の毒にも後程病院に断わりに行った時、掛付病院の医師が烈火の如く怒り、随分と御説教を受けたそうだ。曰く「あんなひどい喀血をした結核性の、然も開放性の危険な病人を歩いて自宅へ連れ戻るなんて何という非常識な、国家的にも重大問題だ恐らく助からんだろう」と、でも私は幸福でした。それから唯一路に信仰の道に生きんと光明如来を御迎えし、一心に浄霊に従事しつつ浄霊を受けました。
其の後病院脱出後約一週間は毎日二、三合の喀血があり、段々量的に少なくなり、最初の日より一五日目になってやっと停止し、その日より食欲は増進し、何でも美味しくめきめきと快復して参りました。そして微熱は完全に取れ倦怠感が無くなり、体重が増加するにつれ身体に何となく力が充ち溢れる感じにて今迄考えてもみない重労働的な事でも、最初の喀血の日より二カ月目には行なって疲労が感じられなくなり、相当の遠方迄も浄霊従事の為に元気で行けるようになり、満一カ年余を経た今日は周囲の人の驚くのも無理が無い程に生れ変った私です。
結核は浄霊にて完全に救われる事を身を以て証明出来ました。茲に観音信仰、真の信仰の道に導きを受けた、そして救われたる事実を御報告申上げ厚く御礼申上げます。
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石川県 W・K
私は主人が永い間結核に罹りあらゆる医者、民間療法、御祈祷、おまじない等あらん限りの手を尽しましたが、最近では咽喉を犯され不治の刻印を押され絶望いたしておりましたが、主人が病床にうめき苦しむのをみるに堪えず、何とかして少しでも楽にしてあげたいと思っておりました処、偶々お観音様の有難いお話を聞き、早速お守をいただきまして夜も寝ずに御浄霊をさせていただきました。勿論癒して頂こうとは夢にも思いません。唯少しでも楽にして頂ければと此の一念でございました。
お蔭様にてお力を頂きました。その夜から今迄七転八倒の苦しみを続けておりました主人もすやすやと安らかな寝息さえたてて寝んでくれました。噫なんと言う有難い事でございましょう。
発病以来こんなに嬉しく有難い事はありませんでした。でも薬毒の多い主人は私の浄霊を心から感謝しつつ、安らかにお観音様の御守護を感謝しつつ他界をさせていただきました。
お話には伺っておりましたが、死体は生前と少しも変らず手足も軟かく、顔などは寧ろ品位を増し崇高く勿体ない様ですが、お観音様のお顔のようになって参りました。私は有難くて両眼は熱い感謝の涙で一杯でございました。思わず善言讃詞を奉誦させていただきました。すると何と不思議な事でございましょう。亡くなった筈の主人の両眼から涙がポロポロと流れ出しました。ああ主人も共に喜んで下さるかと思うと一入涙がこみあげて来るのをどうする事も出来ませんでした。
親戚や近所の人達は死体をこのままにしておけば硬くなって曲らなくなるからとやかましく申しましたが、私は信ずるところがあって拒絶しました。
二日目に葬式を出しましたが(死後三〇時間)体は軟く、まだ命があるのかと思われるくらいで御座いました。葬式の時は最前列で善言讃詞を奉誦させていただいておりますと、全身から金色の御光が放射され、並いる僧侶初め沢山のお参りの人達の眼にはっきりと映り、皆一同手を合せ頭をたれ、お観音様のこの大変な奇蹟に吃驚せられたそうです。全く奇蹟の連続で御座いました。
お蔭で村の人にもよく此の有難いお観音様の御力もはっきりと分って戴け、こんな有難い事はございません。今後共一生懸命悩める人をお救いさせて頂き、地上天国建設のため生命の続く限り御奉仕させて頂く事を、固く固くお誓い申上げて御礼の言葉とさせて頂きます。有難度御座いました。
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神奈川県 O・M
拙き筆を以て茲に「光明の彼岸へ」の一文を記念し、お観音様の深き御恵みに御礼の言葉を述べさせて頂きます。
