原子爆弾に関するもの 02

佐賀県 H.Z
明主様、申しおくれまして誠に申しわけございません。原子爆弾罹災者と致し拙ない筆乍ら、謹んで御奉告御礼申し上げさして頂きます。御許し下さいませ。

私は去る昭和二〇年六月一六日、臨時召集により元長崎要塞司令部要員として入隊致したものでございます。三週間の基本訓練も無事に過ぎ、七月九日農耕隊として戦友六名と共に、稲佐山開墾地に派遣させられ吾々五名のものは、長崎市を越えて旧砲台の後の畑(原子爆弾破裂中心地より七〇米乃至一〇〇米離れた地点。これは後で知ることが出来ました) の作業に行き一生懸命働き、一〇時三〇分の休憩時、木蔭に腰打ち下し、上衣も脱ぎ捨て、裸で休んで居りましたが、突然敵の飛行機の爆音がして来ますので変だなあと思って、立とうとした瞬間(一〇時五五分) シュウシュウと言う奇音と共にそら豆位の黄白い火が夕立雨の降る如く浴びせられ、その場に打倒され気絶致しました。暫くして正気付いて防空壕に這い寄り、戦友と互に見合せると四名の者は、顔から腕、腹、背中と、皮膚がペロリと剥げ嫌な嫌な臭気が鼻をつくのです。一人の戦友は無事でありました。「これ位なら一週間もすれば治るぞ」と互にはげまし合い乍ら、歯を食いしばって頑張りました。

傷は段々痛み、その苦痛は筆舌には尽くされませんでした。「万難を排しても日の暮れない内に宿舎に帰れ」との班長の命令の下に、火の気の少い所を彼方に廻り、此方に折れて、途中散乱した死体を踏まんばかりに稲佐山に急ぎました。やっと宿舎に着いたのが七時半でしたが、この時は相当の熱が出て、全然食事は摂れません。段々寒気がして傷はヒリヒリ痛み、外は市中の火事で真赤になっています。夜中一二時頃壕の中で軍医が手当にかかられましたが、班長一人分で薬は無くなり、私達三人はそのままで夜明けを待って病院へ行きましたが、段々体も疲れ、歩行も困難でありました。

待ちに待って午後二時頃治療して貰い、司令部に帰り、それより医務室にて毎日治療を受けましたが熱は下らず咽喉が痛み、両手はかなわず食事もお粥を戦友に食べさして貰い、空襲時の待避には心身共に悩まされました。又治療前の包帯解きは生皮を剝がれる思いで、今当時を偲ぶにつけ、ぞっとする程であります。八月一六日の治療時に軍医殿より「もうここには薬が無いから病院へ入院さしてやる」と午後入院致しました。併しここでは一回の診察をして貰うでなく、只三回の食事を与えて貰うのみでありました。司令部では少しは軽くなって居た様でしたが、又痛み出しますのでした。たまり兼ねて包帯をはずしてしまい、不自由な身で水を汲んで膿を洗い手拭で冷しながら、三日間過しました。八月一九日午前一一時「これから佐賀へ転送だ。私物を持って下へ下りよ。自動車は待って居るから急げ」との命令によって長崎駅まで送られました。当日午後七時佐賀陸軍病院に入院致し、三日後初めて鉛筆を執る事が出来、又両手で食事が出来る様になった時は嬉しく感じました。治療としては、白い膏薬をつけて貰うのでありました。新聞紙上で原子爆弾の威力、猛毒等次々の発表を見て相当の毒素を吸収している事も心配して居りました。八月二九日診察の結果、温泉療養させられました。

湯屋へ行って初めて鏡に向い自分の体の痩せ方に驚きました。毎日午前と午後の二回入湯し、段々快方に向う様でありましたが、どうしても頭が重く、起きる時等急に起きて立てば倒れる事度々でした。又人は下痢の多かった様でありましたが、自分は一週間も便秘で困りました。三週間にして治癒退院を命ぜられ、帰宅致しましたが、体の衰弱につけ込んでか神経痛が起り、又寒さに向うにつけ傷痕が痛み、やれ注射、鍼灸と長らく通い、又動物の肝臓が白血球を増すに良いという事で、努めて食べましたが、中々なおりません。月日は流れて翌年昭和二一年四、五月ともなれば痕跡は痒くて、晩等血の出る様にかいているのです。或る日A町のTさんから御道の事を教えられましたが、今まで仏教信念と医学を信じて居た私には、どうしても信じきれません。偶々妻もリウマチで悩まされ、鍼灸より帰り道友人より御道の御話を聞いて帰って来ましたので、相談の結果教会に御参りする様に御導き頂き、初めに妻が御参り致し色々有難い光明如来様の御話を聞いて来て、御取次を致しました。一週間程御浄霊頂く内に段々軽くなったと言い、又K先生御出張の日取が決まり、このよい機会に教修をとI先生に勧められ、早速教修を御願い致しました。段々妻の病気は軽くなりますので、私も後れ乍ら御参り致し、御話を聞かして頂き、大体お道の事がわからして頂きましたが、間もなく農繁期になり、我慢しながら仕事に励みました。丁度植の最後の日になり、突然激しい頭痛が起り、仕事に堪えきれない程でありました。

