二月一日
この間のアメリカの新聞記者のグリリという人と、もう一人観光事業に関係のある新聞記者との間で、今度熱海の地上天国が出来たら、観光の番組に入れる事になっているという話です。東の方は今まで日光に鎌倉に箱根で、熱海は入っていなかったのです。今度は熱海を入れるようになったとかいう話です。それからその時の話に、アメリカに行った人はナイヤガラの瀑布は是非見なければならない事になっているそうです。それでこれからは“日本に来ればどうしても熱海の地上天国を見なければならないような事になる。岡田さんはそれほどとは思っていないだろうが、いずれそうなる”という事を言っていたそうです。私は実はそう思っていたのです。最初からアメリカの人がアッとするような物を造るからと言ってました。将来あそこを維持するのに、各国の大使公使を賛助員みたいなものにして、要するに平和国家が共同して永久に維持するという話もあるような事を言っていたそうです。すっかり出来上ると断然世界的になるのは間違いないです。まだまだ今見たどころではない、もっとウンと規模が大きくなって素晴しくなるつもりです。ですから外国は無論の事、日本でもどれほど驚くか分らないと思ってます。無論日本始まって以来ない物が出来、計画もそうです。それだけで、とに角救世教というものを、要するに見直さなければならない事は確かです。今まで見ていた、普通の新宗教に少し毛が生えたぐらいに見ていたのが、そんなチョロコイ見方ではいけない、これは大変なものだというように思わないわけにはゆかないようになると思います。いずれ来年は美術館を造ることになりますが、美術館の建築の様式は、近代的のコルビュジエ式ですが、それを非常に品位を持った、会館よりももっと上品な、そうしてごく新しい処に幾らかクラシック的の感じを折込んだような物にしようと思ってます。そこに支那風の処と、日本の奈良朝時代のような味も出して、ちょっと想像のつかないような物が出来るつもりです。つまり世界中の良い処をとるというわけです。そこにもっていって美術館の周囲は天国浄土とでも言ったような、そういう気分を出そうと思ってます。これは話では……話の方がし難いです。実地を見てもらうよりしようがないです。大体敷地だけは今年一ぱいに出来るでしょう。敷地だけ見てもちょっと違います。非常に大きな規模に見えるのです。会館や展望台あたりを見るよりかずっと大きな規模に見えます。今でさえそのくらいにアメリカ人が見ているのですから……。そのもう一人の何んとかいう人は、あそこを三度見に来たそうですが、非常に注目しているわけです。日本の新聞記者などでわざわざ一度でも見に来る人はないでしょう。とに角出来たら大変な事になります。
それから熱海の観光道路はいよいよ始めたようですが、最初熱海と湯河原間です。そろそろ着手しかけているようです。熱海・湯河原間の海側にドライヴ・ウエイのようなものを作るのですが、今湯河原の海岸の入口に新しい道路が出来てますが、その延長です。カーヴがなくなって殆んど直線になりますから非常に早いです。今熱海から湯河原までは、どうしても三十分はかかりますから、この半分ぐらいになるでしょう。それが済んでから湯河原・小田原間です。結局今は小田原まで一時間かかりますが、これも半分で済むわけです。それから十国峠も良くなりますが、有料道路から熱海までを舗装するというだけは決まってますが、カーヴを直すという事はまだ決まらないようです。これもいずれ何んとかしたいと思ってます。そうすると、将来の事ですが、元箱根から強羅に行くのも、反対の方から行くと、もっと短かく良い道路が出来るのです。それで結局私の家から強羅まで、道路さえやれば三十分で行けない事はないのです。そうなると箱根・熱海というものが一層発展するわけです。無論それは神様の方がそういう計画をしたに違いないです。箱根・熱海を三十分で交通出来るようになると、それを一緒にした一つの地上天国的のものが大規模に出来るわけです。その時分になると、十国峠が又素晴しい事になるに違いないです。つまり箱根が経で熱海は緯で、それを結ぶ所が十国峠ですから、それで十国という字を使ってあるわけです。だんだんそういうような工合に変ってゆくわけです。結局は私がやるようになるでしょう。だから今熱海の地上天国というのは、ごく最初のホンの序の口です。いずれこれが出来ると、アメリカあたりが、自分の国にもこういう物を拵えたいと言うに決まってますから、そうしたら私が設計してやろうと思ってます。ただ、行くのは面倒くさいから、図面で言いつけるだけで良いと思います。なにも現場を見るほどの事もいらないです。その前に無論ハワイに出来ましょう。
