御 垂 示 録 (第二十三号)

八月一日

最初に一言話したい事があります。これは分りきった話なのですが、どうも一番困るのは、何時も小乗信仰はいけないいけないと言っているのに、どうも小乗信仰の人が多いのです。小乗信仰にもいろいろありますが、一番よくないのは“あの人は邪神だ”とか“あそこの家には邪神がいる”とか言う事ですが、これが一番悪いのです。ですから私は『人を邪神と言う人は、その人が邪神だ』と言ってありますが、邪神である邪神でないという事は、決して人間に分るものではありません。神様以外には分るものではありません。それを分ると思うのは、神様の地位を犯している事になります。ただ自分が邪神にならなければよいので、人が邪神であろうがなかろうが、大きなお世話です。それからもう一つは、邪神を恐れる人があります。“あの人は邪神が憑いているから注意しなければならない”とか“あそこの家には邪神がいるから気をつけなければならない”と言うが、大変な間違いです。そうすると神様の方が弱い事になります。邪神を恐れるという事は、神様を下にみる事になります。本当言えば邪神の方で恐れるのです。それを邪神を恐れるという事は、神様の方が邪神以下という事になります。この間のレントゲンの光が神様の光を通らないという事は、神様の光の方が上だからです。レントゲンというものは邪神のようなものですから、邪神の方は敵(カナ)わないのです。ただ今までの他の宗教は、殆んど邪神に負けるのです。しかし救世教の神様は決して負けません。又そのくらいでなければ世界を救う事はできません。ですから邪神のいる所なら大手をふって、自分も行き、人も行かせればよいのです。私は前から“あの人はいけないから来ないようにしろ”とか“行かないようにしろ”という事を言われましたが、私は平気なのです。それはこっちより上のものはないので、みんな以下のものだからです。それを恐れるのは、こっちの力が足りないと思うのです。そうすると救世教の神様に対して大変な御無礼になる、というよりか、むしろ認識不足過ぎます。ですからそういう事は一向に無頓着でよいのです。それは邪神の方がみんな恐れているのです。その点を間違えないようにしなければいけません。しかも邪神とか邪神でないとかは決して人間に分るものではありません。何となれば、邪神々々と言われている人が大変なよい働きをしています。それよりも、邪神々々と言う人が邪神なのです。何となれば、自分の方が恐れるのだから邪神に違いありません。その点を間違えないようにしなければなりません。邪神の方は救世教の神様を大変に恐れているのです。ですから信者に憑って、やられないように邪神が擁護しているのです。救世教の神様がそこに行くと邪神の方はひどくやられますから、邪神の部下がその人に憑ってやらせるのです。ですから人間の考えは殆んど逆が多いです。

それから人間の理窟では到底分るものではありません。神様の方は実に深いのです。たとえてみれば、医者は邪神と思うでしょう。健康な体を薬で弱らせたりして、結局命までとるという事は、とんでもない邪神です。ところがその邪神のために救世教というものが現われたのであるし発展しつつあるわけで、若し医者が片端(カタハシ)から病人を治してしまえば、救世教は発展しません。救世教がドンドン発展して威張れるという事は、医学という邪神のためなのですから、そうなれば邪神というものは大変なよい働きをしているわけです。しかしなにも態々こっちでそういうように計画的にやるわけではないので、そういうようになっているのですから、それを良いとか悪いとか批判する事はできませんが、そういうようなものです。だから何時も言うとおり、今まで教団でも、邪神のために随分助かったり、随分よい功績があります。だから、良い悪いは言ってかまいませんが、決めるのがいけません。何となれば神様というのは、やっぱり悪い方を利用するのです。それで自分の身魂を磨くとか、偉くなるとか、そういう磨きはみんな邪神がやるのです。邪神がその人を苦しめて、それでその人は磨けるのです。だから邪神というのは善人を作る砥石みたいなものです。正邪の戦いという事も、全然善人ばかりだったら、戦いも何もないからおしまいです。ただ邪神に負けてはいけないのです。負ければ悪の世になるから勝たなければならないのです。ただ今までは邪神の方が強かったために、かえって神様の方が一時的でも負けるのです。それで不幸や災があるのです。今度は神様の方が邪神より勝ってゆけばよいのです。だからミロクの世になっても、全然悪が無くなるわけではないので、やはりあるのです。ただ神様の方に負けるのです。しかし邪神というのはしつこいもので、負けても諦めるというのではなく、何処までもやります。またそれが邪神としての役目なのです。そこでそういう事を考える必要もないくらいなものです。ただ邪神に負けなければよいのです。負けなければよいと言っても、ただ勝とうと思っても、それは智慧によって負けた方がよい場合もあるのですから、そういう場合は負けなければならないのです。だから今までは邪神に負けても、最後に神様の方が勝つという、みんな知っているとおり「邪は正に勝たず」で、結局は正が勝ちますが、今までは邪神の方が力があったから、負けている間が長かったのです。それがだんだんあべこべになってゆくのです。そしてあべこべになりきった時がミロクの世です。結論において邪神を恐れない事と、あの人は邪神だとか、あれはどうだと決める事が大変な間違いであるという事で、それはつまり神様の領分を犯す事になります。

