御 垂 示 録 (第二十九号)

今日は別に話はないから、質問を先にやってもらいましょう。

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「御詫びと御垂示を御願い申し上げます。教師林基吉(四十二歳)二月二十六日就寝中の事でございます。明主様の御写真が落ち、ガラスの破片により、右の御肩、左の御胸、右下の方に四カ所ばかり傷がつきました。御詫び申し上げます。本人も本日御詫びに参上致しております。紐は、見ましたところ切れるように弱くはなく、少しもいたんでいるようではございません。これは何かの御知らせでございましょうか」

そうです。やっぱり御知らせです。その人は何時入信しましたか。

「二十三年の春で、御写真拝受は二十四年秋と思います」

紐は編んだものですか。

「さようでございます」

いろんな理由がありますが、それは別に悪い意味ではないのです。気にする事はいらないですから、替えればそれで差支えないです。

「つきましては、本日その御写真を御供致しておりますが、御浄めいただきました方が宜しいでしょうか、新しく致しました方が宜しゅうございましょうか」 

新しい方がよいです。それは、よく御詫びして焼いてしまえばよいです。

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今朝から「静岡民報」に出てます。まだ読まないが、この間原稿で読んだが、どういうふうに書くか、興味があると思うのです。今日は参詣人が急に多くなったが……別に訳はないのですか。

「古い信者の方も御参拝させていただいていると思います」

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「御論文に“親が作った財産を道楽者の子供が消費する、又真面目な子供もあるが、それは神様から御覧になれば、その善悪は決められない”という御垂示をいただいておりますが、結局、真面目な子供と道楽者の子供との運命は……良くなるか悪くなるかという事は、どうなるのでございましょうか」

それは簡単には言えませんが、しかし道楽者はそういう祖先の罪をとるという、あんまり人から感心させられない役をするのですから、その功によって、やっぱり良い事があります。

「道楽していてもでございますか」

そうです。運命が変って来ます。若い時分にばかに真面目で、年輩になってから道楽者になる者と、若い時には道楽で、年をとってから真面目になるという者もあります。そうすると道楽した方がよいかも分らないです。大抵な金持というのは相当に罪を作ってますから、その財産を消費するのですから……。

「そう致しますと、親の前歴を調べてから道楽を……」

それは調べなくても、霊界の方ではチャンと理窟に合うような事になってゆくのです。

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「現在御奉斎の光明如来様は人から譲り受けたものでございますが、最近精神的に気掛りになりますので、新しく御受け致したいと……」

本当はその方がよいです。こういう事を知っておかなければならないのです。以前はよかったが、これからはいけない事があるのです。即ち、神様の方は厳しくなったのです。というのは、和光同塵と言って、以前は神様は大抵な事は許されたのです。それが時期が進むに従って凡てがはっきりして来るのです。そうすると以前は許された事も、これからは許されなくなるという事が随分あるのです。だからこれからはだんだん、物事を几帳面にはっきりしてゆくという事が肝腎なのです。

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「救世教は救いの宗教であると御教えいただいてますが、神様の大愛とは、時によっては寿命のある者を殺し、時によっては寿命の無い者を更に命を長くする、というように考えても宜しいものでしょうか」

つまり神様に殺されるのでなくて、自分自身で滅びるような運命にするのです。その人によっていろいろで、それは単純には言えないので、複雑極まるものです。それから又、祖霊の関係があります。即ち祖霊が、祖先以来の罪が非常に多いために誰かを犠牲にしなければならない。それともう一つは、祖霊の罪の種類によって、現界で働くよりか霊界で働いた方が罪が早く消える場合もあるのです。ですから、犠牲にする場合と、霊界で働かせる場合と、そのためにそこの子孫の、大勢居る中で、誰かを代表者にして、祖先の罪を早く消す場合は、むしろ祖霊が神様に御願いして、早く罪をとっていただきたいという場合には犠牲にした方がよい事になるのです。だからそこのところはいろいろあるのです。けれども、要するに、信仰に入ってから犠牲になるのは非常によい理由があるのです。昨夜読んだお蔭話の中にも、丁度そういうのがありました。子供だか何かが亡くなって、母親が非常に嘆いて、幾らか神様を怨むような気持があったのです。その内に祖先の霊か何かが憑って来て、それはこういう理由だという事をすっかり話したのです。それで初めて“大変よい事だった、有難い”という事が分って、非常に感謝しているというような事が書いてありました。だから非常に複雑な意味と、いろいろな事がありますから、簡単には言えないです。それから、信仰に入ってからは、どんな事があっても、それは良くならんがための一つの形をとるのだから、喜んでよいわけです。それは時日がたつと必ず分ります。

