御 垂 示 録 (第二十一号)

六月一日

最近名古屋の新聞に出た事で、私は題だけで本文は読んでませんが、やっぱり病気で医者にかからないで死んだという、時々あるような問題をデカデカと取り上げていました。これから浄化が強くなるに従って心得ておかなければいけない事は、なおりが早い事と、死ぬのが早い事で、そういうようになって来ます。とてもなおるまいと思うのが案外なおったり、まだ大丈夫だと思っていたのがポカッと死ぬという事が出て来ます。それで邪神の方では非常なあがきを始めますから、つまらない事でも問題にしようとして狙ってます。そこでなおれば黙まってへこんでしまいますし、ちょっと命に関わるような事があると、それこそ“それ見た事か”というので、大いに取り上げたり、問題を起こしたりしますから、その点において特に注意してもらいたいと思います。

「三重県で出ました記事ですが、私は全然浄霊した事はありませんが、私がしたように書いてありまして、そこは父親と兄弟二人の三人が入信しておりますが、兄が入信する事になって教会に来て居ります時に、弟が船に乗っており、その船が衝突して船首に居た弟は腰を打ち、皆が医者に連れて行こうとしましたが、本人が頑張って家に帰りました。兄は医者に酷い目にあってこちらで救われております。教師が浄霊を続け、家族の者も致しましたが、果々(ハカバカ)しくないという事を聞きましたので、医者に見せるように言いました。死亡後医者を呼びましたが、すぐ来てくれず、他の医者に手を廻しましたところ、前の医者が警察の人を連れて来たそうです」

腰を打ったくらいで、そういう事になるのはおかしいです。

「尿が全然出なくなったそうでございます。以前に尿道炎、膀胱炎で固めておりますとかでございますが」

しかし腰を打ったくらいでそんな事があるわけがありません。浄霊をした人は今日来てますか。

「教師が二人で致しておりましたが、今日は参っておりません」

そういう事があれば、今日はなおさら来なければいけません。どういうわけで死んだかという事を質問に来なければなりません。それを来ないという事は解せません。そんな人は教師を止めた方がよいです。これはどういうわけで死んだのかという事を質問に来るべきではありませんか。それが何よりも肝腎な事です。今日来ないという事はどうかと思います。この間も“理窟に合わない事はいけない”と、あれほど言ってあるのですから、そういう時こそ“どういう訳で死んだのか”という事を聞きに来るのが理窟に合っている事ではないですか。それを来ないという事になると、このくらい理窟に合わない事はありません。そういう人は当分遠慮してもらう事です。そうして大いに責任を感じてもらうのです。なるほど自分が悪かったという事に気がついたら御詫びに来るのです。さもなければ、私としても、そんな無責任極まるような人に教師として宣伝してもらうという事は困ります。その事を知ったのは何時ですか。

「二十七日でございます」

浄霊した人にいろいろ聞きましたか。

「出て来ませんので」

呼んで聞けばよいのです。そうして今日連れて来て、私に詳しく話をすべきです。これは重大問題です。あなただって、どういう訳かを聞きたいでしょう。そうするとあなたも無責任です。甚だ理窟に合いません。やっぱり神様は、ボヤボヤした人や、とぼけたような人はキュッとやられるのです。だんだん時期が進んで来るに従って神様はやかましくなって来ます。やかましくと言ったところで、べつに無理や理窟に合わない事はないのです。人間の方が理窟に合わないのです。それをチャンと戒告されるのです。なにしろだんだん医学の方はギュウギュウと押しつめられるから、先方でも何とかしなければならないというので、こっちの欠点とか問題になりそうな事をいろいろ狙いつめてますから、なかなかウッカリしては居られないのです。どんな事があってもチャンと理窟が立つように心掛けて居なければならないのです。そこは家族で反対する者はなかったですか。

「ございませんでした」

警察には誰が行ったのですか。

「医者が連れて参りました」

それは医者にかからないで死んだら検死をしなければならないから、それが当り前です。そういう規則になってます。医者が警察に知らせるという事は当り前です。死ぬという事は、その前に余程重態になってましたか。

