九月一日
今日は何も話を用意して来ていないのです。それというのはこの間放送局より、放送したいというので来たのですが、その前に先方の放送に非なところがあったので私は断わろうと思って、あなたの方は非常に間違っている、こういう事をやったりしたので、喋らないつもりでいたと言ったところが、来た先生なかなか如才ない人で、非常に謝罪したり懇願的に言うので、ではやろうという事になってやったのですが、放送の用意もしてなかったので、いい加減に喋ったため、どうも私は気に入らないのです。それから録音して面白くなかったらやり直してもよいからと言ったところが、今日の午後に来てやり直すという事になったのです。それでその原稿を書きました。私は何時もそういうものは夜の十二時半から二時まで書く事にしているのですが、それを今仕上げをしたりして、その方に気を取られてしまったので、今日話しをする事は全然考えていないので、直ぐに質問にはいります。それによって話が出てくるかも分りません。
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「木材会社に勤めている信者でございますが、材木の運搬に山に行き、谷底に転落致しましたが御守護で一命は助かりました。しかし左の腕の関節上部は、筋肉も血管も切断されました。一緒に居た者が未信者でありますので、直ぐに止血をして、四時間後に金沢の病院に担ぎ込まれ、切らなければ駄目だと言われましたが、本人が反対でそのままにしておりました。それから一週間ほどして指先から手頸の所まで脱疽のように真黒くなり、手術をしなければと言われて其処より切断されました」
それは何でもありません。内出血が其処に溜まったのです。切断したりするのでは信者でも何んでもありません。
「それから三週間して腐爛して来たので」
腐爛はしません。ただ腐爛したように見えるのです。
「その後肘の上から切断しております。本人は後で誠に申訳ないと申しております」
この場合担ぎ込まれるのはよいです。そういう場合は仕方がありません。しかし切るのが間違ってます。これは紫色や黒くなって、だんだん上の方に行くのです。というのは内出血が最初は指の先から、だんだん溜まってゆくのです。その内出血の分量が、此処で済むか、もっと上までゆくか、その分量によるのです。それは腐れたように見えるのです。内出血というのは悪い血だから、古くなると黒く見えるのです。ですからこれは何でもない事なのです。そういう場合に何故支部長に相談しなかったのですか。
「入院して居りますので」
入院して居ても、いけないと言えばよいのです。入院しているとは言っても死刑にあっているわけではないのですから。支部長は誰ですか。
「村本多満喜でございます」
支部長もどうかしてます。それに肘から切るという事は、もう信者ではありません。未信者と同じです。それを私は不断から教えているのです。それは丁度腐れ込むみたいに見えるのです。私は脱疽や 疽(ヒョウソ)の項目に説明してあるでしょう。それと同じです。ですから 疽(ヒョウソ)にしても、此処に溜まったのが指先に行くのです。この間女中が 疽(ヒョウソ)になったのですが、私は指先には関係しないで、頸の此処だけを浄霊してやったのです。それで治ったのです。これは聞く必要はありません。自業自得です。信仰が抜けているのだから、信仰が抜けたらそうなるに決まっているから、それは仕方がありません。信仰があって苦しむのならどんなにしても救ってあげますが、これは神様を全然無視しているのです。そういう時に助けていただいて、信仰の値打と有難さが分るものです。それを、そういう危機に際して神様という事は全然忘れたというのですから、どうにもなりません。大体支部長にも責任があります。今日来てますか。
「村本多満喜でございます。誠に申訳ありません。お任せしなさいとは申しましたが」
お任せしなくても、放っておけば治ります。
「親類が大勢居りまして、そういう事をしても駄目だと言いますのでした」
あなたでは、親類がそう言えば頑張り切れないでしょう。大体本人が悪いのです。本人が断乎として拒絶すればよいのです。
「相当に拒絶しておりました」
しかし、それは絶対に拒絶しなければいけないのです。
「骨の処分は如何致したら宜しいでしょうか」
それは勝手に処分したらよいです。丁度借金を返さずに破産して、債権者の方に助けてもらいたいと言うようなものです。借金を返さないのは、返さない方が悪いのです。それこそ人を馬鹿にしてます。支部長としたら、親類が大勢でそう言うのでは仕方がないでしょうが、やっぱり本人の信仰が本当に徹底してなかったのです。よく他から言われてどうとか、あんまり言われてどうとか、という事は自分の責任を他人に転嫁するようなものです。自分の体は自分が所有者であって、人から預っているものではないのです。どうとか言っているのは、つまりまだ本当に徹底してないから迷いがあるのです。そこでみんなに言われると、ああそうかと思ってしまうのです。それも子供なら仕方がないが、大人になっているのですから、誰が何と言ってもガンとして頑張れば、どうする事もできないのです。
