セフィロトの樹

セフィロトの樹というものを御存知でしょうか。アニメ新世紀エヴァンゲリオンのOPに出てくる例の樹です。セフィロトの樹とは、旧約聖書の『創世記』に登場する理想郷・エデンの中央部に埋められた木のことです。別名で「生命の木(Tree of Life)」「命の木」とも呼ばれます。

左は大樹を逆さまにしたような格好をしているのですが、これは地番上の根っこの部分、太陽が燃えてるような円の部分が主神様を表現しているからです。ちなみに、箱根という地名は『箱』=『家』、『根』=『主神』となって主神様のお家があるので箱根です。

御 垂 示 録 (第二十二号)
【お伺い】
一般に無神論者と言われている中にも、先祖祀りという事はしている所はありますが、どうもお蔭をいただけません。そういう人達をこのお道にお導きする方法を御教えお願い申し上げます」

【御垂示】
別に方法というのはありません。何故かというと、導くという事は導かれるというそういう人が機会を与えられた場合に、話を聞くとか、こっちの新聞を見ればそれでよいのです。あとは心配しなくてもよいのです。何故と言って人によって時期がありますから、その人が救われる時期が来ないと、幾ら言っても駄目です。その時期というのは非常に神秘なもので難かしいものです。

例えば木なら木として、幹があって枝がありますが、幹が救われてから次に大枝、小枝、葉というのが順序です。ですから幹が救われて、次に葉を救おうとしても、それは順序が違うから、そうはゆきません。そこで救世教の人は、私は根です。幹部の人は、幹の人は今はちょっと言えませんが、大枝の方でしょう。大枝が救われて小枝が救われて行くのです。それを放ったらかしておいて葉を救おうとしても、それは順序が違っているから救われません。そういう時期が来れば、喜んで話も聞くし御神書も読みます。だから分らないのはまだ時期が来ないのです。だからスラスラ行くのは時期が来たなと分るし、割合に骨を折るのは時期が来ないのです。

それからこの間も書きましたが、滅びる人と救われる人とは決まっているのです。ですから滅びる人は幾らやっても駄目です。だからさっきの“食道が悪くて、噴門から何うとかする”というのは、もう救われない側になっているのです。救われるのなら、そうならないうちにチャンと信仰にはいっています。ですからそういう人を救おうとしても無駄というものです。それは別に難かしい事はないので、見別ければよいのです。この人は救われるか、或いはもう駄目な人かという事は直ぐ分りますから、どっちかというと、楽にスラスラと行く人は時期が来て救われる運命にある人です。それから楽に行かないのは救われない方です。

この間の論文に書いてありますが、救われない人がずっと多いので、救われる人は十人に一人はないくらいなものです。最初は誰でも救われると思ってやりますが、救われない人を一生懸命にやるために、救われる人の方が疎(オロソ)かになり、それが大変な間違いです。そういう事を見別けるのもその人の智慧正覚が向上していれば見別けもつきます。ですから智慧正覚を磨けばその判断力がつくのです。それで智慧正覚の磨けた人は、人から質問を受けても正確に返事ができるから、一般の人も早く信仰にはいるというわけです。

昭和二十八年七月一日

というようにですね。一番上の根っこが主神様、そこから派生した幹の偉い神々、その次に枝の神々、その次に段々と下っていって人間とくるようになっているんですね。なので、明主様は人間の魂は主神様から頂くと御教えくださっていますが、人間の魂をずーっと遡っていくと主神様までたどり着くのです。だから人間は神の子と言われるんですね。

それでですね。このセフィロトの樹は生命の樹と言われているんですけども、このセフィロトの樹から無限のエネルギーを取り出す方法があるのですが、それが何かというと先祖供養です。救世教の人でいうと御神前での明主様と紫微宮への拝礼です。このセフィロトの樹に電源ケーブルをつなぐ行為が実は先祖供養で、先祖供養を能動的に実践することによって霊線がセフィロトの樹とつながるようになってるのです。それで、この霊線が繋がると、セフィロトの樹は生命の樹と言われてるぐらいなので、無限の霊的エネルギーがガーー!と全身に流れてくるようになってるのです。

現代人というのは先祖供養に対する認識が全くもって違っています。先祖供養を犬の散歩やエサやりの様な煩わしい御世話だと思っているのです。全くもって見当違いです。このセフィロトの樹との繋がりが無くなって霊的な欠乏状態になっている人間ばかりなのです。切れかけの乾電池人間ばっかりです。パワースポットパワースポットとやたら霊的エネルギーに満ちた観光地がクローズアップされるのですが、それは霊的エネルギーが欠乏した現代人が多すぎるからです。一方、先祖供養の意味を知ってようが知らなかろうが、セフィロトの樹と霊線がつながってるような人は、電源ケーブル直結人間と言っても過言ではないのです。田舎の仏壇のある家に住んでるような人間は自然とこうなってることが多いですね。私の解釈からすると、御神前や仏壇というのは霊的エネルギー充電スポットなのです。このような捉え方をすると有難くてたまらないでしょう。

現代社会では、家庭不和がものすごい多いのですよ。なので、家庭やそういうものに対するネガティブなイメージをもっている人が大多数なんです。それで、家族に対するネガティブな感情は、実は祖先に対して否定的になるのを助長するのです。そうなっていくと段々とセフィロトの樹から遠ざかっていくことになるのです。神からの霊気というのは祖先から繋がる霊線からやってくるので、それを否定すると電源ケーブルが抜けちゃうようなことになるのです。だからどれだけムカついて腹が立つようなことがあっても、それを許すというのが人間の最大の修行になってくるのです。殺意が湧くほど姑に腹が立ってもですね、亡くなった後は生前の憎しみを一旦忘れて御先祖として供養することは許すという行為になるのです。そうするとセフィロトの樹と繋がれるようになって、神と一体となれる日がくるのです。