「尿を全然排泄しなかったそうでございます」

それなら直ぐに医者を呼ばないという事はないではないですか。それは甚だ間違ってます。それは問題にされるのは仕方がありません。そういう問題を起こした不注意を、問題を起こした浄霊の担任者は、一刻も早く御詫びに来るのが本当です。今日はこういう会合があるのに全然出て来ないという事は問題になりません。そういうのは教師を止めなさい。それが新聞に出たためにどのくらい影響するか分りませんから、自分が過ちを犯して、どのくらい神様に御迷惑をかけたか分りません。その責任を感じて一刻も早く御詫びをせずには居られないはずですが、それを来ないという事は、それだけで全然信仰も何もありません。贋せ信仰です。又、それに対して、あなたが大いに言わなければならないが、それに気がついたかどうか知らないが、まあ気がつかなかったのでしょうが、気がつかないで家を出て来るという事も感心しません。この頃いろんな注意を時々していますが、やっぱり御神書の読み方が足りなかったり、私の言う事を気に止めなかったりするからです。救世教というものがだんだん発展するに従って、世間から注目されます。大本教のお筆先に“抜身の中に居るような気持でなければならんぞよ”というのがありますが、よく政治家などが“ガラス張りの中に居るような”と言いますが、ガラス張りの中に居るというよりかもう一層強めたものです。抜身の中に居て、スキがあったら切りつけられるというくらいの気持でなければならないのです。やはり一つの戒告ですから、やはり神様はその人だけの注意でなくて、やはりそういう見本を作って他の全部の人に知らせるという事です。ついこの間も“合理的でなくてはならない、理窟に合わなくてはいけない”という事を言いましたが、それほど危ぶなくて重態であるにかかわらず医者を呼ばないという事は、とんでもない事で、理窟に合わない事です。チャンと理窟に合う事をして居れば何でもなかったのです。そういう事が問題になって新聞に出たりすると非常に悪影響をします。神様の御神業に対するどれほどのお邪魔になるか分りません。百のよい事を一朝にして覆えしてしまいます。又あれに出た事が非常に響きます。そういう事が入信者が増えるに対して悪影響するのが数字の上に実によく現われてます。だからそれこそ、べつに命に関わらないような病人はよいですが、少し危ぶない病人は腫れ物に触るような気持で、神経過敏になってやらなければならないです。いくら一生懸命にやっても、そういう問題を起こしたら、今までの功名を抹殺して、まだもう一層余りあるというくらいのものです。それで“自分はとんでもない間違いをした、一刻も早く御詫びしなければならない”というような気持があるような人なら、そういう問題は起こりません。そういう問題が起こるというのも、今日も来ないというトボけた心の状態だから、そういう問題を起こすという事になります。それから又渡辺さんが、こうして私が注意を与えなければならないという事は、あなたが平常から下の人にチャンと、そういう浄霊と医者関係に対しても注意を与え、教えるという事が疎そかだったのです。それに対しての神様の戒告です。それと共に、他の人の中にもそういう人があるから、これを一つの注意の資料として、今渡辺さんがその道具になったという意味にもなるのです。だからそれによって渡辺さんの今の罪が、一つのよい働きをしますから、それで渡辺さんは罪を消されるというわけです。だから凡てが相応の理によって、理窟に合うという事になるのです。だから今後は、誰でも問題を起こさないようにという考えで居るには違いないが、一層問題を起こさないようにする事です。それについて、今の話はそうでないようですが、一軒の中に反対者がある場合には余程注意しなければならないのです。今まで問題を起こしたのは、ほとんどそれが多かったです。医者にかかれと大いに言うにもかかわらず、かからないで死んだりすると、それ見た事かと、それを土地の新聞に投書するとか警察に投書するとかして問題が起こる事が非常に多いのです。ですから一家の中に反対者があつた場合には医者にかける事です。そうしておけば、間違った時にも問題が起こりませんから、是非医者にかけなければなりません。今の弟の話なども、家の者は信仰にはいって居たからそうでもないが、周囲の者が言ったに違いありません。

「同船して居た者が非常に騒ぎました」

だから、やっぱりそのとおりにやればよいのです。腰を打ってから死ぬまではどのくらいでしたか。

「五日くらいでございます」

それでは充分に医者にかける時間はあったのです。それは腰を打って内出血をして、それが下に溢れて固まった所が、膀胱から尿道に行く道に固まったのです。そうして浄霊する人は腰ばかりやっていたのでしょう。だから見当違いをやっていたのです。

「腰と後頭部を致したそうでございます」

それが見当違いです。

「腰が曲ったままで、見当をつけてするよりなく、横からも後からも浄霊ができなかったそうでございます」

そうすると、痛んで腰を曲げられなかったのですか。横にも寝られなかったのですか。

「帯で身体をつっておりました」

それほどなら、無論医者に行かなければならなかったのです。

「医者に見せるようにとは言いましたが」

言っただけでは駄目です。実際にかけなければ駄目です。そういうのは本人の承諾もヘチマもないのです。医者を呼べばよいのです。それで後本人が嫌がるのは構いません。だから何としても間違っていたのです。それは医者を拒絶する場合と、拒絶してはいけない場合との区別があります。それを一緒にしてしまってはしようがないです。浄霊を担当していた人は何という人ですか。