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「御浄霊により、先天性後天性にかかわらず、病気或いは片端(カタワ)というものを、命がある内に治す事ができるものでございましょうか」

できるのもあるし、できないのもあります。片端というのは、大抵死ぬ時の状態のまま生まれ変って来るのです。これは何かに書いてあったと思います。霊界において充分治らない内に生まれ変って来るのです。という事は、母親か何かが、怪我したりいろいろして死んだ子供が惜しくて、早く生まれ変るという事を……知っている人はそう思うし、知らない人でも、もう一度子供がほしいとか、又はあの子に会いたいとか、いろいろな執着のために、霊界に長く居られないために早く生まれ変って来るのです。だから、災難で落ちるとか、何かにぶつかるとかして、それが死因になって、治りきらない内に生まれ変って来るというのが殆んどの片端の原因になるのです。それで、その死んだ片端の状態と、霊界に長く居なかったために、生まれ変って来ても片端が重いわけです。それで、重いのを治す場合に、親なら親の執着が早くとれるとか、或いは善い事をして、その功績によって救われるとか、そういう事がチャンと合理的になっているわけです。それからこういうのが多いです。片端になって生まれて、それを医者にかかっていろんな事をしたために、どうしても助からなくなるという事がよくあります。それもこれも、其処の家なり親なりのメグリが多いために、それ相応の恵みなり御守護なりがあるわけです。それが、プラスよりマイナスの方が多いという時には助からないわけです。ですから、その理窟が分れば、子供が片端とかいろんな場合には、親ができるだけ徳を積むという事が、治る一番の原因です。

それから又こういう事があります。どうしても助からない子供は、一生を不幸に終り、子供が生きて居ると親も不幸だ、という場合には、神様は早く死なせます。そうすると親は悩みがとれるから非常に楽になります。それは大変な御神徳になるのです。この子供は治るかさもなければ命が無くなるか、どっちかにしてもらわなければ、親がたまらないわけです。そういう場合に、医者が手術したり、いろんな事をしたために、どうしても助からないと、決まった子供は、早く霊界にやって下さるのです。そうすると、親が、決まりがつきますから……そういう御神徳もあります。ですから、治るか駄目か、どっちかという片付き方が早くなるわけです。

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「一月二日の御教えによりますと“火素の放射によって毒粒子が焼ける。浄霊は物質でないから霊を焼く”とあり、一月三日の御教えに“不純水素というのは、水素中の毒粒子、薬毒が固まったもの”とあり、又他の御論文によりますと“火素によって全滅し、漿液中に吸収される”とあります。この漿液、毒粒子、不純水素というのは、霊的なものでございましょうか、体的なものでございましょうか」

両方です。しかし、こういうわけです。ラジオの科学講座というのを聞いてみると、最近の科学は、ヴィールスというものは、医学では、無機物=無生物(生きてないもの)とも言えないし、有生物=有機物とも言えないというのです。それで学者の説が両方あるのです。無生物という説の方が今は多いようです。しかし全然それにはならない。だからそこに決着はつかないと言ってますが、これはよくそれを言ってます。即ち無生物というのは、生きてない……霊です。それから有生物(生きているもの)というのは体になっているわけです。ですから霊と体との間になるわけです。そういうわけだからして、霊が体になるわけです。私が書いているとおり、霊の曇りが濃厚になると、それからヴァクテリヤがわく。自然発生です。それがだんだん育ってゆくと、それが有機物になり、そうするとそれが黴菌です。それだからして境界はないのです。だんだんに変化するわけです。浄霊によって焼くという事はヴァクテリヤを焼くわけです。だからヴァクテリヤの手前というものが曇りの粒子というものです。それで曇りの粒子というものは、全然まだ物質になっていないわけなのです。私がその前に書いたのに、つまり有限と無限ですが、顕微鏡で何万分の一とか何十万分の一とか、今は一千万分の一を科学で掴まえる事ができると言ってますが、一千万分の一ぐらいでなく、一億万分の一、否十億万分の一でもあるのです。そうすると黴菌の大きさというものはだんだん小さくなるのです。何処まで行っても小さくなるのだから、結局無限です。だから今顕微鏡で見るだけのものというのは、余程大きなものです。それで、小さなものを掴まえたと言って喜んでいるが、まだまだ、どんな顕微鏡でも掴まえる事ができない小さなもの、そういうものがあるのです。結局顕微鏡を通して見るという人間の肉眼に限度があるのです。つまり無限です。無限ならチャンと理窟に合っているのです。有限的に解釈したら、それだけ理窟に合わないから、何処まで行っても駄目なのです。それで、無限の中で、物の一つの力というのが火と水だから、太陽の精と月の精と、両方は質が違うわけです。反対の質になっているわけです。そこで此処(掌)から火素が出ますが、火素というのは、太陽の精気の、ごく、つまり密度と言うよりか、むしろ「気」です。「霊」とも言えるが、むしろ「気」と言う方が適切なわけです。こうすると火の気、火の霊気が放射されるのです。そうすると水素中の毒粒子が焼かれてしまうのです。それで分るわけです。だから病気と言うが、いい文字を当ててあるわけです。病気の「気」という、気です。病の根本も「気」なら、浄霊のこれも「気」です。太陽の精気です。実際簡単なものなのです。分りやすいのです。

