御 垂 示 録 (第二十七号)

十二月一日

大体この会は質問応答の会ですから、今日は最初から質問をして下さい。

「二十三年に入信の信者でございますが、二年ほどして神霊科学(亀井三郎の弟子)に迷い、それがために夫婦離別をし、御奉斎致しておりました光明如来様は、御無礼があっては申訳ないから引取ってもらいたいという事で支部で引取り、献金も返してくれというので返しました」

献金を返せというのはないです。貸した金を返せという事はありますが……。

「そうして最近支部長より中教会の方に光明如来様を御返しして参りましたが、この御処置は如何致しましたら宜しいでしょうか」

そのまま大事にしまっておいたらよいです。

「中教会の方にでございましょうか」

支部の方で預かればよいです。いずれ目が覚めて来る事があるだろうから、その時まで預かっておけばよいです。亀井三郎は前に私の方で使ってくれと言って来た事があります。しかしあれは酒飲みで、何も働きがないし、ただ霊憑りだけのものです。それで霊憑りをしたところでしようがないです。宗教的には何も役をしないのです。それに手当でもやって威張られたら堪らないから、体良(テイヨ)く断ったのです。神憑りというのは、いろんな霊が憑っていろんな事を言いますから、ちょっと迷います。ああいう霊も、最初の内は珍しくて興味を持ちますが、いい加減やって居ると分ります。狐、狸、龍神、天狗がつくぐらいなものです。そうして又霊界の事を聞いたところで、大体そう変った点はないので、決まっているものです。私も前に神憑りを随分やった事がありますが、終いには飽きてしまって面倒臭くなって止しました。五、六年前かに横須賀で萩原という写真屋か何かが神憑りになって、一宗をこしらえようとしたのです。ところが霊憑りになっていろんな御託宣はあるが、病気が治らないのです。そこで病気だけを私の方で治してくれ、そうして御託宣は自分の方でやる、そうしてもらえまいかと言って来たのですが、私は全然相手にしなかったのです。それでも横須賀の信者を百人ぐらい引張ったでしょう。だからこっちを止めてそっちに行ったので割合に熱心な人がありました。その内にだんだん駄目になって、近頃聞いてみると、ひっそりしてしまったそうです。そういうのはよくあります。前に静岡にもありましたが、若い娘で、私の所に来ましたが、“今に明主様がこうだ”とか“神様は非常にお急ぎになるから”と言って人を驚かして、こっちの仕事を自分の方に頼ませるような事をしました。そういう霊憑りというのはチョイチョイあります。

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「墓地の事につきまして御伺い申し上げます。分家のために、本家には墓地がありますが狭いので、天台宗(宗旨は天台宗です)のお寺に埋葬したいと聞いたところ、寺には墓地がないという。そこで奥さんの在所が真言宗ですが、その方に聞いたところが使ってもよいという事であります。兎も角明主様に御伺いしてからという本人の希望でございますので」

それは、それでよいです。いずれ救世教の方で墓地を作ります。仏界はもうだんだん駄目になるのです。

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「⇒天国の福音で、財閥解体に言及してある中に、個人は資本の一割内外が至当であるという事でありますが、それはあの時の時勢に応じて説かれたものでしょうか」

忘れましたが、そうでしょう。今でもそう変りはないでしょう。あれは平均です。

「資本主義、共産主義の二つの異なったものによって世界は二分し闘争しておりますが、結局人間が地上を支配する事が間違っている、神の下に……という事でありましょうか」

そうです。

「そうするとミロクの世というのは、神様の御意志はどういう方法で人間に伝わるのでございましょうか」

それは資本主義も共産主義も、主義と名がつくものは無くなってしまうのです。主義と名がつけば、そこに決める事になり、決めると闘争があるのです。そこで決めなければよいのですが、決めなければよいというのでなくて、本当の事は決められないのです。つまり資本主義があるから共産主義があるのです。ですから共産主義は資本主義が作ったものです。主義と名がつくものがあれば、その反対のものが出るわけです。ところが主義というものがなければ、反対のものが出ようがないのです。善人があるから悪人があり、悪人があるから善人があるのです。ところが善人も悪人もなくなってしまうから何んでもないです。つまり人間、当り前の事をしておればそれでよいのです。丁度薬をのむから病気が起こる。病気が起こるから薬をのむというわけですが、病気がなくなるから薬も要らないというわけで、自然のままでピンピンして働けるわけです。