今までの小乗信仰では、他の宗教にちょっとでも触れてはいけないと言います。これはキリスト教、真宗などは特にそういう事が非常に喧ましいのですが、それは弱いからなのです。自分の方が力が薄くて危ないからして、触れるなと言うのです。ところが救世教はそういう事は全然言いません。むしろ他の宗教に触れてみた方がよいです。救世教より以上のものがあれば、その宗教に行けばよいし、全然無ければ救世教一点張りにやればよいので、それが本当なのです。ですから既成宗教とはまるっきり違う点を心得えておかなければなりません。そうしてつまり邪神を改心させて正神にするというのが仕事なのですから、邪神を避けたらその邪神を良くする事はできません。私は前にキリスト教の牧師と議論した事がありますが、それは東京の教会で、“少しでも間違った人は教会の会員にしない、そうしてどこまでも教会の正浄を保つ”と言うのです。それで私は“そういう正浄な人だったら教会の必要はない、穢れた人がいるから教会の必要があるので、穢れた人を入れて正浄にするのが教会でしょう”と言うと、“それは仰言るとおりですが、私の方の教会はそういうようになっているので、そうしなければならないので、そうやっている”と、甚だ頼りない返事でしたが、しかしそういうのはキリスト教の中には沢山あります。丁度ユネスコみたいなものです。何時か田付さんがフランス人を連れて来た事がありますが、その時にユネスコの話が出て、誰かがユネスコの会員になった方がよいと言うので、私がひやかした事があります。結局ソ連がユネスコにはいったら私もはいると言ったのです。ソ連の鉄のカーテン以外がみんな平和的になってもしようがありません。肝腎な事を放ったらかしているのです。それと同じようで、きれいな人や正しい人の団体を幾ら作っても何にもなりません。むしろ害になります。何時か栄光かに書いた事がありますが、鉄のカーテン以外がみんな平和的になったら、ソ連は大手をふって侵略するだろうと言った事があります。ですから邪神の入口だったら、なるだけ行った方がよいのです。喧嘩をしなくてもよいが、行けばよいのです。そうすれば光がはいりますから萎縮します。それに又、あいつは悪い悪いと言いながら、何か取得(トリエ)があります。ただその取得があるという事の発見ができないのです。あいつは邪神だという人は、頭が決まってますから批判力がないのです。そういう事に全然囚(トラ)われないと頭が働きますから、悪い奴にも取得があるという事を発見します。それであいつはいけないとか、あれは悪いとか言った事が、時がたつと案外それがために助けられる事があります。それは実に微妙なもので、人間の表面で見たくらいではなかなか、特に御神業は深いのですから、決して分るものではありません。

何か問題があったりした時に、人を批判する場合には、両方を批判してゆくとよいです。悪いと決めないで、悪い点は悪い点で認識する必要はありますが、しかし悪い結果をよい方の頭で考えたら、結果から言うとどうだろう、という事を考えてみるのです。そうすると案外よい事を発見するものです。一番大きな例としては、日本が戦争に負けないで、天皇制が続いて行って軍部が威張っているとすれば、救世教というものは今もって小さくなってビクビクして、何時なんどきやっつけられるか分らないというようでいなければならないのです。ところが負けたために国家の組織が違ってしまって、信仰の自由という事になって、いろいろと思ったとおりの事をやれるようになったために、僅かの間にこれだけになったのですから、敗戦という事は、一時的には非常にガッカリもし、歎きもするが、少し時がたてばとんでもない結果になります。そうして救世教がだんだん日本を救うとすれば、日本人だってどれだけ幸福になるか分らないのですから、そうすれば敗戦というものは敗戦様々です。それから敗戦後ソ連が朝鮮侵略などをしたために、アメリカが“日本をあんまりひどくやっつける事はいけない、日本も相当助けなければならない”という気持になったのも、ソ連のためです。ソ連が大人しくしていたら、アメリカは日本を窮屈に圧迫したに違いありません。ところが朝鮮戦争でああしてアメリカがあれほどに苦労させたために、日本を援助しなければいけない、援助しないと、中共或いはソ連の方に傾いたら大変だというので、日本を非常に大切にする緩和政策をとったという事は、これはスターリンのお蔭です。そうすると歯ぎしりしたり興奮したりした事は逆になったわけです。敗戦の時の日本人の悔(クヤ)しがり方というのは大変なもので、神も仏もあるものかというようでしたが、私はそれが分っているから、敗戦の明くる日に極く親しい人にだけは、大いに祝うべき事だと言ったのです。これは大きな事ですが、小さな事でも同じです。以前に或る教会で、そこの信者で有力な人と会長とが仲違いをして離れてしまったのです。そうするとその離れた人、いわゆる弟子の人は、自分が会長と仲が悪くなって離れたという事は神様に大変申訳ないような気がするが、そう考えてよいのでしょうかと相談に来たので、結構ではないか、あなたが喧嘩したために一つの教会が二つに増えたではないか、若し仲がよかったら、何時までも一つの教会ではないかと言ったのです。その別れた人は非常な発展をして立派な教会になりました。そうして元の会長の人はボヤボヤになってしまって、行方が分りません。そういう事もあるのですから、敢えて、しっくりゆく事がよい時もあるし、そういう仲違いをして結果がよい時もあるのです。そうなると人間の判断で決める事はできません。神様の方では、その教会を増やそうとする場合にわざとそういうような芝居をする事がよくあります。とに角実に深いもので、とても分るものではありません。人間的の判断をするのが一番危ないのです。又、正直でなければいけないと、それは結構です。しかし或る場合には嘘をつかなければならない事もあります。というのは正直のために結果が悪い事と、嘘をついたために結果がよい事と両方ありますから、要するに結果なのです。結果という事は大局から見てです。そこですが、大乗信仰と小乗信仰の違うところです。大乗信仰というのは結果がよければよいので、小乗信仰は結果を見ないで、ただ正の判断のみでゆくのです。だからそういう考え方は一種の主観です。千変万化、融通無碍という事はそういう事なのです。決めてはいけないし、型を作ってはいけないのです。

