問答有用

(昭和二十六年四月十二日対談 熱海市水口の岡田邸碧雲荘の応接室)

夢声 いまこちらは、やはり宗教法人として届けられておりますか。

岡田 そうです。いままでは宗教法人の届出主義でしたからね。ところが今度宗教法人法が出来て認証制になりましたね。そうでないと誰でもできるわけでしょう。こんどはあの法律が出たために、そうやたらにできないようになりましたね。

夢声 せんは裏だなの長屋に住んでいても、わしは教祖だといって届けりゃそれで済んだんですからね。(笑)

岡田 企業的に宗教をやろうってぇのがありましてね。

夢声 そりゃァ、いまヘタな企業をするよりも比較的成功する率は多いかも知れませんな。

岡田 とにかくわたしのほうはなんかそういう目標にされちゃったんですよ。新聞や雑誌で、おそろしい収入があるとか金があるとかヤイヤイ書いたもんですから、あれがずいぶん刺激したんです。ことにわたしのほうの二十三年の暮の税の問題、あれが伝わったのがよほど刺激を与えたと見えますね。あれからいっぺんに新しい宗教法人がふえたようですよ。

夢声 日本人てぇのは何事でも真似が好きですからね、こちらの新聞記事なぞ見ると、なるほどこれはというんで、やる奴がいるんですね。

岡田 儲け仕事みたいに見ちゃうんです。ところが物ごとは逆になるもんでして、わたしは有名になるのがきらいで、できるだけ目立たないようにという主義でやってきたのが逆な結果になって、金なんか問題にしないのに自然に入ってきちゃった。入るものは断るわけにはいきませんし……。(笑)

夢声 もちろん、断るべきもんじゃありませんね。(笑)

岡田 入ってきてみると、やっぱり大計画をやる。去年あたり、あの裁判とかいろんなことで収入がいっぺんに減っちゃったんですね。そうすると手をおっぴろげたやつを急に縮小するわけにいかずね、困ったですよ。いくらかこの頃は落ちついてきましたけども。どうもそのね、世の中ってものは、いろんな計画たてたところでその通りにはなりませんからな。

夢声 計画通りにはならない。ならないから面白いんだと、あたくし思ってるんですがね。計画する通りにできれば計画する必要はないということになりましてね、人生サクバクたるものになりましょうな。ひとつ差支えない範囲で、こちらの教えについてお話を伺いたいんですがね。あたくしはこちらで出されている本をひと通り拝見しました。なにも話のバツを合わしていうわけじゃないけれども、あたしも一種の宗教観を持っておりましてね、非常に共通点があるんですな。

岡田 そうでしょう。あなたのいろんな話を聞いてると、一種の宗教哲学がありますよ。だから面白いんですね。

夢声 あなたの宗教観というものは、もちろん一日でもってできたもんじゃなく、だんだん成長してここまでこられ、今後も成長するもんだろうと思いますがね、どういう径路でこういうことになったんでござんしょうか。外面的な径路でなく、神に対する考え方の径路ですな。

岡田 体裁よくいわずそのまんまいえば、こういうわけなんですよ。わたしは宗教家になろうとは全然若い時から思っちゃいなかった。最初は絵描きになろうと思ったんです。それで美術学校に入ったくらいですから。ところが目が悪くなってやめちゃった。それから肺病になって寝て、これもやっとなおったんです。それからまあつらつら世の中を見ると、どうもこれからは金儲けだ、実業だと思いましてね、なんでもひとつ金儲けに取ッつこうというんで、小さな小間物屋の売りものがあったのでそこを買った。それくらいの金は、おやじからもらって持ってたんですよ。そうしてやってみるとまあうまく当ったんですね。十五万か二十万ぐらいの金ができた。大正八、九年ですからね、ひとつの成功者ってわけです。

