十一月一日
今年の自然農法は馬鹿に成績が良いです。特に岐阜県が良いです。早くも成績が分りました。何時もは佐渡方面が成績が良いのですが、尤もはっきり分るのは春になってからでしょう。
「昨日見ました所で、未だ稔っていないので、延ばさせるように交渉致しました」
できるだけ長く置いておく方がよいです。稲というものは充分に稔らした方が本当なのです。つまり育つだけは育たせた方がよいのです。だから子供でも、教育を早くするのはいけないのです。今の人間が馬鹿になるのは、学校教育を早くしすぎるためです。幼稚園などでも、未だ六つか七つですが、それで学校に上げるというのですから、脳は未だ発達しないのに教育するために、今の人間は上面は利口だが中は馬鹿というわけで、育ってから超愚になってしまうのです。今の人間は、稲で言えば早稲(ワセ)なのです。
「今年のように悪いようですと、稲の名前も変えなければならない事になりまして、“イイネ”というのは一つも無い事になります」
悪いね(悪い稲)になります。しかしよくも此処まで迷信を叩き込んだと思います。何んでもなく分る事ですが、実際、間違った事や悪い事を、よくも信じさせたもので、その腕前と言うか、それには感心します。
「最近肥料会社の宣伝のようでございますが、三俵か五俵しかない田に、刈った稲を持った人を入れて、写真をとって、十何俵穫ったという事で、大変にお祝いをくれるそうでございます」
やっぱり超愚の方です。今に病気がこのとおりになります。片端(カタハシ)から病人が出来てバタバタと死んでしまいます。それが恐怖時代です。農作物の方が先になったのです。
「やっぱり御浄霊が霊で農作物が体という、霊体の関係がありますのでしょうか」
そうでもありません。
「人間の方は月(ニクヅキ)の入りました膿作物で、膿の固まりでございますから」
そうです。
「いろいろと御教えをいただいておりますので、こう言って笑えますが、若しこの事を教えていただいていなかったら大変な事と思います」
大変な事です。つまり人間は薬をのみ、農作物に肥料をやるというその理窟は同じなのです。今年は外米の輸入やいろいろな事で誤魔化しておくが、来年の事を考えたら、実に居ても立っても居られないと思います。この間気象台の藤原博士が“今年から三年間は凶作型だ”と言っていますが、これほどでなくも、来年、再来年が又不作としたら農家はもうやって行けません。それで国としても、輸入すればそれだけの金を払わなければならないから、金がないから、どうしても何か彼にかと金を借りる算段をしなければならないのです。そうしてだんだん条件が悪くなると利息も高くなります。そうすると結局インフレの因になります。ですからこれ以上貿易が悪いとインフレの可能が非常に濃厚になります。それで日本の経済界でおかしいのは、借金すると成功したと喜んでますが、借金したら必ず返すので、そうして利息が出るのですから、悲しむべき事ですが、いよいよ外資導入をするとか言って喜んでます。今の金詰りとか中小工業家が苦境に陥つているというが、原因は結局借金です。又日本ぐらい借金の好きな国はありません。日本人というのは、ただ目先だけを考えているのです。十年、二十年先の事は考えないで、その場限りの僅かの時間良い思いをすればよいというのです。ですから薬もそのとおりで、先はどうなろうが一時良ければよいというのです。
「人造米の松浦というのが特許をとりましたが、全部の米をつぶして人造米にすれば助かるだろうと言っております」
情ないです。本当の目先だけだから苦しいのです。借金して一時良い、その先の考えはないのです。この一番極端になったのが泥坊して一時の間女を買ったり酒を飲んだりして享楽するという心理状態と同じです。つまり人間が三年か五年で命が無ければ、それは確かによいでしょう。しかし六十、七十までも生きるとすると、それはどうもピッタリしないわけです。つまり目先ばかりを考えるという、こういう日本人の考え方が直らなければ駄目です。だから借金しても、一時楽になる事ばかりを考えて、先の苦しみという事を頭に入れてないから、金詰りとか、いろいろと苦しむという事は、自分で作っているようなものです。政府のいろんな政策にしても、みんなその場限りの事であって、ちょっと良い事だと喜び、少し悪い事だと悲観しますが、大体日本の総ての考え方というものがフワフワしていて、つまり超愚になってしまうのです。それで一時気持が良いからというので麻薬が流行るのでしょう。
