十月一日
今日は別段話を考えて来てないから、早速質問にかかります。
「この度の愛和中教会青柳支部長の問題につきまして深く御詫び申し上げます。新聞では“殺してやる”というように書いてありますが、本人は生きていてもさみしいから死ぬのだという気持でいたのだそうでございます」
その人が信者になったのは何時ですか。
「五年ほど前でございます」
とすると、おかしいです。何か訳があるのでしょう。あり得べき事ではありません。
「子供六人のうち四人を亡くし、その後子供二人と夫婦四人暮しになりましたところに私が布教に行き、大きな方の娘が結核でしたがそれが良くなり、それが動機で信仰に入り、今日支部長として御用をさせていただいておりました。ところが結核の娘が亡くなり、次の子供が去年の七月に亡くなり、奥さんが本年三月頃に喘息で亡くなりまして、自分達は深い信仰のつもりでいたが……という事からおかしくなって参りましたような訳でございます。本人は元土方をしておりまして、其処の家は博奕打場所という様子でありました。御用をさせていただくようになりましてからは、私の会としましては指折りの方で、私も大事にしていたようなわけでございます。性質はむしろ無口の方ですが、元の病気が出たのではないかとも思われます」
と言うと何ですか。
「喧嘩をしたり、短気な方でした」
信仰に入ってから死んだのは何人ですか。
「三人でございます」
信仰に入る前には何人ですか。
「四人でございます」
信仰に入ってから信者を作りましたか。
「支部長になってからは相当に作っております」
支部長になる前にはどうですか。
「五十人以上導いたと思います」
しかしちょっとおかしいです。信仰に入る前ならとも角、信仰に入ってからそういう不幸が重なるという事は解せません。あなたが信仰に入ったのは何時ですか。
「昭和十八年でございます」
誰の所でですか。
「渋井先生からでございます」
今の土地には古くから居るのですか。
「十八年に疎開しまして、東京の方と掛持ちで、二年ばかり居りました」
今度その人に会ってみます。今日は来てますか。
「来ておりません」
毎月一度は来ているのでしょう。
「来ておりません」
どういう訳ですか。
「やはりいろいろ都合がある事と思いますので」
都合と言っても、支部長というからには月に一度くらい来ないという事はないでしょう。何時頃から来ないのですか。
「四、五カ月ぐらい来ておりません」
それではしようがありません。信仰がぼやけてしまっているのです。それでは会ってもしようがありません。
「本人の資格取消と支部閉鎖をさせていただきました」
そういうのはみんな神様の試練に遭って落第してしまうのです。如何なる事があってもガンとして堪え忍ぶほどの人間でなければしようがありません。そういう苦しい時に奇矯(キキヨウ)な行いをしようというのは、全然意志薄弱な証拠です。そうしてみると不断から本当ではなかったのです。その人はもう救えません。放ったらかしておいて、他の人を見た方がよいです。あなたがそれを復活させようと思って気をもむ必要はありません。神様の方で綱を切った者は、いくら人間がやってもしようがありません。神様の方は以前よりか厳しくなるから、神様の方で綱を切った者は、こっちで救ってやろうと思っても無駄です。それよりか、新しい見込のある人に力を入れた方がよいです。
「申し後れましたが、一里ほど離れた所の熱心な人に、支部の御許しをと思っております」
それは結構です。
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「病気を治すのは正守護神であるとの御教えをいただいておりますが、浄化を発生させるのも正守護神であるか、又浄化の発生は+の罪穢のある者から、九ある者から、という順序で発生するものであるか、又罪穢に関係なく、個々の人間の……」
信仰に入ったのは何時ですか。
「昭和二十四年です」
それでまだ分らないのですか。全然見当違いです。あなたは御神書を読んでますか。
「拝読しております」
病気は薬毒の浄化作用という事を書いてあるでしょう。それでよいのです。
「しかし最近……」
最近も何もない。病気は浄化作用で、掃除をするのだという事で、それでよいのです。
「この前の特別御面会で、病気は浄化作用であり、且つ正守護神が治すのであるという事でございましたが」
手伝うという事はあります。例えば霊的の場合には、その霊を追い出すために正守護神がいろいろやるという事はあります。しかし根本的なものではありません。そういった悪霊が憑るという事は曇りがあるからで、曇りというのは薬毒だから、結局根本は薬毒です。だから総て病気は薬の毒なのです。