昔から信仰というと小乗信仰が多いので、殆んど小乗信仰です。それで小乗信仰のために、つまらない事を心配したり、クヨクヨして地獄を作っているのです。小乗信仰というのは信仰地獄に陥るのです。天国というものは大乗です。苦しんだりいろいろする事は地獄に陥るのだから、つまり苦しまない事です。病人でもそうで、あの病人を助けなければならないと思うのは結構ですが、その心配のために地獄になります。この間も相談を受けた事があります。精神病者ですが、どうしても助けたいと思っていろいろして、そのために気持が憂鬱になって、思案に余っていたわけです。それで私は“そんな事はわけない、すぐに病院に入れてしまったらよい”と言ったのです。それを病院に入れないで、どうしても治そうとするからです。そう言ったら、なんだか気がせいせいしましたと言ってました。というのはつまりこの間も言ったとおり、救われる人と救われない人とが時節が進むに従ってだんだん決まってゆくのです。だから救われない人はかえって諦めた方がよいです。そのためにかえって救うべき人が救われないという事にもなります。だからいろいろな事が思うようにゆかなかったり、良くなったり悪くなったりする、というのは救われない人だから諦めた方がよいです。そういうのは医者にでも任して手を切るのです。そうしてスラスラとゆく人だけを助けるのがよいです。ところが又そう決めてしまうと又間違ってしまいます。そこのところは臨機応変にやる事です。或る程度までは変化がありますが、原則をそこにおいておくのです。だから何時も言うとおり、楽しみながらやるようでなければ駄目だというのです。苦しみながらやるというのにロクな事はありません。という事は地獄だからです。できるだけ救うという事は、一生懸命にやって或る程度までゆけば、そこで決めてしまうというのがよいのです。どこまでも救おうとするから、そのためにかえって骨が折れるし、又救われない、霊界行きの人はしようがないのだから、そうすればこっちも楽です。これはちょっといけないなと思ったら、そこのところはうまくやって、ピタッと断わらないで、恨みの残らないようにやるのですが、それも一つの智慧正覚がなかなかいります。そういうように言うと、小乗信仰の人はピタッと決めてしまいますがそれはいけません。好感を失わないようによく話をして、“とても私にはお助けする事はできない”と言って逃げるとよいです。そういうのに限って親戚とか夫婦なら片方が反対して“医者にかかれ、かかれ”と言うに違いないのですから、“これはなにしろ家中の人がみんな賛成しなければ、その想念が邪魔するから、お宅の方で全部賛成して『是非』と言うなら私はやってやるが、反対する間はその想念が邪魔するから、もう少し時節を待ちましょう”といったような工合でもよいでしょう。そういう理由は沢山あります。又そういううまくゆかない人に限って反対があるものです。そうかと言って家中揃って縋る場合もありますが、それでもうまくゆかないのがあります。そういうのを逃げるのは難かしいです。その時の事情によってうまく考えるのです。つまりそれが智慧です。そういうのは結局原因は薬毒で、薬毒の多い結果です。そのために衰弱してゆくのです。“なにしろ薬毒が非常に多いのだからそれをとるまでに体がもたない。だからその覚悟をした方がよい。けれどもただ苦しみをできるだけ無くしてアノ世行きになるなら御浄霊は結構でしょう。だからそのつもりでお医者にみてもらって、苦痛を軽くするという意味でみてあげる”と言うなら、どっちに行っても間違いありません。先方も、間違っても恨む事はありません。そういうようにやれば、こっちも別に心配にはなりません。信仰地獄に落ちる事はないから気楽なものです。それから又そういうようにしてやれば決して問題は起こりません。問題の起こるのは必ず請合って逆にゆくという時に、その家の誰か反対者が、それみた事かと、それを投書したり、ひどいのになると警察に密告するという事があります。ですから今言ったようにやるのが一番よいのです。これからだんだん浄化が強くなるに従って、治るのも悪くなるのもだんだん早くなりますから危ないのです。今までなら、これはまだ大丈夫というのが、今後はいけない方ならいけない方に早く行ってしまいますから、それを心得て今言ったように要領よくやる事です。話はそのくらいにして、質問にかかります。