「人間が物事を判断するについて、一つの体形があると思いますが」

体形というのは科学的のですか。

「どういうように考えたら、どちらにも偏らない、神様の御意志通りの判断ができますでしょうか」

どういう事が善で、どういう事が悪かという事は分るでしょう。分ればそれでよいのです。何を善悪の標準にするかというと自己愛で、自己の利益のために人を苦しめ、人に災いを与えるという事は悪で、人を良くし、世の中を良くし、自己の利益は第二とし、他人或いは社会を第一にしてやれば、それは善です。ですからそれで分ります。だからオレがやっている事は、これがために苦しむ人が出来るか、楽しみ、幸福になる人が出来るかという事を判断すれば分ります。人の食う物を取るなら、その人は食う事が出来ないから、それは悪です。そうでなく御馳走をしてやるという事は、人が喜ぶから善です。簡単です。体形も何もありません。あまりに簡単で分りやすい事で、そこに定義や学問というものを作る事はないです。

「社会の利潤という事は……」

公平にやればよいのです。これだけ働けばこれだけやる。それからこれだけ賃金をもらっておれば、それに対してこれだけは働く。というわけで、それは常識で考えても分るから、それでよいのです。だから屁のような事を態々難かしくして、態々苦しみを作っているのですから、実に情ない、馬鹿な、困ったものです。その馬鹿さ加減と言ったら無いです。ところがその馬鹿げた事が分らないまでに、人間というものは頭が悪くなっているのです。というのは結局において、唯物教育によって、凡て物質で解釈をするというそのために間違っているのです。唯心の、目に見えないものがあるという事を無視したからです。これは私の本に書いてあるとおり、半分しか分ってないのです。けれどもそういう工合にしなければ物質文化は発達しないから、神様はそういう工合に分らないようにしたのです。

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「坊さんが入信致し、善言讃詞を奉唱するのに、僧籍にあるのでお経を奏げないわけにはゆかないが、お経の後に善言讃詞を奉唱するのは、善言讃詞を軽んずるようで勿体ない。しかしお経だけという事は信者としては……と言うのでございます」

勿体ないという事はありません。

「普通のお経と善言讃詞を同列にするという事は申訳ないと……」

そういう事はないので、結構です。

「順序は……」

順序はどっちにも理窟があります。坊さんという事からゆけばお経を先にという事になります。しかしその人は信者だから、そういう事からゆくと善言讃詞が先にという事になります。

「多分僧籍を剥脱されるだろうという事でございます」

まずそうなります。又その方が結構です。

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「御神体の御奉斎をしておりませんが、御屏風観音様を御奉斎しております場合に、御屏風観音様に朝夕善言讃詞を奉唱するという事はお許しいただけますでしょうか」

それは構いません。祖霊が喜びます。

「御屏風観音様につきまして以前いただいた御教えでは、光明如来様を祀って以後でなければ先祖が苦しむという事でございましたが」

本当はそうですが、しかしそれは実際上、経済的その他の事情があって、最初そうしなければならない場合がありますから、そのくらいは神様も許してくれます。ですからやはり本当のやり方と、一時便宜上のやり方という、一時のそのくらいの事は差し支えありません。

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「宿屋で部屋がないために客間に大光明如来様を御奉斎しておりましたが、今度新館が出来まして、人を入れない部屋を作り、其処に御祀り致しましたが、『日月光』の御額を鼠がかじり、御文字を食べております」

何処に掛けてあったのですか。

「家を直す時に下に置いたそうです」

下のどういう所ですか。

「板の間のようです」

それは神様なり祖霊さんなりが、そんな了簡の者では、そんなお扱いをするような人間なら、止した方がよいからというので鼠を使ったのです。

「食われた額はどう致しましたら宜しいでしょうか」

御詫びして焼いたらよいです。

「申訳ございません。本人も申訳ないと申しております」

だから私の本に書いてあるのです。私の書いた字をお粗末にすると何かあるという事を書いてあるのです。

「他の会から来た信者で、私は存じませんでした」

掛ける所がないのに、どうして掛けたのですか。それは扱いが間違っていたのです。そういう人は本当に悔い改めて……。

「大変に……」

恐縮しているのですか。それは、あなたがよく話して、今度頂く時はこれなら差支えないという事を、あなたが見れば分るでしょうから、それから御下げするという事にしたらよいです。よく額を鼠に食われるとか、雨が染みるという事があるのは、決して偶然ではないので、意味があるのです。そういう時に調べてみると必ず何処か間違ってます。

