七月一日
「この度の九州における惨状というものは、来たるべき大浄化の前提と関連があるものでございましょうか」
少しくらいはあるでしょう。
「少しくらいで、あれだけになりますのでございますから」
エーエー。
「堤防をもっと高く築くとか何とか言っても、こうなりますとどうにもならない事で、結局きれいになるより他ございません」
そうです。一般の者は霊的の事が分らないのです。それだけの汚たない物が溜まっているから流されたわけです。
「今度のイギリス女王の戴冠式の天然色写真を見ましたが、現実にあるものかと思うほどの素晴らしさで、又エリザベス女王は式中俳優のような役割をしておりました。それについて思いました事は、明主様の偉大なるお仕事に携わらしていただいているわれわれは、将来の希望を持ちゆとりを待つように日々努力するのが本当か、又将来への大きな希望が欠けている点が仕事の上に現われるものかという事を思いましたが、如何でございましょうか」
私が始終書いてますが、将来は素晴らしくなります。そうかと言って想像はつきません。英国の盛儀というものは立派ではあるが、一面悲哀を感じます。英国はそういう古いものを立派に見せて、それによって英国の権威を見せようというのですが、その気持たるや実に悲哀を感じます。そうでもしなければ英国の存在は世界から重きをおかれないのかと思います。丁度日本で神社のお祭りをするとか、いろんな儀式を盛大に行うというようなものでしょう。しかし英国も今度の女王あたりで最後ではないでしょうか。しかしあれも、キリスト教とかの宗教のためです。王冠を被せるのはウエストミンスター寺院の大僧正がやってます。そして何か一言いってます。
「人類のために奉仕することを誓うというような事を言っております」
それで、もっと古いのはイタリヤです。
「ああいうのを見ましても、大病院の非常に完備した設備を見るのと同じような感じでございます」
そうです。それを私が新しい構想で本物をこしらえているのです。
「軍隊なども非常に沢山、派手に使っておりました」
そういう事も、英国は世界に対する権威が非常に失墜してますから、英国の偉いというものを見せているのです。ああいう古くさいものを飾って、それを一生懸命にやってますが、そういう事にも悲哀が感じられます。そうしてあんな事をして英国の偉さを見せようというわけです。しかしそういう偉さを見せているうちに自分の植民地や何かがドンドン離れつつあるのです。又ソ連が力を貸して各地にいろんな問題を起こしている。そういうのを包含して新しいものが生まれる段階にはなる。しかし一歩前進して考えてみると、それは九州の水害よりずっと大きいです。
「中共も飢饉か何かあっているようでございますが、いよいよとなりまして神様がちょっとおひねりになられましたら、何が起こるか想像もつきません」
そうです。一番大きな事はスターリン歿後の変り方です。ばかに大人しくなってしまいました。だから共産主義はスターリン一代限りだという事を何時か言った事がありますが、さっきのラジオを聞くとポーランドで共産主義反対の運動が起こりました。この間の東ベルリンのような形です。衛星国が共産主義打倒の猛運動を起こしたのです。これから鉄のカーテンの中がドンドン崩壊して行きます。共産主義は非常な勢いで没落になるだろうと思います。一月の新年号の「⇒世界夢物語」に書きましたが、スターリンの方もアイゼンハウアーの方もああいう事になってゆくのです。あれはスターリン一代のものです。つまり暴力で世界を制覇しようとしたのです。それでうまくゆくわけがないのです。今に全然別の事の素晴らしい事があります。それは大浄化作用です。
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「長尾進(六十一才)二十七年人事不省となり、一カ月後に快復致しましたが意識朦朧とし、食事進まず、痙攣の発作があります」
中気が起こったのでしょう。普通の中気です。現在はどうですか。
「浄霊すると天庭が冷めたくなり、全身が熱いと言って、一日に三升くらいの水を飲み、小便は小量ずつ一時間に三回くらいで、膿のように白い尿が出ております。時々霊が憑ったように左の方を向き“お客様が来る”と言うそうです。若い時肺病、淋病をしたそうでございます。吐く息がくさく、又体臭もくさくございます」
信仰にはいったのは何時ですか。