夢声 二十万、今の金なら少くとも四百万、いや四千万か!大成功者ですね。何しろ高柳(淳之助)が一万円貯金法というんで成功した時代ですから。

岡田 ああ、わたしもあれをやったんですよ、一万円貯金を。(笑)金というやつは出来始めると速度を増すもので、二、三年で十五万から二十万になって、わたしは有頂天になっちゃった。ところがね、世の中の間違ったことに対する憤慨性がわたしにはあるもんですからね、その頃の世の中を見ると、どうしても社会改革をしたくってしようがない。だから一時は共産主義思想にもなりましたよ。〔オヒカリ様の共産思想はユカイ〕しかし結局は社会を改革するのは新聞だと思った。新聞社をやってみようというんで調べてみると、当時どうしても百万円以上の金を持たなきゃダメだというんです。そこで百万円目標にいろいろ仕事を拡張したり、頼まれて金を融通したりして……、お金を融通したといっても直接じゃなく、それぞれ専門家があってそのほうへ回すわけです。あの時分は景気がよかった。ようし、五、六年たったら百万円になるかも知れないという目算ができた。ところが大正九年の三月ガラ(暴落)でひとたまりもなくひっくり返っちゃったんですよ。金を貸した関係の銀行の破産やなんかでね。その結果、苦しい時の神だのみでね、信仰を求めたわけです。いろんな信仰をあさってみたが、どうも気にいったのがない。当時ちょうど大本教が世の中に知れ始めた時です……。

夢声 ああ、そうでしたな。〔そのころ故小山内薫氏が入信して、松竹キネマが記録映画「大本教」を撮ったりした〕

岡田 お筆先なんか読んでみると、とにかく引きつけるものがあるんですよ。よし、大本教に入ってやろうってんで入った。そうしているうちに、なかなか面白いけれどもヘンなところが見えてきたんですね。というのはつまり皇室に関係したことがだいぶあるらしかったですよ。これはやっつけられる、いまのうちに逃げちゃったほうがいいってんで、最後の弾圧の前の年にわたしは逃げちゃったんです。

夢声 逃げられたのは、いつ頃ですかな。

岡田 昭和九年の九月です、最後の弾圧が十年の十二月ですから。わたしは東京に幹部が二人いたうちの一人でしたからね、もし逃げていなかったら、弾圧の時は当然やられるところだったんです。それが逃げたんで助かった。それよりだいぶ前の昭和……、あれは大正天皇がおかくれになった頃ですから、昭和元年ですね、わたしは一種の神がかりになったんです。夜の十二時になりますとね、とてもいい気もちになってくるんですよ。なんかしゃべりたくなるんですね。しゃべりたくなると、最初はとめていたけれども、もうとまらなくなった。(笑)口から出てきちゃう。面白いことが出るんですよ、全然知らないことが、日本歴史ですね、日本の国の五十万年以前ぐらいからの状態が口から出てくるんです。大本教で聞いてますから、こいつァ神がかりってもんだと思って、それを家内に筆記さしたんですよ。三カ月毎晩、十二時から二時ごろまで……。

夢声 それまではふつう状態だったんですか。

岡田 ええふつうですよ。自分で神がかりになろうともなんとも思ってやしなかった。大本教信者の中でもわたしは変りもので、大本教じゃ肉食は絶対にいけないとされてるんだが、わたしは牛肉でもさかんに食うんです。洋服着るのも大本教じゃわたし一人だった。ひとが「君、牛なんか食っちゃ信仰の道に違うじゃないか」っていうと、「大本教は世界を救う宗教だ。牛肉も食わなかったら外人は救えないじゃないか」というようなことをいいましたがね。(笑)ところがこういうことでかえってわたしは信者から重く見られるし、出口王仁三郎という人もわたしを特別に可愛がった。大本教を信仰したおかげで、現界のほかに霊界というものがある、人間は霊がもとだということがわかったんです。大本教へ入る前は、わたしは無神論者のカチカチで、神社のまえ通ったって頭を下げたことがない。頭を下げてるのをみるとツマラナイと思っていた。人間が入れた石っころを、鏡や紙っきれを、人間が拝むなんてそんなバカなことはないってんでね。ところが大本教へ入ってみると、なるほど神さまはあると思った。いろいろな奇蹟がありましてね。で、いまいった神がかりも一種の奇蹟なんですね。三カ月ぐらいでピタッととまったが、その間じゅう、過去、現在、未来にわたっていろんなことが出てくる。その中に、わたしはなんのために生まれたかということが出た。そんな大きな使命をもって生まれたのか、こら大変だと思った。そこでこんどは神霊によって病気をなおす研究、それをやったんです。昭和三年から九年まで六年間修業をして、人助けをやろうというので麹町に民間治療という看板をあげたんです。ところがどんどんなおるから大繁昌をしたんですね。その間にもいろんな奇蹟が起りましたよ。