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「ストレプトマイシン、ヒドラジット等は激しい薬毒ではありますが、マイシンなら何本と、どの程度以上が生命に危険の及ぶものでしょうか」

それは分りません。そういう事は人の体にもよります。マイシンを五十本うっても平気な体力の人もあるし、十本か二十本で非常に弱る人もあるから、その人の体力によります。それから医者が扱う時に、何十万単位とか言うが、それもあんまり知れたものではありません。医者が思っている体力がそれだけの時もあるし、医者の考えでこれはもっと強いという時は強くやるからで、分るものではありません。それは問題にする必要はありません。それからその人が長い間医者にかかったり、又いろんな薬があります。マイシンなどが出来る前のもありますし、漢方薬もあります。この漢方薬が恐ろしいのです。マイシンやペニシリンより漢方薬の方が恐ろしいかもしれません。これは量が多いのですから。

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「只今の正邪の事につきまして、霊界において罪ほろぼしのために修業をさせられ、そうして現界に生まれて参りますが、よく生まれながらにして悪役と申しますか、悪の権化というのがおります。今朝も新聞に、五つになる子供が三回も火付けをしたとありました。又新聞によくあります二十前後の青年が簡単に殺人をしたり致します。そういうのは一つの悪役の役割というか使命というものがあるのでございましょうか」

それは客観的に見るからで、まだ見方が半分なのです。つまりこういう事があるのです。それは前の世では良い人で良い事をしていたが、悪い奴に会って酷い目に遭って、〈死んで霊界に行くと少し違いますが〉まだ現界で生きている時に、危ない瀬戸際に、これはオレが間違っていた、これだけ悪い奴がいて威張っている、それならオレはこの次は悪い奴になって敵(カタキ)をうってやる、善人はコリコリした。と、それで死んで、それが残っているわけです。

「そういう危険な者を神様はお出しになられるのでございますか」

神様がお出しになるわけではないので、宇宙はそういうようになっているのです。神様というのは決して自由ではないので、天地の律法があり、その天地の律法はどうしても守らなければならないのです。神様もそれを外すわけにはゆかないのです。ですからこの人ならこの人が信者になって、とても一生懸命にやっているとすると、神様は恵を与えたいが、その人のメグリを消してしまわなければ与えるわけにはゆかないのが天地の律法です。ですから一生懸命で、熱心でなかなか恵まれない人がありますが、それは前のメグリが残っていて、それがとれないために恵を与える事ができないのです。丁度ここにザルがあるとして、そのザルに物を入れてあげたいという場合に、ザルが汚ごれているために掃除をしてきれいにならなければ物を入れられないのです。そういう場合に、神様の方で急がれる場合には荒っぽくとるのです。大変な危難を受けるというのがありますが、これはそういう訳なのです。その例として或る家で長男が道楽で、金を湯水のように使って困る、親の財産は無くなるというので、どうしたものかと私に相談に来たのです。“神様のおかげで良くしてくれ金を使わないようにしてくれ”と言うから、“それはできない、むしろ使った方がよい”と言ったら、びっくりして、どういう訳ですかと、その母親が来てましたが、そう言うので、“あなたの所の財産は罪がある。本当にできた財産ではない、先祖が他の人をいじめて作ったとかいう金だから、神様はあなたの信仰に対し、あなたにお蔭をあげようと思うが、罪の固まりがあっては駄目だから、それを早く無くしなければならないので、長男はそれを無くする役目をしているのだから、早く無くなった方が、あなたの家の罪が無くなってよいのだ”と言ったが、分らなくて、とうとう駄目になりました。

「宿命のような事であっても、神様から御覧になられて情状酌量されるという事は」

それは宿命ではなく運命です。宿命というのは一定不変なもので、絶対にどうにもなりません。此処から此処までという枠が決められていて、その間だけの階級はありますが、それよりも上に行く事も下に行く事もできないのです。その間は自由に行けるので、それが運命です。それだけに面白味があります。その人のやり方によっては運命の最高に行けます。たとえてみれば、現界で言えば、日本は大臣などにも訳なくなれますが、大統領とか総理大臣というのは、幾ら骨折っても苦しんでもなれない人はなれないのです。そういうのになる人は決まっているのです。それは宿命です。