話はこのくらいにして、質問の方をどうぞ。
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「二十五年二月入信の者でございますが、昨年十一月中旬畑にて作業中“光明”の御守を落し、一時間後に気がつきましたそうです。御守様には土がついておりまして、深く御詫びして現在かけておりますが、気が咎めております。如何ように致しましたら宜しいでございましょうか。因みに、本人は両眼失明中を御浄霊にて御救いいただき、現在新聞は読めませんが、歩行には支障ございません」
その時に聞けばよいのに……。今までかけていたのですか。
「さようでございます」
そういう事は早くでなくてはいけないです。直ぐでなければいけません。そうして、そのまま一旦掛けて、それから浄めるというのは実際変です。理窟が外れてます。だから新しくいただくよりないです。直ぐならそれを浄めるという事もあるが、今まで掛けていたという事は……でたらめだったから……。それを大事にしまっておいて、いずれは額にでもするがよいです。それで御守としては新しく御受けしなくてはいけないです。御守が切れるという事は、紐が切れるというのでなくて、つけた所が取れるのではないですか。紐は、そんなに古い紐ではないのだから、切れるような事はないでしょう。
「ナイロンの紐でございますが、固くなって折り切れたそうです」
そうすると、つまりナイロンの紐は弱いのですか。ではナイロンはよしたらよいです。昔からの紐はそういう事はないです。紐は吟味しなくてはいけません。
「経の御守様は御額には……」
よいです。掛物でもよいです。掛物の方が巻いてしまっておけるから、よいです。それで何かの時に掛けるようにすればよいです。
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「御神体の左の方に蚊の血と思われるものが二センチほどついておりますのに気がつきましたが、これは何か御神業上の間違いがあったのかとも思いましたが、どのようなわけでございましょうか」
無論何かあったのですが、小さい事です。経師屋に洗ってもらえばよいです。
「経師屋に聞きましたところ、血のついたのは取れないそうです」
では、紙で埋めてもらえばよいです。経師屋が分らないように上手にやります。
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「六月に入信の信者でございますが、十月頃懇意にしている近所の酒屋に行きますと、奥の部屋に“光明如来様”の御神体を祀ってあるので、入信しているのですかと聞くと、入信はしてないというのでした。しかし光明如来様を奉斎してあるではないかと言うと、あれは私が別に祀っているのでも何んでもない。何処かその近くの人らしいが、持って来て買ってくれないかというので譲り受けて掛けているという事なので、実はこれはこういう勿体ない御神体だと話したところ、それは家では勿体ないから持って行ってくれというわけで持って参りましたが、如何ように致したら宜しゅうございましょうか」
それは浄めればよいです。
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「最初から大光明如来様を御祀り致しておりました信者でございますが、この度本人より光明如来様をという希望がありましたが、御許しいただけますでしょうか」
よいです。大光明如来様はしまっておけばよいです。そうして、いずれ大光明如来様を御掛けする時期が来たらそうすればよいです。
「他にもそういう者がおりますが」
そうしたらあなたが注意したらよいです。
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「一昨々年十一月頃より精神病状態となり、一時警察の厄介にもなり、病院にも入っておりました。昨年十一月頃病院から出ましたが、再びそういう状態となり病院に入っております。今のところは、良くなって仕事をさせているそうで、病院では出てもよいのではないかと言っているそうですが、兄は再び起こってはというので、明主様に御伺いしてくれという事でございます」
兄は一緒に住んでいるのですか。
「さようでございます」
兄は信者ですか。
「さようでございます。家族は大光明如来様を御奉斎させていただいております」
そういうのはやっぱり浄化です。商売は何ですか。
「農家でございます」
信仰に対しては……どういう信仰のしかたですか。