「二十年に入信、二十三年に大光明如来様を御奉斎致しております」
所は何処ですか。
「名古屋でございます」
これは余程メグリがあります。何ういう事で信仰にはいったのですか。
「娘が肺浸潤でございました」
御蔭があったのですか。
「一旦よくなりましたが、死亡致しました」
何故信仰にはいったのですか。治らないうちに信仰にはいったのでしょう。それは信仰にはいると治ると思って信仰にはいったのですか。
「左様でございます」
信仰にはいってから死んだ人がありますか。
「二十二年に長女が、二十三年に次女が死亡致しました」
その人を信仰に入れたのは誰ですか。
「瀧先生でございます」
信仰にはいってから相当手柄がありましたか。つまり他の人を導くとか、そういう事はありましたか。信者を作りましたか。
「只今では七、八十名になります」
それはあなたがですか。あなたは支部長ですか。
「教師でございます」
あなたは本人の奥さんですか。これは普通の中風ではなく、霊的がからんでます。名前が悪い、というよりか良過ぎます。最初起こった時と今は同じですか、少し良くなってますか。
「少し良くなっております」
何処か見当が違っているのでしょう。手はどっちがブラッとしてますか。
「手はブラッとしておりません」
では中風ではありません。龍神です。此処(延髄)に固まりがあります。それで血管が圧迫されて頭が貧血しているのです。其処を浄霊したら治るはずです。溶け方が足りないのです。力がはいるのではないですか。力がはいると治らないから、力はできるだけ抜かなければいけません。つまり脳に行く血管が圧迫されて貧血しているのです。そこに、この人に居る霊が上がるのです。そうすると意識が不明になって、トチるのです。此処に一番固い所で骨みたいな物がありますから、其処を向うまで通すような気持で浄霊するのです。肩は張つてますか。
「大して張っておりません」
尤も此処の割に肩は張ってない人もあります。此処が相当溶けさえすれば治ります。その溶け方が悪いのです。何病気でもそうですが、浄霊の霊力の強い弱いによって治る治らないという事があります。その霊力というのは力を抜くほど強くなるのです。ですから力を抜く事が大事です。本当に力が抜けるようになったら大したものです。あとはその人の信仰の深さによって霊力が強くなります。という事は智慧正覚が根本です。それから一つ注意しておく事は、慢心すると霊力はずっと少なくなります。だから信仰にはいりたてで“自分なんかに、そんな、できやしない”とビクビクしている時には割に治るのです。“もうオレはできて来た”と思うようになると治りません。それは何故かというと慢心だからです。だからオッカナビックリの気持でやると治るのです。そうかと言ってビクビクしてやるのがよいわけではないので、つまり大いに神様の道具にならせていただいたという謙遜です。気持は、相手の病人は虫ケラほどでもないが、ごくつまらない人だというように思わなくてはならないのです。これは偉い人だと思うと、こっちの霊力が負けてしまいます。救世教は他の宗教から見るとまるで桁が違っているのです。その力をいただいているとしたら、世の中の人間は虫ケラのようなものです。しかしそれを出してはいけません。こっちは大いに謙遜しているのです。そこが難かしいと言えば難かしいです。例えて言えば、よく私などは世の中のちょっと偉い人などと話をして感心して聞いてますが、腹の中では信じてないのです。それで相手はすっかり私を信用させてしまったと思って、それから自分の計画などを持って来るのです。それでこっちはそれに乗るような恰好をしていて、最後の九分九厘に行った時にスルッと抜けてしまうのです。そういうやり方が一番よいです。そういう場合に先方は、明主様はすっかり自分の言うとおりになったから、これは下にいる廻りの者が自分に対して悪意を持っている、というように思いますが、それでよいのです。ですから喰えない人間にならなければなりません。よく喰えない人間と言うと悪い奴のようです。しかし事実悪い奴は喰えないですが、しかし善人で喰えない人間にならなければ駄目です。よく“酢でもコンニャクでも喰えない”と言うが、そういうようにならなければなりません。悪人は善人を手玉にとると言うが、私は悪人を手玉にとります。だから悪い奴を利用するし、又悪人でも大いに役に立つ事があります。悪い人間で教団のためになった者は沢山あります。