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今私が書いているのは、普通の薬と麻薬との違いは、時間の遅い早いがあるだけで、結局同じだという事を書いてますが、一切が麻薬中毒になってます。それで至急特集号をこしらえます。「⇒日本農業の大革命、無肥料で初年度から五割増産」という題です。これを農家に一枚売りをするのです。これが一番よいと思います。私は前に大本教に居る時に愛善新聞というのを、私が東京で一番主になって売らせたのですが、なかなか売れるものです。それから観音会になってから「東方の光」という新聞を出して売らせましたが、これも割合に売れるものです。それで今度のこの標題だけで飛び付くだろうと思います。これも妙なもので、只で配布してもよさそうなものだが、只というのは読まないのです。それで幾らかでも金を出したものは読むのです。これも前の愛善新聞、東方の光で経験がありますが、只でくれてやったのは読まないが、幾らかでも出したものは読むのです。これは人間の人情で、そういうものなのです。今の日本の農家は約六百万だそうですが、一枚売りと方々での座談会の時に、聴衆が喜んで買わないわけにはゆかないから買うというわけで、相当数出ると思います。それで私は百万出したいと思います。そうすると六分の一ですが、普通の新聞でも大抵五人は読むとしてありますが、五人が読むとすると五百万で、忽ち全国的に知れるだろうと思います。おまけに今農村で一番苦しんでいるところに、これをやったら一番の魅力です。腹の減っているところに御馳走を口に入れてやるようなものですから、飛び付いて喜ぶだろうと思います。百万を目標にして大いに活動してもらいたいと思います。やり方のいろいろはみんなで相談して然るべき方法をとるでしょうが、大体今年の凶作というのは、神様は実にうまくやられたわけです。しかもこっちの方は深掘りを発見したために初年度から素晴しい成績なのです。昨日伊野さんの最初からの事を見ましたが、大沼さんが書いたのですか、なかなか文章が上手です。あれなら小説ぐらい書けます。大したものです。小説を読むぐらいの興味があります。今度単行本を作りますから、栄光では長過ぎますし、あれだけの本では魅力がないから、もっとしっかりした本を作って大々的に新聞広告をして、一般が読むようにしたいと思ってます。その中の記事としては非常によいと思います。なかなか苦労してあれまでやったという事は、つまり伊野さんという人の経路は非常によいです。あれで見ても反二十俵というのはそう困難ではありません。普通になるとみてよいです。そうすれば今日の四倍ですから大変なものです。
「本当に日本は救われたと思いました。“⇒アメリカを救う”などのように、ポスターに“日本は救われた”と標語してやってはと思います」
よいです。“⇒アメリカを救う”は救うだけで、今度は“日本は救われた”のだから、序幕と終幕との違いさです。それでどんな事をしても二、三年中には日本人全部は頭を下げます。下げないわけにはゆかなくなります。そうするとこれが浄霊の方に良い影響が行きます。救世教の奴は医学であんな事を言っているが、自然農法を見ると夢のような事が実現した、そうしてみると医学の方も本当かもしれない、という事になりますから、その方に対する一つの良い影響も見逃せない事です。とに角信用ですから、全般的に救世教を見る目が全然違って来るわけです。それがこっちの一番狙うところなのです。そこに丁度、二、三日前の読売に「⇒救世教奇蹟集」の広告が出るし、同じ日の新聞に霊友会事件が出たが、あれも偶然ではないので意味があります。あれは日蓮上人が、静岡問題の時に私が留置場に居る時私に憑って来て、非常に謝って“自分が大変間違った事をしたために、赦してもらいたい。それでこれからは日蓮宗を、日蓮宗は自分の方で、できるだけ早く分らせるようにして、大いに救世教のために尽くす”というような事を言って約束したのです。あれもその一つの現われです。日蓮上人が日蓮宗をつぶしてしまうという事になるのです。尤も日蓮上人が地獄で苦しんでいるのを私が救ってやったのだから、そのお礼がてらです。何時か栄光に出しましたが、天理教の教祖も憑って来ましたから、今に天理教にもそれが現われます。人間と違って、神様の約束というものは決して間違いがありません。
