大浄化後の人類

文明が衰退してディストピアになるSF作品が多くある。しかし大浄化後はそうはならない。今度の大浄化で原始時代に戻るわけではないと御教えで説かれています。霊界でもこれから第一天国を建設されるそうですが、どうも今までの宗教界が想像してきたような木石の上に素っ裸で暮らすような世界ではないそうなんです。超高度文明的に発展したSF小説で描かれる以上の素晴らしい神界がつくられるとあります。それにあわせて現界につくられる地上天国も超高度に発展した素晴らしいものになるそうなんですよね。

これまで発展してきた科学技術は残る、そしてその技術を今度は霊的に発達した新人類が扱うようになる。空前絶後の発展と進歩が大浄化を生き伸びた神人によってなされる。大浄化を生き延びた人類の中から神人が数多く出現するのです。まるで人間から進化した突然変異体が発生するように思われますがそうではないんですよね。魂の曇りが取り除かれた人間はその様な存在、まるで生きる神のような存在になるんですよね。魂の周囲が曇ってると魂の光が遮られちゃう、魂がどのような主義主張をしようと周囲の曇りに遮られて何も伝わらない、パイロットの操作を受け付けないロボットのような状態になってしまう。明主様はランプの例えで教えてくださってます。魂は中心の光で、ランプの外側のガラスケースが汚れてると、魂の光が伝わらなくなってしまうと。魂こそが本当の主人なのにその光が曇りによって遮られる、魂の命令を受け付けない、違う何かによって自動に操られる。違う何かとは、動物的な生存本能、副守護神と言われるもの。パソコンで例えると、魂(本守護神)は扱う人間、副守護神はOS、身体はハードウェア。ロボットで例えると、本守護神はパイロット、副守護神は自動制御システム、身体は外側の機械部分、そんな感じ。新世紀エヴァンゲリオンとかのアニメはそのへんのところをよく表現できてますね。一度観てみてください。

それで、本守護神は神につうじてて愛が主体、副守護神は悪魔につうじてて不安が主体なんですよ。なので、人間がどちらに支配されてるか見破るのなんて簡単で、その人の言動が愛を主体としてるのか、不安を主体としてるのかを観察すればいい。程度の差があれ、どちらが多いかということですよね。もちろんそれを見つけたとして非難はしてはいけません、人間が人間を咎めるなんて神の領分を侵すようなものです。僭越至極、恐れ多いことです。ただ単にああそうなんだな、ところで自分はどうなのかな、自分はそんな風になってないかなと、自分で自分を反省する材料にしてください。それで、大浄化によって霊体の曇りが取り払われると、魂の光がダイレクトに伝わる。そして魂の光は神から来てますから、大浄化を乗り越えた人間は魂そのままに思い行動する人間になるというわけですね。魂の望むままに思考し、魂の望むままに言葉を使い、魂の望むままに行動するのです。言い換えると、神の望むままに思考し、神の望むままに言葉を使い、神の望むままに行動すると。神のように思い、神のような言葉を話し、神のように行動するのですから、それ即ち神ですよね。つまり神人です。もちろん副守護神が無くなるわけではありません、生存本能を無視しては生きていけないですから。なので不安を感じない超然としたものになるわけではないのです、不安を無視するような木偶の坊になるわけでもない。不安な点、懸念される点を考慮しつつ、それでも基本的には愛を主体として生きるということなんですよね。

そして肝心な点はですね、救世教の教義は神人をつくることにあるんですね。第三天国の人間は全員神格を得るわけですが、そういう神格者をつくることにある。明主様に御すがりして、御教えのとおりにちゃんと生きれば神になるわけです。そして明主様は神の神ですから、王の王、キングオブキングスでメシア様ですね。御教えにもあります、信徒も出来るだけ早く見真実にならなければいけないと、そしてそれは御浄霊の徹底と御教えの拝読でそこまでいけると言われてるんですね。御浄霊で霊体の曇りを取り除き、薬毒を排していけば、段々と霊体が清浄になっていくんですから、魂が光り輝いてくる。あとは人を御救いすることによっていただく感謝ですね。人に感謝されるようになれば神からもウンと御褒美の光をいただけますから、それですよね。それで清まっていく。世界救世教奇蹟集を読ませていただいてもそれを感じますね、明主様はもちろん別格ですが、当時の教会長さんや支部長さん専従者さんもほぼほぼ生神様かのような扱われ方ですよ。支部長さんの言葉からもほとばしるような情熱と自信がうかがわれる。なのであんなふうになれるんですよね、徹底すれば。