ですからよく“あれは評判が悪い”と言いますが、そういう事は何も思わず、挨拶する時は挨拶してますが、それで結構よい手柄をしてます。つまりこっちに来るという人間は神様が必要があって寄越すのだから、人間的判断をしたら大変な間違いです。だからよく“あの人は評判が悪い、油断ができない、面白くない、そういう人間は教会に入れないようにしなければいけない”と言うが、そうではないのです。そういう人間だからこそ、その人間を立派にするのが本当で、それには宗教の力が必要です。東京の或るキリスト教会で、“少しでも間違った人は教会に入れない。純真な人を選って教会に入れるという事になっている”と、そこの牧師からそういう話を聞いたので、私は“そういう立派な人間なら教会に入れる必要はないではないか。悪いのを立派な人間にするのが宗教の仕事ではないか”と言うと、“それは本当の理窟だが、私の方はそうなっているのでしようがない”と言ってましたが、それは大変間違ってます。今までの悪人が跋扈したひどい世の中では、悪人もやっぱり一つの道具としてあるのです。それから中にはオワイ屋ゴミ掃除みたいな人間も社会には必要なのです。ですからそういうのを嫌っているのはしようがありません。“悪は悪をもって制する”という事がありまして、警察とか裁判官というのは随分悪いです。悪人以上のようなのが居ますが、しかしやっぱりそれも悪人をやっつけるにはそのくらいでなければ駄目だと思います。ですから必要悪です。信仰も大乗信仰と、小乗と中乗があります。この使い別けがなかなか難かしいのです。
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「親の代頃から稲荷の参拝講にはいり、豊川稲荷が主と思われますが、他にいろいろな神様のお札があり、店をはいって左側の高い所に祀ってあります。この処分は如何致しましたら宜しいでしょうか」
光明如来様の奉斎は何時ですか。
「一昨年と思います」
お稲荷さんは相当古いのですか。
「左様でございます」
お祭りはどうしてますか。
「別にしてないそうでございます」
それはいけません。
「榊と御飯を上げております」
榊は見当違いです。榊は神様であって、狐には上げません。
「如何致しましたら宜しいでしょうか」
そのままでよいです。そうしてお祭りをしてやるとよいです。光明如来様のお祭りの時に、光明如来様のお祭りが済んだら狐の方をしてやるとよいです。
「供物はどういう物でしょうか」
油揚は好きだから、第一番に供げなければならないです。それから榊でなく花をあげるのです。榊を上げると苦しいから、かえって嫌います。
「いろいろなお札は如何致しましたら宜しいでしょうか」
それは一度お祭りして、お断わりして、今までの御守護を御礼して、“光明如来様をお祀りしたから、元の御座にお帰りを願います”と言葉で言って、あとは焼いてしまえばよいです。そうしてお稲荷さんだけを残しておくのです。
「以前に家の中は工合が悪いという事でございましたが」
そのとおりですが、先祖からあるのはそれでよいのです。何時かそれを下にしたらいろいろといたずらをするのです。その家の奥さんを梯子段から突き落したりするのです。それで聞いてみると、オレを下に落したと言うのです。それは祖先の意志もあるから、そのままでよいのです。
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「先月の下旬の御教えに“正守護神が神様に力をいただいて病気を治す”という御言葉がありましたが、私達が病気を治す霊力との違いにつきまして御伺い致します」
つまり浄霊は浄めるのです。霊の曇りを取るのです。正守護神はそうではなくて、いろんな事をやるわけです。例えば悪い霊がついているから追い出すという事をやるのです。その時にその人の霊が浄まっていると追い出しよいのです。その追い出す力というのは神様からいただくのです。つまり浄霊してもらうとその人は浄まるから正守護神が働きよいのです。ですから曇りがあると、正守護神がいくら助けようと思ってもできません。
「病気が治る時には如何なる場合でも正守護神の働きと思って宜しいのでございましょうか」
そうです。しかしオデキなどは体にある膿や毒血が出て治るので、別に正守護神に関係はありません。
