生と死

抑々、死とは何ぞやと言へば、肉体が病気等の為或程度毀損(キソン)され、又は大出血(全体量の三分の一-約七合)以上の結果、肉体が用をなさなくなるので、霊は肉体に留まる事が出来ず離脱するので、之を指して死といふのであります。一概に病死といっても、それは直接病気そのものの為ではなく、殆んど衰弱に由るのであります。然るに今日は衰弱に由らないで死ぬ場合が非常に多くなって来てゐる。之は如何なる訳であるか、大いに研究の必要があるのであります。唯然し、衰弱以外の死の原因としては心臓及び脳の故障であります。

次に、死は大別して二種あります。それは自然死と不自然死であります。現在としては自然死は寔に稀であって、国勢調査によると八十歳以上の人は七百人に一人の割合であるといふ事で、実に驚くべきであります。他の動物即ち鳥獣等は自然死が多いに係はらず、ひとり人間のみに斯くも不自然死が多いといふ事は如何なる訳でありませうか。そこに何等かの重大原因がなくてはならないと思ふのであります。そうして一方文化の進歩は何物をも解決せずには措かないといふ素晴しさに係はらず、ひとり人間の不自然死が如何に多くとも如何する事も出来ないとして諦めてゐる現在の文化は実に情ないと思ふのであります。

そうして今-不自然死を分けてみれば、病気及び変死であります。然し変死は極僅かで、殆んど病死である。然らば何故に病死が多いか、之に就て我歴史を覧ますと- 畏多くも神武大帝以後十二代景行天皇様迄は百歳以上の天寿を全うせられ給ひし天皇様の相当あらせられた事であります。それ以後は御寿齢がずっと低くなり給ふて居る。之は如何なる訳でありませうか、人文発達の為かとも想はれますが、然し人文発達が、雲井の上までさほど影響する訳がないと拝察するのであります。

茲で、注目すべき事は、其頃から漢方医学の渡来であります。それは如何いふ意味になるかといふと、日本人が薬を服む様になった事であります。徳川時代の有名な某漢方大家の言葉に『元来薬なるものはない』、『薬といふ物は皆毒である。病気は毒素であるから、毒を以て毒を制するといふ意味で薬を用ひるのである』と言ったそうであるが、之は実に至言であって、吾々と同一意見であります。之によってみれば、漢医方渡来によって薬といふ毒を服む事を覚へ、それが人体を弱らせ日本人の寿齢が短縮されたのではないかと想はれるのであります。又今一つの例として彼の秦の始皇帝が、東方に蓬莱島があり、そこに住む人間は非常な長寿者という事である、何か神薬でも服んでゐるのではないか、それを査べて来い、と臣の徐福に命じたといふ話は余りに有名であります。按ずるにそれは、其頃の日本には薬といふものが無かったので長寿者が多かったが、支那は勿論、其前から薬があったので長寿者が少なかった故と、吾々は想像するのであります。

(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

生と死

古来、凡人は固より、先哲、聖賢も此死の問題に就て程、如何に論議し説得され、又解決しよふと努力したものはないのである。いふ迄もなく、如何なる幸福も、如何なる希望も、此死によって万事休すで、此事以上に恐るべき事はあり得ないのである。然るに此恐るべき死なるものは、特殊の事態は別として、その大多数は病気といふ不可抗力ともいふべき事によるのである。少くとも九十才以下で死ぬのは、病気によるのであって、いはゞ、不自然なる死である。人間が、人間の天寿とは、病気の為でなく自然に衰へて死ぬ-之が天寿である。従而、天寿による死は、何等の苦痛がなく、その多くは前以て死期が判るのである。此理によって、死に際して苦痛を伴ふのは、天寿でない証拠であって、よく世間でいふ夭折するものに寿命だなどといふ事は、一種の諦め言葉に外ならないのである。先年百十二歳で物故した有名なる禅僧鳥栖越山師が、死の直前死期を予言し、家族、親戚知人等、数十人に取巻かれ、一人一人に遺言なし、予言の時間が来るに及んで何等の苦痛なく、静かに冥目して死したる如きは、自然死の最も好き標本であらふ。私は何故に、現代の人間が自然死の人間は寥々として暁の星の如く、殆んどが不自然死に畢るといふ-この悲惨なる原因に就て、之から項を累ねて述べよふと思ふ。(医学試稿 昭和十四年)