「只今まで五、六名程度のお導きで、御奉仕も幾らか致しており、弟を勤労奉仕に、という程度でございます」
つまりそういう事でも何んでも、災いとか心配になるという事は、其処に罪があるので、その浄化だから、そこで一生懸命にやりウンと手柄を立てれば浄まるから、そういうのはうっちやらかしておいても治るし、又浄化が起こっている内は浄化すべき曇りが残っているので、そういった心配事も果々(ハカバカ)しく治らないというわけだから、根本はそこにある。病院に入れるとか、浄霊で治すとか、どうすればよいか、という事は第二の問題で、つまり根本は神様のお役に立つ事を出来るだけすれば、罪が取れ、罪が取れれば曇りが無くなるから、放ったらかしておいても治ります。
「その父親は一昨々年に狭心症で死んでおりますが、父親の当時はなかなか熱心でありました。兄の時になってからはお導きしておりません」
それではしようがないです。もっと苦しむよりしようがないです。その訳を話をして、そうしてわかればよし、分らなければもう一層苦しむ方がよいです。その方が早く浄化します。其処の中心は兄ですか。
「さようでございます」
では、一番心配したり迷惑するのは兄ですか。
「さようでございます」
そうすると、その兄というのがウンとやらなければ駄目です。御神書は読みませんか。
「現在……」
ロクに読まないでしょう。だから、今私が言った事を一応話してやるのです。それで分ればよし、分らなければ時期を待つよりしようがないです。
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「キリスト教の信者であった夫婦が本年一月十一日に奇蹟集を見て参り――胸部疾患でございますが御浄霊にて元気になっております――。三十日に私不在中、御浄霊御礼を『御浄霊御玉串』『御浄霊御礼』と二つ書きますと、向って右側に同じ文字が白く現われたそうです。その人は肩上りの文字ですが、現われた白の文字は肩下りになっております。教会の奉仕者にも同じように見え、私にも見えますが、私のは『御玉串』とだけ見えます。どういう訳でございましょうか」
きっとキリストが書いたのでしょう。キリストもよく分っているから、つまりキリストとしての奇蹟を見せられたのです。
「弟もキリスト教信者で、米国のキリスト教の大学に在学中だそうです。救世教の話をすると、弟を呼び学校をやめさせると勢い込んでおります」
やめさせてもよいです。ただ語学がうまくなるくらいなものです。しかしやっぱりキリスト教信者はキリストが守護するのです。キリストは私の弟子なのだから……つまり救世教に働かせようとして、親分がいよいよ世界的の仕事を始めるから……キリストもウカウカしておられないというわけです。結局今までの偉い聖者というのはみんな総がかりで働くのです。人間ではそういう奇蹟はできないですが、キリストならそのくらいの奇蹟はできます。
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「大黒様の御開眼につきましてでございますが、上瞼と下瞼の所に御開眼いただいたのがあります。彫刻師の彫り方が悪くて、目の場所が……」
そうなのです。私が間違えたのです。瞼だか目だか分らないのがあります。しかし開眼すれば其処の所が目になるから、それでよいのです。
「非常に気にしておりましたので」
だから、今言ったような訳なのです。
「古い信者であった人が、昨年十二月に大黒様を是非御祀りしてくれと支部に持って参りました。明主様の御開眼をいただいてありました」
私が開眼したという事はどうして分りましたか。
「本人が申しました」
結構です。
「改めて御浄めを……」
そんな事はありません。そのままでよいです。
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「滋賀県に居ります三十一歳の男でございます。一年ほど前より、御神前に参拝しますと霊がかかり、あまり読み書きはできない方ですが、模造紙を用意しておきますと忽ち絵を画きます。又歌を詠みます。私と当人とで御神前にて誰方かを神様に御伺い致しますと、見真大師との事で、親鸞上人かと思われます。かく事は天国地獄、大浄化の状態とか、最近は自然栽培に絶対に切替えなければいけないという事を絵に画きます。それから今年は非常にイモチ病が大変だから切替えなければならないという事をかきます。絵は、早くきれいには画きますが、幼稚な点があり、歌もそういうようで幼稚な点があります」
それは幼稚だから親鸞上人です。良く画いてあれば画家のです。