「そう致しますと、体的のものが無限に小さくなると霊的なものになると考えてよいのでございましょうか」

それでよいです。そこで、釈尊が「一切空」と言ったが、これもやっぱりうまい言葉です。「空」という事は、物質は結局将来は空になってしまうというわけですが、ごく究極を言ったものです。人間がこうしていても、いずれは死骸になる。死骸を土に埋めると、だんだん腐って、結局土と同化してしまう。そうすると何も無くなってしまうのです。石でも金でも、結局年限がたつに従ってだんだん変化していってしまうのです。金というのは一番固い物だから、一番年限がかかるが、それでも何万年何十万年の間には無くなってしまいます。それが又、それから新しいものが生まれ、新規なものができるのです。そこで「無」と「有」――「実」と「空」とが交代で通じてゆくというのが宇宙の実相です。

「只今のに関連しまして、気が本になるとして、浄霊して毒素は軽減するその一面に、同気相求むるとか同類親和の法則で、その人に毒素があり曇りがあると、霊的に曇りはより増してゆく……毒のある所に毒が寄るとか、邪気のある所に邪気を呼ぶという事はありませんでございましょうか」

そういう事はありません。しかし、呼ぶのでなくて、霊が曇っていると、相応の悪霊が憑きます。だから見方によれば、呼ぶように見えますが、呼ぶのでもなければ、呼ばないのでもない、そういった一つの定義みたいなもので、そうなっているのです。こっちから言えば呼ぶという事になります。又先から言えば、こっちに来るという事になります。気紛れでもないが、呼びもしないのに来るというわけで、霊の方では“あいつは憑きやすいから憑いてやれ”というわけで、霊が憑くので、呼ぶわけではないのです。そうかと言って霊の方は、曇っている人間を始終物色しているから、“あいつに憑くといい気持だ。悪い事をさせようと思えばするし、道楽をさせようと思えばするし”というわけです。そういうのが今は沢山あるのです。だから汚職事件の贈収賄をするのも、みんな霊ですから、“こいつに一つ金をウンと儲けさせて、道楽させたり、好き勝手な事をしよう”“こいつはオレの言う事をよく聞く”というわけです。ところが、そういうのが、神様の事を知っていると、憑いても自由にならないから離れてしまいます。そこで私は「⇒汚職の母体」という論文を書きましたが、つまり、無神思想から生まれるわけです。だから汚職の根本は無神思想だと言うわけです。

「毒粒子というのは体的にも考えられるし、霊的にも考えられるという事ですが、そうすると、火素で焼いた場合に、火素で霊的の毒が灰になって、それが体的に変ってゆくのでございましょうか」

灰になったら変らないです。変るのは生きているのです。死んだものは終りになるのです。灰はどうしても火にはならないです。しかし火を消したものは、いずれは熱によって火になるというわけです。その区別を知っておかなければ……。

「そうすると、灰は漿液に吸収されてゆくのでございましょうか」

灰は吸収されないのです。大便や小便や痰になって出るのです。浄霊すると、あと下痢をするとか痰が出るとか、排泄物が出ますが、それが灰です。

「霊的の毒粒子が灰になって、それが漸次集合して、それが大便、小便になるわけでございましょうか」

そうです。

「只今の、浄霊によって不純水素が焼きつくされるという事に関しまして、以前(本誌二十号)に御伺い申し上げました時は分ったようでございましたが、今理解している事が、前の時のと変っているのでございます。あの時には“毒素は鱗雲のようなもので、少しはよいが沢山あってはいけない”という御言葉でございました。今度は体的になって、漿液……それから赤血球が古くなって白血球になると……」