「それは悪をする者の祖霊にも止める事はできないものでございましょうか」 

それはできません。それは正守護神ですが、正守護神も骨が折れるのです。というのは悪をするのは、邪神の眷族が憑いてやるのですが、それを押さえる力がないのです。そこで信仰にはいると、正守護神に力が出るから、悪を止めさせる事ができるのです。ですから信仰にはいると悪い事をしたくなくなるというのは、悪霊が萎縮するからです。

「本守護神、副守護神、一切は神様がお与えになってあるものでございましょうか」

神様と単純に言うが、神様と言っても、一流、二流、三流とありますが、一流の神様は何でもお許しになります。それは殺人強盗でもお許しになります。それはそうでしょう。戦争もお許しになりますが、これは何十万と殺すのですから、殺人強盗どころではありません。それは一流の神様はお許しになりますが、二流、三流の神様はお許しにならないのです。だから二流、三流の神様は始終邪神と戦かっているのです。そこに面白味があるわけです。

「神様もお忙しいので、つい不完全な人間をお造りになられるわけで……」

いやいや、神様はお忙しいという事はありません。それは人間の方です。神様の考え事は一秒もかかりません。忙しいとか忙しくないという事は時間空間があるからで、神様は時間空間を超越しているのです。つまり時間がなかったら忙しい事はありません。だから忙しくてアップアップしているのは頭が悪い人です。私などは、人がよくお忙しいでしょうと言うが、私は忙しい事はありません。人が一時間でする事を私は一分でやってしまいます。

「人が生まれる場合に、その本守護神、正守護神、副守護神という守護神が宿る時期はどういうようになっているものでございましょうか」

本守護神は腹に宿った時に直ぐです。それから正守護神は生まれた途端に直ぐ憑きます。それから副守護神は直ぐという事は滅多にないので、大抵は物心がついてからで、五つとか六つという時に憑きます。これは早く憑いても仕事がないのです。副守護神というのは悪い事をさせるのですが、早く憑いても赤ん坊に悪い事をさせる事はできないからです。

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「世界でも日本でも、今は男より女の数が非常に多いという事を言われておりますが、これはどういう訳でございましょうか」

そうでもありません。日本は男の方が多いです。今は戦争で男が死にましたからそれで女が多いのです。

「パリーの病院での子供を産む率が、女は男の三倍という事でございますが」

白人は女の方が多いのです。東洋人は男の方が多いのです。それは東洋は経で霊ですから、東洋はどうしても男の方が多くなるのです。西洋は体で緯ですから女の方が多いのです。それが原則です。ただ戦争とかで多い少ないがありますが、何百年の平均を見れば必ずそういうようになってます。だから東洋は男が威張って、西洋は女が威張るというので、これはそうなっているのだからしようがありません。支那などは妻君を五人も六人も持って平気ですが、西洋はそういう事はありません。むしろ西洋の中世紀以後は女が男娼を買うという事が随分あったのです。私はポンペーのを読みましたが、男娼というのが非常に多かったのです。裸体では男の裸体の方が多いのです。それはいい体で、曲線美で、まあ男のストリッパーです。これはとに角面白いです。それでミロクの世になると両方が平均してきます。つまり今言う偏(カタヨ)ったのが緩和されてくるわけです。

「日本では、パンパンになるのも、男が少ないのだから、生理的には許されるだろうという事を言われておりますが」

女が多いからというのですか。しかしこの頃はそうでもないので、男も増えて来ました。それは学者が僅かの事を基にして、ケチな頭で考えてやる事で、問題にはなりません。

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「強羅の御面会になりましてから御神体が変っておりますが、何か意味がございましょうか」

別にありません。これは前からあったのです。それで大いに部下に働かせるためにしたのです。意味は言えばありますが、大して言う必要もありません。これは五秘仏と言って昔からあります。いわゆる御脇下の四柱は、観音様の四天王とか観音様の四魂とも言います。

「真言密教は五秘仏で――」

そうです。それで真中は私だから白髪です。あとのは頭が黒いでしょう。

「廻りが淡墨色で、御名前が暉月という事に何か意味がございましょうか」 

あの時分にはこういうようにやっていたのです。これは大本教の時に出口王仁三郎先生からこの御名前をもらったのです。

「真言密教では四人は女になっており、原子科学の発見による、陽核の廻りを陰電子がグルグル廻っているのと共通するところがあります」

金剛仏というのは主神になってますから、それは本当で、合ってます。やはりその時分からチャンと決まっていたのです。

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今度の山崩れですが、これもなかなか神秘があります。これは大体上の方から崩れて来たのです。