「桑名支部の泰と申します」

そこの支部長は誰ですか。

「水谷光映でございます」

水谷という人は来てますか。

「参つて居りません」

駄目ですね。問題が起こったのは何時からですか。

「二十七日からでございます」

幾つの新聞に出ましたか。

「毎日と中日の二つでございます」

もう一つ問題があったのではありませんか。

「岐阜の専信中教会の事でございますが、医者が行かないうちに死んだという事で、もう一つ一緒に出していたのは、一月の事で教師の家で精神病となり帰れず、医者にも見せて、問題はありませんでしたが、それを新聞に取りあげておりました」

しかし、それは何かあったのです。何もなくてあるわけがありません。初めの問題は何支部ですか。

「専信会でございます。申訳ございません。十三の子供ですが、私はその子は知りませんが、母親は昨年入信致し非常にお蔭をいただき、今年になって非常な御浄化をいただき、これもお蔭と喜んで居りました。死亡する三、四日前から子供の工合が悪いという事を言ってましたが、私は相談を受けまして脳炎らしいから医者にかけなさいと、医者まで紹介しましたが、その医者が工合が悪くて近所の別の医者を頼んだところ、急性化膿性脳炎で手の施しようがないと言ったそうです。又隣と前の家が薬局で、前に母親がこちらでなおったのを目の敵(カタキ)にしていたそうですが、子供が亡くなったので、それ見た事かと新聞で騒いだのではないかと思います」

そうすれば新聞社がけしからんですから、名誉毀損で告訴したらよいです。ちょっとでも向うが間違っているという事は、むしろ逆にこっちで問題にしてやったらよいです。それで若し新聞社が薬局の投書でやったのだとしたら、薬局も訴えたらよいです。そうだったら、是非そうしなさい。それから一月の問題というのは何日の新聞ですか。

「五月二十九日頃でございます」

何と出てましたか。

「精神病がお祈りによって死んだというような事でございます」

精神病では死なないものですが、他に何かありました。

「非常に衰弱しておりました」

投書か何かあったのですか。何かなければ新聞社は分るわけがないでしょう。それなら新聞社にどうしてこういう記事を出したかという事を調べるのです。

これからますます浄化が強くなりますから、衰弱なども非常に早いのです。そうしてまだと思うような者がポカッと死んでしまう事がだんだん増えます。その代り、一方なおるのも早いです。だから大いに警戒しなければいけません。三つも問題を起こすという事は大変なものです。これが一番悪いです。これが御神業に対して非常なお邪魔になります。つまりみんな邪神に負けるのです。負けるという事は、それだけタガがゆるんでいるのです。こっちがチャンと知って居れば、邪神のつけ込むスキがないのです。やっぱりこっちにスキがあるから先が打ち込むのですから、抜身の中に居るつもりで居なければ、何時抜身でやられるか分りません。しかしこれは薬になります。少しタガを締めてもらわなければいけません。それでなにしろ御神業というものは千変万化ですから、これからはできるだけ医者にかけさせる方針にするのです。それより他にしようがありません。医者にかかる事と問題を起こす事はどっちが悪いかというと、問題を起こす方がずっと悪いので、医者にかからせた方がずっとよいのです。問題を起こさないという事が第一です。ちょっと危ぶないと思ったり思うように行かなかったら、医者にかけるか、さもなければ手を引いてしまうのです。病気がスラスラとなおってしまうのはよいですが、どうもうまく行かないとか、スラスラと行かないのは、手を放すか医者にかけるかどっちかです。ですから和戦両様の準備をしなければいけません。死んでも問題は起こらない、助かれば結構だ、というどっちに行っても問題は起こらないというやり方にするのです。これはあらゆる事がそうです。アメリカの立場にしても、平和になっても戦争になってもどっちでもよい、というやり方をアイゼンハウアーはやっているのです。ところがイギリスのチャーチルのようなのは和平になるという考え方が非常に濃いですが、これは国が弱っているから仕方がない事ではあります。どっちに転んでも間違いないというやり方が一番よいのです。そういうずるいやり方が一番よいのです。正直なやり方が馬鹿なのです。これからはそういうずるいやり方でやる事です。ちょっと変だと思ったら、まず医者に見せるのです。注射の一本や二本うっても別に大した事はないので、差し支えありません。注射が悪いと言っても一時的ですから、そうしておいて後は適当に考えればそれでよいのです。本人が又かかりたいと言うのなら仕方がないので、そうなったら手を放すとよいです。何時も言うとおり、あせりと無理がいけないのです。この病人を早くなおすと、宣伝にもなるし早く開けるという考えはいけないのです。それはその人がやるのならそう行きますが、そうではないので神様がやられるのですから、そういう考えでうまく行く事はありません。よく“この人をなおすと、この人は交際の広い人だから早く開ける”という事は人間の考えです。ところがそういう事で開けるという事はまずありません。かえってこの人がなおっても何になるかというような人がなおって案外開けるものです。そういうようで人間の考えを抜くというのはそこの所です。神様の考えは人間の考えとはまるっきり違うのですから、大抵人間の考えとは逆に行くものです。ですからつまりぶつかって来たという事は、神様は“助けよ”という思召しだと考えるのです。こんなつまらない人をなおしてもしようがないではないかというような事がありますが、それが将来案外な働きをするものです。“この人はこの地方の有力者だから、是非なおそう”とするが案外駄目です。そういう事が多いです。これを霊的に見ると、神様から見ると名誉のある人というのはつまらない人で、つまらないと思う人が案外よい霊です。むしろそういう人の方が多いです。だからぶつかって来た人は、なおせという思召しで、フラフラになるのは放ったらかしておけという思召しです。だから病気がスラスラとなおる、又言うとおりの事をする、というのは時節が来て引き寄せられたのです。それから側の人が医者にかかれかかれと言うのは、医者にかかった方がよいのです。そういうのは神様が未信者を使って医者にかからせるのです。神様は信者ばかりを使うのではなくて、未信者も使うのです。今の場合に、皆が医者にかかれかかれと言うのは、神様がかからせるのだと解釈するのが本当です。“あれは神様を知らないから医者にかかれと言うのだ、なにくそ”と頑張るのはとんでもない事です。そしてこういう分らず屋で、頑張っているから、目に物見せてくれようとやるのですが、そこが神様と人間の考えの違う所です。そこが大乗と小乗との違いです。だから人間、信仰の極致というのは、右向けと言えば右、左向けと言われれば左を向けるような人こそ信仰の極致です。それを“あいつはああいう事を言う”と頑張っているのは、これはまだ本当に信仰の醍醐味まで行っていないのです。ですから私は女中などが“こうした方がよい”とかいろんな事を言うが、私はそのとおりに言う事をきくのです。決して人によって区別したりしません。神様はつまらない者の口をかりて、その人に知らせたりする事がよくあるのです。それから又邪神が偉い人にかかって迷わせるという事もありますからそこに言うに言われないところがあります。