生と死

抑々、吾々の住むこの地上は「霊界と現界」に区別されてゐることは、已に述べた通りである。この理によって人間は、霊は霊界に属し、肉体は現界に属してゐるから、人が死ぬといふことは、肉体から霊が離脱して霊界に復帰することである。故に、一般人が考へてゐる死によって全部が消滅する--といふやうな解釈は、全然誤ってゐるのである。私は約十年間位、人の死と霊界との関係を徹底的に研究し、動かすべからざる根拠を把握し得たのである。

故に、死後人間の精霊は、直ちに霊界に入り、霊界の社会人となり、霊界の生活が始まるのである。そうして先づ人間が死の刹那は如何なる状態であるかを、霊界から観察する時の模様を書いてみよう。

死即ち精霊が肉体から離脱の場合、概ね人体の三個所から出るのである。即ち前額部、臍部、足の爪先からである。此の区別は如何なる理由によるかといふに、霊の清浄なるものは前額部、中位のものは臍部、汚濁せるものは足部といふ訳である。そうして霊の清浄なるものとは、生前善を行ひ、徳を積み、それによって霊体が浄化されたるもの、足部は生前罪悪を重ねたるもの、臍部はその中間である。

そうして、死の刹那を霊視した或看護婦の記録を私は見た事がある。これは最も好い例であると思ふから書いてみよう。

之は、西洋の例であるが、人によって霊の見える人が、何万人に一人は日本にも西洋にもあるのである。此看護婦も此種のものであったと見へ、なかなかよく書いてあった。私は詳しい事は忘れたが要点だけを誌(シル)す事にする。或時、今や死に垂(ナンナ)んとする病人を熟視してゐると、額の辺から一条の白色の霧の如なものが濛々と立昇り、空間に緩やかに拡がりゆくのである。そうして雲烟の如く、一つの大きな不規則な塊のやうなものになったかと思ふと、間もなく而も徐々として人体の形状になってゆき、数分後には、全く生前その儘の姿となって空間に立ち、凝乎と自己の死骸を(ミツ)めてゐるのである。其際死骸に取ついて、近親者が悲歎にくれてゐるのに対し、自分の存在を知らしたいやうな風にみえたが、何しろ幽冥処を異にしてゐるので、それを諦めたのかやや暫くして向直り、窓の方に進んで、頗る軽るげに外へ出て行ったといふのであるが、之は全く、死の刹那をよく表はしてゐるのである。

そうして仏教に於ては人の死を名付けて往生といふ。之は現界からみれば死に往くのであるから往死でなければならない。然し乍ら仏界は霊界であるから逆になるので現界の死は仏界からいへば生即ち往生である。又、死ぬ前のことを生前といふのも右の意味に外ならないのである。そうして人間は、霊界に於ける生活を何年か何十年何百年かを経て再び生れるのである。斯の如く、生更り死に代り何回でも生れてくるのである。

そうして霊界そのものは、人間に対し如何なる関係がありやといふに、それは現界に於て、神の御目的の受命者として、人各々の業務を遂行するに於て、意識すると意識せざるとに関はらず、曩に説いた如く霊体に汚穢が堆積するのである。それと共に肉体も病気老廃等によって受命を遂行し難くなるから、一旦体である衣を脱ぎすて霊界に復帰するのである。昔から霊の脱出した体を称してナキガラといふのは、そういふ意味であり、カラダといふのも同一の意味である。そうして霊魂が霊界に入るや、汚穢の堆積した量に対し、浄化作用が行はれるのであって、或程度、清浄化した霊魂は再び現界に生れてくるのである。