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「自然農法の事でございますが、肥毒が抜けて来ますと従来の耕作法では合いません。例えば今までの耕作法では近過ぎるので遠植えにするという事は如何でございましょうか」
遠植えは結構です。それは分蘖が多いから、間隔は広くしてよいです。それは便宜上どうにでも、よいようにすればよいのです。耕作法はよいようにすればよいのです。私は根本原理を教えたので、株の植え方や間隔を教えたわけではないのです。そういう事は適宜でよいのです。それに土地により、又気候が違うから、それに合わしてゆけばよいのです。
「総ての作物にそれで宜しいのでございますか」
そうです。熱帯地方に行けば裸で居てもよいし、寒帯地方に行けばウンと着るというように適宜に、適してやればよいのです。
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「狂犬病にかかった犬に咬まれますと非常に悲惨な状態になりますが、これは如何なる御浄化でございましょうか。又その場合はどう致しましたら宜しいのでございましょうか」
早いうちなら咬まれた所をやればよいです。咬まれると、それだけ腫れたり痛みがありますが、それは犬の歯から出る毒です。それが時間がたつと体に廻るから、そうしたら廻った所をやれば何でもありません。丁度マムシに咬まれた場合と同じです。マムシに咬まれると、その毒がだんだん廻って来て、それが全身的になったら死ぬのですから、それを浄霊したら何でもないので、これは訳ありません。
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「自然農法の事でございますが、岐阜県の伊能さんの所で、今年は朝日新聞の農業コンクールに参加しました。これは三反以上ないと参加できませんので、二反しかありませんため、更に一反を買い受けました」
というと肥毒のある土地でしょう。それはどうも……あまり……。
「それで御浄霊を致したりしまして、今日では自然農法五年目の田とあまり見劣りのしない立派なものが出来まして喜んでおります」
それはよかったです。今年は一般は余程減収でしょう。六千万石割るかどうかという事が問題になってますが、広川弘禅が農林大臣の時に五年で二割増産という計画を立てて、今その実行中です。ところがその時分は六千三百万石の時だったのですから、増産計画が逆に減産になってしまったのです。あの時私は笑ったのです。それで最近は干拓事業とか言って、湖水を埋めたり海岸を埋めたりする案を立ててますが、それは全然根本を間違っているのです。やっぱり新薬を作って病気を治そうとするのと同じ事で、逆結果になるのです。どうもこの迷信を打破しなければしようがありません。
今私は「⇒医学封建」という論文を書いてますが、ちょうどこれは封建思想と同じ事です。新しいどんなに病気を治す方法を発見しても、医学以外は駄目だと言って、医学にかじりついて、他のものはみんないけないと言っているのは、封建思想と同じ事です。チョンマゲ時代、西洋の文明がはいって来た時に、しきりに止めようとしたのと同じです。神風連が電線の下を通る時に、穢れると言って扇をかざして通りましたが、今インテリなどが“新宗教で病気を治すという事はとんでもない事だ、触れてはいけない”と言っているのは、丁度神風連と同じ事です。だから科学という籠の中に閉込められているのではなくて、自分で進んで科学の籠の中に蟄居してしまって、科学以外の世界は、一生懸命に見ないようにしているのです。だから「井の中の蛙大海を知らず」というのと同じ事です。医学者というのは“井の中の蛙”です。