よく神憑りになって、狐なら狐が憑って来ますが、そうすると狐に瞞まされてたまるものかと思うでしょうが、それが違うのです。狐に瞞まされた方がよいのです。いろんな事を言いますから、“そうかなるほど”と言っているのです。それでこれはどういうわけですかと聞くと、先はペラペラと返事をします。そうしてやっているうちに今度は狐自身がボロを出して来ます。それで狐は謝まるのです。私はそういう事が随分ありました。瞞まされるものかと思っている時は、かえって瞞まされたり怒ったりするのです。狐が全然嘘の事を言っていても、“そうですか”と感心して聞いているのです。そうすると狐の方で間違ってしまうのです。これは実に味わうべき事です。そうしていたら何でもありません。凡てに結果がよくて円満に行きます。そこが大乗でなければならないのです。ですから先が嘘をついても、それを咎める間は駄目です。なるほど、そうですか、と感心しているのです。しかし肚の中では分っていなければなりません。そこまで人間は横着と言うか、そうならなければならないのです。道具屋が来て私を甘く見て、“これはこういう物だ、これは贋せ物だ”と言うから、“そう言えば全くですね”と言うが、肚の中では何を言ってやがるのだと思ってます。これは馬鹿野郎だな、オレがそんな事を知らないと思って言っているがと、うわべは感心して聞いているのです。そうしているうちに、“うまい事を言う、なるほどそうだな”と教えられる事があります。支那の何とか言う人は“人によって話を区別するな”という事を言ってます。つまらない人足か、それこそ百姓などが言う事で非常に教えられる事があるのです。ですから人によって区別をしないようにする事です。何でも自分の耳にはいった事は一応気に止める必要はあるのです。又子供に教えられる事があります。これは経験があるでしょうが、子供がとてもうまい事を言います。丁度ベルグソンの直観の哲学と同じようで、子供は本当の直観ですから、素晴らしい事を言います。母親と子供が喧嘩をしてますが、子供の言う事が本当の場合がよくあります。ですからそういうようにして凡てをやっていれば、決して問題は起こらないのです。病気の場合にも家の人が反対したりする場合には、“それは結構だ、全くそのとおりだ”と言って、感心していれば、その反対した人は、あの先生はなかなか分ると思います。“私の方ではお医者にかかるな薬をのむなとは決して言いません。それはあなたの御随意です。しかし道理はこうです。それから私は神様からこういうように教えられている、薬は毒だと教えられている。それをあなたの方で採用するしないはあなたの御随意だ”というように言うのです。それでそれに感心して医者にかからないで薬をのまないとそれで結構です。しかしそれに感心しないで、医者にかかり薬をのむというのは自業自得です。それを何とか説得させようと一生懸命にやるというこれが、まだごく青いのです。要するに人間、心の底に誠があればよいのです。あとはできるだけ横着でよいのです。心の中心にさえ誠があって、助けてやろうという気持があったら、あとはそれこそ臨機応変でよいです。それが千変万化です。ですから、よくやりますが、こういう方針、こういうやり方というように立てたらもう駄目です。つまり円転滑脱と言うか、それです。だから人間は、難かしい事ですが、アクが抜けなければいけないです。何時も言うとおり、大抵な事は負けるのです。議論とか、そういういろんな事は負けるという事です。これが一つの修業です。先方の嘘も本当に聞いてやるという、一つのつらい所ですが、そこを平気で我慢できるようになる修業です。これが本当の生きた修業です。それで一時誤解されたり、一時は負けても、決して長く続くものではありません。いずれは必ず先方が悔悟なり分るなりして謝まるとか、或いはそれが若しか分る事になると、今度はこっちを非常に尊敬します。あの人は偉い、オレが前にあんな下らない事を言ったが、それを真面目に聞いてくれた。余程腹ができているに違いないと、それからは信用する事になります。