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「遠くにある墓所を近くに移したいという時に、宗旨が違ってもお許しいただけるものでございましょうか」
それは、宗旨が違わなければ追いつかない理由があればよいです。そうでなければいけません。
「先妻が死亡致し、その墓は、経済的理由によって先妻の実家の方に致しましたが、今度東京に移したいというのでございます。しかし先妻の実家では拒否しております」
拒否するとその霊が邪魔しますから、霊はこっちに来れません。そういうのはこっちにも墓をこしらえて分霊みたいなつもりで、それならよいです。
「骨は分けなくても宜しいのでございますか」
霊だけでよいです。それなら霊が喜びます。
「内妻が死亡致し、本妻の子供が死亡致しましたが、位牌の順序はどちらが上でございましょうか」
内妻が死んでから本妻になったのですか。つまり今のは後妻というわけですか。やっぱり内妻と本妻は同じです。違うのは手続上の事だけです。本当から言えば内妻も後妻も同じです。つまり前妻というわけです。
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「先ほど中乗という御言葉をいただきましたが、あの後もっと御教えをいただけるのではないかと思いましたが、初めての御言葉でございますので」
今まで言わなかったが、中乗が本当です。大乗にあらず小乗にあらず、そうすれば中乗になります。これが伊都能売です。
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「信徒と共に山にはいった未信者の土建業者が、途中木が倒れ人事不省となりましたが御浄霊いただきお救いいただきました。しかし家の者親戚の者が分らないため病院に入れ手当を受けましたが果々しくなく、いろいろな民間治療も駄目で、再び御浄霊をいただきに参りました。打った左足は、坐る事はできますが、上げる事はできません。この家のおばあさんが左足が悪くて寝ており、先妻も左足が悪くて死亡しております。それは、土建業者は梅毒にて六○六号を相当うっておりますが、梅毒の毒をうつされて関節炎を起こしたとの事でございます」
しかし梅毒で関節炎は起こりません。又足が不自由になるという事はありません。淋毒はそういう事はありますが、梅毒はそういう症状ではありません。しかし六○六号をやるのだから梅毒でしょうが、いい加減なもので、薬毒です。
「その後一進一退で、最近中風のようになり、全然歩けません」
手は何ともないのですか。
「何ともございません」
筋を切ったのでしょうから、これは駄目です。骨の故障ならよいですが、筋を切ったのですから駄目です。押して痛い所はありますか。
「ございません」
やっぱり筋でしょう。これはどうも浄霊でも駄目です。医者に行きましたか。
「医者に行き注射を一本しております」
中風の気配があるとすると、どっちかの手が痺れるとか何かあるわけですが。
「手の方の障害は全然ありません。舌が少しもつれております。それから血液検査は」
血液検査などは全然問題になりません。言語は、この辺(頸部、顎下)に固まりがあるのではないですか。これは中風の憂いはありません。
「或る医者は胃癌ではないかと言っております」
医者では病気は分りません。医者の言う事は駄目です。だから私は、医者に見せるよりか大工か左官に見せた方がよいと言うのです。大工か左官なら知らないと素直に言うからよいが、医者はあべこべをやるから危ぶないのです。
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「諸々の霊と家内の里の位牌とはどちらが上でございましょうか」
諸々の霊というのは何ですか。その家の系統のものですか。
「それは御伺いしようと思いました事でございますが、どういう系統のものが来るものでございましょうか」
何々家の霊とすればその家の系統のものが来ます。それは文字のとおりの働きをします。ただの諸霊だったら小さくして下の方でよいです。それは功徳にはなります。それには何でもはいれるのです。
「諸々の霊というより三界万霊として作った方が宜しいでしょうか」
三界万霊というのは非常に大きいですが、個人の家ではそういう事をしなくてもよいです。それは寺でやるのです。諸霊というのは小さくてよいです。それこそ道端の犬猫も諸霊です。