「神様が人類を救済するに御入用な金は、人類の方で作って神様に奉納して御使用いただくのが真理であり、それを実現するのが真理の具現であると、私は考えます」
それはそうです。
「明主様は、入用の金については“金儲けに余念がない”と仰言いました」
私はそういう事は知りません。
「咲見町での御参拝の時に仰言られました」
私は知りません。私は実業家ではないので、人類を救うのですから、金儲けというのはおかしいです。まるで営利会社のようです。そうすると救世教株式会社という事になってしまいます。
「明主様は水上鉱山をやっておられますが、これは金儲けのためと思います」
そうです。
「ですから明主様御自身で金儲けをしておられると思います」
水上鉱山は金儲けのためです。しかし全般的に金儲けをして居るのではありません。全般的に考えると間違います。あなたが漠然と言うからおかしな事になるのです。最初に水上鉱山と言っていれば何んでもないのです。
「申訳ありません。その金儲けを自らなされるという事は……」
自らではありません。人に任せてあります。
「言葉を改めます。人間を御使いになり金儲けをなされているという事は勿体ないと考えます」
そう考えてもよいです。
「そこで御神業の金が不足するとい事は……」
不足はしません。必要だけはチャンと神様の方で用意せられます。
「現在救世会館につきまして、咲見町の頃には、もっと早く出来る御予定であると拝聴しましたが、それが現実において遅れて来ておりますが、この原因は金の不足と考えます」
そうばかりではありません。又金の不足という事は、神様の方で不足させるので、それは延ばすためですからしようがありません。私はもっと早いつもりだったが、神様が延ばされたのだから、それでよいのです。大本教のお筆先に“延びるのも早くなるのも、神様の都合の事じゃ”とあります。神様の方では総て時期は決まっているのです。ですから会館が出来る時期も決まっているのです。しかしなにしろ神様も邪神と戦いながらやるのですから、その間には早くなったり遅くなったりはします。しかし結局は丁度間に合うようになっているのです。神様の経綸というのはそういうものです。あなたは人間的の考えでいるから質問したくなるのです。ですから私でも神様に聞きたくなる事があります。何故神様はグズグズしているのか、と。人間の方は早くなったり遅くなったりは始終あるのです。ですから神様の方と、その時がピタッと合わないのです。というのは、なにしろ邪神との戦いだから虚々実々で、早くなったり遅くなったりするのです。
「神様の必要な金は差し上げ、御使いいただくというのが人間のなすべき事と思います」
そうです。
「私共教団に奉職する者は、大いに金儲けを考えて、それを実行するのが真善美であると考えます」
それは結構です。
「そうして教団を見ますと、金儲けになる材料がゴロゴロしていると考えます」
それは教団ばかりではなく、世の中に沢山転がってます。
「それで教団に職を奉ずる私は」
その職を奉ずるという言葉が間違ってます。奉仕と言うのが本当です。奉職と言うと、官吏や会社員でもそういう言葉を使います。
「奉仕させていただく私として、教団の幹部に金儲けを材料によって勧告するという事は小乗でありますか。又この場合に、私の伊都能売の働きと致しますと、どうするのが伊都能売の働きでございましょうか」
あなたは知らん顔をしておればよいのです。教団の幹部が何をやろうと、神様がチャンとやられるから要らない世話です。そうでなければ神様は意気地がないような事になります。あなたが黙まっていても神様がうまくやられます。それよりか、あなたは一人でも多く信者を作るという事です。教団の幹部の人に忠告するという事は、あなたは大変に偉くなっています。そういう事は全然考えてみる必要はありません。あなたの役目は支部長だから、一人でも多く信者を作って発展させるという事で、それでよいのです。第一注意するという事は、欠点があるとか、或いは自分の考えと違っているように思うから注意するのでしょう。
「注意ではなく、私の考えとしては、例えば会社に職を持っていると、社長や重役が……」
此処は会社ではないので、教団なのです。そこを会社的に考えては駄目です。
「そういうふうに考えましたので申し上げた次第です」
ところが神様がやっているのです。だから幹部は神様が監督しているのです。幹部が間違っているように思うのですが、私もどうしてああやるかと思う事がありますが、しようがありません。神様がやっているのだから、神様が何んとかしてくれると思っているから放っておくのです。
「私も奉仕ですから、神様がやっていると考えましてよいのでしょうか」
そうです。総て神様にお任せしておけばよいという事で、私の本に沢山書いてあります。あなたは御神書を読まないのではないのですか。