今の問題を動機としてこういう話が出ましたが、私はこういう話をしようと思ったのではないので、自然に出て来たのです。しかしこういう事によって大いに教えられるわけです。そこでこの失敗がよい働きをした事になり、そこでその失敗を神様の方でよい事にしてくれるわけです。そうすればその働きによって、その罪が消されるという事になります。だから、信仰も、とに角大乗的に考えて行けば凡てにうまく行きます。うまく行くから発展もするというわけです。それに神様の方はなかなか深いのです。それは神様の方ばかりでなく、世の中の事一切が実に何とも言えない面白いものがあります。人間はそこまで分らないから迷ったり苦しんだり怒ったり、見当違いな事をよいと思ってやる事になります。大本教のお筆先に“あんな者がこんな者になり、こんな者があんな者になる仕組であるぞよ”というのがありますが、実に簡単で何とも言えない味わいがある言葉です。ですから何時も言う事ですが、医者のために苦しんでいる人を見ると、医者に対しての憤激も随分起こります。しかし医者がそういうように病気をなおす事が下手であればあるだけ、こっちの値打があるのです。だから若し医者がスラスラと病気をなおしてしまったら、それで済んでしまうから宗教になど来る者はありません。そうしたらこっちの人の活躍する所はありません。だからお医者の下手なのに対して大いに感謝してよいです。ところがお医者に聞いてみると、医学の目的は人類から病気を無くする事だと言ってますが、人類から病気が無くなったら、お医者さんはメシが食えない事になります。そこで考えが、大乗と小乗と違ってくるのです。何でも神様にお任せすればよいという事も真理なのですが、やはり人間はできるだけ努力しなければなりません。神様にお任せきりで努力も何もしなかったら、これもやっぱりいけません。だからそこで大局において神様にお任せし、方針はどこまでも努力し一生懸命にやるという事も必要なのです。とに角そこの使い分けです。そこで経と緯の両方、大乗と小乗を使い分けるわけです。大乗がよいからと言っても、小乗がなくてはならないが、ただ小乗の方が主になってはいけないので、大乗の方が主になって、小乗の方が従にならなければなりません。その使い分けに難かしい所があり、言うに言われない面白味があります。何時も言うが、今でも時々暑いと思うと寒い、寒いと思うと暑いので、一日のうちに二、三度着替える事がありますが、私はそれが一番よい陽気だと言うのです。どっちかに決めたら悪い陽気だというのです。そういうようなもので、人間というものは、何でも不平に持って来るのです。それでは何事も満足するとよいかというと、満足したら進歩がなくなります。そこで不平も必要になります。要するに満足と不平が、これは相反するものだから調和はしませんが、しかしうまく塩梅(アンバイ)し、使い分けて進んで行くのが本当です。自動車の運転と同じようなもので、ちょっとでも一方が勝てば、その方に行ってしまいます。不満の事も起こるのだから、不満の事もよいです。それから又一方満足もあるから、それもよいのです。それから病気で苦しんでいる時に、命が危ぶない、このままではどうしても死ぬよりないという時に、これは幾ら金がかかっても、財産を全部捨ててもよいから助かりたいと思うでしょう。そうしているうちに、なおって、だんだんよくなって来て命の心配がなくなると、今度は慾が力をつけて来て、どうしても金をこうしなければいけない、ああしなければいけないという慾が出て来るのです。そうしているうちに何時の間にか、助かりさえすればよいという時の事を忘れて、慾を出すという事は、誰でもある事で、私なども経験があります。それは最初の病気の時に考えた事も本当なのです。それからそういった慾が出るのもやむを得ないのです。ただそこのところをうまく程のよいという事です。人によると、助かってしまってから今度はばかによくなったと、最初思っている半分も三分の一も御礼をしないという事もあるので、そこでこの間再浄化という事を話したり書いたりしたのです。そこで結局「程」です。一方に片寄るから、そこに問題が起こったり無理があったりするのです。そこで「程々」という事が伊都能売になるのです。私は以前読んだ事があるが、山岡鉄舟の書で、大きく「程」と書いて、小さく「人間万事この一字にあり」と書いてありましたが、私は実によい言葉だと思いました。実に簡単に言い現わしてあります。「程」という字は大したものです。伊都能売という事の働きは、一字で言えば「程」という字でしょう。それで「程」という事は、やはり春秋の気候と同じで、暑さ寒さの「程」です。「程」というのはどっちにも片寄らない、丁度よい所に収めるというそれをよく現わしてあります。あの人は程がよいと言うと、その人は非常に好ましいという事になります。ところがその程がよいという人は寔に少ないので、大抵はどっちかに片寄ってます。だからそれで失敗したりうまく行かなかったりするのです。今日は珍らしくお説教になりましたが、よく世間でのいろんな信仰や道徳といったものでは、こういう話が多いのです。しかし救世教ではこういう話をあんまりやりませんが、やっぱりこういう話もしないと片寄るでしょうから、そういう意味において偶にはよいと思って話をしました。では質問をどうぞ。