「沢山の絵がありますので、明主様の御覧に供して宜しゅうございましょうか」
よいです。
「それから、少しも常識に外れた点がない事で、不断は対等に話もできないのが、その時には絵を掲げて大勢に説明をします」
やっぱり親鸞上人でしょう。
「真宗の盛んな所なので、みんな喫驚し喜んでおります」
やっぱりその男は上人と因縁があるのです。だから特に……。
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「前に長野県に行きました時に、正月の行事で、諏訪神社と戸隠神社にその年の農業の情況の御神示をいただくのだそうですが、去年は非常に悪く、半作以下、桑などは三分の一になるという御告げがあったそうですが、そういう事も、或る点までは事実の事でございましょうか」
そうです。或る点までは……。そういう事ぐらいはああいう霊にも分らない事はないのです。結局去年の水害というのは幾らも被害はなかったです。農林省の統計を見ると、去年一番出来たのが九州で九十七%です。その次が四国で九十四%です。他はガタ落ちです。ところが一番水害があった所が一番良く出来たのですから、随分皮肉です。一番の不作の原因というのは虫害です。ところが冷害で若しいけないとすれば、自然栽培の方は冷害の被害はあんまり無かったから、結局虫害です。それで虫害というのは肥毒のためだから、結局肥料で凶作にしたのです。それに目覚めない限り年々悪くなります。
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「水害に遭った所は、そのために肥毒が流れる事と、新しい土が入りますのでよくなるのでございます」
そうです。それで良いのです。それを間違えて、洪水の水に肥料があるのだと言うのですが、そうではないので、肥毒が消えるからです。今度のお蔭話に、九州の水を被った所で、しようがないとて、新規に種を蒔いて、新規蒔直しにやって平年作以上穫れた所があります。何時かも書いたとおり、水害というものは神様が肥毒を掃除してくれるためのものです。又水害があるためにどうやら稲が出来るわけで、水害がなかったり大雨がなかったら、米は殆んど穫れなくなってしまいます。
「自然栽培につきまして、今年は会員がみんな深耕をし、肥毒を吸っている土を上にあげ風化作用をしておりますが、それにつき聞きました事は、流し水をすると非常にきれいになり、よいという事を聞きまして奨励するようにしておりますが、宜しいものでございましょうか」
よいです。人口的水害、洪水というわけです。肥毒の減る方法なら何んでもよいです。それから今度の大分の十三俵三斗穫った件ですが、尾崎さんは来てますか。あれは何升何合と書いてないので工合が悪いのです。というのは、朝日新聞のコンクールでは何升何合と書いてある。報告書には大雑把に書いてあるので、今の人間は正確でないように思うから……。又五石五斗と決まりがよいわけがないので、その端数も出さなければいけないです。
「申訳ございません。只今問い合わせております」
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それから、今までの地上天国の質疑応答はやめてしまったから、ああいう事は、教師、支部長が信者から取次ぎして、特別面会の日に質問するとよいです。
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「親の代より熱心な天理教の信者でありますが、この度神経衰弱を御守護いただき元気になり、入信致し、御神体御奉斎の希望であります。天理教の神様を祀ってあるために、これはどういう処置をしたら宜しいでしょうか」
無くすのが一番よいですが……。
「元の教会に返しては如何でしょうか」
返すのはまずいのです。というのは“どういう訳ですか”と聞くから、正直に“救世教に”と言うと、天理教の方で怨む。なるだけ怨みを買わない方がよいのです。だから返すというのは目立って、一番いけないのです。個人でしまっておけばよいです。
「相当大きな物ですが」
当分しまっておいて、或る時期にいったら焼けばよいです。天理教の神様も喜んで焼いてくれれば有難いが、そういった神様の代りに変な霊がいる事があるのです。そういう場合には急に処分したりするとアダをしたりするから、それが改心するなり帰るなりしてからが最もよい。そういう障りが無くて済むから、そこで暫らく其処の家にしまっておいて、それでどういう事をしても差し障りが無くなってから焼くというわけです。(1891上)