「最近の立正交成会のお蔭話は、医者にかかり手術をしたが、信仰しているので、お蔭様で良くなった、というのでございます」
滑稽なものです。既成宗教というのはあんまり低級で、テンデ問題になりません。自然栽培で日本人全部に頭を下げさせて、それからハワイが今に全島が救世教になってしまうでしょう。そうしたらアメリカはじっとして居られません。どうしても自分の方に来てくれという事になります。そうなればアメリカは割合に楽ですから、案外早く行くでしょう。唯、カトリックが控えているからそう簡単にはゆかないでしょうが、相当な勢力は植付けられます。だからこっちが地上天国を世界的に造るという事も、以前ですと、何時どうして出来るか、ちょっと見当がつかないが、今ではとも角見通しだけがつきかかって来ました。大本教のお筆先に「三千世界のびっくり箱を開けると、あまり大きな取違いで、アフンとして開いた口がすぼまらぬぞよ」というのがあります。自然農法などもやっぱりびっくり箱です。それで中京方面から始ったという事は、これは神様の方はそういうふうになっているので、当時観音教団と言って玉川でやっていた時は、それまではホンの東京都内ぐらいを目標にしてやっていたのですが、あの時に渋井さんが、地方をやってみたいと言うので、それもよかろうというのでやって、一番先が中京、名古屋方面です。渡辺さんもその時分の人でしょう。そうして馬鹿に急激に発展しました。それで今度の自然農法と同じ経路です。つまり伊都能売で、真中ですから、そういうふうな形になるわけです。それで何時も言うとおり、経と緯が結ばるのですから、緯がアメリカで経が日本で、どうしても経と緯を結ばなければならないので、それが救世教だというわけで、それがだんだん近寄っているのです。救世教がアメリカと日本を結ぶというような形をとりつつあるのです。ですから「⇒アメリカを救う」という本はその最初の第一歩です。それで、まずアメリカにゆくにはあんまり遠いから、間の飛石がハワイなのです。まずハワイに足をつけて、そうしてアメリカに行くというわけで、神様の方はチャンとそういう工合にできているのです。お筆先に「神は水も漏らさぬ仕組を致してあるぞよ」というのがあります。
この三日にアメリカの有力な新聞の通信員か何かが来る事になって、救世教に関するいろいろな事を聞きたいというのです。それで自分の所の新聞に一番先に出すからして、若し外の新聞が来ても、そのつもりで、なるべく話をしないでくれ、自分の新聞が先鞭をつけるというのです。又、広告は出してくれるなというのです。広告を出すと、広告を出したからそのお礼に記事を出したと見られるのは面白くないからと言うのです。あっちはそういうふうになっているのでしょう。今年は二十八年ですから、つまり五、六、七とこれが済んで八年から開けるというわけで、今年から八、九、十と行って、十は結びですから、丁度昭和三十年になると素晴しい世界的地盤ができるわけです。それから世界的宗教としてだんだん発足してゆくわけです。ですから時節です。お筆先にも「時節には神も敵わぬぞよ」「時節ほど有難い怖いものはないぞよ」とありますが、お筆先というのは実に簡単にはっきりと言ってあります。この怖いというのは悪い者には怖いので、有難いというのは善の方には有難いのです。
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「明主様は八日に御立ちになられますが、皇太子殿下は八日にお帰りになりますが」
皇太子殿下は霊的には私と非常に関係があります。将来私がいろんな事を教えるようになるでしょう。そういう時期が来ます。やっぱり誕生日が同じで十二月二十三日ですから。
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農業の話ばかりになりましたが、質問があったらどうぞ。
「キリスト教の各宗派が分裂するのに、カトリックだけは信仰を深く持ってますが、これは機構によるものでしょうか、教義に理由があるものでございましょうか」
理由がない事もないが、あれは正統だからです。キリストが中心になっているのです。外はみんな枝なのです。ローマのヴァチカンがキリスト教の本部というわけです。それで伝統的にとに角あそこが、丁度マホメット教ならメッカというわけで、それが一つの伝統の本拠だからで、そういうわけです。