夢声 観音さまが現われているあなたのあの写真を、パンフレットで見ましたがね、あれはどういうところでとられた写真なんですかな。

岡田 あの写真にはね、こういう話があるんですよ。わたしはいっぺん千手観音を描こうと思って、昔の粉本(フンポン)やなんかで構図をつくって昭和九年の九月に麹町の治療所で描き始めたんです。大本教時代に知った女の人で赤坂に美容院をやってる先生がいて、その人の病気をわたしがなおしちゃったもんですからね、「先生、ここはお狭いからわたしのうちにこんどできた三階の六畳でお描きになったらどうですか」というんです。わたしは長四畳で五尺幅の観音さまの絵を描いていたんですからね、そらァ結構だというんでそこでやり始めたんです。そうしてるうちに十月十一日でしたか、ある男が名刺を持って訪ねてきた。会ってみるとその男も少し普通人と違った神がかり的なところがありましたがね、「自分は二十年ばかり前にシナを漫遊して歩いて道教の信者になったんだが、いずれ日本に観音力を持った人が五人出るだろうという御託宣があった。ところがことしの一月、東のほうへ現われているからということなんで、それを探していた」というんです。その男は渋谷にいた男で、東のほうっていうとつまり赤坂か麹町だというんですね。「たまたま知人のところへきょう寄ったところが、霊力で病気をなおす人が麹町平河町にいるというので、これに違いないと思って訪ねてきた」と、こういうんですよ。さんざん話をして帰りがけに「ひとつ写真をうつさしてもらいたい。床の間へあがってごらんなさい」ってわけで、床の間にあがって写した。ところが写真の上へ千手観音さまの絵が出たんですよ。あくる日「不思議なものが出ましたよ」といって乾板を持ってきた。わたしも写真をうつす時に、なんかただごとじゃないと思ったんですけどね。〔誰ですか、眉にツバをつけるのは?〕

夢声 ああいうような写真をインチキでつくろうと思やァ、今日の写真技術ではつくれるんですけども、しかしああいう心霊写真ってものは日本だけじゃなく外国でまじめな学者の発表したものにも沢山あるんでしてね。こりゃァきっとどこかでごらんになったことのある絵なんですよ。その絵があなたの霊に納まっていて、それがああいう映像になって乾板に感ずる、これはまぁありそうなことなんですね。もっと物理学が発達すりゃァ、そういうことはあるということになるだろうと思いますよ。あたしどもの仮定できるような理屈で考えると、事実、観音さまがもっともわかり易い姿であすこへ現われたということになるわけでしょうな。

岡田 フラッシュをたくと同時にパッとそこへ現われた手際に感心しましたね、観音さまは偉い力を持ったもんだ、これならどんなことでもできないはずはないと思った。その時までわたしは観音さまを信仰してるわけじゃなかったんです。