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「地上天国にいただきました御歌を御神前で奉唱する事は如何でございましょうか」

結構です。やっぱり御讃歌と同じです。

「御讃歌と同じように朝晩にお奏げする事も宜しゅうございますか」

よいです。その場合に選択してよいです。こういう事は非常に皆のためによいという事を選んで任意にやって構いません。

「研究会などを致します際に、その前後に御讃歌を奉唱し信仰雑話を拝読させていただくという事は如何でございましょうか」

よいです。それから又御讃歌の意味を“こういうように思う、こういう教えだと思う”という事を話してもよいです。それがよい働きをすればそれでよいのです。場合によっては、その時の問題で疑問があるという時に、“御讃歌にこう出ている、これが多分その意味だろう”という事を言うのは非常に結構です。

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「先月御垂示いただきました二階のある農家での御神体の御奉斎につきまして、二階を絶対に使わない場合は如何でございましょうか」

それなら構いません。何にもなければよいです。物を置けば神様が物以下という事になり、又人間がそこにはいって居ると、人間が神様を踏む事になるから、それがいけないのです。そういった点がなければ差し支えありません。それなら屋根と同じ事になりますからよいです。

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「御屏風観音様と阿彌陀さんにつきまして、お像は御屏風様の前にお軸は後にとの事でございましたが、御屏風様はどちらでも宜しいわけでございますか」

そうです。というのは阿彌陀さんは観音様の親になりますから、親が背を向けても差し支えありません。しかし位から言うと観音様の方が上です。それから阿彌陀さんは現界の働きではないのです。ですから仏様として安置している事は間違いではありません。それで観音様は現界と霊界の両方の働きです。ですから阿彌陀さんを背負って観音様が働かれるという事も差し支えありません。

「阿彌陀さんのお像の方が大きい場合でも御屏風様の前で宜しいでしょうか」 

しかし少しくらいでしょうから前でよいです。あんまり大きいと恰好が悪いから、その恰好が悪いという事はいけません。見て丁度よいと思う大きさならよいです。こういう点もあります。理窟に合っていても、恰好が悪いという事がありますが、それはいけません。理窟に合っていて恰好がよくなければならないのです。というのは人間でも、夏の暑い時にワイシャツ一枚になって胸を出しているが、これは暑いのだから涼しくするというのでよいですが、しかし見た恰好が悪いから、やはり恰好が良くて見よいという事も必要です。それが程です。

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「お互に離れる事ができないというくらいの恋愛をしている男女ですが、男子の両親は反対し、女の両親は賛成しております。両方の家とも非常に因縁の深い家で、男の方は親を三回変っており、女の方は養女で、産みの親は反対しております。おじいさんは変死致しております。この場合一緒になれるように努めても宜しいものでございましょうか」

離れられないのは離さなければよいです。一緒になれるように努める事も結構です。しかしあんまり反対があっては困ります。こういう問題は一番困るのです。これはあなたの親戚ではないのでしょうから、若しあなたに意見を聞かれた場合には、一緒にしてやるのが本当と思うと言って、後は向うに任せたらよいでしょう。それ以上心配しても何うという事はありません。