今書いているのは「⇒医学革命の書」ですが、これは徹底して書いてあります。そうして一つ一つのお蔭話に対して批判を加えてありますから、それを読んだらどうする事もできないと思います。だから医学というものは非常な罪悪だという事を徹底的に微に入り細にわたって書きました。今度の樋口さんの手紙の報告にも、アメリカの婦人は子宮を取ったり卵巣を取ったりするのが非常に多いので、その後の病気が一番多いという事を書いてあります。女には肝腎な子宮や卵巣を取る事を良いとしているのですから、その頭たるや、どうかしていると言うより外ありません。根本は病気が治らないから、その病気にかかっている子宮や卵巣を取るのです。ところが人間の体にある自然治癒力の事を本当に分っていないのです。ですから放っておけば治る、そういう本能が人間にはあるという事を、薄々は知っているが、はっきりとは知らないのです。だから病気の場合に放っておくという事が心配で出来ないのです。病気になればだんだん悪くなって、結局死んでしまうというように頭から思い込んでいるので、何とかしなければならないと思い、病気になっている患部を切って取るというよりないのです。子宮が悪くても、放っておけば治ってしまうという原理を知らないのです。この「⇒医学革命の書」が出来たら、英文に訳してアメリカだけでなく、ヨーロッパの方も東洋も、全世界に配ります。今は何処の国にも大学や医師会がありますから、そこに全部配るつもりです。そうして一通りは読ませるわけです。やっぱり聖書にある「 (アマネ)く天国の福音を宣べ伝えらるべし、然る後末期到る」という事になるのです。ですからそれで言う事をきかなかったら、今度は大変です。神様は行き届いているから、知らせるだけは知らせて、それで言う事をきかない者は自業自得というわけです。つまり今の人間の考え方というものは上面がばかに小利口になって、芯がだんだん空(カラ)になって来たのです。だから非常に頭が悪くなってます。私はよく考えますが、昔の者は実に頭がよいです。この間も話しましたが当意即妙というような事は今の人間には駄目なのです。
この間も洒落の事から話したのですが、私はよく洒落を言います。洒落が自慢みたいにうまいのが出るのです。これは作ろうと思ってやるのではなくて自然に出るのです。ところで昔の人間はそういった当意即妙が非常に素晴らしいのです。それはつまり頭がよいのです。よく講談などに出てくる曾呂利新左衛門は実に頭が鋭いです。それから幕末頃江戸に居た蜀山人というのも実に頭がよいです。蜀山人の歌や、多く川柳的のもの、狂歌といったものが実にうまいです。今の人間では、文学者は随分沢山居ますが、真似はできないと思います。これは有名ですが、蜀山人が或る時に話していると、向うに婚礼と葬式と両方通ったのです。そうすると「婚礼と葬式、向うを通りにけり、あれもしに行く、これもしに行く」と言ったのです。今の文学者にはそういう真似もできません。それから自分が片目の嫁を世話したのです。そうして婚礼の時に「みめよきはお家の為にふためなり、悪しきは家のかためなりけり」と言ったのです。その“ふため”と“かため”というところを実にうまくよみ込んだと思います。それから酒を飲むのでとうとう禁酒した事がありますが、禁酒の時の歌は、上の句は忘れましたが、下の句は「なれば何とか破れハンカチ」というのです。ところがそれから間もなく飲み始めたのです。そうすると蜀山人を非常に贔屓にしている者が“先生何故禁酒を破ったのだ”と言うと、その時詠んだのが「我が禁酒、破れみのとなりにけり、それついでのめ、さしてのめ」と言ったのです。“ついでのめ、さしてのめ”というのは、“破れみの”を縫うところですが、それを実にうまく歌い込んであると思います。そういうような鋭い頭の人間は今は居ません。というのはやっぱり頭に薬毒が多くなったためです。そこで頭の活動力が悪いのです。だから上面ばかりです。それは今の医学にしても農業にしてもやはり上面の改良とか進歩というものです。だからだんだん細かくはなっているが、かえって大きな根本の方を忘れてしまっています。
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「最近の新聞で、ユーゴー、イタリヤの問題、イギリス、北海道の問題がありますが、これらは何か意味があるものでございましょうか」
ユーゴーとイタリヤは小さな問題です。大体ユーゴーという国が小さな国であって、日本の四国よりちょっと大きいくらいなものです。それにユーゴーの人民というのは幾らもないので、ユーゴーの四分の三がイタリヤの人間で、四分の一がユーゴーの人間です。だからイタリヤに自由にされても仕方がないでしょう。北海道というのはスパイ事件でしょうがこれも小さな問題です。こういう事は沢山あるのです。たまたまそれがうまく掴まったために問題になったのです。北海道でなくても、東京の真中にも沢山居ます。ただそれが掴まらないから知れないだけの事です。つまりこれは掴まえた方が智慧があったのです。掴まえられないのは智慧がないのです。今もって共産党の幹部七人が掴まりませんが、これは掴まらない方が智慧が上なのです。
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「天候が悪い時には浄化が促進するという事を聞きますが」