「明主様より上にいるという事は不自然ですから」

それもありますが、六月十五日に神山を中心にして左進右退の渦巻が始まるというので、此処は神山になりますが、その第一歩の型です。崩れて、道了さんが飛ばされたが、これは宗教の型です。そうして水が無くなって、私の所で前に水源地を買ってありましたが、その水を供給して、今強羅一円の人はその水で助かっているのです。ですからこれは救世教が世を助けるという小さな型です。

「崩れました所を見て参りましたが、道了権現を崩すために崩れたもののように思えました」

そうです。ですからあとは別に心配いりません。

「救世教は後から来たのであって、その上にいるのはけしからんと言うのは無理のようですが、先に居たと申しましても、今までは夜だったからお許しになったので、昼になればもう邪魔だから」

いや邪魔という事はありません。全部が神様のものだから邪魔という事はありません。しかしあそこに居ると道了さんが苦しくてしようがないので、道了さん自身が崩してしまったのです。それで天狗の眷族がみんなで石をゆさぶったのです。丁度神様が、邪魔だから取除くと結果から言えばそうみえますが、そうではないので、自分が苦しいのです。時期がだんだん迫って来たから、早くしないと苦しいから、道了さんが自身で壊したのです。だから祖霊もそうです。祖霊をあんまり奉ってよくすると、祖霊が苦しいのです。だから仏様に御屏風観音様をお祀りしても、祖霊の方とあんまり段が違わないと祖霊が苦しいのです。だから自分で何とか末席に行こうとしていろいろな事を知らせるのです。

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「お盆には亡くなった知己、親戚という者が仏壇に来られるのでございましょうか」

来られます。

「それはどういう意味でございましょうか」

あれはお釈迦さんが仏界をつくった時に、そういうようにしたのだから、どんな地獄に苦しんでいる者でも、一年に一度ずつは娑婆に出してやるというわけで、許されてあるのです。

「そういう事とは別に、姻戚で無縁になっている霊が沢山あり、又私共の場合、教会の信者で亡くなった者がある場合に、自分の家の仏壇で供養してあげたいという場合にははいって来るものでございましょうか」

祀ればはいって来ます。

「その場合はどういう名前で作りましたら宜しいのでございましょうか」

しかし作らなくてもよいでしょう。あなたの方のごく関係した者だけでよいです。何となれば、その人の遺族が祀るのが本当なのです。それでそういった無縁になってしまっているのは、一々救うとしたら大変です。昔からとなると何億、何十億とあります。それを祀るとしても、みんなは来れないかもしれません。だから良いとか悪いというよりも、そういう必要はありません。仏立講でやってますが、それをやっている仏立講が最近は大変な苦境に陥ってます。

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「御神前のフスマを閉めようとして、無理に閉めたところ、大きな物音がし、明主様の御写真が床の上に落ち、ガラスが割れ、御袴の裾に針の先で突いたほどの傷と、かすったほどの傷が二、三カ所つき、御神体の表装の下の方に三分くらいの切傷がガラスの破片でつき、お茶が少々かかりました。表装をしなおし本日持参致しました。お詫び申し上げます」

見て差し支えなければ浄めてあげます。

「その事につきましてこういう事がございました。その以前に屋根の雨樋の修理のために職人が屋根に上がるので、御神体と御写真をお外ししたそうでございます」

それが悪いのです。その時外したのがいけません。

「屋根に人が乗りますので」

乗る時は神様にお詫びすればよいのです。移動したのがいけません。

「勿体ないと思いましたので」

そうではないのです。それは修繕するのだから、やむを得ないのです。神様は許されます。屋根に上がらねば修理できないので、樋が直らなければ被害を蒙りますから、神様としてもおとがめはありません。神様は理窟が立てば決しておとがめはありません。それを外したという事は、神様を侮辱したわけです。神様は随分気がきかないというように見られたわけです。ですから神様は気に入らないのです。

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「教会と住居が同じでございますが、住居の離れにおかけしてあった御神体を、同じ屋敷内という意味で教会の方におかけしましたが、それで宜しいものでございましょうか」

光明如来様を教会とは別々にするのですか。それならよいです。

「一つでございます」

それは別々でなければいけません。そうでなければ公私混同です。やっぱり教会というのは宗教活動のためにある公なもので、個人の方にあるのは、個人の家庭を御守護していただくというので、それは別です。

「一軒の家で離れがない場合には御神体は一体で宜しいでしょうか」

それも臨機応変です。広い家なら別々でよいが、狭い家は一つでよいです。教会と住居を区分して決められるくらいの広さがあれば別々にした方がよいです。それから又急ぐ場合とか、いろいろな場合に、或る時までは、床の間が狭いとか、御神前が狭いという場合には兼帯でしてもよいです。それから、その部屋の工合が、もう分離して別々にしても充分によいという場合には今言ったとおりにするのです。