又、人は生れながらにして賢愚の別がある。之はどういふ訳かといふと、古い霊魂ほど賢いのである。何となれば、再生の度数が多い為、現世の経験が豊富であるからである。それに引換へ、新しい霊魂は経験が浅い為、どうしても愚かであるのはやむを得ないのである。新しい霊魂とは霊界に於ける生殖作用によって新生するのであるが、現界の生殖作用とは全然異なるそうである。

又、誰しも経験する所であるが、見ず知らずの他人であっても、一度接するや親子の如く兄弟の如く、否それ以上に親しみを感ずる事があるが、之は、前生(ゼンショウ)に於て、近親者又は非常に親密な間柄であった為である。之等を称して因縁といふのである。袖すり合ふも他生の縁とかいふやうな事も無意味ではないのである。

又旅行などした時、或場所に非常に親しみを感ずる事がある。それは前生に於て其辺に住み、又は永く滞在してゐた為である。

右の様に、前世と今世との関係は、凡ゆる事に影響してゐるのである。

又、よく斯ういふ事がある。非常に嫌ひな物とか、恐ろしがるものがある。例へていへば、犬や猫・鼠等を見て恐ろしがったり、又は蛙、蟻、毛虫等の如き虫類を怖れたり、水を見ると慄へたりする人がある。それ等はどういふ訳かといふと、犬・猫・鼠等に噛まれて、それが原因で死んだので、其恐怖が霊魂に染み着いてゐる為である。又、虫類を見て恐怖の刹那顛落し、それによって死んだり、水に落ちて死ぬ等によって、その恐怖が霊魂に染みつき、それが全く解消しないうちに再生するからである。

以前、私が扱った患者に斯ういふのがあった。其人は、誰も居ない場所では恐ろしくて寸時も居られない。故に、一人留守居をする時は、往来へ出て立ってゐるのである。之はどういふ訳かといふと、前世の時、独居の際急に発病し、人を呼んでも来ない中に死んでしまったので、其時の恐怖が貽(ノコ)ってゐる為である。斯ういふ人の例は割合多いものであるから、読者の知人にして、右と類似の行動がある人を観察する場合、右の私の説を参考にすれば大抵判断はつく筈である。

又、世間よく非常に心が良い人であるに拘はらず、洵に不幸な境遇の人がある。斯ういふ人に対し、その知人などが常に疑問を起すのであるが、此疑問に対し、私は次の如く解くのである。人間が前世に於て悪事を重ね、それが為、刑場に於て死罪になるとか、又は何等かの刑罰を受けるか、恨まれて生命を奪はれる場合死に直面した時、深く前非を悔悟し、悪の結果の恐ろしさを知って、此次生れた時は決して悪は為すまいと心に誓ふのである。その想念が再生してからも強く滲みつき、悪を厭ひ善事を為すのである。然るに再生しても前世に於ける罪穢が未だ残存してゐる為、その浄化作用としての苦悩を受けなければならないのである--といふ理由である。

又、男子であって、非常に貞操の正しい人がある。自分の妻以外の婦人には決して関はりを作らないといふのであるが、之等も前世に於て、婦人の為大いなる失敗をなし、身の破滅にまで到り、死に際会して悔悟し、此次の世では、決して正しからざる婦人関係は作らないと固く決心したといふ訳である。

又、歴史を繙(ヒモト)く時、或時代の場面や人物などに、何かしら親しみか又は憎悪等関心を払はずにおられない事があるが、それ等は自分がその時代に生れ合せ、関係があった為である事は勿論である。

(明日の医術 第三篇 昭和十八年十月二十三日)

