明主様「フランスでも展覧会をやりたいと思ってますが-」
ダ嬢「日本の美術展をパリーでやり、それで東京でフランスの美術展をやりたいと思ってます」
明主様「日本美術というものは、今迄殆ど外人の目に触れる事は、あんまりなかったのです。つまり日本の美術品は金持や華族--そういう所の倉に仕舞ってあって、人の目に触れる事を嫌がって居たのです。それですから日本に来て見たいと思っても僅かは見られますが、点々と方々に散在してますから、全然見ようと思っても出来なかったのです。それで私は、そういった美術を誰にも楽しめる機関を作らなければならないというのが、此の美術館の根本です。ですから今迄見れなかったという、そういう物を出来る丈見せたいと思って色々苦労しているのです。それで私は今迄光琳、光悦、宗達、乾山等の物を一番主にして蒐めて来ましたから、その展覧会をやろうとも思ってます。今マチスとかピカソとか言っても、結局元は光琳ですからね」
ダ嬢「そう思います。日本の美術は、フランスの現代の美術に関係がありました。光琳のは写真丈見ました。フランスで光琳の絵を見ますが駄目です。フランスの現代の美術に大いに研究となりました」
明主様「そうですね。琳派の掛物では、宗達のが沢山ありますから、それを出します。之は非常に参考になると思います」
ダ嬢「女の人でもう一人パリーで研究している人が最近来ますので二人で是非伺わせて戴きます」
明主様「日本人が絵を習おうと思ってマチスの処に行った処が、お前は何もフランス迄来る必要はないではないか。日本には光琳という立派なのが居る。光琳がオレの先生だ。だから態々フランス迄来る必要はないと言ったそうです」
田付女史「マチスも大分年を取って、もう駄目になったらしい様です」
ダ嬢「光琳の前の日本の美術に就いては本当に知りませんでした」
明主様「それは見る機会がなかったからです」
ダ嬢「そうですか。日本の美術の展覧会が何うしても必要だと思います」
明主様「そうです」
ダ嬢「フランスには金襴手が少いのです」
明主様「支那のですか。そう言えば私の処に図録がありますが、無いです。金襴手は、アメリカ、イギリスにも少いです。あっちにある金襴手は極く近代です。康煕から乾隆です。二百年位からはありますが、金襴手というのは明ですから、四百年位前です。それは無いです。あれは日本人が非常に珍重して昔日本に輸入された時大名が大切にして居たのです。それから青磁の良い物もあんまり無いです。アメリカ、イギリスにもありません。イギリスにある良い物は均窯です。あれは日本以上の物があります。均窯は日本にはあんまりありませんが、青磁はあります。然もイギリス、アメリカは土中物と言って、土の中から出した。日本のは伝世ですから全然違います。ですからお茶の茶碗で玳玻盞というのがありましたでしょう--鳳凰の画いてある、あれが伝世と言って土に入ってないのです。それが大抵は土に入っていたのです」
阿部執事「アンダーソンの壺はフィンランドにあるそうで、三千年前とかの物が非常に多いそうです。日本には非常に少いそうです」
明主様「そうです」
田付女史「此間支那人に会いまして聞いてみますと、日本には確か二つある。一つは箱根で、一つは京都だと言ってました」
阿部執事「牡丹蝶文魯瓶(トロピン)を良いと云われます」
明主様「あれは良い物です。あれはアメリカの雑誌に出てますが、あれの悪い物もあるのです。良い物は日本で、大阪の白鶴です。白鶴美術館には良い物があります」
ダ嬢「サンフランシスコには持って行きましたのですか」
明主様「ロスアンゼルスには持って行きました」
ダ嬢「ユネスコに援助して戴きたいと思います。ユネスコの方でも今度こっちで報告しますので知れますから--」
明主様「美術をやるという事は、思想的に幾分の良い事になりますね」
田付女史「ユネスコは一生懸命になって居りまして、浮世絵の良い木版で今迄出てない新しいのを五十枚私の方の役所に言って参りましたが、全部の版を買う金が無くて随分心配しましたが、出来たのを見まして、綺麗だというので貰うという事になりましたそうです」
明主様「日本では版画の良い物を選って作っているのがありますよ」
田付女史「東洋美術協会で非常に喜んでやって下さいました。世界中に廻るそうで御座いますが、版画ばかりでは日本の美術とは言えませんので--」
明主様「結局良い画帳を作ろうと--私はいずれそれをやろうと思ってます。日本で有名な物を写真版に相当作って、各国のそういう処に--。日本には良い物が沢山ありますからね」
ダ嬢「奇蹟的と言っても良い位素晴しい御考えだと思います」
阿部執事「因果経は奈良の方が良いのではないかと仰言って居られました」
明主様「そう言っては何んですが、あの方が悪いのです。此処の方が一番先に出来たのです」
ダ嬢「そうらしいですね」
明主様「あの方が其次です。奈良の方のは美術学校の所蔵になってますが、天平時代でも前と後と両方出来て、後のが奈良の博物館に出ているのです。較べてみれば直ぐ分ります」
ダ嬢「因果経が一番好きです。どうも日本の絵は、全部そこから出ている様な気がします」
明主様「それは中々慧眼です。本当にそうです。因果経から出て、それから大和絵に--」
ダ嬢「大和絵の元ですか」
明主様「そうです。中々良く知って居られる。因果経から大和絵になって浮世絵になるのです。その因果経から大和絵になった一番最初のが私の処にありますから、今お見せします。そこ迄解って居れば大したものです。日本人でもそこ迄解っているのは少いです」
(昭和二十七年十月二十五日)