「そこで神様に任せる事と、自分の奉仕する時所位において努力するという区別が分りませんが」
だから神様にお任せして努力するのです。あなたは切り離すからいけないのです。“人事を尽くして天命を待つ”で、神様にお任せして努力するのですから、それでよいのです。
今の質問は大変よい質問です。そういうように思って居る人があるかも知れないから、そういう事は大いに質問して、本当に心から分るようにして働いた方がよいです。
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「台風十三号によりまして、明主様の御写真がガラスにくっつき離れません。写真屋に聞きますと、無理にすれば御姿に傷がつくとの事です。この御写真は以前のでございますので、この際特別に御願いし、新しいのにお許しいただけますと結構と思われますが」
無論新しいのにした方がよいです。
「他の信者で以前の御写真の所がありますが、お取替いただくという事は……」
別に傷がついたりという事がなければ、その必要はありません。
「それから洗いが悪いのか、赤くなるのがありますが、そういうのは如何致しましたら宜しいでしょうか」
それは見なければ分りません。今のガラスにくっついたのも持って来てごらんなさい。
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「二十八日に電報で御礼申し上げました温泉支部長田辺(二十九歳)は二十四日帰幽致しました。御礼申し上げます。胸と腹の御浄化をいただいて居りましたが、一家四人死に絶え罪多き事を考えさせられます」
まだ青年ではないですか。結核の再浄化ですか。やっぱり何処か間違ったところがあったのです。だんだん浄化は強くなります。よく御守護の電報で、電報だから簡単に、熱が高い、下痢がどうとか、何処が痛むという事を言って来ますが、簡単に治るような症状を書いてあります。どうも浄霊が割合に効かないようにみえるのです。やっぱり結局力が入るのだろうと思います。つまり浄霊してどうも治りが悪いという時には、確かに力が入るのだから、できるだけ力を抜けばずっと治るようになります。なにしろ御守から霊光が出て、掌から出るのですから、ちょっとでも力が入ると、霊光を塞いでしまうのです。やっぱり人間の力で神様の霊光を塞いでしまう、と言うよりか、薄くしてしまうのです。そこに気が付けばよいのです。ですから一生懸命に御浄霊をするという事がいけないのです。前にも言ったとおり、一生懸命ではなく、逆に楽な気持でやるという方がずっと効果があります。だから、思うよう――という事も少し変で、その人の思いようによるが、割合に治りが悪いという時には力が入っているのだという事が一番です。浄霊しながら鼻唄でもうたいたいくらいの気持でやるのが一番よいのです。それで、神様に御願いするのはいくら一生懸命になってもよいのです。それは構いませんが、ただ浄霊の場合には自分が治すのではないので、神様に治していただく、自分はその道具だから、そのつもりになって居ればよいわけです。私などもやっぱりそうです。少しでも力が入ると治りが悪いのです。勿論お腹の光が出る場合にも、力というのは腕力ですが、それが出るわけですから、それだけ光が薄くなるわけです。だからよくお蔭話に“一生懸命に御浄霊をさせていただいて、どう”という事がありますが、あれはどうも工合が悪いです。そうかと言って、力を入れないで霊が通らなければいけないから、そこが難かしいところです。通そうとすると力が入るから、力を抜いて霊を通すようにするのですが、それが一つの修業です。
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「屋敷内に相当年数を経た木が二本と竹薮がありますので、それを整理するために私の息子が先月十九、二十日と整理し、二十一日に御祭をして、その日から夜八時か九時になると毎晩、脊髄の四、五番目くらいの所が十円銅貨大に痛みます。触っても別に感じません。浄霊は頭の上から腰、痛む所をさせていただきますと楽になるのが早いようですが、大体一時間ぐらい息が止まるような事があります。私が以前に井戸を掘っておりました事がありますが、その時同じ場所が痛んだ事があり、私はそれが動機で入信させていただきました」
熱はありませんか。
「ございません」
霊的です。整理したというそれに関係があるのです。霊が憑ったのです。御神書は読んでますか。
「始終拝読して居ります」