「天理教の教師が来てやっておりましたが全然お蔭がなく、私の方で一週間ぐらいで治りました」
ところがそういうのがだんだん増えるから、天理教以外の何宗教でもそうです。どうもこの頃は自分の所の信者が減った、どうも救世教の奴、というわけで、そういう霊が幾らか邪魔するのです。なるだけそういった怨みを少なくした方がよいです。妙なもので、前に私が有罪になった時に、今まで怨んだ奴が“救世教の奴いい気味だ、これで溜飲が下った”という人間が沢山ありますから、それがこっちに対して非常によいのです。そうすると霊的にそういう霊が退散して邪魔しなくなるから、こっちが大いにやりよくなるわけです。人間は何んでも人から羨やまれたり怨まれたりしないようにする事です。年中苦しんだり困っているという事を……無理に作らなくてもよいが、そういうように思わした方がよいです。そうして実際において良ければよいのです。ところが人間は、一つの虚栄心のようなものがあって、人によく見せる、間(マ)がよいように思わせたがるものですが、結果は逆になるのです。そういう事を始終心に入れておいてやるという事がよいのです。だから急に出世したりするのは、一つの羨望やそういう事で悪くなるという事は――他のいろいろな原因があっても――そういう原因が多いです。だから盛んであっても没落したものには、そういう霊の働きが非常にあるのです。今の事を秀吉と家康とに比べてみるとよく分ります。秀吉は百姓の伜があんなに出世をして、関白という最高の位になって、そうして出世した事を大いにおごってやった。それに対して徳川の方は年中パッとしないで、逃げたり引込んだりして目立たないようにしながら、結局天下を取ってしまったのです。徳川の方がずるいやり方で、秀吉の方は正直なやり方です。そういうずるさは結構なのです。しかし救世教などもそういう事が大いにあるけれども、その代りこっちの方は助かった人の感謝が打消してしまうから、余程少なくなります。又感謝の有難いという、その霊というのはよい働きをするから、そういったヤッカミの霊や怨みの霊を消す。ところが目下のところマイナスの霊が多く、感謝の方が少ないから、どうしても数の方において負けるのです。悪い方が百とすると感謝の方は一か二ですから、数において負けるのです。しかしこれからだんだん進むにつれて、他の宗教からこっちに転向するというのが大いに増えて来ますから、そうすると他の宗教が非常に怨みます。それが一番注意すべき点です。救世教が本当に救われるという事が分ったらみんな転向しますから、そうすると他の宗教はガタガタになってしまいます。“救世教の奴、新しいくせにして、オレ達のをみんな取ってしまった”というそれがあります。だからその点を目立たないようにしている内に、何時かこっちが大きくなってしまうというようにした方がよいです。それで又、こっちが手が出せないほど立派になってしまうと、人間は諦めてしまいます。ただそれまでにだんだん発展するという怨みが大きいのです。手をつけてもしようがない、あれは別だというように諦めるというその時までは、できるだけそっとした方がよいです。やっぱり根本は霊ですから、霊の邪魔というのが一番怖いのです。体的の邪魔というのは知れたもので、それだけのもので限度があります。人間という奴は理窟では分っているが感情の方が分らないというのが沢山あります。それから、人間、理窟どおりにできる人は大変な偉い人です。分らない人間は始末がよいのですが、分っていて分らないという人間が一番始末が悪いです。分っているのですから……。
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「支部に御奉斎の御神体の表装が粗末なので気にかかっておりますが」
良くしたらよいです。
「その間は他にいただいた御神体を御奉斎致して宜しいでしょうか」
よいです。
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「昨年一月入信の信者でございますが、御神体御奉斎の希望ですが、二階が非常に低く、端の方で三尺ぐらいしかありませんので、屋根を床の間の幅だけ三尺ぐらい上げて作りますのは如何でしょうか」
それならよいです。
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「家族の者で行方不明の場合、又外地などに行って生死不明の場合に、仏壇にお祀りするという事は如何でございましょうか」
お祀りしていてよいです。
「生きていても宜しいのでございましょうか」
生きていてもよいです。