夢声 大本教だと国常立尊(くにとこたちのみこと)ですからね。

岡田 そうですよ。それからある時大本教の話を聞きたいというのできた人があるんです。製図かなんかの技師ですがね。わたしを見ながら「大本教は観音さまと関係があるんですか」というんです。「観音さまは仏だし、大本教は神さまだからあんまり関係がない」「先生の隣りに観音さまが坐っておられる。いま先生が便所へいかれたら観音さまもあとをついていった」(笑)絵に描いたような観音さまで目をつむっているというんですね。わたしは「ああそうか。まだ観音さまが目をあく時期じゃないのか」と思ってね。(笑)そののちその人はわたしのうちへこようと思うと、パッと観音さまが見えるというんですよ。それじゃァわたしも観音さまと関係があるのかナと思うようになった。それが最初です。

夢声 すると第三者から教えられたわけですな。

岡田 そうですよ。わたしから求めたわけじゃない。それからしばらくたつと、ほかの人が「先生の頭の上に渦巻きが見える。そのまん中に観音さまがいて、十の字が見える」というんです。ちょうど観音さまが十字架をしょってるというふうに見えるってわけなんですよ。それは前の人とは違う人がいうんですからね、わたしはますます信頼を増した。その後いろいろ奇蹟がありますしね、要するに観音さまがわたしを使って救いをやるんだってことが確実にわかったんです。字(もとは「光」、今は「浄」)を書いてふところに入れさせると、病気がなおるんですからね、現実に。〔一字が何千円とくると、一枚何千円の文豪なんかアワレムベシ〕

夢声 それはどういうところから思いつかれたんですか。

岡田 そらァもう自然に浮かぶんです。

夢声 つまり霊界から教えられたわけですな……。あなたがお描きになったその千手観音はどうなりましたか。

岡田 その美容師の亭主が銀座で床屋をやってたんですがね、それが酔っぱらって帰ってきて、七分通りできた千手観音をナイフでズタズタに切っちゃった。

夢声 なんだって切ったんです?

岡田 それが面白いんですね。電話が掛かっていってみると切られてる、ひどい目にあったと思いましてね。ちょうどその二、三日前に写真に観音さまが写ったんですから、ことによったらわたしの描いてる千手観音の姿が悪いんじゃないかと思った、写真をめがねでよく見るとよほど違うところがあるんです。というのはわたしが描いた原図はヒゲがはえている。写真のはヒゲがない。それからわたしの描いたのは円光がお顔のまわりにある。写真のは体全体の円光です。もう一つ、わたしのは雲の上へ乗られているのが、写真のは岩の上に乗られている。なるほど天の上じゃ世の中に遠いから地へ降りなきゃならない。お顔だけの円光じゃ小さいから体全体の円光でなければダメだ。観音さまは生まれたてですから若いほうが本当だというふうに思ってね、切ったということは神さまがこれはいかんといって切ったんだ、むしろ喜んでいいんだというんで、また新しく描き始めたんです。それから十日ばかりたってその三階でお祭りをした。そのときに前の名刺を持って訪ねてきた男がきて「ここでもういっぺん写真をとらしてくれ」という。とったらわたしの坐ってるまわりに円光が出たんですよ。それを写真屋に焼き増しをさしたときに、ふつうの写真屋がどうしても失敗するんです。ガラスがこわれるとか曇りができるとかいって断ってきた。それでその男がこれは自分にやらせろといって斎戒沐浴してノリトをあげて、やっとのことうまくいったんです。そのお祭りの晩にわたしがテーブルに寄りかかって居眠りをしてるところを、その男が電燈の光りで写真をうつした。そうするとそれに龍が出たんです。その男は「先生にわたしがお目にかかる時はいつも雨が降ってる」というんですが、たしかに降るんです。どうしても龍神さんがいるに違いない。龍神というものは雨が必要だからというわけです。そんなことがあってね、それからこらァもう自分はどうしても宗教でやらなきゃダメだというので、日本観音教というものをつくったんです。

