観音様に御願する態度
今迄の何か信仰してる、信者の信仰の仕方は、私から見れば大変間違ってゐるのである。
特に神前に於て御祈願をする場合、そうである。例へば、何か願事をするのに、洵に諄々し過ぎるのである。泣くが如く、訴ふるが如く、肩を震はし、哀憐を、強ひて乞ふ如き態度は、寧ろ醜(ミグル)しい位のものであって、それを数分も、数十分も掛るものさへあるのである。
之は大変な間違ひである。例へて言へば、神様は親様であり、人民は子の如(ヨウ)なものであるから、子が親に対し、希望を乞ふのに、泣かんばかりに、執拗に訴えるのは、親として決して、気持の好いものではないであらふ。此理に由って、観音様へ御祈願する場合、成可く、非礼に渉らぬやう心掛くると共に、言葉は簡単が良いのである。故に、一つ事を繰返すのは、大変善くないのである。
何故なれば、観音様は、人間の心の底まで見透して被在らるるから、御祈願する前から判って居られるのは勿論である。故に、御祈願しなくとも、常に乞ひ願ってゐた事が、奇蹟的に実現する事が、能くあるのはそういふ訳である。又人間でさへ、一つ事を繰返されるのは、嫌なものであるから、況して御神霊へ対し奉っては、其点を呉々も、心掛くべきである。
序であるから、今一つ注意しておきたいが、今迄の習慣上、観音会の祝詞の外に、観音経を奏げる人がよくあるが、之も大変間違ってゐるのである。元々観音経は、釈尊の時代梵語で出来たものである。それは其時代の印度人に読ませる為である。それを又漢訳したものであるから、本当から言へば、日本人が読むのは間違ってゐるが、今迄は、代るべきものが無かったから致し方なかったのである。
又時間も、観音経は三十分以上を要するのであるから、二千五百年以前の印度人ならイザ知らず、現代文化生活者の日本人としては余りに時代錯誤である。之も悉(ミナ)、応身彌勒であらせらるる観音様の応身、否応世の御経綸の一端であると、察するのである。
(昭和十年)