翌日は何も彼も打ち捨てて教会に御参り致し、御浄霊を頂きましたら、少し軽くなりましたが、家へ帰ると又痛むのです。病気は浄化作用であることを分らして頂き、少々の苦痛は辛抱出来る様になり、教修まで御願い申して入信させて戴きました。教修の時K先生より色々と有難い御話を拝聴し、今までの事が恥ずかしくなりました。今までの事を申し上げますと「光明如来様が貴方の命を御入用とあって奇蹟的に御助け下さったのでしょう。御礼申し上げなさい」と仰言った時は、下った頭が上りませんでした。又「貴方の病気は、今第二浄化であって、第一浄化が曇、第二が雨でやがて晴れる時が来ますよ」と御話を承り、実に喜び勇み、一〇日間も御浄霊頂きます内日一日と軽くなり本当に気持良くなり、仕事精出す事が出来る様になりました。それからは夏は少し痒く、冬はスビク程度で左程の浄化もなく過さして頂き、年末頃には元の体格に戻り、昭和二三年頃よりは何の刺戟も無く、時々風邪を引いたり、一寸した腹痛位の御浄化を頂き、入信以来足掛六年、家内中無医薬にて本当に有難く日送りさせて頂いて居ります。

明主様、生命の無い私を御救い下さいまして有難うございました。厚く厚くお礼申し上げます。この上は一日も早く一人でも多く、御導きさせて頂き、地上天国御建設に御奉仕させて頂く覚悟でございます。

(昭和二七年五月七日)

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福井県 Y.I
思い起す毎に肌に栗の生ずる世紀の悲惨事とも言える彼の七年前の長崎での原爆の際、御守護戴きました追憶を御報告させて戴きます。当時私は爆心地より一里程離れたMと言う所の小高い山の松林の中の一軒屋に疎開して居りました。家のありました所よりもう一寸上りますと大分見晴しのきく程の山でございます。

当日空襲警報の解除のあと一安心した処へ突如として、雲の切れ間からサッと日の光がさした様なそれに似た、そして夏の真昼の太陽の下にそれ以上の光がさしました。何か? と思うその瞬間家の中に居りました私の足下は、木片の山となり無我夢中どうして出たのか今にしても思い出せませんが、兎も角戸外の防空壕へ飛び込んで居ました。落着いて見れば白い上衣が血で染り、怪我は何処かと手探りでみれば、額か頭へかけて斜に口が開いて居ます。急いであてた上衣の白い所を余すところなきまでに染める出血でありました。あまりの怪我に只おろおろする姑や出入の人達の中で私は冷い壕の茣蓙の上に横になり、一心に御浄霊を致しました。御参拝に上らせて戴いたことのある東京の教会(当時は治療所)で拝みました明主様の御写真を思い浮べて「大先生様」(当時はそう申し上げていました)とおとなえ申し上げ乍ら御浄霊させて戴きました。大分の怪我とは思いましたが、後で鏡に写して見ましたら、左の眉毛の横から頭上中央へかけて四寸程指二本が入る位にざくろの様に割れて居りました。その時は生きるの死ぬのと言った不安は何もなく、唯一心にお縋り致しました。やがて血も止まりましたのでガーゼで鉢巻をし、体を調べますと右腕にスプーンでくり取った様な所一ヵ所、他に小さい傷が数カ所ございましたが、御浄霊致しますとしまいに真黒なドロリとした血が出て止まりました。

不思議とこれ程の傷が何の痛みもなく、三、四時間後には家の取り片づけにかかりました。家は爆風に対して垂直と思われる面は凡てこわされ、二階の硝子戸は骨のみ、障子は形もない木片と化して居りました。何がこの様な細い木片となったやら、それが家中を埋めて一足も入られず、どうしてこの中を出られたのかと、沁々と思われました。その後自分で浄霊致し乍ら一日も休む事なく、ずい分と頭も体も使いました。光の通った跡と申しますか、幅せまい二筋程の個所が木の葉がすっかり焦げて茶色に縮んで居りました。近所では一間程ずっと焦げた所もございました。

その後一〇日程して町へ参り、H先生より御霊紙を戴いて貼り、日に一度宛御浄霊戴き、九月一〇月にはS町のA先生のもとへ通いました。傷口からは一時濃い膿が流れる程沢山出て、その後肉が上って参り、一一月末には一旦盛り上る様に出ました肉も平に落つき、桃色づいていたのもうすれ、一二月半ば包帯もとれ、その後体には自覚する様な症状もなく過させて戴きました。ずっと頭の左半分はふれてもはっきり感じません程しびれて居りましたが、この頃では殆んど治癒致しました。傷あとも漸次廻りの皮膚に似た色となりつつあります。思い出します度に、御守を戴いたというのみにて、何の働きもさせて戴いていませんでした私が、この様な御守護を戴きました事を、今更の様に有難く、ただただ感謝申し上げて居る次第でございます。

明主様有難うございました。この上は出来得る限り、御神業の御手伝いをさせて戴きたいものと念じて居ります。

(昭和二七年五月七日)

(世界救世教奇蹟集 昭和二十八年九月十日)