それは昔の人が言う事です。陽気が悪いから体に気をつけろとか言います。
「病気が悪化するというのでなく、そういう概念で浄化が変るものでございましょうか」
それは幾らかはありますが、大してありません。そのために病気が起こるわけではありません。ただ病気が起こるのが目立つのです。それはその神経作用というのは大変なものです。何でもないのに“さっきあなたが食べたのに毒がはいっている”と言うと、それから急に腹痛がある事があります。
「魂と精神作用と体との関係でございますが、頭が悪いのでうまく申し上げられませんが」
私の本に三段になっているという事を書いてあるから、それを見たら分ります。
「神経作用が心の働きと考えましても」
それは不徹底です。神経作用というのは副守護神がからかうのです。例えて言えば、どうもオレはさっき食ったのに当てられたらしいと思うと、吐きそうになりますが、そう思わせるのは副守護神なのです。それでそう思うと、これは面白いというので副守護神が腹を痛めるのです。副守護神というのは動物霊ですから、そういう事を面白がってやるのです。その時に、そんな馬鹿な事があるものかと思うと、副守護神はやってみても面白くないから止めるというわけです。
「記憶力、推理力、判断力というものは」
記憶力というのは頭の中で活動するのですが、毒があると、毒のために機関が働かないから記憶力が悪いのです。しかし記憶力というのは必要なだけを記憶していればよいのです。後は忘れてしまうという事がよいのです。あんまり記憶が良くて覚えていても困る事があります。
昔大隈公は、実に記憶がよかったのです。それで或る人が“私は記憶力がなくて忘れてしまうがどうしたらよいだろうか”と聞いたところが、“忘れられるというのは羨ましい、オレは忘れられないで困っている。君みたいに忘れるというのはいいではないか、オレもそうなりたいと思うが、どうも忘れなくていけない”と言ったそうですが、そういうようで、あんまり頭がよいというのは、頭がよいのはいいですが、記憶がよいのは困る事があります。覚えていた方がよい事と、忘れた場合がよい事とありますから。
「そういう観念の事で、以前先輩から聞いた事がありますが、体の百分の一が心になり、心の百分の一が魂になるという事でございますが」
それは出鱈目です。百分の一どころか、体全体が心なのです。若しそうだとすると、体のうちに心がないという所があるわけになります。
「そこで心と神経との関係でございますが」
関係も何もありません。心そのものが神経です。心を細かく割ったものが神経です。神経というのは、要するに電線の針金のようなものです。魂というのは百分の一どころではなく、もっと小さいので、千分の一か万分の一か分らないくらい小さいのです。しかしそれが全体を支配しているのです。それが魂の大きさと言ってもよいのです。なにしろ人間が宿る時には精虫という小さなものです。あの小さなものがこんなに大きな人間になるのですから。
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「普通、魂という時には本守護神の事でございますか」
そうです。
「理性と感情という事は、正守護神と副守護神との関係でございましょうか」
関係はありますが、そう言い切る事はできません。何時も言うとおり理性を使う所は前頭部で、後頭部は感情です。これが綜合して一つの思想ができるのですが、どっちにも偏ってはいけないし、又偏らないものです。ところがたまたま偏ることがあります。例えば人を殺したりしますが、それは感情ばかりになったのです。それは理性から言えばそういう事をしては大変な損なのです。吉田首相の馬鹿野郎問題もそうで、感情の方が全部になってしまって、理性が隅に押しつけられてしまったのです。そこで後になって理性が働けば、ああとんでもない事をしたと思うに違いありません。
「本能はどういう働きでございましょうか」
本能というのはその人の欲望ですから、正守護神の本能もあり副守護神の本能もあります。どっちも本能ですが、一方は善にあたり、一方は悪にあたります。だから信者になって人類を助けたい、苦しみ困っている人を助けてやりたいというのは、やはり本能ですが、正しい本能ですから正守護神から出ているものです。それから酒を飲みたい、女も妻君ならよいですが、間違った女を欲しいとか、バクチを打つとか、そういうのは副守護神の本能です。ですから本能にもいろいろあります。
「生存本能、食欲本能、性欲本能というのはどちらにはいりますでしょうか」