「教皇を選定するというのは合理性があるわけでございましょうか」
あそこは教皇で、ローマ法王と言うのです。だから新しく出来ても歯が立たないのです。合理性はあるわけです。
「合理性と言いますと、カトリックは政治的にも動いておりますが」
そうです。昔は政治的に実権を握つていたのです。
「政治的に動くという事も合理性があるものでございましょうか」
そうです。だからあの時分に政党と宗教が一致したのです。それであんまり宗教に勢力を集中したので被害が起こったために、今度は別に宗教を切離して、政治と宗教が出来たのです。ですからローマ法王というのは絶対権を持っているのです。それは日本の天皇以上でしょう。なにしろ生殺与奪の権を握っていたのです。法王の一言によって罪も許されたのです。ですから裁判も法王庁で行われたのです。そのために一時大変な権力になったのです。それで英国などは天皇の位を低くしたのです。そのために英国は良くなったのです。そういった政治の力を強くするというのが悪いので、それに反対して出来たのがアメリカです。アメリカの発展というのは、天皇がないから発展したので、一つの権力があるとそれに押えられるから発展がないのです。人間というのは慾の固まりだから、骨折れば幾らでも出世ができる、幾らでも収穫を得られるという、競走の自由という事で国が発展するのです。丁度日本の戦国時代と同じようなもので、あの時分には偉い者は出世放題というので、秀吉のような者が出たのです。ところが徳川のように非常な実権を握ってしまうと、偉い奴は出なくなります。むしろ偉い奴が出るとやっつけてしまうというわけで、泰平は泰平だが、だんだん疲弊していって、その結果王政維新というものができたのです。だからどれが良いかという事は言えないので、うまく出来ているのです。それは大きな目で見ると自然の動きです。何んでも一つの自然というものが一切を支配しているわけです。これは大きい事でも小さい事でも同じです。虫がわくという事は其処が汚なくなるから、神様は浄化しなければならないので、浄化するには虫をわかしてその虫に汚ない物を食わせるわけです。これが今度の報告にあった、貯蔵米に穀象虫がわいて米を吸殻みたいにしてしまったというが、これはそういうわけです。米の中に肥料という汚ない物を含んでいるから、そこで虫がわいて肥料分だけを食っていったわけです。そこでガラガラになってしまったのです。人間の腹の中にも蛔虫とか条虫とかいろいろわくが、それは腹の中にいろんな汚ない物が溜まったから、それを掃除しなければならない。そのために一つの生物がわくという事で、やっぱり自然なのです。それで、泥坊や人殺しがあるという事も自然なのです。人間がずるい事をして金を溜めたり、買ったりする。そこで自然に泥坊というものがわいて、汚ない物をとるのです。即ち人間が泥坊ができるようにするのだから、ずるい者は神様はどうしても赦すわけにゆかないから、泥坊というものを作るわけです。そうすると泥坊というものが神様のために大変な良い事をしたわけですが、しかし泥坊という悪い事のために裁かれるわけです。それから火事というのは、いろんなずるい悪い事をして造るから罪が溜まっているから、家が穢れているから焼かなければならないわけです。ですから火事が多いという事は、ずるい奴が多いというわけです。ですから火事というのは理窟に合わないようにして燃えるものです。昔の天明の振袖火事というのは、娘の振袖に火がついて、東京中が火事になったのですが、それは理窟に合わないが、そういう事になるのです。それでは鉄筋コンクリートで焼けないようにしたらどうかというが、これも結局掃除をしなければならないので、この間の欧洲戦争のようにローマとかをドイツが爆撃して壊してしまったわけです。これはみんな浄化作用なのです。戦争も浄化作用なのだから、幾ら国際的の条約を結んだところで、どんなに軍備をしたところで、戦争が始まる時には必ず始まるのです。ですから第三次戦争を逃れようとしてアメリカなどでやってますが、やっぱり駄目なのです。私が何時か書いたように、戦争を逃れるには間違った事をしないで、そういった穢れを溜めないようにするのが戦争から逃れる方法で、そうでなければ決して逃れられないのです。第三次戦争を幾ら逃れようとしても、汚ないものを溜めれば駄目です。どんなに完備したものでも、地下を作っても、原子爆弾というのを作って焼いてしまうのだから駄目です。