「そういう位牌を祀りますとはいって来るものでしょうか」
そうです。
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「遺骨が三体も四体も仏壇にはいってますが、本願寺などで納骨を致しておりますが」
骨をおいておくのはいけません。霊は非常に嫌います。納骨は一年以内にというので、早いほどよいのです。一年たってから入れろというのではありません。
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「十七才の女学生でバレーの選手ですが、急に体中が引きつり、名古屋医大にて舞踏病と言われました。肩から延髄の右に物凄い固まりがあります。光明如来様は御奉斎致しており、母親とその娘が入信しておりますが、主人はまだでございます。周囲の事情により入院をと言われておりますが、奥さんは病院に浄霊に来てくれと申します」
絶対にいけません。そういう事をあなたが私に聞くという事がおかしいです。そんな事は今まで知らなかったという事は変です。大体病院に行ってやるという事は、先方ではお医者さんにお任せしたのだから、こっちがやる事は間違っているから、やらないのが本当です。ただ、何かの事情で病院に行ったが、本人が“もういやだ、神様にお願いしたい”と言うし、又側の人で反対する者がないという場合には行ってもよいですが、一人でも反対する者があるのは駄目です。そこの主人公が“とんでもない事をした”という気持になって、あなたに頼みに来れば行ってもよいです。そうでない限りは絶対に行ってはいけません。人間界の事もそうですが、特に神様の事は筋がたっていなければいけないのです。筋が立たない事は絶対にしてはいけません。だからこの間話もし、論文も書いたように、合理性という事ですから、理窟に合っていなければならないのです。今のは理窟に合っていないから駄目です。何処から見ても理窟に合っていればよいです。肝腎の主人が医者にお願いするのでは全然筋は立ちません。
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「噴門と食道の所に癌があり、咽喉からは牛乳二合くらいしか通らず、あとは横腹に穴をあけて胃に流動物を送ってます。浄霊すると噴門の辺がもーっとして通らなくなります。そういうのは如何致しましたら宜しいでしょうか」
止めたらよいです。そういう間違った事をして助かるわけがありません。そういうのに引っかかっていたら、労多くして効無し、骨折り損のくたびれ儲けです。だから絶対にやってはいけません。
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「最近人工姙娠という事がありますが、その霊系統のものが姙娠するものでございましょうか」
そうです。男の霊系統です。ですから自分の系統を人にやるようなものです。祖先が怒りますから、そういう家は断絶します。
「学生などがアルバイトでやっておりますが」
これはドイツで成功して、日本でも真似してやっているのですが、そんなに沢山はないので、一人成功したという報告があってます。これは一時的なもので、ずっと行われるという事はありません。それはまあ理窟には合いますから出来るには出来ますが、霊的には全然違っているから駄目です。先祖が怒りますから家は断絶してしまいます。
「やった方は断絶という事はございませんのでしょうか」
そうです。貰った方です。しかしやった方も、それっきりのもので元も子もありません。強制的にやったのではないから、頼まれたのだから頼んだ方に罪があるのです。だからやった方はパンパンを買うようなものでしょう。
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「輸血の場合には供出する方と受ける方とは、どちらが曇るわけでございましょうか」
しかし大したものではありません。若し受ければ医者が罪を受けます。だから名医ほどその系統というのは悪いです。とても不幸です。
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「人口調節の場合には強い罪になりましょうか」
そう強い罪ではないが、或る程度は罪になります。
「事情があり、やむを得ない場合には許されるものでございましょうか」
