右の重大事といふのは、霊界に於ける昼夜の大転換である。即ち夜と昼との交替であるといふと可笑しな話で、誰しも夜と昼は一日の中にあるではないかといふであらう。成程それには違ひないが、私のいふのは大宇宙のそれであって、此事を知るとしたら、人智では到底想像もつかない程の大神秘を会得する事が出来、それによって今後の世界の動向も分り、未来の見当も略ぼつくのである。そうして曩に述べた如く、此世界は物象界、空気界、霊気界の、三原素によって構成されてをり、一日の昼夜とは此物象界と空気界、つまり人間の五感に触れ、機械で測定出来るものであるに対し、霊気界のそれは全然無と同様で、捉へる事が出来ないものであるから、今私の此文を見るとしても、直ちに信じ得る事は困難であらう。私と雖も若し神を知らないとしたら、一般人と同様であろう。只私は此重大なる使命を有つ以上、神と密接不離な関係にあるから確実に知り得るのである。
それによると、霊界に於ても現界に一日の中に昼夜がある如く、十年にも、百年にも、千年、万年にもあるのである。従って其転換毎に、人類世界にも反映するので、それが霊界の方では絶対正確であるにも拘はらず、現界へ移写される場合、幾分の遅差は免れないのである。其事を頭に置いて、長い歴史をみる時、大、中、小種々の歴史的変化をみるのは、其表はれである。そこで今私が言はんとする処は、世界の大転換に関する主なる点であって何よりも先づ大転換の時期であるが、それは一九三一年六月十五日から始まってをり、一九六一年六月十五日迄の、三十年間で一段落がつく事になってゐる。然し人間の頭脳で考へる時、三十年と言えば相当長期間であるが、大宇宙に於ける神の経綸としたら、一瞬の出来事でしかないのである。そうして右の三十年といっても、現界に於ては急激な変化はなく、徐々として進みつつあると共に、右の三十年を挾んで其前後の時を合せると、六十余年の歳月を費す事となる。それは準備期と転換後の整理とに時を要するからである。
右の如き其転換の意味は今日迄は夜の世界であったから、謂はば月の支配であったのである。処が愈々昼の世界となるに就て、予て世界の二大聖者として仰がれてゐる釈迦、基督の予言された通りの事態となったのである。そうして先づ仏典によれば釈尊は「吾七十二歳にして見真実となれり」と言はれた後、間もない或日、世尊はいつもに似合はず憂欝の色蔽ひ難い御様子なので、弟子の阿難尊者が憂慮し御訊ねした『世尊よ、今日は常にない御沈みのやうに見受けられますが、何か御心配事でも御有りですか』と申した処、釈尊は直に御答へになった事は『儂は今迄終生の業として仏法を創成し、一切衆生を救はんとして大いに努力を続けて来たが、今日大仏陀から意外なる御諭しがあった。それによると或時期に至ると、我仏法は滅すると言ふ事で、大いに失望したのである』との御言葉であって、それから世尊は斯うも曰はれた『儂は見真実によって分った事だが、今迄説いて来た多くの経文は、少からず誤りがあるので、今日以後真実を説くから、よく之によって正覚を得られよ』と仰せられたので、此時からの経文こそ仏法の真髄である事は確実で、それが法華経二十八品と、法滅尽経と、弥勒出現成就経である。処が、其事を発見されたのが彼の日蓮上人であって、上人は此発見によって他宗教義悉くは見真実以前に説かれたものであるから、真実ではない。独り我法華経こそ仏法の真諦であるとして、他宗悉くを否定し、猛然として一大獅子吼をされたのであるから、上人の此傍若無人的宣言も、無下に非難する事は出来ないのである。
之に就て、法華経二十八品の意味を解釈してみるが、此経文の二十五番目にある観音普門品こそ、大神秘が蔵されてゐるのである。といふのは法華経とは法の華であって、最後に法の華を咲かせなければならない。其場所と人とが日本であり、日蓮上人であるから、上人が法華経を翳して、如何なる受難にも屈せず、一途に日本国中に法華経を宣布されたのも、此強い信念があったからである。元来仏法は曩に説いた如く月の教であり、陰であり、女性である。釈尊が「吾は変性女子なり」と曰はれたのも其意味であらう。又上人は前例のない型破り的の行り方であった。彼が修業成って、最初故郷である安房の清澄山上に於て、東方日の出に向って、妙法蓮華経の五文字を高らかに奉唱され、其時を契機として愈々法華経の弘通に取掛ったといふ有名な話も、それ迄仏教各派の悉くは、南無阿弥陀仏の六字の法名を唱へたので、之にも意味がある。即ち五は日の数であり、六は月の数であるからである。