それは知りません。それでは医学的の説明になります。

「赤いものが古くなって白くなるという事で、それからもう一つは毒素は血膿になると……」

それはそれでよいです。

「漿液は血液の水分であると……」

漿液は一切の水分です。ですから血液の水分にもなります。

「そうすると又、漿液の中に流れている膿というものが、神経を使う所に固まる、それが毒素という事になり、血の中に凝結して残っている部分と、それが漿液に混る部分と……」

それは、血の方も膿の方も、両方とも漿液になるのです。ただ、血液が古くなると膿になるのです。しかし血液の時も、古くなった時も、やっぱり漿液……です。漿液から離れる事はないです。

「血管内の血液も漿液に……」

漿液になります。血管があろうとなかろうと、凡て漿液です。水分は人間の七割としてあるでしょう。七割だけ水分になっているわけです。人間の身体というのは水分と思えばよいです。水に属しているものです。そうして霊は火に属しているものです。だから人間は火と水に属しているのです。霊体と分ければ、火と水と分けてよいのです。

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「私の方の支部では、半数が中教会の御祭の前に、半数が後で支部の月並祭をさせていただいておりますが、前の半数の教会の方が、努力はしておりますが順調にゆかないような状態が最近出ております。これは順序が違っているためでございましょうか」

それは勿論そうです。教会が先にやるのが本当です。それは大変な間違いです。

「前の半数の人もかなりの成績はあげてはおりましたが……」

それは駄目です。まるっきり順序が違ってます。それはどういう訳だというと、教会の方を先にやると、それが主になるのです。その次にやると従になるのです。次になるのです。だから支部が従であるべきものを、主にしてしまうからです。これをもっと分りやすく言うと、神様の事ばかりではないのですが、一切はそうなってます。一番先に行く所が主になるのです。その次の所は従になるわけです。ついでになるわけです。だから仮りに、こういう事なのです。個々に会う人も、事柄もそうですが、特に神様の事はそうです。最初神様に御参りに行って、それからは何の用をしても構わないのです。ところが他の用を先にして神様の御参りを後にすると、順序が違っているから決してうまくゆかないです。物事も順調にゆかないです。だから主と次の事とは、はっきりしなければいけないです。そうするとうまくゆくのです。

「中教会と支部の月並祭につきまして、支部の方の順序でございますが、成績の良い悪いという事で決めますと……」

成績によると、良い時もあるし悪い時もあるから、年中変えなければならない事になります。そういうのは古さによって決めればよいです。一番古くできた所を先にすればよいです。そうすると公平になります。

「中教会長が御光をいただいた日を記念して月並祭としているのと、中教会の名前をいただいた日に致しているのと両方あると思いますが、どちらが……」

それは中教会の許可を受けた日を記念とするのが本当です。というのは、中教会というのは、教会という一つの大きな組織になるでしょう。ところが自分が御光をいただいたのは個人という意味になります。だからそこに違いがあります。でもそれは大した大きな問題ではないです。だから今までそうなっていたらそれでよいです。しかしどっちが本当かというと、支部の許可を受けた日が本当です。それは神様が支部の許可を許した以上、支部の活動をしてよいという事になるわけだからです。

「月の二十五日にいただいた場合には中教会の月並祭は二十五日という事になりますが、その場合中教会のお祭を月の初めという事はないので……」

そうです。月の初めと決めると、月の初めというのは、みんな忙がしいから、いろいろ違って来ます。

「こういうお話の場合には、何時も後で、ああだこうだと質問が出るのでございます。私達は“十八日は観音様の日だ、二十三日なら御生誕の日だ”というわけで、中教会の月並祭をその日に致して参りましたのが多いのでございます」

少ない場合はそれでよいです。しかし沢山になって来たら工合が悪い場合があります。

「早くやったからどうこうという事は考えなくても宜しいのではないかと思います。想念が一番でございますから、良い日にやらしていただくという事でよいのではないかと思います」

十八日というのは一番良い日ですから、それで続けてできるものならそれでよいです。それから、それでは都合が悪い、それで支部が沢山あると、みんな十八日では廻りきれないから、そこのところは、支部ができた順序にすればよいです。