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「名古屋に田舎から出て来て焼跡に家を建て、最近まで商売を致して居りましたが、現在は商売をやめて教師として御用させていただいて居ります。西南の角に燈籠があり、その上に丸い石が一つあり、奥さんが見ると昼でも、信者さんが浄化で来たいと思っても来れないという時などにその石が人間の顔に見えるそうです。又四才になる子供には黒い猫が乗っているように見えるそうでございます。教師がお参りの留守中は世話人が泊るそうですが、その石のある近くの部屋の押入の側に行くと何だか気持が悪いと言うそうでございます。教師には全然見えないそうでございます。何か信仰に間違いがあるのでございましょうか」

大きさは普通の物ですか。

「さようでございます」

自然石ですか、では山燈籠でしょう。光明如来様は奉斎してますか。

「大光明如来様を御奉斎致しております」

それでは石に向って祝詞を奏げてやればよいです。それは人間が憑く事もあるし猫が憑く事もありますが、それは人間に知らして救ってもらいたいのですから、そういう時は祝詞を奏げてやるとよいです。そうして終りに「幽世大神守り給へ幸倍賜へ」と唱えてやると、それで浮かばれるわけです。

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「御神体の御奉斎はまだの家でございますが(以下略)」

そんなに面倒くさい事を一々言わなくても、光明如来様を奉斎すればそういう事は一切解決するのです。下らない面倒くさい事は言わなくてもよいです。又あなたがそのくらいの事を知らなければしようがありません。

「話はしましたが、一応明主様にと思いまして」

そんな面倒くさい事を言ってもしようがありません。暗い暗いと言っていても、太陽の光がパッと出れば暗い事はなくなります。それだけの事です。それから大将軍という神様は偉い神様です。よけると言うが、よけるどころか来てもらった方がよいです。天理教の中山ミキという人に最初大将軍が憑ったのです。大将軍というのは国常立尊の長男です。ですから立派な神様です。邪神は怖いから、それでよけようとしたのです。今までは悪の世の中だったから、邪神にとっては鬼門の神様は一番怖いから、そこで大将軍を恐れたのです。今まではみんな間違っている事が多いのです。

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「昭和二十三、四年に入信の婦人、大光明如来様を御奉斎いたし、熱心ではございましたが、主人が反対し一時離れて居りました。最近は再び参って居りますが、当時主人が御神体を外し、クシャクシャにして巻いてしまったそうでございまして、御詫び申し上げてくれと申しております。この御神体は如何致しましたら宜しいでしょうか」

現在の主人の心境はどうですか。

「奥さんが信仰する事については反対しないという程度でございます」

御神体を奉斎する事を主人は許しましたか。

「まだでございます。なお、クシャクシャに致しました御神体は巻き直してございます」

それはそのままとっておいたらよいでしょう。

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「資格者千正左内、仏壇の阿彌陀さんのお軸の場所を変えようとしまして、御屏風観音様をお倒し致し蝋燭の蝋が御顔につきました。御詫び申し上げます。如何致しましたら宜しいでしょうか」

お掛軸は御屏風様の何倍くらいの大きさですか。

「五倍くらいの大きさでございます」

それは阿彌陀さんのお掛軸が大き過ぎるのです。それでお許しにならないからそういうように落したのです。ですからこれは、阿彌陀さんを外して御屏風様だけにするとよいです。尤も反対したり心良く思わない人が居てはいけません。

「そういう者は居りません」

それならよいです。珍らしい名前です。左内というのは聞いた事がありますか、千正というのは初めてです。

「御顔に蝋がつきましたのは如何ように致しましたら宜しいでしょうか」

そそうして申訳ない、御許しいただきたいと御詫びするのです。

「御屏風観音様はお直し致しますので」

それはお直ししても駄目です。こういう訳でお祀りするからと、新しいのをお祀りして、前のは丁寧によく巻いて、お粗末にならない所にしまっておくとよいです。「御屏風様は御神前で暫らく御浄めしてからしまうのでございましょうか」  そんな必要はありません。直ぐでよいです。今は立ててあるのでしょう。阿彌陀さんはどうしてますか。

「巻いてしまってあります」

それで新しい御屏風様を奉斎して、前のは大事におしまいすればよいです。

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「雨漏りの染みが御神体につきまして、経師屋にて汚ごれが取れませんので、信者さんは新しくいただきたいと申しておりますが、前のは御詫び致しましたら宜しいのでございましょうか」