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「以前に入信した人で、最近信仰が落ちている家庭を調べると、最初から大光明如来様を奉斎し、それも間半(マナカ)の床とか、立派でない床というのが非常に多いようです。これが、順序として光明如来様を奉斎して現在に至る家庭は、信仰も落ちず、順調に進んでおります。そういう事がございましたが、これは順序が間違っているわけでございましょうか」

そうです。それはよい事です。そこなのですが、つまり何時も言うとおり順序があるのだから、最初の信仰が熟しない時とか、言わばその人の霊的位が出来なければ大光明如来様を祀る事はできないのです。それからその家の床の間も相応しなければならないので、家があんまり粗末な時に大光明如来様は、かえって御無礼になるから、そういうのは光明如来様でなければならないのです。それから信仰に入りたては光明如来様が本当で、入りたてから大光明如来様というのは嘘なのです。ただ良くさえあればよいというのは嘘なのです。私が何時も言うとおり、名前を変えてやる場合にも、名前が良過ぎて悪い場合が非常に多いのです。私が最初言霊という事が分った時に、何んでも良い名前をつければよいと思って、良い名前をつけましたが、それが悪いのです。それでおかしいなと思っていたが、神様から教えられた。それは良過ぎるからです。ですからその人に始終接してみて、その人の値打はこのくらいという事が分って、それに合うくらいの名前をつければ大丈夫です。ところがこの人なら良い名前をつけるという人は殆んどないのです。みんな一番ヘッポコな名前をつけた方が丁度良いのです。ですから私はそれからはあんまり良い名前はつけないのです。間半の床というのは何ですか。

「三尺とか四尺の小さい床の事でございます。そういう床はそのままで大光明如来様を御奉斎して宜しいのでございましょうか」

あんまり結構ではないのです。本当は光明如来様にしなければいけないが、しかしそこの事情があるから、よく御詫びして事情が許す限りは……そうかと言ってそれを取替えるという事はまずいから、御詫びをするのです。御詫びをするという事は、つまり順序をはき違えたというその間違いをお許し願いたいと言って、そのままにしておくよりしようがないです。そうしてこれからそういう間違いがないように注意するという事でよいです。

「只今の事に関連しまして、支部は小さい家のために光明如来様を奉斎しており、信者は立派な家である場合に大光明如来様をという事は如何でございましょうか」

それはまずいです。それはやっぱり順序が違います。それも御祀りしてしまったらしようがないが、これからは、最初はどんな立派な家でも光明如来様をという事にするべきです。

「支部が立派になって大光明如来様になるまでは、信者は大光明如来様は止めるという事でございましょうか」

そうです。そこで、長唄の小三郎さんは、小三郎だから成功したので、これがもっと上の大三郎というのなら駄目になっています。だから「大」のついた人は必ず駄目です。名負けと言って、名に負けるのです。名負け(なまけ)者になってしまうのです。それから「明」の字も良過ぎていけないのです。

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「信者で床の間を作りましたが、床の間は手前の壁は塗らないのが法則だそうですが、その人はそういうのは嫌だから全部塗ってくれと言つたが塗つてくれないそうです」

それはどっちでもよいです。そういう事は問題ではないです。わざと塗ってありませんが、その人の気持でどっちでも差し支えないです。それほど重要な問題ではないので、壁土の問題です。塗ってない所の家でも、火事で焼ける時は焼けるし、災難にも遭います。

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「御神前で研究会をさせていただく場合に、御神体に御挨拶をし、大黒様に御挨拶をする事は宜しゅうございましょうか」

研究会でも何会でも簡単に御挨拶するという事は結構です。やっぱり御守護しているのだから。ただあまりに丁寧だと順序が何んだが、ごく簡単に御挨拶するという事は結構です。だから別に祝詞を奏げる必要はありません。ただ、御守護を御礼申し上げますという程度でよいです。全然そういう事をしないという事は間違ってます。

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「床の間の裏側に便所があるのは如何でございましょうか」

構いません。そういう家が多いのですから、それを気にしていたら大変です。

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「前に御伺い申した事柄に、稲荷か狐に関しての事だろうという事でございましたので、考えてみますと、支部に大光明如来様を奉斎の時に床の間の上に稲荷を祀ってあったので、床の間の隅に下し……」