生と死

人生死の問題ほど切実なる問題はあるまい。故に死及び死後に就て幻想的でない実證的の解説を得たならば之程の喜びはないであらう。私は此問題に対し霊的事象の研究から得た成果を発表し、遍く世人に知らせ、蒙を啓(ヒラ)きたく思ふのである。尤も死後の問題に対しては欧米に於ても心霊研究家としてオリヴァー・ロッジ卿、メーテルリンク、ワード博士等の如きは名著もあり、斯界の権威でもある。日本に於ても故浅野和三郎氏の如きは心霊研究家としてその造詣も深く、著書も多数あり、数年前物故したが、私も聊か関係があったので惜しまれるのである。

私が霊の問題を説くに当って断はっておきたい事は、出来るだけ自分自身の経験を主として記述する事にした。之は正確を期する為で、何分霊に関した問題は捕捉し難い不可視的である以上、兎もすればドグマに陥り易いからである。

人間は曩に説いた如く、使用不能になった肉体から離脱した霊は、霊界に復帰し霊界人となり、霊界生活が始まるのである。そうして先づ人間死の刹那は如何なる状態であるかを霊界から観察した時の模様を記(カ)いてみよう。

死即ち精霊が肉体から離脱の場合、概ね人体の三個所から出る。即ち前額部、臍部、足の爪先からである。此区別は如何なる理由によるかといふに、霊の清浄なるものは前額部、中位のものは臍部、汚濁せるものは足部といふ訳である。その理由としては霊の清浄なるものは、生前善を行ひ徳を積み霊が浄化された為で、汚濁は生前罪穢を累ねたるもの、中位はその間であって凡ては相応の理によるのである。

又左の例は死の刹那を霊視した或看護婦の手記であるが、非常によく書いてあるから参考に供する事にした。之は西洋の例であるが、人によって霊の見える人が西洋にも日本にも偶々あるのである。私は悉(クワ)しい事は忘れたが、要点だけは覚えてゐるから記いてみよう。『私は、或時今や死に垂(ナンナ)んとする病人を凝視してゐると、額の辺から一条の白色の霧のやうなものが立昇り、空間に緩やかに拡がりゆくのである。そうする裡(ウチ)に、雲烟(ウンエン)の如き一つの大きな不規則な塊のやうなものになったかと思ふと、間もなく而も徐々として人体の形状の如くなり、数分後には全く生前そのままの姿となって空間に起ち、凝っと自己の死骸を見詰めてをり、死骸に取ついて近親者が悲歎に暮れてゐるのに対し、自分の存在を知らしたいやうな風に見えたが、何しろ幽冥所を異にしてゐるので諦めたか、暫くして向直り窓の方に進んで行き、頗る軽げに外へ出て行った』といふのであるが、之は全く死の刹那をよく表はしてゐる。

仏教に於ては人の死を往生といふ。之は現界からみれば往死であるが、霊界から見れば生れてくる、即ち往生である。又死ぬ前の事を生前といふのも右の意味に外ならないのである。そうして人間は霊界に於ける生活を、何年か何十年何百年か続けて再び生れるのである。斯くの如き生き代り死に替り何回でも生れてくるので仏語に輪廻転生とは此事を謂ったものであらう。

霊界なるものは人間に対し如何なる関係ありやといふに、それは現界に於て、神よりの受命者として人各々の業務を遂行するに於て、意識せると意識せざるとに係はらず、霊体に汚穢が堆積する。それと共に肉体も病気、老衰等によって受命を遂行し難くなるから、一旦体を捨てて霊界に復帰する。即ち帰幽である。昔から霊の抜けた体を称してナキガラといふ事や肉体をカラダといふのもそういふ意味である。そうして霊魂が霊界に入るや、大多数は汚穢の浄化作用が始まる。汚穢の量によって霊界生活に於ての高下と浄化時限の長短があるのは勿論で、早きは数年数十年、遅きは数百年数千年に及ぶものさへある。そうして或程度浄化されたものは、神の受命により再生するのである。