御神書をウンと読めばよいです。そうすればそれで治ります。その霊は龍神です。それで神様の事を聞きたいらしいのです。御神書を読んでもらいたいのです。ですから御神書を読むのが一番よいです。ある程度までゆけば良くなります。今霊界では救世教の事を知りたがっている霊が沢山あります。ですから御神書を読んでやるのが一番よいのです。それで読む時には、小さくてもよいから声を出した方がよいです。何も異状がない時にはそういう必要はないが、自分が工合が悪い、家族が工合が悪いという時は救世教の事を知りたがって憑っている事があるから、そう思った時には声を出した方がよいです。
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「今度の十三号の台風で、高潮により、本人は御守護をいただきましたが、光明如来様は表装の天だけを残し、御屏風観音様も行方不明となりました。謹んで御詫び申し上げます」
それは身代りになるという事もあるのです。
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「こういう事を御伺いしてはお笑いいただくのではないかと思いますが、色につきまして、新聞に“幼稚園の子供に絵を画かせて、紫を好んで使うのは体が悪い。胸の辺りを紫で塗った者は胸部疾患が多い”という事が出てました。私の経験でも、紫という色はやさしいような感じがします。知合の画家で紫色を好んでいましたが、早死をしています。霊的に何かあるのではないかとも思われますが」
それは新説です。
「ところが明主様が御推奨の吉田博さんは、版画の方ではそうありませんが、油絵の方では紫色を好んで用いているようでございます」
油絵の方はその関係ではないのです。紫派と言って、そういった特種の存在として扱われているのです。画家が紫を多く使うのは、その方の派か、その影響を受けているのです。それで空気の色というのは紫なのです。ですから空気の濃い所をよく見ると紫色になってます。そこで弱い子は感受性が強いから、つまり神経が強いから、そこで空気の紫を、感覚が鋭いために感じるわけです。
「最近の画家は体が弱い、健康的の絵が少ないという事を仰言って居られますが、吉田さんが健康かどうかは知りませんが、どうして明主様が好まれるかと思いまして」
それは上手だからです。あの人の専門は版画ですが、とに角絵が上手です。その絵を版画にして、誰にでも手の出しよいようにするという点においては、やっぱり貴重な人です。だから浮世絵展の時には一ケースは吉田さんのばかりを出したのです。あの人は非常に上手です。今あれだけの人は居ません。それで近代の新しい版画を外国でも非常に認めて来たのです。ですから吉田さんのは高く、非常に売れるそうです。今外人は新しい版画では吉田さんの絵を一番好むそうです。アメリカなどでは吉田さんの絵は随分高いそうです。風景画ではありますが、なかなか上手な所があります。私もあの人のだけは楽しめます。
「やはり色にも段があるものでございましょうか」
つまり位があるのです。
「白と紫の位の順序はどうなっているのでございましょうか」
紫は結びの色と言って最後の色です。物事の結末をつけるのです。昔からある手箱を縛る紐は紫です。それから神様の服装は、最高は白で、黄色、紫となります。それで、黄色というのは黄金の色です。紫というのは黄金の裏色です。色には表裏があるのです。だから黄と紫は表裏になっているから、対称も非常によいのです。私はいずれ御祭などの服装もこしらえますが、白いのに金で模様をつけます。これが一番よいのです。白、黄、紫という順序にして、あとはずっと位が落ちるわけです。雲なども“紫雲たなびく”と言うが、これは良い方の雲です。“黒雲渦巻く”と言うのとは違います。それで金という事は日の色になります。月の色は紫になります。太陽が表で月は裏という意味になります。
「観音様のお札所が紫を使っているようでございます」
そうです。
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「⇒大三災小三災の御論文の中に“想念界の次位である言霊界を曇らす”とありますが、次位というのはどういう意味でしょうか」
次の位です。
「最初想念界に浮かんだものが、言霊に発して、それから現象界に現われるという順序でございましょうか」
そうです。
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「⇒文明の創造の中の手術の項に“盲腸の機能は背部”とありますが」
背部ではちょっと違います。背部の腎臓というのなら合ってます。
「⇒アメリカを救うでは“下半身の毒素”とあります」
そうです。下半身の毒素が背部腎臓部に溜まって盲腸の方に出て来るという順序です。
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「御神体を戴いた兄が表装がまだで御奉斎できず、弟が出張所をさせて戴きましたが、事情により出張所の責任者が代りました場合には御神体はそのままで宜しいものでございましょうか」