それは正しい方です。食わなければ生きてはゆけませんから。これは正しいと言うよりか、絶対のものです。それから性欲が無ければ種族が断えてしまいます。そこで結果を見なければなりません。同じ正守護神から出たと言っても、結果が良くなければ本当のものではありません。だから医学が進歩すればだんだん病人が減って来て健康な者が増えて来るというなら、結果から言っても本当のものです。ところが病人は減らないばかりか、ますます増えるというのは、結果から言えば悪になります。私は今度、医学というものは間違っているという事を書いたのです。だから信仰でも、あの人の信仰は立派だと言ったところで、信者が出来なければ駄目です。しかしあの人の信仰はなってない、面白くないと言っても、その人は信者をつくってドンドン増やしてゆけば、それでよいのです。とに角結果です。あの人は情深い人で立派な人だというだけの人よりも、あいつは少し変だがオレに御馳走したり小使いをくれるというのなら、その方がよいではないですか。
「心の働きをする場合には三守護神が一緒の時でございましょうか」
みんな一緒ですが、三つのうち、どれかが多く働くという事はあります。それで副守護神が一番多く働く時が危ぶないので、そういう時にはろくな事はしません。しかしそれも、やっぱり副守護神の働きにも素晴らしい事がありますから、全然いけないとは言えません。
「本守護神に適合した魂に相応わしいもの、きれい、汚れたという事に関係して、正守護神、副守護神と憑くわけでございましょうか」
そういう事はありません。ただ負けてしまうのです。良い事を考える時には副守護神が小さくなっているのです。のさばってはいないのです。けれどもそれは始終変化しているので、一日のうちにも一分のうちにも、本守護神が大きくなったり小さくなったりしてます。例えば今まで良い事を考えていたのが、ヒョッと悪い事を考える事があるでしょう。そういうようで、始終一定はしていません。ただ何時の場合でも本守護神が勝てばよいのです。それが魂の力です。魂の力という事は光ですから、御守をかけていれば間違いないという事は、御守から光が出るから、副守護神は光にはどうしても負けますから、のさばれないのです。ですから犯罪を犯すのは本守護神というものは殆んど小さくなってます。しかし或る時期に行くとか、何かの動機に触れると、本守護神が目覚めて活躍する事になります。そうすると非常に後悔して、悔い改めるという事になります。
「特別な天分を持って生まれる者がありますが、それは魂のうちのどれに当りますのでしょうか」
どれという事は言えません。やっぱり副守護神が大いに働く事があります。芸能人というのは副守護神です。漫才家や落語家が笑わせますが、これは本守護神にはできないので、副守護神がやるのです。けれどもそれを利用して悪い事をすれば、副守護神が利用するわけで、本守護神が眠っているというわけです。だから決められないものなのです。決めると間違ってしまいます。それは実に微妙なものです。
「肉体的に畸形なのはどの魂の関係でございましょうか」
それは魂と言うよりか、例えてみれば、これは私の本に書いてあるから読めば分りますが、前の世で死ぬ時に高い所から落ちて死ぬとすると、その時に足を折るとか手を折るとかして、それが霊界ですっかり浄化されないで生まれ変って来ると、それが残っているから、霊主体従の法則によって体がそうなるのです。
「霊界にゆきますと、三守護神は分離する建前のものでしょうか」
分離する建前です。
「そう致しますと、畸形の場合には、又前の正守護神、副守護神が憑く場合もあるのでございましょうか」
同じものが憑く場合もあり、別の場合もありますが、それは正守護神、副守護神に関係はありません。肉体の霊のそれだけの曇りがあって、それが取れ切れないうちに生まれたわけです。
「地獄に落ちましてそういう修業をするのは、三つの霊が一緒になっている場合でございましょうか」
それはそういう事には関係ないので、その人そのものの曇りです。曇りの浄化作用が地獄の苦しみなのです。しかしそういう曇りをつくったという事は、副守護神がつくるのです。そういう事は言えますが、はっきり決めるという事はできません。
「連帯責任でございましょうか」