右の普通の順序であるが、人により順序通りゆかぬ場合がある。それは生に対する執着であって、死に際会し生の執着が強いものは、霊界の浄化が不充分であり乍ら再生する場合もある。斯ういふ人は不幸の運命を辿るのである。何となれば浄化不充分の為、前生に於ける罪穢が相当残存してをりそれの浄化が発生するからである。此理によって世間よく善人にして不幸な人があるが、斯かる人は前生に於て罪を累ね、死に際会し飜然と悔悟し、人間は未来永劫悪は為すまじと固く決心し、その想念が霊魂に滲み着いてをり、浄化不充分のまま再生するを以て、悪を嫌ひ善を行ふに係はらず不幸の境遇を辿るのである。然し乍ら斯ういふ人も或期間不幸が続き、罪穢が払拭されるに於て一躍幸福者となる例も亦尠くないのである。亦斯ういふ人がある。自分の妻以外の女は知らないといふ品行方正を誇りとするのや、妻帯を欲せず、独身同様に終るものもあるが、之等の人は前世に於て、婦人関係によって不幸の原因を作り、死に際会し女性に対する一種の恐怖心を抱き、その想念が霊魂に滲み着いてゐる為である。其他鳥獣、虫類等の或種に対し、特に嫌悪又は恐怖を抱くものがあるが、それ等も、其動物によって死の原因を作った為である。又水を恐れたり、火を恐れたり、高所を恐れたりするのは、それ等が原因となった為である。人間恐怖症といふのがある。例へば多人数集合の場所を恐れるが、之等も人混みで押つぶされたりして死せる為であり、面白いのは独居を恐怖するものがある。私が扱った患者で斯ういふ人があった。それは留守居が出来ない。即ち己一人では淋しく恐ろしいので独居の場合は必ず外へ出て誰か帰るまで待ってゐるのである。之等は前世に於て独居の際急病が起り人を招んでも間に合はぬうち死せるものであらう。以上の如き数種の例によっても、人間は死に際し、執着や恐怖等なく、平安に大往生を遂ぐるよう、平常から心掛くべきである。

生れ乍らにして畸型や不具者があるが、之は霊界に於て、完全に浄化が行はれない裡(ウチ)再生するからである。例へば高所から顛落して手や足を折った場合、それが治り切らないうちに生れてくるからである。又早く再生する原因として、本人の執着のみでなく遺族の執着も影響する。世間よく愛児が死んでから間もなく姙娠し生れるといふ例があるが、之等は全く死んだ愛児が母親の執着によって早く再生するのであるが、斯ういふ子供はあまり幸福ではないのである。

人は生れ乍らにして賢愚の別がある。之はどういふ訳かといふと、古い霊魂と新しい霊魂との差異によるのである。古い霊魂とは、再生の度数が多く現世の経験を豊かに持ってゐるからで、これに反し新しい霊魂とは霊界に於て新生して間もないものであるから、経験が浅くどうしても愚かな訳である。そうして新しい霊魂とは、霊界に於ても生殖作用が行はれ生誕するのである。

又誰しも経験する所であるが、見ず知らずの他人であっても、一度接するや親子の如く兄弟の如く、否それ以上に親しみを感ずる事があるが、之は前生に於て、近親者又は非常に親密な間柄であった為で、此事を称して、因縁といふのである。又旅行などした際、或場所に非常に親しみを感ずる事があり、是非住みたいと思ふ事がある。それ等は前生に於てその辺に住み、又は長く滞在してゐた為である。又男女関係などの場合、熱烈な恋愛に陥り、盲目的にまで進む場合があるが、之等も前生に於て心と心とで相愛しながら結合の機会を得なかった、処が今生に於てその機会を得たので、爆発的恋愛関係となるのである。又歴史を繙(ヒモト)く時、或時代の場面や人物などに好感や親しみを持ったり、反対に憎悪する事があるが、それ等も自分がその時代に生れ合せ、何か知ら関係があった為である。

(天国の福音 昭和二十二年二月五日)