夢声 なるほどコチラぐらいになると、そういう奇蹟もあるだろうと思いますね。こういう話があるんですよ。ひとつ聞いていただいて御解釈ねがいたいと思いますがね、池袋に人世座という映画館があるんです。三角寛という山窩(サンカ)小説を書く人が経営してるんです。この人が戦後あすこに建てようとして悪い請負師にかかりましてね、お金を無理工面して入れたのに、なんだかんだといって建築にかからないんです。よっぽど投げ捨てようかと思っていると、乞食みたいな男が工事場へ入ってきましてね、「ここの前を通るたびに顔の片側がビリビリビリッとする。どうもただごとじゃない。何かここは貴いもののあったところでしょうか」っていうんですって。それから三角寛も気になるから巫子といいますか行者といいますか、そういうところへいって見てもらったんですな。「ウーム、水が見えるよ。ああハス池だ、これは。おや、弁天さまのお堂があるよ」というわけなんです。それから三角寛は商売がら池袋に関する文献を片っぱしから読んでみた。江戸名所図会てなもんから何から調べたが、池袋に弁天さまがあったという記録はないんですね。こんどは古老の言を聞いてまわった。そうするとたった一人えらくおじいさんで先祖代々池袋にいる植木屋さんがいましてね、「あっしの子供の時分にあすこにハス池がござんした。ハス池の中にちっちゃい弁天さまのホコラがありましたよ」っていうんです。それでそれはどの辺だろうというんで調べてみると、工事場の職人たちの便所の位置なんです。三角って人はかつぎ屋じゃないんですがね、そういう人の拝むものがあったところを便所にしてるのは気もちが悪いてぇんで、便所をどけたのみならず、きれいな山の泥を持ってきて木を植えてそこへ弁天さまを建てようと、こう考えたんです。それでその行者のところへ報告にいったんですね。その時に来合わしてる男が「それは御縁です。あたしいま遊んでる金がありますからお使い下さい」といってお金をゴソッと出してくれた。人世座はそれで建ったんです。迷信といわれようがなんといわれようが、とにかく弁天さまなるもののおかげで建ったんだから祭らなきゃいけないというので、彫刻家に頼みましてね、白彫りができあがった時にあたくし見ましたら、いい弁天さまですよ。最近二度目の塗りができていますがね。

岡田 それを霊的に説明しましょうか。あらゆるものに霊界がある。これを認めないからものごとのわからないことが多いんで、霊界の存在を確認すればなんでもなくわかるんです。たとえていえば、そこに一つ物がある、あるいは事件が起るということは、ちゃんと霊界に記録されているものなんです。弁天さまの住まいがあって、その住まいを取りのけても霊界はそのままになっている。霊がそこに住まわれているわけです。現界のことは霊界に影響するし、霊界のことは現界に影響する。ですから便所があったりすると始終不潔なものが影響するから、弁天さまはちゃんとしたホコラを建ててもらいたい。それを現界に知らせるべくいろんなことをされたんですね。そうして目の見える人をひっぱってきて、ちょうど弁天さまの目的通り建立ができたわけです。

夢声 そのルンペンみたいな人が通りかかったのも、巫子さんがあってそこへいくのも、まあ、神さまから見ると、将棋の駒でも桂馬のあとには銀というふうに、名人のごとく先の先まで読んでおられるわけですね。(笑)

岡田 古い歴史のあるところへいくと、わたしは実にいろいろな感じがする。わたしは鎌倉が好きで、せんによく鎌倉に別荘借りたりしましたがね、鎌倉駅から建長寺へいく間にむかし頼朝が歩いたという道路がありますね、あすこを通るとなんともいえない気分がする。その時分はそういうことはわからなかったが、あとで霊的のことがわかってから、つまりその時代のことが霊界に記録されて残ってるからこっちへそれが影響するんだってことがわかった。大震災の時に沢山の人が死んだところなんか通るとヘンな気がしますよ。みんなそういうことがこっちの魂に感じるんですね。

夢声 そうするとこういうことも説明がつきますな。墓地というものはちょっと考えると非常にさびしいものなんですが、青山墓地にしろ多摩墓地にしろ、一人で散歩してもさびしくないんですな。何かにぎやかなような気がする。考えてみると、墓地へ葬られてる人の大多数は墓石を立てられるようなねんごろな扱いを受けているので、その人たちの安らかな気持がこっちに反応するからなんですね。大変にぎやかなんですよ。あたしだけかと思うと「いやそうじゃない。ぼくもそうだ」っていう人があるんです。

