前項に説いた如き、無機質界と人間の病気との関係であるが、無機質界とは吾々の唱へる霊界であって、此霊界と人間との関係はどういふ事になってゐるかといふと、抑々人間とは体と霊との二原素の密接合致によって成立ってゐるものであって、勿論体とは眼に見ゆる物質で誰にも判るが、霊とは眼に映らないものである以上、長い間分らなかったのである。処が確実に存在してゐる一種のエーテルの如きものである。としたら方法によっては、把握出来ない筈はないのである。といふのは人間の肉体が空気中にあると同様の意味で、人間の霊と雖も霊界中にあるからである。霊界とは曩にもかいた如く、空気とは比較にならない程の稀薄な透明体であって、今日迄無とされてゐたのも無理はなかったのである。然し此世界こそ無処ではなく、寧ろ万有の本源であって、絶対無限の力を蔵してをるもので、一切は此力によって生成し化育されてゐるのである。そうして霊界の本質は太陽の精と月の精と土の精との融合一致、想像を絶する程の、霊妙不可思議な世界である。処が茲で問題であるのは、人間が各々其役目を果す上には肉体に垢が溜る如く、霊には曇りが溜積するのである。従って之に対し自然浄化作用なるものが発生し浄められる。之も恰度人体に溜った垢が、入浴によって清められるやうなものである。処が右は独り人間ばかりではなく、天地間一切のものがそうである。例へば此地上霊界に汚穢が溜るや、自然作用によって一定の個所に集中され、低気圧といふ浄化活動が発って清掃される。暴風も出水も洪水も又雷火も人的火災もそれである。と同様人間にも浄化作用が発生する。今其理由を詳しくかいてみよう。
右の如く、人霊に溜った汚穢は一種の曇りであって、此曇とは本来透明体であるべき人霊に、不透明体の部分が出来るそれである。然し乍ら此曇りの原因には二種類ある。一は霊自体に発生するものと、二は逆に体から霊に移写されるものとである。先づ前者から説いてみるが、元来人霊の内容は経に言えば求心的三段階に、緯に言えば求心的三重層になってゐる。つまり⦿の形と思えばいい。勿論丸の中心が魂であって、魂とは人間が此世に生れる場合、自然法則によって、男性から女性の腹へ宿らせる。本来魂なるものは極微のポチであって、勿論各々の個性を有ってをり生命のある限り人間に対して絶対支配権を有ってゐる事は、誰でも知ってゐる通りであるが、其魂を擁護的に包んでゐるものが心であり、心を包んでゐるものが霊であって、霊は全身的に充実してゐるから、人体と同様の形である。此様に霊体は一致してゐる以上、魂の如何は其儘心を通じて霊に反映すると共に、霊のそれも心を通じて魂に反映するのである。斯くの如く魂と心と霊とは大中小、小中大の相互関係で、言はば三位一体である。処が如何なる人間と雖も、生きてゐる間善も行へば悪も行ふので、その際善よりも悪が多ければ多いだけが罪穢となって魂を曇らすので、其曇りが心を曇らせ、次で霊を曇らすのである。そうして、其曇りが溜って一定量を越ゆるや自然に浄化作用が発生し、曇りの溶解排除が行はれる。然しそうなる迄の過程として曇りは漸次一ケ所又は数ケ所に分散し、濃度化すと共に容積も縮小され固結される。面白い事には其罪によって固結場所が異ふ、例へば目の罪は目に、頭の罪は頭に、胸の罪は胸にといふやうに相応するものである。
次に後者を解いてみるが、之は前者と反対で、体から霊に映るのであるが、其場合最初血液の方に濁りが生ずる。即ち濁血である。すると霊にも其通りに映って曇りとなるが、之も前者と同様局所的に分散濃度化するのである。元来人体なるものは霊の物質化したものが血液であり、反対に血液の霊化が霊であるから、つまり霊と体は同様といってもよいが、只霊体の法則上霊の方が主になってをり、体の方が従となってゐるのである。処が何れにせよ右の原因によって、毒素は絶へず人体に溜り固結となるので、其固結が浄化作用によって溶解され、液体となって身体各所から排除されやうとする。其為の苦痛が病気なのである。右に述べた如く、体に発生する濁血とは何であるかといふに、之こそ実に意外千万にも医療の王座を占めてゐる処の彼の薬剤であるのである。といふのは本来薬といふものは此世の中には一つもない。現在薬とされてゐるものは悉く毒であって、其毒を体内に入れるとしたら、それによって濁血が作られるのは当然である。何よりも事実がよく証明してゐる。それは病気が医療を受け乍ら長引いたり悪化したり、余病が発るといふ事は、薬毒によって病気が作られるからである。従って薬毒で出来た濁血が、霊へ映って曇りとなり、之が病原となるとしたら、現代医学の治病方法自体が病気を作る意味でしかない事にならう、右の如く万有の法則は霊が主で体が従である。としたら病気は霊の曇りさへ解消すれば濁血は浄血と化し、全治するのは言う迄もない。それで我治病法は此原理の応用であるから、浄霊と曰って霊を浄める事を目的とするものである以上、病気は根本的に治る訳である。処が医学に於ては霊を無視し体のみを対象として進歩して来たのであるから、結局一時的治病法でしかない訳である。事実医療が根治的でない事は、偶々手術等によって全治したやうにみへるが成程元の病気は発らないとしても、他の病気が起るか又は再発するのは必ずと言ひたい程である。例へば盲腸炎の如きも患部を剔出するので、盲腸炎は起り得ないが、盲腸に近接してゐる腹膜炎や腎臓病が起り易くなる。之は全く霊の方の曇りは依然として残ってゐるからで、而も薬毒も加はる為濁血は増へて、新たな曇りと合併し位置を変へて病原となるのである。