やむを得ない事情というものはありません。やむを得ないという事は既に罪を構成しているのです。人工調節という、姙娠中絶とかは殺人です。ただ殺人が小さいだけで、殺人には違いないから罪は罪です。
「芸術家が自分の芸を生かすために姙娠を避ける場合がありますが、これは許されるものでございましょうか」
許されません。
「調節の場合でございますが」
軽い罪です。第一祖先が非常に怒ります。罪も罪ですが、祖先は系統が断えるという事を非常に怒ります。その系統を絶やすという罪と、祖先の怒りでロクな事はありません。しかしそれは小さな罪です。中絶の方が大きな罪です。やっぱり物質の大きさによります。
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この間チャップリンの殺人狂時代という映画を見ましたが、“一人を殺すと殺人罪になり、百万人を殺したら英雄になる”というような事を言ってましたが、うまい警句だと思います。スターリンなどは地獄で大変な苦しみをしますが、あういうのは本当の根底の国です。それで一番罪を軽くされて六百年で許されるのです。だから地獄に行って改心したところで六百年以上かかるのです。ヒットラーは軽いでしょうが、スターリンは重いでしょう。何千年でしょう。最高が六千年ですから、最低三千年くらいは地獄に居るでしょう。だから私は“愚かなる者、汝の名は英雄なり”と言うのです。英雄と言われて、僅かの間名声を博するだけで、その先の長い苦しみを知らないのです。
「マホメットは弘めるのに、他を征服して弘めたという事でございますが、これはどうなりましょうか」
罪と手柄と両方になります。そういうのは差し引きになるから割合に軽くなります。しかし罪だけの償いはあります。だから非常に良い事をしても、その罪だけは地獄に行くのです。そこで閻魔大王が、お前は良い事をしたから天国にやる、しかしこういう悪い事をしたから、一年とか二年は地獄に居ろ、という事があります。
「神武天皇などが陣頭に立たれてやった事なども、善政を施くためのものではあっても罪は罪でございましょうか」
無論です。むしろ天皇などは罪は重いでしょう。身分の高い者ほど罪は重いのです。明治天皇などもそうですが、いろいろな天皇で地獄に行っているのは沢山あります。
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「美術館に道八の鉢がありますが、道八には初代、二代とあるものでしょうか」
あるでしょう。あの鉢は有名な物で、乾山の次にゆく物でしょう。
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「粗食が消化器を強くするという建前から、生野菜を食べるという事は如何なものでございましょうか」
生野菜より漬けた物の方がよいでしょう。私は生野菜はいやです。生胡瓜などを食べるのはキリギリスのようです。医学の方で生野菜の方がよいと言うのがありますが、それは間違ってます。それは煮るとか漬けた方が美味しく食べられます。生野菜を好きならよいですが、美味しくもないのに、衛生によいというのは馬鹿気てます。美味しくして食べるのが一番よいです。
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「資格者と致しまして、人を救う事、信仰の向上を図る事、御奉仕とを如何様な順序に考えましたら宜しいものでございましょうか。又金銭物質の御奉仕の意義、方法につきましてお伺い申し上げます」
恐ろしい質問だね。それは、どっちが肝腎だという事を考えるその事が間違ってます。そういう事は考えないのが本当です。というのは、神様はその人の使命、その人に与えられた能力によって人を救う御用をする人もあるし、お金の御用をする人もあるのです。向上は全般ですが、各々その使命があるのです。というのはそういう事情になって来るのが使命ですから、そうなったらそうすればよいのです。金が集まって来て、人を浄霊するよりもというのは、そういう使命があるのです。又金がない、信者を沢山作るというのはそういう使命があるのです。それは周囲の事情がそうなって来ますから、ただ素直にそのままを考えて進んで行けばよいのです。それから向上という事は、一番の事は智慧正覚です。いろんな事が分る事です。分ると言っても間違った分り方ではいけません。その標準は御神書です。御神書に書いてある事が大体“なるほど”と思えれば、それは智慧正覚が大分上がっているのです。“どうも分らない”というのもあるし、その時はなるほどと思っても、家に帰れば忘れるというのもあります。いろんな事がフッと分るのは智慧正覚が向上しているのです。病状をみて、この人はこの病気だという事を当てれるのは、余程智慧正覚が上がってなければならないです。だから以前は五つ分ったが、この頃は六つ分る、七つ分るというのなら智慧正覚が向上しているのです。
