九、 自然療法

元来、人間なる物は、神が造り給ふた、森羅万象の中に於て、他に比ぶべき物なき最高の芸術品とも謂ふべきものである。神に似せて造ったといふ聖書の言葉は、確かに真理である。故に、その霊妙不可思議なる構造たるや、到底科学などに依って解明せらるべきものではない、唯極表面又は一部分のみが漸く科学に依って知り得た位のものであるから、科学に依って解決するには、今後、幾千年を要するか、又は結局解決出来得ないかは断言出来ないのである。少し落着いて考えてみるがいい、人間の四肢五体の働きは勿論の事であるが、微妙なる意志想念の動き、喜怒哀楽等の心の表現、蚤の歯で喰ってさへ痒くって堪らない程の神経の敏感、舌一枚で、凡ゆる意志を伝え、その舌が又凡ゆる飲食を味はひ、又世界の人類十八億をみても、一尺に足らない顔が尽く違ふといふ不思議さ、それ等諸々の事を考えた丈でも、造物主の創作力に対し、讃嘆せずにはをられない。特に、生殖作用に到っては、一個の人間を創造さるる過程の神秘さは、言葉に絶するものがある。故に、ロボットの如く、科学で造った人間でない限り、生命の神秘は、科学では解決付かない事は当り前の事である。人或は曰はん、恐るべき天然痘が種痘に依って解決出来たではないかと。然し、其事に就て、観世音よりの霊告に依れば、実は、何千年以前は、天然痘はなかったのである。それが人間の罪穢に依って出来たものであって、癩病、梅毒等と同じ様なもので、彼の癩病が一名天刑病と言はるるに見ても判るのである。その罪穢の清算たる天然痘の、その清算を免れんが為の種痘であるから、本当から言へば決して良くないのである。之が為に、人間の健康を弱らせ、寿命を如何に縮めつつあるかは、天然痘に罹るよりも、其損失は甚大なのである。然し、今日と雖も、行を正しくなし、天則に反せざる人であったならば、種痘をしなくても決して、天然痘に罹るべき筈がないのである。とは言ふものの、そういふ立派な人間は、未だ寥々たるものであるから、大光明世界実現迄は、種痘も又止むを得ないであらふ。大光明世界になった暁は、今日の伝染病や重病は全く跡を絶つのであって、風邪とか下痢位が、病気として遺る丈なのである。

次に、人間が一度病気に罹るや、それを駆逐解消すべき、人間自体の大活動が起るのである。それは、自家製造の薬が出来るのである。人間の肉体は、元々大薬局と医学博士を兼ねた様なもので、病気といふ不純物が侵入するや否や、肉体内に病院を建ててる自家医学博士が即時診断、即時薬剤師に調剤させて病気治療を始めるのである。それは素晴しい薬や器械であって、実によく治すのである。毒な物を食へば、早速、体内薬局から下剤をかけて下痢をさせ排出するのである。悪い黴菌が飛込めば、熱といふ大殺菌作用の治療法が行はれ、又、物に中毒をすれば、内臓へ入れまいと外部へ押出して、皮膚に赤く斑点を現はし、痒みと熱を以て消失せしめ、又中毒によっては、腎臓の大活動となり、水分で洗ひ、小便に依って排泄せしめ、塵埃を多量に吸へば、痰にして吐き出す等、実に巧妙を極めたものである。であるから、凡ゆる病気は、自然に放置してをけば大抵は治るのである。それを知らないから、科学で研究された薬や療法を用ゆるので、それが自然治療作用へ対して、大いに妨害になり、病気を長延かせるのである。之を実證するには、諸君、儻し病気に罹ったら極めて自然に放置せられよ。その全快の神速なる意外の感に打たるべし。

但し、其場合、徹頭徹尾自然を尊ぶので、寝たければ寝、起き度ければ起き、歩き度ければ歩き、食べ度ければ喰べ、喰べ度なければ食欲の起る迄は、二日でも三日でも喰べないでいい。熱が高ければ水枕位はいいとして、出来る丈、手当をしないのがいいのである。斯うすれば、如何なる病気も、実によく治るのである。

自然療法を推奨すると、医学は全然、必要がないかといふと、そうばかりでもない。医学の中にも、全然、無益でないものもある。それは、細菌学、衛生学の一部、戦争の際の外科、歯科医学、接骨等である。

(日本医術講義録 昭和十年)