生来、病気というものを知らずにいました私が、突然喀血し肺結核を宣せられて医師の門をくぐったのは二三歳、昭和一八年の夏のことでした。病状は悪化の一途、終戦の年の三月三一日、当時平塚に開業しておられましたK先生(現M会長)に御浄霊頂くまで、肉体の痛苦と精神的苦悩。加えて熾烈極むる戦時下に放浪の生活が続きました。喀血の度は数知れず。或時は毎月一週間位は喀血が続き、医師にもさじを投げられた形で家庭療法なども試みましたが、悪くなる一方にて唯生きるという本能だけが痩せおとろえた身体をひきずっていると言った感じでした。
幸いK先生のお世話になりまして、その年五月六日に教修を頂き当時は浄霊のみでありましたが、現実に偉大なる御力を頂き自ら体験させて頂き全く救われた気持で一杯でした。身体が一日一日と生気を取戻すと共に、前途の光明は既に春日の如く私の五体を包む感じでありました。度々の御浄化も頂きました。
平塚の空襲にて郷里へお帰りになられた先生が再び小田原へお出でになり、当地へ教導所を開かれて、引続き三年半の間殆ど毎日のように御浄霊を頂いて参りました。その間お蔭様でどんなにひどい浄化にも一日として寝込む様なことなく過しました。全くお守様を頂いているお蔭でございます。
空襲の際には平塚市の余波をうけて、川を隔てた私の家も焼夷弾に見舞われましたが、全部不発にて戦災を免れました。硝煙けぶる近隣の様をみ、愕然として頭が下がり唯大先生様の偉大なる御霊徳に感涙に咽びました。
終戦後二年、輝かしき日本観音教団が発足され、会員として有難きお観音様の御恵を日夜頂きつつも、何一つ神の御心に副うことなき凡夫でございますにも拘わらず、爾来S会、J会、M会と役員の重責を命ぜられ日夜の浄化の身に只管神の御守護を念じつつ至らぬながらお仕事をつとめさせて頂きました。
世間一般に宗教というと何か人間生活とはかけ離れた仏臭いものの様に思われ勝ちですが、私自身信仰というものに一種の用心深さというものを持ち、何か信仰というものが怖かったのでした。今迄の放縦な生活から信仰に入ると堅苦しくて身動き出来ない様になるのが堪らないのでした。人間の真実というものには絶えずひかれながら未だ信仰の中に真裸でとび込む勇気と決断がなかったのです。そうした中に、文学というものが信仰への一過程として果たした役割を今は懐しく思われます。当時の句一句記させていただきます。
春衣松風かくれなかりけり
すべて時期であり浄化であると自分勝手に解釈して、我と執着が絶えずつきまとって離れないのでした。会長先生から「御聖業におつきなさい」と言われ、私は沈黙のまま幾度かこの会長先生の有難いお言葉を無量の思いで腹の底にしまい込んでしまうのでした。余りにも私は曇りが多過ぎました。かりそめな気持では出来ぬ厳粛さがいつも私を沈黙させました。
一夜小田原の会長先生のお宅へ伺い晩餐会を給わりました。信仰とは個に徹するところから出発するのだろうか、そんな事を漠然と考えていました。その夜の先生のお言葉に「神は自由無碍です」ということを言われました。又先生から縁談をすすめられて不甲斐なき身ではありますが、やはり自分一個の問題ではない大いなる時期の切迫が感じられて鞭打たるる思いでありました。宿を給うその夜は珍らしくびっしょり盗汗をかきました。帰途の車中すべてを神様にお任せした時の清々しい気持で、感激と又自責の念にかられながら沁々と信仰の足らなさが嘆かれるのでした。
昨年三月縁談も芽出度く信仰の伴侶を得て、七月には教導師の資格をいただき、C出張所の助手として御聖業につかせていただきました。一一日会長先生御夫妻の御媒酌により御神前に結婚式を挙行、本年一月八日自宅にて開業させて頂くまでお観音様のお導きがなかったならとうに滅び去ってなかった命を以て、今日茲に大先生様の大御恵によりまして御言葉に精進させていただいております。唯々感謝の外ありません。
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岐阜県 M・H
毎日を楽しい有難い思いで明るい生活をさせて頂いている信徒の一人で御座います。入信当時から今日までの御利益をペンで綴らせていただきますと、便箋の一冊や二冊では到底足りません、その中一、二を茲に報告させていただきます。