「御奉仕のやり方想念によってひっかかるのがあるのではないかと思われますが」
御蔭ですか。前に私が大本教に居た時に、或る人が献金を頼んだのです。するとその人は綾部に行く途中で芸者買いをして使ってしまったのです。そうすると無駄なようですが、ところが決してそうではないのです。その想念は直ぐ神様に通ずるものです。“それは霊は行っているので、体だけが使われているのだから何でもない、上げるというのを持って行って途中で使っても同じだ”というので、私はなるほどと思いました。上げたいという想念です。それが一番分るのは、死んで間もない霊が咽喉が嗄れてしようがないと言うので“遺族が水を上げたでしょう”と言うと、“そうではあるが、その想念が悪いから飲めない”と言うのです。“上げたい”という心で上げると飲めるが、女中に任せたり、お役でやっていると、その想念が間違っているから、飲んでもうまくないし、又飲めないというのです。霊的の事は想念が肝腎です。霊主体従で霊が主なのですから、“これだけお上げする”という気持で上げると、途中で無くしても、そんな事は関係ありません。
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「一般に無神論者と言われている中にも、先祖祀りという事はしている所はありますが、どうもお蔭をいただけません。そういう人達をこのお道にお導きする方法を御教えお願い申し上げます」
別に方法というのはありません。何故かというと、導くという事は導かれるというそういう人が機会を与えられた場合に、話を聞くとか、こっちの新聞を見ればそれでよいのです。あとは心配しなくてもよいのです。何故と言って人によって時期がありますから、その人が救われる時期が来ないと、幾ら言っても駄目です。その時期というのは非常に神秘なもので難かしいものです。例えば木なら木として、幹があって枝がありますが、幹が救われてから次に大枝、小枝、葉というのが順序です。ですから幹が救われて、次に葉を救おうとしても、それは順序が違うから、そうはゆきません。そこで救世教の人は、私は根です。幹部の人は、幹の人は今はちょっと言えませんが、大枝の方でしょう。大枝が救われて小枝が救われて行くのです。それを放ったらかしておいて葉を救おうとしても、それは順序が違っているから救われません。そういう時期が来れば、喜んで話も聞くし御神書も読みます。だから分らないのはまだ時期が来ないのです。だからスラスラ行くのは時期が来たなと分るし、割合に骨を折るのは時期が来ないのです。それからこの間も書きましたが、滅びる人と救われる人とは決まっているのです。ですから滅びる人は幾らやっても駄目です。だからさっきの“食道が悪くて、噴門から何うとかする”というのは、もう救われない側になっているのです。救われるのなら、そうならないうちにチャンと信仰にはいっています。ですからそういう人を救おうとしても無駄というものです。それは別に難かしい事はないので、見別ければよいのです。この人は救われるか、或いはもう駄目な人かという事は直ぐ分りますから、どっちかというと、楽にスラスラと行く人は時期が来て救われる運命にある人です。それから楽に行かないのは救われない方です。この間の論文に書いてありますが、救われない人がずっと多いので、救われる人は十人に一人はないくらいなものです。最初は誰でも救われると思ってやりますが、救われない人を一生懸命にやるために、救われる人の方が疎(オロソ)かになり、それが大変な間違いです。そういう事を見別けるのもその人の智慧正覚が向上していれば見別けもつきます。ですから智慧正覚を磨けばその判断力がつくのです。それで智慧正覚の磨けた人は、人から質問を受けても正確に返事ができるから、一般の人も早く信仰にはいるというわけです。
(垂二十二号 昭和二十八年七月十五日)