細菌について

茲で、愈々細菌発生の原理と其順序をかいてみるが、抑々細菌といふ有機物は、現在最も進歩した原子顕微鏡でも、六万倍迄しか見へないとされてをり、之が現在迄の限度ではあるが、無論極点ではない。何れの日か顕微鏡の発達は、超微生物迄をも捕捉出来るやうになる事は予想されるが、問題は只其時期である。先づ現在の程度から推しても、ずっと先の事と見ねばなるまい。

そうして科学の現在であるが、唯物的に見れば最早其極点に迄達してをり、次の世界である処の無機質界の一歩手前迄来てゐて、大きな壁に突き当ってゐるといふ状態にあるといふ事だ。従って其壁を突き破って了えばいいのであるが、実はそれが容易ではない。処が仮令壁を突き破り得ても其先が問題である。といふのは其先こそ唯物科学では到底捕捉する事の出来ない、言はば無に等しい世界であるからである。それに就ては、彼の湯川博士の中間子論であるが、勿論同博士は、理論物理学専攻の学者であるから、最初理論によって中間子の存在を発表した処、偶々他の学者が宇宙線を写真に撮影しやうとした際、中間子である幾つかの素粒子が乾板に印影されたので、茲に博士の理論は、実験的に確認された訳である。つまり実験物理学によって裏付されたので、ノーベル賞獲得となったので、之は普く知られてゐる通りである。処が私の唱へる説も理論神霊学であると共に、此応用によって素晴しい治病の効果を挙げてゐるのであるから、実験神霊学としての立派な裏付も完成してゐるのである。としたら科学的に言っても如何に大なる発見であるかが分るであらう。

之を一層判り易く言えば、唯物科学の到達し得た処の極致点が、現在の原子科学であるとしたら、其次の存在である処の世界、即ち私の唱へる無機質界が明かにされたのであるから、科学上からいっても、実に劃期的一大進歩と言えよう。そうして此世界こそ曩に述べた如く、科学と神霊との繋りの存在であって、今茲に説く処の此文は、つまり科学界と神霊界との中間にある空白を充填した訳である。実に此空白こそ今日迄科学者も、哲学者も、宗教家も知らんとして知り得なかった処の、神秘的謎の世界であったのである。勿論以前から智識人の誰もが心の奥深く内在してゐた処の、真理探究の的そのものが、愈々茲に暴かれたのであって、長い間の理想の夢が実現されたのである。然し文化の進歩は、何時の日かは此神秘境に迄到達されなければならない事は、誰も予想してゐたに違ひないが、多くの人達は無論科学の進歩によるとしか想ってゐなかった事も肯けるが、意外にも其予想は裏切られ、私といふ宗教家によって発見されたのである。けれ共単に捉へただけでは何等の意味もなさないが、要はそれを活用し、普く人類の福祉に役立たせてこそ、初めて大なる意義を生ずるのであるが、此事も期待に外れず、病患の九十パーセント以上は完全に治癒されると共に、人間寿齢の延長までも可能となったのである。

以上の如く、此大発見によって、人類に与へる恩恵は、到底言葉や文字で表はす事は出来得まい。従って此事が世界人類に普く知れ渡った暁、現代文明は一大転換を捲き起し、人類史上空前の一新紀元を劃する事とならう。茲に到っては最早科学も宗教もない、否、科学でもあり、宗教でもあり、未だ人類の経験にも、想像にも無かった処の、真の文明時代出現となるのであらう事は、断言して憚らないのである。偖て愈々無機質界と物質界との関係に移るとしよう。

(文明の創造 昭和二十七年)

最近、某博士の実験報告によれば、今日迄黴菌は皮膚の毀損とか粘膜とかに限って侵入すると謂はれて、健康な皮膚面からは絶対侵入されないとしてゐたが、そうでなくて何所からでも侵入するといふ事を発表したのであります。右の実験が正確とすれば、黴菌侵入に対して絶対的予防は不可能といふ事になるので実に驚くべき事であります。でありますから結局私が前から言ってゐる、黴菌が侵入しても犯されないといふ体質になるより外に安心は出来ないのであります。