そうして濁血の変化であるが、濁血が不断の浄化によって一層濃度化するや、血粒に変化が起り、漸次白色化する、之が膿である。よく血膿と言って膿と血液とが混合してゐるのは、之は変化の中途であって、尚進むと全部膿化する、よく結核患者の喀痰が血液の混ってゐるものと、そうでないものとがあるのは右によるのである。又医学に於ける赤血球に対する白血球の食菌作用といふのもそれである。
(文明の創造 昭和二十七年)
先づ人体なるものは、如何なる要素によって成立してゐるものであるかといふと、人体は物質ばかりではないので「精霊と物質(肉体)との二元素の密着不離の関係」によって生を営んでゐるのであります。今言った通り、霊体と肉体とはピッタリ合致してゐるので、それで、霊体が脱出するのを“死”といふのであります。
一体病気が起るといふ事はどういふ訳かといふと、初め霊体に曇が生じ、それがそのまま肉体に映って、それで病気となる事は既に述べた通りであります。然し反対に、肉体から霊体へ写るやうに見える事もあります。それは例へば、 怪我や不摂生の為の病気ですが、之も根本へ遡ればやはり霊体が先であります。怪我をしたり、鉄砲に当ったりするのは、肉体が先のやうに思はれますが、実は其前に霊体が轢かれたり、鉄砲弾にあたってゐるのであります。鉄砲を向けた時、未だ弾の出ない内に、弾の霊が、人間の霊体へあたってゐるのであります。ですから、その肉体を外れて打っても必ず命中するんであります。
歴史に有名である那須の与市の話ですが、扇の的を射る時に、那須権現を(矢を一生懸命つがえながら)念ずると、一人の童子が現はれて、矢を持って空中を駈け、扇の的にあてたのが見えた。勿論、霊が見えたのであります。そこで矢を放ったらあたったのであります。之は一大霊験として、那須権現の祠を新しく造り、一生涯熱心に尊信したといふ事が那須権現記に出ております。之等も決して不思議ではない。霊界の方で、もう先にそうなるんであります。
処が、斯ういふ事がある。それは霊体に鉄砲弾が命中しよふとしても、その「うたれる人」が、曇のない立派な磨けた人とすると、其人は霊衣が厚いから、その厚い霊衣にはあたらない。それが霊的法則であります。戦争に行って鉄砲弾に当るのは、霊衣が薄いからであって、霊衣の厚い人は決して当らないのであります。龍の口で彼の日蓮上人に刃を向けたが、その刃の折れたのは、上人の霊衣が厚かったからであります。
それで、霊衣の厚いのは何故かといふとその人の心魂が磨けてゐるからで、厚い程、霊光の度が強いのであります。そうなるには、偉大なる信念を有し、身魂を磨き、善徳を積む事によって得らるるものでありますからこういふ人は、病気に罹る事は絶対にないので、勿論天寿を全うするのであります。僧侶等に長命者の多いのは、そういふ人達でありますが、今日はそういふ有徳者は少いやうであります。
病気は浄化作用(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)
霊と体の法則
霊に体が従ふ事は、万物の法則であります。従而、霊を治す事によって体の病気は治るのであります。たゞ然し、霊の病気が治って、直に体に映る人と、遅く映る人、例へば半日か一日位かゝる人があります。之は曇の多い少いの関係であります。 よく痛い痛いと唸ってゐたのが、眼の前で治る事がよくある。それは、霊体から肉体へ映るのが、頗る速い人であります。
一例として、以前、睾丸へ膿が溜る子供があって、相当治癒して半分位迄小さくなった時ぱったり来なくなってしまった。すると、半ケ月ばかり経つと、私の所へお礼に来て、取混みが出来て伺へなかったが、お蔭ですっかり治ってしまひました。-と言ってゐたのであります。
之は、霊体が治ってから、肉体へ表はれるのに数日かゝった訳であります。そういふ事は珍らしくないのであります。霊体から肉体へ移るのに、非常に速い場合と遅い場合とある事は心得ておくべきであります。
(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)
霊主物従
凡ゆる一切の物に霊があるが、然らば、霊と物質とに就ての関係を瞭かにしよふ。それは、眼に見えない無にも斉しい霊が主であって、物質は従といふ事である。従而、霊が物質を支配してゐるのであるから、人類社会に於ける如何なる事でも霊の作用であって、霊界に起る事象がそのまゝ現界へ移り、霊が動けばそのまま物質が動くのであって、恰度人間が手足や舌を動かす場合、それは手足や舌が先へ動くのではなくて、心が動き、後に手足が動くので、ただ霊主に対して起る物従の遅速はあるものであるが、多くの場合、非常に速いものである。茲に二、三の例を挙げてみよふ。人間が人を訪問しよふと思ふと同時に、霊の方はお先に先方へ行ってゐるので、其場合、霊と肉体とは、霊線とでも称すべき線が繋がれてゐるのである。よく“噂をすれば影”とやら-といふ事があるが、それは、其人の霊が来てゐる為に、その霊に噂をする人々の霊が感じる為である。彼の有名な那須の与市が、扇の的へ向って矢を番(ツガ)へ、一心に那須権現を祈念すると、何処よりか一人の童子来り、その矢を持って空中を走り、扇の的を射抜いたのが見えたので、直ちに矢を放ったのであるといふ由来は、那須権現記に書いてあるが、之は事実あり得べき事と思ふ。(医学試稿 昭和十四年)