原子爆弾に関するもの 04

広島県 M・T
この度明主様より「原爆の御守護その他の体験を報告せよ」とのお言葉を会長先生を通じて頂きましたが、余り大きな御守護に筆や言葉で言い表わす事が出来ず、ペンを執って見て書きかけてはやめ、何度も何度も書いて見たものの、元来作文の不得手な私ですが、明主様が直接お目を通される事を承り、光栄に身がしまり拙文も顧みず当時を追憶しつつ御報告させて頂きます。

入信の動機その他は後日に致しまして、忘れも致しません昭和二〇年八月六日、世界最初の新科学兵器原子爆弾が投下された日、広島市民の二五万の生命財産は一瞬にして変化してしまいました。当日は朝早く主人は一人娘が学徒疎開で岩国市北方約八里程の山奥の村に居りましたので、急に面会がしたいと言って出掛けましたので朝早く開店も出来ず(当時私宅はこども堂と言う名前で書籍販売業を致して居りました)予て教修を受けている当時の広島鉄道局長のA様宅(広島市H町官舎)に御浄霊の依頼を受けて居った関係上お伺いする事に致しました。局長様はお出かけ寸前にて自動車が用意されて居り、奥様も一緒に歯科医に行かれる予定、お嬢様も学校へ出掛ける寸前だったのです。私の顔を見るや奥様は大変喜ばれ、局長さんもお嬢様も出掛けるのをやめ御浄霊を受ける事になり、御浄霊を始めた処、ピカッと光ったと思う瞬問、ドンと大きな音がしたと思うと、辺りは真暗くなり、私は何も彼も分らなくなりました。暫くして気がつきましたが直撃弾が落ちたのだと思いました。当時は中心地以外の所では皆が一様にそう感じたのです。一瞬死ぬという気持におそわれました。早速、光明如来様を念じて居りますと、少しずつ明るくなって参りました。

意識をだんだんとりもどしかけました処、A様の奥様に「Mさん」と呼ばれてパッと正気になりました。あたりを見れば何も彼も飛び散り、一瞬の出来事にただ茫然として居りましたが、取敢えず外に飛び出して見れば家は全部壊れて居り、下敷になっている者は助けて呉れ、助けて呉れと泣き叫んで居ります。急に家の事が気になり、帰りかけますと大怪我をした人達がこちらへ逃れて参りますので尋ねて見ると、どの人も異口同音に「自分の家に爆弾が落ちた」と言われます。私も局長宅へ落ちたのだと許り思ったのに、これでは到底市中の我家へは帰れぬ事を悟り引返しました。途中家の軒下にはさまれた子供を助けるやら怪我をした人を御浄霊したりして居る中に、大火災になりましたので付近の太田川畔へ逃れました。軍人さんが大分ひどい怪我をして倒れて居るので早速御浄霊をさせて頂きますと、気がついて御礼を言われ治療所へ連れて行きました。途中怪我人ばかりで実に惨憺たる光景で、元気なのは私一人で誠に不思議でなりませんでした。今考えると御守様の御蔭と感じさせられ、現在の心境があの当時あったらより沢山の人々を助けられたのにと後悔に堪えません。

取敢えず妹宅は少し離れた郊外ですのでそこへ身を寄す積りで参りますと、途中の家は全部壊れて居ります。怪我人や死人で実に阿鼻叫喚の有様です。漸く妹宅へ辿りついて見れば家の内部は全部こわれ、食糧等何一つありません。漸く空腹を感じて参りましたがどうする事も出来ず、その中怪我人は連れて来るので、唯当時は観音様を念じながら手を振る事に一生懸命だったのです。それで皆楽になり、自分も最善の努力を致したつもりでした。恐ろしかった六日の日も暮れ七日の朝を迎えましたが、広島市内は殆んど燃えつくし、我が家へ来て見れば金庫一つが残って居り、後は何一つありません。全部灰になって居ります。自分もここに居たらあのになっていたに違いない、御浄霊の尊さ、神様の有難さ、唯何もいりません、体一つあれば、お守様のお蔭と有難さ嬉しさに涙はとめどなく流れて参ります。お守様のお蔭だと繰返し繰返し叫んで、そうだ一人でも多く怪我した人を助けようと思い、先ず一番気にかかるのは当時親戚から預って居った子供の事、早速子供の通って居った女学校へ走りました。

学校へ行きますと全部怪我人で一杯です。 誰が誰やら判らず、尋ねる事も出来ず、唯茫然としている処にトラックが女学生を満載して参りました。その中の一人が「伯母さん」と手を出して泣きます。全部の生徒は顔中包帯ですので誰やら分らず、声を頼りにそれが姪である事が分り、早速下して一室へ連れて参り、大火傷をして居りますので早速御浄霊をさせて頂き、お守を頂かさなかった事を後悔しつつ一心に神様にお願いして御浄霊させて頂きましたら、四、五日で元気になり、帰郷出来る様になりました。その他の生徒も学校へ泊りきりで御浄霊させて頂く内、殆んど全快致しました。

先日の新聞に(昭和二七年二月)原爆病の火傷には油薬は不可と出て居りましたが、当時私はこのお道の話を聞いて居り薬の不可の事を先生より承って居りましたので、薬をつけて居ない人許り御浄霊させて頂きますと実によく治ります。薬をつける人の浄霊は治り方が遅いのに気がつきました。