それ迄は人も知る如く日本に於ける仏教とさへいえば陰性であったものが、一度日蓮宗が生るるや、極端に陽性を発揮し、太鼓を叩き花を飾り、声高らかに経文を唱へる等、何から何迄陽気一点張りである。全く仏華を咲かせたのである。又世間同宗を以って一代法華と言ったのも、花は咲くが散るから、一時は好いが長くは続かないといふ訳であらう。 今一つの神秘がある。それは法華経二十八品の数である。二十八の数は、月の二十八宿を表はしたもので、其二十五番目に普門品があるのは、二十五の数は五五、二十五で、五は日であり、出づるであるから、日の出の意味である。つまり月の仏界に日が生れた表徴である。即ち此時既に夜の最奥霊界には、ほのぼのと黎明の光りが射し初めたのである。そうして面白い事には、外の仏教は全部西から生れたに対し、独り日蓮宗のみは東から出てゐる。而も安房の清澄山こそ、日本に於ける最も東の端で、此地点こそ大神秘が包蔵されてゐる事は、私が以前かいた自観叢書奇蹟物語中に概説してあるから参照されたい。つまり此地が霊界二次元に於ける、昼の世界の初発点であるのである。
次に日本に於て、何故仏法の花を咲かせなければならないかといふと、そこにも深い密意が秘んでゐる。即ち花が咲かなければ実が生らないからで、其実といふのが実相世界であって、此実の種が如意輪観音の御働きでもある。私がいつもいふ如く、観世音は日の彌勒であり、阿彌陀が月の彌勒であり、釈迦が地の彌勒であり、此三人の仏陀が三尊の彌陀である。とすれば阿彌陀と釈迦は、夜の世界の期間の御役であったに対し、観音は昼の世界にならんとする、其境目に観音力を揮はせ給ふのである。此経綸こそ昔印度に於て、仏法発祥の時已に誓約されたものである。本教が、最初日本観音教団として出発したのも、私が観音を描き御神体として拝ました事も、私に始終観音の霊身が附添はれて居られた事も右の因縁に外ならないのである。処が釈迦、阿彌陀は如来であったので、観世音の菩薩の御名に囚はれ、宗旨によっては、阿彌陀や釈迦より観音の方が下位とされてゐたのも、右の因縁を知れば誤ってゐる事が分るであらう。処が其後御位が上られ、光明如来となられたので、現在は光明如来の御働きである事は信者はよく知ってゐる通りである。
(文明の創造 昭和二十七年)
夜昼転換の事象
私が常に言う処の夜の世界が昼の世界に転換したのは、何時であったかを知らせる必要があろう。それは昭和六年六月十五日である。その時私は神命によって或る行事に当った。この時の模様をこれから書くのである。
右の昭和六年六月十五日、私にその前日神の啓示があった。それは房州鋸山に在る有名な日本寺へ参詣に行けというのである。日時は一晩泊り随行者は三十人以上というのである。早速その準備に取掛った。幸い信徒の中に当時日本寺の住職田中常説師という相当有名な禅僧に交情がある者で、万事その者に交渉して貰った。人数も纒まったので、三十数人を引つれ十四日の朝両国駅を出発した。寺へ着いたのはその晩の九時頃だった。何しろ割合高い山の中腹にある禅寺であるから、古色蒼然とし広々とした大きな寺で、常に喧騒裡にある都会人としては、塵外の仙境に遊ぶ想いがしたことは勿論である。
翌朝未明、総勢引連れ提灯に道を照らし乍ら約一時間位で頂上へ着いた。幸い天気もよく朝靄の中から房総の海を遙かに眺めた光景は得も言われない程であった。まなかいに有名な彼の日蓮上人が法華教弘通の大願をたて、南無妙法蓮華経の第一声をあげた清澄山がある。今や黎明を破って昇らんとする旭光に向って一同祝詞を奏上したが、その言霊は澄みきった朝気をふるわし、爽快極まりないものがあった。間もなく下山の途につき、日本寺の本尊に恭々しく祈願をこめ、昼食、写真撮影等をすませ帰路についたが、これから神秘の数々を語るがそれはこうである。
本堂の前に大きな沙羅双樹一名菩提樹があった。この位大きいのは日本では先ず珍らしいとされている。彼の釈尊が苦業したのは、菩提樹下石上ということである。又この山は乾坤山といい、山の中腹から頂上にかけて、身の丈三尺位の石仏が数百位あったであろう。しかも釈迦、阿彌陀、観音をはじめ、達磨、不動、愛染、孔雀等の四王、釈迦の十大弟子、羅漢等々、実にあらゆる仏体を網羅している。全く日本に於ける仏界の型である。ところが不思議なことには昭和十八年十一月寺から火を発し灰燼に帰したのである。当時の新聞記事によれば再建は絶対不可能であるという。この時私はハッと思ったことは言う迄もなく、仏滅の型でなくて何であろうかという事である。(この日本寺院紀行は歌集「山と水」に審(ツブサ)に詠んであるから参照されたい)それから愈々帰りの汽車に乗り、暮れかかる頃両国駅についた。予ねて約のあった本所緑町明石某という家に祭典を行うべく私は立ち寄ったのである。これは誰も気づかないもので、只私だけが驚喜しただけで、今もって秘中の秘としているが、これらも何れ時期が来れば発表するつもりである。