「出張所の場合でお膳をお供えする事ができかねます場合にはお茶とお菓子で宜しゆうございましょうか」

それはよいです。それはその家とその状態によって臨機応変でよいです。それから御神体も、小さな家に大きな御神体はいけません。と言っても今は「大光明如来」と「光明如来」だけですが、それも大光明如来様がよいと思って小さな家にするのはいけません。それは光明如来様の方がよいです。丁度合ったのが本当なのです。

「光明如来様を御奉斎致し、大光明如来様は家が粗末なために御奉斎致しておりませんが、その場合に明主様の御写真を御奉斎するのは御無礼になりますのでしょうか」

それは構いません。私の写真も大きい小さいがありますから、小さいのをすればよいです。

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「レントゲンの光よりお守様の光の方が強いとの御教えをいただいておりますが、先日お守様をおかけ致してレントゲンが写りました事がありましたが、これは相手の信者に分らせるためでございましょうか」

それもあるし、同じお守によっても、かける人によって光の強い事もあるし弱い事もあります。信仰の強い人は光も強いのです。それから扱い方によっても違いますし、それから不断の扱い方考え方によっても光は強くなつたり弱くなつたり、絶えず動揺しているものです。だから大体は無論強いのですが、その場合によっては、以上の事もあり得るのです。それで一番影響するのは、その人の信仰的な想念が非常に影響するのです。

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「自分の廻りの者、たとえば親子、兄弟、知人という自分に関連のある人が罪のために悩んでいる場合に、神様にお詫びして、その罪をつぐなわせていただくという事は、お願いできるものでございましょうか」

できますが、本当ではありません。それは他の宗教はそれでよいが、救世教はちょっと違います。そういう贖罪的の事はありません。ですから或る場合に、それはない事はないが、大体はないとみてよいのです。つまり贖罪をしたら人を救えないのです。それが三人や五人ならよいですが、一人で百人も二百人もの贖罪をしていては、その人は活動ができません。だからキリストのように全人類の贖罪をしたために命が無くなったのです。これは月の神様の系統は贖罪をするのですが、私の方は火の系統の神様ですから贖罪はないのです。月の方は洗うのですから、丁度洗濯の水が汚ごれるようなものです。ところが火の方は焼いてしまうのですから、むしろ灰が出るのです。かえって火力が強くなるのです。

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「想念の問題ですが、お守をいただけば皆一様に効果が同じだという考えを持っている信者が多いのですが、そこにレントゲンの光がお守を通ったり通らなかったりする時に疑問があるという事になりますが」

ところが想念の問題はこうだと思うと窮屈になるのです。だからそれは自分自らわく気持でよいのです。だからその人が大して思ってない、或いは有難くて有難くてしようがないという、それでよいのです。感謝です。

「講演会で千篇一律だと話しますと、想念の=感謝という事を説く道がなくなりますが、そこで想念の並行という点を説くと」

それは説かなければよいです。しかし想念がなければ御利益がないと言うと、それは強制されたもので、想念でないのです。想念というのはわき起こるものです。だから千篇一律と思っても、自分だけはどうしてもそう思えないという、それが本当の想念で、これが大乗的なものです。想念を説くのもよいのですが、それも時と質問によってです。ですから私は不断は言いません。さっきの質問によって、そう言わなければならないからそう言ったのです。

「御守をいただく事によって想念が浄められてゆくという事は」

お守をいただけば想念が浄まる事も事実であり、また想念の如何によってますますお蔭を蒙る事も事実で、一方的には決められないものです。これは真理ですから、真理は決めれないものです。

「木原さんが言わんとしているのは、木原さんは御守中心主義ですから、御守をいただいた以上、想念によってお光の威力に増減はないというのです」
「私は根本原則を言い、松井さんは想念によってと言うのです」

ですからどっちも合っているのです。

「結局身魂が浄まって上がって行くほど、光は強くなって行くというわけでございますので」

そうです。だからそこで決められないというのはそこです。理窟は両方にあるのです。丁度十の字です、緯の方は緯ばかり言っていて、経の方は経ばかり言ってます。ところがやっぱり真中に行くのですから同じです。

「ですから木原さんと私と合わせて一本というわけですか」

まあ、そうも言えます。

「大体信仰が深いからお蔭をいただいたというのは、実はそうではなくて、神様のお蔭をいただけたから信仰が深くなるという事でございますから」
「信ずるから治る、信じないから治らないというのではございませんから」 

いや、信じなくても治ります。ところが神様の方は、信仰にはいらないうちは信じなくても治るわけです。ところが大体分ってきても信じないと、そこにちょっとくい違いがあるのです。