私は長らく気管支カタルで苦しみました。一七歳の頃より三一歳まで咳き続け苦しみ抜いた頃を振り返ってみると今でもぞっと致します。亡くなった両親も随分心配して下さいました。昭和二一年八月入信させていただき毎日浄霊を続けていただくうちに日々胸の苦しみが薄らぎ咳も次第に少なくなりました。知らぬ間に全く苦しみがとれてしまい、今では本当に健康にしていただきどんな仕事も楽に出来るようになりました。
今年一一歳になる私の子供も丁度私と同じような病気で小さい時から苦しそうでしたが、私が主として浄霊させていただき、昭和二二年の春頃からあの苦しみはとれてしまいました。
「我生命甦るさへ嬉しきに医しの業まで許されにける」
ほんとうに私は筆舌に現し得ないこの喜びを味わわさせていただきました。
主人は早くから理解し昭和二一年一二月入信し、今では教導所に加えていただき一生懸命に御用して万分の一でも報恩したいものと頑張っています。お蔭様で浄化を次々と受け愈々浄まって参りまして、事毎に有難い御利益続きでございます。一口に一七歳から三一歳までと申しますが随分長い間の暗かった家の内が反対にパッと明るくなったのですから正に天国化したのです。
ああ何とお礼申し上げるべきかその言葉さえ出ません。
益々観音行を積み同志を語らい合わせ、健富和への一途へ突進し大先生初め諸先生の御徳に報い奉ろうと精進しています。
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静岡県 H・Y
忘れも致しません。私が一八歳の時(昭和一七年六月一〇日当時東京都N町在)でした。朝起きようとしましたら、ひどい頭痛がして早速医師に診てもらいましたら、感冒だからすぐに治るとの事。二日後又診ていただきましたら「肋膜らしいから水をとってみる」と言ってコップに半分程のお酒の様な色の水を取りました。
その後毎日来ていただき医師のなすがままに治療を受けており、一三日には殆ど快く一六日には海へ行ってもよろしいと言われ安心したのもほんの束の間。その日の夕方突然腹痛をおぼえどんどん悪化洗面器半分位の鼻血と少量の喀血をし、その中お腹がパンパンに張り足はむくみ、毎日四〇度前後の熱が半月程も続き、心臓は苦しくついに死を宣告される日が参りました。そして「私には解らなくなって来た。他の医者に診てもらってくれ」との医師の余りにも無責任な言葉でした。
仕方なく他の医者に診ていただきました処「これは一万人に一人の珍しい病気です」脳膜炎、心臓弁膜炎、腹膜、脚気等々六つの病名をあげ全部結核性の由「一言で全身結核と称し大学病院へ行っても手当の施しようもありません」との事いよいよ予期した結果が来ました。
こうなったら良いと思う事は何でもと言う訳で、近隣者のすすめで祈祷を頼みました処、途端に嫌な感に襲われ益々息苦しくなり、終には真暗闇のどん底に突落される様な境地に入り、今考えてそれは地獄そのものだったんでしょう僅か数分の出来事でした。私は堪えられなくなり途中で苦しさの余りやめていただきました。
そしてその人の帰ったすぐ後に父が以前ある宗教の宣教師をしておりました当時の友人が久し振りに訪ねて参りまして、病人の話をしましたら「それならば良いか悪いか、実はこう言う治療があるから」とのお話です。それが今の浄霊でした。
早速先生に来ていただき直ちに治療を始めていただきました、処が驚いた事に先生は氷枕上下心臓その他の湿布を全部取られたので私初め皆あっけにとられておりました。でも浄霊を受けているうち、最初の寒気は何処へやら、段々暖かく気持が良く頭脳がはっきりして、終りました時には此三カ月以来味わった事のない気分になり、「自分は生き返ったのだ」と何とも言えない感激で一杯でした。
お帰りがけに先生が「御飯を食べなければいけません」と言い残してお帰りになりましたが皆本気に致しませんでした。
然し私も何だか元気づいてお粥を二ぜん程美味しく食べられたのです、今度は御飯を食べてみましたら食べられるのです。たった今迄水も通らなかった私が御飯をいただけたのです。その翌日には「寝て許りいないでそろそろ家の中でもお歩きなさい」とおっしゃられ、父に手を取ってもらい立とうと致しましたが立てません、腰がぬけたのです。そして床ずれが両方に出来ておりましたが二日程の御浄霊で立てる様になり、毎日少しずつ歩いておりました。二、三日後に先生が「一週間位で外へ出られますよ」と仰言って下さり、愈々一週間後には外へ出られたのです。