御詫びしてお巻きしてしまっておけばよいです。

「御神体の表装を立派な物にしたいという場合は致しましても宜しいでしょうか」

大抵はよいですが、場所は前の所と同じですか。

「さようでございます」

前の表装は紙ですか布ですか。

「紙でございます」

それは布のに取り替えてよいです。その場合によくお断りするのです。“縁がお粗末で申訳ないから、もっと上等なのに取り替えたいから”とお断りしてすればよいです。

「その場合新しく御神体をいただくという事は如何でございましょうか」

構いません。そうして前のは大事にしまっておいて、親戚で拝みたいのがあった時はお貸ししてもよいです。

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「三十四才の女、二十六年二月入信致し御用をさせていただいております。先月二日以来浄化にて床についている方が多く、ヌラのような物を上げております。乳房の上、鳩尾、腕の下に大きいのは指先大、小さいのは小豆大のコチコチした物があります」

押すと痛いですか。

「あまり痛みません」

熱はありますか。

「ありません。偶に三十八、九度くらいになる程度であります。食欲は茶碗半分くらいにて体力は弱っております。浄霊は一日二、三回致しますが変化はありません。入信後間もなく龍神が出て来た事があります。三十二才の弟は長男で入信致しておりますが、両親はまだでございます。強く反対もしないが入信はしないという状態でございます。本人の希望で父親に話した事がありますが、今もって分りません。龍神と現在の浄化に関係がございましょうか。今後どのように致したら宜しいでしょうか」

薬毒はどのくらいはいってますか。

「相当にはいっております。新しいマイシンなどの薬は入れて居りませんが、サルバルサンを十五本くらいしているそうで、あとは葡萄糖に栄養剤くらいでございます」

あとはと言うが、それが悪いのです。あなたは何でもなく思うでしょうが、葡萄糖などは悪いのです。これはまず駄目です。一旦良くなったのですか。

「或る程度良くなったような状態でしたが」

難かしいです。私に聞いてくれというのでしょうから、私の返事は“娘さんがなおったら信仰にはいりなさい。なおらないうちはよしなさい”です。信仰に入れてなおすという事は原則に外れています。なおってから信仰に入れるという事が本当なのです。あなたはその理窟は知っているでしょう。古い本に書いてありますし、又教えてもあります。それは、命に関わる病気はなおってから信仰にはいるようにするのです。それから命に関わらない神経痛などは、病気がなおらないうちに信仰にはいっても結構です。命に関わるようなのは完全になおって、とに角命の心配がないというくらいになおってから信仰にはいるのが原則ですから、今の人はまだ曖昧で命に関わる懸念があるから、そういう時に父親を信仰に入れるという事は間違ってます。だからはいらない方がよいのです。そうでないと、“信仰にはいればなおると言うからはいったら死んでしまった、救世教というのはいい加減なものだ”という事になるから、骨折って結果が悪くなります。だから今言ったようにするのです。信仰でなおすというのが本当ではないのです。信仰は治療機械のようなものではありません。“なおって有難い、こんなに丈夫になった、だからどうか自分もそういった困っている人を助けたい、それには信仰にはいって御力をいただきたい”というのが順序です。だからその順序が狂っていては、どうせ信仰にはいっても本当の順序にはなりません。それが理窟に合っているのです。だからなおりもしないのに信仰に入れるという事は理窟に合いません。また、信仰するからなおしてくれというのでは、とに角おかしな話です。それでは神様をいくらか軽く見ると言うか、そういう事になります。

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「未信者の座談会に教師の者が参りました時、十人ほど居た人が皆バッチの四隅の白い所に地上天国の日の出観音様が見えるという事がございましたが、これは霊が低いからでございましょうか」

それは神様が其処を早く開くために奇蹟を見せてくれたのです。

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「昨年の六月一日、釜が鳴ります事で御伺い申し上げ(御垂示録第十号二十五頁)“一年ほどしたら処分してもよい”との御言葉をいただきましたが、如何致しましたら宜しいでございましょうか」

釜はメシをたけばよいでしょう。

「いろいろなお札が一緒にありますが」

お札は全部処分してよいです。そして“光明如来様を御祀りしましたから、元の御座(ミクラ)にお帰り願います”と言えばよいです。それは知っているでしょう。

「お膳を作りお礼をしなくても宜しいものでございましょうか」

御馳走は、すればなお結構です。そうして祝詞を奏げてやるとよいです。それから釜が鳴るのは、昔戦争をする時に、陣屋で釜が鳴ると、これはいよいよ勝利だと、大変祝ったもので、大変結構です。

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「襖の端で“日月”の御額の落款の端の方に相当ひどい傷をつけました。如何致しましたら宜しいでしょうか」

経師屋でなおらないくらいの傷ですか。それを聞いてみて、駄目だと言ったら新しくすればよいし、わけなく直るという場合なら直させたらよいです。わけなく直るとは思いますが。

「新しくいただいた場合、前のは如何致しましたら宜しいでしょうか」

たたんでしまっておけばよいです。

(垂二十一号  昭和二十八年六月十五日)