兄さんの方はどうしてますか。
「家の都合で御奉斎ができません」
それで出張所の方に廻したわけですか。兄さんは支部長ですか。
「一般信者でございます」
信仰は続けていますか。
「続けております」
兄さんが信仰して居ればよいでしょう。
「兄が御奉斎のお許しをいただきました場合には」
新しくしなければいけません。出張所のは動かす事はできません。
「現在の出張所のはそのままで宜しいのでございましょうか」
よいです。それから私の写真と御神体との扱い方は違います。どう違うかと言うと写真の方が上だから、写真は少しも融通という事はできません。それでこの間の事は喧ましく言ったのです。それはそうでしょう、御神体は私が書くのですから、書く方が上です。
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「チフスの症状と御浄霊の個所につきまして御伺い申し上げます」
チフスという事はどうして分ったのですか。医者が言ったのですか。
「御神書にもございませんので、一般的と致しまして……」
チフスは、原因は大腸に穴があくのです。それで症状は、熱が高く頭が痛むのです。それで腸には症状はないのです。別に下痢をするとかそういう事はありません。ですから腸チフスと言われ、どうして腸が悪いのかと、分らないくらいなものです。チフスの特徴としては、熱が高いのと頭が痛む事です。医者の方で言うのは、熱と体温が平行しない、熱が高くて脈がそれほど高くない、という事で、これがチフスの一番の特徴としてあります。それで私らが浄霊する時分には、つまりチフスという事は、医学的に見るという事は顕微鏡で見なければならないが、こっちの方でやるとすれば、熱が高いのと頭が痛いのと、それから普通なら頭を浄霊すれば熱が下るのが、少しも下らない、という時にはチフスと見てよいです。そうして、チフスらしいと思ったらまず食物を直ぐに変えて流動物にするのです。その時には牛乳でも重湯でもよいから、とに角固まりのない物をやるのです。そうして無論お腹を浄霊するのです。臍を中心にして、その廻りをやればよいのです。そうするとチフスなら二、三日で治ります。早いのになると、明くる日には治ってしまいます。何んでもありません。というのは腸に薬毒が溜まって、いわゆる医者の方で言う黴菌ですが、黴菌というのは虫がわいて食うのです。そうすると腸壁に穴があくのです。その腸壁に穴があくぐらいに毒が悪性になると同時に、熱で溶けて、それが出るのですから、その時に毒が溶けるに従って穴がチャンとはっきりするわけです。其処に固形物がぶっつかると、つまり亀裂を生じるのです。それでチフスで死ぬという事は腸出血で死ぬのです。ですから医者はチフスの腸出血を非常に恐れます。しかしこっちの方では直ぐに元どおりに治ってしまいますから恐れる事はありません。だから浄霊すればチフスというのは何んでもなく治ってしまいます。今言ったとおり、最初頭をやって、熱が思うように下らなかったらチフスと思って、腸の真中、腹膜の所を浄霊するのです。それだけでよいでしょう。そう詳しい事を知らなくても、それで治ってしまいます。それで流動物も一日か二日でよいのです。熱が下るから、あとはお粥にでもすればよいのです。それから食べ物をそうしなくても、浄霊しただけで治ってしまいます。ただ流動物にすれば早く治るのです。
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「母親一人が熱心な信者で、家族が分らないという所でこういう事がございました。腹痛と熱の御浄化で、チフスとの事にて、御霊紙でもいただき……」
御霊紙でも、という言葉はいけません。“でも”という事は軽蔑する言葉です。昔からこういう事を言います。“でもお茶は飲むな”と言います。“お茶でも”と言いますが、そんなお茶は飲まない方がよいというのです。よく“御神体でも”“御霊紙でも”と言いますが、それは大変な無礼をする事になります。
「御霊紙をいただき医者の言うとおりにして休みましたが、真夜中頃猛烈な下痢などがあり、朝になるとケロリとして御飯を食べ、支部に御礼に参りました。ところが医者の方では、診察の結果は何んでもないが、手配をしてしまったから隔離病舎の方に行ってくれと言うのです。診断が誤っていたと見られるのが都合が悪いためと思われますが」
そうです。人間の命より自分の面目の方が大事なのです。
「そういうわけで、頼んでも行ける所ではないからというので五日間行って参りました。御守護のほど有難うございました」