それは変です。居場所が悪いです。大体稲荷というのは庭に祀るのが本当です。

「その前(大光明如来様を御祀りする前です)光明如来様を祀る時に一度外に出した際、支部長が狭心症を起こし五時間ほど人事不省で、父親が一度医者に見せておかなければと、庭に出て気がつき、稲荷を床の間に戻したら治ったという事がありまして……」

それについて私はこう言ってあります。稲荷にも二つある。中途からのと祖先からのがある。祖先から伝わったのは部屋の中で宜しい。それから途中から頂いた稲荷は庭でなければならないと注意してあるはずです。それは祖先から伝わった稲荷です。

「昭和十六年に父親が頂いたものでございます」

そうではない。それは、父親という事は祖先になるのです。

「父親はまだ生きております」

生きていても死んでも、祖先は祖先です。光明如来様を御祀りしてからどのくらいですか。

「一年と少しです」

その時には御断りをしなければいけないのです。

「そう致しました」

そういう点は、光明如来様を御祀りしてから一年以上したのですか。

「光明如来様は四年ほど前に御祀りして、大光明如来様は……」

そうではない、そういう事を区別する事はないのです。

「四年たっております」

それから稲荷を床の間の隅にという事は……。

「光明如来様の時に庭に出してそういう事がありましたので、又そのまま高い所に祀って、大光明如来様を奉斎の時に隅に致しました」

一番最初光明如来様を祀って、稲荷は同時に庭にやったのですか。それとも一年たってからですか。

「同時にだそうです」

それでは私が前に注意した事と違います。一年なり二年たって、それから庭なら庭に移さなければならないと書いてあります。

「それは私の会に入らない内だそうです」

そういう順序が間違っているからで、そのくらいの事は当り前です。これは光明如来様を御祀りしてから、まず三年です。それで急いだ時でも一年です。そうすると光明如来様の光を頂いて改心するから良いのですが、そうでないと狐が怒ってアダをします。それは私の言うとおりにしないからです。

「この度はどういうふうに致しましたら宜しいでしょうか」

今はどういうふうにしてありますか。

「床の間の下の隅で、大黒様と反対の方に祀ってあり、月一度は御供えをしております」

大光明如来様を御祀りする前は何処ですか。

「高い所にです」

それでは全然問題にならないです。それではかえって狐も苦しいのです。又狐と言っても性質がいろいろあります。素直なのもありますし、了簡方が悪いのもありますから、どっちでも間違いないという方法にしておくのが一番間違いないです。次の間はありますか。

「ございます」

そこの信仰はどうですか。

「支部になっておりまして、家族皆熱心でございます」

庭の時はお宮の中にしましたか。

「左様でございます」

おかしな事があったのは何年前ですか。

「五年ぐらい前でございます」

では、もう庭に祀ってよいです。

「お宮を新しく作りますのでしょうか」

そうです。そう大きくなくてもよいです。庭も馬鹿に大きいのではなく普通のでしょうから、丁度よいぐらいのでいいです。あんまり高くもなく低くもなく、大体二尺ぐらいならよいです。

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「明石市の信者で、最近道路計画により、敷地の一部が計画内に入っておりますために、家屋を下げなければなりませんが、現在敷地内に井戸が四つあり、二つは道路計画で埋められ、二つは家屋を引下げるために埋めなければなりません。この場合如何致しましたら宜しゅうございましょうか」

代りのものを作ればよいです。

「それは一つで宜しいのでございましょうか。或いは四つで……」

一つでよいです。それで、こういう事情だから一つにするから、それで我慢してくれというように四つの龍神さんに御断りすればよいです。

「その際に簡単に御祀りをしますのは如何でございましょうか」

その方がよいです。つまりどんな事でも、チャンと理窟に合った事を霊に言えば承知するのです。それを承知しなければ霊が神様にやられます。ところが人間の方で間違っていては、いくらやっても、それは駄目です。

「只今の場合、御断りするのは御神前にでございましょうか、井戸の側でございましょうか」

井戸の側で、井戸に向って言うのです。

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「床の間の落し懸が低くて御写真の御奉斎ができません場合に、床の間の中に光明如来様と並べて奉斎する事は如何でございましょうか」

それは構いません。

「その場合は右側でしょうか、左側でございましょうか」

それは向って右側です。それも難かしいのですが、今はそうでもないが、以前だと問題になるのです。人の道教団がやられたのはそれが主なるものだったのです。つまり御木徳一という教祖の像をニッケルでこしらえてそれを拝ませたのですが、これが一番の根本だったのです。それで自分を真中にして、右側に天照大御神、左側に祖先を置いて拝ませたのです。それで、このやり方は思い上がった、不敬だ、というのが弾圧の根本です。だから私は以前は写真は全然出さなかったが、今日ではそういう事はない……しかし信者はよいが、そうでない第三者が見ると変に見て、大きな野心でも抱いているように誤解されるからそうしてないのですが、今のところはそういう程度でよいです。