と言うが、上中下があるからそうも言えません。同じドングリならそれでよいですが、やはり階級があります。まあ綜合責任と言うか、綜合されたものです。だから難かしく考えると、ちょっと考え難いが簡単に考えれば訳なく分ります。それから、その奥の奥は説明ができない事があります。むしろ感じです。これが覚りというものです。とに角実に微妙なるものです。だから話す事も書く事もできません。これはやっぱり世界中で私一人だけが分っているのでしょう。他の人は分らないでしょう。しかしその人の役目さえできれば、それだけ分らなくてもよいのです。仮りに星なら星が、どうも太陽の奴はあんなに光ってシャクに障る。太陽のように光りたいと言ったところでしようがないので、星はやっぱりそれだけの光しかないのです。だから本当に考えたら実に神秘幽幻なものです。又それが分ってしまっては面白くないので、分らないところに面白みがあるのです。実に神様というのは、何とも言葉では言えない神秘なものです。そこで一番間違いない事は、物事を決めるという事がいけないので、決めない事が間違いないのです。つまり物事を決めるところに間違いが生ずるのです。そうかと言ってまるっきり決めなければ変です。やはり決めるべきところは決め、決めるだけのものは決めるのです。それから決められないものは決めないでおく事で、決めようとして急(アセ)ったり、苦しんだりする事は損です。それから又時というものがあって、その時にはこうした方がよい、又時が変るとそうしてはいけない、又こっちに行った方がよいという事になります。それも決めて決められないで、決められないで決めなくてはならないのです。そこで実に幽幻微妙と言いますか、何とも言えないものがあります。それから分っていて分らなくて、分らなくて分っているという事があります。そうかと言って両方同じでは、分らなくて迷ってしまいますから、どっちかに決めなければなりません。それから何時までは決めていて、その先は決めない方がよい事もあります。それから一時間だけ決めてよいような事もあります。一時間だけ決めれば非常によいものを、一日決めていたために非常に悪くなります。その限度というものが分らないのです。しかしまるっきり分らなければ、何も分りませんから、或る程度は分らなければならないのです。お釈迦さんは“一切空”と言っているのですが、そう言えば絶対に間違いはありませんが、しかしそれではとに角あんまり無責任です。生長の家などではよくそういう事を言ってます。“病気を病気と思うからあるのだ、病気はないのだと思えば病気は無くなってしまう”という説を唱えてますが、これもやっぱり決めたわけです。無いと決めていても、痛い時には痛いのです。いくら痛くないと思っても痛いのです。それは人間は霊だけで生きているのならそれでよいが、肉体というものがあるのですから。そこで覚りの境地というのは、昔から坊さんはその境地に入ろうとしていろんな修業をするのです。真言密教などもそうです。全然何もないのです。それで“お前分ったか”と言うと、“分りました”“よし”と、それでよいのです。何が分ったのだか分らないのだかさっぱり分りません。しかし師匠にはそれが分るのだそうです。尤もこれは分らない事はありません。その人の言葉と行いによって、どのくらい分ったかという事は見当がつきます。そこで大僧正が法を授ける場合に、あいつは大抵修業ができたから大丈夫だなと思うから“お前分ったか”と言うと“分りました”“よし”と言って、お前には阿闍梨の位をやると言うのです。阿闍梨の位と言っても、形のあるものは何もないのです。そういった煙(ケム)のものでやるのです。
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「宮本武蔵が剣禅一致の境地に達し、相手を倒すでなく自分を護るでなく、無念無想というそういう事は効果がありますのでしょうか」
効果があります。しかし無念無想とは違います。人間は無念無想にはなる事はできません。他に言葉がないからそう言ったのです。とに角魂の境地が高くなるからです。武蔵は大体沢庵和尚からヒントを得たのです。それで始終沢庵和尚に教えてもらってます。しかし大体あの人は生まれながらにして魂の位置がよかったのです。だから絵を画いても、ああいう上手い絵を画きます。それは何事にもそうなるので、剣でいってもああなるので、総てがそうなのです。
「結局邪念をとるという事でございましょうか」
邪念をとるという事では、もう駄目なのです。“とる”という事は“ある”わけですが邪念が無ければ取る必要がないのです。邪念を無くしようという事がいけないので、邪念は無くなっているから、そういう考えは必要ないのです。幾分でもあるから取ろうという事になるのです。私は絵も画くし書もかくし、歌も作れば、建築もやるというわけで、総て最高のものなのだから、結局同じです。だから或る程度にゆけば総てがその程度にゆきます。この間も植木屋に教えてやった事があります。植木の葉が枯れかかったり、色が悪かったり、力がない時に、植木屋は土ばかりを加えます。ところが土を変えられればよいが、変えられない場合がありますから、そういう場合には土から吸い上げる養分と葉や枝の数が合っていればよいですが、岩などがあって養分が上がらない場合があるから、そこで全体に養分がゆかないから枯れたり弱ったりするのです。