岡田 結局われわれがいろんなことをやってるのも、霊を対象にしてやってるんですね。去年わたしが留置場へ入れられた時も、いろんな奇蹟がありました。

夢声 “留置場の奇蹟”というのはいいですな。(笑)それをひとつ伺いましょう。

岡田 たいへん重大なことがあったんです。六月十五日に留置場の中に入っていて、まったく人の出入りのないところで外界の刺激がないから、完全な精神統一ができたんですね。非常に大きな奇蹟が起ったんです。その本当のことは遺憾ながらまだ発表できないんですが、いずれ時期がきたら発表します。わたしにそれを与えるために、神さまがああいうところを選んだものなんですよ。ところがはじめ入った時は、ひどいところへ入れやがったと思った。こっちは年とってるし、ふだんからそんな生活とは縁遠い環境ですからね、ずいぶん苦しかったですよ。しかし苦しみでもなんでもなめてからでないと、そういうことはできなかったわけです。そうして六月十九日に出て、一週間目の二十五日に朝鮮問題が始まった。わたしに神秘があったことと朝鮮問題と関連してるんですよ。

夢声 何か日本の未来に関する霊示があったんですね。

岡田 そうです。あったんです。

夢声 どうです、偉いでしょう。(笑)霊感でわかるんです。

岡田 あなたも教祖さまになれる。(笑)徳川教かな。

夢声 もう教祖じみてますがね。だいぶ。(笑)……さっき字を書いて渡すとたちまちその人は病気をなおす力を生じるということをおっしゃったんですが、昔から名工の作った彫刻が夜なかに動くとか、あるいは名画が奇蹟をあらわすとか、たたりをするとかいうような言い伝えが沢山ありますな。念力とか執念とかいうものが物質にこもると、原子爆弾の放射能がしばらく抜けないように、半永久的に抜けないでそれにおさまっていて、そこから何か放射してるということがありそうな気がするんですがね。〔私のガク説に霊魂放射能説なるものあり〕

岡田 それはありますよ。アメリカの婦人ですがね、人の持ちものを見ると、この人は年が幾つでどんな性格だ、あの人はどういうことを三日前にしてどこへいったということまでわかる人がありましたよ。

夢声 犯人を捜査するには便利ですね。(笑)犯人の遺留品で、これはいま電車に乗ってるなんてことがわかったりして、すぐつかまる。(笑)

岡田 しかしそういう霊覚が始終じゃないんですね。まわりに大勢人が見ているところで実験をするというような場合は、うまくいかないものなんです。

夢声 まわりにいるそれぞれの人が霊を持っているから、邪魔するわけですね。雑音があってラジオが聞えないようなもんですな。

岡田 病人がありますね、そのうちのものがわたしらのなおし方に反対する場合、なおされると自分の顔がつぶれちゃうでしょう。そこでなおらないようにという想念が病人にくる。そういうのに限ってなおりが悪い。ですから家族のものに反対のあった場合にはよすということになっています。

夢声 想念の妨害があったら、霊の作用ってものは妨害されるわけですね、当然。

岡田 あるうちを訪問しますと、なんだか気分の悪いうちと、非常に気分のいいうちがありますね。きょうはこういうことをしなきゃならんのにこいつがきたためにできなくなった、困ったナという、それがこっちへくるから、なんとなく落ちつけない妙な気分になる。反対に心から歓迎する場合は、その想念がこっちへくるからいい気もちになるんです。

夢声 もてるもてないなんてのはそれですね。ブオンナばかり揃ってるところへいっても、もてるといい気もちになることがあるのはそのせいかな。(笑)