とに角この面目というのが大変なものです。私なども静岡の事件であれだけ苦しんだのは面目のためです。罪人を作らなければ面目にかかわるというので、面目の犠牲だったのです。とに角役人というのは面目が生命です。だから自分の面目を立てるためには、国家に不利益だろうが、人民が苦しもうが、そういう事は第二第三の事です。だから日本の役人が面目病を無くすれば、人民は実に楽になります。今のは医者の面目です。
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「昨日神光中教会関係の岐阜の自然農法を見学致しましたが、大変有難いと思いました。私も五年ばかりいろいろやってみましたがどうも結果が上らなかったので……」
五年もやって結果が上らないというのは、やり方が悪いのです。
「地力の養成とか苗の取扱い方が大変間違っておりました」
どういうように間違っていたのですか。
「耕土を深めにする方が結果がよいという事を知りました」
耕土を深くするという事は別に新しい事ではありません。近衛内閣の時に、耕土を深くしろと、日本中に触れを出しているでしょう。
「間隔を広くして、非常に楽な植え方をしておりました」
しかしそれは技術上の問題で、自然農法の根本的な問題ではありません。つまりあんまり接近すると日当りが悪いので、間隔を離したら日当りがよいから、ずっとよくなります。肥料はどうしてます。
「全然入れておりません」
最初からですか。
「さようでございます。藁を入れ過ぎていたようです」
それです。やっぱり肥料迷信です。だから藁も入れない方がよいのです。ただ、寒い所だけは温めるために入れるのです。あなたは何処ですか。
「豊橋地方です」
豊橋なら藁は全然要りません。あなたが一番間違っていたのは藁を入れた事です。それで私は最初一分か二分と言ったのですが、それを五分ぐらいにした人が居るのですから、全く頭が悪いのです。
「五年目よりも三年目の方が良く出来ていまして……」
それがおかしいではないですか。五年目より三年目が良く出来るという事は理窟に合いません。それはやっぱり間違った事をしているのです。
「やっぱりいろいろと方法を変えて来た結果ではないかと思います」
とに角こういう事は今まであんまり喧ましく言わないが、土を良くする、土の活動力を出させるという事です。土の活動力というのはどうすれば出るかと言うと、連作のためなのです。だから稲でも豆でもよいから、同じ物を其処で年々作るに従って、土の方ではだんだんそれを育てるような機能が出て来るのです。ですから無肥料にしてやると、肥料が減るし、それから土の方が活動力が旺盛になるという事だから、年とともに非常に増えてゆくのが当り前です。しかしそうばかりではなく、其処の気候もあるのです。雨の多い時と天気の多い時と、それによってもやはり相当に影響するから、若しも去年よりも今年の方が悪い時には、そういう事もあります。しかしそれが他の土地の田よりも、そういった悪い影響が少ないという事は確かです。
「成績が上らないという事は、過去の古い肥毒が停滞しているためでありますから、一冬耕して風化させるという方法があるのではないかと思われます。そう致しますと雨で洗われて肥毒が減り、それからはドンドン増えるようでございます」
それは確かによいです。よい参考になります。それを大いに奨励するとよいです。
「私の方で、全部を天地返しをして風化させましたところ、去年は五俵半でしたが、今年が初年度ではありますが十俵は間違いなしのようで、初年度で八割増産でございました。有難うございました」
それは大したものです。
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「今度御守様の金襴の袋が出来まして、今まで金襴でなかったので取替えていただく事になりましたが、私達の会では、支部で各自の名前を書いて集めておき、会長が来た時に取替えていただくという通知がございましたが、そう致しますと、その間御守様なしという事になりますが、宜しいものでございましょうか」
それはおかしいです。今までどおり御守様を持って居て、会長が来た時に金襴をもらえばよいでしょう。その間金襴の袋がなかったら御守を下げてはいけないという事はありません。どうしてそういう事になったのですか。通知というのは本部からですか。
「救世教本部からはそのような事は申しておりません」
