原子爆弾に関するもの 03

広島県 U・S
私は昭和一九年六月頃、広島に於て、御守様を拝受致しました。当時は指圧療法の時でありました。病気はありませんでしたが、親戚の者に勧められまして、この療法により病気が治り、人様も助ける力を授かるという事でありますので、然も入信すれば直ちに容易に出来るとの事、これは只事でないと感じましたまま、勿論理論など解り様とてない事でありました。

併しこの為に、世紀の原子爆弾を避け得られた事実は偉大であります。厳粛であります。

昭和二〇年の七、八月は炎天続きでありました。毎日市中を行動中B2の来襲にも時々出会いましたが何等自分には変りありませんでした。

当時私は広島市北方一三軒、国鉄電車で三五分間の距離にあるK町の軍需工場に入社勤務していました。自宅は市の西部で原爆中心地より半里以内にありました(現在も同じ)。会社では当時物資不足の折で、購入や官庁等の用件で毎日午前中は殆んど市中で行動をとって居りました。

当八月六日には、早朝弾き出される様に午前六時半Y駅 (広島市北部の省線駅)発の電車で出勤致しました事は、今もって不思議でなりません。会社の事務所の北から南向きの自分の机からは、南の窓を通して広島方面の空はその日も炎熱を思わす青白色を西の山が斜に区切って居ました。「ピカッ」とその上空の閃光を全身に感じましたのは正しく午前八時一五分でありました。

「新型爆弾だ」とは全員の意見でした。閃光後の茸型の爆煙はこれ又寔に奇異なものでありました。

早速広島よりの通勤者はトラックで正午頃帰りました。市周辺の家屋は未だ延焼中の物が多くありました。途中避難者の群に出会いましたが、これ等は全部無傷の者でしたが、全部、荷物はおろか袋一つ持っていませんのを見まして不思議に思いました。途中でトラックを下り省線の線路伝いにY町に出るのにガスの為一苦労でした。道々に横たわる屍、未だ息のある重傷者、全裸の男女、しかも腕、脚、胸、背の表皮ははがれて、赤身のぶらりと垂れ下ったままで苦痛を訴え救いを求める様、河原の砂上に群なす負傷者達、今もってまざまざと脳裡に浮びます。

翌日からは市の西方約一六軒の親戚に疎開致しまして、縁故者の捜査に約一ヶ月許り市中の各所に通いました。朝六時頃出発、日ぐれ八時頃帰途につき一一時頃帰宅致しました。無論交通機関絶無の時ですから往復徒歩でありました。しかも炎天下、原爆ガスと屍臭が充満して青や緑色一つなく、奇怪な黒褐色に覆われた残骸広島は、生存者の私には大きな反省を促すものの様でありました。しかも歩く白シャツ、パンツには真黒になる程のをつけて払えども追えども際限のない蠅でした。二〇ヵ年近く呉服商で事務方面に従事致しまして、所謂蒲柳の質の自分が、毎日地下足袋での歩行初めは蹠が痛みましたが、終りには大分皮も厚くなった位であります。夕暮時に村と市の境の峠の頂上に立つや、西方の田舎からの空気の爽快な味わいは初めての体験でありまして、如何に当時の広島市中の空気の尋常でなかったかを御想像願います。原爆時に難を避けさせて頂きました私も、直後から毎日をこの原爆ガスの中に暮しましたのに何等故障のなかった事、これも普通でなかったと思います。後になって気付いた事でありますが、その八月か九月の間に一週間位無痛無熱の下痢がありました。近年になりましてこれが大変に結構な御浄化を頂いたのだという事を感じさせて頂きました。否この御浄化によって私は生命を賜わったものと感謝致して居ります。

このガスの為に、原爆当時助かりました者、又疎開者で被爆後に市中に出歩いた為に傷ついた人の数は相当に上り、寧その為に死去した者も多数ありました。田舎の人で被爆後市中の寺の墓を調べる為に僅か一日来た為に帰宅して死去した話を一、二聞きましたが、如何に被爆後の空気状態の悪かったかという事が窺われると思います。