そういうのは枝や葉を少なくすれば勢いがよくなります。ですから私は、大体葉の色や工合を見て切りますが、それを切ると全部に養分が漲るから元気がよくなります。即ち人間の病気の事だけが一つ分れば、他のものは全部分ります。自然農法にしても病気からヒントを得たのです。だからつまり作物を健康にするというわけなのです。今までは作物が沢山取れないという事はそれだけの力がないからです。人間なら体の中に薬毒が多いから、元気が出ないのです。薬毒というのがやっぱり肥料と同じです。これは一つの真理を得れば、一切はそれと同じ意味なのです。それで苦しい事や悪い事は何んでも浄化作用と思えば、風水害も浄化作用なのだから、直ぐ分ります。それでまさか空中などに薬毒があって穢すと言っても、やっぱり人間の想念や言葉が大事なのです。人間が悪い事を考えると、それだけ霊界が曇るのです。それから行為によっても曇るし、又土を穢すから、それを洗わなければならないから大水が出て洗うわけです。それから霊界を穢せば風が吹いて吹き払ってしまうというわけで、何んでも同じ事です。それを当て嵌めてみれば分ります。だから私の言う事や説く事は新しい学問です。そうしてこれは本当の学問です。今までの学問というのはみんな間違っているのです。間違っているというよりか、低い学問です。ごく下の低い文化です。それを進歩させ発達させているのです。私のはもっと上の学問です。つまりあなた方が今までいろいろ習った事は、小学校で習っていたようなもので、私が説く事は中学校から大学の学問です。それを一般人類は小学校の学問を最高のものと思って、たまたま大学の講義を聞かせると、あれは間違っている、迷信だと言うのです。それはとに角小学校程度では大学の講義を聞いても分るはずはないからそれはそう思うでしょう。けれども事実が承知しません。小学校の医学では病気は治らないが、大学に行けば治るからだんだん分って来るので、それはしようがないという事になります。そういったものでしょう。それで今までの宗教というのは小学校の高等科くらいなものです。だから科学とあまり違いがないのです。
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「化粧の鉛毒になるのは、女より男の方が多いようですが」
それは俳優だからです。女はつけないからです。
「霊的の意味ではないのでしょうか」
そういう意味はありません。それは男は女より黒い顔ですから、ずっと濃いのを使うからです。顔を白く見せなければならないから厚く塗るわけです。以前のオシロイは原料は殆んど鉛ですが、今は殆んど使いませんから、今は鉛毒ではありませんが、昔はそうでした。
「エノケンが鉛毒のようでございましたが」
そうではありません。足に脱疽が出来、浄霊なら直ぐ治りますが、切ったから、それで長くかかったのです。エノケンは女形をするわけではないから鉛毒にはなりません。
「舞台で汗が出ないのは、汗が出ないようにオシロイで塗りつぶすためだそうで、非常に沢山使うそうでございます」
そうです。しかし今は大分よいですが、昔はもっと酷かったのです。
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「姓名をつける場合には字画を考えてつけるべきでしょうか」
字画は関係があります。
「どういうように致しましたら宜しいのでしょうか」
偶数と奇数がありますが、奇数が陰、偶数が陽です。夫婦とか子供の字画がそれに合えばよいのです。調和すればよいのです。ですから夫婦で奇数と偶数が合ったのは続きますが、陰なら陰、陽なら陽というのは大抵別れます。この事は私は以前に教わったのですが、試してみると殆んどそうです。そこで子供などが生まれた場合には母親と陰陽にするとよいです。そうすると母親になついて、よく育ちます。ところが父親と陰陽になって母親と同じだと、母親に縁が薄くなります。そういうのは結局父親に育てられるという事になります。それは確かにあります。
「調和という事を具体的にお願い致します」
それは陰陽です。陰陽が調和するのは当り前です。湯の事を考えると、火と水だから丁度よいので、火だけでは熱くてしようがありません。
「苗字は同じになりますが」