第三次戦争は必ずあります。それはどうしても掃除をしなければならないからで、それが宇宙の原則です。ですからそういう見方でみればよく分ります。幾ら養生しても消毒をしても、やっぱり病気は減りやしません。この病気が良くなると思うと外の病気が悪くなるのですが、それは根本を知らないからです。だから根本をいろいろと教えてやってもなかなか分らないのですが、みんな超愚になってしまっているからです。総てにそういうような見方をすれば分らない事はないので、簡単に分ります。肝腎な事を知らないで年中心配したり苦しんだりしているのです。つまりわれわれの方は個人的に浄化作用が来るが、神様の方は全体的に浄化作用をなされるのです。この間も書いたとおり、水害なども土を穢すからで、或る程度まで穢すとどうしても洗わなければならないので、そこで雨とか高潮によって肥毒を掃除しなければならないのです。だから台風は人災だというわけです。
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「信者で幼稚園を致しておりますが、装飾のために生徒が天井とか壁にいろいろな物を貼ります。明主様の御額をいただいておりますが、如何なものでございましょうか」
それは構いません。花などは上にあっても差し支えありません。花というのは別の意味です。鳥が神社の上に上って糞をたれても決してお咎めはありません。それで前に箱根でみんなが泊る所が私の所より上になっていたから「鳥の家」という名をつけたのです。ですから中に入った人間は鳥になるわけです。
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「色は白から始まり黄金、紫というように、言霊もアからンに終るのは関係があるのでしょうか。白から始って黒はどの辺にあるのでしょうか」
白から始まるのではないのです。とに角太陽の光線が七色として、それをグルグル廻すと白になるでしょう。そうすると白の方が終りになるのです。色と言霊とは違います。色の方は目で見る方で、言霊は耳で聞く方です。それからアとンという事は、「阿吽(アウン)の呼吸」と言って天地の事です。アは天でンは地です。それでンという事は生むという事です。ですからアイウエオです。ですからンがお終いという事は地になるわけです。
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「信者で寄留地のお寺で葬式をし戒名をつけてもらいましたが、本籍地の方に行ったところが本葬をして戒名もつけ変えなければいけないとの事で、更につけ替えましたが、どちらが本当でしょうか」
もう仏界は無くなったようなものだから、どっちでもよいです。
「一つにしても宜しいでしょうか」
一つにしてもよいし、二つあってもよいです。なにしろ仏界というものがもう無いのだから。けれども無いと言っても、代りのものが出来たかというと、代りのものも出来てないので、霊は宙に浮いているようなものです。従って戒名などはどっちでもよいので、意味はありません。いずれ私は仏界を作る事になってます。救世教の信者の祖先というのは、みんな救世教の本部とか支部に霊が来てますからそれでよいのです。此処なら此処がもう天国になっているのだから、そこでみんな非常な活動をして働いているのです。だから仏教の方で救われたのと違います。仏教の方の極楽の霊というのは、私が前に霊をやっていた時に霊から言われるのは、極楽というのは楽は楽だが、働く必要がないからつまらないと言うのです。自分は働きたいから、神様の方の世界に行かしてもらいたいという事を幾度も聞きました。極楽というからして、極く楽は楽なのですが、活動という事はできないのです。ですから年中歌舞音曲をやり、碁将棋をやってますが、そういう事が好きな人はよいですが、働く事が好きな人は困るのです。救世教信者の先祖というのはみんな働いてます。その霊というのは何十万何百万と大変なものです。いずれメシヤ会館の方が出来てから冠婚葬祭の事もボツボツやるつもりです。
「救世教信者の年回忌はお坊さんの方でする必要はないのでしょうか」