然らば、吾々の方の解釈では黴菌が侵入すると如何なるかといふと、仮に赤痢なら赤痢菌が血液の中へ入るとする、すると非常な勢で繁殖してゆく。之は何故に繁殖してゆくかといふと汚血があるからであって、其汚血中の汚素が黴菌の食物になるのでそれを食って繁殖するのであります。故に血液の濁りは黴菌の食物でありますから、黴菌が侵入しても其食物が無ければ餓死して了ふ訳で、それで汚血の無い人は発病しなくて済むのであります。

黴菌の食物にもいろんな種類がある。窒扶斯(チフス)菌を育てる食物もあり、赤痢菌を育てるのもあり、虎列剌(コレラ)菌の育つ食物もあるのであります。黴菌は食物を食ひつゝ繁殖しつゝ死んでゆくものであって、黴菌にも強いのもあり弱いのもあり、短命もあり長命なのもあるので、そして死骸が種々のものになって排泄されるのであります。赤痢などは血が下りますが、あの血の中には黴菌の死骸と生きてるのと混合してゐるのであります。食物の有るだけ食ひ尽す結果は浄血になるから病菌は死滅する。それを医学では、抗毒素が出来ると謂ひ、それで治癒するのであります。

人間の身体といふものは、汚い物があると必ず排除される作用が起るものであります。ですから、鼻血だとか喀血だとかは何程出ても心配はない。之が出る程良いのであります。喀血など止めよふとするが、之は丁度、糞の出るのを止めよふとする如なものであります。故に黴菌は、人間の血液の浄化作用の為に、存在してゐる-掃除夫とも謂って可いのであります。人間の生活力が旺んであって、黴菌に犯されないといふ事が理想的で、それには黴菌に掃除させる必要のない浄血の持主になる事であります。

次に、殺菌といふ事を謂ひますが、薬剤などによって人間の体の外部に有るものなら殺す事は出来るが、然し、人間の体の中に居る菌を殺さうといふ事は絶対不可能でありませう。もし、人体の一部が黴菌に犯されたとしても最早其時は黴菌は身体全部に行渉ってゐるので、之を悉く殺菌しやふとすれば全身凡有る所へ菌が全滅する量の薬剤を入れなければならないが、それは不可能と思ふのであります。例へば、内服薬や注射薬で肺結核菌を死滅させよふとしても困難でありませう。薬が一旦胃の中へ入り、各種の消化器能を経て肺臓へ働きかける頃は、其薬剤の成分は全く変化して了ふからであります。又、眼病にしろ縦令利く薬にしろ其薬が種々の器能を通って眼の方へ働きかける迄にはマルッキリ其成分は変化して了ふであらふ事は想像し得らるるのであります。

(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

殺菌か養菌か

西洋医学唯一の治病法は殺菌であるとしてゐる。そうして、其殺菌法としては、現在薬剤と光線応用である。然乍ら、如何なる薬剤を以てしても、組織に無影響で殺菌し得る事は、到底不可能である事は瞭かであるが、他に方法が無い為、止むなく不確実と知りつつ行ってゐるのに過ぎないのである。
奏効不確実だけなら可いが、其殺菌法が、反って病菌繁殖となり、病気悪化の原因となる事は知識しないのであるから、寔に危険此上も無いのである。
然らば、それは如何なる理由であるか、茲に説明してみよふ。
今、殺菌の目的を以て薬剤の服用又は注射をするとする。夫等薬剤を吸収した血液は勿論、殺菌の目的は達し得る筈が無い。只溷濁するのみである。譬えば結核にせよ、薬剤が幾種もの消化器能を通過し、又は、血管を通過するに於て、其変化に由る殺菌力は薄弱になるのは当然であるから、患部へ作用する頃は、如何程減退してゐるか測られないであらふ。此点試験管内で直接殺菌する事とは、比較にならないであらふ。そうして、時日を経るに従ひ、血液の不断浄化によって薬剤は毒素となって、血液から遊離する事になるのである。それが時の経過によって、終に膿汁化し、それが凡ゆる病原となるのである。
然し、そればかりではない。異物に由って溷濁せる血液は頗る危険である。何となれば、其殺菌力が洵に弱いからである。言い換えれば、濁血は病菌の繁殖力に都合が好いからである。斯文の最初に述べた薬剤は病気悪化の原因となるといふ事は、以上の如くである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)