苗字は動かす事はできないので仕方がありません。名前の方です。まだいろいろあります。言霊から言ってもありますが、それは簡単にはゆきません。言霊というのは「アイウエオ」が基本です。アカサタナハマヤラワというのは天の行ですから火です。オコソトノホモヨロオというのは下ですから地です。それで中間は水ですから、そこで苗字が火の場合には名前を水にしなければならないし、苗字が水の場合は名前を火にしなければならないので、そうすれば合うわけです。そこで「オカダ」というのはア行です。最初の「オ」はオ行ですが、言霊(タマ)返しでゆくと下の字が支配するからア行になります。「モキチ」は言霊返しで「ミ」ですから、火と水で丁度調和するわけです。こういう事を知っていれば名前をつける場合には非常によいです。字や言霊によっていろいろありますが、私はそういった言霊返しや字の事を書こうと思ってますが、どうも神様が許されないのです。書き出すと嫌になるのです。尤もこれが分ると、いろいろな神秘が総て分ってしまうので、やっぱり或る時期までは神秘があんまり分ってはいけないのです。
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「引潮の時に生まれた子供は育たないという事を言いますが」
絶対にそういう事はありません。多く満潮の時に子供が生まれるのですが、運命にはそう変りません。全然ないとは言えませんが、或る時期まではいくらか影響しますが、それを過ぎれば同じです。
「亡くなる時にもそういう事を言われてますが」
引潮の時に亡くなります。だから幾らか影響するのです。
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「人間の宿命は上中下のうちの一段で、その上にも下にも行けないという事でございますが、地獄的苦しみから天国的状態に変る事がありますが、そこに矛盾を感じます」
それは違います。宿命と言っても、地獄の宿命、天国の宿命というのはないのです。今の宿命、運命というのは階級です。天国、地獄という事とは関係はありません。例えてみれば、人の上に立つ人間、親分とか主脳者になる者はもう決まっているのです。それで親分になる人は必ず良くなります。乞食になっても、そういうのは乞食の親分になります。それからどんなに偉い人でも、親分になれない人は、番頭とか支配人になります。そういうように決まっているので、これが宿命です。又それでなければその人としての本当の発揮ができないのです。植物で言えば蔓性植物と言ってからむのがありますが、人間でも同じで、竹なら竹が無ければ、それに巻きつけないから生存ができないのです。それと同じで、誰かに頼らなければ生きて行けないのがあります。それから又痩せても枯れても親分にならなければならない人があります。からませる方ですが、それはその人の宿命です。ですからそういう宿命がない人が無理に親分になろうとすると失敗するのです。私は昔から何処に行っても、子分はできるのですが、決して私を引き立てるとか、私が助けられるという場合はないのです。私は、私には助けられるという性能はないと思って諦めていました。何かに縋る事はできないのです。ですから最初は親しくしていても、後になると先方で相談に来るようになるのです。私は信仰にはいる前から、誰かに相談するという事はできなかったのです。どうも後になると先の方が下になってしまうのです。それは私が大木のような宿命だからなのです。それが宿命というものです。それは生まれながらにしてそういうようにできているのです。労働者などでたまたま出世しても、宿命が相応しないのは、やっぱり落ちてしまいます。それから又少し出世した人が、労働者とかを見て、何故一生懸命にやって出世しないのだろうと思う事がありますが、それはそうではないので、その人はそれで満足しているので、それが宿命です。ただその宿命の中で上になったり下になったりするのは自由で、それが運命です。ですから運命は自分で変える事はできますが、宿命を破る事はできません。宿命というのは限定したものです。しかし運命というのは宿命の最高にまではなれるのです。ですから人に使われる者としての最高になるのは、店の番頭とか支配人とかですが、それは親分に使われる者の中では最高のものです。その最高のところまでは行けるのが運命です。ですから運命は変えられるが、宿命は変えられないのです。
「商売人に向くとか農業に向いているという、人間の職業も宿命に関係があるものでございましょうか」
それが宿命です。それで同じ農家になっても、上になったり下になったりします。小作になったり自作になったりするのは運命です。
「宿命という事と幸福とは関係がありますでしょうか」
あります。例えてみれば、生まれながらにして非常に良い所に生まれて、一生身分が良いという事は、苦しまずに済んでいるから幸福です。それは幸福の宿命を持っているわけです。又同じ幸福でも、身分だけが良くて、あとが甚だ宜しくないという事もありますが、それは運命が悪いのです。
(垂二十四号 昭和二十八年九月十五日)