岡田 成金というものは没落しますね。どういうわけかというと、あんな奴が出世しゃがったというんでみんなうらやむ。それが悪霊になってその人を取り巻くからなんです。感謝の想念は光になってその人へいく、恨みの想念は曇りになっていく。光ってくるとだんだんしあわせになるし、曇ってくると病気だとか災難があるわけです。わたしの信者は実によく災難を逃がれる。それは科学的に説明できるんです。お守りを入れてると、お守りから光りが放たれるから、どうしたって災難を受けないわけです。不思議でもなんでもないんですよ。

夢声 そういえば、あたしがね、うちにいない時に火事があるとか、大空襲があるとか、妙にうちには危険があるんですよ。

岡田 あなたは霊が相当厚いんですね。(笑)

夢声 あたくしのうちが焼けそうになったり、空襲で頭の上で焼夷弾を落されたのが阿佐ケ谷へ流れたり、そういう時はきっとあたしが旅行中なんです。

岡田 守護神がついてる。これが助けますよ、始終。守護霊ともいいますがね。信者にはよくそれがありますよ。遅れて乗りそこなったために電車の事故を免れたとかね。これは霊ということがわからないと説明がつかないんです。

夢声 ただ偶然じゃ片付かないですね。

岡田 いまの人間というのは唯物観を子供の時から吹き込まれてるから、迷信だとかインチキだとかいうんです。霊がわからなければ、本当の文化や文明はない。ですからわたしはいま「文明の創造」という本を書いてるんです。いままで文明だと思ったのは半分の文明だ。文明の根本は生命の安全だ。生命の安全というのは病気にならないこと、戦争のなくなること、この二つです。この解決ができなければ文明社会というものはできないという意味なんです。それじゃ戦争と病気をなくすることができるか、できるんです。こういうふうにできるというその学問ですね。それを書いています。この論文をノーベル賞審査会に出すつもりですがね。

夢声 平和賞ですな。

岡田 けれどもおそらくノーベル賞審査員には、霊界のことは理解されないだろうと思うんです。科学のほうでいうと、湯川博士が理論物理学で中間子を発見した。これは実験物理学で証明されなきゃダメだ。ところがたまたまアメリカで宇宙線を写した時に、中間素粒子というものが写った。これは実験確実だというんでノーベル賞をもらった。わたしのは実験神霊学で、神霊学の裏付けとしてこうやって(手を振るしぐさ)病気がなおるということでしょう。これは原子科学からいくともういけないんです。なぜいけないかというと、無の世界でこれは顕微鏡で把握できないからです。要するに科学と宗教との間の空白、これが大変な世界なんです。ここはどういう構成であるか、どういう元素であるかということを書いているんです。いまのところは宗教と科学は別問題だといわれてるが、これがわかると宗教と科学が一致するわけですよ。医学がバイキンをこわがっている。しかし、バイキンがなんの理由によって発生するかってことはわかってないでしょう。かりに結核菌が感染したとする。それは偶然にできたものでなく、発生源があってそこでできたものに違いない。その発生源がわからなければ結核菌なんてわかるわけがない。そこを明らかにすれば、バイキンは消滅するから病気は起らなくなりますよ。

夢声 いまのところ困ったことにはバイキン自身がふえるから--。

岡田 ふえる理由があってふえる。食いものを食ってふえる。食いものは人間の血液の中の濁りですよ。濁りというのは微粒子ですからね、それを食って生きてる。だからバイキンが体に入っても発病する人と発病しない人とある。バイキンの食いものが沢山ある人と、ない人とあるからです。バイキンの食いものをなくすることが伝染病解決の根本ですね。

夢声 バイキンを栄養失調にさせるわけですな。(笑)

岡田 天然痘なんかわたしのほうのでわけなくなおるんですよ。

夢声 アバタにならないで済むんですか。

岡田 ええ、なんでもないんです。その報告がきていますけどね、つい最近名古屋で、しかも紫斑性天然痘がなおったんです。まあ、わたしから人間がやってることを見ると、野蛮人ぐらいにしか見えませんな。(笑)医学なんて幼稚なもんでさあ。