「一日は特別御面会でありますし、又毎旬の御参拝がありますから、そこのところは合理的に考えさせていただいております」

そうです。

「支部の御祭というのは、中教会、大教会の者が主催する建前のものでございましょうか。又は、今まで便宜上、離れた所は支部長に任せておりましたが」 

よいです。

「支部は支部長が主催すべきものと思います。若し支部が三十カ所以上になったら、一日一カ所としても、会長さんは一月中に廻りきれなくなります」

そうだな……三十カ所以上になってはいけない理窟になるからな……。

「具体的に御伺い申し上げます。私の中教会本部の御祭は二十一日に行い、支部はできた順序により、月の二十三日の所もあり、二十五日もあり、翌月の三日、五日、十日、十一日というように致して参りましたのでございますが、具体的にはどう考えさせていただきましたら宜しゅうございましょうか」

支部の方が早い場合がある事でしょう。だから中教会というのは、みんな一日にしなければならない事になるのですが、それは原則としては中教会を一番先にするわけです。そうしたら、こういう工合にすれば一番よいです。中教会の御祭は、十八日なら十八日にするとして、支部のはその後にずっとするから、今月御祭すべきものを来月になるという理窟にするわけです。

「ただ、名前と感じの上でゆきますので……私の方は中教会を三日にさせていただいてと思います」

それはその方がよいです。中教会の御祭はなるだけ早い日にした方がよいです。 

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「田舎の信者で、御額の表装に出したいが、遠方であるために、列車には空いた時しか持込めず、歩いてというわけにもゆきません。損わないようにして貨物で送るというお許しはいただけないものでございましょうか」

それはよいです。これは心得ておかなければならないのは、神様は、できる事をやらないのはその人の罪になり、それから、そうしなければどうしてもやれないというのはお許しになります。例えてみれば、其処の家の人が、お天気を見るとか火事を見るとか言って、神様を祀ってある上に行くと罪になります。ところが屋根がいたんで雨が漏るので、屋根屋を呼んで、屋根屋が屋根に上るのは、それはそうしなければ直せないから、よいので、罪にはならないのです。チャンと理窟が成立っていればよいのです。だから何時か言ったとおり、理窟に合って合理的のものなら何んでも差支えないというのは、そういうわけです。そうしなくてもよい事をそうすると、それは人間の方が怠慢になる、というよりか、神様に御無礼になるのです。汽車で送らなければ他に方法がないという場合は、それでよいわけです。ですから私の方で、アメリカに御守を始終送ってますが、それより方法がないのですから、そういうのは決して御咎めはないわけです。

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「明主様と観音様と国常立尊様との御関係につき御伺い申し上げます」

関係も何もないので、同じです。その場面によって役が変るのです。丁度役者と同じで、女形にもなるし、男にもなるし、善人にもなるし、悪人にもなるのです。ところが神様の方のは善のための悪になるのです。私だって随分怨まれます。薬屋や医者から見れば、これを否定するのですから怨まれます。私は悪人から見れば大悪人です。

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「稲荷につき御伺い申し上げます。戦時中茨城の里の方に疎開中、兄が稲荷を信仰し、近所の行者にも時々みてもらい、幾つか当った事もあるので、非常に御利益があるというので、行者に頼んで瀬戸物の稲荷を受け、家の中の大神宮さんの向って右に祀ってあります。昨年御浄化をいただき、御浄霊で忽ち治り、それより入信し御神体を御奉斎致しております。ところがそれから稲荷のいたずらが露骨になって参りました。如何致したら宜しいでしょうか」

稲荷さんが怒ったのでしょう。御神体は何時ですか。

「昨年入信し、直ぐにいただいております」

それから狐がいろんな事をするというのでしょう。そういうのはよくあります。稲荷の方が神様より上になっているわけです。それではそのくらいの事はどうしてもします。それでなければ……順序が違っているからです。光明如来様の部屋は何処ですか。