その翌十六日、午前十時頃当時私は大森八景園にいたが、その隣町大井町に小池某という下駄職人があった。彼は時々来ては信仰談を楽しみにしていたが、その時彼は只ならぬ顔付きで言うのは、「大先生、大変です」私『何が大変だ』彼「今朝がた大変な夢を見ました。その夢というのは、私の友達山口某というのが往来で穴を掘っていながら“小池さん、世の中はつまらないものだよ、結局自分で穴を掘って、自分が入るんだよ”と言って淋しい顔をしていた。しかも山口の顔は、お釈迦様の通りである」というので、私は“ははあ、仏滅の暗示だな”と思った。彼曰く「この御座敷の真中に小さな池がある。その池へ誰かが石を投げた。すると池の水は波紋を描きはじめ、段々大きくなって、遂に世界大となり、その渦の中へ巻き込まれて滅ぶ者は数知れずであった。すると暫くしてその渦巻がすむと、辺りは非常に淋しくなり、所々に観音様の像が立っている」と言うのである。私は『その夢は神様が貴方を通じて私にお知らせになったのだから、貴方には何の関係もないじゃないか』というと、彼は納得しそうもない。曰く『否、それが自分に大関係がある。というのは最初池に投じた一石で、それを自分がやらなければならないことに決っている。処が、それをやると自分の運命はつきるのだ」と言って彼は一種の恐怖感に襲われているようであるから、私は然るべく慰めて、ともかく帰らしたのである。
それからが神秘極まることが起った。というのは、その日の夕方、妻君から電話が掛って「小池が変だからすぐ来て貰いたい」というので、私は直ちに彼の家へ赴いた処、彼はいよいよ変だ。彼は「大先生、いよいよ私は世界のピントを合わせなければ世界は大変なことになる。私は世界のピントを合わせるために生れて来たんだ」というので、私も何かしら神秘の謎を見せられたような気がしはじめた。私もいつか厳粛な気持になって来た。そこで私は『では貴方は、世界を救うためにピントを合わせなければならないとしたらそれもいいだろう。しかし軽はずみなことをしてはいけない』と言って帰宅した。その翌朝彼の妻女から電話がかかり、「今朝早く小池は鈴ケ森の海へはまって死んだ」というので、何もかもすっかり分ったような気がした。実に神秘極まる事件というべきだ。
越えて翌々日十八日、当時私が眤懇にしていた、その頃相当有名であった森鳳声という彫刻師が訪ねて来た。彼は「自分は今非常に尊い木像をつくりたいが、自分如きが、そんな尊いお姿をつくることはどうであろうかと迷い御意見をききたい」と言うのである。私は『一体そんな御尊像とはどのようなお方か』ときくと、「それは天照大神」と言う。私は『非常に結構だ、是非つくりなさい」といった処、彼は大いに喜んで立ち去り、あらかた出来上ったころ是非私に「来て見てくれ」というので、私は行って見たところ、中々よく出来ている。彼は「背の模様はどうしたらいいか」ときくので、私は『日を現わす意味で大きく丸の浮彫がいい』と言ったら、彼は成程と喜んで、最初から約半年位で、等身大の尊像が見事に出来上ったのである。彼は当時大本教信者であったから、その御像を大本教へ寄附したのである。それから間もなく大本教が致命的大法難を受けたのであるから何か関係があるように思われた。又話は違うが、こういうことがあった。当時大本教の和田堀にあった東京別院というところに、等身大の陶器製の観世音菩薩があったが、どうしたはずみか、首が折れたのである。私は変だと思った処、それから間もなく法難が起ったのであった。
前述の如き小池の夢や、彼の行動を判断してみると彼小池のピントを合わせた時、即ち黎明と当時であるから昼に転換したことの暗示であることに間違いはない。又右の木像尊像も不思議であり、日本寺のことといい、明石とは、証しであるから、その時の種々の出来事と符節が合い、考えさせられるものがある。
以上によってみても昭和六年六月十五日こそ、全く夜昼転換の節であることが窺われるのである。最後に今一つ書く事がある。それは私が日本寺から帰るや麹町に住んでいた信者の一人が瓦のかけらを持ってきた。よくみると菊の御紋章入りの瓦で、御紋章だけは完全であるが、他は殆んどかけている。その時ハッと思った事は、昔からの諺に、玉砕瓦全(ギョクサイガゼン)という言葉がある。
それは今日の如き運命となられた天皇に関する神示であるとしか思われないのである。
(夜昼転換の事象 昭和三十八年六月十五日)