「御写真を御神体の右側にお掛けするのと、床の間の脇の方(脇床の上)にお掛けする事とは、どちらが宜しいでございましょうか」

どっちでもよいです。

「御写真を頂きましたが、大きいので掛かりませんので、新しく小さい方を頂きました。大の方は未だ奉斎しておりませんが、何処か他の方に……」

では大きいのと小さいのと両方あるのですか。それなら小さいので構いません。大きい方はやむを得ません。それは御祀りできるようになったらそうすればよいです。それは神様がチャンとしてくれます。

「御写真の事で、天井が低い場合、その上だけ上げるという事は如何でございましょうか」

よいです。

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「最近磁石が南北を指すのが東西に五度ぐらい寄って来たそうで、緯度が変って来たという事です。それが日本で特に強いそうですが、昼夜転換と関係がありますでしょうか」

ない事もないです。これからいろんな事が変ります。それは中心が変っているからです。

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「物理学に対する御論文で、信仰雑話の『⇒宗教と科学』に原子爆弾に対する原理を現代科学に比較して御説きになっておられますが、現代科学で言われている説と食い違いがあるようでございます」

どの点ですか。

「根本は火と水の関係という事はよく分らせていただきましたが、ウラニウム、プラトニウムの放射能によって原子核の破壊が行われると仰言っておられますが、現代の物理学では、今から四、五十年の間の発見では、ウラニウム、プラトニウムという非常に原子量の大きな原素は非常に不安定になっていると言われてます」

原子量というのは何ですか。

「科学的の言葉ですが、一つの原子核の重量が大きいというわけで……」

原子量というと、ウラニウムの重量ですか。原子核のですか。

「ウラニウムは原子が集って原素が出来ております。これを一つ一つに細かく分けるとウラニウムという原子と、それを取巻く電子があります。そうしてこれはみんな放射性原素で、非常に不安定になっているので……」

不安定と言うと、

「原子核が壊れやすい状態です。そうして自然に放っておいても、自然に二つに分裂すると言われております。そうして原子核の中に陽子と中性子という二つが入っていると言われています」

そうするとウラニウムの原素は……。

「ウラニウム原子で構成されております」

それはウラニウムでなくても、何んでもそうです。そうしてそれが或る程度固まると破壊されるのです。それがあらゆる物質の生命です。

「現在言われていますのは、原子核の中に中性子と陽子が入っていて、原子核が壊れると中性子が飛出し、それが他の原子核の中に飛込む。そうすると非常に不安定な状態になっているので、その原子核が壊れて、それより中性子が飛出すというようになってます」

それは、人間が死ぬと伜が跡を継ぎ、後又子供が出来て持続しているのと同じ意味です。

「その原子核の破壊というのは中性子によって破壊されるという事を言ってます。ただエネルギーがどうして出るかという事に対しての説明は、一つのウラニウムの原子核が破壊されると、別の原子核が出来る。二つの原子核が出来る。それにさっきの中性子が出来る。そうすると元の原子核の重量と、いわゆる伜の原素の重量を比較すると、その間に千分の一ぐらいの質量が無くなっています」

それは息子の方が軽いのです。それはその訳です。息子の方は育ってないからです。

「アインシュタインが言っておりますが、凡ての物はエネルギーに転化すると言ってます。一グラムの物をエネルギーにすれば、数量は忘れましたが……」 

数量を忘れるという事が間違ってます。数量などがあるものではないので、無限なのです。今の科学者が千分の一とか、一万倍とか言っても、それは本当はもっと細かいので、一億万倍、もっと細かい。一兆万倍、もっと細かいのです。それを無限と言えば、それで済むのです。

「アインシュタインはそう言ってます」

ああいう人達は、結局未だ手前になるのです。ただ科学の方はだんだん細かく推定したり、発見する手段が進んで来たのです。だから私から見れば御苦労様な事です。結局、無限という事が分れば、それでお終いです。