夢声 バイキンの食いものがなくなればバイキンが死んじゃうってこともあるだろうけども、人間の霊には積極的にバイキンをやっつけるだけの力があるんじゃないんですかねェ。

岡田 あるんです。だからわれわれのほうじゃバイキンなんてなんとも思わない。

夢声 ゼイキンのほうがこわいですな。(笑)

岡田 わたしは結核の婦人とならいつでもキッスするっていうんですよ。(笑)

夢声 話は違いますが、書いたものに霊がそなわるということもありますね。絵を見ても、いい絵というものはなんとなく見た瞬間にこっちを打ちますね。それから眺めていればいるほどいい気もちになりますしね。

岡田 絵もニセモノなんか見ると、いやァな気もちが入ってくる。すぐわかりますね。

夢声 それぞれの画家の力にもよるが、名作には何かこもってますね。ジーンとしたものがこっちへくる。

岡田 シナの宋元時代の絵、九百年から千年前の絵ですがね、それに霊がありますからね。墨絵の名人の牧谿、梁楷のものなんか見てると、なんともいえず引きつけられる。現代の人のはなんにもない。ですから宋元ものを珍重するということは理屈がありますね。わたしは二、三日前に博物館へいって宗達、光琳の展覧会を見たが、あれを見てると、もうなんともいえないんですよ。

夢声 こないだ宗達の絵を京都のほうの人が持ってきて見せてくれました。竹に雀ですがね、実にいいんですな、これが。

岡田 宗達にもニセモノがずいぶんありますけどね、わたしには霊気ですぐわかるんです。

夢声 宗達や光琳というのは偉いもんですね。マチス展を見たあとで見劣りがしないそうですよ。マチスのほうがこっちから学んでるくらいだそうですね。

岡田 マチスはだいたい感覚は光琳からとってるし、技巧は写楽からとってますね。写楽と光琳をとって、現代的に簡素化したものがマチスです。マチスも油絵のほうはそう感心しません。油絵なら後期印象派でもあれ以上のものがありますよ。だけどデッサンは大したもんですね。

夢声 マチスの娘を描いたの(倉敷美術館蔵のもの)がありましょう。みんなほめるけどもあたしにはわからないんです。ところが、こないだ野村胡堂さんのうちへいったらマチスのデッサン(若い女)があった。これならわかる。実にいいんですよ。 

岡田 簡単な線で個性をよく出していますからね。

夢声 牧谿か梁楷のもので、布袋さまが鷄のケンカしてるのを見てる絵がありますね。あれが武蔵の絵にもあるんですよ。原画には木がうしろにあるんですが、武蔵のほうには木がないんです。そうそう、武蔵の絵といえば、これも一つの霊的な話だが、あたしは宮本武蔵を放送やなんかでさかんにやってますが、ぜひこれを一本持っていなきゃいけないてぇんで、骨董屋さんが持ってきたんです。芦雁の絵ですがね、なかなかゆたかな雁です。雁にしてはいやにふとっていましてね。高いから買うのよしちゃったんです。そうしたらね、二、三日すると吉川英治氏がフラッと奥さんと一緒にきました、はじめてあたしのうちへ。「ええ、きょうはあなたに上げるものがあってきた」っていうんです。武蔵の絵をくれましたよ。あたしのうちへ武蔵の絵がくるべき霊界の何かがあったんですね。

岡田 つまりあなたが武蔵のことをやってくれるから非常にうれしいんで、霊界のほうで何かお礼をしなきゃいけないというので……。(笑)

〔室内に運ばれた岡田氏所蔵の宗達筆「竜」「虎」双幅、乾山えがく「松と山桜」の角皿を鑑賞しつつ、なおひとしきり画談芸談がはずんだ。即ち、ピカソから梅原龍三郎、安井曽太郎、小出楢重、岸田劉生、さらに栖鳳、大観、古径など一通りアゲツラわれたのである。実に一大美術論の展開と相成ったが残念ながら割愛〕

(問 昭和二十七年九月十五日)