最初原爆から御加護を頂いた私も、当時は勿論それが原子爆弾とは知りませんでした(当時は専門学者以外は誰も関知しなかったと思います)。

又当然その原爆ガスの有毒さも無関心のまま第二段目とも申します危険この上もないそのガス中を徘徊しながらも、不知不識の内に御浄化の御加護によりまして身体に異常のありませんでした事は何と申しましても大神様、明主様の御加護と申し上げる外ないと思います。誠に有難く厚く厚く御礼申し上げます。

尚当時、親戚の婦人の火傷患者に掌を触れずに治療致しましたが、苦痛が軽減致し、遂に全快致しました。家屋倒壊の時下敷になりまして右肩、右手全体を打撲致しまして筋を痛めまして、指の動きも不充分で痛苦を訴えていましたが、火傷治療後、御浄霊で楽になりました。原爆後は生存者は全部市外に疎開致しましてこのお道の連絡も絶たれて居りました処、昭和二一年現在のO中教会のI先生が、交通、食糧等すべて不自由の中を、御遠路を御来広下さいました事は、原爆に遭いまして助かった私達と致しまして、誠に、大神様並びに明主様の御恵みと感謝感激厚く御礼申し上げる次第であります。爾来毎月御指導に与り、H支部設置の御許しも頂きました。殊に去る三月一二日には、この広島市で最初の世界救世教の大講演会を開催して頂きまして、管長先生外諸先生の御来広下さいました事は私達生存者は勿論、原爆の犠牲者二十幾万の霊の如何に喜びましたかを思いますにつけ、感慨無量なるものがございます。今後共益々御道の為に努力させて頂く覚悟でございます。

簡単でございますが、原子爆弾体験を報告させて頂きました。明主様有難うございました。厚く御礼申し上げます。

(昭和二七年五月七日)

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広島県 M・S
原子爆弾! 科学は何とまた素晴しく恐ろしいものを作り上げたものでしょう。幸にして生き残ったものの、私達の目標も家庭も、根本からくつがえされ、あの時病貧争の最低に破滅寸前の処を、世界救世教の御浄霊によって救われなかったら、どうなって居った事でしょう。

明主様有難うございました。この事実を御報告申し上げます。

「原子爆発」運命とは言え余りにも悲惨でした。軍需工場で学徒を指導して居た父親は若い学徒と共に、あえない最期を遂げました。私宅は爆心地より二軒程離れて居る為、他の者は、全部助かりましたが、家の屋根、天井、家具等吹き飛んで、家中足の踏み入れる所もない程でした。近所の者と共に裏山の谷間の避難所へ逃れ、多くの負傷者(殆んど火傷で上半身又は、全身で二倍位に腫れて、見た丈では誰だか判らない)と共に不安の日夜を過しました。こうなっては医者も薬も間に合いません。食用油や、野菜の汁を塗るのです。医師の言葉では、「火傷者は特に水を欲しがるが、沢山やる事は絶対いけない」との事でしたが、実に可哀相でした。「水、水、水を呉れ」と皆発狂した様に言うのです。「少しずつではなくては駄目なんだ、我慢して呉れ」と。それも静かになって、動かなくなったと見れば皆黒く変色して死んで行くのです。ああどうせ死ぬのなら思い切り水を飲ませてやりたかった。後で分ったのですが、飲みたいだけ飲ませた方が結果が良くそのおかげで助かったという人もありました。初めは何とかして、楽にして助かる方法は、と皆一生懸命看護しましたが、無慙に死んで行く状を見て茫然と放心したようになってしまいました。今当時を思い起せばペンを持つ手も重く鈍ります。放射能を受けた者で外面的には何ともなかったものが、黒い様な血を吐き血便をし、又、頭髪がばらばらと全部抜けて、ばたばた倒れ出しました。「これは爆弾と共に「毒ガス」が使われたので、市内にはまだ残って居るから、危いだろう」ということで、私達も急ぎ田舎の疎開先へ逃げのびました。