「御伺いしたい事は、質量エネルギーという事が、水素から解放された火素ではないかと思いますが」

質量エネルギーが無限なのだから、重いも軽いもないので、やっぱりナンセンスです。或る原素は重いが、それがだんだん変化したりいろいろすると軽くもなるし、絶えず破壊と創造が行われているのだから、どうという事は言えないわけです。ただ、今のウラニウムを放射する場合に、ウラニウム自体が放射するのか、何かに向って放射するのですか。

「十キロぐらいの物を、一つは九キロ一つは一キロに分けて、これを合致させると、量が少ないと爆発は起こらないそうですが、それを或る程度の量にすると、ウラニウムは互いに破壊し合つて、連鎖し合って、というこれが今の原子爆弾の原理だそうです。物理学の方では、中性子によって破壊されてゆく、その時に質量エネルギーが放射されるとされてます」

それは未だ中途であって、未だその奥があります。二つを合致させた時に空間の水分を吸収する活動的力が出るのです。それで或る範囲の水素を吸収してしまうのです。そうすると、一つの水素がない空間が出来るので爆発するのです。ですからそのウラニウムが爆発するのでなく、爆発させる作用が起こるのです。 私が書いているとおり、地球から水分を無くすれば、一瞬にして爆発する。そこで火素が爆発しないように水素が中和しているのだから、どっちかに片寄ったら全然駄目です。水素が無くなれば火素は爆発し、火素が無くなれば水素は氷結すると書いてあるが、その原理です。ですから極端に水分を吸収すべき物質が出来れば破壊ですが、原子爆弾というのはその原理によって生まれたものです。しかしその原理までは、今の学問では分らないから、衝突する事によって爆発すると言うのです。その場合は非常な速度ではないですか。

「どの程度か存じません」

つまり速度です。これによって活動力が起こるのです。それが破裂すると、これだけの間の空間の水素分を一瞬にして吸収してしまい無くなってしまうので、そこで爆発が起こるのです。それは針の穴ぐらいのものでも、爆発すれば次々に爆発してしまいます。一瞬にして水分が抜けるのです。

「それは中性子が水素を無くするというのではないのでしょうか」

中性子というのではないのです。その場合には中性子とか何という事でなくて、学問では其処までは分らないのです。一秒の何万分の一か、ごく瞬間で、時間は分らないぐらいで、パッと行った瞬間にそこに活動力が起こるのです。それで今言う一番の事は、こうして(浄霊で)病気が治るが、此処から発射する粒子というのは、どのくらい小さい粒子か分らないので、そこで無限と言うよりないのです。無限の火素――火の本を放射すると、人間の霊の内のつまり汚物で、これが又、この粒子というのはどのくらい細かいか分らないので、やっぱり無限ですが、それにぶつかって行って、霊の内の不純物――汚物を焼くのです。そこで汚物が無くなってきれいになるから、それが肉体に移写して、痛みがとれ病気が治るというわけで、これが科学的原理です。ですから霊の曇りなり、又放射する火素なりの粒子というのは、やっぱり無限です。それで無限であればあるほど力が強いのです。そこで神様の力というのが一番強いという事は無限のためです。無限という事は、ごく細かい、細かい極端が一番力があるわけです。それで一番の有限は馬力で、馬の力と言うので、あんなに大きなものから出るのです。人間の感情で、ああとかこうとか考えるが、その粒子というのは実に微少なもので、分らないくらいなものです。ところが動物はそういった感情は少ないのです。人間のように哲学を考えるとか恋愛をするという事はないので、人間はそういう事の、智能とか感情という粒子が細かいので、動物の方は粗いので、深い所まで、人間のように複雑な感情は起こらないのです。単純なのです。こういう事でも、程度の低い高いがあるのです。それで人間でも馬鹿とか愚鈍な人間は、やつぱり粒子が粗い奴です。

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「物性論につきまして、これは湯川博士が唱えたとありますが、これは湯川博士が唱えたものではないので……」

そうです。前から唱えているのです。しかし湯川博士が一番熱心に言っているのです。ああいう学説というのは、相当前からいろんな学者が言つているのです。それが新発見という事ではないのです。アインシュタインでもそうで、今まである説を、ちょっと上に行くのですが、そうするとその人が発見したようになるのです。

「あれはやはり外国の方でだんだん発展したもので、粒子という説はしておりません」

そうです。若し粒子なら性という事を出すわけはないです。だから物性論というのは本当に言えば仮定のものです。要するに、そうなるのだから、そういうものがなくてはならない。そういうものが活動しなければならない、という想像の範囲です。