近所の人の驚きは大変なものでした。全身結核の診断後は今迄面倒をみてくれた人も寄りつかず、今日か明日かと死を待っていたにもかかわらず私の外出に幽霊が出たと忽ち評判になり、そのために警察に出頭を命ぜられたこともありました。その数日後より電車で治療所へ通い、途中倒れはしないかとの不安もありましたが無事帰宅し、一カ月程通います中にすっかり全快致しまして現在に至りました。
今日に至ります迄寝床に就いたこともなく毎日元気に働かせていただいております。医者の見離した者を御浄霊により、僅かの期間に全治さしていただきましたことは、一重にお観音様のお蔭と感謝の日々を送らせていただいております。ここに入信の動機を絶大なるお蔭をいただきましたいきさつを記させていただきました。
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新潟県 I・K
有難いお観音様の御救いをいただき身の幸福を思い、お道を説き明し乍らも初めの中は私の様な無学な者に果してお尽し出来るものかとともすれば自分だけが生きようとする私で御座いました。此度先生のお出をいただきました時の御慈悲の雰囲気を新に私は新しく立上ろうと決心致しました。病める人悲しみに泣き濡れている人々を一日も早くお救いさせていただき共に共に幸福な生活が出来ましたらどんなにか有難い喜ばしいことで御座いましょう。これこそ私達教修生が最高の御奉仕をさせていただけるお道と固く信じております。
顧りみますれば私は一八歳の春蓄膿症を手術したのが元で不治の病として世にも恐れられていた肺病と言う刻印を捺された時の私は此世の中から一人しめ出された様な奈落の底に突き落された様な気持で幾日か母と共に泣き明したことで御座いました。以来長い長い九年の間これでは楽しもうとしても楽しめる筈もなく一日として朗らかな気持になれた事は御座いません。そして只悲しみに泣き濡れ枕を濡らさぬ夜とてありませんでした。
そこに又も不幸が重なり二一年一月急性盲腸炎で入院し手術後益々病気は悪化し、とうとう恐れていた大喀血をする事二回、余りの驚きにもう涙も出ませんでした。愈々最後の時が来たと悲しい乍らも覚悟を決め自分の持ち物を整理した事も御座いました。
その頃有難いお観音様の御救いの有る事を知り、長い間悩みつづけておりました病気も御救いにより全快させていただきました上に、有難いお観音様のお力までいただき信仰のお道に入らせていただくことが出来ました。人としてこれ以上の喜びは何処に御座いましょう。この有難い御救いにお酬いさせていただきたく心に誓い堅き信仰をもって生命の続く限り御奉仕させていただきます。
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大分県 G・M
私は五年間という長い間、仕事が出来ず困って居りました。医師に診て戴くと「少し胸部が悪いのだが」とか「これ位なら心配は要らない」とか言われますが私自身は身体がだるくて思う様に働けず無理に働くと熱が出るのでした。
父母や兄はほとほともて余して「お前はもう仕事はするな」とか「お前はいないものと思っているから」等と言われておりましたが、まだ人生を諦める年でもなく、何とか仕事の出来る様になりたいと種々療治をやってみましたが、総てが無駄でした。
その内今年五月初めに隣村に観音様の先生が来られていて、それはそれは大したご利益があると聞きまして、矢も楯もたまらず叔母と近所の人と三人で出掛けました。そして先生より浄霊を受け色々お話を承りました。その日はいつも町に出る三倍位の道程でありましたのに、家まで帰り着いても少しも草臥れませんでした。成程御利益があるに違いないと思い、それから約二カ月程毎日先生(F・K)方に通いました。
お蔭様でそれ以来どんな仕事でも平気で出来る様になりました。其の上私も入会させて戴き、夜分は皆様の浄霊で夜中までかかりますが少しも草臥れず益々元気になる許りです。
之も偏に広大無辺にして大慈大悲の観世音菩薩の御蔭と日々感謝に咽びつつ働く喜びに元気一杯張切っております。