仏法は無くなったのです。しかし仏界はあるのです。だからこっちでできるまでは居所が無くてはならないのです。そこで今はまだ必要なのです。それからもう一つは今までお寺ならお寺でやってお寺参りにも行っていた者が止めてしまうという事は、救世教が誤解されるのです。ですから今までどおりやっていた方が世間体もよいし、坊さんも喜びます。今までどおりにしている方がよいです。私もお寺には附け届けをするし、今までどおりにやってますが、やはり喜びます。キリスト教などでは日曜に教会堂に行っても差し支えありません。そうするとキリスト教の牧師も、救世教は非常によい、信者をとる事はないからと好感を持ちますから、それがよいのです。救世教は酷い、信者をみんなとってしまうという事になると、その恨みの想念が多少の煩いになります。そういうものが救世教の敵ではないので、みんなこっちが抱擁しているものの中にあるのですから、良くしてやっておいた方がよいです。キリスト教も仏教も、あらゆるものが救世教の中にあるのですから、それをやっつけたり叩いたりするという事は、やっぱり自分の中にあるものをやるという事はないです。やっぱり眷族というように思っていればよいのです。
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「入墨をした人は霊的に何か関係がありましょうか」
何もありません。
「差し支えないものでしょうか」
差し支えありません。あれは皮だから。
「お灸の跡とどちらが宜しいでございましょうか」
どっちと言って、大した事はありません。そういう事は屁みたいな事です。それどころではないので、つまり今苦しんでいる人を如何にして助けてやるか、如何にして仕合せにするかという事が眼目です。自分の体の皮など問題ではありません。自分は彫物を彫っているから人を助ける事はできないという事はありません。手が一本無かろうが、そういう事は何んでもない事です。
「そういう人を今助けております」
それは結構です。
「入信させていただいても宜しいでしょうか」
てもというのは、とんでもない事です。そういう人こそ余計入信させなければならないのです。ですから本当に清い人はそういう必要はないので、まず勝手にしておいてもよいですが、悪い奴や穢れた者を救うのが本当の救いなのです。そういう考えでゆくと、今の世の中は非常に穢れているから、引込んでいては全然駄目です。穢れた苦しんでいる奴が多いから助けなければならないのです。あなたが今言った考えと反対の考えが本当です。私は大本教にいた時に“自分は天国に救われたい、どうしたら救われるか”と言うから、私は笑ったのです。“自分はそういう事は思わない。自分は多くの人を天国に救ってやりたい、それで地獄に行くのなら構わない”と言ったのです。穢れた人や苦しんでいる人ほど助けてあげなければならないのです。助けると言っても、肉体ではなく霊の方です。ですからお灸の跡があろうが、手が無かろうが、片端(カタワ)だろうが、そういう事は問題ではありません。
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「先ほどの有肥の米はガラガラになったという事につきまして、二十年ほど前にミロク大黒様の御祭りを致しました時に、金粒米をいただきました。あの当時の米ですから無論肥料をやってあるものと思いますが、今日も何んの変りもなく、御言葉どおり金粒だという事を思われます」
やっぱり言霊で、その時には米が出世をするのです。
「道具屋さんが夢を見たら米が金に見えたというのであげたのですが、それで明主様が金粒米という名をつけられたのでございました」
そうでした。あれにも奇蹟がありました。
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「人間の気の大きい小さいという事は、心の大きい小さいという事と同じでございましょうか」
同じです。“気は心”と言いますから。
「それは物理的に実際に大きい小さいという事でしょうか」
物理的でなく霊的にです。
「人間の心というのは生まれつき決まった枠内だけで大きくなり小さくなるというものでございましょうか」
それは無限です。心に枠はありません。それはあなたが宇宙を想像しても、何処までという事はありません。どんなに大きくてもよいです。星を想像して、あれは何万里何億万里か分らないが、そういう想念というのは無限大であり、小さければ無限小です。そこで枠というのは運命です。