「二階でございます。稲荷は下でございます」

それでは差支えないです。では他の理由です。二階は勿論床の間でしょう。

「さようでございます」

どういういたずらをしますか。

「浄霊に行きますと、それが直ぐに稲荷を持って来た所に通じて、向うから来て、お前の所は救世教というあんな所で治していると、脳溢血になって死ぬと言うのです」

浄霊は誰がやつているのですか。

「私が致します。それで、浄霊していると、稲荷を持って来た方に直ぐ分るのです」

しかし、あなたは稲荷とは関係ないのですがね……稲荷には浄霊に来て居ることは分りますよ。しかし分っても差支えないでしょう。

「御浄霊などをしてもらうなという事を言うのです」

言ってもよいです。どうせ狐が言うのだから信用しなくてもよいです。

「非常に気にしております」

気にしているという事は信仰に入ってないのです。信仰に入っていれば、狐がからかうのだと思えばよいです。

「狐がからかうのだという事は話してあります」

それではそれでよいです。

「大神宮さんの祀ってある場所は今のままでよいでしょうか」

宜しいです。

「今は日を決めて、朝、御飯と水をあげているようです。お祭りはしてないようです」

それでは狐はさびしいではないですか。やっぱり油揚とかをあげなければ可哀想です。狐は何時祀ったのですか。

「二十二、三年頃です」

お札は何処からですか。何稲荷の狐という事はチャンとありますが……。

「伏見稲荷と言っているのだそうですが」

なるほど伏見稲荷ですか。伏見稲荷はよくそういう事をやります。伏見稲荷は狐の仲間では一番威張ってます。いたずらというのは、ただそれだけですか。

「家の中をもませようという事も始終あります。最近は露骨にやってます」

その信者というのは御神書もチャンと読んでいるのですか。

「読んでいるような……」

それではできるだけ声を出して読むようにするのです。そうするとだんだん狐の方が萎縮して来ます。

「それで、月に一度日を決めてお祭りをした方が宜しいでしょうか」

その方がよいです。それから、急にしてはいけないから、或る時期になれば……光明如来様を御祀りしたのは去年の何月ですか。

「十二月です」

ではまず、一カ年以上過ぎたら、庭に御祀りするのです。

「その時はやはり、木のお宮を作りまして……」

そうです。大体お稲荷さんと同居するという事はないです。

「それまでは月に一回ずつ日を決めて……」

その前もその後もです。日を決めると言っても、光明如来様の御祭の日がよいです。光明如来様の御祭が済んだあとで、お稲荷さんのお祭りをしてやるとよいです。そうすると狐の方もだんだん面白くなくなって、だんだん居心地が悪くなって来るのです。“これはもういやだ、伏見へ帰りたい”という事になります。丁度その時分に庭に下してやると、大分楽になる。暫らくすると、伏見へ帰るなりします。稲荷のいたずらも随分ひどいです。前に経験がありますが、其処の家の妻君を梯子段から突き落す事があります。それから、花をあげると、パッとほおり出すのです。そういういたずらをするのですが、やっぱり伏見でした。しかし救世教の神様には伏見の稲荷も大いに驚きます。前に伏見の能鷹稲荷という狐を追い出してやった事があります。しかし伏見稲荷にも良いのもあります。大体伏見稲荷の本尊様というのは良いです。つまり豊受明神が本尊さんですが、眷族に悪いのが沢山あるのです。今言ったようにやればよいです。

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「入信二カ月後になる十九歳の娘が農業特集号を売りに行って、三年越しの盲の婆さんに出遭い、神様に御願いしてやろうと、四、五分浄霊すると、目が見えるようになったというのでございます。その老婆は、夢とも現とも、全身から光が出る方が救いに来る状態を見たそうでございます。それで私の家に参りまして、敷居をまたぐと同時に見えなくなり、更に浄霊しますと生霊が出て、その老婆を怨んでおり、いろいろさとし、生霊が帰ると直ぐに目が見えました。生霊が憑れば見えなくなり、離れると見えますので、実にはっきりしております」

そういうのはあります。そうすると、生霊だから本体は何処かに居るのですね。

「息子の嫁の母親だそうで、嫁を離婚して帰したために……」

それで怨んでいるのですね。それは生霊も救ってやったらよいです。そういうのは眼医者に行っても、テンデ分らないです。

「今は又一人で歩いて御参りに来ております」

それは是非信仰に入れてやるのです。信仰に入れば生霊は憑かなくなるから安心です。だから怨みを受けるという事は怖いです。

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「最近入信の信者でございますが、職場の診療所で御守様を足の甲の上に落しました。御詫び申し上げます」

診療所でというと、診察の時に着物を脱ぐ時ですか。

「さようでございます。更に今一つは、緯の御額が出張所の畳の上に落ちました。御詫び申し上げます。これは何かのお気付けでございましょうか」

それは無論御気付けですが、そういうのは自分で考えてみれば分ります。

「御浄めはどう致しましたら宜しゅうございましょうか」

神様は御祀りしてあるでしょうから、よく御詫びすればそれでよいです。それから御守は、その支部長が御詫びして御浄めすればよいです。御浄めするというのは、お三方の上にのせて、神様の前に御飾りして、そうして御詫びするのです。それでよいです。

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「産婦のエナ(胎盤)の処置は如何致しましたら宜しいでしょうか」