「戒名でお祀りするのでございましょうか」
本名でよいです。
「よく年月日を書いてありますが」
それは入れなくてもよいです。やっぱり、生きていて、帰って来ても祀られるという事はそれだけのお蔭があります。私の写真を飾って拝んだりするのは、どっちかというと生きている人の扱いではないのです。それから又面白い事は、仮に死んだ人をお祀りして拝みますが、それが生まれ変って来ると、生まれ変って生きている人に行くのですから、そういうのは、前の世に徳を施したとか何かで、生きていても思わない良い事があるとか、そういう事があります。それから一軒でも余計が祀るという事はよいです。ところがよく田舎とか、都会でもそうですが、長男だけがお祀りして、二男三男はいらないという事を言われてます。そういう事はないので、できるだけ多くの人がお祀りしてやると、それだけの功徳はあるわけです。だから仏様だって、親戚の者でも祀ってやれば、やっぱり霊は喜びます。昨夜読んだお蔭話で、今度地上天国に出しますが、死んだ霊が代る代る、死んだ人の奥さん(信者)に憑って来て救われるそれが実によく書いてあります。“お茶をのみたい”それでお茶を出しても飲まない。“御許しがないから飲めない”と言うのです。それで“水だけは御許しがあるがお茶は飲めない”そうしている内に、其処の家族の者が神様に御願いしたり、祝詞や善言讃詞を奏げている内に、お茶を飲めるようになったとか、そういう事が実に細かによく書いてあります。それから、其処の家の子供や兄弟や、死んだ者がみんな出て来て、みんな“救われた救われた”と喜んでいるのがよく書いてあります。少しも嘘とかそういうものがないので、本当の事です。あれは霊界における状態と、救世教によって救われたという事がはっきりしてます。この次の地上天国に出るでしょう。それで、十三年前に死んだ霊が、お茶をくれと言う――十三年間お茶を飲めなかったのです――。上げるのだが飲めないのです。これは前によく話がありましたが、私が扱ったのは、お茶をおさんどんに上げさせたので、仏様に上げるという気持が全然なかったから飲めないというのです。上げる家の人が、御先祖に飲んでいただきたいという気持があると美味しく飲めるのです。そうでないと全然飲めないのです。私はそういう経験がありました。今度はお茶を一杯々々飲んでいって、十三杯でもうよいと言ったのです。そうすると一年で一杯のお茶を飲む事を許されたという、そういうところが実に面白いです。霊界は想念の世界だから、人間の想念どおりになったり、又凡て神様の御許しがないとできないという事がよく分ります。
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「区画整理などで新しい土地が墓の上とかで、骨が出る場合がございますが」
本当はそういう所は家を建ててはいけないのです。建てずに済む場合は建てない方がよいです。それから若し其処に霊が居た場合には、霊は人間に踏まれるという事は一番嫌うのですから、其処だけは踏まないようにするのです。しかし其処が救世教信者の家なら、それは霊が救われるからよいです。そうして其処の家の仏壇に位牌をあげて、そうすると朝晩物をもらったりするから、そういう場合は建てても構わないです。
「そういう場合の名前はどういう工合にでございましょうか」
そういう骨だけの場合は「諸霊」でもよいです。よく方々に「三界万霊供養」とかありますが、あれはそういう迷っている霊、決まりがつかない霊一切を救うという意味です。以前は仏の方にも相当力があったからそれでよいが、今日では仏の方は全然力がないから、何んにもならないです。
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「二十五年十一月入信の信者。入信少し前から頭がぼやっとしておりました。御浄霊をいただき指先が痺れるようになり、浄霊で思うようにゆかず、親戚、親の意見で名古屋医大に入院、筋肉萎縮硬化症にて治らないから駄目だという事で退院し、それから信仰を一生懸命にさせていただいております。体中が痺れ、今では全然動く事ができません。霊的原因があるのではないかと思われます」
最初はどの指ですか。
「指先全部で、最初は一節でしたが、二節、三節という工合になって参りました」