「未だ発見されてない粒子というように考えますと、非常によく分らせていただけます」

そうです。そこまで科学は来たのだから、物性論は宗教の方に一歩入っているのです。

「物性論は素粒子論とは別の方に進んでおり……」

別の方向であって実は一つの方向です。別の方向という事は、物性論を行けば本当は科学ではないのです。だから分野が違っているから別のようだが、素粒子論を縮めれば、どうしても物性論に行かなければならないのです。ですから今は違っているという事は当然ですが、無関係に違っているわけではないのです。

「それは出発点が同じであって、素粒子論というのは窮極の粒子の性質を研究する学問です……」

ですから霊と体というわけです。素粒子論は体の方の極論の進歩したものです。それで物性論は霊の方です。ですから別々のようだが、結局密着したものです。

「光新聞の霊的に見たる湯川博士の功績という中に、中間子の発見について御説きになられてますが、中性子の発見と、そうして中性子を陰陽を合体した一つの新しい粒子として、中間子として御説きにならず、中性子の発見であるとしてありますが」

そうですか。しかし私はそういう事は科学的に説くのではないのです。というのは、そういう事は始終変化しているのだから決められないので、一般に分りやすいように書いただけです。そこで私が言いたい窮極は、無限だという事です。

「その後に中性子として、中間子と中性子の二つの御言葉が出ており、中性子は力であると御書きになつてありますが……」

いや、力というのは無限です。それで中性子とか中間子というのは有限ですから力ではないのです。力でも、物質的のものです。それで素粒子と中間子の関係はどうなっているのですか。

「素粒子というのは凡ての粒子で、中性子はその中に含まれている。それを全部合わせて素粒子論と言っております」

何時かアメリカでの宇宙線撮映の時に数個の点が写った。それが中間子という事で、湯川博士のその事が実験物理学で裏付が出来たという事が功績でしょう。だからつまり粒子というものの最も細かいものが実証されたわけです。

「粒子としては、中間子は電子の二百倍から三百倍という事になってます」 

しかし写真に写ったのでは、今までで一番細かいのです。第一科学の方では宇宙線は未だ分らないのですが、そういうものは分り切ったもので、これは信仰雑話の中に書いてあります通り、つまり星が地球を牽引しているその霊線という事を書いてあります。

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「ユダヤ文化は御説きになってますが、ギリシャ文化についてはありません。ユダヤ文化とギリシャ文化の釣合というものは……」

同じものです。

「民族的には違っておりますが」

民族的には違っているが、今の唯物文化の出発点はユダヤから出たのだから、ギリシャにしろ、ユダヤ文化ばかりでなく、霊的文化、宗教文化も大いに発達したのです。

「ギリシャとユダヤの文化は全然違っております」

それは違ってます。ユダヤの方が遅いので、ギリシャが早いのです。その時分には未だユダヤ文化というものはなかったのです。ユダヤ文化というのは割合に遅いので、最近です。本当にユダヤ文化が著しくなったのは科学文化からです。

「文芸復興後期においてはギリシャの……」

何んでも決めるから、そこのところが分らなくなるのです。だんだん育って行って、一つの名前がつくようなものが出来るのです。そうして或る限度に行くと一ぺんに飛躍して、そこで名前がつくのですが、ユダヤ文化が出来る準備期間というものは相当長い間です。

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「生命の力の限界ですが、それから個人の持つ力、例えば自然農法が初年度は非常に力を上げてその比率の割合は、何年かやった方が割合にのびてないという見方がありますが、これは肥毒に押えられていたのが、強い力で上昇したようですが、そういう植物の力にも限界というものがあるものでございましょうか」 

それはあります。

「例えば二石収穫している者が四石にするのは楽ですが、四石のを八石にするのは――というような事がありますので」

そういう事はあります。人間が生きる生きると言っても、三百や五百もという事は出来ません。限度があります。しかし限度があると言っても、今のところは限度はあるが、しかし人間が増えて、必要があると、限度を突破するかもしれません。

「人口の加減に乗じて過不足なくという事がありますが、今年の日本がこういうような不作で、アメリカでは限度を越えて麦が沢山穫れたという事は、そういう意味もあるのでございましょうか」

そうです。日本人が間違ってそういう事をしているから、仕方なしにアメリカの方をそういうふうにして、神様の方では、皆殺しにするわけにはゆかないので、目が覚めるまで繋いでゆかなければならない。そういう点があります。

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「御浄霊の事につきまして御伺い申し上げます。明主様より御守様の御文字に来て、それが私共の魂に影響があるわけでございましょうか」