どうでもよいです。

「今までは長くとっておいたようでございますが」

とっておく人もあるし、埋める人もあります。しかし埋める場合は人の踏まない所にです。よく縁側の下に埋めます。外では人が踏むから……。そして又、縁の下では大変だから縁側の下にします。

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「色盲は治るものでございましょうか」

治ります。

「御浄霊の急所は何処でございましょうか」

頭です。

「脳天でございましょうか」

全体ですが、中心です。こっち(前頭部)から中心を狙ってやり、こっち(横側)からも中心を狙ってやるのです。その内で延髄が中心です。それから頭をやるのです。

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「納棺する場合の装束はどうするのが本当でございましょうか。一般には白い物を着ておりますが、中には、立派な服装をさせてやる方が霊界に行って恵まれるという事を言いますが」

あれは仏の形式だから、どうする事が本当という事はないです。そこの宗旨にもよりますから、そこの坊さんに聞いてやればよいでしょう。

「一応礼儀として、亡くなった時にしていた装飾品を入れますのは如何でございましょうか」

それはとった方がよいです。一緒に入れるという事はいけません。何んとなれば、若しそういう事がよければ、国家経済から言って大変なマイナスです。身につけるものは、そういったものでなく、価値がない腐って無くなるものがよいです。

「金の総入歯などは如何でごさいましょうか」

そのくらいは知れたものです。

「焼いてから拾っているのがありますが」

そういうのは大した事はないです。私の言うのは指輪です。しかし歯はこっちで取らなくても、隠坊が外します。隠坊は大変な収入です。

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「地上天国五十六号の記事の隠坊の話で“浄霊を受けた人は苦しまずに素直に焼ける、水商売でさんざ男を欺した女なんかが一番苦しむ……”という事がありましたが、どういう訳でございましょうか」

それはその理窟です。つまり、よく焼けない、いろいろ手数がかかるという事は曇りがあるからです。

「霊が完全に抜けてないという……霊が残っているという……」

霊が残っているという事は少しの間です。それは、早く出るのと、遅く出るのとありますが、それは問題にはならないです。遅く出ると言っても、ちょっと遅くなるぐらいなもので、何時までも居やしないです。残るのは執着のためですが、焼く間際までくっついているのがあります。どうしても死にたくない、生きていたいという決死の覚悟でついてますが、しかしそれでも焼いてしまえば出てしまいます。しかし執着によっては、死骸の直ぐ側にいる事はあります。そういうのは死骸の処分や何かのし方によって、非常に怒る事があります。一番執着をするのは、骨を葬らないで、放っておくと、非常に気にするものです。ですから、よくお寺などに預けておきますが、それはいけないので、早く処分しなければいけないのです。幾分でもそういう形が残っていると、それにくっついている事ができるのです。だから焼いてしまうのはそれはないです。

「焼けるのが遅い、或いは、はっきりしないというのは、不純な事をやったからというわけで」

そうです。曇りが多いからです。曇りを焼くのに手間がかかるからです。花柳界などの者は曇りが多いですが、曇りが多いという事は、罪を余計犯したからです。罪を犯すというか、罪を作っているからです。

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「宮崎県方面では、共同墓地が一ぱいになり、新しい墓地を新設すると、死人がバタバタと増えると言われております。信者がその墓地の新設に当らせられておりますが、これは迷信でございましょうか」

迷信です。しかしそれに誤まられやすい事があります。よく仏様を新しくすると死ぬとか、或いはお寺を買うとか、墓地を新しくすると、間もなく死ぬという事がありますが、それは、その死ぬ人の守護神が前から知っていて、そうしてその人が死ぬ前に、墓地を新しくするとか仏様を新しくするとかするのです。だから客観的に見るとそういうふうに見えるのですが、しかし人間の命というものは、そんな簡単なものではないのです。ずっと生きれる人が墓地を新しくしたから死ぬという事はないです。そうすると墓地に人間が支配される事になります。人間が墓地を支配すべきものですから、それでは真理に外れます。

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「母親の執着で、子供が片端に生まれるという場合に、母親が亡くなった子を思うという事は、神様から御覧になって、かなり御許しをいただけると思いますが、そういう愛のために現世で親子共に苦労するというのは、執着ばかりのためでございましょうか」

執着ばかりのためではないのです。何んとなれば、其処の家に罪穢れが少ないという事は、良い事をしているからです。それは他の信仰でも、良い事をしたり、人を助けたりしていると、その方の助けが来ますから、そのために執着が消えてしまいます。それは、そういった、時によっていい恵みがあります。それで執着が何処までも付き纏うという事は、其処に曇りがあるからです。だから相応の理です。随分際どいところで助かったりする事も、昔、親なり爺さんが人を助けたりした事が、その子孫に、やっぱり良い事に現われるものです。それが世の中の一つの法則になっているのです。だから良い事もしっぱなし、悪い事もしっぱなしという事はないのです。必ず何かによって酬われるのです。それが因果律です。