霊的ですが、そういう霊は、毒で自殺して死んだ霊です。それで強い毒は体が全然痺れてしまうのです。その霊が憑って、最初は人間の方にも生きる力があるが、その内にだんだん霊と同化してしまうようなものです。それで丁度死んだ時と同じ状態になってしまうのです。それは治らない事はないです。一番に浄霊するのは頭ですが、それで気長にやれば、つまり霊の、死霊の毒を浄霊するわけです。それは医者では分るわけがないです。前にそういうのがありました。その霊は、時々霊が憑依するのですが、そうすると体がピタッといって、それがひどいのです。例えてみれば、私がこうしている時に霊が憑ると、このままでどうする事もできないのです。立っている時は立ったまま、寝ている時は寝たまま、坐っている時は坐ったままです。それで不断の憑っていない時は当り前のままです。それで最初はそういう時に注射したのですが、注射すると一時は良くなるのですが、その内にだんだん痺れている時間が長くなって、心配になって私の所に来ました。その時は私も浄霊をし始めて間もない時で分らなかったし、少しは良いようだったが、そのままになって、死んだかどうかは分りませんが、後になって毒で自殺した霊という事が分りました。
「只今の、霊が憑依している時に注射すると一時楽になるという場合には、霊はどういうようになるのでございましょうか」
肉体の方が変るからです。つまり痺れるという事は肉体ですから、霊は別に痺れる事はないです。肉体に反映する場合に、薬なら薬が、一つの何かの作用をするのでしょう。西洋でも昔からよくあります。発病した場合に薬を始終持っていて使用する。注射をしなかったり飲まなかったりすると引繰返ってしまうというので、西洋の小説か何かにあります。
「その薬というのは、血管を無理に拡げるとかいうものでございましょうか」 そうではないのです。
巖窟王ですか、牢屋に入っていて、その薬を飲むと一時意識不明になるという、ああいう薬の働きというものは、どういう働きだか分りませんが。
「そこのところが不思議な感じが致しまして……」
やっぱり何か……そういうものでしょう。眠い時にカラシでもなめるようなものではないですか。西洋にはよくあります。今の痺れたというのも、やっぱりそういう薬です。痺らす薬もあるのだから、一時的痺れを無くする薬というものはあるわけです。そこで薬迷信というものが出来てしまったのです。確かに効くのですから……。それは薬の効くという事も大したものです。ただ、治って効くのでなくて一時的だから、それだけの話です。
「精神療法の電撃療法というのも、やはりそういったものでございましょうか」
その理窟です。唯物科学の方だから……。私は若い時分にアンチピリンをのみましたが、この中毒というのは怖いもので、体中が痒くて落着いて居られないのです。飛び上るようで、実に苦しいものです。それで夜中中苦しんで、朝になって医者に行ったところ“そうか、分った”と言って何か薬をくれたのです。それを飲んだら二、三十分でサット治ってしまったのです。だから薬というものは怖い物だし、又有難い物だと思いました。
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「薬毒の事につきまして、昨日或る医師といろいろ話をしました。医者の方も薬毒は分っているのですが、結局最近は高血圧、癌というような症状で死ぬ人の年令が低くなって来たという事は、それだけ血が濁って来たからだ。大体腎臓で濾過してきれいにするべきであるにかかわらず、腎臓が悪くないのに死ぬという事は、腎臓の機能を越えて血を濁らす何物かがある。私はそれが薬毒だと言うのです。それで血の濁りは食物にもある、最近に至って人間の食物が変って来たに違いない。ところが変ってない。ただ薬が変って来たわけです。医学でも薬毒は認めるが、これは一定時間に排泄されるという事を主張しているわけであります。それから話は体質という事になって、お酒も一升飲んでも平気な人もあれば、二、三杯飲んでもフラフラになる者もあり、同じ薬でも強く働くのもあり、大して働かない人がある。それをどう説明するか、と言って来たのです。それも宗教面とすれば、霊の曇りという事になります。霊の曇りという事になると、人間の罪という事になりますが、これは前世の罪もあれば、祖先の罪も、自分が今生で犯して来た、その上に薬というものが働くというように考えて然るべきだ、という気がしたのでございますが」
根本的に違ってます。薬というものは、薬によっては排泄されるものがあるというそれが根本的に誤まりです。全部体外に出ないのです。残っているのです。その代り減るには減ります。それから曇りというのは、祖先の曇りというのは知れたもので、薬毒の方がずっと多いです。薬毒で霊を曇らせるというそれが殆んどです。よくお蔭話で“自分のような罪穢れの多い者は”とありますが、そういう罪穢れは幾らもないので、薬毒の方が十倍も二十倍もあります。