死とは何ぞや

人生に関する事柄の中、死程切実な問題は無い。といふ事は誰も知り抜いてゐるのであるが、さらばといふて、之程不可解なものはないのである。私は、死に就て自分の永年の実験と、諸々の宗教、泰西に於ける心霊実験と、凡有る分野に渉って研鑚の結果、解決が着いたのである。
抑々、人間なるものの構成から述べてみよふ。人間は、科学者がいふ肉体なる物質のみではない。前に述べたやふな霊(火素)と肉体との両原素から成立ってゐるので、肉体の原素としては、水素と土素との両物質であって、此両物質だけでは、生物としての活動は起らない。之に霊魂なる即ち無形の霊素が加はって、初めて活動が起るのである。そうして、無形の霊の形態は、人体そのままで、此霊素が肉体と分離する事を死といふのである。何故に分離するかといへば、肉体が老衰、病気、負傷、大出血等によって、使用に堪えざる状態、それがある基準を超えたる刹那、分離せざるを得ない法則であるからである。そうして、死と共に、忽ち体温が冷却し、血液は或一部に凝結するといふ事は、霊素即ち火素が無になるから、冷却する為である。然らば、此霊素はどうなるかといふと、人体の形状の儘、霊界なる別の世界に入るのである。是等の状態に就て、以前西洋実験記録をみた事があるが、之は洵によい実例であるから、次に述べてみよふ。それは、或看護婦の実験であって、患者が死が近寄るに従って、その患者の額の辺から水蒸気の如な、白い煙が立昇るのが見え、それが段々濃厚になりつつ、空間に一個の大きな楕円形のやうな形になりつつありと見る間に、段々人体のやうな形になりつつ、遂に、はっきりした患者の生前の通りになり、空間にあって、自己の死体より約三尺位上にあって、体を取囲み悲歎に暮れてゐる家族等の頭上から見下して何かいひたげであったが、やがて窓の方向に向って静かに浮游状に外へ消え去ったのである。
右の如くであるが、霊魂脱出は、大体額部と腹部と足部との三個所に限られてゐるやうである。序にいふが、例へば爆死の如き場合は、一瞬にして霊魂は無数の微粒となって一旦四散するが、間もなくそれが求心的に集合し、人体に復帰し、病死と少しも変らないのである。
そして霊魂が自己の意志によって或地点へ赴く場合、球状となって空間を遊走する。よく世間でいふ人魂とは之をいふのである。そして、右の看護婦の如く、霊の見える人間、之は特殊の能力であって、先天的のものと習練によって見得るものとがあるので、我国にも昔から実例があるばかりでなく、私はそういふ霊能者に幾度も遭遇し、曽つて私が実験に用ひた、素晴しい霊視能力を持った婦人があったのである。(医学試稿 昭和十四年)

現界と霊界

人間の死とは、肉体から霊が脱出分離するといふ事は、前項の通りであるが、然らば、脱出の霊魂は何処へゆくかといふと、それは霊界なる別の世界の住人になるのである。であるから、仏語でいふ往生とは、“生れ往く”とかくのである。それは、現界からみるから死であるが、霊界から観れば生である。元々仏界は、霊界中の存在である為、生れ往くといふのが当然である。死の前の事を生前といふのも同一の理である。此霊界の実体に就ては面白いのであって、私は、永い間凡有る方法を以て研究実験したのであるが、何れ、別に記くつもりであるから、茲では省く事にする。
右に述べたのは、人間に関してのみであるが、森羅万象如何なる物と雖も、霊と体とから成立ってゐるのである。生物でない、茲にある此火鉢でも、座蒲団でも霊があるのであって、もし、霊が分離すれば、その物は直ちに崩壊するのである。故に凡有るものは、霊によってその形体を保ってゐるので、その一例として、生石と死石といふ事がよくあるが、死石といふのは、霊が極稀薄になって、形体を保ち難くボロボロ欠けるのである。又魚や野菜が、時間が経つに従って腐敗したり、味が無くなったりするのは、霊が漸次放出するからである。たゞ、斉(ヒト)しく霊といっても、物質の霊は霊であって、生物の霊は精霊と名付けられてゐる。(医学試稿 昭和十四年)