当時余り惨憺たる光景の最中故、充分の記録を取っておかなかったのが残念でたまりません。唯早く助けたい一心で名前も聞かず手を振るのが一生懸命でした。

同じ条件の中でお守を持った人と持たない人との区別をはっきり分らせて戴き、私の親戚でも入信した人は全部怪我一つせず助かって居りますが、縁のなかった者は殆んど怪我又は死んで居ります。子供の疎開先へ帰った主人も数日後広島のピカドンを知り帰って参りまして、店が灰になって居り、金庫が一つだけ残って居りましたので、主人は家内も欲深故、金庫のそばで死んだものと思い念仏をあげて親戚宅へ行く途中、橋の上で会い、お互に夢ではないかと喜び合い、暫く涙がとまりませんでした。

なお当時の広島の原爆後の悲惨さは当時を体験した者でないと想像出来ないと思います。一家全部助かった家は殆んどありません。私一家は明主様のお蔭とつくづく有難涙にむせびます。

なお当時の原爆病で頭髪の抜けた人は大抵助かりませんでしたが、御浄霊を受けた人は助かり今でも元気で居ります。原爆病に熱と下痢はつきものですが、御浄霊を受けた人は皆助かって居ります。薬をのんだ人は死んだ人が多かった様です。当時何の怪我もなく助かって喜び合った近所の人も、一〇日、二〇日と経つ中に死んだ人も沢山あります。当時講習会の度毎にすすめに歩いて、受けた人も相当にありましたが、皆お蔭を戴いて居られました。が再三すすめても遂に縁のなかった方々は殆んど助かって居ないのを見て、誠に御守護の偉大さに今更乍ら当時を思い出して感慨無量です。当時の事とて本部との連絡もなく、交通は思う様にならず遂に終戦となり、お道を開く方法もなく、唯御浄霊ばかり致して居ります内、翌二一年二月に当時すすめに来て下さったI先生が九州の帰りに広島へ連絡旁々寄って下さったのですが市内には一軒の家もなく、誰が何処に居るやら分らず唯一人入信者で少し中心地より離れた現在のS教師の宅へ立寄って下され、漸く連絡がつきまして、本部の様子が分り、使命の重大さを聞かせて頂き、一生懸命努力致す様励まされ、月々の指導に教修に来て頂きその後入信者一〇〇〇人近い人が出来、力強くお道の為に精進させて頂く身となり、その間再度の浄化を頂きつつ現在非常に恵まれてO中教会H支部の責任者にさせて頂く身となりました事を考えますと、今昔の感にたえぬものを一入感じ、明主様の御恵の万分の一におこたえさせて頂く決心でございます。

当時唯わけも分らず御浄霊だけの体験にて、人様に伝える様な記録と文章の綴り方の不備の為、お伝え出来なかった事を深くお詫び致しまして御報告させて頂きます。

明主様誠に有難うございます。

(昭和二七年四月二三日)

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広島県 S.J
思い出しても恐ろしいあの原爆の惨状、二〇年八月六日横川橋付近に於て一瞬自転車諸共吹き飛ばされ、気がついた時は檬々たる土煙の中に横たわり、顔、頸、手と露出している部分は全部焼かれ、皮膚が布の如く垂れている所もありました。

そしてもうあっちこっちには火が出て居りました。家の下敷となり助けを求める人々の叫び声を後に、私は夢中で逃げ帰り、以後焼けた皮膚を塩水で拭いては寝て居りました。

四ヵ月後やや元気を回復したのでぼつぼつ家業の料亭の仕事を始めて居りました処、約一年後二二年四月頃から腹部に痛みを覚え、腹部が張って気持が悪く、下痢が続くので医師の診断を受けました処、原因不明との事でしたが「腹が悪いのだから柔かいものを食べる様に」と言われ色々手当をしました。又その頃より背中一面疥癬の様な吹出物が出て痒く、これが膿でべたべたとなり、苦しい毎日でした。医師も次々と代り、人の良いと言う、あらゆる手当を尽くしましたが体は次第に痩せ衰弱するばかりで、食欲は減退、生きた屍の如くで、人々からは「もう長くはあるまい」と噂されておりました。

二六年の暮についに医師も「私の手ではどうにもならない、白血球が少いから原子の為かも解らないから広島日赤病院に行って診断して貰いなさい」と、てい良く見放されてしまいました。

もう駄目なのだろうか、生きたいと思う生への執着、何と言ってよいかその気持を表現することは出来ません。

しかし医師に見放され乍らも、未だ医学への信頼は捨て去る事も出来ず、一縷の望みをもって愈々明日は日赤病院に行く事に決めました。その時神様のお救いか、はからずも近所の人より救世教の有難い奇蹟のお話を聴き、早速家内と二人でN様宅に御伺いし、御浄霊を戴き始めました。

最初はこれで治るのだろうかと不安な気持でしたが御浄霊を戴く内に次第に気持が良くなり、一週間後に何でも食べ、下痢は止り、軽い仕事は出来る様になりました。

その時の嬉しかった事、唯々感謝するのみでございます。

家内は早速入信させて頂きました。その後私は一ヵ月位下痢の御浄化を戴き、腹も疥癬も本当に良くして頂きました。そうして三月二九日に入信させて頂き、毎日元気で家業に勤めさせて戴いております。私と同じ症状の人は皆死んで居ります。五年余りもあらゆる療法を尽くし、毎日を暗い不安な気持ですごしました。死の一歩手前で、しかも短期間にこの御救いを戴き、新しい生命をお与え下さいましたと言う事は何と偉大な神様の御恵みでしょう。

御礼申し上げようもございません。唯々微力乍ら明主様の地上天国建設に役立たせて頂き、御恩の万分の一でも尽くさせて戴きます。

拙文乍らこの御神徳を皆様と共に喜んで頂きく御報告させて頂きます。

明主様有難うございました。謹みて御礼申し上げます。

(昭和二七年五月一七日)

(世界救世教奇蹟集 昭和二十八年九月十日)