なにしろ御守なしという事はいけません。金襴のために御守を全然かけないという事はいけません。こうすればよいでしょう。金襴は御守を持っている人が勝手に作ればよいです。会長が渡そうと、誰が渡そうとよいです。金襴という事に重きをおく事はありません。たかが布ではないですか。しかし別に悪い事ではないが、それほどにしなくてもよい、というように考えてもよいです。ですから金襴は自分で作ってもよいです。これは御神体と同じで、神様のお召物になるから、今までの白絹だけではお粗末だから、もっと立派なお召物を着ていただくという事です。だから一定しなければいけないという事はありません。むしろ会長が持って来る物より、もっと立派な物なら、なおよいです。今までのは白絹だけだから、人間が着ている物よりお粗末になります。神主でも、白だけを着ているのは一番下の者です。上の者はみんな模様がある物を着ています。
「金襴の地色はどの色でも宜しいのでございましょうか」
よいです。大体金襴となればみんなよい色です。
「先ほど色の御教えがございましたので、ちょっと気になりました」
あんまり狭くとってはいけません。
「金襴にも準金と本金とありますが、どちらが宜しいでしょうか」
それは本金がよいです。あなたはその区別が分らないのですか。あなたは本物と、ダイヤのイミテーションとはどっちがよいですか。
「準金でも宜しいでしょうか」
貧乏で本金のを買う力がない者はそれでよいです。
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「アザブ伸でございます。婦人生活の記事の中に私も登場させていただいておりますが、私の言った事と少し違いまして、“私は理窟が分ったから医者に行ってはいかん”と話しましたが、“何んだか分らないが、やったら治った”と、書かれました。尤もこの方が面白いからかとも思われますが」
その方が効果的でよいです。理窟が分って浄霊しても、理窟が分らなくて浄霊しても、結果において同じです。だから理窟が分らなくても治ったとすると、これから信仰に入ろうという人が見て、理窟が分らないからと思っていた者が、理窟が分らなくてもよいなら、一つやってみようというわけで、宣伝力がある事になります。かえって逆の方が効果があってよかったです。
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「御神前のお花を見て思いますが、この前は笹でございました。非常に水上げが立派なのでお聞きしましたところ、ただ切ったままとの事ですが、私共がやりますと、笹は忽ち駄目になりますが、どういう点が間違っているのでございましょうか」
笹にもよりますが、この間のは寒竹です。寒竹は持つのです。それから真竹と言って大きな葉のは持ちません。それでも二、三日は持ちます。そこで花の持つ持たないは、こういう関係です。花を切ったら直ぐに水につけるのです。私は庭で切っていても、お供を連れて手桶に入れます。切ってから少しでもおくといけないのです。それから持って来て活ける場合、パッと活けるのです。いろいろひねくっていると弱るのです。パッと切って、パッと生けると、それは持ちます。私などはあんまり持ち過ぎて困ってしまう事があります。十日ぐらいたっても枯れないのです。名前は分らないが、白く斑になった葉ですが、何処も枯れないのです。ただ何処か乾燥したような感じでした。それで十日もたったので私も飽きてしまって、外の花を活けたくなったので棄てましたが、持ち過ぎるくらいなものです。それで花はできるだけいじらないようにする事で、いじったら駄目です。パッと活けるのです。そうすると持ちがよいです。
「切られた事を知らないうちに活けるというような工合でございますわけで……」
花は知ってます。花でも、切られれば痛いです。そうして又そういうように活けた花はよいです。四、五日前に紅葉を活けましたが、枝を二本切って、庭中探して一番良いのを切ったのですが、大きな花生に活けたところが、切った寸法も丁度合っていて、とてもよいです。ですから本当によく活かったなと思うのは一分くらいです。五分となると死んでしまいます。その代り枝を切る時に狙いをつけておいて、チョッと切ってパッと生けるのです。そうすると素晴しいものです。これは花屋ではできません。しかし今は花屋でもなかなか良い物があります。ですから花屋で買ったのでもよいから、適当な所から切ったら直ぐに活ける事で、活ける時に恰好が悪いからと直していると死んでしまいます。ですから直そうという時には止して、向きを変えるとか短くするというようにすると恰好が良くなります。それを、決していろいろにひねくるという事をしてはいけません。
「そのパッとやるという事がなかなかの事でございますので」
だからやっぱり、始終美術館をみたり、絵を見ていると、そういう頭ができて来ます。やはり花で絵を画くのです。花で筆勢みたいに見せるのです。ですから私の花は誰もが褒めますが、つまり絵を画くのですから、絵心がなくては本当ではありません。絵心という事は始終絵を見る事です。ですから美術館はそういう事にも一つの効果があるわけです。
(垂二十五号 昭和二十八年十月十五日)