あります。魂というより霊です。

「そうして御光が肉体から出て浄霊を致しますが、その際、自分で自分を浄霊する場合に、霊の物質化した血というものは循環してますが、自分に悪い所があるとして、御浄霊する手にも、悪い所にも、血はグルグルと廻っております。この毒素が自分の掌の浄霊で焼き尽くされますが……という事につきまして……」 

それはあります。それは此処から出るのは強く出るのです。ですから此処(肘)の霊よりか、此処(掌)の霊がウンと強いのです。

「それは自分の強い霊を通じるからでございましょうか」

いや、人間はそういうように出来ているのです。こうやった場合に、御守からこう(腕を通って掌へ)行くというように、組織がそういうように出来ているのです。そういうように神様が造られたのです。

「他人を浄霊する場合とは……」

同じです。

「自分で自分をする場合には弱いという事があるのでございましょうか」

そういう事はありません。ただ他人をやる時より効かないように思うのは、自分の霊がもうきれいになっているから効きが薄いように思うのです。他人の場合は霊が汚ないから、非常に効くように思うのです。

「救世教以外の他の宗教でも、さすったりして病気を治している事がありますが、やはり何かの霊が働く事と思いますが、私共がさせていただく場合に、明主様の御光以外に、背後霊が手伝うということはないものでございましょうか」 

ありません。

「絶対にないのでございましょうか」

そうです。若し手伝われたら事です。効かなくなります。又手伝うというそういう素晴しい霊があるわけがないので、御断りするよりないのです。それからもう一つは、他の宗教でやる霊は月の方から来るもので、これは固めるのです。ですから他の宗教でやるのは、かえって逆になって固まるので、医学と同じです。

「かつて私共が信仰していた霊が手伝う事もあるものかという事を考えましたので……」

とんでもない事です。そういう霊も恵みを受けるのです。今まで信仰したようなものは屁のカッパみたいなものです。邪魔はするが、手伝うという事はできないのです。

「それでだんだん邪魔をしなくなるという事にはなるわけでございますので……」

そうです。

「そういう霊が役に立つという事はどういう事でございましょうか」

救世教に入るわけです。

「そうして未入信の者を救うという事でございましょうか」

そうです。そうして手柄を立てようというわけです。ですから兎に角他の宗教や他の事では、救世教とは比較にならないほど違うという事をよく心得ておかなければならないのです。他の方の霊は虫ケラぐらいなものです。他の神様、仏様というのはごく小さなものです。こういう点は大いに徹底しなければならない事です。私はいずれ書こうと思うが、浄霊で何故病気が治るかという事は一番急所です。

「祖霊さんに向って、“祖霊さんもよく御願いしてくれと言ってやったら良くなった”という事がありますが、それは祖霊が……」

そうではないのです。霊的に、狐、狸が憑っている場合に、祖霊がやっつけるのです。

「正守護神というわけでございましょうか」

正守護神もですが、場合によれば祖霊も手伝います。普通は正守護神です。しかし祖霊を拝んだ場合には祖霊です。その代りそれはただ、今言う霊的病気の場合です。それから、或いは他の祖先が気づかせたいというわけでやっている場合に、又祖先も頼まれればやらないわけにはゆかないのです。そこでその祖霊が行って、“お前もういい加減にしろ、もうそんなにいじめてはいけない”というわけです。ですからどんな病気でもというわけにはゆかないので、霊に関しただけです。

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私が筆で光という字を書くが、それを懐に入れるとキリストと同じような奇蹟ができるのだからそうするとキリストの値打というものはどのくらいかという事が分ります。ですから本当言うと釈迦でもキリストでも、やっと私の子僧ぐらいなものです。しかしそう書くと先では疑がって、信用しなくなるから書かないようにしてますが、本当の事が分ったら大変です。第一熱海の地上天国は何万年も前から石とか地形とかを準備してあるのですから、そうしてみると私がする仕事は偉大なもので、想像もつかないものです。私自身がそう思っているのです。神秘幽玄なものです。未だ口に出さないいろいろな事がありますが、兎に角驚くべきものです。だから神様が、間違った事や悪人や善人を作っていろいろやっているが、それはそういう事をしなければ進歩しないから、そのためにやっているのです。それでお釈迦さんが“一切空”という事を言ったのは真理です。そういう点においては流石に達見です。あの時代によくああいう事を言ったものです。

(垂二十七号  昭和二十八年十二月十五日)