八、 食餌の方法

食餌の方法などといふ事は、実に、可笑しな話であって、方法もクソもありはしない。腹が減った時に、箸と茶碗で食へばいいのであるが、今日、文化が進んだ為に、反って間違った点が多々あるのを以て、本当の食餌法を説くのである。

腹が減るから、飯を食ふといふ事は真実であるが、今は、そうではないのである。腹が減らないのに我慢して食ひ、美味い物を不味く食ふ人が多くなってゐるのである。又、食ひ度い物を食ふと言ふのなら、当然(アタリマエ)だが、食ひ度いものを我慢して喰はないで、喰ひ度くないものを我慢して喰ふといふ、不思議な文化人が多くなってゐるのである。

本当から言へば、三度の食事の時間を決める位、間違った事はないと共に、又、食餌の分量を決める位間違ってゐる事は、之もないのである。考へてもみるがいい、千差万別、凡ゆる食物が消化さるる時間は、決して一定してはゐない。それぞれみんな違ってゐる。三時間で消化する物もあれば、五時間以上でなくては消化しないものもある。それ故、食事から食事迄の間隔を一定すれば、腹が減り過ぎる事もあれば、腹が減らな過ぎる事があるのは当然(アタリマエ)である。腹が減り過ぎた時は結構であるが、腹が減らないのに、時間が来た以上食はなきゃならないといふ事は、初めに言った、食ひ度くないのに喰ふ訳なのである。それと同じく分量も腹が減れば余計食ふし、減らなければ少く食ふといふ事が、最も自然的であり、合理的ではないか。例へて言へば、寒いから綿入を着、火鉢にあたるのであって、暑くなれば、浴衣になり、氷水を飲むのである。その如く、人生何事も一定に決められるものではないので、決めるといふ事が不可なのである。今日、医家が言ふ養生法に、食事の時間を定めて、食事の分量を定めよといふ事が、如何に間違ってをるかは判るであらふ。然し、そうは言ふものの、食事の時間丈は、不規則に出来得ない、勤人のやうな境遇者は止むを得ないから、せめて、食事の分量を伸縮するより致し方ないであらふ。然し、境遇上、出来得る人は、私の説く様にすれば、必ず胃が良くなり、健康が増進する事は保證するのである。

次に、今の人は、食物に就て、非常に間違ってゐる点がある。それは、何が薬だとか、何が毒だとか言って、喰ひ度いと思ふ物を喰はないで、喰ひ度くもない不味い物を我慢して喰ふ傾向がある。それも、実際に合ってゐれば未だしもだが、飛んでもない間違った事を行ってゐる。本来、凡ゆる食物は、神が人間を造り、其人間を養ふ為に、種々の要素を必要とする。故に、その必要の要素が形を変え、味を変えて、食物になってゐるのであるから、何が薬だとか、何が毒だとか、人間が勝手に決められるべきものではないのである。詰り、其時喰べ度いと思ふ物が其時の必要なる物で、それが、其時其人に、薬になるのである。恰度、喉の乾いた時に、水が飲み度い様なもので、それは、其時水分が欠乏してゐるからである。食べ度くないとか、不味いとかいふ物は、其食物が必要でないからで、そういふ物を我慢して喰へば、毒にこそなれ、決して薬にはならないのである。であるから、最も理想的食餌法を言ふならば、喰べ度い時に、喰べ度い食物を、喰べ度い丈喰ふのがいいのであるから、少くとも、病人丈はそうしたいものである。

次に、咀嚼に就て曰はんに、よく嚼(カ)む程いいといふ事は世間で言はれ、又、大方の人はそう信じてゐるが、之も間違ってゐるのである。之に就て、私は実験した事がある。確か拾余年前だったかと思ふ。アメリカにフレンチャといふ人があった。此人が作った、フレッチャーズム喫食法といふのがある。出来る丈よく噛む-形がない迄、ネットリする位迄嚼んでから呑み込むといふ行り方なので、大分、其当時評判になったものであるが、それを私は、一箇月間、実行してみた。最初は、非常に具合が良かったのであったが、段々実行してゆく裡に、胃の方が少し宛、弱ってゆくのが感じられ、随而、何となく身体に力が薄くなった様な心持がしたので、之ではいけないと、元の食餌法に変えた所が、忽ち力を恢復したのである。此実験に由って、よく咀嚼するといふ事は、胃を弱める事になり、大変な間違ひであるといふ事を知ったのである。然らば、どの程度が一番いいかといふに、半噛み位が一番いいので、その実行に由って、私は、胃腸は頗る健康であるのである。

食物に就て一例を挙げれば、私は、夏は、茄子の香の物と枝豆を特に余計食ふ。之は、茄子を喰ふと非常に痰が出る。其理由は、茄子は、体内の掃除をする力があるので、神は人間に、沢山食はしむべく、此野菜は、沢山生るのである。枝豆は夏季に限る野菜で之も夏季多食すべく、与えてあるのである。又秋は、柿を出来る丈食するといいのである。柿は冷えるといふが、之は冷えるのでなくて、体内の洗滌をするので、それが為に、小水の多量排泄となるのである。

(日本医術講義録 昭和十年)