「そうすると心は無限大に大きくなるが、人間の考え方は、小乗の人は非常に小さいというように、小さい考えしかできないという、その関係はどうなりましょうか」
それは別に関係ではないのです。それは小さい考えの人も大きく変る事もあります。その時には小さい考えでも、それが何時変るかもしれません。私でも子供の時には世界を救うという考えはなかったのです。
「大きな悪い事をする人間は大きな心の人間でございましょうか」
そうです。だから大きい小さいに善悪はないのです。別の事です。
「魂の黒い白いとは別なわけでございますか」
別です。それは黒い大きなのもあれば、白い小さなのもあります。
「心の大きいのは大乗、小さいのは小乗、それから大乗は白く小乗は黒い、というものでしょうか」
そうも決められません。第一決めようとする考え方が間違ってます。それはそうでしょう。今日は黒くても明日は白くなるのもあります。ちょっと前には白かったが黒くなるのもいます。さっきまでは良い事をしようと思っていたが、馬鹿々々しい、こういう事をしよう、というそれが悪いと黒くなります。
「客観的に白い黒いという事が主観的になるに従って――」
それはおかしいです。客観的に白いという事はわかりません。
「わかりませんが、主観の外にある客観が――」
いや客観もわかりません。ではあなたが、この人は良い人か悪い人かがわかりますか。
「それは主観ではわかりませんが、客観では――」
しかし泥坊でもその良い悪いはわかりません。
「そうすると刹那々々のその人間の魂が黒い白いという事は言えないのでございますか」
言えません。
「そうすると御教えの魂の白い人間黒い人間というのは何処を標準にしたものでございましょうか」
それは黒い白いと決めなくてもよいでしょう。決めようとするのが間違ってます。
「人間向上する上においての考え方が――」
向上するのは自分でしょう。だから自分が向上すればよいのです。
「その方法としまして――」
神様を信じていれば白くなるに決まってます。ただ人の白い黒いはわかるわけがないのです。それをわかろうとするのは間違ってます。それは自分が白ければわかります。中にはわからない人もない事もありません。つまり良いと思ってやっている事、自分では白と思ってやっている事が、実は黒いことがあります。お医者さんなどがそうで、助けようと思って殺しているのです。助けようという事は白ですが、結果において黒です。
「大乗の人の魂は白黒には無関係でございましょうか」
無論そうです。無関係だから大乗なのです。それに関係すれば小乗になるのです。だから白とか黒という事が、その目標ですが、それの白黒によってその人が本当の人か嘘の人かという事になります。しかし目的には智が伴なわなければならないのです。共産主義者でも天国を造るという事を言ってます。ですから目的はよいのですが、手段方法が悪いのです。その方法の善い悪いを判別できるのは智慧です。ところが今までは本当の智慧が違っていたのです。この本当の智慧というものを教えるのは救世教より外にないのです。いわゆる神智です。そこで今大乗と小乗と言うが、大乗でもいけないし小乗でもいけないのです。それから大乗でなくてはいけないし小乗でなくてはいけないのです。小乗にあらず大乗にあらず、小乗にして大乗なりというわけです。だから大乗でなくてはいけないと思うと、限定する事になるから、それでは大乗でなくなるのです。だから大乗でなくてはいけないと思う事がもう小乗なのです。これが分ればその人はよいのです。つまり一人前になったわけです。だから本当言うと大乗と小乗はないのが本当です。そこでバッチにあるとおり、大乗と小乗が組合わせてあって、その真中に居るのが本当です。この真中が伊都能売です。此処は経も緯もないのです。両方が組めば経緯が無くなってしまって、つまり丸になるわけです。それが本当ですが、それを知るという事は覚りなのです。仏教は覚りを説くが、かなり深い所までいっても、其処まではゆかないのです。というのはお釈迦さんが其処までは知らなかつたからです。ですから形で言うと十になって、これが天津金木(アマツカナギ)と言って、昔からあるその形です。それからその間に入って又経緯十文字ですが、十六の菊という事になってます。八紘を霊体にして十六本になるのです。これの本当の事を説くにも大変だし、それを知るのも大変です。ですから、説くに説かれず、説かれずに説くという事になり、幽幻微妙、深遠微妙なものです。覚るよりないのです。