「現界に生まれ変る場合には縁のある所に行くものでございましょうか」

そうです。

「それは殆んどと言っても宜しいのでございましょうか」

そうです。全然縁がなければそういう事はないです。“袖すり合うも多少の縁”とはうまい事を言ってます。こういう事は非常に深いもので、何代前に人を助けたりすると、その助けられた人はどうしてもその恩に酬いなければならないのです。そうするとその助けてくれた人が居ないとその息子、息子も居ないとその子孫と……或いは助けてくれた人が地獄に落ちて当分出られない、そうすると遅れますが、遅れても何時かは必ずそうするものです。例えば甲の人が死に、供養します。信者でお祀りします。ところが甲の人は生まれ変っている場合(生まれ変らない内の、霊界に居た時に、籍のような記録のようなものがあるので)その籍を通じて生きている人に行くので、生きている人に良い事があるのです。“オレはどうしてこんなに良い事があったのだろう”“宝クジが当ったのだろう”という事は、何処かしらで、誰かが、霊を供養しているとか、恩返しをしようとしている、それが生まれ変っている事があるのです。だからクジが当るとかいう事でも、偶然ではないので、必ず訳があるのです。そうかと言って、競輪などで当りますが、これは又意味が違います。これは祖先が、どうしても一度家の財産を潰さなければならない。そのために子孫の、ある者は賭事が好きだからあれにやらせようというわけで競輪に行かせるのです。すると最初はうまく当りますから、その人は夢中になってやっている内に身上をみんな潰します。それで“やっとオレの所の財産を潰して罪穢れをとったから、ではこれから子孫は栄えるだろう”という事になるのです。だから一切、現われる事、人から交渉ある事も、住む土地も、みんな因縁があるのです。つまらないような事でも、それに従わないと、やっぱり悪いのです。よくそれを通して自分の思ったとおりを突き抜こうとしますが、ロクな事はないです。だからそういうのは我です。“よし、オレがこう思ったら、誰が何んと言ってもやり抜いてみせる”“どんな事情があってもやり通してみせる”という、これが危ないのです。それよりか、ちょっとやってみていけなければ止してしまうのです。さっぱり信念がないように見えますが、ところがそうではないのです。つまりそこで素直、運命に従順という事が一番よいのです。これは決して間違いない事です。間違いなければうまくゆくのです。ところが、どうも人間というのは“精神一到何事か成らざらん”主義で、なかなか素直にゆかないのです。私は何時かも言った事があるが、人間は腹に力を入れなければいけないと言いますが、腹に力を入れてはいけないのです。武芸者でも、腹に力を入れているのは、まだ本当ではないのです。若し腹に力を入れていると、敵がパッと来た時にパッとゆく千変万化の働きができないのです。それが、腹に力を入れてないと、千変万化の働きができるのです。機に応じ、身に応じての働きができるのです。だからああしようこうしようと思ったら、必ずうまくゆかないです。寒ければ暖かい物を着るし、暖かければ涼しい物に替えるという主義が一番よいのです。私なども昔は“精神一到何事か成らざらん”主義を随分やりましたが、やっぱりいけないです。神様の事を知らない内はそうやっていたが、分ってみると、人間なんてものは実に頼りないものです。ブヨみたいなものです。大風が吹けば潰れてしまうようなものです。ただ神様に掴まっていれば大丈夫ですが、掴まっていなければ実に危ないものです。だから今は“オレが”という連中が汚職問題でドシドシブチ込まれてますが、自分では確信を持って、素晴しいものだというわけなのですが……。それについては、ただフワフワしていては、それは駄目です。そこにおいて智慧というものが要るのです。智慧というのが肝腎なのです。だから智慧証覚というものを磨かなければならないのです。それにはやっぱり頭ですから、頭に曇りがあっては駄目です。今の人は頭に曇りがあるから、貧血しているから、智慧の働きが悪いのです。本当に分ってみれば、信仰のない人間というのはしようがないのです。だからこの間も「⇒汚職の母体」という論文を書きましたが、これは栄光に続けて三度出しますが、徹底的にやろうと思っているのです。日本の政界というものは、どうしても大浄化作用がなくてはしようがないです。

(垂二十九号  昭和二十九年三月十五日)