最近、某博士の実験報告によれば、今日迄黴菌は皮膚の毀損とか粘膜とかに限って侵入すると謂はれて、健康な皮膚面からは絶対侵入されないとしてゐたが、そうでなくて何所からでも侵入するといふ事を発表したとある。右の実験が正確とすれば、黴菌侵入に対して絶対的予防は不可能といふ事になるので実に驚くべき事である。したがって結局私が前から言ってゐる、黴菌が侵入しても犯されないといふ体質になるより外に安心は出来ないのである。
然らば、吾々の方の解釈では黴菌が侵入すると如何なるかといふと、仮に赤痢なら赤痢菌が血液の中へ入るとする、すると非常な勢で繁殖してゆく。之は何故に繁殖してゆくかといふと汚血があるからであって、其汚血中の汚素が黴菌の食物になるのでそれを食って繁殖するのである。故に血液の濁りは黴菌の食物であるから、黴菌が侵入しても其食物が無ければ餓死して了ふ訳で、それで汚血の無い人は発病しなくて済むのである。
黴菌の食物にもいろんな種類がある。窒扶斯(チフス)菌を育てる食物もあり、赤痢菌を育てるのもあり、虎列剌(コレラ)菌の育つ食物もあるのである。黴菌は食物を食ひつゝ繁殖しつゝ死んでゆくものであって、黴菌にも強いのもあり弱いのもあり、短命もあり長命なのもあるので、そして死骸が種々のものになって排泄されるのである。赤痢などは血が下るが、あの血の中には黴菌の死骸と生きてるのと混合している。食物の有るだけ食ひ尽す結果は浄血になるから病菌は死滅する。それを医学では、抗毒素が出来ると謂ひ、それで治癒するのである。
人間の身体といふものは、汚い物があると必ず排除される作用が起るものである。よって、鼻血だとか喀血だとかは何程出ても心配はない。之が出る程良いのである。喀血など止めよふとするが、之は丁度、糞の出るのを止めよふとする如なものである。故に黴菌は、人間の血液の浄化作用の為に、存在してゐる掃除夫とも謂って可い。人間の生活力が旺んであって、黴菌に犯されないといふ事が理想的で、それには黴菌に掃除させる必要のない浄血の持主になる事である。
次に、殺菌といふ事を言うが、薬剤などによって人間の体の外部に有るものなら殺す事は出来るが、然し、人間の体の中に居る菌を殺さうといふ事は絶対不可能であろう。もし、人体の一部が黴菌に犯されたとしても最早其時は黴菌は身体全部に行渉ってゐるので、之を悉く殺菌しやふとすれば全身凡有る所へ菌が全滅する量の薬剤を入れなければならないが、それは不可能と思ふのである。例へば、内服薬や注射薬で肺結核菌を死滅させよふとしても困難であろう。薬が一旦胃の中へ入り、各種の消化器能を経て肺臓へ働きかける頃は、其薬剤の成分は全く変化して了うからである。又、眼病にしろたとえ利く薬にしろ其薬が種々の器能を通って眼の方へ働きかける迄にはマルッキリ其成分は変化して了ふであろう事は想像し得らるるのである。
西洋医学唯一の治病法は殺菌であるとしてゐる。そうして、其殺菌法としては、現在薬剤と光線応用である。然乍ら、如何なる薬剤を以てしても、組織に無影響で殺菌し得る事は、到底不可能である事は瞭かであるが、他に方法が無い為、止むなく不確実と知りつつ行ってゐるのに過ぎないのである。奏効不確実だけなら可いが、其殺菌法が、反って病菌繁殖となり、病気悪化の原因となる事は知識しないのであるから、寔に危険此上も無いのである。然らば、それは如何なる理由であるか、茲に説明してみよふ。
今、殺菌の目的を以て薬剤の服用又は注射をするとする。これ等薬剤を吸収した血液は勿論、殺菌の目的は達し得る筈が無い。只溷濁するのみである。譬えば結核にせよ、薬剤が幾種もの消化器能を通過し、又は、血管を通過するに於て、其変化に由る殺菌力は薄弱になるのは当然であるから、患部へ作用する頃は、如何程減退してゐるか測られないであろう。此点試験管内で直接殺菌する事とは、比較にならないであろう。そうして、時日を経るに従ひ、血液の不断浄化によって薬剤は毒素となって、血液から遊離する事になるのである。それが時の経過によって、終に膿汁化し、それが凡ゆる病原となるのである。
然し、そればかりではない。異物に由って溷濁せる血液は頗る危険である。何となれば、其殺菌力が洵に弱いからである。言い換えれば、濁血は病菌の繁殖力に都合が好いからである。斯文の最初に述べた薬剤は病気悪化の原因となるといふ事は、以上の如くである。
細菌について(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)
殺菌か養菌か(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)