では其処までは行けないかというと、そういう事はありません。それは今までは行けなかったが、私はそれを説いているわけです。だから本当の大乗からゆけば、罪穢れという事はないのです。大体善か悪かという事は結局分るわけがありません。私が何時も有難く思っているのはお医者さんなのです。お医者さんが病気を悪くして治さないという事が、どのくらい有難いか分らないです。若しお医者さんが片はしから病人を皆治してしまったら、救世教には一人も来ません。ところが幸いにも病人を作りそれを治さないという事になるから救世教が発展するのです。だからお医者さんは大変に良い役をしているのです。そうなると善悪は分らなくなります。前に三宅雪嶺の説で、殺人という事は必要だ、法律でやるよりも殺人でやる方が秩序が保てるという事を書いてます。人間をウンと苦しめる、法律に引掛らないようにして苦しめる事ができる。しかし殺人という事があるから、或る程度までしかできないという事を言ってますが、その時分には大乗も小乗も知らなかったが、今でもそれは間違っていません。これ以上苦しめると、アイツはオレを殺すだろうというわけで止めます。ですから殺人が悪いとも言い切れません。大自然というもの、神様の天地の律法というものは、人間の目で見ては実に分りません。又、共産主義というのは悪いと言ったところで、では共産主義が何故興ったかというと、資本家があんまり横暴をして下層階級を苦しめるから、これ以上はやり切れないので何とかして団結して対抗しなければならないというので出来たのが共産主義ですから、共産主義を作ったのは資本家というわけです。やっぱり穢すから黴菌がわいて、その穢れを食うという理窟と同じです。だから実に深遠微妙で、人間の目で見た判断で善いとか悪いとか言えません。それから小乗大乗、或いは大きい心小さな心と言っても、本当に大きな事をする人間は実に小さな事に気が付かなければならないのです。大きな事ばかり考えて小さな事に気が付かないのは失敗者になります。大きな考えを持っていても、非常に小さな考えも持っていなければならないのです。結局小さな事に気がつかなければ大きな事もできないのです。そこで大乗にあらず小乗にあらずで、一方に偏ってはいけないのです。大乗でなければいけないと言う事が偏っているのです。しかし大乗は善悪無差別だから非常に誤られやすいのです。悪い方面だけを見ると、アイツは悪いと見られるのです。それで小乗は決して間違った事をしないから非常に善く見られるのです。それで結果はどうかというと、大乗の人は世間に非常に良い事をするのです。それで小乗は自分だけ守って大きい事をしないのです。そうするとそれは結局悪になります。大乗は悪も咎めないでやるから悪に見えるが、社会的に功績を残すというわけで、仕事ができるわけです。そういう事から見てゆくと、やっぱり善になるわけです。そこでどっちに偏ってもいけないのです。この事を覚り得るというところに向上があるわけです。だから実に神秘幽幻なものです。それでこれは神様がやっているという事よりも、そういうふうに神様が造ってあるのです。その天地の律法というものは神様と雖も破る事はできないのです。そういうふうに一分一厘の隙もなくこしらえてあるのです。人間が幾ら勝手な事をしようとしても、幾ら目的を起こしても、間違っている者はピタッとやられてしまいます。ただ時節によってそれが、丁度薬と同じようなもので、麻薬というものは直ぐに反動的作用が現われるので怖がるが、外の薬は麻薬よりも期間が長いし、反動が直ぐに来ないから良いとして使っているというのと理窟は同じです。悪い事をしても直ぐに見付かるような世の中になったら悪い事をする者はなくなります。霊界が昼の世界になると、見付かり方が早くなるし、又そういう事をするのが馬鹿々々しくなります。あれは知れないからするのです。盗んだり誤魔化す事が知れるまでに間があるから、知れないで済むというように錯覚してしまうのです。今日悪い事をしたのが明日知れるという事になると、それは悪い事をする者はなくなります。そこでミロクの代というのは、霊界が明るいから、悪い事が直ぐに知れるのです。それで悪い事をしても興味が無くなるのです。悪を幾らかでも隠せるから興味があるのです。ですから時間の問題です。薬もそうで、のんでも直ぐに浄化が起こったら、薬をのむ者は無くなります。
(垂二十六号 昭和二十八年十一月十五日)