宗教的治病に於る誤謬

世間往々、信仰によって病気治しをする場合、非常に誤られ易い重大事がある。そうしてそれを誰もが気が付かないで、今日に至ってゐる事である。それは何であるかといふと、信仰で治さうと思ひつつ、実は自己の力に頼りつつある其事である。勿論、信仰で治さうとする以上、熱心であればある程、効果はある筈であって、其目標である神仏に祈願をこむるのであるが、此場合、実は自分自身の精神療法をしてゐる事が多いのである。何となれば、真の意味に於る神仏は、人間が水を浴び、お百度を踏み、数時間経文を誦み柏子木等を敲(タタ)き、又は貧困に陥ひる迄財産を提供させる等によって、神徳仏果を享けるといふ如きは、実に謬れるの甚しいものである。
例えて謂えば、神仏の御心は、親の心と同じやうなものであり、信徒は子のやうなものである。子が親に向って、或欲求をする場合、見るも悲惨な苦行は、親として決して快いものではない。故に、其願求が正当であるならば、親は欣んで、否、吾子を喜ばせんが為、難行苦行などさせずに、少しでも多く与へたいのが真情である。随而、苦行を求める信仰は、其目標である神は、正神である筈がないから、斯ういふ信仰は悉(ミナ)、迷信であるといって可いのである。
然し、子が如何に親の恩恵を享けやふとしても、其子が常に我儘勝手な事をし、親を顧みずして、只親から吾が欲しいものだけを与えて貰はふとしても駄目である。矢張り平常から、親を思ひ、親に尽し、親の言ふ事を肯き、親の喜ぶ行為を重ねなければならないのである。世には御利益ばかりを欲しがり、絶大な御利益を受けながら、それに対し感謝報恩を忘るる者があるが、是等は実に親不孝者で、終に親から見放されて了ふのは致し方ないのである。然し、斯ういふ輩に限って、自己の非を悟らないで親を怨むといふ事になり、自ら滅びゆくといふ哀れな結果になるものである。 故に、人は神仏に対っては、よく神仏の御心を悟り、人として無理からぬ正しい願求を、恭々しく淡白になし、又、出来る丈の報恩感謝をするのが本当である。
そうして、感謝報恩とは、一人でも多くを救ふ事である。といって人間には、人間を救ふ力は到底有る訳がないから、自分が救はれた神仏へ導くより外は無いのである。そうして、人を導く其徳に由って、それだけ自分も救はれるのである。又、人を導く暇のない人などは、それに換るに、金銭物品を奉る事も結構である。
次に病気である場合、それを治すのに病気が無いと思へとか、又は思念するとか、難行苦行するとかいふのは、皆自力で治すのであって、神仏の力徳では全然無いのである。神仏の力徳が顕著であるならば、人間が苦しい思ひをして有るものを無いと思ふやうな錯覚的苦悩などする必要がない。又、難行苦行なども、自己修養には可いが、それ等の信仰は悉、其神仏に力徳が欠けてゐるので、人間力を加へさして、さも神仏が御利益を与えたやうに思はせるのであって、一種の誤魔化しである。世間、斯ういふ信仰は余りにも多いのであるが、実は悉インチキである。然し、斯ういふインチキ的宗教は、来るべき神の清算に遇えば、忽ち崩壊するのは必然であるから、其神仏の教祖や役員信徒等は一時も早く其非を覚り、本当の道に進まなければ洵に危険である事を警告したいのである。(S・11・4・8)(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)