「私はこう言うのです。同じ御浄霊をお受けしても、その人が本当に有難いという時と馬鹿にしている時とは自ずとお蔭をいただく程度に差があるというのです」

ところが一概にいかないので、何も知らない人は最初は、こんな事で治るものかという事は、それはそれで理窟に合っているのです。それから奇蹟を見せて、なお疑うという事は、人間の方が間違っています。だからそこにおいて結果に違いが出て来ます。だから再浄化というのはやっぱりそういうわけです。一旦治ったのですから、そうすれば絶対だから、これは大したものだと思えばよいのですが、治ってもまだグズグズしているから、そこで正守護神が怒ってしまうのです。そこでもう一度苦しめてやろうという事になるのです。

「お光をいただき病気が治りながら、想念が感謝を伴なっていないという時に再浄化の可能が多くなるわけで……」

そうです。神様の方は寸分違わないので、理窟に合っているのです。それで今言う屋根に上って樋を直すという事は立派なものですから、そのくらいで神様がけしからんと言うわけがありません。若しそうなら神様くらい気のきかないのはないという事になります。神様はそのくらいお許しになるのが本当だと思うのが本当ですが、それを御無礼になると考えるのは、神様は“樋を直すのが本当なのだから、オレをそんなに見ているのか”となります。そこに神様と人間の方との考えが違うのです。

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「稲作の場合に、水面に青ミドロという苔がつきまして」

しかし雨が降れば取れるでしょう。取れなければ、それは水がよどむためです。川水ですか。それならもっと水の捌け口をよくするのです。それは水がよどむからです。

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「教師の父親でございますが、刀を二振買い入れ行者の言により祀っておりましたが、一時家運が非常に栄えました。現在は仕舞ってあります。これは如何処分致しましたら宜しいでしょうか」

先祖は祀ってありますか。

「お祀りしてあります」

刀に霊が憑いていて、祀られたので非常に感謝して非常に働いてくれたわけです。しかしそれは信者にはいらないうちはそれでよかったが、はいった以上はそういう必要はないから、仕舞ったままでよいです。前には霊界が闇だったから、ロウソクだけでも明かるくて有難いが、太陽の光をいただいた以上は問題ではありません。それで気になるとしたら、刀を時々浄霊してやるとよいです。そして月並祭の時に、神様の側では勿体ないから、次の間あたりに台の上に乗せておけばそれでよいです。

「本人は御神体を御奉斎しておらず、二町ほど離れて息子が御奉斎致しております」

息子の方でよいです。そうすれば祝詞なども耳にはいりますからよいです。それもそう長くなくて、三回やればよいでしょう。あんまりよくすると、かえって苦しいです。そういう霊を祀ったりする時に、あんまりよくすると、先方は苦しいので、やっぱり相応で丁度よいくらいにやるのですが、それは常識で判断すれば分ります。

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「稲作につきまして、藁を入れ過ぎまして分蘖が少なかったという事がございました」

それは入れ過ぎたのです。臨機応変で、あんまり沢山やると根伸びの時に妨げます。大体は土なのですから。どうも土を軽視していけません。本当は藁も何も入れない方がよいのです。

「寒い所においてもでございますか」

そこですが、原則としては入れないのですが、寒い所は温めるために入れるのですが、そうすると土を邪魔するから、土を邪魔しない程度に入れるのです。又種が肝腎ですが、お蔭話によくあるのは、農林何号とか、何の種という事を書いてあるが、それを書くようでは駄目です。種の種類は何でもよいのです。つまり自然栽培なら種がよくなるのです。

「最初の時はその田から取れた藁の八割を入れておりました」

それはいけません。百姓は藁で何か作る事があるでしょう。それはどうしますか。

「そういう事は考えずに致しておりました」

百姓は藁で作る物があるから、それを作って余った物を入れるのです。そういった事も理窟に合わなければいけません。根本はこれにあるのです。即ち信仰にはいって其処に光明如来様をお祀りしてあると、其処の霊界が温かくなるのです。そこで以前はそれほどでなかったが、年々温かくなるから、それで作物が非常によく取れるのです。だからだんだん藁とかそういう物を入れないで、土ばかりにした方がよいので、そうすればよく取れます。今までは藁を入れ過ぎたためです。そうすれば分蘖でも有肥田の倍くらいに増えなければならないです。それはそうなります。霊界の火素が増えますから、それが大きなものです。だから今は私は、そういった藁を入れる事を言いますが、いずれはそういう物は入れないで、土ばかりです。田でも堆肥というのは入れないで土ばかりです。そうするともっとよく取れます。

「東北方面は非常に近植えでございますから、分蘖の余地がありません。分蘖しないから近植えするというわけでもございます」

そうですか。では分蘖すれば遠く植えるわけですか。さっきの話みたいなもので、信仰はお蔭があるから深くなる、深くなるからお蔭がある、というようなものです。ですから原則は土です。土によって出来るという事ですから、その邪魔をしないという事をよく心得ていればそれでよいわけです。

(垂二十三号  昭和二十八年八月十五日)