間もなく終戦、あの臨時ニュースを聞いた時は何とも言えない気持でした。廃墟と化した広島にも青い草木の芽が吹き出しました。そうして、もう住まれまいと思っていた土地に帰ることが出来ました。こうして、新しい平和日本建設を目指して生きる事を喜び合ったのも束の間でした。あの時放射能を左半身に受けた母は、その方の感覚が痺れた様で体の調子が悪くなりました。

私もとかく病気勝ちになり、身体がだるく、仕事が手につかなくなりました。当時原子病と言いまして、前記の様にばたばた倒れて行くので私達もそうなるのではないかと非常に心配して、近くの医師に診て貰った処「これは大分肺が悪くなっているから、私の言う通りに、注意しないと危いよ」と言われました。でも何となく信じられず、あっちこっちと医者に診て貰った結果皆まちまちの事を言われるので、医者にかからず薬だけ貰ってのんで居りました。併し乍らだんだんと悪くなり、頭は重く、胃腸も害して、働く力もなくなり、身体は痩せ細り、幽霊の様になりました。ああ強くなりたい、早く良くなりたいと焦れば焦る程悪くなりました。せめて精神的にでも強いものをと、父親の残して行った、バイブルや、仏教書、精神修養などの本を出して見ましたが、それを読んで理解する力もありませんでした。そうして「ああ自分は駄目だ、何も判らなくなった」と投げ出してしまいました。そこには悪魔が不気味にせせら笑って居りました。「神仏なんてないんだよ、あんなものはお前の様な気の弱い奴が勝手に拝むものさ、幸福なんて、ちゃんちゃらおかしいや」と私も何時の間にか、そういう様になってしまいました。そうして自分で自分の墓穴を掘る恐ろしい人間になりかけたのです。併し私だけを頼りにして居る母や、幼い弟妹達の不安そうな顔を見るにつけ何とも言えぬ腹立たしさと良心の呵責にもだえ苦しみました。こうした病気、貧乏、精神的苦痛に堪えかねて、気丈な母も「私も倒れそうだ、こんな事なら、いっそあの時皆が一緒に原子爆弾で殺されて居れば良かった」と言う様になりました。残されたものは「絶望」それでした。

「奇蹟」二三年九月でした。近所になんとか、変った事をして病気を治す人が来て居られると聞いて、母が浄霊を三回して戴いただけで何時にない明るい顔をして「とても体が軽くなった。何とも言えぬいい気持だ。お前もお願いしてごらん。どんな病気でもよくなると仰言ったよ」と熱心に勧めるので、最初はこういう事が大嫌いなので相手になりませんでしたが、しかし一度お願いして見ようか、と行って見て驚きました。若い男の方で、仰言る事が、今までにない事ばかりなので、何となく心を引かれ、用心深く、疑い乍ら、一ヵ月続ける中に、ひどかった胃病がすっかりよくなりました。母も左半身の症状が治り、そうして母がお守様を頂き、私も立派な宗教だと思ったので、先生に入信をお願いし、一二月お守様を拝受させて頂き、母と共に、家中喜び合いました。そうして、その後、沢山の奇蹟や浄化等頂き、ともすれば崩れそうになる信仰心も先生方の力強い御指導により、三年後の現在では、精神的にも、肉体的にも、健康な生命を与えて頂き、家中光明に包まれ感謝の生活をさせて頂ける様になりました。

最後に今日まで原爆症について莫大な費用をかけて、現代医科学的にて色々研究されて居りますが、「この原爆症を真に救うのは浄霊以外に無い」という事を、実際に直面した私達は、はっきりと世界中の人達に申し上げます。

明主様、誠に有難うございました。

(昭和二七年四月三〇日)

(世界救世教奇蹟集 昭和二十八年九月十日)