「それで医師が、薬毒の浄化という事は考えられる、しかしそれが人によってやはり働きが違って来る……」
なるほど体質には違いないが、体質がどうして一定でないか、それは何処に原因があるかという事です。
「過去においての薬毒が変化を与えると……」
それでよいのです。それから体質は人間はみんな同じなのです。何故同じかというと、浄霊で治す方法は同じです。そうすると浄霊で効く人と効かない人があるわけですが、そうではない。皆同じように浄霊がきくのです。ただ薬毒の多い少ないによって、長短はありますが、浄霊で治るという現われ方は誰でも同じです。こっちの痛みは浄霊で治らない、こっちの人は治るという事はありません。そうしてみると体質というのは同じなのです。人間の体は、みんな首があって手があって足があるのと同じで、みんな同じです。
「体質の遺伝ですが、弱い体質とか強い体質という事は」
あります。薬の多い者は弱いし、薬が少ないと強いのです。
「ただその薬が、親が飲んだ薬とか言うと医者の方では分らないと言うのです」
そうです。だから今では癩病でさえ遺伝しないという事になっているのです。つまり医学はごく幼稚で、そこまで分らないのです。
「残るという事が論争の頂点になってます」
もう論争はいらないので、事実です。そうすれば、若し薬毒の影響がないとか、薬が良いというものなら、薬を飲まない以前の人間が非常に弱くて、薬を飲んでから非常に強くなったというのなら、薬は良いものです。それから薬が本当に効くものなら、もう病人が無くなっているはずです。先祖代々飲んだのだから……。さもなければ、まだ薬の飲み方が足りないという事なら、病院に入ってウンと飲ませるとよいです。効くものなら……。“あなたはどのくらいやった”“三年飲み続けた”“それでは治っているはずだ”。“あなたは”“三カ月”“それではまだ飲み方が足りない”というわけになり、薬が効くものなら、とうの昔に病人は無くなっています。
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「只今新聞に死亡の広告が出ておりますのを統計とっておりますが、医者は五十から四十前後で死んでおり、他の人は六十、七十で死んでおります」
ですから博士が一番早死です。それで医者に聞いたところが、それは医者は病人を扱うので、どうしても伝染する機会が多いからだと言うのです。
「昨年の十月頃は四十代というのはありませんでしたが、十一月、十二月となって来ると四十代というのが多くなって参りました。実にはっきりしております」
やっぱり、やっぱりですね。人間という奴は瞞ますのに非常に素晴しい力があるが、又瞞まされるのも非常に多いです。瞞ますのが実に多く、又瞞まされるのが実に多いです。そう思うと分ります。
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「寿命の長短というのに、一つの系統というものは……」
あります。これは系統というのが、薬毒の多いのが一番の系統です。それから特種な薬毒です。脳溢血のは遺伝します。親父とか祖父さんが脳溢血なのは、きっとやります。そういうのは薬毒が多いのと、それから薬毒によって種類が違います。同じ漢方薬でも、ゲンノショウコもあるし、他のもあるし、それによってその人の体質が違うわけです。しかし大きく見れば同じ薬毒ですから、同じものです。種類は違うが……。
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「狭心症で、アルバジルを使うと赤紫色に出るのです」
其処に薬毒が固まっているのです。毒血が固まっているのです。
「医者がくれる薬を使うと、出る場合と出ない場合がありますが、自分でなめてみて、これはアルバジルが入っているなと思うと、その晩に直ぐ出ます。その場合は集まっているのが溶けて出るのでございましょうか」
集まっているのが出る場合と、新しいものが直ぐ出る場合と、それからアルバジルの種類でも違います。直ぐに出るように作ってあるのと、そうでないのと、濃いのも薄いのもあります。しかしアルバジルで死ぬのは非常に多いです。この頃は殆んど作らないようになりましたが、実に怖いです。一時効くから中毒になってしまうのです。
「アルバジルを多く飲んだために狭心症のような症状が出るのでございましょうか」
無論そうです。アルバジルは命には一番効くようです。命がなくなってしまいます。私は前にアルバジルで死んだ人を随分聞きました。
(垂二十八号 昭和二十九年二月十五日)